
2022/04/17 - 2022/04/17
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kojikojiさん
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松島を午後2時に出発したバスは1時間ほどで登米市に入りました。市の名前は登米(とめ)ですが、町の名前は同じ漢字でも登米(とよま)だそうです。NKHの朝ドラは見ていないのですが、「おかえりモネ」というドラマの舞台になった場所だそうです。「とよま観光物産センター 遠山之里」にバスは停車して、ここでは50分の自由行動になりました。登米町は明治時代の建物や街並みが残っていることで有名なようで、始めて来るので楽しみにしていました。まずは最寄りの「教育資料館」という登米高等尋常小学校の跡地に向かいました。資料館に入っている時間はありませんが、敷地内は自由に見ることが出来ました。そこから「旧水沢県庁舎」から桜並木の下の「武家屋敷通り」を歩きました。何とも風情のある通りは人通りも無く満開の桜がきれいでした。「春蘭亭」と書かれた門から鈴木家武家屋敷の中に入ると休憩所になっていました。茅葺き屋根のきれいな建物ですが、上がって休んでいる余裕はありません。同じ敷地内には「登米懐古館」という施設がありました。洒落たデザインだと思ったら隈研吾のデザインだそうです。この辺りで妻たちとは別れて、そのまま武家屋敷の通りを歩きました。「警察資料館」の先に土手が見え、「うなぎ割烹」の看板があるので、この先には川があるのだと思いました。はたして土手を上がってみると北上川の美しい流れが見えました。街並みも明治時代を感じさせますが、この川の流れもその頃から変わらないのだろうと感じます。「蔵造り商店街」はよくある地方の寂れた商店街でしたが、そんな中にも数件の蔵造りの建物も残っています。「油麩」の店も気になりましたが、戻らないとならないのと訳の分からないものを買って妻に怒られるかもしれないので気が引けました。実際は妻はすでに「油麩」を買っていました。ここから次の南三陸町までは20分ほどの移動でした。午後4時を過ぎた「南三陸さんさん商店街」はガラガラでしたし、隈研吾のデザインした橋を渡った先の「震災復興祈念公園」にも誰もいませんでした。東日本大震災の後に三陸に足を向けなかったのは安易な気持ちで震災の後を見るのが嫌だったのもありますが、実際に来てみると胸に詰まされる光景がそこにありました。「防災対策庁舎」の鉄骨に残った看板を見ると、ここで最後まで避難放送をして亡くなった方の話しが思い出されます。商店街では少しでもお金を使おうと新鮮なホヤの刺身で地酒も少しいただきました。この日宿泊する「ホテル観洋」も目の前に見えるので、商店街のコンビニでお酒や氷も買っておきます。巨大な防波堤を左に見ながらバスはホテルに向かいます。「ホテル観洋」は立派なホテルで、震災当時は3階まで津波が上がったと聞きます。この日は6階なので少し安心します。部屋はオーシャンフロントのオーシャンビューでした。早い到着だったので夕食まで3人で部屋飲みを楽しみました。夕食は会席料理ですが三陸らしい食材が並んでいます。アワビの踊り焼きはかわいそうな気もしますが柔らかくて美味しかったです。食後に入った大浴場の温泉は湯量も豊富で気持ち良かったです。話を聞くと女性の風呂の方が大きくて露天風呂の種類も多いようでした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 船 新幹線 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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松島を出たバスは三陸縦貫自動車道に入り登米に向かいます。車窓からは航空自衛隊 松島基地が見えました。添乗員さんから「今日は日曜日なのでブルーインパルスは飛びません。」と言われてがっかり。
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桜前線は福島県を通り抜け宮城県から岩手県が満開になろうとしていました。今月の旅は吉野山や信州の桜の名所を巡りましたが、どこも最高のタイミングでした。ここにきて全くノーマークだった桜を観るとは思いもしませんでした。
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北上川や旧北上川を何度か超えると登米はもうすぐのようです。
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登米町の「とよま観光物産センター 遠山之里」には午後3時に到着しました。登米市は「とめ」と読み、登米町は「とよま」と読むのだと初めて知りました。遠山が「とよま」の語源とされ、とよまの原音はアイヌ語の「トイオマ(食べられる土のあるところの意)」だそうで、登米町一帯はアイヌが食べたと思われるアルカリ性の白い岩石が多く発掘されるそうです。明治初めの郡区町村編制のときに簡易な読み方として「とめ」が郡名に採用され、郡名は「とめ」、町名は「とよま」と読むようになります。
とよま観光物産センター 遠山之里 お土産屋・直売所・特産品
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1時間ほどの自由時間になり、地図を貰って街歩きを始めます。まずは隣接する「教育資料館」に向かいます。ここは元々登米高等尋常小学校だったようです。尋常小学校は太平洋戦争の始まった昭和16年の1941年までの呼び名で、以降は国民学校に名前が変わります。この方々はそれ以降の現在の学制の小学校を出ています。
教育資料館(旧登米高等尋常小学校校舎) 美術館・博物館
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木造2階建ての素木造り、屋根は寄棟造り棧瓦葺きで平面はコの字形です。正面校舎中央にバルコニー式の玄関が突き出しています。バルコニーのある玄関ポーチの部分だけ当時から白ペンキ塗装だったようです。
