2022/11/12 - 2022/11/12
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長崎出張の最終日、仕事を終えているので、すでにただの観光旅行です。
池島から船とバスを乗り継いで長崎駅前に戻りました。この日は元々ノープランだったので、昼食を食べてから街歩きをしました。一昨日に長崎歴史文化博物館で観た黄檗宗の寺院を拝観することにして、寺町通りを歩いたり、めがね橋を渡ったりしました。
徳川幕府のキリスト教禁教令により、キリスト教徒による支配から脱却した長崎では、長崎に居留していた華橋が力をつけていきました。
寺請制度が成立すると、華僑の菩提寺が必要となり、寛永元年(1624年)に江蘇省および浙江省出身の華僑により興福寺が創建されました。
寛永5年(1628年)に福建省でも泉州と漳州出身の華僑により福済寺が創建され、翌年には福州出身の華僑が中心となって崇福寺を開きました。
いずれも特定の宗派には属していませんでしたが、承応3年(1654年)に隠元隆琦禅師が多くの弟子を連れて来日すると臨済宗黄檗派(後の黄檗宗)の寺院となりました。
それにしてもこの日は暑かった。土産に買ったTシャツ1枚で歩いていても汗が出ました。4日間とも天気が良くて、長崎の晴れを満喫しました。
1日目
自宅→成田空港→長崎空港→長崎駅と移動して、市内で仕事をしました。
2日目
午前中に長崎市三社参りをして、午後は仕事をしました。ホテルに戻った後、歩いて行ける長崎歴史文化博物館を見学しました。
3日目
長崎バスとさいかい交通のバスを乗り継いで神の浦(こうのうら)港へ、フェリーに乗って池島へ渡り、池島炭鉱廃墟と猫の島で一夜を過ごしました。
4日目
池島から船とバスを乗り継いで長崎駅前に戻りました。寺町通りを歩いて興福寺へ、めがね橋から崇福寺へ坂を登り、長崎観光を終えました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- JALグループ 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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池島から戻る途中、平和公園でバスを降りようかとも思いましたが、ウトウトしてる間に長崎駅に到着しました。そのまま諏訪神社駅まで移動、お昼を食べることにしました。
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一昨日のご飯が美味しかったので、浜康にて昼食です。今回は12時前なので、待ち時間ゼロでした。
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お店の名前が付いている浜康定食(¥880)をいただきました。刺身のほかに焼き魚が付いています。美味しく完食しました。
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中島川に架かる阿弥陀橋を渡ります。
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寺町通りを南へ歩きます。
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河東山 禅林寺の入り口です。
正保元年(1644年)、長崎奉行所で書物改の任に功績のあった石峯租芳が創建した臨済宗妙心寺派のお寺です。
天保10年(1839年)6月に伏見宮家より祈願所に指定されました。墓地には、蘭学者吉雄耕牛、水戸御殿医柴田方庵、長崎南画木下逸雲、天文地理学者島谷市左右衛門の墓があります。
また、予約制で禅門古来の精進料理をいただけるそうです。 -
龍馬通りの石碑。
別名「龍馬通りの坂」と呼ばれ、坂上には日本最初の総合商社といわれる「亀山社中」の跡があり、現在は長崎市亀山社中記念館があります。 -
東林山 深崇寺の山門です。
元和元年(1615年)に僧・浄慶が創建した浄土真宗本願寺派のお寺です。
寺町に現存する最も古い寺院です。 -
山門の前に親鸞聖人像。
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亀山社中への道。坂の上で、先ほどの龍馬の道と繋がっています。
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萬年山 比経院 三宝寺の山門です。
元和9年(1623年)僧・転誉が長州萩から阿弥陀如来像を背負って長崎に来て、長崎奉行長谷川権六の助力で堂宇を建立したことが始まりです。 浄土宗。
山門は元長崎代官屋敷の表門を移築したといわれ総欅造りの重厚な門です。
地元では、三宝寺には風邪や喘息を治す「コンコン婆さんがいる」といわれており、風邪シーズンになると多くの参拝者がやって来ます。 -
苔生した石垣。この辺りは城の石垣のような壁が続いていました。
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東雲山 浄安寺。
