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《2022.June》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのXIII~大原野紫陽花の寺善峯寺編~<br /><br />沖縄行きが流れてしまいそのために取得した4連休が空いてしまった。代わりに行こうかと考えたものの目的地の天気予報が思わしくなく、躊躇っているうちに時期を逸してしまい2日間が過ぎた。このままではまた〝何もしない〟で終わってしまう連休になりかねないと危惧した結果、取り敢えず〝外出すること〟が肝心だと考え、昨日東近江の宮荘川の紫陽花を見に行くことにした。ただ宮荘川の紫陽花を見に行くことになった理由は、神社仏閣が閉門時間があるのに対し、その縛りがないという理由だけに過ぎない。しかし結果として充分満足出来るものだったことは先述した通りである。<br /><br />反省点も勿論ある訳で出掛ける時間が遅いために行くことができる場所が限定されてしまっていることだ。この辺りは普段の〝習慣〟が大きく左右していることは否めない事実である。焦ることを知らないマイペースな性格、通常の勤務時間は午後からなので起きる時間も昼前が当たり前、そして帰って来てからやれば良いことを出発前にやらないと気が済まない性格など、即出発を阻害する要素はたんとある。<br /><br />連休最終日となった今日令和4(2022)年6月25日土曜日もやはりすぐには出掛けることが出来なかった。オマケに土曜日ということもあり、人出が多い観光地に行くには気がひける。だが関西圏の〝アジサイの名所〟とされる場所に於いて〝お祭り〟的なイベントはこの週末までとしているところが多いようだ。昼から準備して出発するため閉門時間は考慮せねばならないが、逆にきわどい時間ならばそれなりに人出は引いているのではとの予測を立てる。あまり行き先を吟味し過ぎて迷ってしまうとどこへも行けなくなってしまうリスクもある。以上のことを考えながら候補に挙げた場所は京都西山にある西国第二十番札所善峯寺とあじさい園ライトアップがこの週末で終わる宇治の三室戸寺ということを決め取り敢えず出発する。いつも通り自宅からローソン大津大平一丁目店迄行って、一服した後にナビ設定をしてから本格的に走りはじめた。<br /><br />一般道を走るのはいつも通りで名神高速の側道を走って行き、途中滋賀短期大学前を通る朝日が丘の住宅内道路を経て国道1号線へと入って行く。大原野へ向かって走るということで三条通を走ると思っていたが、そのまま国道1号線を走り続けるルートであった。東山トンネルを抜け、そのまま五条通を西進する。堀川五条で国道1号線から国道9号線へと入ってからは市街地を横断するように走り、洛西ニュータウン入口手前の中山交差点を左折する。府道を走って行くといつの間にか田舎の風景が広がって来る。最後はThe山道というすごい傾斜のある道になり、moveクンはローギアでエンジン音を唸らせながら走って行くこと数分で本日の第一目的地である善峯寺に到着する。<br /><br />山門近くにある乗用車用の駐車場のキャパは約150台あるようだが、さすがに16時前という時間では混雑もしていない。駐車料金は500円、特に時間制である訳でもないようで一日停めても同一料金のようであった。<br /><br />所謂バー付きのコインパーキングは先入金であった。案内係のおじさんにお金を渡し駐車券を受け取る。本来ならば先払いのパーキングに駐車券は必要ないのでは?とふと思う。駐車台数が少ないために、場内の誘導も山門近くの場所から案内されていた。<br /><br />階段を上った場所に山門(楼門)があり、ここで入山料を納める。山門の金剛力士像は運慶作で源頼朝の寄進と伝わっている。この山門だが大きな寺院にあるような〝山門前広場〟が全くない。つまり山門を〝真正面〟から見た〝写真〟はほぼほぼ撮れないということになる。手持ちは焦点距離20mmの広角ズームレンズと14mm迄近づくことができるiPhone12Proだが、どちらを使っても建物を切り取ることができなかった。仕方がないので斜めから見たアングルで撮影することにし、少し合成することを考えることにした。<br /><br />楼門付近の受付で入山料を支払う。大人500円は妥当なものなのであろうが、手入れをして〝あじさい寺〟と名乗る寺院のシーズン料金と考えれば安いのかも知れない。<br /><br />紫陽花の寺と呼ばれるに相応しい本堂前の石段に繋がる通路にも左右に紫陽花の花が咲いている。歴史のありそうな石灯籠が通路の真ん中に立っており。その存在感を醸し出している。そして石段を上って本堂前に到着する。本堂脇には弘法大師所縁のお堂がある。またインスタ映えすると評判な手水舎も本堂前広場に作られている。紫陽花祭りの時期にはこの手水舎に〝あじさいの花〟が浮かべられており、日によって花のいけ方が変えられているようで、それも含めて善峯寺のSNSスポットとなっているようだ。早い時間帯はただ花が浮かべられているに過ぎなかったが、帰る頃には立体的なものになっており、腕の悪いカメラマンでもしっかりと〝手水舎withあじさい〟の写真を撮ることができたのであった。<br /><br />休憩処兼トイレの建物の脇にある階段が善峯寺の建造物や植物が植わっている庭園へと向かう通路になっている。階段を登り切ったところにある松の古木が横たわっている。樹齢600年以上と言われる五葉松で国の天然記念物に指定されている。主幹が地を這うように伸びる巨大な松は〝臥龍〟の遊ぶ様に見えることから安政4(1857)年花山院家厚により〝遊龍〟と命名され銘木が多い善峯寺に於いて特に有名な〝日本一の松〟として世間一般に広く知れ渡っている。