長崎市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
《2022.October》あみんちゅなにげに九州街歩きの旅佐賀長崎その五~長崎の歴史を巡る編~<br /><br />お世話になったビジネスホテルニューポートを後にして、一路小菅修船場跡へと向かう。長崎市街から向かうと確かにわかりにくく入り辛い場所であった。実はこの場所を見たのは2回目であり、前回は5年前の軍艦島ツアーの船上からであった。この小菅修船場跡だが引用するものによっては駐車場が有・なしとニ通りの書き方がされている。真実はどうなのかと問われると確証はないが、スペースはあるとだけは言えるだろう。勿論社用地と言われればそうかも知れないので断言はできないが、取り敢えず車を停めて足早に見学を済ませる。どうやら修学旅行の自由行動に於ける立ち寄り地のひとつになっている様で先生と思しき方が、学生待ちをしていた様だ。<br /><br />見学する価値はある場所でも海側からの景色は見えないために、見える角度からは全て網羅してから出発した。この後は風頭山界隈の坂本龍馬ゆかりの地へと向かおうとするのだが、この道が大変わかり辛いものとなっている。ナビに表示される道が工事中通行止めなのだが、カーナビ・スマホナビ共々その表示は出ず、おまけに迂回路も出てこない。ナビの地図を見ながら切り込むルートを探すがなかなか見当たらず、適当に走った狭窄路でなんとか到着出来たものの時間をかなりロスすることになってしまった。<br /><br />坂本龍馬にはタイトなファンが多いと聞く。確かに幕末を走り抜けた維新の功労者ではあるが、その手段はグラバーから武器を購入したりと国内に於ける〝内戦〟を惹き起こす原因を作った様に思えて仕方がないのが私の考えだ。同僚に意見を求めたところ、大河ドラマ〝龍馬伝〟で福山雅治が演じたからだよ~と一言いわれ納得する。道なりに歩くと最初に〝勤皇稲荷〟とも言われる若宮稲荷へと立ち寄ることになる。創建は江戸時代とされ町役人であった若杉喜三太が寛文12(1673)年に自邸に祀っていた稲荷大神を伊良林の地に移し、社殿を創建したといわれている。その後享保21(1736)年に長崎奉行であった〝細井因幡守安明〟が新たに参道を開通させて神殿を改築し、以後歴代長崎奉行に崇敬され鎮守の神として親しまれて本日に至っている。ご祭神の〝稲荷大神〟はあの軍神楠木正成の守護神と言われていることから、坂本龍馬をはじめとする幕末の勤皇志士達が参拝していたという社伝にも頷ける。<br /><br />今回は参道の石段を通って来なかったために約70とも言われる〝朱色の鳥居〟は見なかったが、この若宮稲荷拝殿横には風頭山公園にある〝坂本龍馬像〟のオリジナルがある。元来亀山社中跡にあったものを平成17(2009)年に亀山社中の一層の発展を願って制作者山崎和國氏から寄贈されたものと書かれていた。この経緯はどの様なことがあったのかはわからないが、やはり翌年の大河ドラマ〝龍馬伝〟に起因することはほぼ間違いないであろう。主役が長崎出身の福山雅治だということを踏まえると、影響もあって当然だと考えても異論はないと思われる。当時の私は歴史は好きだが、ドラマの展開に影響を受けることもなく、漠然と古代から中世、戦国時代迄しか興味もなかった。今回も今まで訪れていない〝史跡〟という理由からこの界隈を訪れているに過ぎず、坂本龍馬の足跡に拘った訳でもないからだ。とは言え坂本龍馬像の〝原型〟があるならば記録しない訳にも行かない。風頭公園に立つ龍馬像は高さもあり、存在感もあるがその〝大もとの像〟こそが全ての基本になっている訳なので。<br /><br />若宮稲荷の龍馬像の背景には長崎の街並みが広がっている。海の部分は隠れて入るが、稲佐山を始めとする〝展望の名所〟が見えることはやはり素晴らしいのひと言に尽きる。そんな思いを感じながら〝龍馬通り〟を進んで行く。行き着く先は〝龍馬のぶーつ像〟。これも長崎の観光地としての知名度が高い場所ではあるが、日本で最初にブーツを履いた人物が坂本龍馬だと言われることから作られた物だそうだ。青銅製のブーツと船舶の舵輪、それに加えて二曳(にびき)と呼ばれる海援隊旗がワンセットになっている場所である。ここではブーツに足を入れて舵輪を握り、海援隊旗を全て一枚の写真で切り取るのがベストショットとされているが、残念ながら一人旅のセルフショットでは三脚を用いても無理そうだった。こういう場合は人を入れずになんとか写真で切り取ろうとするのだが、これら坂本龍馬所縁の史跡を回るのに専門のガイドがいる様で、そちら絡みの観光客に追いつかれてしまう。沖縄でも然りなのだがあくまで観光客は自分達だけではないと言う意識が欠けている。撮影ポイントを数人で占領されると人が写り込んでしまうために写真すら撮れなくなってしまう。暫く様子を見るが場所を譲る気配は見られなかったので興醒めしてしまい、亀山社中跡の亀山社中記念館を訪問することにした。ここは大きく分けて二つのエリアがある。ひとつは複製品が展示されているエリアでこちらは写真撮影可能なのだが、奥に書簡等の現物が展示されているエリアは撮影禁止となっている。勿論撮影禁止には理由があるので従うが、撮影可能なエリアでも〝触らないで下さい〟と書かれている複製のブーツ等をガイドが〝本当はダメなんだけどね~〟と言いながら連れているグループのメンバーに触らせている。勿論ガイド料を払っているのだからというメリットはあるかも知れないが、目の前でやられると良い気はしない。この辺りのことはガイドのレベルの低さと言われても仕方がないのではと思えて仕方がない。インバウンドの入国が再開されてまだ日が浅いため今はともかく、説明書きを読めない外国人観光客からすれば、目の前で触っているのだからと言う理由に繋がりかねないのではないかと思えて仕方がない。別に〝触るな〟と書かれている物を触りたくなる性分でもないのでスルーしたが、ここでも職権濫用かよと思えてしまい先を急ぐことにした。<br /><br />龍馬通りを歩き風頭公園に向かう。言うまでもなく〝風頭公園坂本龍馬像〟を見に行くためだ。この辺りは〝レンタカー〟利用の観光客には詳細のわからないところで駐車場の有無も曖昧だ。公園内には行先が表示されており迷うこともない。公園の一番標高の高い部分に龍馬像は建立されている。