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《2021. April》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXIII草津~藤の名所を訪ねて編~<br /><br />GWを前にして関西エリア都市部では緊急事態宣言が発令された。それも5月11日までということならば、GWが GWでなくなる筈だ。だが巷の動きはどうだろうか?田舎の我が街石山だが、一応駅前にはそれなりに飲食店はある。勿論緊急事態宣言の対象外であるため敢えて営業を自粛している店舗以外は通常通り営業している。そこまで逼迫していないということが知事の判断に繋がっているのだろう。他府県ナンバーで渋滞は作られるは電車にはどう見ても仕事ではない若者や年寄りが乗っているわと言うボヤきとも取れない声がスタッフからも聞こえている。実際に京阪神の店舗に勤務する外注スタッフ(自店雇いの者以外)の受け入れを滋賀県店舗に依頼するという話があったのだが、あのクソ雨が降った4月29日に他店勤務のスタッフが9人も来たらどうなるだろう。私は休みだったので伝え聞いた話でしかないが、お客も居ないのにスタッフが沢山いたとしてもやることがない。おまけに自店舗雇いのスタッフとは違い、混雑している部署への応援にも出せない。結果9人+自店舗スタッフ3名の12名が狭い場所に立ち並び、仕事以外の話で盛り上がっていたという。それを見た管理職の逆鱗に触れ、売場責任者は注意を受け続けたというとんでもないことを生み出してしまった。我が店だけならまだしもスタッフを受け入れた滋賀県内7店舗全て同じだったことから大きな問題となってしまい翌日には全店〝受入拒否〟となってしまった。<br /><br />この時期には酷な話だが、有給休暇があるものはその消化となったようだが、まだそこまで勤務歴がないものに対しては〝事故欠〟扱いの無給休暇を強制的に取らされる羽目になったらしい。彼ら彼女達にも生活があるだろうから酷な話に聞こえなくもないが、受入先がなければ仕方がない。唯一滋賀店舗で5月1・2日にイベント予定をしていた店舗は、県内在住スタッフが集められたらばという条件付きで開催したようだが、予定人員の半数にも満たない人数で回したとして結果は目に見えている。勿論京阪神の店舗は売場自体が閉まっているため全て中止となっている。会社を絡めるとそれなりには人の出入りを規制したことには繋がったが、一般個人までは規制することはできない。結果我が県は人口流入率が上がり、関西圏ではできない大騒ぎができてしまう。ひと言で言うならば迷惑以外に何物でもない。滋賀の田舎者にとっては他府県からの〝侵略者〟としか見ていないのである。大阪のコロナ重症者病床の利用率が115%という危機的状況にあるのが事実である。ワクチンを打とうがPCRで陰性だからと言って罹患しない保証はない。自業自得で罹患した患者をなぜ受け入れる必要があるのか?日々考えることである。昨年のGWは本当に静かであった。他府県からの移動もなければ他府県への移動もない。ある意味住み分けが確立していた。だが今年は違う。駐車場に停まっている車はほとんど他府県ナンバーである。駅前に停めるのは飲食店に行くためしか考えられないため、とてもじゃないが外食などする気も起こらない。夜はバブル期の歓楽街のようにも見えなくはない。はっきり言って人の移動を止める努力をしないならば、私は外出したくない。勤務先は勿論屋内なので感染リスクは屋外に比べると高いはずである。それでも出て行かなければならないのは仕事だからである。屋外だから大丈夫とは言えないが、屋内でギャーギャー騒がれるよりはましだと思う。<br /><br />ニュースでは吉村知事をはじめ政治家が〝危機的状況〟だということを連呼している。が当の住人には自覚がない。自分自身でも一定の線引きをした上で屋外での滞在に限定するならばまぁ理由にはなるかなと考えていた。しかし平日であっても人が集まる場所にはそれなりの人数がおり、時間帯では〝密〟を作り出していることを目の当たりにし、考え方を改めなければと思い直したばかりである。変だと思われるかも知れないが、有名処は人が集まるので、地元住人に〝穴場〟として紹介される場所へ滞在時間を減らしつつ数を回り、密を確認すれば行先変更という定義をつくり出掛けてみようと考えた。いつもと同じく連れはいない。あくまで気の向くまま足の向くままで行先を決めて歩いてみた。今回行先に選んだのは草津市の藤の名所3ヶ所である。密を避けて回れたのかどうか?それを客観的に判断して貰いたく記録を明かす。<br /><br />もし申すことあれば教えて頂きたいと思う。自粛続きで気が滅入るというのであれば、情報共有したいと考えている。<br /><br />令和3(2021)年4月23日金曜日<br />こんなご時世故に出掛けるにも理由が必要だ。ちょうど伸びてきた髪を切ろうと守山に向かう。その前にちょっと寄り道をすることにした。もっとも寄り道する場所が本来の目的地であることはいうまでもない。湖周道路を暫く走り草津市に入ると、農道もどきの道を中心に左右に行ったり来たりを繰り返す。辿り着いた先は志那神社。草津市志那町に鎮座する旧村社格の神社である。道路に面して鳥居があり、川に挟まれた参道には淡海の巨木・名木次世代継承事業認定第24号指定の保護樹木クロマツが植えられている。巨木ではあるが歴史としては50~70年ということで歴史あるものとまでは言えない。ただ松並木の参道としては滋賀県下では長いものと書かれている。確かに私が訪れた神社仏閣では長い松並木のあるところはなかったように思う。<br /><br />この志那神社だが創建等は一切不明である。奉納されている品々から平安中期の貞観9(867)年には鎮座していたと推定されているが、実際建物としては昭和24(1949)年に老朽化した重文指定の本殿を修理する時に床下から出土した礎石が県の鑑定により平安期のものと判明したことから延暦13(794)年から建久2(1191)年の間に建立されたことになると書かれていた。