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《2022.April》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅧ~山科・毘沙門堂の桜編~<br /><br />気がつけば今年も4月になった。しかしオミクロン株の蔓延で気軽に外出出来る雰囲気ではない。しかしコロナ患者が見つかった一昨年の2月、ウィルスの感染力等ほとんど気にもせず皆が出歩いていた。私も例には漏れず冬の佐渡島に行っている。その後の感染拡大を受けて最初の〝緊急事態宣言〟が発令されたのはいつのことか?そして解除宣言は?実はこの解除宣言の出された日にちだけは忘れるに忘れられないことがあった。解除宣言がされたのは令和2(2020)年6月19日のことだ。なぜ忘れられないのかといえば、例年6月23日の沖縄慰霊の日に合わせて通っている〝恒例行事〟を再手配が不可能という理由から諦めた日であるからである。まして医療施設数の人口に対して低い沖縄県で、大手を振って行くことが出来そうにない患者数を抱えていた背景もあり、内地の人間が来沖してどうなると言う意見が根強くあったこともある.結局休みは押さえていたので患者数が少なかった北陸福井・石川県を訪れた。その後暫く泊まりがけでの旅を控え、10月に店舗異動のタイミングを見計らって小豆島・岡山を2泊5日で回ったことが最後となって現在に至っている。日帰りでは何度か出かけたこともあるが前年の比には全くならない。そんな出掛けることに気がひけるような日々が続けば、計画倒れにしかならないという〝確信〟めいた気持ちが先に立ってしまい、結果出掛けることもせずに一日を無駄に過ごすことが〝当たり前〟になる程行動力が低下してしまった。<br /><br />世論が言うように〝集団〟で動くことからクラスター発生に繋がると言われれば、基本一人で行動する私には当てはまらないはず。しかし濃厚接触者や感染者が身近に出てしまっている現実では、私だけは例外だとは口が裂けても言うことが出来ない。ただ仕事以外に外出しないということは、もう若くない私にとっては〝体が鈍る〟以外に何物でもない。事実1月にイルミネーションを見に行って以降休日に外出したのはワクチンの3回目接種だけだと言えばちょっと異常なのかも知れない。<br /><br />そんな中で4月になり桜の〝開花情報〟が新聞でも掲載されるようになる。私自身昨年は桜の開花時期を大きく読み違えてしまったことから〝見頃過ぎ〟の桜を見て回るという大失態をしでかしてしまっている。せめてその失態位は挽回させて欲しいという願望は今年に限って言えばかなり強かった筈である。そんな中で丁度4月6日水曜日というド平日に休みがあった。これはもう〝行くしかない!〟と確信めいた概念が湧いてきた。目的地としては遠くもなく近くもない距離で、また桜咲く季節に訪れたことのない場所にしたかった。候補地=目的地のようなものであるが、滋賀県民が京都・大阪府民に対し喧嘩をした〝ひとこと目〟と揶揄される〝水止めるで〟で有名な〝琵琶湖疏水〟を候補にする。三井寺付近の疏水入口付近もそうだが、山科疏水と表現される疏水中間部も捨てがたいと考えた。山科の疏水と言えば山科駅の山側を流れている。その界隈の桜の名所という選択肢で導き出したのは天台宗の寺院である毘沙門堂。これらふたつは歩いて行くことができる距離にあり、車を利用した際にも好都合である。それに加えて右京区嵯峨の車折神社、ここは3月末にwebニュースで〝渓仙桜〟が紹介されていたことに加え、我が家の実家があった場所でもある。家自体は祖父母が亡くなった後に取り壊されており、現在は駐車場となっており、その面影は残ってはいない。そのため訪れること自体が数十年ぶりになるという場所でもある。メインの目的地としてこの3ヶ所を選んでみた。後は当日の時間取り次第である。実際には最後に三井寺の琵琶湖疏水で締め括った今年の〝桜を見る旅〟、さあどの様なものになったのやら。<br /><br />令和4(2022)年4月6日水曜日<br />朝はいつもスロースタート。車折神社は決めてはいたが、アレンジする場所を考える。時期的に桜〟は時期なので、今までに行ったことのない行き先を考える。ただ我が店の旅行センターで募集をしていた〝疏水船〟にちょっと関心があったので、そのことも踏まえて探した結果疏水散策もできそうな場所として山科の毘沙門堂を訪れることにした。<br /><br />今日の相棒はmoveクン、一旦家を出てローソンで一服しながらナビ設定をする。敢えて高速を使う必要もなく、国道1号線を走った後に三条通へと入って行く。外環三条を右折すると真正面にJRの山科駅がある。その手前を右折して左折し、住宅地の中の様な道を走って行くと毘沙門堂跡に到着する。ピークシーズンは近くのグランドを臨時駐車場にされるために待ち時間もなく快適だった。<br /><br />山科という場所は我が街大津市から最も近い場所であるが、いがいにも訪れたことがなかった。