モノが大きいので自撮りも楽々なのだが、撮影し終えて車へと戻ろうとしたところレンタカー会社から電話が入る。なんだろうと思い電話に出ると、実は車を停めた場所が一時貸ではなく月貸しのエリアだということらしい。知らなかったとは言え〝すぐ戻ります~〟と言って来た道を戻る。すみませ~んと謝りながら早々に車を移動させた。この界隈の駐車場は平日と休日で扱いが違ったりとかなり複雑になっている様だ。勘違いとは言え迷惑をかけたのは間違いないので、時間貸しであることを確認してから駐車するに越したことはないだろう。勘違いとは言え最後にバタバタしながら次の目的地を目指すべく出発した。<br /><br />車を走らせながら一服タイムを取るためにセブンイレブン長崎中川町1丁目店に立ち寄る。敷地内にはポストがあり、集配時刻を確認するとまだ来ていない様子だったので、撮影済みネガフィルムの発送を行う。後はいつも通り飲み物を購入して一服してからまた走り出す。向かった先は西坂公園。日本二十六聖人殉教地である。日本二十六聖人とは慶長元(1596)年に豊臣秀吉の命令により長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者のことを指す。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の命令によって処刑が行われた最初のケースとして歴史上にその出来事が記されている。別称として〝二十六聖人の殉教〟・〝聖パウロ三木と仲間たち〟とも呼ばれることもある。<br /><br />天正15(1587)年のバテレン禁止令の後南蛮貿易の実利を重視した秀吉政権の元では、政策上のこととして捉えられていたために〝布教〟は禁止されたものの信仰には言及しないと言う一面があった。その後文禄5(1596)年に起こった〝サン=フェリペ号〟事件での航海長〝デ・オランディア〟による〝スペイン国王が宣教師を世界中に派遣し、布教と共に制服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化しし、而して後その信徒を内応せしめ、兵力を以ってこれを併呑するにあり〟の発言内容に対し〝宣教師が信者を増やすことは我が国をスペイン領とする一過程である〟と捉えた奉行増田長盛からの報告により、秀吉は大規模なキリスト教の弾圧に踏み切ったとされている。慶長元(1596)年に再び〝禁教令〟が出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、及び日本人信徒20人が捕らえられ、市中引き回しの後彼ら長崎に護送されることとなる。そして慶長2(1597)年2月5日、西坂の丘で磔の刑に処された。この殉教者達はその後日本でいう江戸時代後期の文久2(1862)年にカトリック教会によって聖人の列に加えられて〝日本二十六聖人殉教者〟として2月5日に祝われている。刑死した26人は日本人(20名)・スペイン人(4名)・メキシコ人(1名)・ポルトガル人(1名)という内訳だったことが記録されている。<br /><br />この西坂の丘が選ばれた理由にイエス・キリストが磔に処された〝ゴルゴタの丘〟に似ているという逸話がある。処刑された信者は64歳の聖ディエゴ喜斎から12歳のルドビコ茨木迄と年端もいかない子供までが殉教している。殉教者の宗派内訳はフランシスコ会会員21+1名、イエズス会会員3+1名とされているが、それぞれ1名づつが捕縛名簿以外に自らが申し出て殉教者となっている。また2名が処刑前に誓願を立ててイエズス会派となっているため、最終的にはフランシスコ会派20名、イエズス会派6名とされている。このキリスト教信者捕縛はサン=フェリペ号事件に端を発する見解が多いことは先述したが、それに加えて秀吉が天正年間に出したバテレン禁止令の下で、布教に消極的だったことに対し、フランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると捉えられたことが決定的になった。そんな中で京都奉行石田三成がどの様な判断基準で選んだかという理由は残されてはいない。一説には〝影響力の高い者〟〝見せしめになる者〟等ということも散見するが定かでない。その後もキリシタン迫害は続き、島原の乱が〝キリシタン一揆〟と解釈されてからは表舞台でキリスト教信者であることは隠す〝隠れキリシタン〟という立場を通さなければならない時代が明治維新後まで続くこととなった。しかしこの二十六聖人は寛永4(1627)年にカトリック教会より列福を、文久2(1862)年には列聖を受けて日本人関係では初の聖人として認められている。その後聖人に列されて100年後の昭和37(1962)年には、処刑地となった西坂の丘に公園が設けられると共に記念碑〝昇天のいのり〟が造られた。作者は舟越保武氏。26名の昇天の姿が刻まれており、その裏には京都から長崎までの彼らの祈りの道のりを示すレリーフがある。そして日本二十六聖人記念館と、日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会が作られ、日本二十六聖人の殉教が一般的にも知られるものとなる。また観光地として有名な〝大浦天主堂〟の正式名称は〝日本二十六聖殉教者聖堂〟であり、創建時よりそう呼ばれている。そう考えれば5年前にふと大浦天主堂には立ち寄ったが、そんな謂れがあることを全く知らなかった私が恥ずかしい・・・。<br /><br />また〝昇天のいのり〟前には〝カトリックの歴史〟という日時が書かれている。列聖・信徒発見等の日付だが、平面から見ても一覧することはできない。カメラで切り取っても同様でこれは現地に行って自分の目で確かめるしかないものだ。<br /><br />色々なことを考えながら二十六聖人記念館へと向かう。入口にも多くの展示品があるが時間的な都合もあり、一部カメラに収めて後で振り返るようにしたものもある。記念館は二階建てで10のZONEに分けられている。それぞれのエリアに〝テーマ〟が設けられており、テーマに沿った展示がなされているというものである。ただパウロ三木の十字架像等大きなものもあり、記念館全体がひとつの〝時間の流れ〟と言っても良いだろう。殉教の地という聖なる場所ではあるが、長崎市街の観光地という側面もある。入館した際はさほど人がいる様子はなかったが、暫くすると修学旅行と思しきJKの集団で混雑し始める。