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10年前に札幌へ出張した際、市内をサラッと見て、その後で小樽まで足を伸ばしたときの記録です。机の奥からSDカードが見つかったのですが、何を思ってテキトーに観光していたのか、自分でもわかりません。<br />テーマも何もないので、サラッとご覧ください。<br />表紙の写真は、樺太犬タロの剥製です。<br />日本が昭和32年(1957年)に派遣した第一次南極観測隊では、南極での行動のため、樺太犬(からふといぬ)22頭の犬ぞり隊を同行しました。<br />翌年の帰還時、悪天候のため、15頭を鎖に繋いだまま昭和基地に置き去りにしました。そして昭和34年に第3次観測隊がタロとジロ2頭の生存を確認しました。7頭は鎖に繋がれたまま餓死し、6頭は行方不明(後にリキの死体は発見)。<br />タロとジロの奇跡の発見は、日本中に衝撃をもたらしました。忠犬ハチ公像を製作した彫刻家の安藤士による15頭の樺太犬記念像が製作され、東京タワーに設置されていました。しかし、平成25年(2013年)に、実にくだらない理由から撤去されてしまいました。<br />タロとジロは第4次越冬隊に加わりましたが、ジロは越冬中の昭和35年(1960年)7月9日に昭和基地で病死。結局、日本に生還したのはタロだけでした。タロは、昭和36年(1961年)5月4日に4年半振りに帰国しました。<br />その後のタロは、北海道大学植物園で暮らしていましたが、昭和45年(1970年)8月11日に老衰のため14歳7か月で死没しました<br />ジロの剥製は、東京の国立博物館にあります。<br />樺太犬は、国内の純血種は途絶え、樺太でも1970年代にほぼ絶滅したとされています。

小さな旅、札幌と小樽

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2013/06/12 - 2013/06/13

340位(同エリア2537件中)

旅行記グループ 北海道の旅

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FUKUJIRO

FUKUJIROさん

この旅行記のスケジュール

2013/06/12

2013/06/14

この旅行記スケジュールを元に

10年前に札幌へ出張した際、市内をサラッと見て、その後で小樽まで足を伸ばしたときの記録です。机の奥からSDカードが見つかったのですが、何を思ってテキトーに観光していたのか、自分でもわかりません。
テーマも何もないので、サラッとご覧ください。
表紙の写真は、樺太犬タロの剥製です。
日本が昭和32年(1957年)に派遣した第一次南極観測隊では、南極での行動のため、樺太犬(からふといぬ)22頭の犬ぞり隊を同行しました。
翌年の帰還時、悪天候のため、15頭を鎖に繋いだまま昭和基地に置き去りにしました。そして昭和34年に第3次観測隊がタロとジロ2頭の生存を確認しました。7頭は鎖に繋がれたまま餓死し、6頭は行方不明(後にリキの死体は発見)。
タロとジロの奇跡の発見は、日本中に衝撃をもたらしました。忠犬ハチ公像を製作した彫刻家の安藤士による15頭の樺太犬記念像が製作され、東京タワーに設置されていました。しかし、平成25年(2013年)に、実にくだらない理由から撤去されてしまいました。
タロとジロは第4次越冬隊に加わりましたが、ジロは越冬中の昭和35年(1960年)7月9日に昭和基地で病死。結局、日本に生還したのはタロだけでした。タロは、昭和36年(1961年)5月4日に4年半振りに帰国しました。
その後のタロは、北海道大学植物園で暮らしていましたが、昭和45年(1970年)8月11日に老衰のため14歳7か月で死没しました
ジロの剥製は、東京の国立博物館にあります。
樺太犬は、国内の純血種は途絶え、樺太でも1970年代にほぼ絶滅したとされています。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 北海道庁旧本庁舎。<br />明治21年(1888年)に建てられたアメリカ風ネオ・バロック様式の建物です。

