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「赤松院」という宿坊について旅行前にネットの評判を調べましたが、あまり良いことがかかれていないこともあって心配していましたが、全くの杞憂に終わりました。建物自体は古いですが、「明徳殿」はリニュアルされていて部屋の扉を開けた瞬間に新しい畳の匂いがしました。トイレとシャワールームと洗面台も新しいもので、お湯の量も温度も申し分ないです。部屋には布団が敷かれてありましたが、ふかふかでした。すでにヒーターで部屋は暖められていましたし、奥にはこたつも置かれてあります。冷蔵庫が無いのだけが残念ですが、掃き出し窓と障子の間に20センチほどの隙間があるので、飲み物はそこに置いておけば冷えたままでした。午後6時から1階の大広間で精進料理の夕食になりました。この日は妻の誕生日なので麦般若(ビール)も1本付けました。食事の後は出家してもらいましょう。ツアーの日程では食事の後は「壇上伽藍」のライトアップのナイトツアーがあり、これも案内人の方が説明してくれます。「奥の院」のガイドツアーは普通に申し込みが出来るようですが、「壇上伽藍」のツアーは旅行会社のオリジナルなのかもしれません。実際に我々以外に訪れている人はいませんでした。今回のツアーで残念だったのは「金剛峯寺」と「高野山霊宝館」に行けなかったことと、周囲のお店が開いている時間に滞在できなかったということです。また何年かしたら訪れたいと思いました。「壇上伽藍」の参拝が終わると現地解散になりますが、希望者は「大門」まで行くことも出来ました。妻は町内で唯一開いているファミリーマートで待っていましたが、入れ代わり立ち代わりに若いお坊さんが買い物に来るのが面白かったと言っていました。「赤松院」に戻ると午後9時前で、急いで大浴場に向かいます。ここには小さな湯舟2つと比較的大きめの湯舟の3つがあるようですが、ツアーは女性が多いので、大きな風呂は女性用になっていました。風呂に入った後は部屋でお酒を飲んで早めに寝ることにします。翌朝は午前6時30分から朝のおつとめがあります。この日1日で歩いたのは24,000歩にもなっていました。軽く17キロは歩くことになるハードな1日でした。<br />

トラピックス 世界遺産高野山の宿坊に泊まる壇上伽藍ナイトツアーと吉野山千本桜(3)妻の誕生日を精進料理と麦般若で祝うロマンチックな夜。

5いいね!

2022/04/05 - 2022/04/05

778位(同エリア1091件中)

旅行記グループ 2022高野山・吉野千本桜の旅

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kojikoji

kojikojiさん

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「赤松院」という宿坊について旅行前にネットの評判を調べましたが、あまり良いことがかかれていないこともあって心配していましたが、全くの杞憂に終わりました。建物自体は古いですが、「明徳殿」はリニュアルされていて部屋の扉を開けた瞬間に新しい畳の匂いがしました。トイレとシャワールームと洗面台も新しいもので、お湯の量も温度も申し分ないです。部屋には布団が敷かれてありましたが、ふかふかでした。すでにヒーターで部屋は暖められていましたし、奥にはこたつも置かれてあります。冷蔵庫が無いのだけが残念ですが、掃き出し窓と障子の間に20センチほどの隙間があるので、飲み物はそこに置いておけば冷えたままでした。午後6時から1階の大広間で精進料理の夕食になりました。この日は妻の誕生日なので麦般若(ビール)も1本付けました。食事の後は出家してもらいましょう。ツアーの日程では食事の後は「壇上伽藍」のライトアップのナイトツアーがあり、これも案内人の方が説明してくれます。「奥の院」のガイドツアーは普通に申し込みが出来るようですが、「壇上伽藍」のツアーは旅行会社のオリジナルなのかもしれません。実際に我々以外に訪れている人はいませんでした。今回のツアーで残念だったのは「金剛峯寺」と「高野山霊宝館」に行けなかったことと、周囲のお店が開いている時間に滞在できなかったということです。また何年かしたら訪れたいと思いました。「壇上伽藍」の参拝が終わると現地解散になりますが、希望者は「大門」まで行くことも出来ました。妻は町内で唯一開いているファミリーマートで待っていましたが、入れ代わり立ち代わりに若いお坊さんが買い物に来るのが面白かったと言っていました。「赤松院」に戻ると午後9時前で、急いで大浴場に向かいます。ここには小さな湯舟2つと比較的大きめの湯舟の3つがあるようですが、ツアーは女性が多いので、大きな風呂は女性用になっていました。風呂に入った後は部屋でお酒を飲んで早めに寝ることにします。翌朝は午前6時30分から朝のおつとめがあります。この日1日で歩いたのは24,000歩にもなっていました。軽く17キロは歩くことになるハードな1日でした。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
観光バス 新幹線 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

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  • 「赤松院」の「明徳殿」という建物の1階から3階までが客室になっています。旅行前にはいろいろなサイトで宿坊については調べてありましたが、評判の良いのと悪いのが極端だったので心配していました。

    「赤松院」の「明徳殿」という建物の1階から3階までが客室になっています。旅行前にはいろいろなサイトで宿坊については調べてありましたが、評判の良いのと悪いのが極端だったので心配していました。

    赤松院 宿・ホテル

    宿泊した部屋は改装済みでとてもきれいでした。 by kojikojiさん
  • ところがその心配はすぐに杞憂だったと分かりました。部屋の扉を開くと玄関の右側に水回りがあります。扉を開けた瞬間い新しい畳の青臭い香りがしました。