校章から判断するとミッション系の学校の様だが、キャーキャー言う場所でもないため仲間内で話をしている程度だった。引率の先生方も質問に対し〝差し障りのない〟回答をしていた様だ。確かに歴史上の大きな出来事のひとつであることなので、先生ともなると自分自身の知識と解釈をついつい言ってしまいそうだが、そこは生徒自身の判断に委ねているように見え好感は持てた。ただやはりこのご時世〝密〟になると間合いを取りたくなる私なので、一通り見学をして記念館を後にすることにした。<br /><br />西坂公園隣には日本二十六聖人記念聖堂〝聖フィリッポ教会〟がある。殉教者との繋がりは承知しているが、時間的なことを考えて次回の訪問予定地として次の目的地を目指すことにする。<br /><br />山王神社の二の鳥居、通称一本足鳥居は昨晩も訪れたため再訪であるが、ここで大きな失態をしでかすこととなる。場所を勘違いしてしまった。この界隈の駐車場は道路を挟んで建物一階部分と屋外駐車場が似たようなレイアウトで存在するために間違ってしまった。その結果数分ではあるが時間のロスと100円を無駄遣いしてしまった。<br /><br />場所を間違えたことに気付くやいなや車に戻って出発する。次は確かな場所に駐車をしたが、1.1kmズレていたことに苦笑する。昨晩と同様にアングルを変えて一本足鳥居を撮影した。現在は階段を上がったところに鳥居があるが、元々一から四の鳥居が繋がっていた様だ。原爆の爆風により三・四の鳥居は全壊し、二の鳥居が現在のように半壊し、影響を受けなかった一の鳥居ではあるが、戦後交通事故により全壊し、現在では跡形もなく撤去されている。倒壊した左半分は近くに横たえる様に置いてあるものの、笠石が動くとか石柱が折れる〝爆風〟のレベルがわからないのである。勿論被爆体験がなければ想像できるものではないにしろ〝持続的〟に力が加わって〝捥げる〟というものではないこと位は理解できる。想像を絶する力が瞬時に加わったから〝折れた〟のであるならばその力は・・・となることが当たり前である。一昔前迄は被爆体験を持つ語り部の方々の貴重な体験を直接聞かなければわからなかったことではあるが、現在では色々な媒体を介し、その凄まじさを知ることができることを有り難いと私は思っている。戦後77年が過ぎ語り部の方々の高齢化は否めない。私自身も機会があればその体験談を直に聞いて、自分なりの〝核廃絶論〟をまとめてみたいものだと改めて思った瞬間であった。<br /><br />昨晩は一本足鳥居迄で戻ったが今日は山王神社迄足をのばす。途中長崎街道が出来るまでは長崎第一の街道であった浦上街道の碑の脇を通る。大阪から西坂迄裸足で歩かされた日本二十六聖人もここを通って行ったそうだ。その浦上街道沿いに山王神社は鎮座する。入口にはこの界隈の地名である〝坂本町〟の町民原子爆弾殉難之碑がある。そのすぐ隣りが山王神社となるが、境内の大きな2本のクスノキが目を引く。樹齢4~500年と言われるクスノキは昭和20(1945)年8月9日の長崎原爆の爆風を爆心地から800mという距離で被爆し、枝葉は失われ幹も焼かれ黒焦げ同然となった。原爆投下後に立ち枯れた姿が写真に残っている。しかし奇跡的に樹勢を盛り返し、大小の支幹から枝を張り出して東西40m、南北25mに及ぶ樹冠を形成し、今日でも豊かな緑を湛えている。そんな大クスの木であるが平成18(2006)年の台風被害によって枝が折れたために樹木医による治療を受けた際、幹の中に新たな空洞が見つかり洞内から被爆当時のものと見られる表面が焼けた石や瓦礫などが見つかった。この遺物は空洞内に残っており幹の横に備えられた階段を上って見ることができる。被爆樹木としては勿論のこと、多数の石や瓦礫が洞内に残りながら復活を遂げた〝生命力の強さ〟を訪れる参拝者に投げかけているように感じた。<br /><br />しばらく境内をブラついているとまた修学旅行勢がやって来た。今度は小学生のグループである。ガイドさんの説明付きで被爆クスノキを眺めているため、暫くクスノキ周辺には入れそうになさそうだ。もう少しクスノキを眺めようかと考えていたのだが、これだけは仕方がない。諦めて車へと戻ることにした。<br /><br />歩いた方が早いらしいが車まで往復しなければならないことを考え、車移動を選択する。向かった先は長崎大学医学部。昨晩も訪れた旧長崎医科大学門柱だが正攻法の車での行き方は、大学内駐車場を利用することを知る。守衛室で門柱を訪れたい旨を申告する。大学に用事のない私のような者にはあまり長い時間駐車して欲しくないようで〝30分〟という制限時間を伝えられる。旧六医科大学のひとつである長崎医科大学。歴史は古く幕末の長崎海軍伝習所でオランダの軍医ポンペが医学を教え始めた時に端を発する。シーポルトも少なからず影響があるようで、顕彰碑がキャンパスに置かれていた。<br /><br />校内を歩くこと少し、現在では長崎大学医学部通用門となっている場所に被爆した門柱がある。原爆が1平方センチメートルあたり1kgの風圧だったとするデータを導き出したものがこの医大の門柱である。山の陰となり影響のなかった向かって右側の門柱に対し、左側のものは9cmも前にずれ、最大16cmの隙間が台座との間に出来たという。長崎医大で850人以上の被爆による死者があったことが、門柱横に嵌め込まれている大理石に刻まれていた。門柱奥には千羽鶴を納める場所もあり、他の被爆遺構同様多くの犠牲者が出た場所であることを訪れた者達に伝えるような雰囲気を醸し出していた。<br /><br />昨晩に引き続いて手を合わせてから車に戻る。ゆっくりしたいところだがそうも言っていられなくなってきた。次に訪れたのは浦上天主堂旧鐘楼、通称アンジェラスの鐘である。原爆の爆風により55tもの鐘楼が天主堂北方30mの場所迄吹っ飛ばされた。被爆時には川の中にあったそうだが川を整備し、流れをずらすことによって陸地に保存されている。被爆時のままに保存されている旧天主堂本体唯一の遺構であり、長崎市が定めた〝被爆建造物等ランク付け〟の最上位であるAランクとして分類されて現在に至っている。私にとっても長崎の原爆遺構としては〝これ!〟というものでもある。数十年前に修学旅行で長崎を訪れた際に〝唯一〟記憶に残っている建造物だからである。自らの意思で訪問地を決めた訳ではなく〝連れて行かれた感〟が強い場所が続く中で〝何かを感じた〟記憶が残っている。