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《2021. April》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅奈良そのⅡ~女人高野室生寺と桜編~<br /><br />コロナ罹患患者の増加により大手をふって外出することが出来なくなった昨今。越県が形式上認められて1ヶ月が経つ。一時期患者数が減ったことによる措置であるとされてはいるものの現実に巷では変異型ウィルスに感染する者が増えている。従来型と比較すると感染力が強いとされており、第四波の到来が懸念されている。しかし感染防止策の発表もどうも的を得ていないように思えてならない。第一波の到来の際には外出自粛規制がそれなりに功を奏し、患者数の減少にも繋がっていた記憶がある。しかし昨年六月の規制解除が出された結果瞬く間に患者数が増加した。第二波到来の際にも少なくとも越県の移動は控えるようにとは言われていたが、以前のように画期的に外出者人口が減ることもなく第三波が到来した。一旦歯止めがかからなくなるとどうしようもなくなる大衆心理、大阪府では新規感染者が連日1,000人を超えている。当然のことながら患者を受け入れる病床数は逼迫し、罹患しても面倒を見てくれる病院すらなくなることが現実味を帯びてきた。ただオーバーフローした際には我が街滋賀県に患者受け入れを要請すると吉村知事が発言したようだが、寝耳に水のことに滋賀県民は驚いたに違いない。6倍以上の人口を抱えている大阪府と滋賀県ではあるが、人口10万人あたりの感染者数は86.6人に対し16.9人と5倍強となっている。勿論人が集まれる飲食店の数も違うが、この数字は人の動きによるものだと思えてならない。コロナ自警団と呼ばれる偏った正義感が問題視されているが、感染率の低さから行っても大丈夫だという考えは迷惑以外何者でもない。勿論大阪のベッドタウンという意味合いは滋賀県の市町村にはある訳であり、仕事などやむを得ない理由であれば仕方がないと思う。事実我が職場でも12名中2名が大阪府在住である。だが彼女達は遊びに来ている訳ではない。だが滋賀県民が滋賀県内に限って訪れている県内観光地で他府県ナンバーの車を見ればどういう思いになるかを考えて貰いたい。不要不急の外出は自粛しろと言われていた第一弾の外出規制では他府県ナンバーの車を見ることもなかった上に越県外出もしなかった。加えて公共交通機関ですら感染確率が上がるという話が飛び交い、私自身も車通勤をしていた時期もあった。別に楽だから車通勤を選んだ訳ではなく、必要に駆られてしていたに過ぎない。田舎街から車が消え、渋滞に巻き込まれることもなかった。しかし規制解除された途端週末は特に観光地付近は混雑するようになった。つまり良いことなどなにもなかった訳である。勿論自警団を肯定するつもりは毛頭ないが、近所でコロナ患者が増加しているエリアの人々が、生活圏内に入り込んで来るとすればどう思うだろうか?そんな思いを少なからず持っている関西圏で最もコロナ患者数が少ない滋賀県民を否定し切れるのだろうかと私自身は考えている。コロナ禍に於いて自粛ムードがほぼ限界になっているのはお互い様である。しかし外出や外食の自粛解除は早過ぎたようにしか考えられないのが本音である。<br /><br />賛否両論あることは確かだが居住地限定でのGoTo Eat、地元在住者に対する宿泊割引等が行われている。行動エリアは限られるが、地元での息抜きにはなるかと私は考えている。その範疇を超えてまで行動範囲を広げることは、今までの患者数増減の数値を見ていれば容易くわかることであろう。ワクチン接種が始まり、ある程度の行動自粛を求めた上で患者数の増加が治れば、現在のようなこっそりと越県するようなこともなくなるであろう。地方公共団体が引き合いに出している行き当たりばったりの自粛要請では、終息を期待する方が難しいと思えてならない。コロナ禍が始まる前には週末連休に他府県ナンバーが溢れることはなんら珍しくなかった。そんな時代の再来を切に願うのみである。