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八代の妙見祭が終わって、鹿児島へ。鹿児島で妹と合流して、ここからは二人旅です。というか、鹿児島の旅を加えたのは鹿児島が未経験という妹のリクエストから。私的には、もう鹿児島は積極的には行きたいところではない。というのも、鹿児島市から桜島、霧島に知覧、指宿とかは何度か回っていて新味に欠けるし、鹿児島に関連する幕末とかいくつかのテーマもほぼ整理がついていますからね。じゃあ、例によってもっと丁寧に回ってみるかなというくらい。ただ、調べてみると前回の鹿児島が2013年5月ですから、気が付かないうちにちょっとブランクも開いていますし、そして、あとはもうひと工夫で、枕崎に続けて実は以前から気になっていた坊津、方向は違いますが出水を加えるとこれならちょっと整った感じ。それなりに意欲も湧いてきました。<br /><br />さて、初日は、鹿児島市内の城山、南洲公園、仙厳園から桜島に、最後は天文館のコース。定番コースと言えば定番コースなのですが、西郷隆盛のお膝元、鍛冶屋町の鹿児島市維新ふるさと館や尚古集成館を省略しているのですっきりしているのがミソ。歴史好きなら外せないエリアではあるんですけど、そこを入れたら一日では済みません。明日から知覧、指宿などまだ旅は続きますから、鹿児島の一日目は少しセーブもしておきたいですしね。そして、交通手段は、基本のカゴシマシティビュー。鹿児島市内の定番スポットを要領よく回るならこの一択。うまい具合に一日で収まりました。このコースを通じて、桜島は鹿児島市内から意外に近くて、鹿児島市民にとってはとても身近な存在であること。西郷隆盛への思いと西南戦争の記憶は今でもそれなりに生々しいこと。島津の殿様の存在は今でも大きくて、薩摩切子や薩摩焼など豊富な伝統工芸品でも仙厳園がリードしていること。そうしたアウトラインを実感してくれればそれでOK。ここから先はまた自分で知見を広げることができるでしょう。<br /><br />ここで桜島のことだけもう少し触れておくと。。<br />桜島港の周辺で観光するなら、桜島ビジターセンターや桜島溶岩なぎさ公園、公園足湯、溶岩なぎさ遊歩道辺り。これはお勧めというかこれくらいしかないといった方が正確ですね。ただ、桜島のワイルドな自然がそれなりに体感できるし、桜島溶岩なぎさ公園の美しい景観はけっこう癒される。手軽だけど、鹿児島市内から眺めるだけよりもしっかり桜島を感じることができると思います。また、桜島ビジターセンターでは、桜島・錦江湾ジオパークの説明が、桜島および鹿児島市街とその周辺、錦江湾域という広範囲を対象としていて、これだけの活火山と60万都市が共生しているくだりにはハッとさせられました。火砕流の直接的な被害だけでなく、鹿児島市内でも火山灰が降ってくると傘をさすのですが、バラバラバラバラとけっこうな勢いがありますからね。それでも、基本は自然への尊重という気持ちをもつということが大事かな。サツマイモ、ダイズ、アブラナを育てたシラス台地の自然条件も鹿児島の地域性を形作ってきたものの一つですからね。ここで改めて桜島が鹿児島のアイデンティティのひとつであることを確認できたのは意味があったかなと思います。

八代妙見祭のち鹿児島の旅(三日目)~城山から南洲公園、仙厳園。桜島の散策に最後は天文館。定番コースを回って、久しぶりの鹿児島のイントロです~

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2023/11/24 - 2023/11/24

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たびたび

たびたびさん

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八代の妙見祭が終わって、鹿児島へ。鹿児島で妹と合流して、ここからは二人旅です。というか、鹿児島の旅を加えたのは鹿児島が未経験という妹のリクエストから。私的には、もう鹿児島は積極的には行きたいところではない。というのも、鹿児島市から桜島、霧島に知覧、指宿とかは何度か回っていて新味に欠けるし、鹿児島に関連する幕末とかいくつかのテーマもほぼ整理がついていますからね。じゃあ、例によってもっと丁寧に回ってみるかなというくらい。ただ、調べてみると前回の鹿児島が2013年5月ですから、気が付かないうちにちょっとブランクも開いていますし、そして、あとはもうひと工夫で、枕崎に続けて実は以前から気になっていた坊津、方向は違いますが出水を加えるとこれならちょっと整った感じ。それなりに意欲も湧いてきました。

さて、初日は、鹿児島市内の城山、南洲公園、仙厳園から桜島に、最後は天文館のコース。定番コースと言えば定番コースなのですが、西郷隆盛のお膝元、鍛冶屋町の鹿児島市維新ふるさと館や尚古集成館を省略しているのですっきりしているのがミソ。歴史好きなら外せないエリアではあるんですけど、そこを入れたら一日では済みません。明日から知覧、指宿などまだ旅は続きますから、鹿児島の一日目は少しセーブもしておきたいですしね。そして、交通手段は、基本のカゴシマシティビュー。鹿児島市内の定番スポットを要領よく回るならこの一択。うまい具合に一日で収まりました。このコースを通じて、桜島は鹿児島市内から意外に近くて、鹿児島市民にとってはとても身近な存在であること。西郷隆盛への思いと西南戦争の記憶は今でもそれなりに生々しいこと。島津の殿様の存在は今でも大きくて、薩摩切子や薩摩焼など豊富な伝統工芸品でも仙厳園がリードしていること。そうしたアウトラインを実感してくれればそれでOK。ここから先はまた自分で知見を広げることができるでしょう。

ここで桜島のことだけもう少し触れておくと。。
桜島港の周辺で観光するなら、桜島ビジターセンターや桜島溶岩なぎさ公園、公園足湯、溶岩なぎさ遊歩道辺り。これはお勧めというかこれくらいしかないといった方が正確ですね。ただ、桜島のワイルドな自然がそれなりに体感できるし、桜島溶岩なぎさ公園の美しい景観はけっこう癒される。手軽だけど、鹿児島市内から眺めるだけよりもしっかり桜島を感じることができると思います。また、桜島ビジターセンターでは、桜島・錦江湾ジオパークの説明が、桜島および鹿児島市街とその周辺、錦江湾域という広範囲を対象としていて、これだけの活火山と60万都市が共生しているくだりにはハッとさせられました。火砕流の直接的な被害だけでなく、鹿児島市内でも火山灰が降ってくると傘をさすのですが、バラバラバラバラとけっこうな勢いがありますからね。それでも、基本は自然への尊重という気持ちをもつということが大事かな。サツマイモ、ダイズ、アブラナを育てたシラス台地の自然条件も鹿児島の地域性を形作ってきたものの一つですからね。ここで改めて桜島が鹿児島のアイデンティティのひとつであることを確認できたのは意味があったかなと思います。

  • 妙見祭りを拝見して、そのまま新八代駅から鹿児島中央駅に到着。<br />新幹線を降りるとすぐの目立つ場所。Theさつまですか。店内には焼酎の品揃えがかなり充実していて、それを見ると鹿児島にやってきた実感がじわりと湧いてきました。

    妙見祭りを拝見して、そのまま新八代駅から鹿児島中央駅に到着。
    新幹線を降りるとすぐの目立つ場所。Theさつまですか。店内には焼酎の品揃えがかなり充実していて、それを見ると鹿児島にやってきた実感がじわりと湧いてきました。

    The さつま お土産屋・直売所・特産品

    焼酎の品揃えがかなり充実していて by たびたびさん
  • 改札を出ると、さつまち鹿児島。おみやげ横丁では、かるかんとか鹿児島を代表するお土産品を揃えているし、かなりの活気を感じます。こうして見ると、鹿児島は魅力的なものがたくさんある観光県だというのを改めて実感します。

    改札を出ると、さつまち鹿児島。おみやげ横丁では、かるかんとか鹿児島を代表するお土産品を揃えているし、かなりの活気を感じます。こうして見ると、鹿児島は魅力的なものがたくさんある観光県だというのを改めて実感します。

  • 駅を出て、鹿児島中央駅前広場イルミネーションもチェック。<br />ローカルなイルミネーションだろうなあとたかをくくっていましたが、規模もそれなりだし、なかなかあか抜けていて見応えがありますね。これも鹿児島がんばっているなという感じです。

