2023/02/28 - 2023/02/28
469位(同エリア7538件中)
キートンさん
この旅行記スケジュールを元に
2019年以来、3年ぶりの海外旅行の目的地に選んだのは、中国やフランスの統治下や長い戦時下を経験した複雑な歴史とカルスト地形の独特の景観など、見どころが多彩なベトナム。
複数国を周遊する旅程ではなく、今回の旅はベトナム1国に絞りました。
この旅も最終日となる10日目。
ダナンから関空への復路は、ハノイかホーチミンのどちらで経由するかでホーチミン経由を選択。
経由地のホーチミンで約9時間の乗継時間を利用し、ホーチミン観光を行います。
空港着が15時を過ぎるので、博物館などに入場するなら1箇所かせいぜい2箇所。
そこで、ベトナムを語るうえで避けられないベトナム戦争の記録を展示する戦争証跡博物館の見学を優先しました。
その後は、夕刻から夜にかけてホーチミンの名所を徒歩で周ろうというプラン。
しかし、ベトナム南部のホーチミンの気候はベトナム北部や中部より厳しく、2月末でもほぼ夏。
暑さで疲れがみえた頃にとった秘策とは・・・
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 交通
- 2.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス タクシー 飛行機
- 航空会社
- ベトナム航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ホーチミンのタンソンニャット国際空港から152番バスに乗って、15:50頃にホーチミン3区に到着。
バス代は20,000VND(約115円)と安かった。
それはいいけど、ホーチミンは今までと違う国に来たように暑い。
おまけに旅の全荷物を背負っている。 -
バス停から徒歩5分弱で、戦争証跡博物館に到着。
入場料は40,000VND。 -
戦争証跡博物館の屋外には、戦闘機や戦車などが展示されている。
F-5A ジェット戦闘機
アメリカのノースロップ社製の軽量戦闘機。
最大飛行距離2000km、最大速度1269km/h。
280発20mm機関銃2基、両翼にミサイルランチャー搭載。 -
イチオシ
UH-1H ヘリ
アメリカのベル・エアクラフト製ヘリコプター。
1959年よりアメリカ陸軍で採用され、ベトナム戦争などで活躍した。
UH-1は後継機種のシコルスキーUH-60 ブラックホークに置き換えが進んでいるが、日本の陸上自衛隊を含めて多くの国々では現役だという。
ベトナム戦争といえば、戦闘機というよりヘリコプターというイメージがある。
そして、ヘリコプター&ベトナム戦争といえば、我が世代としては自然と「ワルキューレの騎行」が頭に流れてくる。
地獄の黙示録(1979年)
https://www.youtube.com/watch?v=hn37QfXw1-E -
CH-47 チヌーク
ボーイング・バートル社が開発したタンデムローター式・ターボシャフト双発の大型輸送ヘリコプターで、1961年に試作機初飛行。
配備直後からベトナム戦争で実戦投入されており、榴弾砲と弾薬、砲兵隊員を同時に輸送可能という高性能が買われて広く活躍した。
その後も改良を重ねつつ生産が続けられており、日本の自衛隊を含めて、世界的に広く用いられているという。 -
戦争証跡博物館の案内図。
本館建物は3階建。
①HISTORICAL TRUTHS (歴史的真実)
②REQUIEM (回想)
③VIETNAM -WAR AND PEACE (ベトナム-戦争と平和)
④AGENT ORANGE DURING THE VIETNAM WAR (ベトナム戦争における枯葉剤)
⑤WHITE DOVES (白い鳩)
⑥WAR CRIMES (戦争犯罪)
⑦AGENT ORANGE EFFECTS (枯葉剤の影響)
⑧AGENT ORANGE CONSEQUENCES (枯葉剤の結果)