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そのバルコニーの柱の柱頭はギリシャ建築のイオニア式を簡略化したもので飾られ、ペディメント(三角破風)のようなただの切妻のようなデザインになっています。
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教室の前面には吹抜けで欄干をもつ廊下が付けられており、明治の学校建築の特色を残しています。教室の窓は両側にあり、当時としては貴重な板硝子を使用しています。
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この校舎は明治時代の学校建築の流れや動向を知る上で手掛かりとなる非常に重要な遺構で、明治21年10月9日の竣工でにもかかわらず現在でも狂いがないそうです。日本の建築関係者の中で最初にヨーロッパに渡り洋風建築を学んだ大工で、この校舎の設計監督者だった山添喜三郎の名を高からしめた建築です。
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「水沢県庁記念館」
明治元年に始まった戊辰戦争で政府軍に敗れた仙台藩は領地を減封され、更に明治2年版籍奉還の命令が出されて仙台藩は分割になり、藩から返還された地域は「県」と呼ばれることになります。水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎) 美術館・博物館
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現在の宮城県の北部と岩手県の南部を管轄する地域を「登米県」と称し、この町に登米県庁舎が設置されることになります。明治5年水沢県庁舎として落成し明治8年まで使用されます。
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建物の玄関は堂々たる入母屋造の屋根をかけ、破風には狐格子を付した純粋な日本建築のようですが、本棟は洋風な木造平屋建てとなっていて、官公衙建築を代表する貴重な日本独自の洋風建築と言えます。
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ここから先は「武家屋敷通り」と呼ばれる一角で、その美しさに驚かされます。有名な観光地では角館や津和野などがありますが、ほとんど観光客のいない登米は貴重だと思います。本当にタイムスリップしたような感じがします。
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美しいシダレザクラが満開です。
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「四足門(よんそくもん)」には「みやぎ北上商工会登米支所」と看板が掲げられていますが、髷を結った侍が出てきそうな気配です。武家屋敷の門構えを見ると「四足門」や「長屋門」など上格なものから「棟門」と格式に応じたものになっていて面白いです。
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「棟門」の閉じられた清野家には2本のシダレザクラが植えられています。伝承によればこの桜は元禄年間の1688年から1704年に植えられたもののようです。仙台騒動のすぐ後に植えられ、幕末から明治の動乱をずっと見てきたのだと思うと感慨深いものがあります。
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偶然とは言えその桜の満開の時期に登米町に来ることが出来たのも何かの縁なのかもしれません。門の格式については昨年3人で行った鹿児島県の知覧町でも学びましたが、先に行ってしまった妻たちは気にも留めてないだろうなと思います。
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武家屋敷「春蘭亭」は慶長9年の1604年に白石宗直(後の登米伊達初代当主伊達宗直)が岩手県水沢城から登米に移るに伴って移住した鈴木家の屋敷です。創建年代は不祥のようですが江戸中期から後期にかけての建物で、200年以上前のものと言われています。
武家屋敷「春蘭亭」 名所・史跡
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外にある門を入った左側には土塀があり、堀重門(または中門)をつけて庭に入るのが登米の武家屋敷の習いのようです。造りは違いますが、知覧町の家々も同じような配置にはなっていました。
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平成元年の1989年まで持ち主の方が住んでいたそうですが、町に寄贈されて保存修理後に喫茶コーナーを設けたそうです。「春蘭亭」の名の由来は、この地に自生する春蘭を加工した「春蘭茶」を提供することから名付けられました。
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建物に使われている材は杉が多いようですが、縁側の板は水に強い栗の木ではないかと思います。縁台の円座がいい雰囲気です。古くは藁(わら)を用いて蓋(ふた)のようなので「わらぶた」とも呼ばれていました。平安時代初期の儀式などを記した「延喜式」にもすでに載っていて、それぞれ使用上の規定があったそうです。藺(いぐさ)の円座は径3尺、菅(すげ)は径3尺で厚さ1寸、蒋(まこも)の円座は径2尺5寸で厚さ5分だそうです。
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父は祖父の妹だった叔母が好きだったようで、よく連れられて遊びに行きました。春日部近くの大きな農家で、表通りから母屋まで200メートルくらいあったと思います。その母屋の土間には大きな臼があり、春先には庭で蓬を摘んで餅つきをしました。竹を切って竹馬を作ってもらったり、タケノコを掘りに行ったり楽しかった思い出が蘇ってきました。