<br /><br />田舎者の我儘に聞こえるかも知れないが、病床数が足りないからとて他府県の病院に患者受け入れを要請するのもどうかと思う。勿論殆どの病院が患者受け入れを行っているにも関わらず病床数が足りないのであれば仕方がないと思うしかないだろう。しかし公立病院はともかく民間病院の協力が得られていないからという理由は如何なものかと思う。事実コロナ患者の受け入れをしている病院に勤める方々は、日々感染のリスクを背負いながら仕事をされている。そして自らの感染リスクを下げるために家族の外出にも気を配っている。少なくない〝差別〟を受けているにも拘らずだ。不平不満は多々あれど決して口にはしない。万が一スタッフの感染が判明した際にも感染者を最小限にするためにグループ分けをして、他チームスタッフにまで感染拡大をさせないようになっている。結果24時間の当直勤務と言った過酷な重労働を課せられているのが事実である。誤解のないように言っておくが彼彼女達も人間である。理由はどうあれコロナに罹患した患者の僕では決してない。患者の立場でスタッフを侮辱するなど以ての外である。私のように接客業でも不特定多数のお客に接し、中にはマスクをしていない者等いるために感染リスクは低くはないと思われる。しかし医療従事者の比ではないことくらいは十分理解しているつもりだ。特に最近では最前線の医療従事者には頭が下がる思いでいっぱいだが、これ以上闇雲に受け入れ患者数を増やしてストレスを増やして貰いたくはないというのが私の本音である。吉村知事の応援要請もわからなくはないが、民間病院での患者受け入れ数を増やすという当たり前の努力をしてから他府県に頼るのが筋と言うものではないだろうか。確かに高度救命救急が必要な場合、田舎から都市部の医療機関に搬送して対応を受けている現実はある。しかしコロナに於いては人口当たりの患者数は違うとはいえ全国全世界に蔓延している〝感染症〟であることには違いない。加えて発生源、特にクラスター発生を引き起こしている場所として屋内の娯楽施設や飲食店が槍玉に上がっていることに疑う余地はない。勿論都市部だから遊ぶ場所が沢山あるということは事実である。私の行動範囲で言うならば駅前の飲み屋しかなく、それに下戸だという要素を加えれば立ち寄る場所など皆無である。しかし手軽に行くことが出来るからウマの合う友人と飲みに行く。結果感染が発覚し医療機関の世話になる。そんな悪循環で病床数が逼迫したから、余裕がある県に患者を運ぶ若しくは医療従事者を大阪に集めて治療にあたらせるとくれば仕方がないでは済まないであろう。前々から連呼しているが、コロナ感染リスク管理は自己責任だとすれば良いのではないかと考える。病院が満床であれば受け入れてくれる病院を自ら探す等苦労をさせて現実を知れば良いのではなかろうか?政治家主導で感染を抑えることはもはや無理な段階に来ていると思えてならない。知事同士の話し合いで受け入れを決めて本当に解決につながるのであろうか?140万の滋賀県民を納得させる理由なく受け入れをした場合にコロナ自警団に貶下する者が現れやしないかと不安に駆られる私であった。<br /><br />話を戻すと今回越県移動が解除されたことを踏まえ奈良を訪れた。食事は店舗に入らず済ませることに変わりはない。原則訪問地は人が密になっていないことを確認してから訪問する等我流ではあるが、感染リスクの高いものを回避して行動をしているつもりだ。まず訪れたのは宇陀の女人高野室生寺である。どんな注意をしていたのかはわかるようにしておくことにした。さあどんな旅路になったのやら。それでは始めることにする。<br /><br />令和3(2021)年4月7日水曜日<br />ハルに車を借りて外出する。本来ならば午前中から出発すれば良いのだが、21:00終業の仕事に体が慣れてしまうとどうしてもスタートが遅れてしまう。それでも何とか昼過ぎに出発して一路奈良へと向かう。ローソン南郷一丁目店で一服をしてから出発する。今回の旅路に於いては道中適当に一息入れる場所がないためにそのようにした。国道422号線を快走し大石・信楽と進み、立石橋より南下し伊賀市方面へと走る。途中から伊賀コリドールロードに入るまでは、先月の月ヶ瀬行きと同じである。