⑨CONFERENCE ROOM (会議室)
⑩IN IT'S RESISTANCE TO U.S.AGGRESSION 1954-1975 (1954-1975年のアメリカの侵略に対する抵抗)
⑪TENPORARY EXHIBITIONS (特別展示室)
⑫IMPRISONMENT SYSTEM DURING THE VIETNAM WAR (ベトナム戦争中の捕虜制度)
⑬OPEN-AIR EXHIBITION (屋外展示)
と記載されている。 -
案内図の番号の順で見学。
①HISTORICAL TRUTHS (歴史的真実)の展示。
ベトナム戦争を理解するうえで、まずベトナムの近代史を年表で概要を記してみる。
1887年~1940年:ベトナムとカンボジアが連邦に組み込まれたフランス領インドシナの時代。
1940年:フランスがドイツに降伏、日本軍がフランス領インドシナに進駐(仏印進駐)
1945年:日本の敗戦、ホー・チ・ミンが共産主義のベトナム民主共和国独立宣言。
1946年:ベトナム民主共和国の独立をめぐり旧宗主国フランスとインドシナ戦争が勃発。
1949年:ベトナム南部がフランスの傀儡国家となり、ベトナムが南部と北部に分断。
1954年:フランスが敗北、北緯17度選で南北に分断で終結。(ジュネーブ協定)
1955年:アメリカの後ろ盾で、ゴ・ディン・ジェムがベトナム共和国(南ベトナム)を建国。
1955年~1964年:アメリカが共産主義のドミノ現象を警戒し、南ベトナムを支援。一方北ベトナムに支援された南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が南部でゲリラ線を展開。
1963年:南ベトナムのゴ・ディン・ジェムがクーデターで暗殺され弱体化。
1964年:トンキン湾事件を口実にアメリカが本格参戦。
1964年~1968年:北ベトナムがソ連・中国の軍事援助と地の利を生かしたゲリラ戦でアメリカの圧倒的軍事力に対抗。
森林でのゲリラ戦に手を焼いたアメリカが枯葉剤やナパーム弾でベトコンが潜む森林を消失させる作戦を決行。(ランチハンド作戦)
1968年:旧正月の祝日であるテトの休戦期間の慣例を破り、北ベトナムが奇襲を行う。(テト攻勢)アメリカに政治的打撃を与え、ベトナム戦争の転機となる。
1968年~1973年:テレビなどの生々しい報道によりアメリカをはじめ各国で反戦運動が高まる。
1973年:北ベトナム、南ベトナム、アメリカの間で戦争終結の協定が結ばれアメリカが撤退(パリ和平協定)。しかし、北ベトナムと南ベトナムの間で戦争は継続。
1975年:北ベトナム軍が南ベトナムに全面攻撃を行い(ホーチミン作戦)サイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結。
1976年:南北ベトナムが統一されたベトナム社会主義共和国が樹立される。
1978年:ベトナム軍がカンボジア侵攻。
1979年:ベトナム軍によりカンボジアのプノンペン陥落。中国軍がベトナム北部に侵攻(中越戦争)。約2ヶ月の短期間で中国軍が撤退し終結。
1989年:パリ講和会議により、ベトナム軍がカンボジア領内から撤退。
このうち、ベトナム戦争は1954年から1975年を指すのが一般的だが、アメリカが本格参戦した1964年から1973年の間がクローズアップされることが多いようだ。 -
南ベトナムの国別援軍の数の推移(上表)とアメリカ軍が投下した爆弾のトン数の推移(下表)。
上表では、アメリカのほか、韓国、タイ、オーストラリアなどが兵士を送り込んでいることがわかる。
下表では、1968、69年あたりが爆撃のピークだったことがわかる。
ただ、北ベトナムと南ベトナムの分けが投下された場所を示すのだとすれば、南ベトナムの方が北を上回っているのが意外に思える。 -
アメリカが参加した3つの戦争についての比較表。