    北海道庁旧本庁舎。
    明治21年(1888年)に建てられたアメリカ風ネオ・バロック様式の建物です。

    北海道庁旧本庁舎 名所・史跡

  • 北海道庁旧本庁舎。

    北海道庁旧本庁舎。

  • 北海道庁旧本庁舎。<br />

    北海道庁旧本庁舎。

  • 北海道庁旧本庁舎。<br />リニューアル工事のため令和7年3月まで休館しています。

    北海道庁旧本庁舎。
    リニューアル工事のため令和7年3月まで休館しています。

  • 北海道庁旧本庁舎の内部。<br />館内は無料公開され、北海道の歴史をたどる資料が展示されていました。記憶に残っているのは、北方領土の解説でした。

    北海道庁旧本庁舎の内部。
    館内は無料公開され、北海道の歴史をたどる資料が展示されていました。記憶に残っているのは、北方領土の解説でした。

  • 現在の北海道庁。<br />領土返還の幕が掲示されています。

    現在の北海道庁。
    領土返還の幕が掲示されています。

  • 10分ほど歩いて、北海道大学農学部植物園に来ました。<br />この建物は明治15年(1882年)に開拓使によって博物館として建てられたもので、現役の博物館建築としては最古です。<br />正式な名称は、北海道大学農学部植物園・博物館 博物館本館で、開拓使の象徴であった星印がちりばめられています。<br />木造2階建、建築面積269.18m2。米国人ベートマンの設計で、ハーフティンバー風の意匠と玄関ポーチの特殊な形状が印象的です。

    10分ほど歩いて、北海道大学農学部植物園に来ました。
    この建物は明治15年(1882年)に開拓使によって博物館として建てられたもので、現役の博物館建築としては最古です。
    正式な名称は、北海道大学農学部植物園・博物館 博物館本館で、開拓使の象徴であった星印がちりばめられています。
    木造2階建、建築面積269.18m2。米国人ベートマンの設計で、ハーフティンバー風の意匠と玄関ポーチの特殊な形状が印象的です。

  • エゾヒグマの剥製。体長2.0m、体重200kg。

    エゾヒグマの剥製。体長2.0m、体重200kg。

  • 明治半ばに北海道開拓民が絶滅させたエゾオオカミの剥製。<br />北海道に分布していたタイリクオオカミの亜種で、1890年代に絶滅。

    明治半ばに北海道開拓民が絶滅させたエゾオオカミの剥製。
    北海道に分布していたタイリクオオカミの亜種で、1890年代に絶滅。

  • 樺太犬タロの剥製。<br />14歳7か月で天寿を全うしたタロ、その血を引く子孫の犬が日本各地に散らばっているそうです。

    樺太犬タロの剥製。
    14歳7か月で天寿を全うしたタロ、その血を引く子孫の犬が日本各地に散らばっているそうです。

  • エゾシカの剥製。<br />他にもT.W.ブラキストン博士の収集した鳥類標本など多数の展示がありました。

    エゾシカの剥製。
    他にもT.W.ブラキストン博士の収集した鳥類標本など多数の展示がありました。

  • 北海道大学農学部植物園・博物館 バチュラー記念館。<br />イギリス聖公会宣教師で、「アイヌの父」とも称えられたジョン・バチェラー博士の自邸を明治38年に移築したものです。明治31年(1871年)の建築。木造2階建、建築面積129m2。<br />内部は非公開ですが、2階にはバチェラー博士ゆかりの家具などが置かれた記念室があります。2階の窓は縦長で上下に開閉します。

    北海道大学農学部植物園・博物館 バチュラー記念館。
    イギリス聖公会宣教師で、「アイヌの父」とも称えられたジョン・バチェラー博士の自邸を明治38年に移築したものです。明治31年(1871年)の建築。木造2階建、建築面積129m2。
    内部は非公開ですが、2階にはバチェラー博士ゆかりの家具などが置かれた記念室があります。2階の窓は縦長で上下に開閉します。

  • 北海道大学農学部植物園・博物館 博物館倉庫。<br />明治17年(1884年)に博物館の倉庫として建築、後にマンサード屋根に改修しています。<br />木造2階建、建築面積49.58m2。

    北海道大学農学部植物園・博物館 博物館倉庫。
    明治17年(1884年)に博物館の倉庫として建築、後にマンサード屋根に改修しています。
    木造2階建、建築面積49.58m2。