    駅を出て、鹿児島中央駅前広場イルミネーションもチェック。
    ローカルなイルミネーションだろうなあとたかをくくっていましたが、規模もそれなりだし、なかなかあか抜けていて見応えがありますね。これも鹿児島がんばっているなという感じです。

  • そこから駅の南側、ベル通りに入って、

    そこから駅の南側、ベル通りに入って、

  • 晩飯はとんかつの川久です。<br /><br />

    晩飯はとんかつの川久です。

    とんかつ 川久 グルメ・レストラン

    久しぶりにおいしいとんかつ by たびたびさん
  • いただいたのは黒豚ロースカツ2,000円。<br />ソースは、とんかつソース、ポン酢風のソース、柚子胡椒風のソースの三種類。とんかつは、豚肉のうまみがしっかりあるし、ソースとの相性がまた格別ですね。付け合わせの漬物とかもさりげなく味に変化をつけてくれているし、全体としてのハーモニーを感じます。久しぶりにおいしいとんかつを食べたなあという満足感がありました。

    イチオシ

    いただいたのは黒豚ロースカツ2,000円。
    ソースは、とんかつソース、ポン酢風のソース、柚子胡椒風のソースの三種類。とんかつは、豚肉のうまみがしっかりあるし、ソースとの相性がまた格別ですね。付け合わせの漬物とかもさりげなく味に変化をつけてくれているし、全体としてのハーモニーを感じます。久しぶりにおいしいとんかつを食べたなあという満足感がありました。

  • 今夜の宿は、ホテルタイセイ。<br />鹿児島中央駅から少し離れているなと思いましたが、まあまあ許容範囲かな。電停の高見橋からは近いし、周囲に飲食店があるエリアなので、晩飯を食べるのとか意外に便利な感じです。また、値段が安かったので、どうかなあと思っていましたが、特にそれを感じることもなく、普通に利用できました。これならリピートありかもしれません。

    今夜の宿は、ホテルタイセイ。
    鹿児島中央駅から少し離れているなと思いましたが、まあまあ許容範囲かな。電停の高見橋からは近いし、周囲に飲食店があるエリアなので、晩飯を食べるのとか意外に便利な感じです。また、値段が安かったので、どうかなあと思っていましたが、特にそれを感じることもなく、普通に利用できました。これならリピートありかもしれません。

  • 翌朝は、早く起きて、少し市内の散策です。<br />樺山資紀邸址は、高見橋電停からすぐ。それらしい立派な石碑が建っていて、今でも大事にされています。ちなみに、樺山資紀は、幕末から明治期に活躍した元薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍し、西南戦争では熊本鎮台の参謀長。最後は第15代内務大臣、第14代文部大臣を歴任するというなかなかの大物です。

    翌朝は、早く起きて、少し市内の散策です。
    樺山資紀邸址は、高見橋電停からすぐ。それらしい立派な石碑が建っていて、今でも大事にされています。ちなみに、樺山資紀は、幕末から明治期に活躍した元薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍し、西南戦争では熊本鎮台の参謀長。最後は第15代内務大臣、第14代文部大臣を歴任するというなかなかの大物です。

    樺山資紀邸址 名所・史跡

    なかなかの大物です by たびたびさん
  • 甲突川まで歩いてきて、

    甲突川まで歩いてきて、

  • これは南洲橋。電車通りでもある高見橋の一つ下流です。木製の欄干の人道橋。橋の北詰めには例の維新ふるさと館もあって、ここは偉人を数多く輩出した加治屋町のエリア。橋から北へ通りをさらに進んだところに西郷隆盛の生誕地があるので西郷さんにちなむ南洲のネーミングになっているのだと思います。

    これは南洲橋。電車通りでもある高見橋の一つ下流です。木製の欄干の人道橋。橋の北詰めには例の維新ふるさと館もあって、ここは偉人を数多く輩出した加治屋町のエリア。橋から北へ通りをさらに進んだところに西郷隆盛の生誕地があるので西郷さんにちなむ南洲のネーミングになっているのだと思います。

  • そこから甲突川の東側堤防沿いを高見橋まで戻りつつ。。<br />戦災復興記念碑は、モダンアートのような記念碑。下部は炎が燃えているようなイメージかな。<br />碑の説明によると鹿児島市は、太平洋戦争の空襲で市街地の93%が焼失。焦土の中から南日本最大の雄都として発展してきたということ。鹿児島というと西南戦争のイメージが濃いですが、それだけではないというのはちょっと意外でした。

    そこから甲突川の東側堤防沿いを高見橋まで戻りつつ。。
    戦災復興記念碑は、モダンアートのような記念碑。下部は炎が燃えているようなイメージかな。
    碑の説明によると鹿児島市は、太平洋戦争の空襲で市街地の93%が焼失。焦土の中から南日本最大の雄都として発展してきたということ。鹿児島というと西南戦争のイメージが濃いですが、それだけではないというのはちょっと意外でした。

  • そこから、偉人を数多く輩出した加治屋町のエリアに入って、これは黒木為楨誕生地。駐車場の脇にそれを示す立派な石柱が建っています。<br />ちなみに、黒木為楨は、戊辰戦争に4番隊半隊長として従軍。西南戦争に出征し、最終的には陸軍大将。日露戦争では、鴨緑江から奉天会戦まで連戦したという強者です。

    そこから、偉人を数多く輩出した加治屋町のエリアに入って、これは黒木為楨誕生地。駐車場の脇にそれを示す立派な石柱が建っています。
    ちなみに、黒木為楨は、戊辰戦争に4番隊半隊長として従軍。西南戦争に出征し、最終的には陸軍大将。日露戦争では、鴨緑江から奉天会戦まで連戦したという強者です。

  • 加治屋町交差点の北東角には、市内7カ所に偉人たちの像と解説板を設置した時標(ときしるべ)のひとつ、1の「イギリス艦、鹿児島湾に現る」。生麦事件の仇を取りに来たイギリス艦、薩英戦争の始まりですね。攘夷の実行という側面もあって、薩摩藩はやる気満々。薩摩藩が思いのほか善戦したことで、結果、英国との信頼関係が生まれる。そして、英国から先進技術を導入したことはその後の薩摩藩の軍備強化にもつながったことから、薩摩藩では薩英戦争は戦争をして仲良くなったみたいな成功体験の位置づけになりました。ただ、それはたまたまであり、このことが戦争の美化みたいに曲解されて明治以降の戦争拡大に影響を与えたことがなくもない。私としてはちょっと微妙な気持ちを持っています。

    加治屋町交差点の北東角には、市内7カ所に偉人たちの像と解説板を設置した時標(ときしるべ)のひとつ、1の「イギリス艦、鹿児島湾に現る」。生麦事件の仇を取りに来たイギリス艦、薩英戦争の始まりですね。攘夷の実行という側面もあって、薩摩藩はやる気満々。薩摩藩が思いのほか善戦したことで、結果、英国との信頼関係が生まれる。そして、英国から先進技術を導入したことはその後の薩摩藩の軍備強化にもつながったことから、薩摩藩では薩英戦争は戦争をして仲良くなったみたいな成功体験の位置づけになりました。ただ、それはたまたまであり、このことが戦争の美化みたいに曲解されて明治以降の戦争拡大に影響を与えたことがなくもない。私としてはちょっと微妙な気持ちを持っています。

  • 平田靭負屋敷跡は、平田公園という公園になっていまして。

    平田靭負屋敷跡は、平田公園という公園になっていまして。

    平田靭負屋敷跡 名所・史跡

    平田公園という公園になっていまして by たびたびさん
  • 一角には、平田靱負の銅像と「美濃、伊勢、尾張300ヶ村の救世主」の表題の説明板。薩摩藩の家老だった平田靱負が総奉行として陣頭指揮を執った岐阜県の木曽川・揖斐川・長良川の治水工事、宝暦治水のことが紹介されていました。<br />江戸幕府に命じられたこの難工事は、多くの犠牲者と多額の工事費を要し、その責任から、工事の完成の翌年には自刃。悲劇の結末となりましたが、工事の恩恵を受けた岐阜県からは毎年5月に慰霊祭に参加する一行がやってくるそうです。三重県の桑名にも海蔵寺という寺にはこれに関係する薩摩藩士の墓がありました。