スマホナビで見る限りではこのままコリドールロードを走り続け、名阪国道大内ICを使うはずなのだが、MOVEクンのナビはあくまで国道422号線を走り、伊賀市街を通り抜け上野ICから名阪国道を利用する道を表示する。スマホナビを利用したいのは山々なのだが、一人旅故それもできない。大して変わらないだろうとたかを括りカーナビの指示に従うことにした。<br /><br />上野ICから名阪国道を走る。前回利用した五月橋ICを通り過ぎ針ICで降りた。道の駅針テラスで一息入れ、一路室生寺を目指す。このまま国道369号線と県道28号線のルートを走るだろうと考えていたら、ナビ曰く小倉ICまで戻れと指示される。なぜ名阪国道を逆走するのかわからなかったが、やまなみロードを利用した方が〝走りやすい〟ということのようだ。もうこうなってしまうとカーナビに頼るしかなくなってしまう。やまなみロードをひた走り、国道165号線との交差点も通り過ぎる。室生トンネルという〝利便性〟だけを考えたようなトンネルに差し掛かるが、入口手前で〝西ヶ滝〟という小さな滝を見つけて立ち寄った。真新しいトンネルと手が入っていない滝の姿にギャップを感じたことが立ち寄る理由だったのだろう。トンネルを抜けるとそこは室生の集落であった。旧街道そのものの道であるがため、幅員も狭く走り辛い。このことを考慮したのがカーナビルートだと初めて知る。安全運転を心がけて走っていくと〝室生寺駐車場〟と書かれた看板が目に入る。無料と書かれている以外は相場は同じ位のようだ。参道入口から最も近いおもや室生寺山門前第1駐車場に駐車することにした。駐車料金600円は道路を挟んだ店舗の方で支払うことになっている。無料駐車場として有名な回転焼き屋の栄吉は、参道入口を通り過ぎた右側にある。事前に調べておけばまだしも、室生トンネルを経由して来ると参道を一旦通り過ぎる形になるため勇気が必要。特に室生寺巡りに時間を費やしたい者にとってはお金を払ってさっさと室生寺参拝に向かう方が良いと勝手に理由をつける私であった。<br /><br />女人高野室生寺の石標を見ながら太鼓橋を渡る。突き当りの本坊は真言宗室生寺派宗務所とあり拝観はできなかった。室生川沿いに聳える三宝杉、境内には名前こそついてはいないものの杉の大木がたくさんあるようだ。仁王門手前の受付で入山券を購入する。大人600円は平均的なものではあるが、昔に比べると高くなったなと思う。バン字池は梵字で書かれているが、表記はできない。室生寺は石楠花の名所としても知られているが、このバン字池そばにひと花咲いていた。<br /><br />いよいよ鎧坂を登り参拝が始まることとなる。坂途中にある弁財天に立ち寄ってお参りし、その後一挙に階段を登り切った。正面には金堂、右に天神社拝殿、左に弥勒堂が立ち並ぶ。秘仏の扱いで各堂の仏様は撮影禁止となっている。そのことを踏まえかなり距離を取って撮影したものが以下の写真である。目視で確認できる距離ではないために〝勘〟でシャッターを切っているが以外にも撮れるものがと驚いた。また天神社拝殿は工事中であった。拝殿奥にぼや~っと社が見えてはいるが、工事中につきこれ以上近付くことはできなくなっていた。拝殿の隣には良く見落とすと言われる巨石に刻まれた〝軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)像〟が鎮座している。最初私自身撮りこぼしたかと思ったのであるが、実際には天神社拝殿の隣にちゃんと写っている。しかし工事道具が煩くわかり辛いものとなっているため、一部を切り取って紹介している。<br /><br />金堂を眼下に見て灌頂堂へと向かう途中、苔生した石標を見つける。北畠親房之墓と刻まれていた。北畠親房と言えば鎌倉後期から南北朝時代の公家であり歴史家でもある。後醍醐天皇による鎌倉幕府の打倒計画には参加していないと伝えられてはいるが、南北朝時代に後醍醐天皇率いる南朝方の〝後の三房(のちのさんぼう)〟のとして、通常では考えられない〝権大納言〟まで昇進し、政務に携わった一人である。後醍醐帝亡き後は後村上帝を擁し南朝に於ける権勢を振るっている。