寛永元年(1624年)に唐津の僧・誓誉が草庵を結び開蒼庵としたことに始まり、後に浄安寺となりました。浄土宗。
聖徳太子8歳の時の作と伝わる薬師如来像が祀られています。
また、山門は二層になっていて、上層に梵鐘があります。 -
東明山 興福寺の山門です。
通称「あか寺」と呼ばれる総朱丹塗りの山門(県有形文化財)ですが、逆光のため良くわかりませんね。
山門は、承応3年(1654年)、隠元禅師の長崎滞在中に集められた多大な寄進で建てられました。しかし、9年後の長崎大火で寺が全焼し、現在の山門は元禄3年(1690年)に和風様式を基調として再建されました。
原爆で大破しましたが、その後復元した姿です。 -
門には隠元禅師様を描いた大きな布が掛けられていました。
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山門の右には、不許葷酒入山門の石碑。
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山門の左には、長崎四国八十八ケ所第78番霊場と書かれた小さなお堂がありました。
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山門に掛けられた東明山の扁額。隠元禅師の御書です。
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初登宝地の額が掲げられています。隠元禅師の御書です。
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斎藤茂吉の歌碑。
長崎の
昼しづかなる
唐寺や
思ひいづれば
白き
さるすべりの花
山門を入ってすぐにあります。
斎藤茂吉は、大正6年(1917年)の1月から3年3ヶ月間に渡り官立長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)の教授を務めていました。茂吉を訪ねて与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめ北原白秋、若山牧水、木下杢太郎、吉井勇などが長崎に来ています。
与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎はちょうど10年前にも長崎を訪れていました。後に「五足の靴」を発表。 -
隠元禅師像。
福建省福州出身の僧・隠元隆琦(いんげん りゅうき)は、度重なる日本から招聘に応え、鄭成功が仕立てた船に乗り、承応3年(1654年)7月5日の夜に長崎へ来港しました。
隠元禅師は興福寺に入り、明禅の新風と隠元禅師の高徳を慕う人々が押し寄せました。翌年、崇福寺に移りましたが、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に入りました。
そのとき、隠元禅師の一行が持ってきたものには、隠元豆、スイカ、蓮根、孟宗竹(たけのこ)などがありました。
当初3年間の約束で来日しましたが、4代将軍・徳川家綱公と会見した結果、万治3年(1660年)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、母国の寺と同名の黄檗山萬福寺を開創しました。寛文3年(1663年)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行いました。
黄檗山萬福寺は、JR奈良線黄檗駅から徒歩4分。 -
有馬朗人の句碑。
長崎の
坂動き出す
三日かな
有馬朗人氏は原子物理学者として国際的に活躍するとともに俳誌「天為」を主宰し、文部大臣も務めました。
平成11年1月31日建立。 -
瓶。説明板が真っ白でした。
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森澄雄の句碑。
山門は
隠元自筆
鳥雲に
長崎育ちの森澄雄氏は俳誌「杉」を主宰し、平成17年に文化功労賞を受賞しました。翌年、その記念として建立。 -
興福寺の境内です。
正面に大雄宝殿(本堂)、明治16年(1883年)再建の国指定重要文化財です。
左手に鐘鼓楼が建ち、さらにその奥に媽祖堂が建っています。向かって右には庫裏があります。 -
大雄宝殿(本堂)。
中国人工匠による中国様式の建築です。中国南方建築の代表作とされ、明治時代の建築ながら、戦前は国宝に指定されていました。 -
堂外の正面高くに隠元禅師御筆の「大雄宝殿」の扁額を掲げています。
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大雄宝殿の入り口は折り扉になっていて、堂内を拝見できるようになっています。
堂内には上海より運ばれた瑠璃燈(市有形文化財)が高く懸けられています。
高さ2.18m、経1.31mの瑠璃燈の周囲には紙や絹ではなく、ガラスを使用した精緻な作りとなっています。 -
堂内は撮影禁止ですが、離れた位置からは写真もOKでした。
正面の壇上に御本尊の釈迦如来像、脇立は準提観音菩薩像と地蔵王菩薩像を祀っています。 -