左が第二次世界大戦、中央が朝鮮戦争、右がベトナム戦争。
中でも、期間と戦費と爆弾の量が、第二次世界大戦や朝鮮戦争よりも突出していることがわかる。 -
②REQUIEM (回想)の展示。
アメリカの写真入りニュース雑誌として知られる「LIFE」の1963年1月の折込表紙。 -
「敵を連れて(Carrying the Enemy)」(1966年)
2人の米兵が塹壕から引きずり出したベトコン女性兵士を連行する写真。
撮影した沢田教一は、青森県出身の報道写真家。
1961年にアメリカの通信社であるUPI通信社に入社。
1965年からベトナムに渡り、ベトナム戦争の取材を始めた。 -
「安全への逃避(Flee to Safety)」(1965年)
ロクチュアン村で銃弾を避けながら川を渡る母子の写真。
撮影した沢田教一は、この写真で1965年ハーグ世界報道写真展大賞とニュース部門第1位、1966年アメリカ海外記者クラブ賞第1位、日本人としては2人目となる1966年のピューリッツァー賞 (写真部門)を受賞した。
この後UPI通信社とライバルだったAP通信は二倍の給料を提示し、またナショナルジオグラフィック協会からも引き抜きがあったが、沢田はどんなに好条件を出されても全く応じなかったため、「サムライ・フォトグラファー」と呼ばれるようになったという。
1970年10月、カンボジアのプノンペン近郊で取材の帰路に何者かの襲撃に会い、34歳の若さで没した。 -
②REQUIEM (回想)と③VIETNAM -WAR AND PEACE (ベトナム-戦争と平和)の展示室。
ベトナム戦争証跡博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
撃ち抜かれたニコンFカメラ。
1972年10月、一ノ瀬泰造がベトナムの戦場で取材中にライフル銃で撃たれ、爆発した手りゅう弾の破片もカメラを破壊した。
一ノ瀬泰造は奇跡的に右手に軽傷を負っただけですんだという。
一ノ瀬泰造は、佐賀県出身のフリーの報道写真家。
1973年カンボジアに入国し、クメール・ルージュの支配下に有ったアンコール・ワットへの単独で潜入したが、クメール・ルージュに捕らえられ殺害された。
1999年に一ノ瀬泰造の伝記、「地雷を踏んだらサヨウナラ」(主演浅野忠信)が映画化された。 -
石川文洋(いしかわぶんよう)の書籍。
石川文洋は、沖縄県出身千葉県育ちの報道写真家。
1965年からベトナムに滞在し、戦場を取材。
1969年に朝日新聞社出版局写真部勤務するが、1984年から再度フリーに戻った。
1979年カンボジア大虐殺、1994年ボスニア・ヘルツェゴビナ、ソマリア、2002年アフガニスタンなど各国の紛争地を取材。
2005年にベトナム政府から文化通信事業功労賞を受賞した。 -
④AGENT ORAAGENT ORANGE DURING THE VIETNAM WAR (ベトナム戦争における枯葉剤)の展示。
中村梧郎は、長野県出身の報道写真家。
1970年以降のベトナム戦争の取材を通じて、枯葉剤による人体・環境被害を伝える作品を発表した。
戦争証跡博物館の展示物の解説は、ほとんどがベトナム語と英語だが、ところどころ日本語での解説があった。 -
ナパーム弾による爆撃から逃れる村人たちを捉えた「戦争の恐怖」(上)と
対人および対戦車などの地雷(下)。
「戦争の恐怖」(1972年)の写真は全世界に配信され、戦争の悲惨さを伝えた。
そこに写る裸の少女は「ナパーム弾の少女」と呼ばれ、撮影したベトナム出身の報道写真家フィン・コン・ウトは、1973年にピューリッツァー賞 ニュース速報写真部門及び世界報道写真大賞を受賞した。 -
クラスター爆弾など。
クラスター爆弾は、容器となる弾体の中に複数の子弾を搭載した爆弾である。
ベトナム戦争では、ケースに野球ボール大の子爆弾を300個ほど内蔵し、その子爆弾ひとつの炸裂で600個ほどの金属球を飛散させるボール爆弾が使用された。 -