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同じ敷地には「登米懐古館」という資料館がありました。昭和36年に寺池城址に建てられましたが、令和元年9月になって伝統芸能伝承館「森舞台」を手掛けた建築家の隈研吾の設計により移転新築したそうです。
登米懐古館 美術館・博物館
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登米町産天然スレート葺きの屋根には苔のような植物も植えられています。
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館内には登米伊達家ゆかりの甲冑「鉄黒漆塗五枚胴具足」、刀剣「太刀備州長船恒弘」、絵画「古歌咲く時は」伊達政宗、狩野探幽や大徳寺江月和尚合作など、城下町であった往時を偲ばせる貴重な品々が展示してあるそうです。残念ながら見学する時間はありません。「登米秋まつり」は延宝3年の1675年から始まったと伝えられます。館内に飾られた登米の山車は「とよま型」と呼ばれ、独特の飾り付けが素晴らしいです。
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何とも穏やかな春の午後です。桜の見事な日曜日なのに人が少なくてよかったです。
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庭に敷かれた石も隈研吾のデザインなのだと感じます。登米町産天然スレートが小口出しにしたり、面白い使われ方をしています。材質的には雄勝石(おがつ いし)という宮城県石巻市雄勝町に産出する黒色で光沢がある硬質の粘板岩と同じだと思います。東京駅の屋根にもこの天然スレートが使われています。
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檜皮葺の屋根が苔生す様を緑化ルーフで再現したそうです。杉苔とジュニパーという赤い花をつける苔の組み合わせのようです。
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正面のエントランスに伸びる石畳も天然スレートがきれいに敷かれています。
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エントランスに建つ「棟門」から「武家屋敷通り」に出ます。ここで妻たちとは別行動で観光を続けることにします。
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隣には「とよまだんご」の店がありましたが、日曜日だというのに閉まっていました。すでに完売の札が出ていました。みたらし、あんこ、ごま、くるみ、ずんだの5色だんごが定番のようです。きっとおいしいずんだなんだろうなと思います。
とよまだんご グルメ・レストラン
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最高の天候で最高の桜のタイミングの日曜日ですが、あまりにも静かな観光地です。
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「四脚門」とは2本の大柱に扉をつけ、4本の控え柱を貫で結び、切妻屋根をかけたものです。この門は元々は茅葺だったようですが、現在はスレート葺きに変えられています。登米伊達家の仙台屋敷は赤門だったので、それをまねて赤く塗ったそうですが、主君の許可を得ていなかったために剥がさせられたそうです。現在も所々に弁柄が残っているようです。赤門は大名家に嫁した将軍家の子女の御殿の門を丹塗(にぬ)りにしたものなので、江戸時代にもそそっかしい人がいたのだとほほえましく思います。
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「町屋ミュージアム菅勘資料館」
伊達政宗は領内の新田開発で収穫された米を北上川を利用して廻船するとこを考えました。江戸から明治にかけて北上川中流の交易の要として栄えた登米は艜船(ひらだぶね)で石巻まで米穀や繭や生糸を運び千石船で江戸深川や横浜まで取引を広めます。 -
艜船は日本全国の河川等で荷物や旅客を輸送し、江戸時代から大正時代にかけての水運で多く用いられています。長さ約15メートルから24メートル、横幅3メートルから4メートルで吃水の浅い川船で、大きな帆柱を持って帆走しました。
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「池田邸土蔵」は大正末期の1920年頃に建てられた商家の蔵で、書類や家財道具などを火災や自然災害から守るために文庫として使われたようです。
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大きな「火の見櫓」が見えてきました。昔は実家の近くにもありましたが、いつのまにか無くなってしまいました。昔のゴジラ映画というと必ず消防団が現れ、半鐘の音が印象的に使われていました。そんなことを思い出します。
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火の見櫓の足元には「警察資料館」がありました。
警察資料館(旧登米警察署) 美術館・博物館
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旧登米警察署庁舎は明治21年の1888年に金成警察署登米分署から登米警察署に昇格したのに伴い、庁舎新築に着工し翌明治22年に落成しました。設計監督は先ほど見てきた旧登米高等尋常小学校を手掛けた山添喜三郎によるもので、明治の事務所建築としては極めて珍しいもので昭和63年の1988年に県の文化財に指定されました。構造は木造2階建てで、下見板張り白ペンキ塗り寄棟の瓦葺きで、突き出した玄関の2階はバルコニーとなっています。