まあ確かに言いたいことはわかるのだが、現在鎌倉時代は文治元(1185)年からという説が濃厚になっていることを踏まえると無理があるようにも思う。歴史あることのアピールかも知れないが400年というズレは信憑性に欠けると言われれば尤もである。そもそも延長5(927)年に編纂された延喜式神名帳に記載された意布伎神社の論社で格式の高い神社として知られていたと言っても、その相関関係がわからないでは答えになっていない。確かに歴史ある神社と言えば社宝として建武元(1334)年作の木造普賢菩薩坐像や、南北朝時代作の石造宝塔があることを踏まえると嘘ではないことはわかるにしても、あまり欲を出すと折角の歴史までも疑わしいと取られかねないと思ってしまう。事実本殿の歴史に比べると摂社の八幡社や白山社はつい最近の物に違いないので、不確かな解説は入れる必要がないと思うのは私だけだろうか?<br /><br />まあ今回は志那神社の歴史を辿ることが目的ではなく、境内の〝藤〟がお目当てだということでそちらの話をする。界隈の藤の名所として惣社神社・三大神社と共に〝志那三郷の藤〟と呼ばれている。植えられた時期は異なり志那神社の藤は、その時期も不詳とされている。拝殿右方向に藤棚があり、その場所はすぐにわかる。ただちょっと花の時期には早かったようだ。咲き始めという状況だろうか。チラホラと花は見えるが満開には程遠い。しかし〝大藤〟と呼ばれる由来となった花房はその迫力を醸し出しており、それなりの長さに成長していた。だが紫と白色からなる藤の花は、意外にも写真として切り取ると背景に溶け込んでしまい目立たないことが後からわかる。花房の真下から天井を見上げるように撮影しても、空の色に同調してしまいやはり目立たない。カメラマンの腕が悪いのは確かだが、藤棚そのものがショボいと言われる理由は見頃に行かなければ迫力も感じない上に記録したデータを再現してもその迫力が伝わってこない部分から言われてしまうことではないかと思う。残念ながら今日の開花情報としては〝咲き始め〟のレベルであった。近隣の名所がどのようなものかはわからないが、取り敢えず行ってみようと思う。<br /><br />鳥居前に路駐した車に戻り出発する。目的地は惣社神社である。1.5kmあり所要3分であればすぐなのだが、この辺りはカーナビの情報が当てにならないためにスマホナビを利用する。ただ実走を感知するのではなくGPSデータを利用しているだけなので、中々目的地に到着しない。記録を確認すると20分程費やしている。我ながら効率の悪さを痛感する。<br /><br />旧郷社格の惣社神社は志那中町の住宅地の中にあった。村の鎮守の神様そのものの雰囲気が漂う神社で、やはり志那神社同様式内社の意布伎神社の論社のひとつであるようだ。しかしこちらでは〝論証〟を掲げており、江戸期に当所にあったとされる大般若寺を記録した〝大般若寺絵図〟が社宝として残されており、そこに大般若寺の境内の隅に鎮守社として意布伎社が描かれており、それが当社だと考えられるからとのこと。絵図には当社の境内玉垣の外にある石造宝塔跡が描かれており、大般若経の一部が残っていることからも間違いはないだろうと判断しているようだ。勿論社宝である以上一般公開されている訳でもないため、どこまで信憑性があるかはわからない。言い方は悪いが今回の訪問地で唯一の貸切状態であったことから知名度の低さは挙げられる。また根拠となる石造宝塔跡にしても玉垣外と明記するならば境内図等で告知をしなければ、前情報無しに訪れた者は知らずに帰ってしまうだろう。勿論私もその一人なのであるが、確固たる自信がないためうやむやにしているようにも思えてならない。往古には科戸(しなと)明神とも呼ばれ、創建は不詳であるが天智天皇4(665)年に右大臣中臣金連勅により風神である志那都彦神を鎮祭し、意布伎神と尊崇したに創まると社伝には書かれている。中臣金連と言えば大津に都があった折に天智天皇の重臣として活躍した人物である。もっとも天智天皇亡き後は子の大友皇子に仕えていたが、壬申の乱で敗れ、大友皇子が自害した後に大海人皇子に捕えられ殺害されている。この経緯から天智天皇所縁の神社と思いきや、境内にある大藤に関しては〟惣社大藤の縁起〟として天武帝の除病延命仏法興隆を祈念して藤が供えられたことに始まると書かれている。つまり天智・天武両天皇所縁の神社となるが、史実と比較すると筋道が通らなくなってしまう。大藤の樹齢は500年と伝わってはいるが、社伝を述べれば述べる程史実と異なることが出てくるために、真実かどうか疑わしくなってくる。大藤は見事なものであることに違いはないが、創始に関してはわからないままにしておく方が良いのではないだろうか?そんな感じを受ける神社であった。<br /><br />境内の大藤は樹齢のことはともかく立派なものであった。先に訪問した志那神社と近いにも関わらず〝見頃〟を迎えていることから、樹齢も惣社神社の方が若いのかも知れないと感じてしまう。志那三郷の藤の一角を担っている大藤であることは間違いないことなのでそれだけをアピールし、疑わしき社伝には触れないようにすれば、訪れる者も深く考えずに藤の花を楽しめるのにとふと思った私であった。<br /><br />駐車場がないので境内脇に路駐していたので、さっさと来る前と戻って出発する。次の目的地は三大神社。やはり志那三郷の藤の名所の一角を担っている神社であり、シーズンには観光客で賑わう名所でもある。距離は2km程なのであるが道が入り組んでいて思うように走れない。それでも10分程で到着する。この界隈は歩いて巡ることをお勧めする…。<br /><br />三大神社は草津市志那町の条里制遺構である吉田の中心地に鎮座する。創祀年代不詳であるが延喜式神名帳に記載の式内社伊冨伎神社の論社のひとつである(他に志那神社・惣社神社)。天智天皇の時代に志那津彦命・志那津姫命との風神二座を祀り、平安末期の応徳年間に穴太包光によって大宅公主命が合祀されたと伝わる。