    一角には、平田靱負の銅像と「美濃、伊勢、尾張300ヶ村の救世主」の表題の説明板。薩摩藩の家老だった平田靱負が総奉行として陣頭指揮を執った岐阜県の木曽川・揖斐川・長良川の治水工事、宝暦治水のことが紹介されていました。
    江戸幕府に命じられたこの難工事は、多くの犠牲者と多額の工事費を要し、その責任から、工事の完成の翌年には自刃。悲劇の結末となりましたが、工事の恩恵を受けた岐阜県からは毎年5月に慰霊祭に参加する一行がやってくるそうです。三重県の桑名にも海蔵寺という寺にはこれに関係する薩摩藩士の墓がありました。

  • さらに東に進んで、<br />旧県立博物館考古資料館は、明治16年、県立興業館として建てられた歴史ある石造りの建物。県内では尚古集成館に次いで古い建物だとか。<br />開けた場所に保存されていますが、威厳のある構えでも見ようによっては廃墟のようなことになっていて、やはり手を入れる必要がある状態かなと感じます。

    さらに東に進んで、
    旧県立博物館考古資料館は、明治16年、県立興業館として建てられた歴史ある石造りの建物。県内では尚古集成館に次いで古い建物だとか。
    開けた場所に保存されていますが、威厳のある構えでも見ようによっては廃墟のようなことになっていて、やはり手を入れる必要がある状態かなと感じます。

  • もう西郷隆盛銅像にも近い中央公園までやってきました。

    もう西郷隆盛銅像にも近い中央公園までやってきました。

  • 市内7カ所に偉人たちの像と解説板を設置した時標(ときしるべ)の6「伊地知、吉井、政変について語る」は、中央公園の南側。まだ一介の藩士だった伊地知正治(後に正三位勲一等伯爵)、吉井友実(後に正二位勲一等伯爵)が語った政変は桜田門外の変のこと。この頃の水戸藩は尊王攘夷派のリーダーとして勤王の志士たちからも一目置かれる存在。しかし、桜田門外の変は、結果的に見ると徳川幕府の権威を貶めたというだけ。尊王攘夷派は幕府をもって攘夷を決行させるというのが考え方でしたから、この辺りから時代は迷走。倒幕の流れがはっきりするまでは、誰も次の展開が読めない局面だったと思います。

    市内7カ所に偉人たちの像と解説板を設置した時標(ときしるべ)の6「伊地知、吉井、政変について語る」は、中央公園の南側。まだ一介の藩士だった伊地知正治(後に正三位勲一等伯爵)、吉井友実(後に正二位勲一等伯爵)が語った政変は桜田門外の変のこと。この頃の水戸藩は尊王攘夷派のリーダーとして勤王の志士たちからも一目置かれる存在。しかし、桜田門外の変は、結果的に見ると徳川幕府の権威を貶めたというだけ。尊王攘夷派は幕府をもって攘夷を決行させるというのが考え方でしたから、この辺りから時代は迷走。倒幕の流れがはっきりするまでは、誰も次の展開が読めない局面だったと思います。

  • その東隣り、中央公園の南東角にある造士館跡です。<br />造士館は、安永2年(1773年)、島津氏の第25代当主、島津重豪が開いた藩校で、西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎なども通っていたということ。造士館・演武館跡という石碑が建っていて、薩摩の文武両道の精神も感じます。

    その東隣り、中央公園の南東角にある造士館跡です。
    造士館は、安永2年(1773年)、島津氏の第25代当主、島津重豪が開いた藩校で、西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎なども通っていたということ。造士館・演武館跡という石碑が建っていて、薩摩の文武両道の精神も感じます。

  • 中央公園の南隣りには、西本願寺 鹿児島別院。周囲は立派な塀で囲われていて、どこから入ったらいいのか分からず、ちょっと迷いました。<br />ちなみに、薩摩藩では念仏は禁制。鹿児島は隠れ念仏とかが行われていた地域になるのですが、いまではこんな大寺院が構えていて、隔世の感があるのではないかと思います。

    中央公園の南隣りには、西本願寺 鹿児島別院。周囲は立派な塀で囲われていて、どこから入ったらいいのか分からず、ちょっと迷いました。
    ちなみに、薩摩藩では念仏は禁制。鹿児島は隠れ念仏とかが行われていた地域になるのですが、いまではこんな大寺院が構えていて、隔世の感があるのではないかと思います。

  • 西郷隆盛銅像の前を走る国道10号線をさらに東へ。<br />薩摩辞書の碑は、鹿児島県立図書館の南側の通り。この薩摩辞書というのは、長崎に滞在中だった薩摩藩の前田正名、前田献吉、高橋新吉が渡航費用の捻出のために編纂した英和辞書のこと。明治元年に完成。当時、世間では大いに活用されたということです。

    西郷隆盛銅像の前を走る国道10号線をさらに東へ。
    薩摩辞書の碑は、鹿児島県立図書館の南側の通り。この薩摩辞書というのは、長崎に滞在中だった薩摩藩の前田正名、前田献吉、高橋新吉が渡航費用の捻出のために編纂した英和辞書のこと。明治元年に完成。当時、世間では大いに活用されたということです。

  • そして、鶴丸城へ。

    そして、鶴丸城へ。

  • 鶴丸城の御楼門を入った正面のところには、西南戦争の銃弾跡。道を挟んだ私学校跡の石垣の方にも無数に残っています。<br />西南戦争の痕跡なのですが、ただ、これを見て何を感じたらいいのか。幕末から戊辰戦争までは死屍累々。多くの犠牲の上に明治政府ができるのですが、そこまで薩摩藩は常に勝者の立場。それが一転、西南戦争でそれまでにない桁違いの規模での犠牲者を出すことになる。しかし、その大きな犠牲からも平和や非戦の思想は生まれませんでした。結局、日本は日清戦争、日露戦争、日中戦争から太平洋戦争まで突き進む。司馬遼太郎は、日清戦争、日露戦争をちょっと美化して、日中戦争や太平洋戦争と区別する姿勢がありますが、果たしてそういうことなのか。禁門の変で斃れた久坂玄瑞をはじめ幕末の志士たちは、自らの死こそが新しい時代を開くのだという特異な考え方に憑かれていた傾向があるのですが、明治の元老たちも以降も、もしかすると日本はその考え方からずっと逃れることができなかったのではないか。人命を軽んじた太平洋戦争末期の将校たち。牟田口廉也なんかもそうした流れの中で生まれたとんでもない怪物なのではないか。その流れをようやく止めたのは良くも悪くも太平洋戦争の敗戦だったのかも。夏目漱石が”三四郎”の中で日露戦争に勝った日本に「滅びるね」と予言のようなセリフが登場することは割と知られていますが、それに限らず。何を見て何を教訓とすべきかはいろんな側面があるように思います。

    鶴丸城の御楼門を入った正面のところには、西南戦争の銃弾跡。道を挟んだ私学校跡の石垣の方にも無数に残っています。
    西南戦争の痕跡なのですが、ただ、これを見て何を感じたらいいのか。幕末から戊辰戦争までは死屍累々。多くの犠牲の上に明治政府ができるのですが、そこまで薩摩藩は常に勝者の立場。それが一転、西南戦争でそれまでにない桁違いの規模での犠牲者を出すことになる。しかし、その大きな犠牲からも平和や非戦の思想は生まれませんでした。結局、日本は日清戦争、日露戦争、日中戦争から太平洋戦争まで突き進む。司馬遼太郎は、日清戦争、日露戦争をちょっと美化して、日中戦争や太平洋戦争と区別する姿勢がありますが、果たしてそういうことなのか。禁門の変で斃れた久坂玄瑞をはじめ幕末の志士たちは、自らの死こそが新しい時代を開くのだという特異な考え方に憑かれていた傾向があるのですが、明治の元老たちも以降も、もしかすると日本はその考え方からずっと逃れることができなかったのではないか。人命を軽んじた太平洋戦争末期の将校たち。牟田口廉也なんかもそうした流れの中で生まれたとんでもない怪物なのではないか。その流れをようやく止めたのは良くも悪くも太平洋戦争の敗戦だったのかも。夏目漱石が”三四郎”の中で日露戦争に勝った日本に「滅びるね」と予言のようなセリフが登場することは割と知られていますが、それに限らず。何を見て何を教訓とすべきかはいろんな側面があるように思います。