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屋根は切妻造りで鬼瓦が載せてペディメント(三角破風)を形成しています。玄関の屋根下の白壁には金色の警察紋章が輝いており、柱には堅溝を彫りつけてイオニア式の柱頭で飾られています。
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ここから「蔵づくり商店街」へと左折するのですが、そのまま進んだ先に「うなぎ割烹清川」の看板が見え、その先には土手が見えます。なるほど、その先には北上川があるのだと感じます。
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慶長13年の1608年に新田開発の一環として北上川の氾濫を防ぐための「相模土手」でした。その先には雄大な北上川の流れが見えました。ここまで艜船(ひらだぶね)が石巻から遡ってきたのかと思うと、往時の登米の賑わいを想像することが出来ます。
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現在は行き交う船の姿もありません。屋形船でもあれば人気が出るのではないかと思います。NHKの連ドラの舞台にもなっているので、上手くすれば先日行った小布施のようになれそうな気がします。誰もいない川べりの桜が満開でもったいないです。
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大正8年の1919年に制定された市街地建築物法の影響で、建物は敷地の境界線から突出してはならないことになります。また準防火という考え方から木造建築の外壁をモルタルや金属板やタイルといった不燃性の材質で覆うことを義務づけられます。まさにその時代の「看板建築」のお手本のような建物がいくつもありました。
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「鮱武(えびたけ)旅館」は北上川の水運で栄えた歴史を感じさせる創業250年の旅館です。昔はこのような宿屋がたくさんあったのでしょうね。見たところこの旅館くらいしか残っていないようでした。
えびたけ旅館 宿・ホテル
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「鈴彦商店」の創業は江戸時代に遡るようで、明治時代に入ってから味噌や醤油などの醸造業を営み、戦後は薬品を中心に繫栄したようです。本店の店蔵は2階建ての土蔵造り寄棟に瓦葺きの建物で、脇には土蔵と棟門を備え持つという旧仙台藩領で見られる典型的な豪商の町屋です。
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そろそろ時間が無くなってきたのでバスに戻りながら「寺池館跡」にも立ち寄りました。築城年代は定かではないようですが、葛西氏によって築かれたと云われます。葛西氏は下総国葛飾郡葛西荘発祥で、葛西清重は奥州藤原氏攻めの戦功によって奥州に広大な所領を得て奥州総奉行に任命されています。
寺池館 名所・史跡
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葛西清重は奥州藤原攻めの後に鎌倉に戻り幕府に出仕しており、奥州の所領は二男の朝清に与えられて、寺池に下向し奥州葛西氏となります。南北朝時代には寺池葛西氏と石巻葛西氏に分かれましたが、戦国時代には寺池館が葛西氏の居城となっています。
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天正18年の1590年に奥州仕置きによって葛西氏は改易となり、奥州仕置きで功のあった木村吉清が三十万石で寺池館に入りましたが、葛西大崎一揆が起こり木村父子は佐沼城に押し込められ、援軍として駆けつけた蒲生氏郷と伊達政宗によって助けられました。一揆の責任を問われた木村吉清は改易となって、木村氏の旧領は政宗に与えられ、伊達氏の家臣である白石宗直が水沢より移り、登米要害として維持されます。白石氏は天和2年の1682年に伊達姓を賜わって登米伊達氏となり明治まで続きます。
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あまり情報も無く来てしまった登米でしたが、1時間ほどで周るのはもったいない場所でした。せめてあと1時間あれば資料館で勉強できたと思います。妻は名産の「あぶら麩」をしっかり買い求めていました。家に帰ってからすき焼きに入れていただきましたが、味が良くしみて美味しかったです。
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北上川を渡って南三陸町に向かいます。北上川を遡っていけば旅の終わりの盛岡に繋がっていますが、旅はまだこれからです。
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車窓の景色は相変わらず春真っ盛りです。
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北上川はこの辺りで蛇行しているので何度も渡ることになります。
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登米市を出て南三陸町までは一般道を20分ほど走りました。まだここまでは宮城県内を走っています。
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「南三陸さんさん商店街」の駐車場にバスを停めます。観光バスは1台も無く、自家用車も数えるほどしかありません。