正式名称は護法山安国院出雲寺というが、天台宗京都五門跡のひとつであり、通称である山科毘沙門堂・毘沙門堂門跡という呼称で知られている。寺伝によると現毘沙門堂の前身としての出雲寺が第42代文武天皇の勅願により行基が開山したとされている。この前身の出雲寺は今の上京区にあったと言われており、界隈には〝出雲路〟の名前が残る上に、出雲寺伝承地付近からは奈良時代前期のものと考えられる〝古瓦〟が出土している。これらのことからも行基の開山説はともかく、その時代に〝寺院〟が建立されていたことは間違いないと考えられている。その後平安末期には出雲寺は荒廃していたようだが、その後比叡山延暦寺の根本中堂に倣って西(太秦)に平等寺を葛原親王が、東(五辻)に尊重寺を平親信が、中心(伏見)に護法寺を平範家がそれぞれ建立し据える配置とした。<br /><br />その後鎌倉期にはそれら寺院を統合し、旧出雲寺跡に寺籍を継いだ新〝出雲寺〟が建立されるも、応仁の乱や織田信長の侵攻によって焼失する。再建はされるものの焼き討ちに遭うことの繰り返しだったようだが、江戸期に入り徳川家康の側近であった天台宗の僧天海によって現在地に於ける移転・復興が行われた。その他第111代後西天皇の第6皇子である公弁法親王は当寺で受戒し、晩年には毘沙門堂に隠棲しているが。その際に父である後西天皇の死後に御所から勅使門・霊殿・宸殿を拝領し、毘沙門堂に移築しており、それらが現在に至って毘沙門天堂門跡を構成している。<br /><br />殆どの建物は江戸時代の建立であるが、中にはそれ以前のものを移設したものも残っている。霊殿脇にある弁財天は〝高台弁財天〟と呼ばれるもので、豊臣秀吉の母大政所が大坂城内に建立したものを、大坂夏の陣後に妻北政所が高台寺に移したものである。その後公弁法親王により毘沙門堂に遷座され現在に至っているものである。江戸初期の建造物である本堂・唐門は向唐破風造の門や堂の周囲の透塀など京都の仏堂建築ではあまり見られないものとなっている。日光東照宮に似せて作られたと言われる説が濃厚であるという。また本殿には天台宗の宗祖最澄伝教大師作と伝わる本尊の〝毘沙門天坐像〟(秘仏)が安置されている。唐門が入場口となっており、本殿・霊殿・宸殿と繋がっている。そして宸殿内部には江戸時代前期の絵師の狩野益信筆による障壁画がある。益信は狩野探幽の弟子であり、養子となって駿河台狩野派の始祖になった人物である。六室に障壁画116面が描かれており、人が動いて見ることにより絵の〝方向や位置〟が変わるように見える不思議な絵が描かれている。また宸殿御成之間上段の間に〝帝鑑図〟と〝梅花禽鳥図〟には、梅に山鳥と竹林にヒヨドリが描かれており、〝梅に鶯〟〝竹に雀〟の一般的にあ常識から外されている。これは洒落なのか〝鳥合わず(取りあわず)〟の意味を込めており、住職が会いたくない客人が通される間だったとわれていうる。その他庭園〝晩翠園〟は江戸時代初期の池泉回遊式庭園の造りを色濃く残している物であり、それだけでも入山拝観料を払ってでも見る価値は十分にあると思える建物となっている。<br /><br />また毘沙門堂門跡は〝花の寺〟としての知名度も高く、シダレザクラの〝般若桜〟は勿論のこと、藤や紅葉でも見るために訪れる者が多い場所として知られている。特に春の桜の時期には境内の〝般若桜〟の他に咲くソメイヨシノや八重桜が建物を借景として〝景色〟を作り出している他にも、歩いて数分のところにある〝山科疎水〟では疎水を取り囲むように咲いている〝ソメイヨシノ〟の他に地元住民の方が世話されている〝菜の花〟、そして最近観光化されて人気のある〝疎水船〟が上り下りする景色を楽しむことが出来るようになっている。私自身の考えではあるが行く時間によってはかなりの混雑する毘沙門堂を一旦抜け出て山科疎水を散策し、また戻ってくるようなことも良いかも知れない。たまたまだったのかも知れないが、私が訪れたときは特に〝般若桜〟の付近に結構人だかりができており、カメラに写り込むことと、有料拝観となっている本殿・霊殿・宸殿も結構込み合っている様に見えたことだ。一旦仁王門を歩いて5分程度の距離の山科疎水を散策し、1時間少々疎水の周りを歩いて戻った頃には人だかりと呼ばれるものは解消していた。勿論この〝般若桜〟はインスタ映えする場所として知られていることもあり、若い子達も〝勅使門をフレームにして般若桜を写す〟なんてことも流行っているらしいため、やはり人が群れてしまうことは仕方がないことなのかも知れない。とは言え文句を言っても始まらないので、自らが違った行動を起こして〝密〟を避けるような状況を造りたいと考える…。そんなことが〝思いやり〟に繋がるのではとふと思った。<br /><br />途中山科疎水に出向いた時間を含めて3時間ほど滞在し、当初の予定通り京都市内を東から西へと通り嵐山へと向かう。実際には〝嵯峨エリア〟になるのだが、その目的は何だったのであろうか?<br /><br />《続く》