  • 北海道大学農学部植物園・博物館 博物館事務所。<br />明治33年(1900年)築、木造、建築面積79.32m2。

    北海道大学農学部植物園・博物館 博物館事務所。
    明治33年(1900年)築、木造、建築面積79.32m2。

  • ハンカチノキ。<br />中国雲南省が原産地とされ、対暑性がないため、2,000m以上の高地や北日本で見ることが多い木です。

    ハンカチノキ。
    中国雲南省が原産地とされ、対暑性がないため、2,000m以上の高地や北日本で見ることが多い木です。

  • ハンカチノキ。<br />白く垂れ下がっている部分は花ではなく、蕾を包んでいる苞(ほう)と呼ばれる葉です。

    ハンカチノキ。
    白く垂れ下がっている部分は花ではなく、蕾を包んでいる苞(ほう)と呼ばれる葉です。

  • 札幌三吉神社。<br />明治11年5月に秋田県出身の木村藤吉氏が太平山三吉神社の御分霊を奉斎、翌年4月現在地に遷座しました。<br />仕事に向かう途中にありましたので、参拝しました。

    札幌三吉神社。
    明治11年5月に秋田県出身の木村藤吉氏が太平山三吉神社の御分霊を奉斎、翌年4月現在地に遷座しました。
    仕事に向かう途中にありましたので、参拝しました。

  • 翌日、大倉山ジャンプ競技場へ来ました。<br />昭和47年(1972 年)に開催された冬季オリンピック札幌大会のスキージャンプ90m級(現ラージヒル)の舞台となった場所です。

    翌日、大倉山ジャンプ競技場へ来ました。
    昭和47年(1972 年)に開催された冬季オリンピック札幌大会のスキージャンプ90m級(現ラージヒル)の舞台となった場所です。

  • ジャンプ台の頂上にある展望台からは札幌市内が一望できるはずですが、う~ん。

    ジャンプ台の頂上にある展望台からは札幌市内が一望できるはずですが、う~ん。

  • 展望台から、中央奥が円山(標高225m)、その右手前が神社山(標高237m)です。<br />明治時代、和人によって、札幌中心部から見た山の形が丸いことから円山と名付けられましたが、アイヌ人は「モイワ」(小さな山)と呼んでいました。和人の誤解によって、円山の南東にある山をモイワ(藻岩山)と呼ぶようになりました。藻岩山にある札幌稲荷神社を参拝したときの記録もご覧ください。<br />https://4travel.jp/travelogue/11343381<br />神社山は、アイヌ語ではエプイ(つぼみのような小山)と呼ばれていました。現在は北海道神宮の私有地にあり、公式には入山禁止です。

    展望台から、中央奥が円山(標高225m)、その右手前が神社山(標高237m)です。
    明治時代、和人によって、札幌中心部から見た山の形が丸いことから円山と名付けられましたが、アイヌ人は「モイワ」(小さな山)と呼んでいました。和人の誤解によって、円山の南東にある山をモイワ(藻岩山)と呼ぶようになりました。藻岩山にある札幌稲荷神社を参拝したときの記録もご覧ください。
    https://4travel.jp/travelogue/11343381
    神社山は、アイヌ語ではエプイ(つぼみのような小山)と呼ばれていました。現在は北海道神宮の私有地にあり、公式には入山禁止です。

  • 大倉山ジャンプ競技場。<br />標高307mのスキージャンプ台スタート地点からの展望です。柵越しに見ても恐いです。<br />展望台からアプローチ(助走路)越しに札幌市街がぼんやりと見えました。はっきり見えたら、もっと恐いだろうと思いつつジャンパーの度胸に感心しました。<br />ジャンプ台は、アプローチ101m、着地点との標高差は133.6m。

    大倉山ジャンプ競技場。
    標高307mのスキージャンプ台スタート地点からの展望です。柵越しに見ても恐いです。
    展望台からアプローチ(助走路)越しに札幌市街がぼんやりと見えました。はっきり見えたら、もっと恐いだろうと思いつつジャンパーの度胸に感心しました。
    ジャンプ台は、アプローチ101m、着地点との標高差は133.6m。