拳銃、ライフル銃など。
1960年代に入ると先進国ではテレビが普及し始め、ベトナム戦争が泥沼化するにつれて、放送規制が緩い当時はリアルタイムで戦争の生々しい映像が配信されるようになった。
1968年のテト攻勢の最中、国家警察部隊がベトコンの捕虜を射殺した映像「サイゴンでの処刑」(中央上の写真)が世界各国に配信された。
そのような報道が反戦運動を加速させる要因のひとつとなった。 -
3階から2階に移動。
建物の中央に吹き抜けがある。
館内はあまり冷房が効いてなくて、結構暑い。 -
⑥WAR CRIMES (戦争犯罪)の展示。
南ベトナムでアメリカ兵が使用した防毒マスク。 -
⑦AGENT ORANGE EFFECTS (枯葉剤の影響)の展示。
アメリカ軍はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的で、枯葉剤(オレンジ剤)を散布した。
その結果、戦時中のみならず、戦後も深刻な問題を残した。
枯葉剤の毒性により、出産異常が続出することになる。
1959年から1968年にかけて異常児出産は4000例を越えたという。
ベトナム政府によると、最大300万人のベトナム人が枯葉剤にさらされ、21世紀の現在もなお先天性欠損を抱える子供15万人を含む100万人が健康への深刻な影響を受けているとしている。
日本ではベトちゃんドクちゃんがよく知られているが、それよりも重度と思われる犠牲者の写真も多々見られる。 -
1階に移動し、⑩IN IT'S RESISTANCE TO U.S.AGGRESSION 1954-1975 (1954-1975年のアメリカの侵略に対する抵抗)の展示。
アジアのスペースはほとんど日本における反戦運動に関する展示となっている。
「ベトナムに平和を!市民連合 Beheiren」とは略称ベ平連と呼ばれる、日本のベトナム戦争反戦及び反米団体である。
左傾化や脱法的活動への批判から離脱者が相次いだが、ソ連崩壊後に公開された機密文書により、KGB経由でソ連から資金・支援を受けていたと判明した。
ベトナム戦争が米ソ冷戦時の代理戦争のひとつとされるが、平和運動と称してベ平連が反米プロパガンダ活動に利用されていたという側面があるようだ。 -
ヨーロッパでの反戦活動に関する写真やポスター。
ソ連はベトナム戦争の表に出ることなく北ベトナムに武器などを提供して支援していた。
同時に西側諸国でも密かにプロパガンダを展開し、反米意識をあおった。
ベトナム戦争は北ベトナムが勝利し、社会主義国として南北統一することになった。
ここまではソ連の思惑通りのように見えたが、アメリカが恐れた共産主義のドミノ現象は起こらず、1989年のベルリンの壁崩壊、1991年のソ連崩壊を機に東欧やアフリカの社会主義国が民主化へと向かった。
現在は、社会主義国は中国、北朝鮮、ベトナム、ラオス、キューバの5カ国のみとなっている。
しかし独裁的国家はいまだに多く残っていて、世界的にみれば実質的な民主化はそれほど進んでいないようだ。 -
⑪TENPORARY EXHIBITIONS (特別展示室)には、ベトナム戦争時の写真と当時の復元が展示されていた。
-
簡易な防空壕の写真とその復元。
-
⑫IMPRISONMENT SYSTEM DURING THE VIETNAM WAR (ベトナム戦争中の捕虜制度)の展示。
いきなりギロチンの展示。
さすがフランスの植民地だっただけあってフランスから輸入されたのだろうか。
フランスでは、ギロチンが採用される以前、斬首刑は貴族階級に対してのみ執行された。
当時の斬首には斧や刀が使われていたが、死刑執行人が未熟な場合には一撃で斬首できず、何度も斬りつけるなど残酷な光景が展開された。
受刑者に無駄な苦痛を与えない処刑道具として考案されたのだという。
イメージに反して人道的な発想だった。
そもそも斬首刑が残酷だろってことだが。 -