元々この松は長さが50mあり一見するだけでその存在がわかるものであったそうだが平成6(1994)年に松食い虫の被害によって15m余りを切断することとなり、現在は37mの長さになってしまったという歴史がある。また〝遊龍〟の名称が刻まれた標石は江戸時代末期から明治時代にかけての陸軍将校であった鳥尾小弥太中将の書によって刻まれたものであることが〝由来書〟に書かれていた。<br /><br />階段を登り切ったところに横たわる〝遊龍〟だが、順路としては先に右手に進み〝鐘楼堂〟に進めとなっている。本堂の標高で約300mとあるので、もう少し高地にある鐘楼堂からは京都市内の様子が一望できる場所となっている。その絶景を背景に鐘楼堂は建立されている。応仁の乱で荒廃した多くの京都の寺院、善峯寺も例外ではなくその再建と復興に尽力をしたのが江戸幕府三代将軍徳川家光の側室で、五代将軍綱吉の生母である桂昌院である。<br /><br />元々京都の生まれと伝わる桂昌院は、諸説あるものの決して身分は高くない家柄の出であったと言われている。しかし家光の側室お万の方に仕え、後に家光の乳母である春日局のお気に入りとなった結果、自らも家光の側室となり綱吉を産んだ。サクセスストーリーのひとことで済むことではないだろうが、朝廷から女性最高位の〝従一位〟の官位を賜っている。婚姻による成功を〝玉の輿〟と表現することがあるが、これは桂昌院の通称名である〝玉〟のサクセスストーリーということからの喩えとされていることが記録されているのか無いのかは不明だが、なかなかうまく例えたものだと感心している私がいる。話は逸れたがこの鐘楼堂も貞享3(1686)年が五代将軍綱吉の厄年に当たることから〝厄除けの鐘〟として寄進され現在にたている。<br /><br />南無不動明王の碑が建てられている鐘楼堂、石碑の建立場所が京都市街の景色が見える方向とは垂直の位置になるため、その景色を背景にできないことが残念ではあるが、鐘楼堂の背景に京都市街の様子を合わせることは可能であり、アングルによっては素晴らしい一枚になること請け合いである。<br /><br />景色を堪能したい気持ちは多々あれど時間の絡みもあるので次へと急ぐ。本尊は不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の五尊である護摩堂は、元禄5(1692)に桂昌院により建立されたものである。多くの寺院に於いてご本尊はガラス越しや覗き窓から眺めることしかできないことが多い中、善峯寺護摩堂はご本尊が肉眼で見えるようになっている。直視できないことが当たり前と思う中での護摩堂ご本尊の姿は、見ることができるだけに有り難さを感じるものとなっているように私には思えたのであった。<br /><br />護摩堂の隣に国の重文指定されている多宝塔がある。元和7(1621)年に建立されたものになる。ご本尊は愛染明王だが、残念ながらこちらはご本尊を拝むことができない。多宝塔と聞けば我が街石山の国宝石山寺多宝塔を思い出す私ではあるが、善峯寺の多宝塔は角が少なく〝優しい〟感じを受ける気がした。<br /><br />多宝塔隣には経堂がある。宝永2(1705)年にやはり桂昌院によって寄進されたものである。名前の通り〝経〟が納められている建物であるが、ここには6世紀頃中国南北朝時代の僧傅大士(ふだいし)を奉り、鉄眼版一切経が納められているそうだ。また現在では〝祈願成就の絵馬奉納所〟として知られている場所として知られている場所でもある。また経堂隣には樹齢300年を超えると言われているシダレザクラの古木がある。善峯寺一と言われるシダレザクラはやはり桂昌院お手植えと伝わっている。残念ながら訪れた時期には桜が咲く時期ではなかったが、花がないから故に木の特徴がよく分かるものとなっていた。このしだれ桜はやはり古木の〝紅葉〟との合体木となっている。ようは紅葉としだれ桜が絡み合った〝結び木〟になっている訳だが、私自身も〝何か〟で見たことがある気がして調べてみたところ、思い出した!JR東海のCM〝そうだ京都に行こう〟で写されていた〝木〟だったことを。<br /><br />確かに花が咲く時期が違うために〝不思議な木〟という風には見えないが、そこそこの高さがある木々が絡み合って空へと向かう様は〝生命の息吹〟を感じられると言っても過言ではない。春と秋の最低2回訪れなければならないが、やはり花が咲いている姿をこの目で確かめたいと思った私であった。<br /><br />遊龍の松エリアを見て回り、順路に沿って歩いていく。次いで訪れた開山堂は文字通り善峯寺開山の祖である平安時代の天台宗の僧源算上人の廟所とされている建物であり、建立は江戸時代貞享2(1685)年とされているが堂内には上人117歳の尊像が祀られているという。源算上人は平安時代中期から後期に渡る天台宗の僧であるが、その遍歴は一度出家をして還俗した時期があったとされる。そして45歳の折りに娘の死があり再び出家をし、117歳まで生きたと言われている。ただ生没年には異論が多く存在している事実はある。しかしいずれの場合も長寿だったことに対して異論はなく、その没年齢も117歳とされていることも共通しているようだ。確かに上人が生きた平安時代では100歳を超えて生きることは類稀なことであることには違いない。しかし短命で亡くなったということを記すものもないことから、それなりの長寿であったことに間違いはないであろう。諸説あるがやはり開山堂も桂昌院の寄進だとしている説もあり、600年もの間の空白期間を埋める史実もないのが現実である。善峯寺の開山は源算上人であるならば、中興の祖は桂昌院となる。この辺りの話には説をひっくり返すような記述もないことから間違いないことであるように思う。