1966/08/26 - 1966/08/31
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kojikojiさん
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昭和41年の1966年の夏の旅は8月26日に上野から夜行列車で仙台に向かい、翌朝から蒸気機関車で陸中海岸の旅に向かいました。夏の暑い時期ですから扇風機は回っていても列車の窓は全開でした。ただ、トンネルの多い区間なので窓を開けたままだと煙が窓から吹き込んできます。当時はまだ5歳になったばかりなので記憶は曖昧ではありますが、前の年の富士山の登山とこの陸中海岸の旅はよく覚えています。父の遺したアルバムと膨大なフィルムを整理して、自分の記憶と資料で旅行記を作ることが出来ました。父の時代にパソコンとフォトショップと4トラベルのようなものがあったらさぞ楽しかったのではないかと思います。その残されたものを整理しながら、記憶をたどる旅をするのも楽しいものではあります。宮古からバスで浄土ヶ浜に至り、そこでキャンプをしています。現在ではキャンプ場はありませんが、遊覧船の出ている港の辺りでテントを張ることが出来ました。この旅行には父の会社の後輩の方が一緒の3人旅でした。一緒に手漕ぎボートに乗って青の洞窟まで行ったことも覚えています。キャンプ場は松林の中にあり、コンクリート製のテーブルとベンチが置いてありました。現在は廃止になっていますが、浄土ヶ浜から姉ヶ崎や田老港を越えて真崎まで行く遊覧船もありました。真崎でもキャンプをしましたが、翌朝の日の出を見るために起こされました。5歳の子供を朝4時過ぎに起こさなくても良いと思うのですが、父の教育方針だったのだと思います。この時の日の出についてはよく覚えていて、家に帰ってから母の提案で絵日記を作りました。幼稚園の課題ではあったのですが、絵巻物にして海岸から持ち帰った砂を糊で貼り付けて砂絵にしました。この日の朝日は陽炎のように輪郭が曖昧になって、5歳の子供には四角く見えました。絵日記にもそう書いたのですが、父に「太陽が四角いわけがない。」と怒られたことは60歳になっても覚えています。その後はバスで嶋ノ越からザッパ船をチャーターして北山崎を越えて普代まで行きました。この時の北山崎のクルーズも記憶に残っています。船頭さんに10センチくらいの白いサンゴの塊を貰って嬉しかったことです。ただ持ち帰ったサンゴを金魚の水槽に入れたら溶けてしまい、金魚も死んでしまうという悲しい結果になりました。北山崎からは黒崎灯台に行き、岸壁の上から下を行く遊覧船に手を振ったこともよく覚えています。船からはガンガン音楽が流れていました。黒崎でバスを待つ間に「薔薇が咲いた」という曲を誰かがギターで弾いてくれたのも覚えています。父の後輩の人かと思っていたのですが、ギターを持っていた記憶は無いので行きずりの人だったのかラジオだったのか記憶が曖昧ではあります。この曲はまさに1966年にヒットしたのでこの曲を聴いたのは間違いありません。普代から尻内へ電車で移動して、久慈まではバスで移動し、ここでまた蒸気機関車に乗り、夜行列車に乗り継いでという5日間のハードな旅でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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昭和41年の1966年に父と一緒に陸中海岸を旅しました。記憶の残っている4歳だった昭和40年に富士山に登って以来毎年のようにハードな旅が続きました。
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大枠の旅についての記憶として残っていましたが、その順番などは5歳だったので曖昧なところもあります。
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その断片的だった旅の記憶をつなぎ合わせるには父の遺したアルバムが必要でした。
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そのアルバムを見ていると蘇る記憶もあるものです。
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その記録によると8月26日の仕事終わりに家に一度戻ってきた父と一緒に上野駅に行き、夜行列車で仙台に向かったようです。
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翌朝に仙台に到着して列車を乗り換えましたが、蒸気機関車だったのを覚えています。
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父の遺したアルバムの地図では当時の山田線(現在の三陸鉄道)で宮古に入っていますが、どのようなルートだったか確認する術はありません。
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もう1つの資料として昭和39年度版の日本交通公社の「旅程と費用」という本が残されていました。
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この本を買った2年後の旅なので参考にしなかった訳が無いだろうと思います。昭和39年で1700円という値段は当時としては高価だったのだろうと思います。
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陸中海岸については6ページほどの記載がありました。この本には日本全国が網羅されていて、返還前の沖縄の情報も入っています。
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写真については巻頭にまとめてあるだけです。文章だけで読み込まなければならないのは最近のビジュアル系のガイドブックに慣れていると想像するしかありません。
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細かく読み込んでいくと公共交通機関で旅をするのは時間がかかったのではないかと思います。この旅ではキャンプだったのでホテルや旅館の予約はありませんが、この当時は電話や往復はがきで申し込みをして、郵便為替で送金して初めて予約が出来るような時代でした。
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そう考えるとこの20数年のインターネットを使っての予約や代金の振り込みなど便利な時代になったと思います。現地での情報もネットで検索できるので、だれかと話をすることも少なくなったように思います。
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果たして便利になったことが良いことなのかは分かりませんが、バックパックで旅していて知り合った人と30年近く手紙のやり取りをしていることを振り返るといい時代だったと思います。
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地図によると宮古からはバスに乗って浄土ヶ浜に入ったのは間違いないと思います。