明治時代に入り現社号に改められ明治9(1876)年に村社に列した。<br /><br />創始は不詳であるも由来書きからひも解くと、天智天皇の勅により大中臣金連が天智4(665)年に風神の二柱を祀ったのが起源であり、当社が式内社・意布伎神社であるという。その後応徳年間に穴太包光が大宅主命を合祀して〝祭神三柱〟となったことを叡山山門の守護神である三台権現に準えて三体神権現と称するようになる。その後三大大権現と称した時代以降支那三郷の総祭が当社で行われることとなる。<br /><br />社殿は中世に破損しその修繕を吉田大欲助や穴太包元等が行っている。更に江戸時代初期の承応年間には芦浦観音寺舜貞法人によって再建された後、明治9(1876)年に現在の社殿となり今日に至っている。鳥居を潜り後の楽しみに取っておく〝藤棚〟横を通ると、砂利敷き境内の真ん中に拝殿があり、その右手境内の奥に垣に囲まれて社殿が並んでいる。一番左手には流造の本殿があり、その右斜め前に重文指定の鎌倉時代に作られた石灯籠がある。本殿の右手に宝塔があって、その右手にふたつの境内社として若宮社と蛭子社がある。その他敷地内には稲荷社と藤棚のそばの石〝白髭宮〟というふたつの境内社も存在する。<br /><br />この三大神社、創建は近江朝廷の手によるものとして藤は藤原氏の隆盛を祈念して倉橋山の藤を移植したものとされている。この藤原氏というのが大化の改新で藤原姓を天智天皇から賜った中臣鎌足のことを指す。天武天皇の勅により鎌足の葬られた談峯の藤花に因んでいるとの逸話は、大化の改新は教科書で習う中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我氏本宗家滅亡事件〝乙巳の変〟を狭義の大化の改新として捉えてしまうために誤解が出るが、実際には50年にも渡る国政改革のことであり、内臣中臣鎌足の元皇極太上天皇主導の元中大兄と大海人の二人の皇子の協力によって推進された〝天皇主体〟ではない改革である。これにより豪族主体の政治から天皇主体の政治へと移り変わったと言われているが、この二人の皇子から見れば、鎌足無くしての改革は推し進められなかった訳である。その功績による藤原氏であり藤原鎌足ならば、天智・天武天皇双方から慕われ、今後藤原氏の隆盛を祈念することも当然のことと考えることができる。その証拠として三大神社の藤は多々ある蔓が左巻きの〝ヤマフジ〟ではなく、右巻きの〝ノダフジ〟であることも理由に挙げられよう。この三大神社の藤は現在の幹に於ける樹齢推定420年の古木であり、元亀2(1571)年に織田信長が比叡山を焼き討ちした際に兵火にかかり一旦は焼失したと思われていた。しかしその後株元から芽生えた小さな枝葉が繁茂して今日に至り、淡紫色の花穂が長く2m近くにもなって地面に届くまで成長するため〝砂擦りの藤〟と呼ばれ親しまれている。<br /><br />現実に戻って藤棚を周回する。藤の時期は協力金という形で200円を無人徴収すると書かれてあった。しかし有名処であるがためネット上の情報は古いものも多数拾ってしまうためたちが悪い。祭りやライトアップが中止ということはわかっていたが、駐車場の有無が無いと書かれてあるもの、あると書かれているもの両方が乱立していた。答えは〝大っぴらにしてはいない〟というのが本当のようで、それなりの数の駐車スペースは用意されていた。しかしやはり気になるのは他府県ナンバーである。越県自粛が叫ばれ始めた頃だったので強制はできないがあまり気持ちの良いものではない。あと協力金の捉え方も様々だったが、今年に限って言えば写真を撮るのは構わないものの、撮影ポイントでは一点に留まることをせずにすぐに移動して欲しいと、名の知れた観光地ではそこら中に書かれていた。先日訪れた宇治平等院では私自身他府県ナンバーではあるが、ありとあらゆる都道府県のナンバーが見受けられ、藤棚の周りはアジア圏のパラダイスとなっていた。宇治平等院は拝観券を購入する必要があるが、三大神社はある意味任意である。多くの参拝者はこの藤を保存するのに多くの労力と多額の費用が掛かっていることを知っている。それを知っていれば200円に加えて手を合わせてもバチは当たらないだろう。しかしそんな背景を知らなければ〝インスタ映え〟する1枚の写真のために何枚撮るのか?と聞きたくなるほどシャッターを切って同じ場所を占領する。勿論協力金は私の後ろを通り抜けているから払っていない。周りからすると邪魔にしかならないが自分の世界に浸っているおめでたい性格なのであろう。バカップルがこれ程情けないものだと感じさせられた瞬間であった。<br /><br />そんなこともあったが日が暮れるに従って参拝客は減ってくる。とはいえ写真を撮るにも厳しい条件になってくるので、あまり深く考えずに適当に構図を決めてシャッターを推して行く。フィルムで撮ったら赤っぽく、デジカメで撮ったら青っぽく写る傾向が藤の花にはあるようだ。自分の目で見ていた色とはどちらも異なるが、それはそれで記録の中では良い思い出となる。<br /><br />とにかく今年は〝花〟の時期が読めない年となった。サクラは3月に見頃を迎えてしまい、4月には散っていた。梅に至ってはいつだったっけ?と首を傾げるくらい早かった気がする。藤も例年ならば5月に入ってからだと思うのだが、4月下旬で場所によっては見頃だったりする。志那三郷の藤の名所では志那神社はまだ、惣社神社はまもなく、三大神社はどうだろう?という主観的な藤の見頃である。三大神社が?というのは年によって花房の成長が異なるらしく、砂擦りまで伸びないこともあると知り、それを踏まえてのことである。因みに梅やサクラはともかく、藤という花をピックアップできたのか?実は単純に鬼滅の刃の胡蝶しのぶを思い出したからである。<br /><br />各神社30~60分程度の滞在時間で回ることができる場所となっており、気分転換の散歩ができた今回の草津藤の名所巡りの旅であった。<br /><br />  《終わり》