韋駄天立像のおおきなパネルが立てられていました。
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氷裂式組子の丸窓。
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氷裂式組子の丸窓。
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鐘鼓楼(県有形文化財)。
長崎大火の後、元禄4年(1691年)に5代悦峰禅師が再建しました。
和風様式で建てられ、上階には梵鐘を吊り、太鼓を置いています。音を拡散させるため、丸い花頭窓を四方に配置しています。梵鐘は戦時供出され、それ以後はありませんでした。 -
現在、1階に世界和平鐘が吊されていますが、令和3年(2021年)に隠元禅師の渡日400年を記念して中国福建省から贈られた鐘です。直径約1.2m、重量2.5トンです。
大変有り難いことですが、同じ鐘を習主席にも贈りたいものです。 -
媽姐堂(県有形文化財)。
媽姐信仰は、中国の宋代に実在した官吏(漁夫とも)の娘・黙娘がモデルとされる媽姐(道教の女神)様を崇めるものです。
媽姐様は、長崎貿易が盛んだった清の時代に「天后」の位が贈られ、孔子、関帝と同列に扱われていました。天后聖母などとも呼ばれ、航海の守護神とされています。 -
海天司命の横額。
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媽姐堂の内部。こちらも撮影禁止。
中央に媽姐像を配置、その前には先達を務める二鬼神がいます。大きな耳を持つ「順風耳」は千里先の風向きを予知し、三つの目を持つ「千里眼」は千里先を見通して媽姐様を守ると云われます。
長崎へ来航する唐船には必ず媽姐像が祀られ、停泊中は、船から揚げて唐寺の媽姐堂に安置したといいます。 -
旧唐人屋敷門(長崎市所有、国指定重要文化財)。
鐘鼓楼と媽姐堂の間、敷地の壁際に建っています。
元禄2年(1689年)に市内に散宿していた中国人を十善寺郷(現在の館内町)に集めました。約一万坪の敷地内には住宅、店舗、祀堂などが軒を連ねていました。
この門は当時の遺構として唯一残るものです。昭和35年、保存のため興福寺境内に移築復元しました。扉は二重で内門は貴人来臨専用、中国特産の広葉杉が使われています。 -
魚板(鰍魚(けつぎょ))。
庫裡の入口に吊された巨大な魚形の板で、お坊さんに食事の時間を知らせるときに叩きました。口にふくむ玉は欲望を表わし、これを叩いて吐き出させるという意味があります。この魚板は日本一美しいとの定評があるらしいのですが、裏の面を見せています。 -
魚板。
すこし小振りの魚板は雌で、雄雌一対で懸けられるのは大変珍しいようです。
左向きが表なので、これも裏の面です。 -
庫裏に貼ってあった往時の境内図です。
ガラスの反射が酷いのですが、とても大きな寺院だったことが想像できます。 -
三江会所門(さんこうかいしょもん)、県指定有形文化財。
三江とは揚子江下流地方の江南、浙江、江西のことで、興福寺はこの地域出身者の菩提寺でした。
明治13年(1881年)、興福寺の境内に集会場として三江会所を設けました。原爆により大破し、この門だけが残りました。
敷居が高く、これは豚などが門内に入らないよう工夫した「豚返し」と呼ぶ中国様式となっています。 -
黄檗宗祖隠元禅師東渡三百五十周年記念碑。
平成16年(2004年)、黄檗宗西日本協議会が隠元禅師の御筆を記念碑として建立しました。この記念碑には
鳥唱千林暁
慧日正東明
花開萬国春
と刻まれています。
中国福健省産で現地石工により制作し、興福寺に運ばれました。 -
虚子・藺花の句碑。
俳諧の
月の奉行や
今も尚
昭和29年(1954年)、俳人向井去来の250年忌が長崎で行われ、高浜虚子は、秋に死去した去来を「月の奉行」と偲んでいます。
鍬先藺花は長崎俳壇のリーダーだった人です。5年後に句碑を建立。 -
中島聖堂遺構大学門(長崎市所有)、県有形文化財。
長崎聖堂は、東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともに日本三聖堂のひとつとされていました。長年、中島川のほとりにありましたが廃滅、昭和34年に保存のため興福寺境内にに移築しました。 -
中島聖堂遺構大学門に掲げられた扁額。
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大学門の奥に小さなお堂がありました。
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お堂にはお位牌が祀られていました。
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まっすぐ崇福寺へ向かうつもりでしたが、お天気が良いので、興福寺の向かいの小道を中島川に向かって下りて行きます。
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一覧橋。