  • ジャンプ選手も利用する二人乗りリフトで上り下りしました。

    ジャンプ選手も利用する二人乗りリフトで上り下りしました。

  • 札幌を離れて、いつの間にか小樽へ移動していました。<br />鰊で御殿が建てられた時代の栄華を伝える旧青山別邸です。現在の価格に換算すると総工費は約30億円と言われています。<br />後に3代目を継いだ青山政恵は、17歳の時に、当時日本一の大地主と言われた山形県酒田市の本間家に何度も招かれ、それに負けない御殿を建てるという野望を持ちました。

    札幌を離れて、いつの間にか小樽へ移動していました。
    鰊で御殿が建てられた時代の栄華を伝える旧青山別邸です。現在の価格に換算すると総工費は約30億円と言われています。
    後に3代目を継いだ青山政恵は、17歳の時に、当時日本一の大地主と言われた山形県酒田市の本間家に何度も招かれ、それに負けない御殿を建てるという野望を持ちました。

  • 旧青山別邸の鬼瓦、恵比寿天。<br />山形県酒田から宮大工棟梁たちを呼び寄せ、 酒田の欅を大量に運んで、6年半の年月をかけて建てられました。

    旧青山別邸の鬼瓦、恵比寿天。
    山形県酒田から宮大工棟梁たちを呼び寄せ、 酒田の欅を大量に運んで、6年半の年月をかけて建てられました。

  • その下の彫刻。<br />1,500坪の敷地に建てた190坪の木造二階建て、6~15の部屋が18室です。しかもこの御殿は本宅ではなく、別荘だと言うのですから、贅沢な話です。

    その下の彫刻。
    1,500坪の敷地に建てた190坪の木造二階建て、6~15の部屋が18室です。しかもこの御殿は本宅ではなく、別荘だと言うのですから、贅沢な話です。

  • 旧青山別邸の鬼瓦、大黒天。<br />自分たちはそんな贅沢な暮らしをしていたのに、貧乏人の私から見学料を取り、しかも建物内部の撮影禁止とか、良い印象はありませんでした。

    旧青山別邸の鬼瓦、大黒天。
    自分たちはそんな贅沢な暮らしをしていたのに、貧乏人の私から見学料を取り、しかも建物内部の撮影禁止とか、良い印象はありませんでした。

  • 有名な鰊御殿ではありますが、何となく薄っぺらな感じがしてしまいました。本間様には敵いませんね。<br />本間様の宝物を見学したときの旅行記もご覧ください。<br />https://4travel.jp/travelogue/11649436

    有名な鰊御殿ではありますが、何となく薄っぺらな感じがしてしまいました。本間様には敵いませんね。
    本間様の宝物を見学したときの旅行記もご覧ください。
    https://4travel.jp/travelogue/11649436

  • 隣接している小樽貴賓館。<br />ちょっとお高いレストランなので、もちろん、食べていません。

    隣接している小樽貴賓館。
    ちょっとお高いレストランなので、もちろん、食べていません。

  • 市内に戻り、旧国鉄手宮線跡を歩きます。<br />遊歩道が整備され、ここは南側の始点です。<br />幌内(三笠市)の炭鉱から小樽港へ石炭を運ぶために敷かれた北海道初の鉄道「官営幌内鉄道」の一部だった線路跡です。<br />幌内鉄道の三笠駅があった場所は、現在「三笠鉄道村」になっています。三笠鉄道村の旅行記もご覧いただけると幸いです。<br />https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11180801/

    市内に戻り、旧国鉄手宮線跡を歩きます。
    遊歩道が整備され、ここは南側の始点です。
    幌内(三笠市)の炭鉱から小樽港へ石炭を運ぶために敷かれた北海道初の鉄道「官営幌内鉄道」の一部だった線路跡です。
    幌内鉄道の三笠駅があった場所は、現在「三笠鉄道村」になっています。三笠鉄道村の旅行記もご覧いただけると幸いです。
    https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11180801/

