2022/04/05 - 2022/04/05
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kojikojiさん
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奈良の橿原神宮を午後2時に出発したバスは山道を走り続け午後3時30分に高野山の大門の前を通過しました。本当だったらこの大門をくぐって高野山に入りたいところですが、ツアーではバスに乗ったまま脇を通過するだけです。そしてメインストリートを走り抜けて奥の院の手前の駐車場でバスを降ります。ここで1号車2号車それぞれに現地のガイドさんがついて、奥の院の中の見学に進みます。1号車は女性のガイドさんで、2号車は男性だったのですが、翌朝お二人が親子だと教えていただきました。遅い時間からの参拝だったので、他に訪れる人の姿も少なく静かでよかったです。高野山に来るのは初めてで、奥の院は荘厳な祈りの場所かと思っていましたが、スタートしてからは企業の慰霊碑などが多く、拍子抜けしたような気分です。その後は江戸時代までの諸大名の大きな墓所が続き、ようやく思っていた高野山を感じることが出来ました。仏塔の前に建つ鳥居を見ると明治の廃仏毀釈前の神仏習合の時代を実感できました。翌朝になって分かりましたが、奥の院のかなり先のほうだけを歩いただけなので、武田信玄や上杉謙信や明智光秀などの墓を見ることが出来ませんでした。このツアーに参加して、翌朝の朝食後に40分くらい時間があれば「一の橋」からスタートして往復2キロほどの見逃した部分を歩くことが出来ると思います。翌朝に気が付くのが遅かったので少しだけではありますが歩くことは出来ました。「御廟橋」まではお墓を訪ねながら歩きますが、ここから先は写真撮影が禁止になるのと、帽子を取るように言われます。橋の手前からは御廟の写真を撮ることは出来ます。案内人の方がいらっしゃると勉強になるなと思ったのは「御廟橋」には36枚の敷石が横に並び、裏側には37尊を表す凡事が刻まれていることです。これは金剛界曼荼羅の37尊を表しているというとことです。なので渡るときはその敷石を1枚づつ踏みながら歩くのが良いそうです。御廟は「燈籠堂」の地下に存在し、その地下には「御影(みえい)」と呼ばれる大師の姿が書かれた「額絵」が飾られているそうです。「燈籠堂」の奥に「大師が座する御廟」へ通じる堂舎が存在し、その地下に大師が座しておられるとのことです。「燈籠堂」の左端へ向けて廊下が延びていて、この廊下を時計回りに進むと裏側へ行くことがきます。そこに「御廟」があり、手前で参拝することができます。ガイド無しで来られる方で「燈籠堂」の中だけ参拝して帰ってしまう方も多いそうです。「御廟」からさらに時計回りに進むと再び燈籠堂へ入ることができ、地下へ通じる階段がありますが、コロナ禍で2年前から地下に降りることは出来ないそうです。参拝した後はまたバスに戻りますが、別ルートを歩くことになりました。ジャニーズ事務所の喜多川家と藤島家の墓所もありました。奥の院の参拝が終わるとこの日宿泊する「赤松院」という宿坊へ向かいます。本堂で案内を受けて部屋に向かいます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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「橿原神宮」を出て1時間ほど走ると山道に変わり、その山道も九十九折のカーブばかりになります。こんな細い道をよくバスで走れるなと思うほどで、気分は「ポツンと一軒家」みたいになります。
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山道になってから30分ほどで「大門」が見えてきました。
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そして「大門」を左折してバスは高野山の町中に向かいます。どうせならこの門をくぐって町中に入りたかったというのが本音ですが、乗り降りするような場所もありません。
大門 名所・史跡
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勧学院の前に位置するこの池は「蓮池」を通過します。この池には小さな祠が祀られているそうです。明和年間に干ばつが度々起こり民衆は苦しみました。そこで明和8年の1771年に瑞相院慈光(ずいそういんじこう)が善女竜王(ぜんにょりゅうおう)像と仏舎利を寄進し、「蓮池」の中島に小さな祠を建立してお祀りしたところ霊験が現れたそうです。
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「高野山大師教会」は高野山真言宗の布教や御詠歌や宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が開催されているそうです。大講堂は大正14年の1925年に高野山開創1100年記念として建立されています。