    ところがその心配はすぐに杞憂だったと分かりました。部屋の扉を開くと玄関の右側に水回りがあります。扉を開けた瞬間い新しい畳の青臭い香りがしました。

    赤松院 宿・ホテル

    宿泊した部屋は改装済みでとてもきれいでした。 by kojikojiさん
  • 次の間の奥には6畳間があり、既に寝具の用意がされていました。布団はふかふかです。エアコンと別にヒーターがあり、スイッチが入っているので部屋の中は温かかったです。

    次の間の奥には6畳間があり、既に寝具の用意がされていました。布団はふかふかです。エアコンと別にヒーターがあり、スイッチが入っているので部屋の中は温かかったです。

  • 部屋の奥にはベランダがあり、手摺の赤い欄干を見ていたら昔の古い時代の琵琶湖ホテルを思い出しました。

    部屋の奥にはベランダがあり、手摺の赤い欄干を見ていたら昔の古い時代の琵琶湖ホテルを思い出しました。

  • ただ、ベランダは隣の部屋にもつながっているのであまり表には出ていられません。

    ただ、ベランダは隣の部屋にもつながっているのであまり表には出ていられません。

  • 水回りもリニュアルされていて、トイレ最新式のものでした。ここが本当に宿坊なのかと思わせます。

    水回りもリニュアルされていて、トイレ最新式のものでした。ここが本当に宿坊なのかと思わせます。

  • 洗面台も真新しいので清潔です。アメニティは歯ブラシだけでした。

    洗面台も真新しいので清潔です。アメニティは歯ブラシだけでした。

  • 部屋にはシャワールームがありました。欧米人の方の利用もコロナ前は多かったようなのでこれで十分でしょう。1階には大浴場もありましたが、どちらもお湯は豊富に出るので快適でした。

    部屋にはシャワールームがありました。欧米人の方の利用もコロナ前は多かったようなのでこれで十分でしょう。1階には大浴場もありましたが、どちらもお湯は豊富に出るので快適でした。

  • 湯沸かしポットとテレビはありますが、冷蔵庫はありません。部屋の掃き出し窓と障子の間に20センチほどスペースがあるので冷蔵庫代わりになりました。部屋の中でも無料のwifiが使えました。

    湯沸かしポットとテレビはありますが、冷蔵庫はありません。部屋の掃き出し窓と障子の間に20センチほどスペースがあるので冷蔵庫代わりになりました。部屋の中でも無料のwifiが使えました。

  • 午後6時から1階の大広間で精進料理の夕ご飯になります。すでにお膳の用意がされていました。高野山の精進料理は弘法大師空海が開山した後に寺院と僧侶に引き継がれ、それは五戒の1つである殺生戒の思想に基ずくと言われ、精神修行を意味した僧房料理が基本となっているようです。

    午後6時から1階の大広間で精進料理の夕ご飯になります。すでにお膳の用意がされていました。高野山の精進料理は弘法大師空海が開山した後に寺院と僧侶に引き継がれ、それは五戒の1つである殺生戒の思想に基ずくと言われ、精神修行を意味した僧房料理が基本となっているようです。

  • 高野山の精進料理で胡麻豆腐が出ない訳が無いですね。ねっとりとした濃厚な食感を楽しみました。

    高野山の精進料理で胡麻豆腐が出ない訳が無いですね。ねっとりとした濃厚な食感を楽しみました。

  • 精進の天婦羅は抹茶塩でいただきます。

    精進の天婦羅は抹茶塩でいただきます。

  • 高野豆腐と筍と野菜の煮物もシンプルな美味しさでした。

    高野豆腐と筍と野菜の煮物もシンプルな美味しさでした。

  • お刺身に見立てた赤いコンニャクは酢味噌でいただきます。甘く煮た金柑も懐かしい味がしました。

    お刺身に見立てた赤いコンニャクは酢味噌でいただきます。甘く煮た金柑も懐かしい味がしました。

  • この日は妻の誕生日でした。たまには宿坊で精進料理を食べて懺悔するバースデーも良いと思いました。この後出家してもらいましょう。

    この日は妻の誕生日でした。たまには宿坊で精進料理を食べて懺悔するバースデーも良いと思いました。この後出家してもらいましょう。

  • この「赤松院」にはミャンマーに由来する物が数多く置かれてありました。このタイプの漆器のアンティークのものをインレー湖の中のコレクターさんに見せてもらったことがあります。なんか不思議な旅だったことを思い出します。<br />インレー湖:https://4travel.jp/travelogue/10943532

    この「赤松院」にはミャンマーに由来する物が数多く置かれてありました。このタイプの漆器のアンティークのものをインレー湖の中のコレクターさんに見せてもらったことがあります。なんか不思議な旅だったことを思い出します。
    インレー湖:https://4travel.jp/travelogue/10943532

  • サウン・ガウと呼ばれる竪琴が置かれてありました。これは日本では「緬甸の竪琴」と呼ばれるものです。

    サウン・ガウと呼ばれる竪琴が置かれてありました。これは日本では「緬甸の竪琴」と呼ばれるものです。

  • 上段の間には江戸時代の名彫刻家の左甚五郎作の「木彫の虎」が置かれてありました。

    上段の間には江戸時代の名彫刻家の左甚五郎作の「木彫の虎」が置かれてありました。

  • 左甚五郎というと日光東照宮の眠り猫と昨年数十年振りに行った京都の養源院の鴬張りの床と知恩院の御影堂の天井に左甚五郎が置いていったという「忘れ傘」が思いつきました。