被爆遺構だからではなくアンジェラスの鐘が訴えかける〝何か〟だったのであろう。同じ九州でもライブのために訪れた福岡に次ぐ回数を訪れている長崎ではあるが、純粋に〝観光〟目的で長崎を訪れたのは5年前のことである。しばらく日時は空いていたもののやはり〝何か〟を感じた経験から今回もしっかり立寄地に挙げていた。隣の浦上天主堂は時間の都合で割愛したが、アンジェラスの鐘はしっかりと見る。ハザードを焚いたまま車を停めてカメラに収め、次回も必ず訪れるよと心の中で呟いてすぐに出発する。<br /><br />時間的には空港を目指さなければならないのが残念だ。長崎の父永井隆博士が晩年を過ごした如己堂と永井隆記念館は横を通るが今回は立ち寄れない。そして土産を買うのに旅行支援で得た3,000円のクーポンを使うのに平和記念公園横の和泉屋に立ち寄るが、生憎修学旅行中の小学生とバッティングしてしまい、支払いを済ませるまで時間がかかりそうだったので購入を諦めて出発する。当初は長崎市内でお土産を調達する予定だったのでレンタカーの返車は18:00の予定をしていたので一般道を走る予定だったが、予想外の展開に空港での時間を確保するため高速道路を利用することにする。川平から長崎バイパスを経由して長崎多良見ICを経由し、長崎自動車道を走行する。途中今村パーキングエリアに立ち寄ってお土産を探そうとするものの〝地域振興券〟が使えないことがわかり再出発する。木場SICで一般道に下りてGSを探す。敢えて大村ICまで行かなかったことには訳があり、長崎の〝格安ガソリンスタンド〟リストに載っていたスタンドに立ち寄るためであった。現実論として長崎県内のガソリン価格は日本でも高い部類に入っている。その理由は離島に於けるガソリン価格の均等化のために、本土での価格が転嫁されているとのことだった。ちょっとでも安く上げようと考えたのが間違いの始まりで、わざわざ立ち寄った(有)南西交易MiniMart鈴田SSは〝税別価格〟の安さであった。税込換算では170円/Lと空港付近のGSと8円/L程しか変わらない。おまけに一般道を走る程でいたので、高速道路の利用と今村PAに立ち寄ったことを踏まえると、下りるICも行き過ぎで給油するために戻るルートを取らなければならなかった上に結構道も混んでおり、時間もかかってしまったことを考えるとなんの得にもならなかった。まあ最後の最後につめが甘かったのだが、取り敢えず無事にレンタカー営業所にたどり着き、長崎の足となってくれたmoveクンとお別れし、長崎空港に戻って来たことで一安心する。<br /><br />50時間ぶりに戻って来た長崎空港、先ずはclassJのアップグレードに挑戦する・・・はずだが生憎〝満席〟の表示が出ており諦める。事前にシートアサインした主翼後方の27A席でバゲージを預けて身軽になる。苦手なセキュリティを通過に身体は大丈夫だったが、手荷物のフィルムシールドがX線検査で引っかかる。中身を確認して貰い再検査。無事通過となるが、まさかの未使用フィルムが一本カバンの中にこぼれていた。<br /><br />後は搭乗を待つのみとなり土産を見に行く。自宅用に3,000円は余裕があり、冷凍の皿うどんを買ってみた。なかなかの評判だったのはそれなりの出費だったからでもある。寝不足が続いたのでそれなりに眠いので早めに3番搭乗口へと向かうが、かなり早い筈にも関わらず搭乗待ちの客もいない。みんなやることがないのかと思いつつ自分も機内へと向かう。座席に到着するとシートベルトを締めて景色を眺める。いくら西にある長崎だと言っても19:00前には夜の帷が下りている。そんな中搭乗客も揃ったようで時間前に出発する。照明に照らされた〝長崎空港〟の建物を見ながら、次はいつ来られるかな?なんて思ったりもする。そして離陸、100万ドルの夜景のひとつと言われる〝長崎の夜景〟を眺めながらJ-AIRのE190は一路大阪を目指して飛んで行く。さすがに昼寝もせずに走ったので、睡魔に襲われることも屡々あった。程なくしてドリンクサービスが回ってくるが、猫舌の私が珍しくポークコンソメスープをリクエストする。暖かいものをチョイスしたことは未だかつてないはずだ。そんなことを考えていたらもう着陸態勢に入るとのアナウンスが流れた。明らかに〝都会の照明〟が眼下に見えてくるとそこはもう大阪である。<br /><br />55時間ぶりとなる伊丹空港へと帰って来た。早発早着だったフライトであったが、いつものようにぶらぶらすることもせずリムジンバス乗場に直行する。取り敢えず京都迄はさっさと戻って人混みから解放されたいのであった。中国道の通行止めのために迂回運行してはいるが、遅れることなく京都駅八条口に到着する。〝京都駅〟の表示を見て安心したのか、急にお腹が空いて来た。考えれば素泊まりだったため、朝から何も食べていない。手っ取り早く済ませたいこともあり、バス停横の〝なか卯〟に入る。3日間の旅行に於いて3回の夕食が〝牛丼〟ならばまたネタになりそうだが、今回は麻婆丼にする。<br /><br />お腹も膨れたので駅へと向かいJRを利用する。22:01の新快速は、自宅最寄りの田舎駅に22:14に到着する。田舎駅ではあっても交通の弁は悪くはない。ただその後の〝田舎の赤バス京阪バス〟は利用客の減少から減便されており、平日であれば21:50の次は22:30迄時間が空く。ここを上手く考えなければ結構な〝待ち時間〟を食らうことも珍しくはない。そこは今回計算済みで、いつものファミマでタバコを購入してから一服タイム、それからバス停に向かってちょうど良い時間になる。終バス一本前だがかなり空いている。終わったな~と感じる前にど田舎バス停に到着する。場当たり的に行先を選択した部分もかなりあるが、2年8か月ぶりの飛行機旅は無事終了。明日から仕事か~と現実に引き戻され、今回の旅は無事に終了したのであった。<br /><br />  《終わり》<br /><br />激動の令和4(2022)年もあと僅かとなりました。ツイていた方、ツイていなかった方様々でしょうが、間もなく迎える新年令和5(2023)年が皆様にとって素晴らしい一年になりますよう、南淡海からお祈り申し上げます。<br /><br />令和四年年末 たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。拝