今後新たな史実を発見できれば通説は変わるかも知れないが、まあそのようなこともないだろうと自分自身で勝手に納得した私であった。<br /><br />更に歩いて行くと鎮守社がある。鎮守社には十三仏堂・弁財天堂・毘沙門堂・護法堂の四社があり、全て元禄5(1692)年に建立されたものである。これらは善峯寺の守護のために建立されたものであり、現在でもその目的に変わりはないようで寺院の守護により祠られているものとして存在するもののようであった。<br /><br />更に順路を進むと宝篋印塔があった。これは鎌倉時代に慈円大僧正により伝教大師筆の法華経を納めた場所と伝わっている。その包紙には〝法の花 伝え教へし筆の跡 良峯寺の宝ともなれ〟と書かれたと寺伝には記されているそうだ。慈鎮和尚という表記がなされているものもあるようだが、これは慈円の諡号であり存命中に使われた名前ではない。平安時代後期から鎌倉時代前期を生きた慈円は摂政関白藤原忠通を父に持ち、やはり摂政関白となった九条兼実は同母兄という貴族階級の出であった。幼くして青蓮院に入り仁安2(1167)年に天台座主であった明雲について受戒するも、師明雲が平家の護持僧になったことで対立し、源平の争いに於いて現役の天台座主としてははじめての戦死者となったことに対し、最高位級の僧侶の身でありながら自ら戦場において殺生を行い、その挙句に戦死したという事実を激しく糾弾している。そして自らも法性寺座主に任ぜられた後は血筋の問題や精力争いの影響で出世の道が閉ざされており、養和2(1182)年に覚快法親王の没後空席になっていた青蓮院を継いでいる。この引き継ぎもすんなりと進んだものではなく、反対意見が多い中兄の九条兼実が圧力を掛けた結果決まったというものであったそうだ。その後建久3(1192)年には38歳で天台座主となる。座主として法会や伽藍の整備を行った他、政治的な活動も行っており、兼実の孫である九条道家の後見人を務め、道家の子である藤原頼経が源氏の将軍が途絶えた後に将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど公武の協調を理想とした。そんな中で後鳥羽上皇が幕府に対して挙兵した承久の乱には西園寺公経とともに反対の姿勢を通し、彼の書いた歴史書〝愚管抄〟も対幕府への挙兵を戒めるために書かれたとも言われている。しかし承久の乱の敗戦によって後鳥羽上皇っ兼実の曾孫である仲恭天皇が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を避難すると同時に仲恭帝復位を願う願文を提出したと言われている。<br /><br />結局仲恭帝の復位は叶わず鎌倉幕府にとって好都合な後堀川天皇が第86代天皇として即位するが、10年後の貞永元(1232)年には院政を行うべくまだ2歳の四条天皇に譲位し、自らは太政天皇となるものの元来病弱だったこともあり、院政開始後2年足らずの天福2(1234)年に23歳で崩御した。また第87代天皇となった四条天皇も不慮の事故で仁治3(1242)年に12歳で崩御する。この事故は様々な憶測を呼ぶこととなった。そのひとつに慈円の〝呪い〟というものも含まれているそうだ。天皇の不慮の死に対しての〝理由付け〟のことのひとつと思われるが、慈円自身が悲劇的な人生を送ったとされる記述もないことから〝こじつけ説〟と考えて間違いはないであろうと思う。<br /><br />宝篋印塔を過ぎると墓のようなものが見えて来る。桂昌院廟は言うまでもなく善峯寺の復興大檀那の桂昌院の廟所である。宝永2(1705)年に79歳で没した桂昌院は、芝増上寺の合祀塔に葬られた。一方で復興に尽力した寺院のひとつである善峯寺には〝遺髪〟を納めた廟所が建立され現在に至っている。廟所からは京都市街が一望できる高台にあり、300年もの間景色の移り変わりを見続けた桂昌院はどのような思いを持ったのか聞いてみたい気がした場所であった。<br /><br />順序通りに歩くと効率が悪いために、施設間の歩く距離を短くするようにして歩くことにする。所謂〝展望台〟的な建造物が見えて来た。特に名称が付けられている訳でもないようだが〝善峯櫻あじさい苑〟と言う石碑が建立されていた。この一帯が〝花の寺善峯寺〟と言われる所縁の場所となっており春はしだれ桜、夏は紫陽花が一帯を彩ることで有名な場所となっている。勿論〝展望台〟付近にもアジサイは咲いてはいるが、少し下った場所一帯がその名の由来となった〝善峯櫻あじさい苑〟と呼ばれているようだ。先ずは〝白山神社〟に参拝する。小降りではあるが白山明神が祀られている場所として、あじさいを目的に訪れた観光客も参っているようだ。ついで〝白山名水〟と言う湧き水を見つけた。白山明神が出現された奇瑞の地だということが寺伝に残っており、源算上人は写経をすべく苦心して写経用紙を自らの手で作ったとされている。寛徳2(1042)年2月のとある夜に白山明神がこの地に現れ、手本となる法華経経巻と浄水を授けたといわれている。白山明神の現れた翌日には五色の雪が降ったと伝えられており、その由緒からこの地が〝白山〟と呼ばれるようになったらしい。そして源算上人は毎年この日に神仏の前で読経や写経の他奏楽等を行って白山明神に供えたという伝承のある場所だとされている。<br /><br />あとは〝幸福地蔵尊〟という地蔵さまが建立されている。〝自分以外の幸せを願いましょう〟と書かれてあったが、これは凡人にはなかなか難しい解釈である。一般的には〝自分〟と〝他人〟両方の幸せを願うという表記はされるが、自分以外という人々の幸せだけを願うことは、私のような肝っ玉の小さい者からすればできることなのだろうかとふと思ったりする。まあ時間もないことなので哲学的な考えはまだ別の機会に置いておくことにして、取り敢えず出発することにした。