《2022.April》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅧ~山科・毘沙門堂の桜編~

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《2022.April》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅京都そのⅧ~山科・毘沙門堂の桜編~

気がつけば今年も4月になった。しかしオミクロン株の蔓延で気軽に外出出来る雰囲気ではない。しかしコロナ患者が見つかった一昨年の2月、ウィルスの感染力等ほとんど気にもせず皆が出歩いていた。私も例には漏れず冬の佐渡島に行っている。その後の感染拡大を受けて最初の〝緊急事態宣言〟が発令されたのはいつのことか?そして解除宣言は?実はこの解除宣言の出された日にちだけは忘れるに忘れられないことがあった。解除宣言がされたのは令和2(2020)年6月19日のことだ。なぜ忘れられないのかといえば、例年6月23日の沖縄慰霊の日に合わせて通っている〝恒例行事〟を再手配が不可能という理由から諦めた日であるからである。まして医療施設数の人口に対して低い沖縄県で、大手を振って行くことが出来そうにない患者数を抱えていた背景もあり、内地の人間が来沖してどうなると言う意見が根強くあったこともある.結局休みは押さえていたので患者数が少なかった北陸福井・石川県を訪れた。その後暫く泊まりがけでの旅を控え、10月に店舗異動のタイミングを見計らって小豆島・岡山を2泊5日で回ったことが最後となって現在に至っている。日帰りでは何度か出かけたこともあるが前年の比には全くならない。そんな出掛けることに気がひけるような日々が続けば、計画倒れにしかならないという〝確信〟めいた気持ちが先に立ってしまい、結果出掛けることもせずに一日を無駄に過ごすことが〝当たり前〟になる程行動力が低下してしまった。

世論が言うように〝集団〟で動くことからクラスター発生に繋がると言われれば、基本一人で行動する私には当てはまらないはず。しかし濃厚接触者や感染者が身近に出てしまっている現実では、私だけは例外だとは口が裂けても言うことが出来ない。ただ仕事以外に外出しないということは、もう若くない私にとっては〝体が鈍る〟以外に何物でもない。事実1月にイルミネーションを見に行って以降休日に外出したのはワクチンの3回目接種だけだと言えばちょっと異常なのかも知れない。