《2021. April》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXIII草津~藤の名所を訪ねて編~

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GWを前にして関西エリア都市部では緊急事態宣言が発令された。それも5月11日までということならば、GWが GWでなくなる筈だ。だが巷の動きはどうだろうか?田舎の我が街石山だが、一応駅前にはそれなりに飲食店はある。勿論緊急事態宣言の対象外であるため敢えて営業を自粛している店舗以外は通常通り営業している。そこまで逼迫していないということが知事の判断に繋がっているのだろう。他府県ナンバーで渋滞は作られるは電車にはどう見ても仕事ではない若者や年寄りが乗っているわと言うボヤきとも取れない声がスタッフからも聞こえている。実際に京阪神の店舗に勤務する外注スタッフ(自店雇いの者以外)の受け入れを滋賀県店舗に依頼するという話があったのだが、あのクソ雨が降った4月29日に他店勤務のスタッフが9人も来たらどうなるだろう。私は休みだったので伝え聞いた話でしかないが、お客も居ないのにスタッフが沢山いたとしてもやることがない。おまけに自店舗雇いのスタッフとは違い、混雑している部署への応援にも出せない。結果9人+自店舗スタッフ3名の12名が狭い場所に立ち並び、仕事以外の話で盛り上がっていたという。それを見た管理職の逆鱗に触れ、売場責任者は注意を受け続けたというとんでもないことを生み出してしまった。我が店だけならまだしもスタッフを受け入れた滋賀県内7店舗全て同じだったことから大きな問題となってしまい翌日には全店〝受入拒否〟となってしまった。