<br /><br />善峯寺境内に於いて一番標高が低い場所が〝白山櫻あじさい苑〟となっている。白山権現社や白山名水等の史跡もこの白山櫻あじさい苑にあるために多くの観光客の〝第一〟の目的地となることには疑う余地はない。そして花々の〝時期〟を見越して訪れていれば、当然このエリアでの滞在時間が増える訳であり、一般的に言われている所要時間を見直さなければならないことを知る。実際この辺りのことは善峯寺側も善処していることで、6月中の土日に関しては閉門時間を遅らせており17:30となっていた。しかし私自身webサイトにそのことが書いていることを確認していなかったために17:00に終わるように歩いていたことも事実である。<br /><br />勿論確認を怠ったのは私自身であり誰かが悪い訳ではない。ただ受付で頂いた境内マップには〝白山櫻あじさい苑〟が順路に組み込まれておらず、桂昌院廟の次は〝釈迦堂〟へと階段を登って行く順路になっていた。つまり〝白山櫻あじさい苑〟は順路に組み込まれてはいないのである。アップダウンのある山寺故に効率的に境内を見て回るための所要時間を記した順路であり、人によって大きく滞在時間が変わるであろう〝白山櫻あじさい苑〟は所要時間を決めるには適していないかも知れない。まあ残念ではあるが、私自身の今回の目的は〝あじさい苑〟であり、そちらを回るルートを選択したことから釈迦堂以降のルートは回れなかった。しかしそこまで行くにはまた山登りが必要なことから、時期を変えての再訪が適当だと思い直し、帰路へと向かうことにした。<br /><br />善峯白山櫻あじさい苑から降りて来た道を再び上がって行く。幸福地蔵堂前を通り遊龍の松へと辿り着く。このように行きも帰りも〝遊龍の松〟の前を通るルートとなっていることは、善峯寺の〝イチオシ〟と言う要素があるように思える。更に下って行くと本堂前にやって来る。もう明日の準備なのか手水舎に飾られているあじさいの花が組み直されているように見えた。本堂前から参道階段を下りて行くと間もなく山門へと到着し、駆け足の善峯寺参拝を終えることとなる。<br /><br />先述したが本日令和4(2022)年6月25日土曜日の拝観時間は17:30迄となっていた。入山時間はいつも通り閉門30分前の16:30で終わっているために、受付には人の姿は見えなかった。山門を出て人が写らないようにモバイルカメラを操作する。超広角モードにするとかなりディクテーションが目立ってしまうが、そこは後で修正した。善峯寺山門の金剛力士像の阿吽形像は、冬季に雪の影響があるのだろうか?アクリル板で覆われていた。西国三十三所第二十番札所や神経痛腰痛祈願所と刻まれた石碑は、それなりの年齢の方々ならば〝超〟が付くほどありがたい御利益なのかも知れない。山門の先を直角に曲がり、東門を潜って駐車場に至る。途中可愛げなお地蔵さまがいらっしゃることに心が和む。駐車場に戻って来たがもう少し閉門迄時間はあるはずだが、残っている観光客はそれ程多くはないようで、車も数台しか停まってはいなかった。既にバスは15:24の東向日・JR向日町駅行きは出発した後なので、バス利用は不可能だ。最寄駅の阪急京都線東向日駅迄は約7km、歩いて1時間半の道程を歩く方もいないだろう。そう思いながら善峯寺で撮影したモバイルフォトを整理し、閉門時間のコールを聞いて出発した。<br /><br />行きは急いでいたこともあり、善峯寺に向かう道がどんなものかを記録していなかった。そのため帰り道に要所要所で車を停めてカメラに収めることにする。善峯寺山門前駐車場から見て最初の急カーブに〝西国札所第二十番善峯寺〟の碑が建つ。付近の史跡に向かう〝山道〟の案内もあったが〝クマ〟が出たとの一文でヘタレは〝無理!〟と決めつける。勿論車もあるから・・・と苦し紛れの言い訳を含めてではあるが。<br /><br />しばらく進むと善峯寺山門へと向かう脇参道入口があった。ここは近くのバス駐車場から善峯寺に向かう際に曲がりくねった車道を歩かずにショートカットする道になっているようだ。脇参道入口正面には阪急バスの善峯寺バス停やバス駐車場がある。それ程キャパがある訳でもなく原則予約が必要らしい。ただバス駐車場としてトイレなどの設備は整っていた。バス駐車場利用者向けの脇参道があることは先に述べたが、車道ならばそれなりの勾配と距離がある。それを現在地を平面にして角度を見てみると一目瞭然。これだけの急坂であることが見てわかる。ザ・山寺の善峯寺は侮れない場所だと改めて感じた。<br /><br />次の目的地に行く前にGoogle検索で引っかかった史跡〝淳和天皇陵〟を訪れてみようかとナビをセットする。しかしスマホナビの示す道路は一般車両通行止めとなっており、仕方なく先に進むことにする。後で調べると〝御陵〟へは現在のところ〝登山道〟を歩くしかないことを知った。<br /><br />京都西山エリアの散策を修了し、宇治方面へと向かう。途中イオンモールのカメラのキタムラでフィルムを購入しようと立ち寄った。しかし何かが違う。確か前回立ち寄った際には1階フロアの出口付近にあったと思うのだが、それらしい店はない。フロアマップを確認するも〝写真・カメラ店〟と言うカテゴリーはない。前回は大原に行った帰り道だったので5月末の頃。閉店したのかと店舗一覧を調べるも営業店舗として書かれている。全ての意味がわからなくなり頭の中に???マークがぐるぐる回っているが理由は単純だった。近隣のカメラのキタムラを検索すると間もなく閉店時間を迎える〝桂店〟が表示された。以前立ち寄ったのはイオンモール京都五条店、今日訪れたのはイオンモール京都桂川店・・・。探してもない訳である。<br /><br />そんな理由で所用を足すことができないことがわかったため、車へとさっさと戻り出発することにした。<br /><br />  《続く》