《2022.October》あみんちゅなにげに九州街歩きの旅佐賀長崎その五~長崎の歴史を巡る編~

28いいね!

2022/10/26 - 2022/10/26

825位(同エリア4075件中)

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

この旅行記スケジュールを元に

《2022.October》あみんちゅなにげに九州街歩きの旅佐賀長崎その五~長崎の歴史を巡る編~

お世話になったビジネスホテルニューポートを後にして、一路小菅修船場跡へと向かう。長崎市街から向かうと確かにわかりにくく入り辛い場所であった。実はこの場所を見たのは2回目であり、前回は5年前の軍艦島ツアーの船上からであった。この小菅修船場跡だが引用するものによっては駐車場が有・なしとニ通りの書き方がされている。真実はどうなのかと問われると確証はないが、スペースはあるとだけは言えるだろう。勿論社用地と言われればそうかも知れないので断言はできないが、取り敢えず車を停めて足早に見学を済ませる。どうやら修学旅行の自由行動に於ける立ち寄り地のひとつになっている様で先生と思しき方が、学生待ちをしていた様だ。

見学する価値はある場所でも海側からの景色は見えないために、見える角度からは全て網羅してから出発した。この後は風頭山界隈の坂本龍馬ゆかりの地へと向かおうとするのだが、この道が大変わかり辛いものとなっている。ナビに表示される道が工事中通行止めなのだが、カーナビ・スマホナビ共々その表示は出ず、おまけに迂回路も出てこない。ナビの地図を見ながら切り込むルートを探すがなかなか見当たらず、適当に走った狭窄路でなんとか到着出来たものの時間をかなりロスすることになってしまった。

坂本龍馬にはタイトなファンが多いと聞く。確かに幕末を走り抜けた維新の功労者ではあるが、その手段はグラバーから武器を購入したりと国内に於ける〝内戦〟を惹き起こす原因を作った様に思えて仕方がないのが私の考えだ。同僚に意見を求めたところ、大河ドラマ〝龍馬伝〟で福山雅治が演じたからだよ~と一言いわれ納得する。道なりに歩くと最初に〝勤皇稲荷〟とも言われる若宮稲荷へと立ち寄ることになる。創建は江戸時代とされ町役人であった若杉喜三太が寛文12(1673)年に自邸に祀っていた稲荷大神を伊良林の地に移し、社殿を創建したといわれている。その後享保21(1736)年に長崎奉行であった〝細井因幡守安明〟が新たに参道を開通させて神殿を改築し、以後歴代長崎奉行に崇敬され鎮守の神として親しまれて本日に至っている。ご祭神の〝稲荷大神〟はあの軍神楠木正成の守護神と言われていることから、坂本龍馬をはじめとする幕末の勤皇志士達が参拝していたという社伝にも頷ける。

今回は参道の石段を通って来なかったために約70とも言われる〝朱色の鳥居〟は見なかったが、この若宮稲荷拝殿横には風頭山公園にある〝坂本龍馬像〟のオリジナルがある。元来亀山社中跡にあったものを平成17(2009)年に亀山社中の一層の発展を願って制作者山崎和國氏から寄贈されたものと書かれていた。この経緯はどの様なことがあったのかはわからないが、やはり翌年の大河ドラマ〝龍馬伝〟に起因することはほぼ間違いないであろう。主役が長崎出身の福山雅治だということを踏まえると、影響もあって当然だと考えても異論はないと思われる。当時の私は歴史は好きだが、ドラマの展開に影響を受けることもなく、漠然と古代から中世、戦国時代迄しか興味もなかった。今回も今まで訪れていない〝史跡〟という理由からこの界隈を訪れているに過ぎず、坂本龍馬の足跡に拘った訳でもないからだ。とは言え坂本龍馬像の〝原型〟があるならば記録しない訳にも行かない。風頭公園に立つ龍馬像は高さもあり、存在感もあるがその〝大もとの像〟こそが全ての基本になっている訳なので。

若宮稲荷の龍馬像の背景には長崎の街並みが広がっている。海の部分は隠れて入るが、稲佐山を始めとする〝展望の名所〟が見えることはやはり素晴らしいのひと言に尽きる。そんな思いを感じながら〝龍馬通り〟を進んで行く。行き着く先は〝龍馬のぶーつ像〟。これも長崎の観光地としての知名度が高い場所ではあるが、日本で最初にブーツを履いた人物が坂本龍馬だと言われることから作られた物だそうだ。青銅製のブーツと船舶の舵輪、それに加えて二曳(にびき)と呼ばれる海援隊旗がワンセットになっている場所である。ここではブーツに足を入れて舵輪を握り、海援隊旗を全て一枚の写真で切り取るのがベストショットとされているが、残念ながら一人旅のセルフショットでは三脚を用いても無理そうだった。こういう場合は人を入れずになんとか写真で切り取ろうとするのだが、これら坂本龍馬所縁の史跡を回るのに専門のガイドがいる様で、そちら絡みの観光客に追いつかれてしまう。沖縄でも然りなのだがあくまで観光客は自分達だけではないと言う意識が欠けている。撮影ポイントを数人で占領されると人が写り込んでしまうために写真すら撮れなくなってしまう。暫く様子を見るが場所を譲る気配は見られなかったので興醒めしてしまい、亀山社中跡の亀山社中記念館を訪問することにした。ここは大きく分けて二つのエリアがある。ひとつは複製品が展示されているエリアでこちらは写真撮影可能なのだが、奥に書簡等の現物が展示されているエリアは撮影禁止となっている。勿論撮影禁止には理由があるので従うが、撮影可能なエリアでも〝触らないで下さい〟と書かれている複製のブーツ等をガイドが〝本当はダメなんだけどね~〟と言いながら連れているグループのメンバーに触らせている。勿論ガイド料を払っているのだからというメリットはあるかも知れないが、目の前でやられると良い気はしない。この辺りのことはガイドのレベルの低さと言われても仕方がないのではと思えて仕方がない。インバウンドの入国が再開されてまだ日が浅いため今はともかく、説明書きを読めない外国人観光客からすれば、目の前で触っているのだからと言う理由に繋がりかねないのではないかと思えて仕方がない。別に〝触るな〟と書かれている物を触りたくなる性分でもないのでスルーしたが、ここでも職権濫用かよと思えてしまい先を急ぐことにした。