そんな中で4月になり桜の〝開花情報〟が新聞でも掲載されるようになる。私自身昨年は桜の開花時期を大きく読み違えてしまったことから〝見頃過ぎ〟の桜を見て回るという大失態をしでかしてしまっている。せめてその失態位は挽回させて欲しいという願望は今年に限って言えばかなり強かった筈である。そんな中で丁度4月6日水曜日というド平日に休みがあった。これはもう〝行くしかない!〟と確信めいた概念が湧いてきた。目的地としては遠くもなく近くもない距離で、また桜咲く季節に訪れたことのない場所にしたかった。候補地=目的地のようなものであるが、滋賀県民が京都・大阪府民に対し喧嘩をした〝ひとこと目〟と揶揄される〝水止めるで〟で有名な〝琵琶湖疏水〟を候補にする。三井寺付近の疏水入口付近もそうだが、山科疏水と表現される疏水中間部も捨てがたいと考えた。山科の疏水と言えば山科駅の山側を流れている。その界隈の桜の名所という選択肢で導き出したのは天台宗の寺院である毘沙門堂。これらふたつは歩いて行くことができる距離にあり、車を利用した際にも好都合である。それに加えて右京区嵯峨の車折神社、ここは3月末にwebニュースで〝渓仙桜〟が紹介されていたことに加え、我が家の実家があった場所でもある。家自体は祖父母が亡くなった後に取り壊されており、現在は駐車場となっており、その面影は残ってはいない。そのため訪れること自体が数十年ぶりになるという場所でもある。メインの目的地としてこの3ヶ所を選んでみた。後は当日の時間取り次第である。実際には最後に三井寺の琵琶湖疏水で締め括った今年の〝桜を見る旅〟、さあどの様なものになったのやら。

令和4(2022)年4月6日水曜日
朝はいつもスロースタート。車折神社は決めてはいたが、アレンジする場所を考える。時期的に桜〟は時期なので、今までに行ったことのない行き先を考える。ただ我が店の旅行センターで募集をしていた〝疏水船〟にちょっと関心があったので、そのことも踏まえて探した結果疏水散策もできそうな場所として山科の毘沙門堂を訪れることにした。

今日の相棒はmoveクン、一旦家を出てローソンで一服しながらナビ設定をする。敢えて高速を使う必要もなく、国道1号線を走った後に三条通へと入って行く。外環三条を右折すると真正面にJRの山科駅がある。その手前を右折して左折し、住宅地の中の様な道を走って行くと毘沙門堂跡に到着する。ピークシーズンは近くのグランドを臨時駐車場にされるために待ち時間もなく快適だった。

山科という場所は我が街大津市から最も近い場所であるが、いがいにも訪れたことがなかった。正式名称は護法山安国院出雲寺というが、天台宗京都五門跡のひとつであり、通称である山科毘沙門堂・毘沙門堂門跡という呼称で知られている。寺伝によると現毘沙門堂の前身としての出雲寺が第42代文武天皇の勅願により行基が開山したとされている。この前身の出雲寺は今の上京区にあったと言われており、界隈には〝出雲路〟の名前が残る上に、出雲寺伝承地付近からは奈良時代前期のものと考えられる〝古瓦〟が出土している。これらのことからも行基の開山説はともかく、その時代に〝寺院〟が建立されていたことは間違いないと考えられている。その後平安末期には出雲寺は荒廃していたようだが、その後比叡山延暦寺の根本中堂に倣って西(太秦)に平等寺を葛原親王が、東(五辻)に尊重寺を平親信が、中心(伏見)に護法寺を平範家がそれぞれ建立し据える配置とした。