《2022.June》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのXIII~大原野紫陽花の寺善峯寺編~

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2022/06/25 - 2022/06/25

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《2022.June》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのXIII~大原野紫陽花の寺善峯寺編~

沖縄行きが流れてしまいそのために取得した4連休が空いてしまった。代わりに行こうかと考えたものの目的地の天気予報が思わしくなく、躊躇っているうちに時期を逸してしまい2日間が過ぎた。このままではまた〝何もしない〟で終わってしまう連休になりかねないと危惧した結果、取り敢えず〝外出すること〟が肝心だと考え、昨日東近江の宮荘川の紫陽花を見に行くことにした。ただ宮荘川の紫陽花を見に行くことになった理由は、神社仏閣が閉門時間があるのに対し、その縛りがないという理由だけに過ぎない。しかし結果として充分満足出来るものだったことは先述した通りである。

反省点も勿論ある訳で出掛ける時間が遅いために行くことができる場所が限定されてしまっていることだ。この辺りは普段の〝習慣〟が大きく左右していることは否めない事実である。焦ることを知らないマイペースな性格、通常の勤務時間は午後からなので起きる時間も昼前が当たり前、そして帰って来てからやれば良いことを出発前にやらないと気が済まない性格など、即出発を阻害する要素はたんとある。

連休最終日となった今日令和4(2022)年6月25日土曜日もやはりすぐには出掛けることが出来なかった。オマケに土曜日ということもあり、人出が多い観光地に行くには気がひける。だが関西圏の〝アジサイの名所〟とされる場所に於いて〝お祭り〟的なイベントはこの週末までとしているところが多いようだ。昼から準備して出発するため閉門時間は考慮せねばならないが、逆にきわどい時間ならばそれなりに人出は引いているのではとの予測を立てる。あまり行き先を吟味し過ぎて迷ってしまうとどこへも行けなくなってしまうリスクもある。以上のことを考えながら候補に挙げた場所は京都西山にある西国第二十番札所善峯寺とあじさい園ライトアップがこの週末で終わる宇治の三室戸寺ということを決め取り敢えず出発する。いつも通り自宅からローソン大津大平一丁目店迄行って、一服した後にナビ設定をしてから本格的に走りはじめた。

一般道を走るのはいつも通りで名神高速の側道を走って行き、途中滋賀短期大学前を通る朝日が丘の住宅内道路を経て国道1号線へと入って行く。大原野へ向かって走るということで三条通を走ると思っていたが、そのまま国道1号線を走り続けるルートであった。東山トンネルを抜け、そのまま五条通を西進する。堀川五条で国道1号線から国道9号線へと入ってからは市街地を横断するように走り、洛西ニュータウン入口手前の中山交差点を左折する。府道を走って行くといつの間にか田舎の風景が広がって来る。最後はThe山道というすごい傾斜のある道になり、moveクンはローギアでエンジン音を唸らせながら走って行くこと数分で本日の第一目的地である善峯寺に到着する。

山門近くにある乗用車用の駐車場のキャパは約150台あるようだが、さすがに16時前という時間では混雑もしていない。駐車料金は500円、特に時間制である訳でもないようで一日停めても同一料金のようであった。

所謂バー付きのコインパーキングは先入金であった。案内係のおじさんにお金を渡し駐車券を受け取る。本来ならば先払いのパーキングに駐車券は必要ないのでは?とふと思う。駐車台数が少ないために、場内の誘導も山門近くの場所から案内されていた。

階段を上った場所に山門(楼門)があり、ここで入山料を納める。山門の金剛力士像は運慶作で源頼朝の寄進と伝わっている。この山門だが大きな寺院にあるような〝山門前広場〟が全くない。つまり山門を〝真正面〟から見た〝写真〟はほぼほぼ撮れないということになる。手持ちは焦点距離20mmの広角ズームレンズと14mm迄近づくことができるiPhone12Proだが、どちらを使っても建物を切り取ることができなかった。仕方がないので斜めから見たアングルで撮影することにし、少し合成することを考えることにした。

楼門付近の受付で入山料を支払う。大人500円は妥当なものなのであろうが、手入れをして〝あじさい寺〟と名乗る寺院のシーズン料金と考えれば安いのかも知れない。

紫陽花の寺と呼ばれるに相応しい本堂前の石段に繋がる通路にも左右に紫陽花の花が咲いている。歴史のありそうな石灯籠が通路の真ん中に立っており。その存在感を醸し出している。そして石段を上って本堂前に到着する。本堂脇には弘法大師所縁のお堂がある。またインスタ映えすると評判な手水舎も本堂前広場に作られている。紫陽花祭りの時期にはこの手水舎に〝あじさいの花〟が浮かべられており、日によって花のいけ方が変えられているようで、それも含めて善峯寺のSNSスポットとなっているようだ。早い時間帯はただ花が浮かべられているに過ぎなかったが、帰る頃には立体的なものになっており、腕の悪いカメラマンでもしっかりと〝手水舎withあじさい〟の写真を撮ることができたのであった。

休憩処兼トイレの建物の脇にある階段が善峯寺の建造物や植物が植わっている庭園へと向かう通路になっている。階段を登り切ったところにある松の古木が横たわっている。樹齢600年以上と言われる五葉松で国の天然記念物に指定されている。主幹が地を這うように伸びる巨大な松は〝臥龍〟の遊ぶ様に見えることから安政4(1857)年花山院家厚により〝遊龍〟と命名され銘木が多い善峯寺に於いて特に有名な〝日本一の松〟として世間一般に広く知れ渡っている。元々この松は長さが50mあり一見するだけでその存在がわかるものであったそうだが平成6(1994)年に松食い虫の被害によって15m余りを切断することとなり、現在は37mの長さになってしまったという歴史がある。また〝遊龍〟の名称が刻まれた標石は江戸時代末期から明治時代にかけての陸軍将校であった鳥尾小弥太中将の書によって刻まれたものであることが〝由来書〟に書かれていた。