この時期には酷な話だが、有給休暇があるものはその消化となったようだが、まだそこまで勤務歴がないものに対しては〝事故欠〟扱いの無給休暇を強制的に取らされる羽目になったらしい。彼ら彼女達にも生活があるだろうから酷な話に聞こえなくもないが、受入先がなければ仕方がない。唯一滋賀店舗で5月1・2日にイベント予定をしていた店舗は、県内在住スタッフが集められたらばという条件付きで開催したようだが、予定人員の半数にも満たない人数で回したとして結果は目に見えている。勿論京阪神の店舗は売場自体が閉まっているため全て中止となっている。会社を絡めるとそれなりには人の出入りを規制したことには繋がったが、一般個人までは規制することはできない。結果我が県は人口流入率が上がり、関西圏ではできない大騒ぎができてしまう。ひと言で言うならば迷惑以外に何物でもない。滋賀の田舎者にとっては他府県からの〝侵略者〟としか見ていないのである。大阪のコロナ重症者病床の利用率が115%という危機的状況にあるのが事実である。ワクチンを打とうがPCRで陰性だからと言って罹患しない保証はない。自業自得で罹患した患者をなぜ受け入れる必要があるのか?日々考えることである。昨年のGWは本当に静かであった。他府県からの移動もなければ他府県への移動もない。ある意味住み分けが確立していた。だが今年は違う。駐車場に停まっている車はほとんど他府県ナンバーである。駅前に停めるのは飲食店に行くためしか考えられないため、とてもじゃないが外食などする気も起こらない。夜はバブル期の歓楽街のようにも見えなくはない。はっきり言って人の移動を止める努力をしないならば、私は外出したくない。勤務先は勿論屋内なので感染リスクは屋外に比べると高いはずである。それでも出て行かなければならないのは仕事だからである。屋外だから大丈夫とは言えないが、屋内でギャーギャー騒がれるよりはましだと思う。