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まずは「南三陸町震災復興祈念公園」に向かうことにします。東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町のことは11年を経ても脳裏に焼き付いています。その現実の場所に来るにはずっと躊躇いもありました。
南三陸町 震災復興祈念公園 公園・植物園
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物見遊山のツアーで来る場所ではないなと思いながらも、行かないよりは行った方が良いだろうという思いでした。復興はまだまだと言いながら、莫大な費用がかけられてきれいに、そして安全に整備されているという印象を受けました。
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中橋(なかはし)は南三陸杉をふんだんに利用したウッドデッキの太鼓橋で、復興のシンボルとして新しいスポットとなったようです。夜には橋全体がライトアップされ幻想的な姿が浮かび上がるそうです。この橋の設計も登米で「登米懐古館」を設計した隈研吾だそうです。
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あまりにきれいになりすぎて人の営みの生活感も、生き物の気配すら感じない場所です。この防波堤にはそんな印象を受けました。
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「汐見橋」の先にはニュースで見た三陸の海が広がっています。あの時のどす黒い海水など考えられないような青い海です。
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橋を渡って復興祈念公園に入りました。古代の円墳のような台地しかないので巨大な墳墓のように見えます。周囲はほとんどが整備されている空き地です。これは空き地にしているのか誰も住まないのか…。
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左手には「南三陸旧防災対策庁舎」の建物の鉄骨の骨組みだけが残っていました。屋上の床上約2メートルの高さまで津波にのまれ、屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人で、アンテナにつかまることができた人と手すりで必死に耐えられた人たちだけだったと記憶しています。
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防災無線のマイクを握った町職員の遠藤未希さんが「6メートルの津波が予想されます」「異常な潮の引き方です」「逃げてください」と最後まで放送して非難しながらも助からなかった話を思い出すと、観光のツアーで来て申し訳ない気持ちにもなります。
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津波による死者は620名で行方不明者がまだ211名いらっしゃるようです。南三陸町は湾の奥に行くほど狭まる複雑な地形の影響などから、明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)、チリ地震(1960年)など、過去に何度も津波の被害を受け、東日本大震災の津波は市街地など低地のほとんどをのみ込み、住宅や商店が密集する志津川地区では最大23.9メートルを記録したそうです。
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写真を撮ってスマホでいろいろ調べていたら2人から遅れてしまいました。翌日は海岸線を旅することになりますが、まだ工事中の防波堤の多さには驚きました。個人事業主で青色申告時に復興の税金を記載する際には大きな金額だなと思いますが、こうやって地域の役に立っているのだと思うと納得も出来ます。
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この日の海は本当に穏やかでした。こんな海が十数メートルの津波で押し寄せるとは想像も出来ません。
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湾の先にはこの日泊まる「南三陸ホテル観洋」の建物も見えました。あの建物も3階まで津波を被ったと聞いています。
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「南三陸さんさん商店街」にも立ち寄りました。日曜日だというのに観光客の方の姿はほとんどありません。震災について書かれたパンフレットなどもいただきました。
南三陸さんさん商店街 市場・商店街
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壁に貼ってあった写真パネルは、現在地が記入されているのでリアルに感じられました。11年前までここにあった町がごっそり無くなってしまっている現実が目の前にあるのですから。
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観光客が出来ることは現地でお金を使うことくらいです。鮮魚店では美味しそうなホヤが売っていました。東京で食べると美味しいと思えませんが、以前に八戸の居酒屋で食べたら美味しかったのでトライしてみます。
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新鮮な魚もたくさん並んでいましたが、まだ初日なので買って帰るわけにはいきません。
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アワビを食べて育った志津川のタコも美味しそうです。
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ホヤを1皿買って一口食べたらやっぱり日本酒が必要です。