    左甚五郎というと日光東照宮の眠り猫と昨年数十年振りに行った京都の養源院の鴬張りの床と知恩院の御影堂の天井に左甚五郎が置いていったという「忘れ傘」が思いつきました。

  • 共同のトイレの前には何とも懐かしい洗面台がありました。昔の旅館ではよく見かけましたし、駅のホームの中央に設置されていることもありました。

    共同のトイレの前には何とも懐かしい洗面台がありました。昔の旅館ではよく見かけましたし、駅のホームの中央に設置されていることもありました。

  • 食事が終わった後は全員集合して「壇上伽藍」のライトアップの見学に向かいます。実際には何人か参加されない方もいらっしゃいました。

    食事が終わった後は全員集合して「壇上伽藍」のライトアップの見学に向かいます。実際には何人か参加されない方もいらっしゃいました。

  • こちらが「赤松院」の玄関になります。まだ集合時間より早いので誰も出てきていません。

    こちらが「赤松院」の玄関になります。まだ集合時間より早いので誰も出てきていません。

  • その左には「東根院」の本堂があります。実際の本堂は中でつながっています。

    その左には「東根院」の本堂があります。実際の本堂は中でつながっています。

  • 夕暮れになると山門の仁王像の背後に置かれた電飾の曼陀羅が怪しい雰囲気を醸し出します。

    夕暮れになると山門の仁王像の背後に置かれた電飾の曼陀羅が怪しい雰囲気を醸し出します。

  • ブルーモーメントの雰囲気の良い時間帯になりました。

    ブルーモーメントの雰囲気の良い時間帯になりました。

  • 電飾に浮かぶ仁王像を見ていたらタイやミャンマーの仏教寺院を思い出しました。

    電飾に浮かぶ仁王像を見ていたらタイやミャンマーの仏教寺院を思い出しました。

  • 東南アジアの仏像の光背が電飾で輝くのを考えればシンプルに見えて来るので不思議です。

    東南アジアの仏像の光背が電飾で輝くのを考えればシンプルに見えて来るので不思議です。

  • 夕方に「奥の院」を案内してくれたガイドさんがバス2台全員を引率してくれます。「壇上伽藍」の見学が終わった後に自由解散になるので戻り方を教わります。「ずっと1本道を戻ってきて、Y字路でどっちに行くか迷ったらそこが赤松院です。」とか「万が一迷子になったら添乗員さんに電話してください。その時にはお寺の前にいるとか言わないでください。この辺りは全部お寺です。」

    夕方に「奥の院」を案内してくれたガイドさんがバス2台全員を引率してくれます。「壇上伽藍」の見学が終わった後に自由解散になるので戻り方を教わります。「ずっと1本道を戻ってきて、Y字路でどっちに行くか迷ったらそこが赤松院です。」とか「万が一迷子になったら添乗員さんに電話してください。その時にはお寺の前にいるとか言わないでください。この辺りは全部お寺です。」

  • 「恵光院」も宿坊ですが、雰囲気も良く素敵な外観です。ただ個人で宿泊するような雰囲気でもあります。そんな使い分けが出来ているのかもしれないと思いました。

    「恵光院」も宿坊ですが、雰囲気も良く素敵な外観です。ただ個人で宿泊するような雰囲気でもあります。そんな使い分けが出来ているのかもしれないと思いました。

  • 「地蔵院」も宿坊です。ついついほかの宿坊に目が行ってしまいます。というか開いている店は皆無なので宿坊しか明るい建物はありません。

    「地蔵院」も宿坊です。ついついほかの宿坊に目が行ってしまいます。というか開いている店は皆無なので宿坊しか明るい建物はありません。

  • 「清高稲荷神社」には、法大師空海が京都に賜った東寺の近くに位置する「伏見稲荷大社」から勧請したとされる「正一位」の稲荷大神が主祭神として祀られています。<br />高野山という一大仏教都市の中に神社?と一瞬違和感を感じましたが、理由を知って納得です。

    「清高稲荷神社」には、法大師空海が京都に賜った東寺の近くに位置する「伏見稲荷大社」から勧請したとされる「正一位」の稲荷大神が主祭神として祀られています。
    高野山という一大仏教都市の中に神社?と一瞬違和感を感じましたが、理由を知って納得です。

  • 弘法大師が嵯峨天皇より東寺を賜った後、五重塔の建立および境内の諸堂を再建するための木材を伐採するために、稲荷山の木々を切り倒そうとしたところ、稲荷山の山神が怒って、それを鎮めるために稲荷山に祠を築いて山の神=稲荷大神を鎮めたという言い伝えがあります。空海が東寺を下賜されたのち高野山へ入り、その際に山内に結界を張りますが、この時に稲荷山の神を高野山の鎮守として勧請したものと考えられます。

    弘法大師が嵯峨天皇より東寺を賜った後、五重塔の建立および境内の諸堂を再建するための木材を伐採するために、稲荷山の木々を切り倒そうとしたところ、稲荷山の山神が怒って、それを鎮めるために稲荷山に祠を築いて山の神=稲荷大神を鎮めたという言い伝えがあります。空海が東寺を下賜されたのち高野山へ入り、その際に山内に結界を張りますが、この時に稲荷山の神を高野山の鎮守として勧請したものと考えられます。

  • 「成福寺 摩尼宝塔」の上に三日月が浮かんでいます。クロワッサンはフランス語で「三日月」という意味でしたね。オーストリアウィーンの発祥で1683年ハプスブルク家の守備隊が、攻めてきたオスマントルコ軍を撃退した記念にトルコの象徴である三日月をかたどって作ったといわれています。