階段を登り切ったところに横たわる〝遊龍〟だが、順路としては先に右手に進み〝鐘楼堂〟に進めとなっている。本堂の標高で約300mとあるので、もう少し高地にある鐘楼堂からは京都市内の様子が一望できる場所となっている。その絶景を背景に鐘楼堂は建立されている。応仁の乱で荒廃した多くの京都の寺院、善峯寺も例外ではなくその再建と復興に尽力をしたのが江戸幕府三代将軍徳川家光の側室で、五代将軍綱吉の生母である桂昌院である。

元々京都の生まれと伝わる桂昌院は、諸説あるものの決して身分は高くない家柄の出であったと言われている。しかし家光の側室お万の方に仕え、後に家光の乳母である春日局のお気に入りとなった結果、自らも家光の側室となり綱吉を産んだ。サクセスストーリーのひとことで済むことではないだろうが、朝廷から女性最高位の〝従一位〟の官位を賜っている。婚姻による成功を〝玉の輿〟と表現することがあるが、これは桂昌院の通称名である〝玉〟のサクセスストーリーということからの喩えとされていることが記録されているのか無いのかは不明だが、なかなかうまく例えたものだと感心している私がいる。話は逸れたがこの鐘楼堂も貞享3(1686)年が五代将軍綱吉の厄年に当たることから〝厄除けの鐘〟として寄進され現在にたている。

南無不動明王の碑が建てられている鐘楼堂、石碑の建立場所が京都市街の景色が見える方向とは垂直の位置になるため、その景色を背景にできないことが残念ではあるが、鐘楼堂の背景に京都市街の様子を合わせることは可能であり、アングルによっては素晴らしい一枚になること請け合いである。

景色を堪能したい気持ちは多々あれど時間の絡みもあるので次へと急ぐ。本尊は不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の五尊である護摩堂は、元禄5(1692)に桂昌院により建立されたものである。多くの寺院に於いてご本尊はガラス越しや覗き窓から眺めることしかできないことが多い中、善峯寺護摩堂はご本尊が肉眼で見えるようになっている。直視できないことが当たり前と思う中での護摩堂ご本尊の姿は、見ることができるだけに有り難さを感じるものとなっているように私には思えたのであった。

護摩堂の隣に国の重文指定されている多宝塔がある。元和7(1621)年に建立されたものになる。ご本尊は愛染明王だが、残念ながらこちらはご本尊を拝むことができない。多宝塔と聞けば我が街石山の国宝石山寺多宝塔を思い出す私ではあるが、善峯寺の多宝塔は角が少なく〝優しい〟感じを受ける気がした。

多宝塔隣には経堂がある。宝永2(1705)年にやはり桂昌院によって寄進されたものである。名前の通り〝経〟が納められている建物であるが、ここには6世紀頃中国南北朝時代の僧傅大士(ふだいし)を奉り、鉄眼版一切経が納められているそうだ。また現在では〝祈願成就の絵馬奉納所〟として知られている場所として知られている場所でもある。また経堂隣には樹齢300年を超えると言われているシダレザクラの古木がある。善峯寺一と言われるシダレザクラはやはり桂昌院お手植えと伝わっている。残念ながら訪れた時期には桜が咲く時期ではなかったが、花がないから故に木の特徴がよく分かるものとなっていた。このしだれ桜はやはり古木の〝紅葉〟との合体木となっている。ようは紅葉としだれ桜が絡み合った〝結び木〟になっている訳だが、私自身も〝何か〟で見たことがある気がして調べてみたところ、思い出した!JR東海のCM〝そうだ京都に行こう〟で写されていた〝木〟だったことを。

確かに花が咲く時期が違うために〝不思議な木〟という風には見えないが、そこそこの高さがある木々が絡み合って空へと向かう様は〝生命の息吹〟を感じられると言っても過言ではない。春と秋の最低2回訪れなければならないが、やはり花が咲いている姿をこの目で確かめたいと思った私であった。

遊龍の松エリアを見て回り、順路に沿って歩いていく。次いで訪れた開山堂は文字通り善峯寺開山の祖である平安時代の天台宗の僧源算上人の廟所とされている建物であり、建立は江戸時代貞享2(1685)年とされているが堂内には上人117歳の尊像が祀られているという。源算上人は平安時代中期から後期に渡る天台宗の僧であるが、その遍歴は一度出家をして還俗した時期があったとされる。そして45歳の折りに娘の死があり再び出家をし、117歳まで生きたと言われている。ただ生没年には異論が多く存在している事実はある。しかしいずれの場合も長寿だったことに対して異論はなく、その没年齢も117歳とされていることも共通しているようだ。確かに上人が生きた平安時代では100歳を超えて生きることは類稀なことであることには違いない。しかし短命で亡くなったということを記すものもないことから、それなりの長寿であったことに間違いはないであろう。諸説あるがやはり開山堂も桂昌院の寄進だとしている説もあり、600年もの間の空白期間を埋める史実もないのが現実である。善峯寺の開山は源算上人であるならば、中興の祖は桂昌院となる。この辺りの話には説をひっくり返すような記述もないことから間違いないことであるように思う。今後新たな史実を発見できれば通説は変わるかも知れないが、まあそのようなこともないだろうと自分自身で勝手に納得した私であった。