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「六時の鐘」は福島正則が父母の追福菩提を祈って、元和4年の1618年に建立されました。福島候は豊臣秀吉と柴田勝家との戦いで、賤ヶ岳七本槍といわれた豊臣家きっての勇将でした。寛永7年の1640年に正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘がかなまじり文であることで有名です。現在でも午前6時より午後10時まで偶数時に時刻を知らせているそうです。
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「金剛峯寺」という寺号、明治期以降は1つの寺院の名称になっていますが、高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義でした。ここにも来たかったのですが、今回はバスで通過するだけでした。
高野山 寺・神社・教会
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「成福寺 摩尼宝塔」は成福院のビルマ塔こと摩尼宝塔(まにほうとう)です。第2次世界大戦時のビルマ方面の戦没者を祀るために建てられました。妻と2人でミャンマーを旅した際にマンダレーからサガインヒルへ行った際に日本の戦没者の慰霊碑をたくさん見かけました。イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦では参加したほとんどの日本兵が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」と言われています。インパール作戦を始めビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人にも及びます。途中で食料や弾薬が欠乏し、飢えやマラリアなどで戦病者が続出、やがて英国とインド両軍の強力な反攻に遭い、病気や飢餓などで死者が相次ぎ、日本兵の遺体で埋まった撤退路は「白骨街道」と呼ばれました。
サガインヒル:https://4travel.jp/travelogue/10943178成福院 摩尼宝塔 名所・史跡
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バスは「中の橋大駐車場」までやってきました。ここで下車して1時間30分ほどの「奥の院」の参拝になります。ここでは現地の案内人の方がガイドとして同行してくださいます。トラピックスでも最近は現地ガイドさんが付くことが多く、説明を聞きながらだと学べることが非常に多いので良いと思います。
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入り口の石柱には「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」という大師御宝号が書かれてあります。真言宗のお経で「南無」は「私は帰依する」を意味しており、「南無大師遍照金剛」の7文字で「弘法大師空海に帰依する」の意味になります。「遍照金剛」は空海の灌頂名(かんじょうめい)であり、大日如来の別名でもあります。
中の橋駐車場 名所・史跡
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ここからの参道は左右に奉納された燈籠が延々と並んでいます。我々1号車の案内人の方は若い女性で、先を行く2号車の案内人さんはピンクの法被を着た男性の方でした。翌朝分かりましたが、お二人は親子だそうです。
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以前は砂利道だった参道は敷石に変えられたそうです。この先には個人の墓所も多いので車椅子で墓参に来られた時などは大変だったそうです。ちなみにこの敷石は元々は大阪市電で使われていたものだそうです。
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ここからは思っていた高野山の奥の院とは違った企業が建てた物故者慰霊碑が続いています。こちらはロケットを模した新明和工業のものです。新明和工業と言われて思い出したのが第2次世界大戦中の九七式飛行艇や二式大型飛行艇などの飛行艇、局地戦闘機紫電と紫電改を開発・製造した会社ということです。
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「しろあり やすらかにねむれ」日本しろあり対策協会の碑は駆除されたシロアリの供養を目的として、昭和46年に完成しました。当初はシロアリの供養のみを行っていたそうですが、昭和50年からはシロアリ防除に携わってきた功労者(しろあり関係物故者)も合祀するようになり、現在までに120名余の方々が奉納されているそうです。
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高齢者や障害者の総合支援事業を行うシニア総合サポートセンターの碑の「共助」の文字は最高顧問である海部俊樹 元総理大臣によるものです。今年1月に亡くなられましたね。
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福助の創業110周年記念で「感謝の碑」として建立だれたもので、土台は富士山を模し、物故者の銘板が納められているそうです。
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こちらはアデランスの供養碑で、アルファベットのAの文字の中から髪の毛が伸びたデザインのようです。
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東洋ゴム工業と東洋タイヤの碑は黒御影石のシンプルなデザインです。基礎の部分に免振ゴムが使われているのかは分かりません。
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一目でヤクルトだと分かるデザインです。ヤクルトの企業墓が作られたのは昭和39年の1964年で、当初は石造りの巨大なヤクルトの容器はなく、慰霊法要50回記念として建てられたようです。
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手前の石に刻まれたシャープのロゴマークが現在のものと異なっています。この楕円形の中にSharpと書かれたものは、現在でも社員章として使われているそうです
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日産自動車は物故従業員慰霊碑なので、工場などで作業中に亡くなった方の慰霊碑なのだと思われます。
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小松製作所の碑は昭和51年の1976年に創立55周年記念で建立されたそうです。左手にある名刺受が昭和の時代を感じさせます。ちゃんと参拝したのを確認するためなのかちょっと怖い気もします。
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UCC上島珈琲の企業墓のコーヒーカップの中は茶色い大理石が埋め込まれて、ちゃんとコーヒーが入った状態になっていました。こうやって見てくると関西に本社のある会社が多いように思えます。
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東日本大震災物故者慰霊碑も建てられています。
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「英霊殿」に向かう広い参道の角には大震災の慰霊碑が建てられていました。
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通路を挟んで阪神淡路大震災物故者慰霊碑も対のように建てられています。これ以上災害の慰霊碑が増えないように願います。
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午後4時近くになると酔狂なツアーの観光客以外に歩いている人の姿も無いです。
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落書塚は昭和43年の1968年に落語家の初代 柳家金語楼が建立したもので、自由に落書きできます。
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「らくがきは即ち良久加幾、良いこと」とあり、らくがきを「良久加幾」と当てているようです。
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キリングループの供養塔には麒麟の銅像も設置されています。株価が上がりますように手を合わせておきます。企業墓や物故従業員慰霊碑はとりあえずここまで。面白かったけど、何しに来ているのか分からなくなりそうです。
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ここからは歴史上の人物や大名家の墓が続きます。後で分かりましたが、企業の慰霊碑を見るなら、バス停の「奥の院前」にある「中の橋大駐車場」からの見学が良いようです。今回我々もそのルートです。
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歴史上の人物の墓を見るならバス停の「奥の院口」にある「一の橋」から参拝を始めないと武田信玄や上杉謙信や明智光秀の墓を見ることは出来ません。
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翌朝そのことに気が付いて、宿泊した「赤松院」が「一の橋」に近かったこともあり1人で歩いてみました。気が付くのが遅くて途中までしか行けませんでしたが、同じようなツアーに参加する場合は注意が必要です。
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ようやく想像していた高野山の「奥の院」を感じることが出来たような気がします。
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「崇源院(徳川秀忠夫人)墓所(江姫)」
浅井長政の3女であり2代将軍秀忠の妻である江(ごう)の石碑が見えました。墓石の高さは6.6メートルで、基段は畳8帖分の大きさがあるそうです。「一番石」「一番碑」と呼ばれ、奥の院で最も大きい五輪塔です。寛永4年の1627年に江の一周忌のときに建てたもので、建てたのは弟の忠長です。江の戒名である崇源院殿(すうげいいんでん)と刻まれています。 -
「覚鑁坂(かくばんざか)」を越えて、「御廟橋(ごびょうばし)」に向かう途中の参道の右手に参拝者の目を引く、ひときわ目立つお地蔵様がいらっしゃいます。口紅やアイシャドウがばっちりと決まっている「化粧地蔵」です。お化粧をすると願いが叶うと言われているそうです。これを見てミャンマーにある「ナッ」と呼ばれる仏教が入る前から存在していた民間信仰の霊媒師を思い出しました。
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「化粧地蔵」以外にも数々のお地蔵様が杉木立の根元に置かれてあります。そしてきれいな赤い帽子や前掛けをつけてもらってい、槇の木の枝が供えられています。空海は花や果樹の栽培は商売につながり修行の妨げになると考え、高野山での栽培を禁じていました。花の代わりに空海が供えたのが高野槙で、高野山に多く自生して日持ちが良く、痛みにくいのが特徴なのだそうです。
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「加賀前田家2代利長墓所」
「三番石」または「三番碑」と呼ばれ、奥の院で3番目に大きな五輪塔と言われます。 -
前田利長は藩祖である前田利家の長男(嫡男)で、若年より織田信長と豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦しました。秀吉の死後は政治的判断をした上で徳川家康に帰順し、江戸幕府成立後に加賀藩の礎を築いた人物です。
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加賀前田利長婦人墓所」
三番碑の向かい側(御廟に向かう方向を見て参道左側)に立っているのが前田利長の妻の永姫(えいひめ)の墓所です。織田信長の四女(または五女)として出生した女性です。 -
参道を挟んで向かい合うように建つ墓所を見て、ポルトガルのアルコバッサ修道院に眠るペドロ1世と愛妾イネスの棺を思い出しました。最後の審判の後に蘇った時に最初に顔を合わせられるように向き合った形で棺が置かれてありました。
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杉の巨木の荒々しさと整然と並べられた小さな五輪塔は個人の家の墓のようです。
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「法然上人圓光大師墓所」
浄土宗の開祖である法然は圓光大師とも呼ばれます。「圓光」は法然の死後につけられた名前=諡号(しごう)です。 -
ここで疑問に思うのは、浄土宗の開祖である法然や浄土真宗の開祖である親鸞の墓碑が真言宗の高野山の「奥の院」にあるかということです。
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「奥の院」に他の宗派の墓碑が集まった理由は釈迦の入滅後の56億7000万年後にこの世に降りて来るという弥勒菩薩が下生(げしょう)する地が高野山であると信じられていたからです。
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参道は年月の経過と共に整備されて盛り上がったようで、現在の通路より下がった位置になってしまっています。
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「安芸 浅野家墓所」
関白豊臣秀吉の正室の北政所の養家だった家で浅野長吉(長政)が秀吉の下で大名として台頭します。宗家は江戸時代に安芸広島藩と紀伊和歌山藩主となり、分家には三次藩や広島新田藩主、別家には播磨赤穂藩主があります。赤穂浅野家は忠臣蔵で有名です。 -
「結城秀康(家康次男)石廟」
この廟は重要文化財となっています。 右側の唐破風造の屋根が徳川家康の次男である徳川秀康(松平秀康)の廟で、左側の切妻屋根が母親であるお万の方のものです。越前から運ばれた笏谷石(しゃくだにいし)で造られていて、創建当初は極彩色だったそうです。廟の中には総金箔の石塔が入っているそうです。 -
古い仏塔や石廟には鳥居が設けられてあります。神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰である「神道」と仏教信仰「仏教」が融合し、1つの信仰体系として再構成された宗教現象です。
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日本に仏教が到来した当初は「仏教が主で神道が従」であり、平安時代には神前での読経や神に菩薩号を付ける行為なども多くなります。「仏や菩薩が仮に神の姿となった」とし「阿弥陀如来の垂迹を八幡神」「大日如来の垂迹が伊勢大神」とする本地垂迹説が台頭しますが、神道側からは「神道が主で仏教が従」とする反本地垂迹説が唱えられます。
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「肥前島原 松平家供養塔」
大型五輪塔5基と中型五輪塔4基と小型五輪塔1基が集まるように建てられています。肥前国島原藩松平深溝(ふこうず)家は、徳川家康と祖先を同じくした十四松平家の1つで、松平信光の七男忠景(ただかげ)の次男忠定(たださだ)を祖とします。 -
すぐ脇にある階段を上がったところに「豊臣家墓所」があります。参道から離れますがしっかりした階段が設けられています。
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この墓所には豊臣秀吉とその母、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓があります。現在は石塔が11基並んでいます。そのうちの中央の1基は昭和15年の1940年に豊公会によって造立されたもので、京都の豊国廟から霊土を移したそうです。
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五輪塔の正面には「豊臣太閤秀吉公之墓」と記され、この五輪塔の内部には秀吉の衣冠束帯姿の古い木造が納められているそうです。織田信長に続き高野攻めを行った豊臣秀吉は高野山の興山応其(こうざんおうご)上人の説得により高野山攻めを取りやめ、高野山を庇護するとともに復興興隆に勤めました。これには高野山を豊臣家の菩提寺にするという考えがあったようです。
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五輪塔の5つの石材パーツには、それぞれ名称が付いています。
仏教における自然界の5大要素といわれる「空・風・火・水・土」という意味合いと名称が五輪塔には付けられているのです。各石材には仏教のサンスクリット語(梵字)が彫刻されているのが特徴といえます。仏教における読み方は上から「キャ・カ・ラ・ヴァ・ア」です。 -
「空輪」とは五輪塔の一番上にある宝珠形の石材のことです。空は空間を表して、災難を取り除いて水を浄めるという意味合いが込められています。
「風輪」とは五輪塔の上から2番目にある半月形の石材のことです。風は呼吸を表しています。 -
「火輪」とは五輪塔の上から3番目にある三角形の石材のことで、傘のような形が特徴です。火は体温を表しています。
「水輪」とは五輪塔の上から4番目にあたる円形の石材です。水は血液や水など流れるものを表しています。
「土輪」とは五輪塔の上から5番目、一番下の方形の石材です。土は大地を表しています。
五輪塔には死者を成仏させて、極楽浄土へいざなう役目もあります。 -
案内人の方によるとこれらの石材はふもとから担ぎ上げたそうです。それぞれのパーツは分解でき、内部は軽くするために空洞になっているそうです。それぞれの接点の部分が少し削られているだけで積み上げられています。
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「織田信長 墓所・筒井順慶 墓所」
織田信長に仕えた筒井順慶と隣同士になっています。信長の墓所は全国に20箇所以上あるそうです。明智光秀の墓はここから「一の橋」に向かって1キロほど戻ったところにあります。織田信長は戦国武将でもない寺社勢力が政治や軍事面などに大きな影響力を持っていたことを嫌い、特に比叡山延暦寺に対しては浅井朝倉との戦いの中での対応から焼き討ちという結末も迎えています。高野山を攻めるきっかけとなったのは、信長の家臣であった荒木村重が交戦中であった石山本願寺に内通して居城の有岡城に篭ってしまい、信長の説得を拒否したうえに逃走した荒木と側近の数名を高野山が匿ったことに寄ります。ただ、その後に「本能寺の変」が起こったことにより焼き討ちを免れたのかもしれません。 -
「燈籠堂(とうろうどう)」が見えてきました。高野山第2世真然大徳(しんぜんだいとく)によって建立され、治安3年の1023年に藤原道長によって、ほぼ現在に近い大きさになったと伝えられています。
見学するスタートを注意しないと有名な武将のお墓を見る事が出来ないので注意が必要です。 by kojikojiさん高野山奥の院 寺・神社・教会
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ここで案内人の方から「弘法大師御廟」の参拝について説明がありました。「御廟橋」から先の写真の撮影が禁止ということと脱帽すること。階段を登ったら左側にお堂を周って、お堂の裏側にある「御廟」の前で参拝することを教えてもらいます。個人んで参拝する人の中には裏側まで行かないで帰ってしまうこともあるそうです。
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以前よりずっと気になっていた「御廟橋」の下を流れる玉川に立つ卒塔婆は水難事故で亡くなった方を追善供養するためのものだそうです。
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「御廟橋」の手前で案内人の方からさらに説明があります。この橋は横張りに36枚の石材に分かれ、裏側には1枚づつ梵字が刻まれているそうです。
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36枚と橋全体を1として合計37枚で金剛界37尊を表しているそうです。「渡るときは1枚づつ36歩で進んでください。」と言われます。
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高野山はもとより真言宗全体では弘法大師は今現在も修行中であり、奥の院の「御廟」の地下の岩窟で修行中といわれています。「御廟」は「燈籠堂」の地下に存在し、その地下には「御影(みえい)」と呼ばれる大師の姿が書かれた「額絵」が飾られています。その額絵の後は石の壁になっていますが、その石の壁の向こう側に今も大師が座していると云われています。残念ながらコロナ禍ということで地下への階段は2年前から閉鎖されているそうです。
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「奥の院」からの戻りは往路とは別の道を進むようです。「奥の院御供所(ごくしょ)」の前を通りがかりました。弘法大師御廟に奉仕するため、小さな庵を建てたのが始まりいわれます。現在でも弘法大師に供える日々の生身供(しょうじんぐ)を「御供所」で作り、毎日午前6時と午前10時30分の2回、調理され櫃に入れられた弘法大師の食事は維那(ゆいな)と行法師(ぎょうぼうし)と呼ばれる僧侶が嘗試地蔵前に供えた後に御廟前の「燈籠堂」まで運びます。
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ここには「嘗試地蔵(あじみ)」があります。この地蔵の元は愛漫(あいまん)と愛語(あいご)と呼ばれる弘法大師の食事の世話をした2人の弟子が、「御廟橋」の傍に「御厨明神(みくりやみょうじん)」として祀られていたものだといわれています。
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これは現在も御廟で空海が永遠の禅定に入って、後世の人々を見守っているという「弘法大師信仰」に基づくものです。
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午後4時30分には「燈籠堂」の扉が締められ始め、「御供所」もひと気が感じられません。
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「興山応其(こうざんおうご)上人廟」
豊臣秀吉をこの上人が説得しなければ織田信長のように高野攻めをしていたと思われます。復興に活躍した傑僧であり、興山上人とも木食応其(もくじきおうご)とも呼ばれました。 -
「頌徳殿(しょうとくでん)」
大正4年の1915年に高野山開創1100年の記念事業として建立された、高野山で数少ない大正時代の建築物です。現在は茶所として、参拝の方々の休憩所として開放していますが、開放時間はすでに過ぎています。 -
見事な欄間彫刻と扁額と注連縄。そして注連縄の代わりに掛ける縁起物の「宝来」が見えます。「宝来」は弘法大師空海が中国からもたらしたもので、高野山には農地がなく、しめ縄を作る稲わらを入手するのが難しいことから、この「宝来」を神棚や床の間、玄関などに掛ることとしたそうです。これは高野山でもよく見掛けましたが3月に行った奥能登でもよく見掛けました。
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唐で修行した弘法大師が弟子の中から三国伝来の伝承者として認められ、三杵という宝物を与えられました。それを他の弟子がねたんで奪おうとしました。弘法大師は日本の海に向かって三杵を投げ、日本に帰ってから全国を探し回りました。
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独鈷杵(どっこしょ)は佐渡の小比叡山の柳の木に、三鈷杵(さんこしょ)は高野山の松の木に、五鈷杵(ごこしょ)は能登の珠洲市の宝立町の法住寺の桜の木に引っかかっていたと言われます。奥能登も空海伝説の多い地なので共通点があるのかもしれません。
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高野山では古くから墓地があったため、新しい墓地を造ろうとすると地中から無縁となった石塔が出てくることが多いそうです。そのような無縁の石塔を1ケ所に集めたのがこの無縁塚です。その高さは5メートルはあると思われます。そしてその1つ1つは五輪塔の形をしています。その五輪塔に前掛けをつけてお地蔵様のように見せています。
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ここからは「豊臣太閤秀吉公之墓」が遠く望めました。これで「奥の院」の参拝は終わりで、最後にお線香を買い求めてバスに戻りました。
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バスに乗ってあっという間に「赤松院」に到着しました。 本日の宿泊はこの宿坊になります。
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「赤松院」は今から1100年程前に聖快阿闍梨によって開基され、「山本坊」と呼ばれていました。室町時代に後醍醐天皇の皇子であった護良親王が住職となり、その護衛であった赤松則村が随従して円心入道となりました。これ以降「赤松院」と改称し、赤松家の菩提をともらう寺院となりました。
赤松院 宿・ホテル