    「成福寺 摩尼宝塔」の上に三日月が浮かんでいます。クロワッサンはフランス語で「三日月」という意味でしたね。オーストリアウィーンの発祥で1683年ハプスブルク家の守備隊が、攻めてきたオスマントルコ軍を撃退した記念にトルコの象徴である三日月をかたどって作ったといわれています。

    成福院 摩尼宝塔 名所・史跡

  • その後ルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットによってフランスヘ伝えられ、現在のような折り込み生地になりフランスを代表するパンになっています。<br />この時は「壇上伽藍」に向かって先を急いで歩いていたので気が付きませんでしたが、帰り道にいろいろ発見がありました。

    その後ルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットによってフランスヘ伝えられ、現在のような折り込み生地になりフランスを代表するパンになっています。
    この時は「壇上伽藍」に向かって先を急いで歩いていたので気が付きませんでしたが、帰り道にいろいろ発見がありました。

  • こんな感じでメインストリートをゾロゾロ進んでいます。フォトショップで明るさを調整しているので、明るく見えますが実際は全ての商店も閉まっているので真っ暗な印象です。案内人の方は懐中電灯を持ってきていましたが、参加者も必要だと思いました。

    こんな感じでメインストリートをゾロゾロ進んでいます。フォトショップで明るさを調整しているので、明るく見えますが実際は全ての商店も閉まっているので真っ暗な印象です。案内人の方は懐中電灯を持ってきていましたが、参加者も必要だと思いました。

  • 何の変哲もないスクランブル交差点です。ただ、「このスクランブル交差点は日本で一番標高の高いところにあるスクランブル交差点です。」と説明を受けると写真を撮りたくなります。午後7時頃では赤信号も青信号もありますが、「みなさんが帰る午後9時前には黄色の点滅信号になっていますので横断には気を付けてください。」

    何の変哲もないスクランブル交差点です。ただ、「このスクランブル交差点は日本で一番標高の高いところにあるスクランブル交差点です。」と説明を受けると写真を撮りたくなります。午後7時頃では赤信号も青信号もありますが、「みなさんが帰る午後9時前には黄色の点滅信号になっていますので横断には気を付けてください。」

  • 「金剛峯寺」の前を通過しました。この時間では門は固く閉ざされています。改めてもっと早く高野山について、ここを参拝したかったと思います。「金剛峯寺」という名称は、弘法大師空海が「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」というお経より名付けられたと伝えられています。

    「金剛峯寺」の前を通過しました。この時間では門は固く閉ざされています。改めてもっと早く高野山について、ここを参拝したかったと思います。「金剛峯寺」という名称は、弘法大師空海が「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」というお経より名付けられたと伝えられています。

    高野山 寺・神社・教会

  • 「六時の鐘」<br />伽藍の入口の高い石垣の上にある鐘楼は福島正則が父母の追福菩提を祈願して、元和4年の1618年にに建立されました。豊臣秀吉と柴田勝家との戦いで「賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)」といわれた豊臣家きっての勇将でした。寛永7年の1640年に正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘がかなまじり文であることで有名です。現在でも午前6時より午後10時まで偶数時に時刻を知らせています。

    「六時の鐘」
    伽藍の入口の高い石垣の上にある鐘楼は福島正則が父母の追福菩提を祈願して、元和4年の1618年にに建立されました。豊臣秀吉と柴田勝家との戦いで「賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)」といわれた豊臣家きっての勇将でした。寛永7年の1640年に正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘がかなまじり文であることで有名です。現在でも午前6時より午後10時まで偶数時に時刻を知らせています。

  • その足元の石垣の角をよく見ると石川五右衛門が残したと言われる「鎹(かすがい)」がありました。この「六時の鐘」が建立されたのは1618年で五右衛門が京都の三条河原で釜ゆでの刑で処刑されるのはのが1594年なので疑問が残ります。

    その足元の石垣の角をよく見ると石川五右衛門が残したと言われる「鎹(かすがい)」がありました。この「六時の鐘」が建立されたのは1618年で五右衛門が京都の三条河原で釜ゆでの刑で処刑されるのはのが1594年なので疑問が残ります。

  • 「高野山町石道(ちょういしみち)」<br />紀ノ川南岸の九度山町にある「慈尊院」から高野山へ上る高野参詣道は弘法大師空海が切り開いた主要道です。「町石道」の名の由来は道標として、1町(約109メートル)ごとに「町石(ちょういし)」と呼ばれる高さ約3メートルほどの五輪卒塔婆形の石柱が建てられた事によります。高野山上の壇上伽藍の「根本大塔」を起点として「慈尊院」までの約22キロメートルの道中に180基、「根本大塔」から高野山「奥の院 弘法大師御廟」まで約4キロメートルの道中に36基の合計216基の町石が置かれているそうです。

    「高野山町石道(ちょういしみち)」
    紀ノ川南岸の九度山町にある「慈尊院」から高野山へ上る高野参詣道は弘法大師空海が切り開いた主要道です。「町石道」の名の由来は道標として、1町(約109メートル)ごとに「町石(ちょういし)」と呼ばれる高さ約3メートルほどの五輪卒塔婆形の石柱が建てられた事によります。高野山上の壇上伽藍の「根本大塔」を起点として「慈尊院」までの約22キロメートルの道中に180基、「根本大塔」から高野山「奥の院 弘法大師御廟」まで約4キロメートルの道中に36基の合計216基の町石が置かれているそうです。