ここは拷問の島と呼ばれたコンソン島の牢獄を再現している。
コンソン島はホーチミンの約250km南にある島で、フランスが1861年にコンダオ刑務所を開設し、独立運動を展開した政治犯の流刑地に利用した。 -
実際の復元部分は狭く、奥行きを出すために壁に絵が描かれている。
ベトナム戦争中にはベトナム民主共和国(北ベトナム)側の捕虜や協力者が多数収監された。 -
階段を上ると、やはり壁に牢獄上部の絵が描かれている。
政治犯の扱いは非人道的で刑務所(収容所)の施設は「トラの檻」と呼ばれた。
狭い独房に数人が収容されていたという。 -
コンソン島には現在も「トラの檻」の原型が残っている。
一方、コンソン島は島の約8割が国立自然公園に指定され、豊かな自然が残っている。
ウミガメの産卵地、ジュゴンの生息地、ダイビングスポットなどがあり、「ベトナム最後の楽園」として注目されているという。 -
本館の建物の傍らには、枯葉剤で枯れたマングローブの中にたたずむ少年を捉えた大きな写真が展示されている。
これは、中村梧郎が1976年に撮影したものである。
戦争証跡博物館の見学がひと通り終えた頃、ちょうど閉館時間の17:00となっていた。 -
戦争証跡博物館から徒歩数分のところに統一会堂がある。
ここがベトナム戦争の終結を告げるサイゴン陥落の舞台になった。 -
統一会堂から徒歩数分にあるサイゴン大教会。
19世紀末に建てられた赤レンガ造りの教会で、ホーチミンの代表的な歴史的建造物である。 -
サイゴン大教会は、正面に高さ約60mのふたつの尖塔があるが、現在修復工事中となっている。
教会の前に建つ聖母マリア像は、1959年に設置されたもの。 -
サイゴン大教会に向かって右側には中央郵便局がある。
こちらも19世紀末のフランス統治時代に建てられた歴史的建造物である。 -
正面のアーチ周りをはじめ、随所に細かい装飾がみられ、いかにもフランスの影響を受けた建築物になっている。
-
内部は奥行きのあるアーチ状の天井を持つ空間となっている。
全体的に淡い黄色と濃い緑が基調になっている。サイゴン中央郵便局 建造物
-
イチオシ
中央に売店、両側に郵便局のカウンターが並ぶ。
奥の褄壁には、ベトナム建国の父ホー・チ・ミンが掲げられている。
ホー・チ・ミンは共産主義を掲げながらも、他国の共産党指導者が独裁的で反対派を粛清する例が多いのに対し、ホー・チ・ミンは腐敗や汚職に無縁で、禁欲的で無私な指導者であった。
自らが個人崇拝の対象になることを嫌い、高潔な人柄は民衆から尊崇を集め、晩年は南北ベトナムの両国民から「ホーおじさん」と呼ばれた。。 -
左の壁には、1936年の南ベトナムの地図が描かれている。
ちなみに、その地図の右下にある島が、「トラの檻」と呼ばれた収容所があったコンソン島である。
地図の下には、昔の欧米の映画に出てくるような電話ボックスが並んでいる。 -
サイゴン大教会からドンコイ通りを少し歩くと、左側にビンコムセンターというショッピングセンターがある。
-
ビンコムセンターの南角を右に折れると、1908年建造のホーチミン市人民委員会庁舎がある。
ちょうど日没直後ですでにライトアップされている。 -
欧風のこの建築は、ホーチミンの数ある建築物の中でも随一の美しさといってもよいだろう。
この建物は基本的に撮影禁止で、近くで写真を撮ると注意されることがあるとの情報があるが、ライトアップまでして、いかにも撮ってくださいといわんばかりである。
撮られて困るものをわざわざライトアップする方がおかしなはなしだ。 -
グエンフエ通りのホーチミン像あたりまで来ると、美しくライトアップされたホーチミン市人民委員会庁舎をバックに普通に記念撮影する人々が見られる。
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その反対側は、交差点のロータリーに蓮の噴水がある。
-
イチオシ
ロータリーを越えたところから、蓮の噴水越しのライトアップされたホーチミン市人民委員会庁舎がナイスな映え構図。