正平9(1354)年4月には南朝が置かれていた賀名生行宮(あのうのあんぐう)にて62歳で逝去するが、その後親房の後継者となる人物は現れず、結果南朝は衰退への道を辿っていくことになる。北畠親房の墓と呼ばれるものは全国にあり、室生寺にあるものも〝伝〟という文字が書かれている。鎌倉末期から南北朝時代のものと推定されており、国の重要文化財指定を受けている。高貴な人物の墓ということは間違いないらしいが、誰のものか迄は特定できてはいない。ただ隣に並ぶ二基の五輪塔も同時期のものとされており、南朝の〝賢臣〟と言われた親房のものと思わせるような風格があるのも確かである。<br /><br />次いで階段を登った先にあったのは灌頂堂、所謂本堂である。真言密教に於ける最も大切な法儀や灌頂を行なう堂が灌頂堂であり、真言寺院の中心であるところから本堂とも呼ばれていると書かれてあった。鎌倉時代後期の延慶元(1308)年の建立であり国宝指定がされているもののひとつである。灌頂堂の扁額には〝悉地院(しっちいん)〟と書かれてある。これについての詳細は不明だが、既に無くなっている建物の名称であるとされている。堂内には平安時代に作られた重要文化財の如意輪観音坐像(平安時代/重文)が安置されており、その両脇に両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を配している。扁額を撮ってはみたが、堂宇の内部と地面の高さの差があり、内部の様子は目で見るしかないものであった。<br /><br />また本堂横には石塔が並んでいる。このあたりは室生寺の境内マップにも記載がされておらずわからないものもあるのだが、歴史上の評価はともかく室生寺に対し多額の寄付をして復興の手助けをした徳川三代将軍家光の側室で、五代将軍綱吉の生母である桂昌院の供養塔や、宇陀松山藩初代藩主で織田信長の次男でもある織田信雄の供養塔がある。修円廟は室生寺中興の祖とされる修円の墓とされるもので、興福寺の賢憬に法相を学んだ後最澄から灌頂を受けた経歴の持ち主で、律師・興福寺別当・小僧都を経て賢璟(けんけい)が基礎を作り始めた室生寺建立に尽力したと言われている。長年興福寺末法相宗の寺院であったが、江戸中期に隆光が領したことで護国寺末真言宗寺院となった。その後真言宗豊山派の一本寺を経て真言宗室生寺派の大本山となり現在に至っている。この修円の在世中には空海の高弟である真泰、初代天台座主の義真の弟子である円修と堅慧が入山している。そのような経緯から諸宗の学問道場であり、俗世を離れた山林修行の場としての密教寺院を確立させたとされているようだ。一般的に言われる室生寺の別称〝女人高野〟は、江戸時代に確立されたものであり、それほど古くから浸透していたものではないことがわかる。<br /><br />そんな中日本の木造建築で法隆寺に次いで2番目に古い五重塔がある。高さは16m強の小型の塔であるが、実際に見てみるとその小ささが良くわかる。また新聞にも載っていたことだが平成10(1998)年9月22日の台風7号の強風により、塔近くの高さ約50mの杉の木が倒れた際に屋根を直撃し、西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けた。しかし不幸中の幸いで心柱を含めた塔の根幹部は損傷せずに済んだ。約2年間を費やして修理が行われ元の姿に戻った訳だが、その際当初材を年輪年代測定法で調査した結果延暦13(794)年ごろに伐採されたものであることが判明し、このことから寺伝の19(800)年頃という説が裏付けられることとなった。倒れた杉の木は切り株が今なお塔横にそのまま残っている状態であった。修理が可能だったことと、建立時期が判明したことも踏まえて今後も長い年月室生寺の中核としての立ち位置を続けて行って貰いたいと思う歴史的建造物だと感じた。<br /><br />五重塔は後ほどゆっくり眺めるとして、時間の制限があるところを先に訪れる。室生寺の一番奥に位置する奥之院である。五重塔から15分とか書かれているが、要は山道を登っていく階段が続く場所である。旅行ブログには〝行く〟べきか〝行かない〟べきか?