  • 「蛇腹路」<br />伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼びます。高野山は弘法大師空海が「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、「壇上伽藍」を頭として現在の「蓮花院(れんげいん)」までを龍が臥している形に例えました。ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから「蛇腹路」と呼ばれるようになりました。

    「蛇腹路」
    伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼びます。高野山は弘法大師空海が「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、「壇上伽藍」を頭として現在の「蓮花院(れんげいん)」までを龍が臥している形に例えました。ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから「蛇腹路」と呼ばれるようになりました。

    蛇腹路 寺・神社・教会

  • 「東塔」<br />大治2年の1127年に白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王と降三世(ごうさんぜ)明王の2体も脇侍(きょうじ)として祀られました。

    「東塔」
    大治2年の1127年に白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王と降三世(ごうさんぜ)明王の2体も脇侍(きょうじ)として祀られました。

  • ようやく「壇上伽藍」に到着しました。ここまで案内人の方の説明を聞きながら30分以上は歩いていました。

    ようやく「壇上伽藍」に到着しました。ここまで案内人の方の説明を聞きながら30分以上は歩いていました。

  • 右手にある「大会堂(だいえどう)」建物はライトアップしていないので、手持ちのカメラで写真に撮ることは出来ませんでした。案内人の方の説明では「一般の方は気が付かずに通り過ぎてしまいますが、中を覗くことが出来ます。」と言われると覗きたくなるのが人情です。

    右手にある「大会堂(だいえどう)」建物はライトアップしていないので、手持ちのカメラで写真に撮ることは出来ませんでした。案内人の方の説明では「一般の方は気が付かずに通り過ぎてしまいますが、中を覗くことが出来ます。」と言われると覗きたくなるのが人情です。

  • 大会堂の本尊は「阿弥陀如来(あみだにょらい)」です。阿弥陀如来と併せて「阿弥陀三尊」といわれる脇侍(きょうじ)でもある「勢至菩薩(せいしぼさつ)」「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」がお祀りされています。<br />菩薩の中には単独で祭祀されるばあいもありますが、勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍として必ず脇に配されます。

    大会堂の本尊は「阿弥陀如来(あみだにょらい)」です。阿弥陀如来と併せて「阿弥陀三尊」といわれる脇侍(きょうじ)でもある「勢至菩薩(せいしぼさつ)」「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」がお祀りされています。
    菩薩の中には単独で祭祀されるばあいもありますが、勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍として必ず脇に配されます。

  • 「根本大塔」の上に月が見えます。実際に肉眼ではオリオン座をはじめ無数の星がきれいに見えました。

    「根本大塔」の上に月が見えます。実際に肉眼ではオリオン座をはじめ無数の星がきれいに見えました。

  • 「根本大塔」<br />弘法大師空海と真然大徳(しんぜんだいとく)と2代を費やして816年から887年頃に完成したと伝えられます。空海はこの大塔を法界体性塔とも呼び真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので「根本大塔(こんぽんだいとう)」と呼ばれています。

    「根本大塔」
    弘法大師空海と真然大徳(しんぜんだいとく)と2代を費やして816年から887年頃に完成したと伝えられます。空海はこの大塔を法界体性塔とも呼び真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので「根本大塔(こんぽんだいとう)」と呼ばれています。

  • 多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来と周りには金剛界の四仏(阿閦如来、宝生如来、観自在王如来、不空成就如来)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。

    多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来と周りには金剛界の四仏(阿閦如来、宝生如来、観自在王如来、不空成就如来)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。

  • 「金堂」<br />高野山開創当時弘法大師空海の手により最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。 現在の建物は7度目の再建で昭和7年の1932年に完成しました。

    「金堂」
    高野山開創当時弘法大師空海の手により最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。 現在の建物は7度目の再建で昭和7年の1932年に完成しました。

  • 内部の壁画は岡倉天心に師事した木村武山(ぶざん)の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿閦如来は高村光雲の手によるものだそうです。

    内部の壁画は岡倉天心に師事した木村武山(ぶざん)の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿閦如来は高村光雲の手によるものだそうです。

  • 「三鈷の松」<br />弘法大師が唐より帰国される際に明州の浜より真言密教をひろめるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行ったといわれます。<br />この松の葉は「三葉の松」と呼ばれ晩御飯のお膳にも置かれてありました。子供の頃の夏休みは毎年京都の祖父宅に預けられていたのですが、中学生にもなるとお寺巡りをするようになりました。ある日祖父に永観堂に行くと話すと、「三葉の松」があるから見てくるように教えられたことを思い出します。

    「三鈷の松」
    弘法大師が唐より帰国される際に明州の浜より真言密教をひろめるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行ったといわれます。
    この松の葉は「三葉の松」と呼ばれ晩御飯のお膳にも置かれてありました。子供の頃の夏休みは毎年京都の祖父宅に預けられていたのですが、中学生にもなるとお寺巡りをするようになりました。ある日祖父に永観堂に行くと話すと、「三葉の松」があるから見てくるように教えられたことを思い出します。

  • 日本に戻った空海が高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があると教えられます。早速その松へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっており、お大師さまはこの地こそ密教をひろめるにふさわしい土地であると決心されたそうです。

    日本に戻った空海が高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があると教えられます。早速その松へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっており、お大師さまはこの地こそ密教をひろめるにふさわしい土地であると決心されたそうです。