-
グエンフエ通りからレロイ通りに入ると、地下鉄の入口があった。
ホーチミン中心部のベンタンと東部バスターミナルを結ぶ1号線(19.7km)がほぼ完成し、2022年から試験走行が行われ、2023年内の開業が待たれている。
建設には住友商事や清水建設など、車両は日立製作所と日本の支援によって完成を迎えることになる。
ハノイでは2021年11月に中国の企業によって都市鉄道2A号線が開業している。
ハノイの都市鉄道の沿線は目立った観光地があまりなく、観光で利用する機会は少なそうだが、こちらの1号線はベンタン市場、市民劇場、動植物園、スイティエンパーク、バスターミナルなど、観光地や交通の要所があるので、観光で利用する機会は多そうだ。 -
ドンコイ通りまで来ると、正面には市民劇場。
日が暮れて暑さは多少和らいだものの、旅の全荷物を背負っているので、歩く気力が失われつつあった。
そこにこんなものが停まっていたのだから、これを利用するしかないという衝動にかられた。
聞いてみると料金は145,000VND。
現金は約800,000VND残っているので即決した。 -
というわけで、City Sightseeing Saigonのオープントップバスに乗車。
持参していた残りわずかな食料を食べながら出発を待つ。 -
18:45に市民劇場前を出発。
しばらくして、ホーチミン市人民委員会庁舎でUターン。
人民委員会庁舎とビンコムセンターの共演。 -
蓮の噴水を通り過ぎ・・・
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グエンフエ通りを左に見ながら進む。
サイゴン川に突き当たると右折した。 -
運河を越えて4区の方まで行くものの、あまり見どころはなく1区に戻る時に、IFC ONE SAIGONという半円形のビルの横を通る。
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サイゴン川沿いのトンドゥックタン通りを北上していくと、コロニアルホテルとして気になっていた、ホテル・マジェスティック。
一階のロビーだけでもこの建築の内部を見てみたかったが、それは断念せざるを得ない。 -
イチオシ
とはいえ、ライトアップされた外観だけでも見れたのでよかった。
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メリン広場には、チャン・フン・ダオ像。
ハノイのゴックソン祠(玉山祠)の正殿の奥に祀られている、13世紀に元の進撃を撃退した英雄である。 -
「Chúc mung năm moi(チュック・ムン・ナン・ムーイ)」→「あけましておめでとう」の電飾すれすれに、下をくぐってバスは走る。
今年のテト(旧正月)は1月下旬。
あと数時間で3月。
いつまでこの電飾のままなんだろう・・・ -
グアンフーカン通りを北へ進むと、やがてビンタン区の高層マンション群とランドマーク81が見えてくる。
ランドマーク81は、2018年に完成した、高さ461.3mとベトナムかつ東南アジアでは最高層となるビルである。 -
ランドマーク81には、最上階の79~81階に展望台「ランドマーク81スカイビュー」がある。
入場料は1,000,000VND(約5800円)くらいだというから、相当高い料金設定である。
バスはトゥーティエム橋を渡って2区へ。 -
2区を少し走った後、バーソン橋を渡って再び1区へと戻る。
このバーソン橋は、2022年4月に完成ということで、まだ完成から1年も経っていないらしい。 -
オープントップバスのナイトツアーも終盤に入って、タートル・レイクという円形の公園をぐるりと一周した。
池の真ん中に聖火台のようなタワーがあるが、これが何なのかは不明。 -
サイゴン大教会の横を通ってドンコイ通りへ。
教会前のマリア像と、その向こうにライトアップされた中央郵便局。 -