  • 市内7カ所に偉人たちの像と解説板を設置した時標(ときしるべ)の7 「ウィリス、高木に西洋医学を説く」は、城山入り口の東北角。ウィリスはイギリス人医師。明治2年に薩摩藩に招聘され医学校長となり、赤倉病院を創設。今の東京慈恵会医科大学を創設した高木兼寛もウィリスに学びます。明治になった鹿児島で早々と医学の動き。素早い対応だったと思います。

    市内7カ所に偉人たちの像と解説板を設置した時標(ときしるべ)の7 「ウィリス、高木に西洋医学を説く」は、城山入り口の東北角。ウィリスはイギリス人医師。明治2年に薩摩藩に招聘され医学校長となり、赤倉病院を創設。今の東京慈恵会医科大学を創設した高木兼寛もウィリスに学びます。明治になった鹿児島で早々と医学の動き。素早い対応だったと思います。

  • そのまま、さらに東へ。<br />旧鹿児島県立尋常中学門は、かごしま県民交流センターの北側敷地内。正門だった洋風石造門という明治27年の遺構なのですが、何もないところに四本の柱が建っているだけなので、この存在自体あまり目立ってはいないですよね。ほとんど気が付かれていないかもしれません。<br />では、ここでUターン。

    そのまま、さらに東へ。
    旧鹿児島県立尋常中学門は、かごしま県民交流センターの北側敷地内。正門だった洋風石造門という明治27年の遺構なのですが、何もないところに四本の柱が建っているだけなので、この存在自体あまり目立ってはいないですよね。ほとんど気が付かれていないかもしれません。
    では、ここでUターン。

  • 旧鹿児島県庁舎本館は、かごしま県民交流センターの前広場。大正14年に建てられた鉄筋コンクリート三階建ての建物。県庁舎の正面玄関にあたる部分のようで、大正期のネオ・ルネッサンス様式。けっこう端正なデザインで、今でも気品を感じる出来栄えです。

    旧鹿児島県庁舎本館は、かごしま県民交流センターの前広場。大正14年に建てられた鉄筋コンクリート三階建ての建物。県庁舎の正面玄関にあたる部分のようで、大正期のネオ・ルネッサンス様式。けっこう端正なデザインで、今でも気品を感じる出来栄えです。

  • そのかごしま県民交流センターがこれ。鹿児島県庁の移転の後、もともと県庁舎があった場所に建てられた県民ホール、多目的ホールを備える公共施設。そういう意味では、鹿児島市内の一等地に建っているし、近代的で堂々とした外観が素晴らしい。鹿児島県の面目躍如といった建物だと思います。

    そのかごしま県民交流センターがこれ。鹿児島県庁の移転の後、もともと県庁舎があった場所に建てられた県民ホール、多目的ホールを備える公共施設。そういう意味では、鹿児島市内の一等地に建っているし、近代的で堂々とした外観が素晴らしい。鹿児島県の面目躍如といった建物だと思います。

  • では、西郷銅像前まで戻って、こでカゴシマシティビューに乗車。城山まで向かいます。

    では、西郷銅像前まで戻って、こでカゴシマシティビューに乗車。城山まで向かいます。

  • 城山公園は、西南戦争で西郷隆盛が最期を迎えた場所ということもあり、鹿児島市民にとってはたぶん特別な場所。

    城山公園は、西南戦争で西郷隆盛が最期を迎えた場所ということもあり、鹿児島市民にとってはたぶん特別な場所。

  • 一方、観光的にも、ここの展望所から見る桜島の眺めは定番中の定番。

    イチオシ

    一方、観光的にも、ここの展望所から見る桜島の眺めは定番中の定番。

  • もう何度も来てますけど、鹿児島に来たらやっぱり外せない場所のひとつですね。<br />こうしてカゴシマシティビューで訪ねるのが一般的ですが、一度、鹿児島市街から歩いて上ったことがあります。意外に簡単に上れるので、余裕のある方にはまあまあお勧めです。

    もう何度も来てますけど、鹿児島に来たらやっぱり外せない場所のひとつですね。
    こうしてカゴシマシティビューで訪ねるのが一般的ですが、一度、鹿児島市街から歩いて上ったことがあります。意外に簡単に上れるので、余裕のある方にはまあまあお勧めです。

  • 城山から、再びカゴシマシティビューで、今度は西郷南洲顕彰館へ。<br />西郷南洲顕彰館は、南洲公園の中にある西郷隆盛の資料館。一階と二階には、西郷隆盛の生涯を描いたジオラマ展示があって、これがこの館のメインですね。鹿児島人の愛してやまない西郷どん。その魅力は、その生涯を知ることでこそ感じれるものというコンセプトでしょう。<br />ただ、人間力は間違いないのですが、私的にはなにか受け身的なイメージがぬぐえない。私学校の若者達に担がれた形の西南戦争もそうですが、例えば江戸城の無血開城。大きな功績かもしれませんが、そもそも西郷は倒幕についても本当に揺るぎない信念を持っていたのか。鳥羽伏見の戦いに檄を飛ばした大久保利通や岩倉具視ほどの信念はなかったような気がします。

    城山から、再びカゴシマシティビューで、今度は西郷南洲顕彰館へ。
    西郷南洲顕彰館は、南洲公園の中にある西郷隆盛の資料館。一階と二階には、西郷隆盛の生涯を描いたジオラマ展示があって、これがこの館のメインですね。鹿児島人の愛してやまない西郷どん。その魅力は、その生涯を知ることでこそ感じれるものというコンセプトでしょう。
    ただ、人間力は間違いないのですが、私的にはなにか受け身的なイメージがぬぐえない。私学校の若者達に担がれた形の西南戦争もそうですが、例えば江戸城の無血開城。大きな功績かもしれませんが、そもそも西郷は倒幕についても本当に揺るぎない信念を持っていたのか。鳥羽伏見の戦いに檄を飛ばした大久保利通や岩倉具視ほどの信念はなかったような気がします。

    西郷南洲顕彰館 美術館・博物館

  • 続いては、隣りの南洲墓地へ。桜島を正面に望むこの地には、

    続いては、隣りの南洲墓地へ。桜島を正面に望むこの地には、

  • 西郷隆盛以下、諸将や薩軍兵士2,023人の墓がずらりと並んで圧巻です。

    西郷隆盛以下、諸将や薩軍兵士2,023人の墓がずらりと並んで圧巻です。

  • 西郷隆盛の両側には、

    イチオシ

    西郷隆盛の両側には、

  • 西郷隆盛の両側には、

    西郷隆盛の両側には、

  • 総司令兼四番大隊指揮長、桐野利秋、

    総司令兼四番大隊指揮長、桐野利秋、

  • 一番大隊指揮長、篠原国幹。

    一番大隊指揮長、篠原国幹。

  • そして、二番大隊指揮長、村田新八や五番大隊指揮長、池上四郎、七番大隊連合指揮長、別府晋介らが続いています。<br />それにしても、幕末、多くの若い命が散っていったのですが、常に勝者の立場だったはず薩摩藩は、最後はこうして最大の犠牲者を出す結果となりました。ちなみに、会津戦争での会津藩の犠牲者は500人くらい。長州藩の桜山神社招魂場や水戸だと回天神社の墓地とかも愕然とするものがありますが、ここまでの規模ではないですからね。<br />西南戦争は歴史的に見れば、士族の特権をなくしていこうとする流れの中での士族の反動だったとは思いますが、しかし、最後に残ったのは西郷隆盛への思い。維新の栄光の軌跡とダブって記憶に残ったことがせめてもの救いかなと思います。

    そして、二番大隊指揮長、村田新八や五番大隊指揮長、池上四郎、七番大隊連合指揮長、別府晋介らが続いています。
    それにしても、幕末、多くの若い命が散っていったのですが、常に勝者の立場だったはず薩摩藩は、最後はこうして最大の犠牲者を出す結果となりました。ちなみに、会津戦争での会津藩の犠牲者は500人くらい。長州藩の桜山神社招魂場や水戸だと回天神社の墓地とかも愕然とするものがありますが、ここまでの規模ではないですからね。
    西南戦争は歴史的に見れば、士族の特権をなくしていこうとする流れの中での士族の反動だったとは思いますが、しかし、最後に残ったのは西郷隆盛への思い。維新の栄光の軌跡とダブって記憶に残ったことがせめてもの救いかなと思います。