  • 唐で修行した弘法大師が弟子の中から三国伝来の伝承者として認められ、三杵という宝物を与えられました。それを他の弟子がねたんで奪おうとしたという話が能登には伝えられています。弘法大師は日本の海に向かって「三杵」を投げ、日本に帰ってから全国を探し回りました。

    唐で修行した弘法大師が弟子の中から三国伝来の伝承者として認められ、三杵という宝物を与えられました。それを他の弟子がねたんで奪おうとしたという話が能登には伝えられています。弘法大師は日本の海に向かって「三杵」を投げ、日本に帰ってから全国を探し回りました。

  • 「三杵」のうち「独鈷杵(どっこしょ)」は佐渡の小比叡山の柳の木に、「三鈷杵(さんこしょ)」は高野山の松の木に、「五鈷杵(ごこしょ)」は奥能登の珠洲市の法住寺の桜の木に引っかかっていたという空海伝説でした。

    「三杵」のうち「独鈷杵(どっこしょ)」は佐渡の小比叡山の柳の木に、「三鈷杵(さんこしょ)」は高野山の松の木に、「五鈷杵(ごこしょ)」は奥能登の珠洲市の法住寺の桜の木に引っかかっていたという空海伝説でした。

  • 「御影堂(みえどう)」<br />もとは弘法大師空海の持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられました。堂内外陣には空海の十大弟子像が掲げられているそうです。この「御影堂」は高野山で最重要の聖域であり、軒先には燈籠が結界のように吊られていました。

    「御影堂(みえどう)」
    もとは弘法大師空海の持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられました。堂内外陣には空海の十大弟子像が掲げられているそうです。この「御影堂」は高野山で最重要の聖域であり、軒先には燈籠が結界のように吊られていました。

  • 「孔雀堂」<br />名前の通りこの堂の本尊の孔雀明王像です。快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。

    「孔雀堂」
    名前の通りこの堂の本尊の孔雀明王像です。快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。

  • 「西塔」<br />弘法大師空海の伽藍建立計画案である「御図記(ごずき)」に基づき、高野山第2世である真然大徳によって建立されました。空海は「根本大塔」と「西塔」を大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として建立する計画を持っていました。

    「西塔」
    弘法大師空海の伽藍建立計画案である「御図記(ごずき)」に基づき、高野山第2世である真然大徳によって建立されました。空海は「根本大塔」と「西塔」を大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として建立する計画を持っていました。

  • 「西塔」は諸般の事情により建設が遅れ、弘法大師空海の入定後の仁和2年の886年に完成に至りました。  西塔では大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏(東は宝幢、南は開敷華王、西は無量寿、北は天鼓雷音)が奉安されています。

    「西塔」は諸般の事情により建設が遅れ、弘法大師空海の入定後の仁和2年の886年に完成に至りました。 西塔では大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏(東は宝幢、南は開敷華王、西は無量寿、北は天鼓雷音)が奉安されています。

  • 現在の塔は天保5年の1834年)に再建された、擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔の姿です。

    現在の塔は天保5年の1834年)に再建された、擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔の姿です。

  • 「御社(みやしろ)」<br />弘法大師空海が弘仁10年の819年に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守としました。高野山一帯は元々この丹生(にう)明神の神領であったと伝わり、空海は密教を広めるにあたり、日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出し、神仏習合思想の大きな原動力にもなりました。社殿は三つあり、一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三宮は総社として十二王子・百二十伴神が祀られています。

    「御社(みやしろ)」
    弘法大師空海が弘仁10年の819年に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守としました。高野山一帯は元々この丹生(にう)明神の神領であったと伝わり、空海は密教を広めるにあたり、日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出し、神仏習合思想の大きな原動力にもなりました。社殿は三つあり、一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三宮は総社として十二王子・百二十伴神が祀られています。

  • 「六角経蔵」<br />鳥羽法皇の皇后であった美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この紺紙金泥一切経は美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになりました。この六角経蔵は別名「荒川経蔵」といいます。時計回りに回転させ、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えました。

    「六角経蔵」
    鳥羽法皇の皇后であった美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この紺紙金泥一切経は美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになりました。この六角経蔵は別名「荒川経蔵」といいます。時計回りに回転させ、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えました。

  • 「中門(ちゅうもん)」<br />金堂の正面手前の一段低い所にある中門は五間2階の楼門です。天保14年の1843年に壇上を襲った大火により、西塔のみを残してことごとく焼き尽くされます。その後長らく再建はされていませんでしたが、高野山開創1200年記念大法会の記念事業として、平成26年の2014年に中門は再建されました。

    「中門(ちゅうもん)」
    金堂の正面手前の一段低い所にある中門は五間2階の楼門です。天保14年の1843年に壇上を襲った大火により、西塔のみを残してことごとく焼き尽くされます。その後長らく再建はされていませんでしたが、高野山開創1200年記念大法会の記念事業として、平成26年の2014年に中門は再建されました。

  • 再建するにあたって増長天像と広目天像が現代の大仏師である松本明慶により新造されています。天保14年に類焼をまぬがれた二天像と共に四天王像が中門と伽藍全域を守護しています。

    再建するにあたって増長天像と広目天像が現代の大仏師である松本明慶により新造されています。天保14年に類焼をまぬがれた二天像と共に四天王像が中門と伽藍全域を守護しています。