ニュースでは吉村知事をはじめ政治家が〝危機的状況〟だということを連呼している。が当の住人には自覚がない。自分自身でも一定の線引きをした上で屋外での滞在に限定するならばまぁ理由にはなるかなと考えていた。しかし平日であっても人が集まる場所にはそれなりの人数がおり、時間帯では〝密〟を作り出していることを目の当たりにし、考え方を改めなければと思い直したばかりである。変だと思われるかも知れないが、有名処は人が集まるので、地元住人に〝穴場〟として紹介される場所へ滞在時間を減らしつつ数を回り、密を確認すれば行先変更という定義をつくり出掛けてみようと考えた。いつもと同じく連れはいない。あくまで気の向くまま足の向くままで行先を決めて歩いてみた。今回行先に選んだのは草津市の藤の名所3ヶ所である。密を避けて回れたのかどうか?それを客観的に判断して貰いたく記録を明かす。

もし申すことあれば教えて頂きたいと思う。自粛続きで気が滅入るというのであれば、情報共有したいと考えている。

令和3(2021)年4月23日金曜日
こんなご時世故に出掛けるにも理由が必要だ。ちょうど伸びてきた髪を切ろうと守山に向かう。その前にちょっと寄り道をすることにした。もっとも寄り道する場所が本来の目的地であることはいうまでもない。湖周道路を暫く走り草津市に入ると、農道もどきの道を中心に左右に行ったり来たりを繰り返す。辿り着いた先は志那神社。草津市志那町に鎮座する旧村社格の神社である。道路に面して鳥居があり、川に挟まれた参道には淡海の巨木・名木次世代継承事業認定第24号指定の保護樹木クロマツが植えられている。巨木ではあるが歴史としては50~70年ということで歴史あるものとまでは言えない。ただ松並木の参道としては滋賀県下では長いものと書かれている。確かに私が訪れた神社仏閣では長い松並木のあるところはなかったように思う。

この志那神社だが創建等は一切不明である。奉納されている品々から平安中期の貞観9(867)年には鎮座していたと推定されているが、実際建物としては昭和24(1949)年に老朽化した重文指定の本殿を修理する時に床下から出土した礎石が県の鑑定により平安期のものと判明したことから延暦13(794)年から建久2(1191)年の間に建立されたことになると書かれていた。まあ確かに言いたいことはわかるのだが、現在鎌倉時代は文治元(1185)年からという説が濃厚になっていることを踏まえると無理があるようにも思う。歴史あることのアピールかも知れないが400年というズレは信憑性に欠けると言われれば尤もである。そもそも延長5(927)年に編纂された延喜式神名帳に記載された意布伎神社の論社で格式の高い神社として知られていたと言っても、その相関関係がわからないでは答えになっていない。確かに歴史ある神社と言えば社宝として建武元(1334)年作の木造普賢菩薩坐像や、南北朝時代作の石造宝塔があることを踏まえると嘘ではないことはわかるにしても、あまり欲を出すと折角の歴史までも疑わしいと取られかねないと思ってしまう。事実本殿の歴史に比べると摂社の八幡社や白山社はつい最近の物に違いないので、不確かな解説は入れる必要がないと思うのは私だけだろうか?

まあ今回は志那神社の歴史を辿ることが目的ではなく、境内の〝藤〟がお目当てだということでそちらの話をする。界隈の藤の名所として惣社神社・三大神社と共に〝志那三郷の藤〟と呼ばれている。植えられた時期は異なり志那神社の藤は、その時期も不詳とされている。拝殿右方向に藤棚があり、その場所はすぐにわかる。ただちょっと花の時期には早かったようだ。咲き始めという状況だろうか。チラホラと花は見えるが満開には程遠い。しかし〝大藤〟と呼ばれる由来となった花房はその迫力を醸し出しており、それなりの長さに成長していた。だが紫と白色からなる藤の花は、意外にも写真として切り取ると背景に溶け込んでしまい目立たないことが後からわかる。花房の真下から天井を見上げるように撮影しても、空の色に同調してしまいやはり目立たない。カメラマンの腕が悪いのは確かだが、藤棚そのものがショボいと言われる理由は見頃に行かなければ迫力も感じない上に記録したデータを再現してもその迫力が伝わってこない部分から言われてしまうことではないかと思う。残念ながら今日の開花情報としては〝咲き始め〟のレベルであった。近隣の名所がどのようなものかはわからないが、取り敢えず行ってみようと思う。

鳥居前に路駐した車に戻り出発する。目的地は惣社神社である。1.5kmあり所要3分であればすぐなのだが、この辺りはカーナビの情報が当てにならないためにスマホナビを利用する。ただ実走を感知するのではなくGPSデータを利用しているだけなので、中々目的地に到着しない。記録を確認すると20分程費やしている。我ながら効率の悪さを痛感する。