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妻に地元の1カップを買ってきてもらいました。2人で交互に飲んでは食べて。バスに戻る前に商店街の中にあるコンビニで缶チューハイと氷を買っておきます。ホテルのベンダーだと好きな銘柄がありませんから。
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1時間ほどの滞在で再びバスに乗ってホテルに向かいます。
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左手には震災遺構になっている 「ブライダルパレス高野会館」の建物がありました。この建物の4階までが水に浸かったと添乗員さんのアナウンスがありました。
震災遺構 ブライダルパレス高野会館 名所・史跡
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外壁に表示がありましたが、小さくて分かりません。この写真は翌朝にもう1度撮ることが出来ました。
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津波の真っ黒な海水と共に堤防を越える漁船の姿が思い出されます。震災の翌日から新聞5紙を2週間ほど買い求めて残してありますが、その当時は買っただけで読むことは出来ませんでした。
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「南三陸ホテル観洋」に到着しましたロビーでホテルの方から滞在中のレクチャーがあって部屋に向かいます。
南三陸 ホテル観洋 宿・ホテル
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14人の小さなツアーなのでエレベーターも混雑しないので助かります。この日は大型バスで来たのは我々だけのようでしたが、宮城県の県民割が開始されているようで、個人客の方が多いようです。
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東京都はGoToも早々に中止になったままで、都民割も行われていません。同じ税金を払いながら地方の方にばかり恩恵がある現状はこの先どうなるのでしょうか?
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部屋は6階なので津波の心配はしなくて済みそうです。
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早朝からの移動と観光だったので、ホテルに早く到着してよかったです。部屋は9畳という中途半端な広さです。JTBのツアーでは3人で参加した時は広い部屋でしたが、トラピックスでは他の2名参加の方と同じでした。
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洗面台はスペースが広いので女性2人に自分のものを置いても余裕がありました。
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下に大浴場があるので部屋の中の風呂は使いませんでした。
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トイレは離れた場所に独立しているのでありがたかったです。
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部屋からは志津川湾がきれいに望めます。ちょうど夕方の陽が沈みかけた雰囲気の良い時間帯です。
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ここは日本初の海藻藻場として「ラムサール条約湿地」に登録されています。「海藻の森と海草の草原」である志津川湾では、210種以上の海藻や海草類が確認されているそうです。冷たい海を代表するコンブ類「マコンブ」と暖かい海を代表するコンブ類の「アラメ」の森が同じ場所で見られる世界的にも珍しい海だそうです。
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2011年の東日本大震災で南三陸町の養殖は大打撃を受けますが、世界や日本中からの支援を受け、今は豊かな海に戻った志津川湾ではギンザケやワカメ、ホタテやホヤ、牡蠣などの養殖が盛んです。
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ワカメは2月に行った徳島県の鳴門で養殖について学んだ上に、ボートに乗って収穫にも行きました。そして収穫したワカメを茹でて、塩蔵体験もしました。鳴門では2月と3月が収穫のシーズンですが、さすがに北の湖は水温も低いので4月でも収穫真っ最中でした。
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この海を見て美味しそうだと思ったのは妻と2人だけだと思います。それくらいにとれたてのわかめを水洗いしてそのままシャブシャブで食べたものは美味しかったです。
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窓を開けていたらウミネコが遊びに来ました。日本にいるカモメの種類の中で最も多く見られるのは中型カモメの「ウミネコ」です。「カモメ」も同じ仲間ですが、名前の割に数は多くなく、実はほとんど見ることができません。
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カモメは日本には冬鳥として越冬のため日本全国に飛来し、春夏には繁殖のため再び日本を離れる渡り鳥ですが、ウミネコは沿岸に通年棲息する留鳥です。