  • ポケットパーク(寿司屋通)。<br />ベンチが置かれていました。

    ポケットパーク(寿司屋通)。
    ベンチが置かれていました。

  • 遊歩道の南端。遊歩道は、小樽市総合博物館まで約1600mが整備されました。訪問時は途中まででした。

    遊歩道の南端。遊歩道は、小樽市総合博物館まで約1600mが整備されました。訪問時は途中まででした。

  • 明治13年(1880年)に手宮~札幌間が開通し、その2年後、明治15年11月13日に官営幌内鉄道により手宮~札幌~幌内太間が全通しました。<br />新橋~横浜間、大阪~神戸間に続く3番目の鉄道として建設されました。<br />明治21年(1888年)12月10日、幌内太 - 郁春別間(翌年、幾春別駅に改称)を延伸開業。<br />明治22年に北海道炭礦鉄道に譲渡。明治39年(1906年)に国有化。<br />昭和60年(1985年)11月5日に手宮線が廃止、昭和62年(1987年)、国鉄分割民営化に伴って、6月19日に貨物列車の運行終了、7月13日に幌内線は廃線となりました。

    明治13年(1880年)に手宮~札幌間が開通し、その2年後、明治15年11月13日に官営幌内鉄道により手宮~札幌~幌内太間が全通しました。
    新橋~横浜間、大阪~神戸間に続く3番目の鉄道として建設されました。
    明治21年(1888年)12月10日、幌内太 - 郁春別間(翌年、幾春別駅に改称)を延伸開業。
    明治22年に北海道炭礦鉄道に譲渡。明治39年(1906年)に国有化。
    昭和60年(1985年)11月5日に手宮線が廃止、昭和62年(1987年)、国鉄分割民営化に伴って、6月19日に貨物列車の運行終了、7月13日に幌内線は廃線となりました。

  • 線路跡の遊具。SLの形をした滑り台。

    線路跡の遊具。SLの形をした滑り台。

  • 手宮線跡。当時使っていた線路や踏切、遮断機を残しています。

    手宮線跡。当時使っていた線路や踏切、遮断機を残しています。

  • 手宮線の踏切跡。

    手宮線の踏切跡。

  • 日銀通り。<br />

    日銀通り。

  • 日銀通り。<br />

    日銀通り。

  • 日本銀行旧小樽支店・金融資料館。

    日本銀行旧小樽支店・金融資料館。

  • ポケットパーク。旧色内駅を模した休憩所です。

    ポケットパーク。旧色内駅を模した休憩所です。

  • 旧色内駅の説明。

    旧色内駅の説明。

  • 線路脇の飲食店。

    線路脇の飲食店。

  • 手宮線跡を離れて小樽運河は下りて行きます。左に秦海事・行政書士事務所、右にマリンハイム。

    手宮線跡を離れて小樽運河は下りて行きます。左に秦海事・行政書士事務所、右にマリンハイム。

  • 小樽運河に出ました。

    小樽運河に出ました。

  • 運河の宿小樽ふる川。<br />明治時代の商家を再現した造りのホテル、入り口に錨がありました。

    運河の宿小樽ふる川。
    明治時代の商家を再現した造りのホテル、入り口に錨がありました。

  • 小樽運河。<br />小樽港は北海道開拓の玄関口として発展してきました。当時は、大きな船を沖に泊め、はしけ(台船)を使って荷揚げしていましたが、取り扱う荷量が多くなり、運搬作業を効率的に行う必要が出てきました。艀が接岸できる距離を長くするために、海面を埋め立てることによってできたのが「小樽運河」です。

    小樽運河。
    小樽港は北海道開拓の玄関口として発展してきました。当時は、大きな船を沖に泊め、はしけ(台船)を使って荷揚げしていましたが、取り扱う荷量が多くなり、運搬作業を効率的に行う必要が出てきました。艀が接岸できる距離を長くするために、海面を埋め立てることによってできたのが「小樽運河」です。

  • 小樽運河は、大正12年に完成し、内陸を掘り込んだ運河ではなく、海岸の沖合いを埋立てて造られたため、直線ではなく緩やかに湾曲しているのが特徴となっています。<br />しかし、時代が変わり戦後になると、港の埠頭(ふとう)岸壁の整備により、その使命は終わりを告げることとなりました。

    小樽運河は、大正12年に完成し、内陸を掘り込んだ運河ではなく、海岸の沖合いを埋立てて造られたため、直線ではなく緩やかに湾曲しているのが特徴となっています。
    しかし、時代が変わり戦後になると、港の埠頭(ふとう)岸壁の整備により、その使命は終わりを告げることとなりました。