龍馬通りを歩き風頭公園に向かう。言うまでもなく〝風頭公園坂本龍馬像〟を見に行くためだ。この辺りは〝レンタカー〟利用の観光客には詳細のわからないところで駐車場の有無も曖昧だ。公園内には行先が表示されており迷うこともない。公園の一番標高の高い部分に龍馬像は建立されている。モノが大きいので自撮りも楽々なのだが、撮影し終えて車へと戻ろうとしたところレンタカー会社から電話が入る。なんだろうと思い電話に出ると、実は車を停めた場所が一時貸ではなく月貸しのエリアだということらしい。知らなかったとは言え〝すぐ戻ります~〟と言って来た道を戻る。すみませ~んと謝りながら早々に車を移動させた。この界隈の駐車場は平日と休日で扱いが違ったりとかなり複雑になっている様だ。勘違いとは言え迷惑をかけたのは間違いないので、時間貸しであることを確認してから駐車するに越したことはないだろう。勘違いとは言え最後にバタバタしながら次の目的地を目指すべく出発した。

車を走らせながら一服タイムを取るためにセブンイレブン長崎中川町1丁目店に立ち寄る。敷地内にはポストがあり、集配時刻を確認するとまだ来ていない様子だったので、撮影済みネガフィルムの発送を行う。後はいつも通り飲み物を購入して一服してからまた走り出す。向かった先は西坂公園。日本二十六聖人殉教地である。日本二十六聖人とは慶長元(1596)年に豊臣秀吉の命令により長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者のことを指す。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の命令によって処刑が行われた最初のケースとして歴史上にその出来事が記されている。別称として〝二十六聖人の殉教〟・〝聖パウロ三木と仲間たち〟とも呼ばれることもある。

天正15(1587)年のバテレン禁止令の後南蛮貿易の実利を重視した秀吉政権の元では、政策上のこととして捉えられていたために〝布教〟は禁止されたものの信仰には言及しないと言う一面があった。その後文禄5(1596)年に起こった〝サン=フェリペ号〟事件での航海長〝デ・オランディア〟による〝スペイン国王が宣教師を世界中に派遣し、布教と共に制服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化しし、而して後その信徒を内応せしめ、兵力を以ってこれを併呑するにあり〟の発言内容に対し〝宣教師が信者を増やすことは我が国をスペイン領とする一過程である〟と捉えた奉行増田長盛からの報告により、秀吉は大規模なキリスト教の弾圧に踏み切ったとされている。慶長元(1596)年に再び〝禁教令〟が出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、及び日本人信徒20人が捕らえられ、市中引き回しの後彼ら長崎に護送されることとなる。そして慶長2(1597)年2月5日、西坂の丘で磔の刑に処された。この殉教者達はその後日本でいう江戸時代後期の文久2(1862)年にカトリック教会によって聖人の列に加えられて〝日本二十六聖人殉教者〟として2月5日に祝われている。刑死した26人は日本人(20名)・スペイン人(4名)・メキシコ人(1名)・ポルトガル人(1名)という内訳だったことが記録されている。

この西坂の丘が選ばれた理由にイエス・キリストが磔に処された〝ゴルゴタの丘〟に似ているという逸話がある。処刑された信者は64歳の聖ディエゴ喜斎から12歳のルドビコ茨木迄と年端もいかない子供までが殉教している。殉教者の宗派内訳はフランシスコ会会員21+1名、イエズス会会員3+1名とされているが、それぞれ1名づつが捕縛名簿以外に自らが申し出て殉教者となっている。また2名が処刑前に誓願を立ててイエズス会派となっているため、最終的にはフランシスコ会派20名、イエズス会派6名とされている。このキリスト教信者捕縛はサン=フェリペ号事件に端を発する見解が多いことは先述したが、それに加えて秀吉が天正年間に出したバテレン禁止令の下で、布教に消極的だったことに対し、フランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると捉えられたことが決定的になった。そんな中で京都奉行石田三成がどの様な判断基準で選んだかという理由は残されてはいない。一説には〝影響力の高い者〟〝見せしめになる者〟等ということも散見するが定かでない。その後もキリシタン迫害は続き、島原の乱が〝キリシタン一揆〟と解釈されてからは表舞台でキリスト教信者であることは隠す〝隠れキリシタン〟という立場を通さなければならない時代が明治維新後まで続くこととなった。しかしこの二十六聖人は寛永4(1627)年にカトリック教会より列福を、文久2(1862)年には列聖を受けて日本人関係では初の聖人として認められている。その後聖人に列されて100年後の昭和37(1962)年には、処刑地となった西坂の丘に公園が設けられると共に記念碑〝昇天のいのり〟が造られた。作者は舟越保武氏。26名の昇天の姿が刻まれており、その裏には京都から長崎までの彼らの祈りの道のりを示すレリーフがある。そして日本二十六聖人記念館と、日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会が作られ、日本二十六聖人の殉教が一般的にも知られるものとなる。また観光地として有名な〝大浦天主堂〟の正式名称は〝日本二十六聖殉教者聖堂〟であり、創建時よりそう呼ばれている。そう考えれば5年前にふと大浦天主堂には立ち寄ったが、そんな謂れがあることを全く知らなかった私が恥ずかしい・・・。

また〝昇天のいのり〟前には〝カトリックの歴史〟という日時が書かれている。列聖・信徒発見等の日付だが、平面から見ても一覧することはできない。カメラで切り取っても同様でこれは現地に行って自分の目で確かめるしかないものだ。

色々なことを考えながら二十六聖人記念館へと向かう。入口にも多くの展示品があるが時間的な都合もあり、一部カメラに収めて後で振り返るようにしたものもある。記念館は二階建てで10のZONEに分けられている。それぞれのエリアに〝テーマ〟が設けられており、テーマに沿った展示がなされているというものである。ただパウロ三木の十字架像等大きなものもあり、記念館全体がひとつの〝時間の流れ〟と言っても良いだろう。殉教の地という聖なる場所ではあるが、長崎市街の観光地という側面もある。入館した際はさほど人がいる様子はなかったが、暫くすると修学旅行と思しきJKの集団で混雑し始める。校章から判断するとミッション系の学校の様だが、キャーキャー言う場所でもないため仲間内で話をしている程度だった。引率の先生方も質問に対し〝差し障りのない〟回答をしていた様だ。確かに歴史上の大きな出来事のひとつであることなので、先生ともなると自分自身の知識と解釈をついつい言ってしまいそうだが、そこは生徒自身の判断に委ねているように見え好感は持てた。ただやはりこのご時世〝密〟になると間合いを取りたくなる私なので、一通り見学をして記念館を後にすることにした。