  • 一角にある南洲神社は、南洲墓地にあって、西郷隆盛や西南戦争で亡くなった薩摩軍戦没者を祀る神社。<br />ただ、鉄筋コンクリート造りの簡素な社殿で、意外に質素な構え。主役は、南洲墓地にある無数の墓ですからね。神社があまり目立つのも確かに本末転倒ですからね。

    一角にある南洲神社は、南洲墓地にあって、西郷隆盛や西南戦争で亡くなった薩摩軍戦没者を祀る神社。
    ただ、鉄筋コンクリート造りの簡素な社殿で、意外に質素な構え。主役は、南洲墓地にある無数の墓ですからね。神社があまり目立つのも確かに本末転倒ですからね。

  • 南洲墓地の下手

    南洲墓地の下手

  • すぐにあるのは、浄光明寺という時宗の寺。島津家3代、島津久経が再建し、島津藩領内で最大級の境内面積を誇る大寺院だった歴史もあるようですが、敷地の大部分が南洲墓地のために使われたりして、今ではひっそりとした存在。山門横に与謝野晶子の歌碑が建っているくらいです。

    すぐにあるのは、浄光明寺という時宗の寺。島津家3代、島津久経が再建し、島津藩領内で最大級の境内面積を誇る大寺院だった歴史もあるようですが、敷地の大部分が南洲墓地のために使われたりして、今ではひっそりとした存在。山門横に与謝野晶子の歌碑が建っているくらいです。

  • そのまま歩いて、今和泉島津家本邸跡まで下ります。

    そのまま歩いて、今和泉島津家本邸跡まで下ります。

  • 今和泉島津家本邸跡は、篤姫が生まれたのもここなのですが、説明板とかなにもなくて、ただ当時を偲ばせる石垣がぐるりを囲んでいるだけ。門があって、中に少し入ってみましたが、見るべきものはありませんでした。<br />ここにはカゴシマシティビューの今和泉島津家本邸跡(篤姫誕生地)前のバス停があるので、続いては、仙巌園へ。

    今和泉島津家本邸跡は、篤姫が生まれたのもここなのですが、説明板とかなにもなくて、ただ当時を偲ばせる石垣がぐるりを囲んでいるだけ。門があって、中に少し入ってみましたが、見るべきものはありませんでした。
    ここにはカゴシマシティビューの今和泉島津家本邸跡(篤姫誕生地)前のバス停があるので、続いては、仙巌園へ。

  • 仙厳園に到着しましたが、いい時間だし、仙厳園の前にじゃんぼ餅を食べましょう。<br />ぢゃんぼ餅 平田屋は、仙巌園から海沿いに歩いて15分くらい。この辺りには何軒もじゃんぼ餅の看板を掲げたお店がありますけど、まあここが一番人気でしょうね。<br />

    仙厳園に到着しましたが、いい時間だし、仙厳園の前にじゃんぼ餅を食べましょう。
    ぢゃんぼ餅 平田屋は、仙巌園から海沿いに歩いて15分くらい。この辺りには何軒もじゃんぼ餅の看板を掲げたお店がありますけど、まあここが一番人気でしょうね。

  • 座敷に上がってほっと一息。待っている間に正面に広がる桜島を背景にした海を眺めたり、ここはとても気持ちの良い場所なんです。

    座敷に上がってほっと一息。待っている間に正面に広がる桜島を背景にした海を眺めたり、ここはとても気持ちの良い場所なんです。

  • で、じゃんぼ餅はこれ。大きな皿いっぱいにお餅が盛られて豪快。大きな分類としては、みたらしだんごのような感じですが、本物のお餅の焼きの香ばしさとちょっと薄味の甘辛いたれが特徴。たぶん、地元の醤油が甘いので、この優しい甘辛さになるのかなあと思います。

    イチオシ

    で、じゃんぼ餅はこれ。大きな皿いっぱいにお餅が盛られて豪快。大きな分類としては、みたらしだんごのような感じですが、本物のお餅の焼きの香ばしさとちょっと薄味の甘辛いたれが特徴。たぶん、地元の醤油が甘いので、この優しい甘辛さになるのかなあと思います。

  • そして、その並びにある中川家へも行ってみます。ここも平田屋と並ぶ人気店ですからね。

    そして、その並びにある中川家へも行ってみます。ここも平田屋と並ぶ人気店ですからね。

  • 平田屋に比べると少し小ぶりかな。たれの方もほとんどみたらし団子のたれに近くて、みたらし団子しか知らない人にも違和感がないような気がします。<br />仙厳園に来たらやっぱりじゃんぼ餅。これでまたちょっと落ち着きました。

    平田屋に比べると少し小ぶりかな。たれの方もほとんどみたらし団子のたれに近くて、みたらし団子しか知らない人にも違和感がないような気がします。
    仙厳園に来たらやっぱりじゃんぼ餅。これでまたちょっと落ち着きました。

  • また、仙厳園のところに戻ってきて。<br />鶴嶺神社は、仙厳園の西側に隣接した場所。近くにあってそれなりに立派な構えなのですが、わざわざ訪れる人は少ないかな。島津氏初代忠久以降の歴代当主を祀る神社ですが、創建は明治2年。当時は、藩祖を祀る神社を建てるのが流行していた時代。その中で建てられたものなので、歴史的にはさしたるものではありません。

    また、仙厳園のところに戻ってきて。
    鶴嶺神社は、仙厳園の西側に隣接した場所。近くにあってそれなりに立派な構えなのですが、わざわざ訪れる人は少ないかな。島津氏初代忠久以降の歴代当主を祀る神社ですが、創建は明治2年。当時は、藩祖を祀る神社を建てるのが流行していた時代。その中で建てられたものなので、歴史的にはさしたるものではありません。

  • では、ここから

    では、ここから

  • 仙厳園の中に入ります。

    仙厳園の中に入ります。

  • 入ってすぐの

    入ってすぐの

  • 左手が鹿児島世界文化遺産オリエンテーションセンター。それなりに立派な建物で、仰々しい名前なのですが、

    左手が鹿児島世界文化遺産オリエンテーションセンター。それなりに立派な建物で、仰々しい名前なのですが、

  • 建物の隣りにこの反射炉跡があるのでこの名前になるのでしょう。

    建物の隣りにこの反射炉跡があるのでこの名前になるのでしょう。

  • それと関連して、悠々とした部屋の真ん中にはその反射炉の模型が展示されていました。ただ、このてのものだと今回は行きませんけど本家の尚古集成館がありますからね。ここはあんまり迫力もないし、おまけのような気がします。

    それと関連して、悠々とした部屋の真ん中にはその反射炉の模型が展示されていました。ただ、このてのものだと今回は行きませんけど本家の尚古集成館がありますからね。ここはあんまり迫力もないし、おまけのような気がします。

  • 奥の方へ進むと、仙巌園菊まつりをやっていました。<br />

    奥の方へ進むと、仙巌園菊まつりをやっていました。

    仙巌園菊まつり 祭り・イベント

    ほどほどの見応えです by たびたびさん
  • およそ1万5千本の菊が仙巌園内を彩るともありましたが、

    およそ1万5千本の菊が仙巌園内を彩るともありましたが、

  • 想像したよりは小規模ですね。ただ、仙厳園自体が美しいので、それに彩を添えるという意味ではこれくらいでちょうどいいのかな。ほどほどの見応えです。

    イチオシ

    想像したよりは小規模ですね。ただ、仙厳園自体が美しいので、それに彩を添えるという意味ではこれくらいでちょうどいいのかな。ほどほどの見応えです。

  • 御殿に向かう途中の土産物の薩摩のれん。

    御殿に向かう途中の土産物の薩摩のれん。

  • 仙厳園はこうしたお土産物でも鹿児島をリードする存在。

    仙厳園はこうしたお土産物でも鹿児島をリードする存在。

  • 品揃えがとてもいいですよね。<br />ただ、ここで時間を取るわけにはいかないので、

    品揃えがとてもいいですよね。
    ただ、ここで時間を取るわけにはいかないので、

  • 先を急ぎます。

    先を急ぎます。

  • 園内は緑がとてもきれいです。

    園内は緑がとてもきれいです。

  • ここで、仙巌園の正門もチェック。この門は、出入り口としては使われていないので、ちょっと気が付きにくい。豪壮な構えなのですが、門の正面に回ってみないとその豪壮さは分かりません。お見逃しないように!