  • 境内側に向いた2体が増長天像と広目天像で、表側に持国天像と持国天像が安置されています。

    境内側に向いた2体が増長天像と広目天像で、表側に持国天像と持国天像が安置されています。

  • 「金堂」の前には3本の角塔婆が立っています。開創千二百年と書かれてあるので、平成26年の2014年に立てられたものだと思われます。

    「金堂」の前には3本の角塔婆が立っています。開創千二百年と書かれてあるので、平成26年の2014年に立てられたものだと思われます。

  • 「中門」もまだ8年ほどのものなので朱の色がきれいです。

    「中門」もまだ8年ほどのものなので朱の色がきれいです。

  • 「増長天像」<br />像の姿には様々な表現がありますが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表されます。胎蔵界曼荼羅では体色は赤肉色で、右手は右胸の前で剣を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿で描かれますが、この像では剣を持っていません。

    「増長天像」
    像の姿には様々な表現がありますが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表されます。胎蔵界曼荼羅では体色は赤肉色で、右手は右胸の前で剣を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿で描かれますが、この像では剣を持っていません。

  • 胸にとまった鬼ヤンマは「断じて悪を通さない、後へは引かない」という意味が込められています。

    胸にとまった鬼ヤンマは「断じて悪を通さない、後へは引かない」という意味が込められています。

  • 「広目天像」<br />持物は古くは筆を持ち巻物に何かを書き留めている姿で表現されました。これは主に天平時代までの表現とされます。密教の胎蔵界曼荼羅では体色は赤色で、右手は三鈷戟を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿、また羂索を持った姿で表されることもあります。

    「広目天像」
    持物は古くは筆を持ち巻物に何かを書き留めている姿で表現されました。これは主に天平時代までの表現とされます。密教の胎蔵界曼荼羅では体色は赤色で、右手は三鈷戟を持ち、左手は拳にして右腰に置く姿、また羂索を持った姿で表されることもあります。

  • 胸にはアブラゼミがとまっています。「蝉の鳴き声は遠くまで響き渡り、悪を退ける」という意味合いがあります。

    胸にはアブラゼミがとまっています。「蝉の鳴き声は遠くまで響き渡り、悪を退ける」という意味合いがあります。

  • 「多聞天像」<br />仏力は四天王の中でもっとも強く、手に持つ戟(げき)もしくは鉾を持ち、自らが持つ圧倒的な力で業魔を降伏します。1尊で表される場合は毘沙門天と呼ばれます。

    「多聞天像」
    仏力は四天王の中でもっとも強く、手に持つ戟(げき)もしくは鉾を持ち、自らが持つ圧倒的な力で業魔を降伏します。1尊で表される場合は毘沙門天と呼ばれます。

  • 「持国天像」<br />持物は刀の場合が多く、胎蔵界曼荼羅では体色は赤く、右手を拳にして右腰に置き、左手に刀を持つ姿で描かれます。中国の民間信仰に於いては白い顔で琵琶を持った姿で表されるのが違います。中国を旅していて四天王のアトリビュートが違うことに驚いたことがあります。

    「持国天像」
    持物は刀の場合が多く、胎蔵界曼荼羅では体色は赤く、右手を拳にして右腰に置き、左手に刀を持つ姿で描かれます。中国の民間信仰に於いては白い顔で琵琶を持った姿で表されるのが違います。中国を旅していて四天王のアトリビュートが違うことに驚いたことがあります。

  • ここで「壇上伽藍」の参拝は終わりで、自由解散になります。「赤松院」は特に門限も無いので「大門」へ行ってみることにします。妻は疲れたので近くのコンビニの表のテーブルで待つことにします。あまりまたしてもいけないので速足で「大門」に向かいます。

    ここで「壇上伽藍」の参拝は終わりで、自由解散になります。「赤松院」は特に門限も無いので「大門」へ行ってみることにします。妻は疲れたので近くのコンビニの表のテーブルで待つことにします。あまりまたしてもいけないので速足で「大門」に向かいます。

  • 速足で5分ほどで「大門」に着きました。表側からライトアップしているので内側からはシルエットになって浮かび上がります。

    速足で5分ほどで「大門」に着きました。表側からライトアップしているので内側からはシルエットになって浮かび上がります。

  • バスの車窓から一周だけ見る事の出来た「大門」です。開創当時は現在の地より少し下った九十九折(つづらおり)谷に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。山火事や落雷等で焼失し、現在の建物は1705年に再建されました。

    バスの車窓から一周だけ見る事の出来た「大門」です。開創当時は現在の地より少し下った九十九折(つづらおり)谷に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。山火事や落雷等で焼失し、現在の建物は1705年に再建されました。

    大門 名所・史跡

  • 正面には「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」という聯(れん)が掲げられています。この聯は「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡ってはわたしたちをお救いくださっている」という意味であり、同行二人信仰を表しています。

    正面には「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」という聯(れん)が掲げられています。この聯は「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡ってはわたしたちをお救いくださっている」という意味であり、同行二人信仰を表しています。

  • 高野山の扁額が掲げられています。

    高野山の扁額が掲げられています。

  • 門の左右には金剛力士像が安置されています。この仁王像は東大寺南大門の仁王像に次ぐ日本で2番目の巨像といわれ、江戸中期に活躍した大仏師である運長と康意の作です。

    門の左右には金剛力士像が安置されています。この仁王像は東大寺南大門の仁王像に次ぐ日本で2番目の巨像といわれ、江戸中期に活躍した大仏師である運長と康意の作です。

  • 金剛力士は仏教の護法善神(守護神)である天部の1つで、「金剛杵(仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味します。

    金剛力士は仏教の護法善神(守護神)である天部の1つで、「金剛杵(仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味します。