などと書かれているが、私の場合は貧乏性なので勿論GO!である。<br /><br />ちょうど五重塔と奥之院の中間付近にゲートがある。何か参拝者を分けているようにも思えるのであるが、奥之院は締まる時間が30分早いため、時間になると立入禁止区域となるためのゲートであることがわかる。通過時刻は16:13、さあ行けるかどうかのチャレンジが始まった。参道界隈には天然記念物に指定されている暖地性シダが自生している。時間の都合で記録だけを取って置き先を急ぐ。無明橋という橋を渡る頃から本格的な石段を登って行くこととなる。そして最後の急な石段にトライする手前に〝ちょっと一休み〟と書かれた休憩所がある。湧水が出ており生水だとは知りながら口に含み嗽をする。程無くして懸造の〝足組〟が見えて来る。常燈堂(位牌堂)の足組であった。写真を見るだけでもわかることだが、良くこのような場所に建物を建てたと感心する造りである。ただ油断は禁物、この場所で16:18を指している。若い頃なら気にもしなかったことなのだろうが、思うように足が上がってくれないのである…。結局奥の院に到着したのは16:25。終了5分前のことであった。<br /><br />残念ながらすべての施設が閉まっていた。御朱印を頂く供物所、常燈堂、弘法大師42歳の時の木造を安置した重要文化財指定の御影堂…。残念だがゆっくり見ている余裕はない。個々の建物と七重石塔、常燈堂舞台から眺めた室生の街並みをカメラに収め、鍵番のおじさんにもう終わるけど…と追い立てられながら来た石段を再び歩いて行く。奥之院に至る石段は奈良の神社仏閣の中でも急なものだと言われており、石段が狭いこともあり降りる時に特に気を付けるようにと書かれてあった。ただこういう時は〝辛いこと〟を引き合いに出して考える性格のため、スタスタ下りて行くことができるのが有難いと思ってしまう。行きは14分かかったが、帰りは10分で五重塔に到着することができた。時間の余裕を持ってコロナが収まりまだ〝歩く〟ことができる間に奥之院再チャレンジをしてみたいと思った私であった。<br /><br />五重塔の素晴らしさを改めて確認した後は、参道の〝花〟を探しながら階段を下って行く。花蘇芳(ハナズオウ)、ヤマザクラ、ソメイヨシノ、石楠花、杉の大木等本当に〝花の寺〟と言われる理由がわかる。サクラの次はシャクナゲであるが、シャクナゲは最盛期には赤い花を咲かせ、時が経つに従い白くなって最後は散ることを知った。今年は急に暑くなった気候により、ウメやサクラが3月中に満開を迎えた名所も少なくはなかった。その結果本来ならば満開の時期に当たる本日4月8日だと既に〝葉桜〟となっているものの方が多いようだ。そんなことからシャクナゲの開花にも影響があるのか、既に花弁が白くなっているものもあった。もしかすると元々花弁が白い種類だったのかも知れないが、画像データを弄るとピンク色に戻すことができたので、やはり開花時期が早くなったのであろうと想像できる。そんな感じであちらでパチリ、こちらでパチリとカメラに花を収めて行き、バン字池横を通り仁王門を潜って受付前を通過したのは17:00丁度であった。1時間20分で奥之院まで往復したことを考えれば、ゆっくり見物できたわけでもないとは思う。ただ本来の目的であった〝花〟に関してはそれなりの収穫は得られたので良しとする。水曜日は門前のお店も休みを取っている様子で、行きも帰りも開いていなかったところが多かった。そんなこともあってか観光客も比較的少なかったので境内散策を楽しむことができた。<br /><br />そうこうしている内に駐車場へと戻って来た。三宝杉が川向うに真正面に見える場所だったので、最後に三宝杉や太鼓橋をカメラに収め、次の目的地へと出発する。既に時刻は17:30となってはいるが、その後の工程は如何なるものになったのであろうか?<br /><br />  《後半に続く》

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《2021. April》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅奈良そのⅡ~女人高野室生寺と桜編~