  • 昭和61年、運河は、十数年に及んだ埋立てを巡る論争の末に一部を埋立て、幅の半分が道路となり、散策路や街園が整備された現在の姿に生まれ変わりました。<br />運河の全長は1140mで、幅は道道臨港線に沿った部分は20m、北部(通称:北運河)は当初のまま40mとなっています。

    昭和61年、運河は、十数年に及んだ埋立てを巡る論争の末に一部を埋立て、幅の半分が道路となり、散策路や街園が整備された現在の姿に生まれ変わりました。
    運河の全長は1140mで、幅は道道臨港線に沿った部分は20m、北部(通称:北運河)は当初のまま40mとなっています。

  • 運河沿いの石造倉庫群は当時の姿のまま残されており、レストランなどに再利用されています。夕暮れ時には、石造倉庫群がライトアップされ、昼間とは違った雰囲気を演出します<br />中央橋と隣の浅草橋の間の運河沿いが「運河散策路」になっています。

    運河沿いの石造倉庫群は当時の姿のまま残されており、レストランなどに再利用されています。夕暮れ時には、石造倉庫群がライトアップされ、昼間とは違った雰囲気を演出します
    中央橋と隣の浅草橋の間の運河沿いが「運河散策路」になっています。

  • 浅草橋。日銀通りを山側に進むと、明治6年に創建された浅草観音寺(通称、浅草寺(あさくさでら))があります。日銀通りは、かつて浅草通りと呼ばれており、この通と運河が交差するところを浅草橋と呼んだのが由来です。<br />因みに、浅草寺には、小樽市指定有形文化財の木造聖観音立像が安置されており、事前に予約をすれば拝観も可能らしいので、次の機会には拝観したいものです。

    浅草橋。日銀通りを山側に進むと、明治6年に創建された浅草観音寺(通称、浅草寺(あさくさでら))があります。日銀通りは、かつて浅草通りと呼ばれており、この通と運河が交差するところを浅草橋と呼んだのが由来です。
    因みに、浅草寺には、小樽市指定有形文化財の木造聖観音立像が安置されており、事前に予約をすれば拝観も可能らしいので、次の機会には拝観したいものです。

  • レンガ壁には、小樽運河の歴史を解説した長さ12mのレリーフがありました。

    レンガ壁には、小樽運河の歴史を解説した長さ12mのレリーフがありました。

  • 小樽運河の歴史を解説したレリーフ。

    小樽運河の歴史を解説したレリーフ。

  • 小樽運河の歴史を解説したレリーフ。

    小樽運河の歴史を解説したレリーフ。

  • 小樽運河の歴史を解説したレリーフ。

    小樽運河の歴史を解説したレリーフ。

  • 旧小樽倉庫(旧小樽倉庫本社)。<br />明治23~27年(1890年~1894年)に造られた木骨煉瓦造2階建の倉庫です。右奥の倉庫が最初の建設で、増築を重ねて中庭を囲む大倉庫となりました。現在は、北側を市博物館、南側を運河プラザに活用し、公開されています。<br />よろしければ小樽市総合博物館運河館を訪れた際の旅行記(藻岩山の旅行記と同じ)もご覧ください。<br />https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11343381/

    旧小樽倉庫(旧小樽倉庫本社)。
    明治23~27年(1890年~1894年)に造られた木骨煉瓦造2階建の倉庫です。右奥の倉庫が最初の建設で、増築を重ねて中庭を囲む大倉庫となりました。現在は、北側を市博物館、南側を運河プラザに活用し、公開されています。
    よろしければ小樽市総合博物館運河館を訪れた際の旅行記(藻岩山の旅行記と同じ)もご覧ください。
    https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11343381/

  • 小樽メモリアルプロムナード。

    小樽メモリアルプロムナード。

  • 小樽メモリアルプロムナード・歌詞プレート 第1号「小樽のひとよ」。<br />まとまりありませんでしたが、最後までお読みいただきましてありがとうございました。<br />

    小樽メモリアルプロムナード・歌詞プレート 第1号「小樽のひとよ」。
    まとまりありませんでしたが、最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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