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ウミネコは夏から秋にかけて餌になる魚を追って移動するため、漁師には「漁場を教えてくれる鳥」として大切にされてきました。繁殖地が日本とその近海に限られるため、青森県や山形県、宮城県や島根県など集団繁殖地の多くは国の天然記念物に指定され保護されています。
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カモメと似た体の色をしていますが、背中と翼表面の灰褐色がカモメより濃く、尾羽に黒い帯模様が入ります。鳴き声が「ミャーミャー」とネコに似ていることが名前の由来で、漢字では「海猫」と書きます。
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先ほど見学してきた「南三陸町震災復興祈念公園」に夕日が当たっています。このホテルの背後は山になっているので少し薄暗いです。ただ、翌朝の朝日の美しさは言葉にならないほど美しかったです。
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午後6時30分から4階の「磯浜」で夕食になりました。小さめの宴会場で14人一緒の食事ですが、テーブルはかなり離れています。以前は食事時に同じツアーの方とお話しするのが楽しいこともありましたが、コロナになってからは一切そのようなことは無くなりました。
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「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」なんて、妻のキャッチフレーズみたいな言葉が掛かっています。毎日楽しそうで羨ましい限りです。部屋でもだいぶお酒をいただいてきましたが、仕切り直してビールから再スタートします。
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料理と一緒に「おしながき」も置かれてあります。
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「南三陸ホテル観洋」はこの辺りでは歴史もあり、温泉と食事が人気のホテルのようで、特に食事は楽しみにしていました。先付けは小鉢に入った鰊のマリネ、オレンジの香りが良いです。酢の物はタコとサイコロ状のモズク羹と海苔羹とオクラ。
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前菜の5点盛りは煮凝りとトウモロコシの天ぷらとソラマメと鯖ずしと柚子風味の白あん。
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お造りはマグロとメカジキと帆立と甘えび。
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コンロに火が入れられ、友人にアワビの踊り焼きを見せようと動画を撮り始めて、蓋を取ったらからなのでびっくりしました。なんと蓋の裏に隠れていました。
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台の物は春の若竹の鍋でした。我が家にとって今年の初物でした。
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煮物は飛竜頭に餡をかけたもの。
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合肴(あいざかな)はメカジキのハーモニカ煮という料理でした。これはメカジキのヒレの付け根の肉の煮つけで、気仙沼の名物料理です。これはご飯が進みましたが、仲居さんは料理の説明などしてくれないので、後で調べて分かりました。他の食材も地元の物なのだと思いますが、お忙しそうなので尋ねられなかったです。
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アワビの踊り焼きが出来上がりました。ナイフとフォークでスライスしていただきましたが、柔らかくて美味しかったです。途中から登米市の「澤乃泉」という日本酒に切りかえました。
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三陸の味を楽しんだ後は部屋で少し休んで大浴場に向かいます。
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岩盤の上に建つホテルで温泉を掘るのは大変だったそうですが、2004年に南三陸温泉が開湯したそうです。内風呂は海側がガラス張りで志津川湾が一望できます。露天風呂は階段を少し降りたところにあり、ライトアップされた海面にはウミネコがたくさんいました。給湯が壊れているのではないかと心配してしまいそうなお湯が滝のように流れてきます。
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男湯も良かったですが、話を聞いていると女湯の方が良さそうでした。妻の友人が一緒だと大浴場で転んでいないか心配しなくて良いので気持ちが楽です。つい数年前までは母を妻に見てもらっていたのですが。
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大浴場からの眺めもこんな感じでした。海面近くを飛ぶウミネコが白い線になって写っています。
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部屋に戻ってさんさん商店街のコンビニで買ってきた缶チューハイに氷を入れて宴会が始まります。楽しかったけど長い1日でした。翌日から本格的な三陸海岸の旅が始まります。
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旅行記グループ 2022三陸海岸の旅
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