西坂公園隣には日本二十六聖人記念聖堂〝聖フィリッポ教会〟がある。殉教者との繋がりは承知しているが、時間的なことを考えて次回の訪問予定地として次の目的地を目指すことにする。

山王神社の二の鳥居、通称一本足鳥居は昨晩も訪れたため再訪であるが、ここで大きな失態をしでかすこととなる。場所を勘違いしてしまった。この界隈の駐車場は道路を挟んで建物一階部分と屋外駐車場が似たようなレイアウトで存在するために間違ってしまった。その結果数分ではあるが時間のロスと100円を無駄遣いしてしまった。

場所を間違えたことに気付くやいなや車に戻って出発する。次は確かな場所に駐車をしたが、1.1kmズレていたことに苦笑する。昨晩と同様にアングルを変えて一本足鳥居を撮影した。現在は階段を上がったところに鳥居があるが、元々一から四の鳥居が繋がっていた様だ。原爆の爆風により三・四の鳥居は全壊し、二の鳥居が現在のように半壊し、影響を受けなかった一の鳥居ではあるが、戦後交通事故により全壊し、現在では跡形もなく撤去されている。倒壊した左半分は近くに横たえる様に置いてあるものの、笠石が動くとか石柱が折れる〝爆風〟のレベルがわからないのである。勿論被爆体験がなければ想像できるものではないにしろ〝持続的〟に力が加わって〝捥げる〟というものではないこと位は理解できる。想像を絶する力が瞬時に加わったから〝折れた〟のであるならばその力は・・・となることが当たり前である。一昔前迄は被爆体験を持つ語り部の方々の貴重な体験を直接聞かなければわからなかったことではあるが、現在では色々な媒体を介し、その凄まじさを知ることができることを有り難いと私は思っている。戦後77年が過ぎ語り部の方々の高齢化は否めない。私自身も機会があればその体験談を直に聞いて、自分なりの〝核廃絶論〟をまとめてみたいものだと改めて思った瞬間であった。

昨晩は一本足鳥居迄で戻ったが今日は山王神社迄足をのばす。途中長崎街道が出来るまでは長崎第一の街道であった浦上街道の碑の脇を通る。大阪から西坂迄裸足で歩かされた日本二十六聖人もここを通って行ったそうだ。その浦上街道沿いに山王神社は鎮座する。入口にはこの界隈の地名である〝坂本町〟の町民原子爆弾殉難之碑がある。そのすぐ隣りが山王神社となるが、境内の大きな2本のクスノキが目を引く。樹齢4~500年と言われるクスノキは昭和20(1945)年8月9日の長崎原爆の爆風を爆心地から800mという距離で被爆し、枝葉は失われ幹も焼かれ黒焦げ同然となった。原爆投下後に立ち枯れた姿が写真に残っている。しかし奇跡的に樹勢を盛り返し、大小の支幹から枝を張り出して東西40m、南北25mに及ぶ樹冠を形成し、今日でも豊かな緑を湛えている。そんな大クスの木であるが平成18(2006)年の台風被害によって枝が折れたために樹木医による治療を受けた際、幹の中に新たな空洞が見つかり洞内から被爆当時のものと見られる表面が焼けた石や瓦礫などが見つかった。この遺物は空洞内に残っており幹の横に備えられた階段を上って見ることができる。被爆樹木としては勿論のこと、多数の石や瓦礫が洞内に残りながら復活を遂げた〝生命力の強さ〟を訪れる参拝者に投げかけているように感じた。

しばらく境内をブラついているとまた修学旅行勢がやって来た。今度は小学生のグループである。ガイドさんの説明付きで被爆クスノキを眺めているため、暫くクスノキ周辺には入れそうになさそうだ。もう少しクスノキを眺めようかと考えていたのだが、これだけは仕方がない。諦めて車へと戻ることにした。

歩いた方が早いらしいが車まで往復しなければならないことを考え、車移動を選択する。向かった先は長崎大学医学部。昨晩も訪れた旧長崎医科大学門柱だが正攻法の車での行き方は、大学内駐車場を利用することを知る。守衛室で門柱を訪れたい旨を申告する。大学に用事のない私のような者にはあまり長い時間駐車して欲しくないようで〝30分〟という制限時間を伝えられる。旧六医科大学のひとつである長崎医科大学。歴史は古く幕末の長崎海軍伝習所でオランダの軍医ポンペが医学を教え始めた時に端を発する。シーポルトも少なからず影響があるようで、顕彰碑がキャンパスに置かれていた。

校内を歩くこと少し、現在では長崎大学医学部通用門となっている場所に被爆した門柱がある。原爆が1平方センチメートルあたり1kgの風圧だったとするデータを導き出したものがこの医大の門柱である。山の陰となり影響のなかった向かって右側の門柱に対し、左側のものは9cmも前にずれ、最大16cmの隙間が台座との間に出来たという。長崎医大で850人以上の被爆による死者があったことが、門柱横に嵌め込まれている大理石に刻まれていた。門柱奥には千羽鶴を納める場所もあり、他の被爆遺構同様多くの犠牲者が出た場所であることを訪れた者達に伝えるような雰囲気を醸し出していた。

昨晩に引き続いて手を合わせてから車に戻る。ゆっくりしたいところだがそうも言っていられなくなってきた。次に訪れたのは浦上天主堂旧鐘楼、通称アンジェラスの鐘である。原爆の爆風により55tもの鐘楼が天主堂北方30mの場所迄吹っ飛ばされた。被爆時には川の中にあったそうだが川を整備し、流れをずらすことによって陸地に保存されている。被爆時のままに保存されている旧天主堂本体唯一の遺構であり、長崎市が定めた〝被爆建造物等ランク付け〟の最上位であるAランクとして分類されて現在に至っている。私にとっても長崎の原爆遺構としては〝これ!〟というものでもある。数十年前に修学旅行で長崎を訪れた際に〝唯一〟記憶に残っている建造物だからである。自らの意思で訪問地を決めた訳ではなく〝連れて行かれた感〟が強い場所が続く中で〝何かを感じた〟記憶が残っている。被爆遺構だからではなくアンジェラスの鐘が訴えかける〝何か〟だったのであろう。同じ九州でもライブのために訪れた福岡に次ぐ回数を訪れている長崎ではあるが、純粋に〝観光〟目的で長崎を訪れたのは5年前のことである。しばらく日時は空いていたもののやはり〝何か〟を感じた経験から今回もしっかり立寄地に挙げていた。隣の浦上天主堂は時間の都合で割愛したが、アンジェラスの鐘はしっかりと見る。ハザードを焚いたまま車を停めてカメラに収め、次回も必ず訪れるよと心の中で呟いてすぐに出発する。