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浄土ヶ浜の海岸で父と撮った記念写真です。浜には手漕ぎボートが並んでいます。これは55年経って分かるのですが、現在の湾内の遊覧ボートの出る港の辺りです。
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白木山の辺りから浄土ヶ浜を望んだ写真です。大型の遊覧船がまだあった時代です。この遊覧船は2021年までは湾内を航行していたようです。
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浄土ヶ浜の地質は軽石凝灰岩で、その生成は海底に積もった火山灰が溶岩による隆起によって海面上に現れたと考えられています。岩上には岩手県の「県の木」であるナンブアカマツなどの木々が美しい姿を見せています。
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現在は無くなってしまったキャンプ場です。この5歳の旅がキャンプデビューだったと思います。
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キャンプ場にはコンクリート製のテーブルとベンチがありました。
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55年後の2022年に浄土ヶ浜でボートに乗った際に、年配の船頭さんと話をしてキャンプ場の場所が分かりました。その時の会話で「キャンプ場にはコンクリート製のテーブルとベンチがあったでしょう。」と言われたときは長年のもやもやが晴れた気がしました。
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遊歩道や船着き場は現在とだいぶ変わっているようです。
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往復共に夜行列車で1週間近くのハードな旅程に5歳の子供を連れ回していたのだと思います。でも、55年経っても楽しかった旅のことを覚えているので結果としては良かったのだと思います。
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背景の入り江を形成する岩塊の姿はほとんど変わっていないようです。
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海岸の名の由来は天和年間の1681年頃に宮古山常安寺7世の霊鏡竜湖が「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたといわれます。入り江側の反対側の景観は、「剣の山」「賽の河原」「血の池」など青森の恐山の地名と共通する名前が付けられています。地獄と極楽は表裏一体なのですね。
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父の同僚の方が手漕ぎボートで湾内を周ってくれたのもよく覚えています。
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手漕ぎボートで青の洞窟まで入った時はちょっと怖かったのも覚えています。
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父との旅行では「疲れた。」とか「眠い。」などの言葉を言えなかったと思います。我ながらよくついて行ったと思います。北アルプスの登山を始めてからは「ここから落ちたら死ぬな。」と何度も思いました。初めて死について考えたのはこの旅の前年の上高地でのことでした。
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現在は運行していませんが、沖松島巡りや船越半島を巡る観光船が運行していました。
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この頃から遊覧船やフェリーに乗るのが好きになってしまい、その習慣は歳を重ねても変わることはありません。
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船本体の鉄錆の臭いやエンジンの振動や排気ガスの臭いなどが蘇ってきます。五感で感じた旅は55年経っても記憶に刷り込まれているようです。
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箱眼鏡を使ってアワビかウニを獲っている漁師さんのようです。この頃は食べ物に思い入れなどは無かったので、何を食べていたか記憶はありません。この当時はガスボンベも無いので、ホワイトガソリンのコンロでインスタントラーメンを作っていた記憶はあります。
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観光船の乗船場所が浄土ヶ浜だったのかは分かりませんが、地図を見ると日出島から姉ヶ崎、佐賀部、田老を経て真崎まで移動したようです。
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この辺りの写真の順番などはもう調べようがありません。
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北山崎のクルーズの写真が混ざってるかもしれませんが、観光船の視線の高さとザッパ船の低い視線での写真で仕分けしています。
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陸中海岸を北上しているのに南下しているような写真もありますが、どの辺りなのか。父が健在だったとしても覚えているわけは無いですね。
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現在は「三陸復興国立公園」という名前ですが、この当時は「陸中海岸国立公園」でした。
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チリ地震津波で三陸海岸は被害が大きかったのは小学校の頃に教わった記憶がありますが、そんな津波の6年後に子供を連れてよく旅したものだと思います。
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55年経った2022年にツアーバスで南三陸町から北山崎をバスで周りましたが、交通手段が進んでなかった昭和41年によく行ったものだと感心します。
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風景以外に何かが写り込んでいる写真は後々になって便利だと思います。現在はデジカメなので撮影した時間まで確認することが出来ます。
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逆に写真を撮ってその時間にどこにいたのかを把握するために意味のない写真を撮ったりもします。フィルムカメラの時代には考えられなかったことです。