  • 開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対とします。

    開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対とします。

  • 寺院の門に配される際には仁王の名が一般的で、伐折羅陀羅(ばざらだら)、跋闍羅波膩(ばじゃらぱに)、密迹金剛、金剛手(こんごうしゅ)、持金剛(じこんごう)とも呼ばれます。

    寺院の門に配される際には仁王の名が一般的で、伐折羅陀羅(ばざらだら)、跋闍羅波膩(ばじゃらぱに)、密迹金剛、金剛手(こんごうしゅ)、持金剛(じこんごう)とも呼ばれます。

  • 像容は上半身裸形で筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多いです。こうした造形は寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表しています。

    像容は上半身裸形で筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多いです。こうした造形は寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表しています。

  • 千手観音の眷属である二十八部衆の中にも仁王像がありますが、この場合は阿形像は「那羅延堅固」(ならえんけんご)、吽形像は「密迹金剛士」(みっしゃくこんごうし)と呼ばれます。京都の三十三間堂の像がこれにあたります。

    千手観音の眷属である二十八部衆の中にも仁王像がありますが、この場合は阿形像は「那羅延堅固」(ならえんけんご)、吽形像は「密迹金剛士」(みっしゃくこんごうし)と呼ばれます。京都の三十三間堂の像がこれにあたります。

  • コンビニで待っていた妻は「ここに座っていると次から次に脇お坊さんが車でやってきて買い物してるのよ。」と楽しそうです。山中で明りの灯っていたのはファミリーマートだけでした。<br />道を間違えるといけないので「蛇腹路」を引き返します。

    コンビニで待っていた妻は「ここに座っていると次から次に脇お坊さんが車でやってきて買い物してるのよ。」と楽しそうです。山中で明りの灯っていたのはファミリーマートだけでした。
    道を間違えるといけないので「蛇腹路」を引き返します。

  • 緑色の暖簾の「華」の文字が京都の清水の窯元の「岩華」を思い出させました。

    緑色の暖簾の「華」の文字が京都の清水の窯元の「岩華」を思い出させました。

  • 「成福寺 摩尼宝塔」まで戻ってきました。ここでこの摩尼宝塔がミャンマーに縁があることを知りました。

    「成福寺 摩尼宝塔」まで戻ってきました。ここでこの摩尼宝塔がミャンマーに縁があることを知りました。

    成福院 摩尼宝塔 名所・史跡

  • 塔を守るのはミャンマーの獅子である「チンティ」でした。

    塔を守るのはミャンマーの獅子である「チンティ」でした。

  • 妻と2人で行ったミャンマーはインレー湖の上でシャン族のお経を買ったり不思議な旅でした。旅の終わりにヤンゴンに戻ってきて、道中の無事のお礼にシュエダゴォン・パヤーを参拝しました。この寺院の「チンティ」は巨大だったことを思い出しました。

    妻と2人で行ったミャンマーはインレー湖の上でシャン族のお経を買ったり不思議な旅でした。旅の終わりにヤンゴンに戻ってきて、道中の無事のお礼にシュエダゴォン・パヤーを参拝しました。この寺院の「チンティ」は巨大だったことを思い出しました。

  • 高野山のメインストリートでありながらほとんど真っ暗です。フォトショップで明暗を調整して明るくは見えていますが、実際は懐中電灯が必要なくらいです。

    高野山のメインストリートでありながらほとんど真っ暗です。フォトショップで明暗を調整して明るくは見えていますが、実際は懐中電灯が必要なくらいです。

  • 翌日スマホの万歩計を見たら25,000歩くらいになっていました。距離にして18キロです。足が痛いのに妻も良く歩いたと思います。

    翌日スマホの万歩計を見たら25,000歩くらいになっていました。距離にして18キロです。足が痛いのに妻も良く歩いたと思います。

  • 大浴場は午後9時までと聞いていたので急いで1階に向かいます。ツアーでは女性の参加者が7割くらいなので大きい方の湯舟は女性用になっています。小さい風呂が2つあり、そちらが男性用でした。

    大浴場は午後9時までと聞いていたので急いで1階に向かいます。ツアーでは女性の参加者が7割くらいなので大きい方の湯舟は女性用になっています。小さい風呂が2つあり、そちらが男性用でした。

  • 5人も入ればいっぱいのお風呂ですが、熱い湯に浸かると1日の疲れが抜けていくようです。赤御影石の湯舟に浸かっているとお墓の中に入った気分で成仏できそうです。

    5人も入ればいっぱいのお風呂ですが、熱い湯に浸かると1日の疲れが抜けていくようです。赤御影石の湯舟に浸かっているとお墓の中に入った気分で成仏できそうです。

  • 午後9時になると館内放送があり、お風呂に入っていない人に急ぐように促されます。午後9時30分にはお湯が出なくなるようです。

    午後9時になると館内放送があり、お風呂に入っていない人に急ぐように促されます。午後9時30分にはお湯が出なくなるようです。

  • 部屋着は作務衣が用意してあったので出家していただきました。みかんに合掌して誕生日の夜は更けていきます。

    部屋着は作務衣が用意してあったので出家していただきました。みかんに合掌して誕生日の夜は更けていきます。

  • 晩御飯は精進料理だけでお腹が空くと思っていたのでいろいろ持ってきました。1時間ほど誕生日パーティを楽しんで早く寝ることにします。

    晩御飯は精進料理だけでお腹が空くと思っていたのでいろいろ持ってきました。1時間ほど誕生日パーティを楽しんで早く寝ることにします。

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