コロナ罹患患者の増加により大手をふって外出することが出来なくなった昨今。越県が形式上認められて1ヶ月が経つ。一時期患者数が減ったことによる措置であるとされてはいるものの現実に巷では変異型ウィルスに感染する者が増えている。従来型と比較すると感染力が強いとされており、第四波の到来が懸念されている。しかし感染防止策の発表もどうも的を得ていないように思えてならない。第一波の到来の際には外出自粛規制がそれなりに功を奏し、患者数の減少にも繋がっていた記憶がある。しかし昨年六月の規制解除が出された結果瞬く間に患者数が増加した。第二波到来の際にも少なくとも越県の移動は控えるようにとは言われていたが、以前のように画期的に外出者人口が減ることもなく第三波が到来した。一旦歯止めがかからなくなるとどうしようもなくなる大衆心理、大阪府では新規感染者が連日1,000人を超えている。当然のことながら患者を受け入れる病床数は逼迫し、罹患しても面倒を見てくれる病院すらなくなることが現実味を帯びてきた。ただオーバーフローした際には我が街滋賀県に患者受け入れを要請すると吉村知事が発言したようだが、寝耳に水のことに滋賀県民は驚いたに違いない。6倍以上の人口を抱えている大阪府と滋賀県ではあるが、人口10万人あたりの感染者数は86.6人に対し16.9人と5倍強となっている。勿論人が集まれる飲食店の数も違うが、この数字は人の動きによるものだと思えてならない。コロナ自警団と呼ばれる偏った正義感が問題視されているが、感染率の低さから行っても大丈夫だという考えは迷惑以外何者でもない。勿論大阪のベッドタウンという意味合いは滋賀県の市町村にはある訳であり、仕事などやむを得ない理由であれば仕方がないと思う。事実我が職場でも12名中2名が大阪府在住である。だが彼女達は遊びに来ている訳ではない。だが滋賀県民が滋賀県内に限って訪れている県内観光地で他府県ナンバーの車を見ればどういう思いになるかを考えて貰いたい。不要不急の外出は自粛しろと言われていた第一弾の外出規制では他府県ナンバーの車を見ることもなかった上に越県外出もしなかった。加えて公共交通機関ですら感染確率が上がるという話が飛び交い、私自身も車通勤をしていた時期もあった。別に楽だから車通勤を選んだ訳ではなく、必要に駆られてしていたに過ぎない。田舎街から車が消え、渋滞に巻き込まれることもなかった。しかし規制解除された途端週末は特に観光地付近は混雑するようになった。つまり良いことなどなにもなかった訳である。勿論自警団を肯定するつもりは毛頭ないが、近所でコロナ患者が増加しているエリアの人々が、生活圏内に入り込んで来るとすればどう思うだろうか?そんな思いを少なからず持っている関西圏で最もコロナ患者数が少ない滋賀県民を否定し切れるのだろうかと私自身は考えている。コロナ禍に於いて自粛ムードがほぼ限界になっているのはお互い様である。しかし外出や外食の自粛解除は早過ぎたようにしか考えられないのが本音である。

賛否両論あることは確かだが居住地限定でのGoTo Eat、地元在住者に対する宿泊割引等が行われている。行動エリアは限られるが、地元での息抜きにはなるかと私は考えている。その範疇を超えてまで行動範囲を広げることは、今までの患者数増減の数値を見ていれば容易くわかることであろう。ワクチン接種が始まり、ある程度の行動自粛を求めた上で患者数の増加が治れば、現在のようなこっそりと越県するようなこともなくなるであろう。地方公共団体が引き合いに出している行き当たりばったりの自粛要請では、終息を期待する方が難しいと思えてならない。コロナ禍が始まる前には週末連休に他府県ナンバーが溢れることはなんら珍しくなかった。そんな時代の再来を切に願うのみである。