    ここで、仙巌園の正門もチェック。この門は、出入り口としては使われていないので、ちょっと気が付きにくい。豪壮な構えなのですが、門の正面に回ってみないとその豪壮さは分かりません。お見逃しないように!

  • さらに進んで

    イチオシ

    さらに進んで

  • 錫門。<br />かつては藩主か嫡男しか通ることを許されなかったいう正門です。<br />それを過ぎると

    錫門。
    かつては藩主か嫡男しか通ることを許されなかったいう正門です。
    それを過ぎると

  • 御殿ですが、<br />ただ、御殿に入るのは後にして<br />

    御殿ですが、
    ただ、御殿に入るのは後にして

  • 庭の方から。<br />桜島を望むこの眺めが仙厳園の仙厳園たる所以なのですが、<br />なんと御殿に差し掛かるような姿で立っていた大木がなくなっていて、これにはびっくり。樹齢200年という五葉松の一種、ヤクタネゴヨウの大木は、それがあることで独特の趣を醸し出していたんですけどね。とてもがっかりです。

    庭の方から。
    桜島を望むこの眺めが仙厳園の仙厳園たる所以なのですが、
    なんと御殿に差し掛かるような姿で立っていた大木がなくなっていて、これにはびっくり。樹齢200年という五葉松の一種、ヤクタネゴヨウの大木は、それがあることで独特の趣を醸し出していたんですけどね。とてもがっかりです。

  • まあ、なくなってしまったものは仕方ないので、気を取り直して<br />

    まあ、なくなってしまったものは仕方ないので、気を取り直して

  • 奥の方へ向かいます。<br />ここから仙厳園を反時計回りに回ります。

    奥の方へ向かいます。
    ここから仙厳園を反時計回りに回ります。

  • 石段を上がると

    石段を上がると

  • 曲水の庭。<br />島津家に伝わる優雅な春の宴、曲水の宴はここで行われます。中央の芝生のエリアを囲んで小川が流れるという設計。ここに流した酒盃が前を通り過ぎないうちに歌を詠むという高貴な遊びです。

    曲水の庭。
    島津家に伝わる優雅な春の宴、曲水の宴はここで行われます。中央の芝生のエリアを囲んで小川が流れるという設計。ここに流した酒盃が前を通り過ぎないうちに歌を詠むという高貴な遊びです。

  • さらに先に進むとここが一番奥。<br />桜島が雄大です。

    さらに先に進むとここが一番奥。
    桜島が雄大です。

  • では、ここから戻って、御殿の裏手の方に回ります。

    では、ここから戻って、御殿の裏手の方に回ります。

  • 先ほどの曲水の庭を過ぎて、

    先ほどの曲水の庭を過ぎて、

  • 急に雰囲気が変わって、

    急に雰囲気が変わって、

  • 御庭神社です。<br />仙厳園の御殿の裏山の方。園内を流れる保津川のそばにあって、鶴丸城にあった13の神社を一つに祭った神社だとか。水の潤いがあるからか、この辺りの紅葉は一段ときれい。鹿児島では珍しいくらい色付きが良い紅葉でした。

    御庭神社です。
    仙厳園の御殿の裏山の方。園内を流れる保津川のそばにあって、鶴丸城にあった13の神社を一つに祭った神社だとか。水の潤いがあるからか、この辺りの紅葉は一段ときれい。鹿児島では珍しいくらい色付きが良い紅葉でした。

  • 猫神神社は、もう少し進んだところ。<br />名前の通り、猫を神様として祀る小さな神社。始まりは、17代島津義弘が慶長の役の際、猫の瞳孔の開き方で時刻を推測したということから。身を護るためにそういうことまでしたということなのでしょうが、そういうことで時の神様ともなっています。

    猫神神社は、もう少し進んだところ。
    名前の通り、猫を神様として祀る小さな神社。始まりは、17代島津義弘が慶長の役の際、猫の瞳孔の開き方で時刻を推測したということから。身を護るためにそういうことまでしたということなのでしょうが、そういうことで時の神様ともなっています。

  • 一周して、御殿の玄関のところに戻りました。<br />

    一周して、御殿の玄関のところに戻りました。

  • これから御殿に入ります。

    これから御殿に入ります。

  • 入るとすぐには

    入るとすぐには

  • 建物が周りを囲む

    建物が周りを囲む

  • 中庭があって

    中庭があって

  • それを過ぎると外に開けたエリア。

    それを過ぎると外に開けたエリア。

  • 江戸時代は別邸。鶴丸城がありますからね。<br />「せごどん」では、ここで島津斉彬が傍らに側室のお由良の方を侍らした父、島津斉興から散々な嫌味を言われるシーンがあって、私的にはあんまり気持ちのいいものではありませんでした。<br />もちろん、それは史実の通り。斉興は斉彬を疎ましく思っていて、由良の方の生んだ久光の方を跡継ぎにしようとしていたくらいですからね。しかし、斉彬は一橋家から正妻を迎えていて、幕府との関係でそれはできることではない。なので、隠居を引き延ばして嫌がらせをしていました。その間には、お由良騒動というお家騒動が起きて、斉彬派の側近がすべて排除される。当時まだ下っ端だった西郷隆盛や大久保利通も辛酸をなめることになりました。結局、最後は斉彬と近しい老中、阿部正弘が動き、将軍、徳川家慶が斉興へ隠居を命ずることとなり、万事休す。嘉永3年(1851年)、島津斉彬が藩主の時代が始まります。

    イチオシ

    江戸時代は別邸。鶴丸城がありますからね。
    「せごどん」では、ここで島津斉彬が傍らに側室のお由良の方を侍らした父、島津斉興から散々な嫌味を言われるシーンがあって、私的にはあんまり気持ちのいいものではありませんでした。
    もちろん、それは史実の通り。斉興は斉彬を疎ましく思っていて、由良の方の生んだ久光の方を跡継ぎにしようとしていたくらいですからね。しかし、斉彬は一橋家から正妻を迎えていて、幕府との関係でそれはできることではない。なので、隠居を引き延ばして嫌がらせをしていました。その間には、お由良騒動というお家騒動が起きて、斉彬派の側近がすべて排除される。当時まだ下っ端だった西郷隆盛や大久保利通も辛酸をなめることになりました。結局、最後は斉彬と近しい老中、阿部正弘が動き、将軍、徳川家慶が斉興へ隠居を命ずることとなり、万事休す。嘉永3年(1851年)、島津斉彬が藩主の時代が始まります。

  • 島津斉彬は、安政4年(1858年)に急死するので、藩主の期間は短いのですが、この間、四賢候の一人として幕府への助言をしたり、西洋の技術を積極的に取り入れ産業や軍事を強化するなど華々しい活躍。また、それにもまして、西郷隆盛などその後につながる優位の人材を育てたことももしかしたらそれ以上に大きな功績だと思います。

    島津斉彬は、安政4年(1858年)に急死するので、藩主の期間は短いのですが、この間、四賢候の一人として幕府への助言をしたり、西洋の技術を積極的に取り入れ産業や軍事を強化するなど華々しい活躍。また、それにもまして、西郷隆盛などその後につながる優位の人材を育てたことももしかしたらそれ以上に大きな功績だと思います。

  • 時代を動かすためには思想や信念が必要だと思いますが、薩摩藩にあっては島津斉彬であることは間違いない。そういう意味だと長州藩なら吉田松陰。水戸藩なら水戸斉昭や藤田東湖。土佐藩なら武市半平太。佐賀藩なら鍋島閑叟といった感じかな。薩摩藩が実際に倒幕に向かうのは島津久光の時代からですが、それも久光の力ではないでしょう。つまり、当時の世界情勢を踏まえれば倒幕=内戦は常識的に考えてできるものではない。そこに固い決意で向かう判断は、高杉晋作の功山寺の挙兵を思い起こさせるレベルだし、影の黒幕は南洲墓地で触れた大久保利通や岩倉具視だったという説にもけっこう同感。さらに言えば、維新を成功させた転換点は薩長同盟もありますが、尊王攘夷から倒幕に舵を切ったことがかなり重要。その辺りの視点があまり重視されていないのがいつも残念なところです。<br />この辺りはこれまでも何回か触れているのですが、何度言っても言い足りないですよね。<br />これは生麦事件に関連しての旅行記です。<br />https://4travel.jp/travelogue/11588649