その後鎌倉期にはそれら寺院を統合し、旧出雲寺跡に寺籍を継いだ新〝出雲寺〟が建立されるも、応仁の乱や織田信長の侵攻によって焼失する。再建はされるものの焼き討ちに遭うことの繰り返しだったようだが、江戸期に入り徳川家康の側近であった天台宗の僧天海によって現在地に於ける移転・復興が行われた。その他第111代後西天皇の第6皇子である公弁法親王は当寺で受戒し、晩年には毘沙門堂に隠棲しているが。その際に父である後西天皇の死後に御所から勅使門・霊殿・宸殿を拝領し、毘沙門堂に移築しており、それらが現在に至って毘沙門天堂門跡を構成している。

殆どの建物は江戸時代の建立であるが、中にはそれ以前のものを移設したものも残っている。霊殿脇にある弁財天は〝高台弁財天〟と呼ばれるもので、豊臣秀吉の母大政所が大坂城内に建立したものを、大坂夏の陣後に妻北政所が高台寺に移したものである。その後公弁法親王により毘沙門堂に遷座され現在に至っているものである。江戸初期の建造物である本堂・唐門は向唐破風造の門や堂の周囲の透塀など京都の仏堂建築ではあまり見られないものとなっている。日光東照宮に似せて作られたと言われる説が濃厚であるという。また本殿には天台宗の宗祖最澄伝教大師作と伝わる本尊の〝毘沙門天坐像〟(秘仏)が安置されている。唐門が入場口となっており、本殿・霊殿・宸殿と繋がっている。そして宸殿内部には江戸時代前期の絵師の狩野益信筆による障壁画がある。益信は狩野探幽の弟子であり、養子となって駿河台狩野派の始祖になった人物である。六室に障壁画116面が描かれており、人が動いて見ることにより絵の〝方向や位置〟が変わるように見える不思議な絵が描かれている。また宸殿御成之間上段の間に〝帝鑑図〟と〝梅花禽鳥図〟には、梅に山鳥と竹林にヒヨドリが描かれており、〝梅に鶯〟〝竹に雀〟の一般的にあ常識から外されている。これは洒落なのか〝鳥合わず(取りあわず)〟の意味を込めており、住職が会いたくない客人が通される間だったとわれていうる。その他庭園〝晩翠園〟は江戸時代初期の池泉回遊式庭園の造りを色濃く残している物であり、それだけでも入山拝観料を払ってでも見る価値は十分にあると思える建物となっている。

また毘沙門堂門跡は〝花の寺〟としての知名度も高く、シダレザクラの〝般若桜〟は勿論のこと、藤や紅葉でも見るために訪れる者が多い場所として知られている。特に春の桜の時期には境内の〝般若桜〟の他に咲くソメイヨシノや八重桜が建物を借景として〝景色〟を作り出している他にも、歩いて数分のところにある〝山科疎水〟では疎水を取り囲むように咲いている〝ソメイヨシノ〟の他に地元住民の方が世話されている〝菜の花〟、そして最近観光化されて人気のある〝疎水船〟が上り下りする景色を楽しむことが出来るようになっている。私自身の考えではあるが行く時間によってはかなりの混雑する毘沙門堂を一旦抜け出て山科疎水を散策し、また戻ってくるようなことも良いかも知れない。たまたまだったのかも知れないが、私が訪れたときは特に〝般若桜〟の付近に結構人だかりができており、カメラに写り込むことと、有料拝観となっている本殿・霊殿・宸殿も結構込み合っている様に見えたことだ。一旦仁王門を歩いて5分程度の距離の山科疎水を散策し、1時間少々疎水の周りを歩いて戻った頃には人だかりと呼ばれるものは解消していた。勿論この〝般若桜〟はインスタ映えする場所として知られていることもあり、若い子達も〝勅使門をフレームにして般若桜を写す〟なんてことも流行っているらしいため、やはり人が群れてしまうことは仕方がないことなのかも知れない。とは言え文句を言っても始まらないので、自らが違った行動を起こして〝密〟を避けるような状況を造りたいと考える…。そんなことが〝思いやり〟に繋がるのではとふと思った。

途中山科疎水に出向いた時間を含めて3時間ほど滞在し、当初の予定通り京都市内を東から西へと通り嵐山へと向かう。実際には〝嵯峨エリア〟になるのだが、その目的は何だったのであろうか?

《続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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