更に歩いて行くと鎮守社がある。鎮守社には十三仏堂・弁財天堂・毘沙門堂・護法堂の四社があり、全て元禄5(1692)年に建立されたものである。これらは善峯寺の守護のために建立されたものであり、現在でもその目的に変わりはないようで寺院の守護により祠られているものとして存在するもののようであった。

更に順路を進むと宝篋印塔があった。これは鎌倉時代に慈円大僧正により伝教大師筆の法華経を納めた場所と伝わっている。その包紙には〝法の花 伝え教へし筆の跡 良峯寺の宝ともなれ〟と書かれたと寺伝には記されているそうだ。慈鎮和尚という表記がなされているものもあるようだが、これは慈円の諡号であり存命中に使われた名前ではない。平安時代後期から鎌倉時代前期を生きた慈円は摂政関白藤原忠通を父に持ち、やはり摂政関白となった九条兼実は同母兄という貴族階級の出であった。幼くして青蓮院に入り仁安2(1167)年に天台座主であった明雲について受戒するも、師明雲が平家の護持僧になったことで対立し、源平の争いに於いて現役の天台座主としてははじめての戦死者となったことに対し、最高位級の僧侶の身でありながら自ら戦場において殺生を行い、その挙句に戦死したという事実を激しく糾弾している。そして自らも法性寺座主に任ぜられた後は血筋の問題や精力争いの影響で出世の道が閉ざされており、養和2(1182)年に覚快法親王の没後空席になっていた青蓮院を継いでいる。この引き継ぎもすんなりと進んだものではなく、反対意見が多い中兄の九条兼実が圧力を掛けた結果決まったというものであったそうだ。その後建久3(1192)年には38歳で天台座主となる。座主として法会や伽藍の整備を行った他、政治的な活動も行っており、兼実の孫である九条道家の後見人を務め、道家の子である藤原頼経が源氏の将軍が途絶えた後に将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど公武の協調を理想とした。そんな中で後鳥羽上皇が幕府に対して挙兵した承久の乱には西園寺公経とともに反対の姿勢を通し、彼の書いた歴史書〝愚管抄〟も対幕府への挙兵を戒めるために書かれたとも言われている。しかし承久の乱の敗戦によって後鳥羽上皇っ兼実の曾孫である仲恭天皇が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を避難すると同時に仲恭帝復位を願う願文を提出したと言われている。

結局仲恭帝の復位は叶わず鎌倉幕府にとって好都合な後堀川天皇が第86代天皇として即位するが、10年後の貞永元(1232)年には院政を行うべくまだ2歳の四条天皇に譲位し、自らは太政天皇となるものの元来病弱だったこともあり、院政開始後2年足らずの天福2(1234)年に23歳で崩御した。また第87代天皇となった四条天皇も不慮の事故で仁治3(1242)年に12歳で崩御する。この事故は様々な憶測を呼ぶこととなった。そのひとつに慈円の〝呪い〟というものも含まれているそうだ。天皇の不慮の死に対しての〝理由付け〟のことのひとつと思われるが、慈円自身が悲劇的な人生を送ったとされる記述もないことから〝こじつけ説〟と考えて間違いはないであろうと思う。

宝篋印塔を過ぎると墓のようなものが見えて来る。桂昌院廟は言うまでもなく善峯寺の復興大檀那の桂昌院の廟所である。宝永2(1705)年に79歳で没した桂昌院は、芝増上寺の合祀塔に葬られた。一方で復興に尽力した寺院のひとつである善峯寺には〝遺髪〟を納めた廟所が建立され現在に至っている。廟所からは京都市街が一望できる高台にあり、300年もの間景色の移り変わりを見続けた桂昌院はどのような思いを持ったのか聞いてみたい気がした場所であった。

順序通りに歩くと効率が悪いために、施設間の歩く距離を短くするようにして歩くことにする。所謂〝展望台〟的な建造物が見えて来た。特に名称が付けられている訳でもないようだが〝善峯櫻あじさい苑〟と言う石碑が建立されていた。この一帯が〝花の寺善峯寺〟と言われる所縁の場所となっており春はしだれ桜、夏は紫陽花が一帯を彩ることで有名な場所となっている。勿論〝展望台〟付近にもアジサイは咲いてはいるが、少し下った場所一帯がその名の由来となった〝善峯櫻あじさい苑〟と呼ばれているようだ。先ずは〝白山神社〟に参拝する。小降りではあるが白山明神が祀られている場所として、あじさいを目的に訪れた観光客も参っているようだ。ついで〝白山名水〟と言う湧き水を見つけた。白山明神が出現された奇瑞の地だということが寺伝に残っており、源算上人は写経をすべく苦心して写経用紙を自らの手で作ったとされている。寛徳2(1042)年2月のとある夜に白山明神がこの地に現れ、手本となる法華経経巻と浄水を授けたといわれている。白山明神の現れた翌日には五色の雪が降ったと伝えられており、その由緒からこの地が〝白山〟と呼ばれるようになったらしい。そして源算上人は毎年この日に神仏の前で読経や写経の他奏楽等を行って白山明神に供えたという伝承のある場所だとされている。

あとは〝幸福地蔵尊〟という地蔵さまが建立されている。〝自分以外の幸せを願いましょう〟と書かれてあったが、これは凡人にはなかなか難しい解釈である。一般的には〝自分〟と〝他人〟両方の幸せを願うという表記はされるが、自分以外という人々の幸せだけを願うことは、私のような肝っ玉の小さい者からすればできることなのだろうかとふと思ったりする。まあ時間もないことなので哲学的な考えはまだ別の機会に置いておくことにして、取り敢えず出発することにした。