時間的には空港を目指さなければならないのが残念だ。長崎の父永井隆博士が晩年を過ごした如己堂と永井隆記念館は横を通るが今回は立ち寄れない。そして土産を買うのに旅行支援で得た3,000円のクーポンを使うのに平和記念公園横の和泉屋に立ち寄るが、生憎修学旅行中の小学生とバッティングしてしまい、支払いを済ませるまで時間がかかりそうだったので購入を諦めて出発する。当初は長崎市内でお土産を調達する予定だったのでレンタカーの返車は18:00の予定をしていたので一般道を走る予定だったが、予想外の展開に空港での時間を確保するため高速道路を利用することにする。川平から長崎バイパスを経由して長崎多良見ICを経由し、長崎自動車道を走行する。途中今村パーキングエリアに立ち寄ってお土産を探そうとするものの〝地域振興券〟が使えないことがわかり再出発する。木場SICで一般道に下りてGSを探す。敢えて大村ICまで行かなかったことには訳があり、長崎の〝格安ガソリンスタンド〟リストに載っていたスタンドに立ち寄るためであった。現実論として長崎県内のガソリン価格は日本でも高い部類に入っている。その理由は離島に於けるガソリン価格の均等化のために、本土での価格が転嫁されているとのことだった。ちょっとでも安く上げようと考えたのが間違いの始まりで、わざわざ立ち寄った(有)南西交易MiniMart鈴田SSは〝税別価格〟の安さであった。税込換算では170円/Lと空港付近のGSと8円/L程しか変わらない。おまけに一般道を走る程でいたので、高速道路の利用と今村PAに立ち寄ったことを踏まえると、下りるICも行き過ぎで給油するために戻るルートを取らなければならなかった上に結構道も混んでおり、時間もかかってしまったことを考えるとなんの得にもならなかった。まあ最後の最後につめが甘かったのだが、取り敢えず無事にレンタカー営業所にたどり着き、長崎の足となってくれたmoveクンとお別れし、長崎空港に戻って来たことで一安心する。

50時間ぶりに戻って来た長崎空港、先ずはclassJのアップグレードに挑戦する・・・はずだが生憎〝満席〟の表示が出ており諦める。事前にシートアサインした主翼後方の27A席でバゲージを預けて身軽になる。苦手なセキュリティを通過に身体は大丈夫だったが、手荷物のフィルムシールドがX線検査で引っかかる。中身を確認して貰い再検査。無事通過となるが、まさかの未使用フィルムが一本カバンの中にこぼれていた。

後は搭乗を待つのみとなり土産を見に行く。自宅用に3,000円は余裕があり、冷凍の皿うどんを買ってみた。なかなかの評判だったのはそれなりの出費だったからでもある。寝不足が続いたのでそれなりに眠いので早めに3番搭乗口へと向かうが、かなり早い筈にも関わらず搭乗待ちの客もいない。みんなやることがないのかと思いつつ自分も機内へと向かう。座席に到着するとシートベルトを締めて景色を眺める。いくら西にある長崎だと言っても19:00前には夜の帷が下りている。そんな中搭乗客も揃ったようで時間前に出発する。照明に照らされた〝長崎空港〟の建物を見ながら、次はいつ来られるかな?なんて思ったりもする。そして離陸、100万ドルの夜景のひとつと言われる〝長崎の夜景〟を眺めながらJ-AIRのE190は一路大阪を目指して飛んで行く。さすがに昼寝もせずに走ったので、睡魔に襲われることも屡々あった。程なくしてドリンクサービスが回ってくるが、猫舌の私が珍しくポークコンソメスープをリクエストする。暖かいものをチョイスしたことは未だかつてないはずだ。そんなことを考えていたらもう着陸態勢に入るとのアナウンスが流れた。明らかに〝都会の照明〟が眼下に見えてくるとそこはもう大阪である。

55時間ぶりとなる伊丹空港へと帰って来た。早発早着だったフライトであったが、いつものようにぶらぶらすることもせずリムジンバス乗場に直行する。取り敢えず京都迄はさっさと戻って人混みから解放されたいのであった。中国道の通行止めのために迂回運行してはいるが、遅れることなく京都駅八条口に到着する。〝京都駅〟の表示を見て安心したのか、急にお腹が空いて来た。考えれば素泊まりだったため、朝から何も食べていない。手っ取り早く済ませたいこともあり、バス停横の〝なか卯〟に入る。3日間の旅行に於いて3回の夕食が〝牛丼〟ならばまたネタになりそうだが、今回は麻婆丼にする。

お腹も膨れたので駅へと向かいJRを利用する。22:01の新快速は、自宅最寄りの田舎駅に22:14に到着する。田舎駅ではあっても交通の弁は悪くはない。ただその後の〝田舎の赤バス京阪バス〟は利用客の減少から減便されており、平日であれば21:50の次は22:30迄時間が空く。ここを上手く考えなければ結構な〝待ち時間〟を食らうことも珍しくはない。そこは今回計算済みで、いつものファミマでタバコを購入してから一服タイム、それからバス停に向かってちょうど良い時間になる。終バス一本前だがかなり空いている。終わったな~と感じる前にど田舎バス停に到着する。場当たり的に行先を選択した部分もかなりあるが、2年8か月ぶりの飛行機旅は無事終了。明日から仕事か~と現実に引き戻され、今回の旅は無事に終了したのであった。

  《終わり》

激動の令和4(2022)年もあと僅かとなりました。ツイていた方、ツイていなかった方様々でしょうが、間もなく迎える新年令和5(2023)年が皆様にとって素晴らしい一年になりますよう、南淡海からお祈り申し上げます。

令和四年年末 たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。拝

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JALグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
28いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

この旅行で行ったグルメ・レストラン

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP