2021/05/21 - 2021/05/24
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かるあみるくさん
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日本航空のどこかにマイルで行った山口・大分旅行の初日後半です。
長府、というより山口県は博物館などをコロナ対策で閉鎖したようなので博物館系にはいかず探索していましたが、結果的に多くのスポットを見る事が出来たのでスムーズに進み、当初計画では長府探索でこの日を終える予定だったのですが、結果的に赤間神宮や壇ノ浦へも行くことが出来ました。
長府の街並みや関門海峡など印象に残る事が多かった1日目後編です。
どこかにマイルで山口宇部空港へ!山口・大分の旅-準備編
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どこかにマイルで山口宇部空港へ!山口・大分の旅-1日目前半
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どこかにマイルで山口宇部空港へ!山口・大分の旅-1日目後半
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どこかにマイルで山口宇部空港へ!山口・大分の旅-2日目前半
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どこかにマイルで山口宇部空港へ!山口・大分の旅-2日目後半
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どこかにマイルで山口宇部空港へ!山口・大分の旅-3日目前半
https://4travel.jp/travelogue/11700039
どこかにマイルで山口宇部空港へ!山口・大分の旅-3日目後半
https://4travel.jp/travelogue/11700051
完結しました。いつも皆様ありがとうございます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ドンクポンクを出て壇具川沿いに歩いていきます。この分だとおそらく長府毛利邸も閉鎖されていると思いますが、外から邸宅自体は見えるようなのでそれを見に行きます。壇具川は珍しい名前の川ですが、神功皇后が三韓征伐の際にこの地で祭壇を気づいて祭祀を行った後、使用した道具をこの川に流したという伝説から名づけられたそうです。
壇具川 自然・景勝地
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下関市のマンホールはフグが描かれています。フグと言えば下関で有名ですよね。昔下関の唐戸市場でフグのお寿司を食べました。ちなみに下関では「ふく」と読むことも多いようです。
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長府毛利邸までやってきました。廃藩置県により東京への移住をした14代毛利元敏が晩年長府に建築した邸宅です。毛利元敏は岩倉使節団にも同行したりと版籍奉還、廃藩置県後は苦労した藩主が多い中新政府でも活躍の場を持った藩主でした。
そして入り口に看板がありやはり閉鎖されているようですが、邸宅に入れないだけで庭には入れるので見学に行きます。長府毛利邸 名所・史跡
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毛利元就の孫で長府藩初代藩主の毛利秀元像です。上記の通り長府毛利邸は明治期に建築されたもので、毛利秀元がこの地に居住した事はないですが、長府藩の祖ということでここに建てられたのだと思います。
長府藩の藩庁は幕末まで現在の豊浦高校の位置にあり、幕末には海からの防衛の為に長府と新下関駅周辺の間にある勝山御殿に移りました。長府毛利邸 名所・史跡
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普段は毛利邸の中の見学をできるようですが、現在は山口県独自のコロナ対策とかで閉鎖されていました。下関博物館も閉鎖されているので、博物館系の施設、特に公共運営のはだいたいこんな感じでしょう。
ただ後ほど詳しく書きますが、結果的にこれが幸いして当初の予定より多く見学することが出来ました。長府毛利邸 名所・史跡
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長府の町を歩いていると昭和のホーロー看板が壁にたくさん貼ってあるお店がありました。帰ってから調べてみるとここは資料館や展示館ではなく昭和の懐かしいものを販売しているお店の様です。
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長府というと功山寺が有名ですが、綺麗な武家屋敷の街並みが残っている町です。山口だと萩の堀内地区とかが武家屋敷で有名で2013年と2015年に訪れていますが、ここもなかなか素敵な土塀が残っています。
ちなみに区画や土塀はそのままですが家は建て直している家も多いですが、路地から見ていると家まではそんなに見れないですからね。
長府は長門国の府中という意味合いで、後で見学しますが中世には国府が置かれ、国分寺や国分尼寺が存在していました。 -
この立派な長屋門は菅家長屋門と呼ばれるもんです。菅(かん)家は代々長府藩主の藩医を務めた家系だそうです。門には住所が書かれており解放されていなかったのでおそらく今でも住まわれている家の門だと思います。
菅家長屋門 名所・史跡
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菅家長屋門があるこの通りは長府でもっとも武家屋敷の路地を遺すと言われている古江小路。読み方は「ふるえしょうじ」の様ですね。土壁は防壁の役目を果たし、戦中に敵が思うように進軍できないよう碁盤の目ではなく丁字路などを造り敵を惑わすように造られているそうです。
古江小路 名所・史跡
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イチオシ
古江小路の東側は木々の間から木漏れ日がもれる美しい小路でした。一枚上の写真では奥の方になりますが、上の写真と異なり土壁は壁の上の方だけでその下は石垣になっていました。
古江小路 名所・史跡
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長府の街並みを散策していると長門国の二宮であった「忌宮神社」にたどり着きました。いみのみやじんじゃと読む珍しい名前の神社です。
仲哀天皇の熊襲平定の際に滞在した豊浦宮の跡地に建つ神社とされています。創建は199年に三韓征伐から神功皇后から戻る際に仲哀天皇を祀ったときとされています。忌宮神社 寺・神社・教会
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階段を登り境内に入ってみるとなかなか人が多く活気がありました。5月だからかこいのぼりがたくさん揚げられており新緑と相まっていい雰囲気です。
お宮参りの方?もいらっしゃったみたいですね。忌宮神社 寺・神社・教会
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神功皇后が三韓征伐の際に一本の松を逆さに植えて勝利を祈願した松が成長したので「さか松」と呼ばれたそうです。その古木の一部が安置され子孫の若い木が今も忌宮神社に残っているそうです。
忌宮神社 寺・神社・教会
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境内は広く子供たちの遊び場にもなっているようです。最近はどこも人が少なくなって寂しい雰囲気になっていましたが、活気があると神社の建物も明るく見えます(写真は露出補正を間違えて白飛びしただけです(´・ω・`))。
それでは拝殿にお参りしに行きます。忌宮神社 寺・神社・教会
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忌宮神社の拝殿です。長門国二宮にしては小さいなと思ってしまったんですが、それでも歴史のある建物だと思います。1877年に建築されたものが改修されたものが現在の拝殿だそうです。
近年屋根の葺き替え工事を行ったようです。忌宮神社 寺・神社・教会
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忌宮神社の境内にはチャボがいました。鳩と比べるととても大きいですし力強いです。エサを購入してあげられるようで子供が餌をあげているとチャボだけでなく鳩も寄ってきていました。
由緒ある神社ってチャボいること結構ありますよね。前に熱田神宮でも見た気がします。忌宮神社 寺・神社・教会
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忌宮神社にはいくつかの末社があり、こちらは荒熊稲荷神社と呼ばれ京都の伏見稲荷勧請し文化文政年間に建立されたそうです。例大祭では奉納相撲が行われ、長府の三日相撲として有名だそうです。相撲資料館も併設されていますが、訪れた時には資料館は営業していませんでした。
忌宮神社 寺・神社・教会
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こちらは八坂神社。明治期に神社の合祀が進められたこともあり八坂神社、春日神社、日吉神社、三島神社、印内神社、恵比寿神社、人丸神社、塩竈神社、河内神社、大歳神社二社、貴船神社二社が合祀されてできた神社だそうです。
明治期の神社の合祀は全国的に行われていて、旅行記に挙げたものだと今治の吹上神社などもそうでしたが、ここまで多くの神社が合祀されているのを明記したものは初めて見た気がします。忌宮神社 寺・神社・教会
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このいわゆる丸ポストは現役で今でも利用できるそうです。丸ポストは1901年に俵谷高七が開発したとして設置されていました。ちなみに自動販売機を日本で最初に発明した人物でもあります。
解説には下関出身とありますが浜田出身のはず・・・。明治以降に赤間関に移り住んだはずなんですが・・・。忌宮神社 寺・神社・教会
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豊浦皇居跡と記された石碑がありました。前記しているように忌宮神社は仲哀天皇と神功功皇后は熊襲平定の為にこの地に仮の宮を建て7年滞在したと古事記、日本書紀には記載されている豊浦宮(とよらのみや)跡地に建てられているとされています。
それを表す石碑のようです。忌宮神社 寺・神社・教会
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忌宮神社の境内の見学のあとは西側の小路に出てみました。長府の街並みはところどころでこんな感じの江戸時代以前を感じる小路が残っています。また人通りもそんなに多くないのでゆっくりと街並みを眺める事が出来ます。
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こちらは乃木神社。乃木希典将軍の居住した家跡を殉死した後全国に建立された乃木神社と同じように神社として、乃木将軍を御祭神として祀り神社になっています。
乃木将軍は東京の長府藩邸に産まれ奇兵隊として小倉城制圧一番乗りを果たしたあと明治政府では陸軍軍人として昇進、陸軍大将にまで上り詰めました。
旅順包囲戦で多くの犠牲者を出したことを悔いていたと言われ、明治天皇の崩御後、大喪の礼が終わると自決して生涯を閉じました。乃木神社(山口県下関市) 寺・神社・教会
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乃木神社の中には長府武道館がありました。神社の敷地にうまく調和した建物で柔道や剣道の練習に使われている様です。ただ現在はコロナ対策で閉鎖されていました。
ちなみに建物側面のトイレは利用できるようになっていて、古いながらもとても綺麗に清掃されていました。乃木神社(山口県下関市) 寺・神社・教会
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乃木神社を出て周囲をウロウロしてみます。途中には古い民家を解体現場が・・・。塀も壊されていたので中も見えて構造とかも見れたので良かったです。
とは言え古い家が壊されていくのは悲しいですね。仕方ない事ではありますが・・・。 -
そのまま西側を歩いていると石碑が・・・。
長門国の国分寺がここにあったそうです。今では石碑と看板があるだけですが、割と近年の1890年までこの地に残っていたそうです。
現在でも忌宮神社も近くにあり古代長門国の中心がこのあたりにあった事を物語っています。長門国分寺跡 名所・史跡
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国分寺跡の石碑の場所の反対側にはこんな長屋が。武家屋敷でL字型の長屋は珍しいと思います。正確な建築年代は不明ですが江戸時代後半とのこと。上級武士が住まれていたそうです。
現在でも居住されている方がいるような雰囲気でした。吉岡家長屋 名所・史跡
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この公園の様なスペースは江戸時代の武家屋敷四件のスペースを歩行者専用の市道として整備し、狭隘な道路は危険なので歩行者を誘導するとともに、旅行者の休息のスペースとしても利用するためのものだそうです。正式名称は「市道長府宮ノ内自歩道1号線」だそうです。
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宮ノ内一号線は武家屋敷を整備しているので二か所に門が残っていて片方は長屋門になっています。他にも屋敷跡を示していたり、薬草園風に一部整備したりと休息をしながらも見学できる様になっていました。
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豊浦小学校の校門横に昔の校門であろう門柱が立っていました。豊浦小学校は2022年に創立150周年を迎えるとても古い学校でこの門も由緒あるように思います。ちなみに豊浦は長府の昔の名前である豊浦(とよら)から来ていて学校名もとよら小学校と読むそうです。
現在下関市になっている北部なども平成の合併前は豊浦郡(とようらぐん)だったのでちょっとややこしいです。 -
左手は豊浦小学校、右手は長府高校なのですが、長府高校のグラウンドと思いきや公園として開放されていてフェンスはありません。この日は土曜日だったので小学生たちが遊んでいました。
長府高校のある場所は(ひょっとしたら豊浦小学校も?)長府藩の居館だった場所だそうですが、特に遺構などはない様子でした。 -
遠くから見て何かモニュメントあるなと思って近づいてみたらこんなのでした(笑。
ここは本当に不思議で長府高校の校庭の様に見えますがフェンスはなく開放された運動場の様でした。 -
豊浦小学校の裏を歩いていたら奇兵隊士の墓という看板があり行ってみました。東行庵の様に整備されていたり墓に眠る隊士の名などはかかれていませんでしたが、無縁仏の状態だと思いますが誰かが手入れをしているような雰囲気でした。
徳応寺 寺・神社・教会
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長府の北部は今まで歩いていた古江小路などの武家屋敷の風景が残る街並みと違い、お寺が多い地区です。この一角もお寺が5件くらいありました。立派な薬医門を持つお寺でした。
徳応寺 寺・神社・教会
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境内は幼稚園として利用されているようで中には入れませんでした。遊具があるのがかわいらしいですね。土曜日だったので園児はおらず、ひょっとしたら入れるのかもしれませんが不明なのでここで引き返しました。
徳応寺 寺・神社・教会
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ちょっと奥に入ったところにあったこのお寺は法華寺。現在では法華宗のお寺ですが、元々は国分寺の近くにあったと推定されている国分尼寺で現在地には1615年に移転しているそうです。現在のお堂は1956年の火災後に再建されたものということです。
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長府中心部はアーケードの商店街になっていてお店がある程度残っていてそこそこの活気がありました。下関はなんだかんだ中心部や唐戸なども商店が残っていますし、商店街が頑張っている気がします。
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アーケード通りにある正円寺というお寺がありました。山口県指定天然記念物になっている大イチョウがあるので寄ってみる事にします。
アーケードがあるので反対側からだとお寺があることはわかりにくいです。正円寺 寺・神社・教会
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大きすぎて縦アングルにしても入りきらない巨大なイチョウです。樹齢どれくらいなんでしょうね。相当年季が入っている巨木に見えます。
正円寺 寺・神社・教会
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そして正円寺はこの昭和の物品のコレクションでも有名な様です。境内にある掲示板に記事が張られていましたが地元紙?の取材を受けたりしているほど有名みたいですね。
ここは販売とかではなく見学用になっています。それにしてもすごい量ですね。正円寺 寺・神社・教会
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倉庫の様な場所でも展示もしていました。こちらは棚に並んでいるのですごい数。好きな人が見たら本当に喜びそうですし眺める時間もかかりそうですが、私は年代的によくわからないので一通り見て出てきました。
入場無料で普段は消灯されていて自分で電気をつけて入る形になっていました。正円寺 寺・神社・教会
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先ほどの乃木神社もそうですが江戸長府藩邸で産まれ長府で育った乃木将軍の名を取り長府のメインストリートは乃木さん通りと名付けられています。現在では海側に立派な国道9号が通っていますが、元々はここが国道だったのかなとも思いました。
古い形のアーケードですが綺麗に整備されていてまだまだこの商店街が活気あるものだと感じます。 -
乃木さん通りにも忌宮神社入り口鳥居がありました。ここから海岸線の国道9号まで鳥居前通りという名前の通りになっていて、おそらくここがメインの参拝ルートだったのだと思います。
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乃木さん通りを進むと川を渡ります。この川はこの旅行記の最初で出てきた壇具川です。壇具川は流域は長くなく、ここから数百メートルで河口になります。先ほどの区間のちょっと蛇行した昔ながらの川を感じる区域を超え長府の街並みに入ると護岸整備がされた区間に入りあっという間に河口でした。とは言え今に残る武家屋敷の町長府を彩る大事な景観の川です。
伝説があるから有名な川になっていますが、そうでなくても長府の景観には大事な川だったんでしょうね。壇具川 自然・景勝地
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檀具川沿いには長府藩の上級武士の長屋が移築保存されていましたので入ってみます。建物にギリギリまで寄ったけど逆光がひどい・・・。
ちなみに手前に子供の自転車がいっぱいおいてありましたが、この辺りには子供がいなかったのでここに置いてどこかにいったんですかね。長府藩侍屋敷長屋 名所・史跡
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長屋の中はこんな感じで倉庫の様になっていました。しかし説明によると上級武士の自宅らしいのですが・・・・。この前の岡山旅行で行った備中松山の折井家や埴原家の屋敷に比べるとずいぶん質素というか完全に倉庫にしか見えず・・・。
長府藩は萩藩の支藩ですがそれでも5万石、備中松山藩も5万石なのですが・・・。
まあ萩藩が実質110万石程度あったようなのでそれとの差は歴然ですけど。長府藩侍屋敷長屋 名所・史跡
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ちょっとわかりにくいですが井戸が保存されています。この井戸は御影の井戸と呼ばれ、菅原道真が大宰府に流される際に忌宮神社大宮司の家に泊り、出発の際にこの井戸を覗き「もう二度とこの地に来ることはなく、この井戸で顔を見る事もあるまい」と井戸に写る自分の自画像を描かれたと言われている井戸だそうです。
既に駐車場に向かっている道筋ではありましたが、これで長府の探索を終え下関方面へ向かう事にします。博物館の閉館などもあって当初予定よりかなり早く探索が終わりました。予定ではここで7時前後かなと思っていましたからね。 -
下関市街方面へと向かい次にたどり着いたのは前田砲台跡。幕末に長州藩によって建築され攘夷を目指すべく1863年に関門海峡を通る商船に対し無差別砲撃を加えます。軽武装の商船は逃げ帰りましたが翌月フランスに報復攻撃を行われ砲台は破壊、市街地に被害を受け一揆が発生するという事態になりました。
長州藩はこの戦い武士は案外役に立たない、ということで身分を問わない軍隊=奇兵隊を結成しさらに砲台を増備、砲撃を加えました。前田砲台跡 名所・史跡
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それに対し翌1864年米英仏蘭の4か国は連合艦隊を派遣し下関に大規模な砲撃を加えます。前年の薩英戦争と違い準備万端で攻撃するために来た4か国艦隊にかなうわけもなく最終的に陸戦部隊が上陸させ各種砲台を占拠、破壊されます。この際には天保時代に製造された長州砲が鹵獲され、いまでもパリのアンヴァリッドに展示されています。
写真は前田砲台に関する石碑です。
砲台は高台と低いところの二か所に設置されここから関門海峡へ砲撃を加えました。他にも壇之浦や彦島にも砲台が設置されていたそうです。前田砲台跡 名所・史跡
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当時国内では尊王攘夷の流れが吹き荒れていていましたが、長州藩の藩命でイギリスに密留学した5人、所謂長州ファイブは現地の様子を見て攘夷など不可能とすぐに悟りました。その中で連合艦隊による下関攻撃が迫っている事をしった5人のうち二人の伊藤俊輔(後の伊藤博文)、志道聞多(後の井上薫)は和平の為に急いで長州に帰り説得するも誰もそんな事には耳を貸さず戦争へと突入しました。
圧倒的な力の差を見せつけられ壇ノ浦に上陸した陸戦部隊はそのまま下関市街へも一部進軍、さらに彦島の砲台もすべて占領破壊され降伏という形になります。それでも山県狂介が投錨中のフランス艦に砲撃を加えダメージを与えるなどの戦果もあったそうです。
和平交渉は高杉晋作が長州藩家老宍戸親基の子宍戸刑馬を名乗り、伊藤俊輔が通訳を行う形で行われました。彦島の租借を求められそれを阻止するために日本書紀を暗唱しだしうやむやにして防いだという事を晩年の伊藤博文が語っていますが当時の記録にはその様な事はないそうです。
写真は砲台跡に残っていた唯一の建築物のレンガ倉庫。積み方を考えるとかなり古いと思いますが、このあたり一帯は下関戦争で焼き払われ調査でも焼かれた土が見つかっている事からそれ以後に造られたもののはずです。前田砲台跡 名所・史跡
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前田砲台から海までの距離はこんな感じ。というよりは幕末はこの崖の下は海という形だったようです。下関戦争に従軍したフェリーチェ・ベアトが連合国が占拠した前田砲台を撮影していますが、すぐ先は海でした。
今では碑がなければ戦争の砲台があったなんてわからないような風景になっています。前田砲台跡 名所・史跡
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前田砲台跡から次に向かったのは赤間神宮。駐車場に車を停めると目の前には関門海峡が見える環境でした。反対は門司港レトロ地区。大きな川にも見えない事はないほど狭い関門海峡ですが潮流はかなり早く感じて、船の航行は相当に早く見えました。狭い海峡なので通る位置は厳格に指定されているようです。
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関門海峡にかかる橋は関門橋。大型船舶も通る海峡なので水面から桁下まで61mと高さもある橋です。開通時には東洋一のつり橋で、その後の長大橋の先駆けになったそうです。
関門海峡は狭い海峡で交通の要衝の為トンネルや橋が通されていますがトンネルが3本なのに対し橋はこの関門橋のみです。関門海峡 自然・景勝地
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遠くに見えるのは門司の中心部。小倉かと思ったんですが地図で見ると文字で、小倉はさらに奥になります。右手に小さく見える陸地が彦島でその奥に小倉がある形です。
幕末の四境戦争の際には奇兵隊などの諸隊軍と幕府軍・小倉藩軍はこの地で激戦を繰り広げました。関門海峡 自然・景勝地
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赤間神宮駐車場横にはこの様な石碑がありました。朝鮮通信使は釜山出発後対馬、隠壱岐を経由後この馬関に上陸しその後海路で大阪に向かい、大阪からは陸路で江戸に向かったそうです。将軍が代替わりした時などに訪日し500人ほどが参加していたそうです。
阿弥陀寺公園 公園・植物園
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赤間神宮にやってきました。2010年12月以来11年ぶりの来訪です。この赤間神宮は壇ノ浦の戦いで亡くなれた安徳天皇を祀る神社です。
元々は阿弥陀寺として祀られていましたが、明治になり神仏分離で天皇社となり、その後赤間神宮となりました。赤間神宮 寺・神社・教会
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赤間神宮には安徳天皇の陵墓が置かれています。宮内庁管理で門の外からしか見る事が出来ませんが、動乱の中わずか5歳で入水された天皇。即位は現在でいうところの1歳、既に平家政権は源氏との交戦中でした。
大人の都合で天皇にされ大人の都合で入水せざるを得なかった安徳天皇。門の前で手を合わせました。安徳天皇阿弥陀寺御陵 名所・史跡
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安徳天皇陵から眺めた関門海峡。900年前に壇之浦の戦いがあった時と様相は変わっていますが、関門海峡を眺める事が出来る場所に陵墓が造られています。
安徳天皇阿弥陀寺御陵 名所・史跡
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赤間神宮に隣接するこの建物は日清講和記念館。馬関条約締結時に利用された春帆楼の敷地内に建てられていて、この写真の左手には今でもホテルとして営業している春帆楼があります。
建物は1937年6月に完成したもので当時からあったものではないですが2011年に登録有形文化財に指定されています。中では当時の様子を再現したりしているのですが、例によってコロナ対策で閉鎖されていました。日清講和記念館 美術館・博物館
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春帆楼の横に立つ像は講和交渉時の日本全権代表、伊藤博文首相、陸奥宗光外相の二人です。連戦連勝で戦争をしながら講和条約交渉という圧倒的に有利な条約交渉でしたが、軍部の山縣有朋の強硬論、列強諸国の介入、ロシアの満州付近への軍事圧力、清全権代表李鴻章が日本人過激派に狙撃されるなど厳しい交渉にもなりました。とは言え最終的には日本の圧倒的な優位の状況下、さらに北京攻略のための兵員輸送を関門海峡を通らせる事でまだまだ日本は増派させる余力があることを見せつけ伊藤の交渉力もありほぼ日本の要求通りの講和条件で馬関条約を結ぶことに成功しました。
日清講和記念館 美術館・博物館
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赤間神宮の境内です。赤い色が強調される綺麗な本堂と境内になっていました。
赤間神宮は1945年の下関空襲で全焼してしまい現在の本堂は1965年に再建されたものです。下関は繰り返し空襲を受け、特に1945年6月末と7月のものは大規模でした。下関市街は焼け野原となり、さらに飢餓作戦により関釜航路などの航路が使用できなくなったため物資も入らなくなるという惨状になりました。
赤間神宮の見学を終えて壇ノ浦方面へと向かいます。結果論ですがこの時に唐戸付近まで行っていれば3日目のスケジュールがもう少し余裕ができた・・・。初日で疲れていたのとこの時点では3日目の天気はそんなに悪くなかったので・・・。3日目雨が降り行動に支障が出るとはあまり思ってなかったんですよね・・・。赤間神宮 寺・神社・教会
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赤間神宮から車で数分移動して関門橋の下にあるみもすそ川公園にやってきました。みもすそ川は漢字では御裳川と書き、かつてこの地で関門海峡に流れ出ていた川です。現在は暗渠化されていますが、この場所に橋が復元されています。
安徳天皇を抱き入水した尼の辞世の句「今ぞ知る 御裳濯川の 御ながれ 波の下にも 都ありとは」にも名前が出てきます。みもすそ川公園 公園・植物園
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平家が滅亡した壇ノ浦の戦いの場面を描いた源義経・平知盛と像が建立されていました。私はだいたい戦国以降の歴史は好きなのですがこの辺りは教科書レベルしか知識がない・・・。義経の八艘飛び伝説という伝説もあるそうです。
この地域は狭い海峡になっていて古くから地政学的に重要な地域になっており、古代の熊襲平定や三韓征伐、この壇ノ浦の戦い、幕末の下関戦争、四境戦争など大きな戦いや戦いの為の前の準備として利用されてきました。関門海峡だけではないですが、第二次大戦中には米軍の飢餓作戦で機雷が投下され通商破壊も行われています。壇ノ浦古戦場跡 自然・景勝地
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みもすそ川公園には長州製加農砲、いわゆる長州砲が並んでいますがそのうち一つだけ屋根の下に保存されているものがあります。これはレプリカを元に復元されたもので、アンヴァリッドに保存されている長州砲を元に彫刻が掘られたそうです。
みもすそ川公園 公園・植物園
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ずらっと並ぶ長州砲。すべてレプリカですが幕末にはこの地に壇之浦砲台が築かれ先ほど訪れた前田砲台跡と同じく関門海峡を通る外国船に砲撃を加えました。結果は前田砲台跡のところで書いた通りです・・・。下関戦争で占領され鹵獲・破壊されその後は攘夷が不可能を知り明治維新へ、というのはこの旅行記で何回か書いた通りです。
みもすそ川公園 公園・植物園
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関門海峡、その向こうの門司に向けて並ぶ砲台・・・。
当時の技術ではここから門司どころか関門海峡でも届かない場所もあり警戒していれば当たらずに航行もできた様です。
ちなみに連動しての十字砲撃などは行える体制でなかったうえに、すぐ後ろに崖があるという地形の関係上ものすごく防御も弱く各砲台毎に破壊されていったそうです。
その後の四境戦争の小倉口の戦いでもここから門司への砲撃はなく、奇襲上陸し敵陣破壊を二回行ったあと本格的に門司へ上陸、その後赤坂の戦いで大敗を喫するも幕府軍の統率の取れなさや指揮官の老中小笠原長行が大阪へ逃走するなどし小倉藩兵以外は皆撤退。近代化されていない小倉藩では奇兵隊にかなうわけもなく小倉城を自焼しゲリラ戦へと移行、長州藩が小倉を占領し明治になるまで事実上の支配下に置くことになりました。 -
みもすそ川公園から国道9号を挟んで山側にあるのはこれ。関門海峡トンネルの人道入口です。本州と九州の間を徒歩で渡ることが出来ます。
国道2号の関門海峡トンネルは下関インター付近から門司港レトロ地区まで地下を走っていますが、人道部分はこの壇ノ浦から和布刈地区までトンネルで歩けます。 -
人道入口近くに高台がありそこに関門隧道建設の碑が立っていました。1939年から1958年までの工事になったこと、途中戦争で中断したことや53人の殉職者を出しながら建設をしたことなどが記されていました。
ちなみに「建設大臣根本龍太郎」と書かれており一瞬橋本龍太郎と読み間違えてしまいましたが、よく見ると当時の建設大臣の方でした。関門トンネル 名所・史跡
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地下に行くにはこのエレベーターで下っていきます。クジラの絵が描かれています。捕鯨の町として有名だった下関なので描かれているのですかね。今ではフグの方が有名な気もしますが・・・。
歩行者は通行量はなく、自転車で利用する場合は20円の通行量が必要で、料金の収受箱はこの下関側にあります。ただ自転車は乗ることは禁止され押すことが義務付けられています。 -
エレベーターで降りて地下道までやってきました。エレベーターは高速なのかそんなに時間は感じませんでした。構造としては車道の下2mほどの位置を歩く形になっていて結構車の走行音が響きます。
下関側の地下にはちょっとした広場がありスタンプやチラシなども置かれていました。スタンプは半分の柄になっていて門司側も合わせると一つの図柄になるようです。関門トンネル 名所・史跡
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歩道のみの通路ですがここも立派な国道二号です。後日いった門司側の出発口にもおにぎりがあり、それぞれの入り口でしっかりと国道であることを主張していました。
関門トンネル 名所・史跡
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ゆっくりペースで7~8分歩くと海底で山口県と福岡県の境があります。九州と本州、海で隔てられている県同士の県境を徒歩で跨ぐというのも不思議な気持ちです。
本当はこのまま九州まで歩いていきたかったのですが、時間が6時半になっていることや九州まで行っても出るのは和布刈地区で門司港レトロまで離れているのでこのまま県境を跨いだところで山口側に引き返します。 -
引き返してきてだいたい20分ですね。トンネル内をゆっくり歩いたり、広場でいろいろ見たりもしていたので少し時間がかかりましたがまだまだ明るいです。地下は非常に蒸していたので上がってきて涼しい風を受けると楽になります。
まだ明るいんですが日没も近いですしホテルに向かう事にします。関門トンネル 名所・史跡
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山陽道を走っても良いのですが下関からホテルのある山陽小野田市厚狭まではバイパスが整備されているのでそのまま下道を走ってきました。だいたい一時間程度でした。
ホテル近辺はあまりお店が無さそうなので厚狭のイオンタウンに寄った際に見つけた台湾料理店に入ってみました。博多金龍 厚狭店 グルメ・レストラン
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夜でもセットメニューが格安で販売されていて台湾刀削麺と高菜チャーハンのセットを注文しました。そしてこのボリューム。高菜チャーハン単体でも良いくらいのボリューム(笑。
これで大盛とかじゃないですからね。お値段は奥に見えるメニューの通りこれで980円ととてもお得です。
味も美味しかったです。特に刀削麺はコシもあり良かったです。 -
無事にホテルに到着しました。厚狭駅前にあるエクストールイン山陽小野田厚狭駅前というホテルです。大浴場あるホテルで安かったので予約を入れましたが、思いのほか良いホテルだったのでおそらく2日目後半にホテルの紹介をしっかり入れようと思っています。
エクストールイン山陽小野田厚狭駅前 宿・ホテル
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