    イチオシ

    時代を動かすためには思想や信念が必要だと思いますが、薩摩藩にあっては島津斉彬であることは間違いない。そういう意味だと長州藩なら吉田松陰。水戸藩なら水戸斉昭や藤田東湖。土佐藩なら武市半平太。佐賀藩なら鍋島閑叟といった感じかな。薩摩藩が実際に倒幕に向かうのは島津久光の時代からですが、それも久光の力ではないでしょう。つまり、当時の世界情勢を踏まえれば倒幕=内戦は常識的に考えてできるものではない。そこに固い決意で向かう判断は、高杉晋作の功山寺の挙兵を思い起こさせるレベルだし、影の黒幕は南洲墓地で触れた大久保利通や岩倉具視だったという説にもけっこう同感。さらに言えば、維新を成功させた転換点は薩長同盟もありますが、尊王攘夷から倒幕に舵を切ったことがかなり重要。その辺りの視点があまり重視されていないのがいつも残念なところです。
    この辺りはこれまでも何回か触れているのですが、何度言っても言い足りないですよね。
    これは生麦事件に関連しての旅行記です。
    https://4travel.jp/travelogue/11588649

  • いずれにしても、それも含めて。その種を蒔いたのは、島津斉彬と吉田松陰。私の中の評価はそんな感じです。<br /><br />なお、長州藩の吉田松陰、高杉晋作の関係は、以下参考まで。<br />https://4travel.jp/travelogue/11156687<br />https://4travel.jp/travelogue/11004242<br />https://4travel.jp/travelogue/10889765

    いずれにしても、それも含めて。その種を蒔いたのは、島津斉彬と吉田松陰。私の中の評価はそんな感じです。

    なお、長州藩の吉田松陰、高杉晋作の関係は、以下参考まで。
    https://4travel.jp/travelogue/11156687
    https://4travel.jp/travelogue/11004242
    https://4travel.jp/travelogue/10889765

  • 御殿を終わって、仙巌園ブランドショップにも寄ってみます。

    御殿を終わって、仙巌園ブランドショップにも寄ってみます。

  • 見どころは、やっぱり薩摩切子と白薩摩。どちらも洗練されて美しさがあって、まあその分お値段もするんですけどね。例えば、切子だと江戸切子もそれなりに有名ですが、安価なものが多くて、薩摩切子とは根本的に違いますよね。

    見どころは、やっぱり薩摩切子と白薩摩。どちらも洗練されて美しさがあって、まあその分お値段もするんですけどね。例えば、切子だと江戸切子もそれなりに有名ですが、安価なものが多くて、薩摩切子とは根本的に違いますよね。

  • 白薩摩の方は、少し前まではお庭焼きの窯が仙厳園にあったのですが、途絶えてしまいました。とても残念です。

    白薩摩の方は、少し前まではお庭焼きの窯が仙厳園にあったのですが、途絶えてしまいました。とても残念です。

  • ここで、昼飯にします。桜華亭は、仙厳園の中にある食事処。ちなみに、二階のカウンター席は正面に桜島を眺めながらのびっくりするような特等席。素晴らしいです。

    ここで、昼飯にします。桜華亭は、仙厳園の中にある食事処。ちなみに、二階のカウンター席は正面に桜島を眺めながらのびっくりするような特等席。素晴らしいです。

  • いただいたのは、鶏飯。鶏飯は奄美の郷土料理ですが、さっぱりとした味わいで心地よい仕上がり。少し量が少ないかなと思いましたが、それ以外は好印象。奄美大島で食べる鶏飯と同じ味わいだと思いました。<br />以上で、仙厳園を終わって、今度は桜島です。

    いただいたのは、鶏飯。鶏飯は奄美の郷土料理ですが、さっぱりとした味わいで心地よい仕上がり。少し量が少ないかなと思いましたが、それ以外は好印象。奄美大島で食べる鶏飯と同じ味わいだと思いました。
    以上で、仙厳園を終わって、今度は桜島です。

  • 再びシティービューで、鹿児島港フェリーターミナルに到着。<br />

    再びシティービューで、鹿児島港フェリーターミナルに到着。

  • 桜島は目の前だし、そこへのアクセスなんかたいしたことないだろうというイメージもあるかもしれませんが、大きなフェリーが頻繁に行き来しているし、そのフェリーを受け入れるこのターミナルもとても大きくて立派です。

    桜島は目の前だし、そこへのアクセスなんかたいしたことないだろうというイメージもあるかもしれませんが、大きなフェリーが頻繁に行き来しているし、そのフェリーを受け入れるこのターミナルもとても大きくて立派です。

  • では、出発。

    では、出発。

  • かごしま水族館を横目に見ながら、

    かごしま水族館を横目に見ながら、

  • 一路、桜島へ。

    イチオシ

    一路、桜島へ。

  • 噴煙を上げる桜島と真っ青な錦江湾。<br />冬には頂上付近に雪が積もることがあって、ちょっとびっくりしたことも思い出します。

    噴煙を上げる桜島と真っ青な錦江湾。
    冬には頂上付近に雪が積もることがあって、ちょっとびっくりしたことも思い出します。

  • 桜島港フェリーターミナルです。こちらも大型のフェリーを受け入れるしっかりした施設です。<br />なお、施設内にはそれなりに観光地の何かがあるかなと思ったのですが、あったのは小さな観光案内所だけ。少し寂しいなという感じです。

    桜島港フェリーターミナルです。こちらも大型のフェリーを受け入れるしっかりした施設です。
    なお、施設内にはそれなりに観光地の何かがあるかなと思ったのですが、あったのは小さな観光案内所だけ。少し寂しいなという感じです。

  • 桜島港フェリーターミナルからは、まず桜島ビジターセンターに向かいます。<br />マグマ温泉のある国民宿舎 レインボー桜島まで来ると目の前には桜島の荒々しい眺め。やっぱり桜島に渡ると迫力が違います。

    桜島港フェリーターミナルからは、まず桜島ビジターセンターに向かいます。
    マグマ温泉のある国民宿舎 レインボー桜島まで来ると目の前には桜島の荒々しい眺め。やっぱり桜島に渡ると迫力が違います。

  • 海沿いに進んで行く途中の桜島海づり公園。<br />沖合に鉄骨を組んだ海上デッキが作られていて、その上で海釣りを楽しむという仕掛け。周囲の海は少し風が吹くと白波立つし、けっこうワイルドな施設だと思います。

    海沿いに進んで行く途中の桜島海づり公園。
    沖合に鉄骨を組んだ海上デッキが作られていて、その上で海釣りを楽しむという仕掛け。周囲の海は少し風が吹くと白波立つし、けっこうワイルドな施設だと思います。

  • 桜島ビジターセンターです。工事中みたいですが、中は平常通り。<br />

    桜島ビジターセンターです。工事中みたいですが、中は平常通り。

    桜島ビジターセンター 美術館・博物館

    火山灰が鹿児島のシラス台地を形成し by たびたびさん
  • 桜島が噴火し、その火山灰が鹿児島のシラス台地を形成し、今の鹿児島の基本的な自然条件を形作る。大きな被害を生んできたのも事実ですが、それも含めて、それが自然の営み。ここの映像説明を見て少し大きな視野でとらえることができたような気がしました。

    桜島が噴火し、その火山灰が鹿児島のシラス台地を形成し、今の鹿児島の基本的な自然条件を形作る。大きな被害を生んできたのも事実ですが、それも含めて、それが自然の営み。ここの映像説明を見て少し大きな視野でとらえることができたような気がしました。

  • 桜島ビジターセンターからすぐの桜島溶岩なぎさ公園へ。広々とした芝生の広場と

    桜島ビジターセンターからすぐの桜島溶岩なぎさ公園へ。広々とした芝生の広場と

  • 全長100mの小川のような足湯。桜島の地下1000mから湧出する天然温泉だそうですが、流れる湯量も多いし、ちょっと濁った湯の感じはとってもワイルド。桜島の自然の力の凄さを感じるような足湯です。<br />