中島川石橋群の第六橋。1982年の長崎大水害で流され、現在はコンクリート製のアーチ橋です。 -
東新橋。
中島川にかかる橋の中では、最も高い橋桁です。 -
黙子如定禅師像(もくす にょじょう)。
寛永9年(1632年)に来日し興福寺第二代住持となり、本堂、諸堂伽藍、山門を建造しました。寛永11年には、興福寺の参道を横切る中島川に長さ23m、幅4.5mのアーチ型の石橋である眼鏡橋を架設しました。 -
眼鏡橋。
古くより寛永11年の築造と云われていますが、記録が焼失しているため異説もあります。ただ、初期の石造りアーチ橋であり、大変貴重です。 -
これは屋台で売ってたアイスクリーム。
とても暑い日で、繁盛していました。 -
中島川石橋群 周辺案内図。
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中島川の渡り石。
その奥に眼鏡橋。 -
眼鏡橋。川面も穏やかで、眼鏡に見えました。
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眼鏡橋。
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これもハート石かな
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中島川を渡る仲良し家族。
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電車レストラン きつちんせいじ。
本物の路面電車を使った外観で知られ、トルコライスの人気店としても愛されていましたが、平成29年(2017年)12月30日に閉店。「みんなのおかげで51年も続けられた」と店主の弁。今も閉店の看板が出たままでした。 -
美術・絵画教室 indies art club。獣の皮が干してありましたよ
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大谷山 大光寺。浄土真宗本願寺派のお寺です。
慶長19年(1614年)、龍造寺家一族の僧・三浦慶了が開創。御本尊は阿弥陀如来です。 -
山門から覗くと、親鸞聖人の修行僧姿が見えます。
慶安2年(1649年)、二代住持・西詠のとき西本願寺の別院に昇格、万治3年(1660年)現在地に移りました。 -
崇福寺 三門(楼門)、国指定重要文化財です。
中島川からはかなり坂を上ってきました。
中央と左右脇門の三つの門戸があるから三門。 -
嘉永2年(1849年)、龍宮門と呼ばれる様式で再建されました。一見中国的な門ですが、大串五郎平を棟梁とする日本人工匠による築造です。
基部は石の練り積み漆喰塗り。これに屋根を架し、その上に入母屋(いりもや)屋根の上層をのせ、勾欄(こうらん)をめぐらした楼門形式で、左右脇門は漆喰塗基部に瓦屋根をのせています(長崎市HPより)。 -
三門前に唐獅子。
狛犬かと思いましたが、唐寺なので中国製の獅子が置かれています。
阿形ではなく、向かって右は、子獅子と戯れてる雌獅子です。 -
向かって左には、毬を抱えてる雄獅子を置く決まりになっています。
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不許葷酒入山門の碑。
これには、山門と刻まれています。 -
門扉にはめ込まれた獣の顔、これは獣環(じゅうかん)と言う装飾品で、中国では一般的ですが、日本では崇福寺三門が唯一のものです。
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ただし、以前盗難に遭ったことから(後に返還)、本物は寺に保存してあり、レプリカを嵌めているとのことです。レプリカでも貴重なものです。
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三門を潜り、第一峰門へ向かう石段です。この上に小広場があり、石碑などがありました。
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松本無存の歌碑。
ながさきの
崇福禅寺の
うらぼん會
在日華僑
ここに集へる
長崎に住んだお坊さんのようです。 -
薛春花先生之胸像 岸信介書とあります。薛春花先生とは、明治から昭和にかけて長崎で活躍した華僑の方で、同胞を経済的に支援した人物です。
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参道途中には観音堂がありました。
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この石碑は何かわかりませんでした。
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崇福寺 第一峰門(国宝)。
扁額には「第一峰」と記され、門の名前になっています。当初は崇福寺の山門でしたが、延宝元年(1673年)に新たに(倒壊する前の)三門が建立され、二の門となりました。 -