旧郷社格の惣社神社は志那中町の住宅地の中にあった。村の鎮守の神様そのものの雰囲気が漂う神社で、やはり志那神社同様式内社の意布伎神社の論社のひとつであるようだ。しかしこちらでは〝論証〟を掲げており、江戸期に当所にあったとされる大般若寺を記録した〝大般若寺絵図〟が社宝として残されており、そこに大般若寺の境内の隅に鎮守社として意布伎社が描かれており、それが当社だと考えられるからとのこと。絵図には当社の境内玉垣の外にある石造宝塔跡が描かれており、大般若経の一部が残っていることからも間違いはないだろうと判断しているようだ。勿論社宝である以上一般公開されている訳でもないため、どこまで信憑性があるかはわからない。言い方は悪いが今回の訪問地で唯一の貸切状態であったことから知名度の低さは挙げられる。また根拠となる石造宝塔跡にしても玉垣外と明記するならば境内図等で告知をしなければ、前情報無しに訪れた者は知らずに帰ってしまうだろう。勿論私もその一人なのであるが、確固たる自信がないためうやむやにしているようにも思えてならない。往古には科戸(しなと)明神とも呼ばれ、創建は不詳であるが天智天皇4(665)年に右大臣中臣金連勅により風神である志那都彦神を鎮祭し、意布伎神と尊崇したに創まると社伝には書かれている。中臣金連と言えば大津に都があった折に天智天皇の重臣として活躍した人物である。もっとも天智天皇亡き後は子の大友皇子に仕えていたが、壬申の乱で敗れ、大友皇子が自害した後に大海人皇子に捕えられ殺害されている。この経緯から天智天皇所縁の神社と思いきや、境内にある大藤に関しては〟惣社大藤の縁起〟として天武帝の除病延命仏法興隆を祈念して藤が供えられたことに始まると書かれている。つまり天智・天武両天皇所縁の神社となるが、史実と比較すると筋道が通らなくなってしまう。大藤の樹齢は500年と伝わってはいるが、社伝を述べれば述べる程史実と異なることが出てくるために、真実かどうか疑わしくなってくる。大藤は見事なものであることに違いはないが、創始に関してはわからないままにしておく方が良いのではないだろうか?そんな感じを受ける神社であった。

境内の大藤は樹齢のことはともかく立派なものであった。先に訪問した志那神社と近いにも関わらず〝見頃〟を迎えていることから、樹齢も惣社神社の方が若いのかも知れないと感じてしまう。志那三郷の藤の一角を担っている大藤であることは間違いないことなのでそれだけをアピールし、疑わしき社伝には触れないようにすれば、訪れる者も深く考えずに藤の花を楽しめるのにとふと思った私であった。

駐車場がないので境内脇に路駐していたので、さっさと来る前と戻って出発する。次の目的地は三大神社。やはり志那三郷の藤の名所の一角を担っている神社であり、シーズンには観光客で賑わう名所でもある。距離は2km程なのであるが道が入り組んでいて思うように走れない。それでも10分程で到着する。この界隈は歩いて巡ることをお勧めする…。

三大神社は草津市志那町の条里制遺構である吉田の中心地に鎮座する。創祀年代不詳であるが延喜式神名帳に記載の式内社伊冨伎神社の論社のひとつである(他に志那神社・惣社神社)。天智天皇の時代に志那津彦命・志那津姫命との風神二座を祀り、平安末期の応徳年間に穴太包光によって大宅公主命が合祀されたと伝わる。明治時代に入り現社号に改められ明治9(1876)年に村社に列した。

創始は不詳であるも由来書きからひも解くと、天智天皇の勅により大中臣金連が天智4(665)年に風神の二柱を祀ったのが起源であり、当社が式内社・意布伎神社であるという。その後応徳年間に穴太包光が大宅主命を合祀して〝祭神三柱〟となったことを叡山山門の守護神である三台権現に準えて三体神権現と称するようになる。その後三大大権現と称した時代以降支那三郷の総祭が当社で行われることとなる。

社殿は中世に破損しその修繕を吉田大欲助や穴太包元等が行っている。更に江戸時代初期の承応年間には芦浦観音寺舜貞法人によって再建された後、明治9(1876)年に現在の社殿となり今日に至っている。鳥居を潜り後の楽しみに取っておく〝藤棚〟横を通ると、砂利敷き境内の真ん中に拝殿があり、その右手境内の奥に垣に囲まれて社殿が並んでいる。一番左手には流造の本殿があり、その右斜め前に重文指定の鎌倉時代に作られた石灯籠がある。本殿の右手に宝塔があって、その右手にふたつの境内社として若宮社と蛭子社がある。その他敷地内には稲荷社と藤棚のそばの石〝白髭宮〟というふたつの境内社も存在する。