    全長100mの小川のような足湯。桜島の地下1000mから湧出する天然温泉だそうですが、流れる湯量も多いし、ちょっと濁った湯の感じはとってもワイルド。桜島の自然の力の凄さを感じるような足湯です。

  • そして、眺めの方も桜島の荒々しい火山を背景にして正面には錦江湾から対岸の鹿児島市街地を望む。鹿児島と桜島のいいところをぎゅっと集めたような景色ですね。<br />

    イチオシ

    そして、眺めの方も桜島の荒々しい火山を背景にして正面には錦江湾から対岸の鹿児島市街地を望む。鹿児島と桜島のいいところをぎゅっと集めたような景色ですね。

  • そこから先の溶岩なぎさ遊歩道も少し歩きます。

    そこから先の溶岩なぎさ遊歩道も少し歩きます。

  • 桜島の火山から吹き出た溶岩が流れとなって、そのまま海に至ってできた風景。桜島港フェリーターミナルから手軽に歩ける範囲ですが、その凄まじい自然の営みが十分に実感できる場所だと思います。

    桜島の火山から吹き出た溶岩が流れとなって、そのまま海に至ってできた風景。桜島港フェリーターミナルから手軽に歩ける範囲ですが、その凄まじい自然の営みが十分に実感できる場所だと思います。

  • 今度は、フェリーターミナルの山側、道の駅 桜島。この辺もぎりぎり歩ける範囲ですね。<br />

    今度は、フェリーターミナルの山側、道の駅 桜島。この辺もぎりぎり歩ける範囲ですね。

  • 産直の方を少し期待していましたが、溶岩で焼いた焼きものとかはあってもやっぱりかなり限界があるかな。唯一、桜島の小ミカンくらい。種ばかり多いけど甘いミカン。久しぶりに食べてちょっと懐かしく感じました。

    産直の方を少し期待していましたが、溶岩で焼いた焼きものとかはあってもやっぱりかなり限界があるかな。唯一、桜島の小ミカンくらい。種ばかり多いけど甘いミカン。久しぶりに食べてちょっと懐かしく感じました。

  • 道の駅 桜島からすぐの月読神社は、ちょっと小高い場所。<br />桜島で最も大きい神社で、和銅年間(708-715年)の創建だそうですが、ただ、大正噴火で埋没して、現在の位置に移設された神社。桜島の神社ですからね。これからも、そういう歴史をこれからも繰り返していくのかもしれません。

    道の駅 桜島からすぐの月読神社は、ちょっと小高い場所。
    桜島で最も大きい神社で、和銅年間(708-715年)の創建だそうですが、ただ、大正噴火で埋没して、現在の位置に移設された神社。桜島の神社ですからね。これからも、そういう歴史をこれからも繰り返していくのかもしれません。

  • もうひとつのレインボービーチは、桜島港からすぐ近く。ただ、港から歩くと桜島港に入る車の動線を横切る必要があるので、アクセスはあんまりよくはないかな。<br />静かな入り江風のビーチはとてもきれいなのですが、この辺りも本来は溶岩の海辺。たぶん人工のビーチではないかなと思います。<br />これで、桜島は終了。桜島までは行けるかどうか心配していましたが、なんとか収まりました。

    もうひとつのレインボービーチは、桜島港からすぐ近く。ただ、港から歩くと桜島港に入る車の動線を横切る必要があるので、アクセスはあんまりよくはないかな。
    静かな入り江風のビーチはとてもきれいなのですが、この辺りも本来は溶岩の海辺。たぶん人工のビーチではないかなと思います。
    これで、桜島は終了。桜島までは行けるかどうか心配していましたが、なんとか収まりました。

  • 桜島から戻ってきて、最後は天文館です。<br />センテラス天文館は、電車通りに面した立派なショッピングモール。エントランスのちょっとした広場ではイベントの準備が行われていて、この辺りの賑わいの中心になっている感じ。建物全体の雰囲気もあか抜けています。

    桜島から戻ってきて、最後は天文館です。
    センテラス天文館は、電車通りに面した立派なショッピングモール。エントランスのちょっとした広場ではイベントの準備が行われていて、この辺りの賑わいの中心になっている感じ。建物全体の雰囲気もあか抜けています。

  • センテラス天文館の一階に入っているはとやのぱん。通路からの仕切りが全然なくてのオープンスペースがおしゃれで開放感も感じさせますね。ハード系のパンが多くて、その辺がウリなのかな。ここもセンテラスのいいセンスを代表するお店のひとつだと思います。

    センテラス天文館の一階に入っているはとやのぱん。通路からの仕切りが全然なくてのオープンスペースがおしゃれで開放感も感じさせますね。ハード系のパンが多くて、その辺がウリなのかな。ここもセンテラスのいいセンスを代表するお店のひとつだと思います。

  • 今夜の宿も鹿児島中央駅の近くなので、天文館はぶらぶらするだけで

    今夜の宿も鹿児島中央駅の近くなので、天文館はぶらぶらするだけで

  • 食事はせずに帰ります。

    食事はせずに帰ります。

  • 途中にあった時標(ときしるべ)の2 「樺山、黒田、大いに語る」は、高田馬場電停の北東側角。<br />井伊直弼が大老に就任した頃に、樺山資紀や黒田清隆が日本の将来について語っているというもの。藩主、島津斉彬は徳川将軍跡継問題では一橋慶喜派。しかし、本来外様大名の身分で、そんなことには口出しできる立場ではさらさらないはず。それでも、藩士までもがそれを身近な問題として考えていたことこそが幕末という時代の象徴です。

    途中にあった時標(ときしるべ)の2 「樺山、黒田、大いに語る」は、高田馬場電停の北東側角。
    井伊直弼が大老に就任した頃に、樺山資紀や黒田清隆が日本の将来について語っているというもの。藩主、島津斉彬は徳川将軍跡継問題では一橋慶喜派。しかし、本来外様大名の身分で、そんなことには口出しできる立場ではさらさらないはず。それでも、藩士までもがそれを身近な問題として考えていたことこそが幕末という時代の象徴です。

  • で、晩飯はこちらのとんかつ 黒田。もう、鹿児島中央駅にかなり近い場所です。<br />厨房を囲んだカウンターはキッチンスタジアムみたいな構えで、これはテンションが上がりますね。

    で、晩飯はこちらのとんかつ 黒田。もう、鹿児島中央駅にかなり近い場所です。
    厨房を囲んだカウンターはキッチンスタジアムみたいな構えで、これはテンションが上がりますね。

  • 黒豚のロースかつをいただきました。<br />丁寧な仕上げがとてもいいのですが、敢えて言えば、ソースやみそ汁との相乗効果の視点から、組み合わせにはもう少し工夫が必要な気がしました。まあ、敢えて言えばということです。

    黒豚のロースかつをいただきました。
    丁寧な仕上げがとてもいいのですが、敢えて言えば、ソースやみそ汁との相乗効果の視点から、組み合わせにはもう少し工夫が必要な気がしました。まあ、敢えて言えばということです。

  • 今日の宿は、東横イン鹿児島中央駅東口。鹿児島中央駅から少し歩きますが、大通り沿いだしすぐに建物が見えてやっぱり安心感がありますね。<br />朝食がサービスで付いていて、内容も悪くないので皆さん大量に食べていて、備え付けにあったお弁当のような容器に詰めて部屋に持って帰っている人までいました。常連さんとかも含めて、このサービスがあってここを利用している人も少なくないのかなと思いました。<br />明日からの三日間は知覧、指宿、枕崎から坊津。レンタカーの旅になります。

    今日の宿は、東横イン鹿児島中央駅東口。鹿児島中央駅から少し歩きますが、大通り沿いだしすぐに建物が見えてやっぱり安心感がありますね。
    朝食がサービスで付いていて、内容も悪くないので皆さん大量に食べていて、備え付けにあったお弁当のような容器に詰めて部屋に持って帰っている人までいました。常連さんとかも含めて、このサービスがあってここを利用している人も少なくないのかなと思いました。
    明日からの三日間は知覧、指宿、枕崎から坊津。レンタカーの旅になります。

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