善峯寺境内に於いて一番標高が低い場所が〝白山櫻あじさい苑〟となっている。白山権現社や白山名水等の史跡もこの白山櫻あじさい苑にあるために多くの観光客の〝第一〟の目的地となることには疑う余地はない。そして花々の〝時期〟を見越して訪れていれば、当然このエリアでの滞在時間が増える訳であり、一般的に言われている所要時間を見直さなければならないことを知る。実際この辺りのことは善峯寺側も善処していることで、6月中の土日に関しては閉門時間を遅らせており17:30となっていた。しかし私自身webサイトにそのことが書いていることを確認していなかったために17:00に終わるように歩いていたことも事実である。

勿論確認を怠ったのは私自身であり誰かが悪い訳ではない。ただ受付で頂いた境内マップには〝白山櫻あじさい苑〟が順路に組み込まれておらず、桂昌院廟の次は〝釈迦堂〟へと階段を登って行く順路になっていた。つまり〝白山櫻あじさい苑〟は順路に組み込まれてはいないのである。アップダウンのある山寺故に効率的に境内を見て回るための所要時間を記した順路であり、人によって大きく滞在時間が変わるであろう〝白山櫻あじさい苑〟は所要時間を決めるには適していないかも知れない。まあ残念ではあるが、私自身の今回の目的は〝あじさい苑〟であり、そちらを回るルートを選択したことから釈迦堂以降のルートは回れなかった。しかしそこまで行くにはまた山登りが必要なことから、時期を変えての再訪が適当だと思い直し、帰路へと向かうことにした。

善峯白山櫻あじさい苑から降りて来た道を再び上がって行く。幸福地蔵堂前を通り遊龍の松へと辿り着く。このように行きも帰りも〝遊龍の松〟の前を通るルートとなっていることは、善峯寺の〝イチオシ〟と言う要素があるように思える。更に下って行くと本堂前にやって来る。もう明日の準備なのか手水舎に飾られているあじさいの花が組み直されているように見えた。本堂前から参道階段を下りて行くと間もなく山門へと到着し、駆け足の善峯寺参拝を終えることとなる。

先述したが本日令和4(2022)年6月25日土曜日の拝観時間は17:30迄となっていた。入山時間はいつも通り閉門30分前の16:30で終わっているために、受付には人の姿は見えなかった。山門を出て人が写らないようにモバイルカメラを操作する。超広角モードにするとかなりディクテーションが目立ってしまうが、そこは後で修正した。善峯寺山門の金剛力士像の阿吽形像は、冬季に雪の影響があるのだろうか?アクリル板で覆われていた。西国三十三所第二十番札所や神経痛腰痛祈願所と刻まれた石碑は、それなりの年齢の方々ならば〝超〟が付くほどありがたい御利益なのかも知れない。山門の先を直角に曲がり、東門を潜って駐車場に至る。途中可愛げなお地蔵さまがいらっしゃることに心が和む。駐車場に戻って来たがもう少し閉門迄時間はあるはずだが、残っている観光客はそれ程多くはないようで、車も数台しか停まってはいなかった。既にバスは15:24の東向日・JR向日町駅行きは出発した後なので、バス利用は不可能だ。最寄駅の阪急京都線東向日駅迄は約7km、歩いて1時間半の道程を歩く方もいないだろう。そう思いながら善峯寺で撮影したモバイルフォトを整理し、閉門時間のコールを聞いて出発した。

行きは急いでいたこともあり、善峯寺に向かう道がどんなものかを記録していなかった。そのため帰り道に要所要所で車を停めてカメラに収めることにする。善峯寺山門前駐車場から見て最初の急カーブに〝西国札所第二十番善峯寺〟の碑が建つ。付近の史跡に向かう〝山道〟の案内もあったが〝クマ〟が出たとの一文でヘタレは〝無理!〟と決めつける。勿論車もあるから・・・と苦し紛れの言い訳を含めてではあるが。

しばらく進むと善峯寺山門へと向かう脇参道入口があった。ここは近くのバス駐車場から善峯寺に向かう際に曲がりくねった車道を歩かずにショートカットする道になっているようだ。脇参道入口正面には阪急バスの善峯寺バス停やバス駐車場がある。それ程キャパがある訳でもなく原則予約が必要らしい。ただバス駐車場としてトイレなどの設備は整っていた。バス駐車場利用者向けの脇参道があることは先に述べたが、車道ならばそれなりの勾配と距離がある。それを現在地を平面にして角度を見てみると一目瞭然。これだけの急坂であることが見てわかる。ザ・山寺の善峯寺は侮れない場所だと改めて感じた。

次の目的地に行く前にGoogle検索で引っかかった史跡〝淳和天皇陵〟を訪れてみようかとナビをセットする。しかしスマホナビの示す道路は一般車両通行止めとなっており、仕方なく先に進むことにする。後で調べると〝御陵〟へは現在のところ〝登山道〟を歩くしかないことを知った。

京都西山エリアの散策を修了し、宇治方面へと向かう。途中イオンモールのカメラのキタムラでフィルムを購入しようと立ち寄った。しかし何かが違う。確か前回立ち寄った際には1階フロアの出口付近にあったと思うのだが、それらしい店はない。フロアマップを確認するも〝写真・カメラ店〟と言うカテゴリーはない。前回は大原に行った帰り道だったので5月末の頃。閉店したのかと店舗一覧を調べるも営業店舗として書かれている。全ての意味がわからなくなり頭の中に???マークがぐるぐる回っているが理由は単純だった。近隣のカメラのキタムラを検索すると間もなく閉店時間を迎える〝桂店〟が表示された。以前立ち寄ったのはイオンモール京都五条店、今日訪れたのはイオンモール京都桂川店・・・。探してもない訳である。

そんな理由で所用を足すことができないことがわかったため、車へとさっさと戻り出発することにした。

  《続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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