この三大神社、創建は近江朝廷の手によるものとして藤は藤原氏の隆盛を祈念して倉橋山の藤を移植したものとされている。この藤原氏というのが大化の改新で藤原姓を天智天皇から賜った中臣鎌足のことを指す。天武天皇の勅により鎌足の葬られた談峯の藤花に因んでいるとの逸話は、大化の改新は教科書で習う中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我氏本宗家滅亡事件〝乙巳の変〟を狭義の大化の改新として捉えてしまうために誤解が出るが、実際には50年にも渡る国政改革のことであり、内臣中臣鎌足の元皇極太上天皇主導の元中大兄と大海人の二人の皇子の協力によって推進された〝天皇主体〟ではない改革である。これにより豪族主体の政治から天皇主体の政治へと移り変わったと言われているが、この二人の皇子から見れば、鎌足無くしての改革は推し進められなかった訳である。その功績による藤原氏であり藤原鎌足ならば、天智・天武天皇双方から慕われ、今後藤原氏の隆盛を祈念することも当然のことと考えることができる。その証拠として三大神社の藤は多々ある蔓が左巻きの〝ヤマフジ〟ではなく、右巻きの〝ノダフジ〟であることも理由に挙げられよう。この三大神社の藤は現在の幹に於ける樹齢推定420年の古木であり、元亀2(1571)年に織田信長が比叡山を焼き討ちした際に兵火にかかり一旦は焼失したと思われていた。しかしその後株元から芽生えた小さな枝葉が繁茂して今日に至り、淡紫色の花穂が長く2m近くにもなって地面に届くまで成長するため〝砂擦りの藤〟と呼ばれ親しまれている。

現実に戻って藤棚を周回する。藤の時期は協力金という形で200円を無人徴収すると書かれてあった。しかし有名処であるがためネット上の情報は古いものも多数拾ってしまうためたちが悪い。祭りやライトアップが中止ということはわかっていたが、駐車場の有無が無いと書かれてあるもの、あると書かれているもの両方が乱立していた。答えは〝大っぴらにしてはいない〟というのが本当のようで、それなりの数の駐車スペースは用意されていた。しかしやはり気になるのは他府県ナンバーである。越県自粛が叫ばれ始めた頃だったので強制はできないがあまり気持ちの良いものではない。あと協力金の捉え方も様々だったが、今年に限って言えば写真を撮るのは構わないものの、撮影ポイントでは一点に留まることをせずにすぐに移動して欲しいと、名の知れた観光地ではそこら中に書かれていた。先日訪れた宇治平等院では私自身他府県ナンバーではあるが、ありとあらゆる都道府県のナンバーが見受けられ、藤棚の周りはアジア圏のパラダイスとなっていた。宇治平等院は拝観券を購入する必要があるが、三大神社はある意味任意である。多くの参拝者はこの藤を保存するのに多くの労力と多額の費用が掛かっていることを知っている。それを知っていれば200円に加えて手を合わせてもバチは当たらないだろう。しかしそんな背景を知らなければ〝インスタ映え〟する1枚の写真のために何枚撮るのか?と聞きたくなるほどシャッターを切って同じ場所を占領する。勿論協力金は私の後ろを通り抜けているから払っていない。周りからすると邪魔にしかならないが自分の世界に浸っているおめでたい性格なのであろう。バカップルがこれ程情けないものだと感じさせられた瞬間であった。

そんなこともあったが日が暮れるに従って参拝客は減ってくる。とはいえ写真を撮るにも厳しい条件になってくるので、あまり深く考えずに適当に構図を決めてシャッターを推して行く。フィルムで撮ったら赤っぽく、デジカメで撮ったら青っぽく写る傾向が藤の花にはあるようだ。自分の目で見ていた色とはどちらも異なるが、それはそれで記録の中では良い思い出となる。

とにかく今年は〝花〟の時期が読めない年となった。サクラは3月に見頃を迎えてしまい、4月には散っていた。梅に至ってはいつだったっけ?と首を傾げるくらい早かった気がする。藤も例年ならば5月に入ってからだと思うのだが、4月下旬で場所によっては見頃だったりする。志那三郷の藤の名所では志那神社はまだ、惣社神社はまもなく、三大神社はどうだろう?という主観的な藤の見頃である。三大神社が?というのは年によって花房の成長が異なるらしく、砂擦りまで伸びないこともあると知り、それを踏まえてのことである。因みに梅やサクラはともかく、藤という花をピックアップできたのか?実は単純に鬼滅の刃の胡蝶しのぶを思い出したからである。

各神社30~60分程度の滞在時間で回ることができる場所となっており、気分転換の散歩ができた今回の草津藤の名所巡りの旅であった。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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