黄檗宗(おうばくしゅう)では、門から大雄宝殿などへの軸線が魔除けのために直線的にならないよう配置されます。
崇福寺においても、第一峰門を潜ると、右に折れ、伽藍が置かれています。 -
扁額には第一峰とあり、隠元禅師の高弟だった即非如一禅師の筆です。黄檗三筆の1人です。軒下には手の込んだ細工と吉祥紋様があります。
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参拝したあとに金紙を燃やして祈願する金炉。
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大雄宝殿(国宝)。
寛永6年(1629年) 、長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から僧・超然を招聘して創建しました。
当初は中国建築様式の単層屋根でしたが、延宝天和の頃、和様式を基調とする上層部を増築しました。 -
崇福寺大雄宝殿(本堂)。
釈迦(大雄)を本尊とする大雄宝殿は、中国で切組み、長崎に唐船で運びました。
正保3年(1646年)に建立された大雄宝殿は、現存する長崎市内最古の建造物です。 -
釈迦三尊像。県指定有形文化財。
中央に釈迦如来坐像、左に阿難尊者、右に迦葉尊者を配しています。1653年作。
1935年頃の仏像修理の際、仏像の胎内から銀製の五臓と布製の六腑が発見されました。金属製の五臓は国内唯一です。 -
崇福寺媽姐門。国指定重要文化財。
媽祖堂の前にあり、大雄宝殿と方丈(ほうじょう)玄関をつなぐ配置となっています。
現在の媽姐門は文政10年(1827年)に再建されました。 -
魚板、天保2年(1831年)の作。
木魚の原形と伝わる開梆(かいぱん)は、黄檗宗から広まりました。
こちらの魚板は、表の面を見せています。 -
崇福寺の媽姐堂、(県指定史跡)。
寛政6年(1794年)に再建された建物で、基壇上の勾欄(こうらん)、前廊の黄檗(おうばく)天井、半扉(はんとびら)など黄檗様式ながら、細部は和様式です。
媽姐門と媽姐堂の二つが現存する唯一の寺院です。 -
中央に媽姐像、その手前向かって左には千里眼像、右に順風耳像がいます。
千里眼と順風耳は、悪神でしたが、媽姐様によって改心させられました。 -
媽姐像。
-
大釜。市指定有形文化財。
天和2年(1682年)4月に鋳造。長崎市HPによると、直径1.86m、深さ1.70m、重さ1.2トン。
釜の廻りに「聖寿山崇福禅寺施粥巨鍋天和貳年壬戌仲春望後日」の銘があります。 -
鐘鼓楼。
享保13年(1728年)再建。重層の上階には梵鐘を吊り、太鼓を置いています。
創建時の鐘鼓楼は八角または六角の重層建物だったようです。 -
崇福寺の梵鐘(県指定有形文化財)。
-
崇福寺護法堂。国指定重要文化財。
大雄宝殿と対面する配置で、享保16年(1731年)建立。
本来はそれぞれに祀られるものですが敷地の制限により、一つの堂となったようです。向かって右から関帝堂、観音堂、天王殿といい、堂内の扁額「護法蔵」に因み護法堂と名付けられました。 -
関帝堂の関羽像。
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観音堂の観音像。
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天王殿の韋駄天像。
釈迦尊が入滅のとき、その遺骨を奪った鬼を追いかけたのが韋駄天です。遺骨を取り戻し、今も大雄宝殿(本堂)内の釈迦尊像を見守っています。 -
大雄宝殿の真裏には開山堂がありました。
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拝観を終えて、崇福寺駅に来ました。長崎電気軌道の終着駅の一つです。
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崇福寺駅の車止め。単線ホームです。
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路線は複線ですが、駅構内は単線ホームのため、駅の寸前に分岐があります。
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長崎駅前から空港行きのバスに乗り、長崎空港に到着しました。空港内で「北方領土返還運動」巡回パネル展を開催していました。
こういう企画は、巡回ではなく日本の全ての空港で常時開催してほしいものです。 -
「北方領土返還運動」巡回パネル展をじっくり見ていたのは私だけでした。
-
帰りは日本航空のJA614です。
-
JALのチェックインカウンターで尋ねたら、空弁OKということでしたが、隣席の人からはあからさまに嫌がられてしまいました。勿論、CAさんからの注意はありませんでした。
充実の4日間でした。やっぱり、旅はいいなぁ。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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