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海に色の美しさは現在も変わりませんが、2011年の3月11日の東日本大震災はやってきます。
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ザッパ船が観光船尾横を通り過ぎていきます。
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真崎の中の浜海岸でキャンプをしたようです。
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これがどこなのかは記録が残っていないので分かりません。大きな砂浜にテントを張っているのは我々だけだったことは覚えています。
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子供1人で砂遊びをしてもつまらなかったことを覚えてきます。
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そして父のおもちゃになって砂に埋められました。
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この時近くに1軒だけ民家なのかキャンプ場の管理している建物がありました。その家でその当時の水色のプラスチックのゴミ箱に水をもらいました。そこから水を汲んで洗面だったり炊事に使ったのですが、間違って食べ終わった食器を入れてしまいました。絶対父に怒られると思ったのに、怒られなくて拍子抜けしました。
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この海岸にはもう1つの思い出があります。それは翌朝の日の出の時のことです。朝5時前に5歳の子供を起こして日の出を見せるのもどうかと思いますが。
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この時の朝日は海面の陽炎のせいで四角く見えました。太陽は丸じゃないんだと思ったのですが、家に帰って幼稚園の夏休みの絵日記にこの時のことを描きました。母が普通の絵日記ではなくて巻紙を用意してくれて、この海岸の砂を糊で貼って砂絵にしてくれました。
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1週間の旅を絵巻物にしたのですが、この日の日の出の太陽を四角く描いたら父に「太陽が四角いわけないだろう。」と怒られたことは55年経っても忘れられません。
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北山崎クルーズは小さな漁船に乗って嶋ノ越漁港から大田名部に向かって出発しました。親切な船頭さんにかわいがってもらい、網にかかったサンゴをお土産にいただきました。10センチも無かったと思いますが、白くてきれいなサンゴでした。
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矢越崎の岩に開いた穴の中を通る際の見上げた時の景色は忘れられない驚きを感じさせてくれました。
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この時の景色を長年もう一度見たいと思っていました。結婚してからは一度も行ったことのない妻にも見せたいと思っていました。そんな中で2011年の震災があり、安易に訪れてはいけないと思いました。
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55年後の2022年に三陸海岸を訪れることが出来ましたが、洞穴を通過できるようなザッパ船ではなく、大型の遊覧船だったのは少し残念でした。
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ミノシタ断崖の写真を見て笑ってしまったのは、55年後も同じような午後の時間にこの下を通過したので太陽に対して逆光になってしまい、同じような写真しか撮れませんでした。
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旅の途中で通過した「槙木沢橋」です。東は三陸の海で西は海岸段丘に囲まれた岩手県田野畑村は陸の孤島でした。田野畑に赴任する役人や教師があまりの険しい断崖の道に「行くか、戻ろうか」と思い悩んだ思案坂、職を投げ出してまで帰ってしまった辞職坂を越えて、ようやく隣村とつながっていたということです。思案坂には昭和40年の1965年に「槙木沢橋」が、辞職坂には昭和59年1984年に「思惟大橋」が架橋されました。現在は2つの橋が並行していますが、これは昭和41年の旅なので橋は1つしかありません。
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ここは海岸線のアンモ岩の形から「アンモ浦展望台」だと分かりました。「槙木沢橋」といい、グーグルのストリートビューの力ってすごいと思う瞬間です。
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国民宿舎くろさき荘のベンチに座って、眼下を通過する観光船に手を振ったこともよく覚えています。船からは大音量で音楽が流れていました。
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この時にここでマイク真木の「薔薇が咲いた」を聞いたことを覚えていました。誰かがギターを弾いていた記憶があったのですが、後年になって父と話したらその記憶は間違いだったようです。父の同僚の方がラジオを持っていたので、そこから流れた曲だったのかもしれません。
https://www.youtube.com/watch?v=hNHlyGgcpdM -
黒崎灯台のバス停から久慈行きのバスを待ちます。
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バスに乗って久慈に向かいます。この当時のバスはエアコンなど無いので、全面が明けられるようになってそこから風が入ってきます。オート三輪なども同じシステムでした。
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昭和41年の1966年の国鉄の久慈駅はこんな小さい駅舎でした。背後から煙が上がっていることから蒸気機関車が停車しているのが分かります。
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蒸気機関車に乗って久慈駅から八戸駅の1つ先の尻内駅に向かいます。
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尻内駅に着きました。ここで夜行列車の来るのを待ち、1晩かけて上野まで戻りました。
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こんなハードな旅はしたくないですね。その当時の夜行列車の環境も劣悪で、真夏でもエアコンも無くて暑苦しかったし、とても混雑していました。でもそれが当たり前だった時代でもありました。
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