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高野山の山内には52の寺が宿坊を提供しているそうで、年間を通じて様々な参詣者が泊まっているようです。
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その中では電飾の金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅がピカピカして俗っぽさを感じてしまいます。
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この日宿泊していたのは我々トラピックスのツアーだけが団体で、個人で来られている方も数人いらしたようです。
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まずは本堂に集合して宿泊についての説明がありました。この後部屋に入って、午後6時から精進料理の夕食になります。食事の後はすぐに集合して、今回のツアーの目的の1つの「壇上伽藍のライトアップツアー」。宿坊に戻った後は午後9時までにお風呂に入らなければならないと時間が決められています。
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宿坊は「赤松院」ですが同じ敷地内に「東根院」もあるようです。翌朝にこの「東根院」の特別御開帳があるということでしたが、このタイミングで見ることにして、翌朝の予定を時間短縮するようです。
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天井は奥の院の「燈籠堂」と同じような吊燈籠が埋め尽くされています。下には虚空蔵菩薩の姿があります。虚空蔵菩薩は丑年と寅年の守り本尊なので、トラピックス社のうたい文句の12年に1度の御開帳というのは違うと思います。丑年なのでよかったと思います。御真言の「おん、ばさら、あらたんなう、たらくそわか」と唱えておきます。
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天蓋(てんがい)は古くはインドにおける日除け(日傘)がその原型とされます。導師が立つ位置の天井から吊り下げられるものを「人天蓋(にんてんがい)」、仏像の上にあるものを「仏天蓋(ぶってんがい)」と呼びます。瓔珞(ようらく)や幢幡(どうばん)といわれる装飾が施されています。
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この2年コロナ禍で宿坊に訪れる人も少なく、時間があったので古いいはいをきれいにしたそうです。その中で著名な方の位牌が出てきたそうです。徳川家の歴代将軍の位牌や、熊本の細川家の位牌が並んでいます。
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日本ではあまり一般に信仰されてはいませんが、明王の中でも最も早くインドで成立していたのがこの孔雀明王です。ピンと来たのは「高野山霊宝堂」に快慶作の孔雀明王像のことでした。
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大日如来はインドではマハーヴァイローチャナという仏です。マハーは大きい、ヴァイローチャナは隅々(すみずみ)まで照らすという意味、つまり太陽ということです。宇宙の中心にあって世界を照らし、恵みをもたらす存在とされます。元々は金色に輝いていたのだと思います。智拳印(ちけんいん)を結んでいます。
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「東根院」の御本尊が大日如来で、「赤松院」は十一面観世音菩薩がご本尊だそうです。
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大日如来に向かって右側の如来は「施無畏印(せむいいん)」と「与願印(よがんいん)」を結び、左側の如来は「降魔印」を結んでいます。
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自分の干支が丑年なので「虚空蔵菩薩」です。
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未年の妻は「大日如来」です。これでは普段からちょっと敵わない理由が分かりました。
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「赤松院」の本尊は姿が見えませんでした。
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干支の虎の「宝来」は宝珠の形をして竹と一緒に描かれています。高野山の「宝来」は、表具屋や印刷屋など昔から紙を扱う職人が作っているそうです。干支は毎年新しい型紙を起こして作るそうです。そろそろ部屋に上がります。
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旅行記グループ 2022高野山・吉野千本桜の旅
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