ユニクロは2019年にベトナム第1号店をオープンさせて以来、急速にベトナムで店舗を増やしているらしい。
-
ホテル・コンチネンタル・サイゴンは、1880年創業のコロニアルホテル。
世界の要人や著名人が宿泊した伝統あるホテルで、映画「インドシナ」のロケにも使われた。 -
19:30頃に市民劇場前に戻り、約45分のナイトツアーを終えた。
-
イチオシ
関空へのフライトは24:20発なので急いで空港へ向かう必要もないのだが、疲れたし空港のラウンジで夕食を摂ってゆっくり土産を探そうと思い、空港行きのバス停に向かった。
しかし、ここからが苦難の連続であった。 -
ことの顛末を語ると長くなる。(適当にスルーしてください)
グーグルマップのルート検索で、空港行きの109番バスのバス停で待った。
検索結果では15分毎に来るはずが、20分待っても来る気配がない。
すぐ近くのベトナム料理店の前で客を見送っていた女性店員に聞いてみたがバスのことはわからないらしく、しょうがないのでタクシーを呼んでもらった。
しばらくして来たタクシーのドライバーは英語が通じない。
行き先が空港ということは理解しているようだが、空港が近付くとどっちに行けばいいかと聞いてくる。
国際線(インターナショナル)だと言っても、グーグルマップで行き先を示しても、理解しているのかいないのか、どっちの道かと聞いてくる。
日本人に道を聞かれてもこっちは知らないが、たまたま「International」の標識が見えたのでそっちを指示した。
空港前も凄い渋滞で、降りようとしたタクシーにすかさず客が乗り込んでくる。
タクシー代は乗る時160,000VNDと聞いていたが、小銭不足で200,000VNDを渡しておつりをもらうような状態ではなかった。
それでもまだ21:00前なので時間には余裕があるように思えたが、チェックインに約40分、出国審査に60分以上、手荷物検査に約30分と今まで経験したことのない時間を要し、手荷物検査を終えたのは23:10頃になっていた。
そして搭乗券にはゲートに23:30と記されている。
プライオリティパスで無料のラウンジがあるはずだが、それを探して食事をしている暇はない。 -
搭乗ゲートの近くで食事をしようとしたが、そこはもはやベトナムではなくアメリカだった。
価格はUSドル表示で価格もアメリカ並。
ベトナムでは50,000VND(約300円)くらいのベトナム料理が、ここでは15USドル近く(約2000円)した。
唯一救いだったのは、ベトナムドンでの支払いがOKだったこと。
他の売店も同じくUSドル表示で価格はあまりにも割高であった。 -
最後に50,000VNDくらい残ったので、ミネラルウォーターを買おうと思ったがそれさえ買える金額ではなく、もはやここで買えるものなどなかった。
残された選択肢は、記念にとっておくかチャリティーボックスに寄付するか・・・
この旅は総じていい旅だったといえるが、観光が全て終わった後の後味の悪さも記憶に残ってしまった。 -
翌日朝に帰国した大阪の天気は快晴だった。
ベトナムでこういう空を見たかった。
ベトナムを観光で縦断するには、1年を通してもほぼベストシーズンだったと思う。
どうも近年の旅行はベストシーズンを狙ったつもりが、天候に恵まれないことが増えてきた気がする。
ベトナム旅行で良かったところは、まずは洞窟。
洞窟好きならフォンニャ・ケバン国立公園をお勧めしたい。
ハロン湾、チャンアン、ダナンのマーブルマウンテン(五行山)など、タイプの違った洞窟もかなり楽しめた。
ハロン湾、チャンアンは独特のカルスト地形の景観が魅力的だった。
街や文化財に関しては、フエが見どころ豊富で見ごたえがあった。
円安で海外旅行が割高になっている中、総額20万円未満でこれだけ内容の濃い旅ができたことは、特筆すべきことだと感じた。
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