田舎者の我儘に聞こえるかも知れないが、病床数が足りないからとて他府県の病院に患者受け入れを要請するのもどうかと思う。勿論殆どの病院が患者受け入れを行っているにも関わらず病床数が足りないのであれば仕方がないと思うしかないだろう。しかし公立病院はともかく民間病院の協力が得られていないからという理由は如何なものかと思う。事実コロナ患者の受け入れをしている病院に勤める方々は、日々感染のリスクを背負いながら仕事をされている。そして自らの感染リスクを下げるために家族の外出にも気を配っている。少なくない〝差別〟を受けているにも拘らずだ。不平不満は多々あれど決して口にはしない。万が一スタッフの感染が判明した際にも感染者を最小限にするためにグループ分けをして、他チームスタッフにまで感染拡大をさせないようになっている。結果24時間の当直勤務と言った過酷な重労働を課せられているのが事実である。誤解のないように言っておくが彼彼女達も人間である。理由はどうあれコロナに罹患した患者の僕では決してない。患者の立場でスタッフを侮辱するなど以ての外である。私のように接客業でも不特定多数のお客に接し、中にはマスクをしていない者等いるために感染リスクは低くはないと思われる。しかし医療従事者の比ではないことくらいは十分理解しているつもりだ。特に最近では最前線の医療従事者には頭が下がる思いでいっぱいだが、これ以上闇雲に受け入れ患者数を増やしてストレスを増やして貰いたくはないというのが私の本音である。吉村知事の応援要請もわからなくはないが、民間病院での患者受け入れ数を増やすという当たり前の努力をしてから他府県に頼るのが筋と言うものではないだろうか。確かに高度救命救急が必要な場合、田舎から都市部の医療機関に搬送して対応を受けている現実はある。しかしコロナに於いては人口当たりの患者数は違うとはいえ全国全世界に蔓延している〝感染症〟であることには違いない。加えて発生源、特にクラスター発生を引き起こしている場所として屋内の娯楽施設や飲食店が槍玉に上がっていることに疑う余地はない。勿論都市部だから遊ぶ場所が沢山あるということは事実である。私の行動範囲で言うならば駅前の飲み屋しかなく、それに下戸だという要素を加えれば立ち寄る場所など皆無である。しかし手軽に行くことが出来るからウマの合う友人と飲みに行く。結果感染が発覚し医療機関の世話になる。そんな悪循環で病床数が逼迫したから、余裕がある県に患者を運ぶ若しくは医療従事者を大阪に集めて治療にあたらせるとくれば仕方がないでは済まないであろう。前々から連呼しているが、コロナ感染リスク管理は自己責任だとすれば良いのではないかと考える。病院が満床であれば受け入れてくれる病院を自ら探す等苦労をさせて現実を知れば良いのではなかろうか?政治家主導で感染を抑えることはもはや無理な段階に来ていると思えてならない。知事同士の話し合いで受け入れを決めて本当に解決につながるのであろうか?140万の滋賀県民を納得させる理由なく受け入れをした場合にコロナ自警団に貶下する者が現れやしないかと不安に駆られる私であった。

話を戻すと今回越県移動が解除されたことを踏まえ奈良を訪れた。食事は店舗に入らず済ませることに変わりはない。原則訪問地は人が密になっていないことを確認してから訪問する等我流ではあるが、感染リスクの高いものを回避して行動をしているつもりだ。まず訪れたのは宇陀の女人高野室生寺である。どんな注意をしていたのかはわかるようにしておくことにした。さあどんな旅路になったのやら。それでは始めることにする。

令和3(2021)年4月7日水曜日
ハルに車を借りて外出する。本来ならば午前中から出発すれば良いのだが、21:00終業の仕事に体が慣れてしまうとどうしてもスタートが遅れてしまう。それでも何とか昼過ぎに出発して一路奈良へと向かう。ローソン南郷一丁目店で一服をしてから出発する。今回の旅路に於いては道中適当に一息入れる場所がないためにそのようにした。国道422号線を快走し大石・信楽と進み、立石橋より南下し伊賀市方面へと走る。途中から伊賀コリドールロードに入るまでは、先月の月ヶ瀬行きと同じである。スマホナビで見る限りではこのままコリドールロードを走り続け、名阪国道大内ICを使うはずなのだが、MOVEクンのナビはあくまで国道422号線を走り、伊賀市街を通り抜け上野ICから名阪国道を利用する道を表示する。スマホナビを利用したいのは山々なのだが、一人旅故それもできない。大して変わらないだろうとたかを括りカーナビの指示に従うことにした。

上野ICから名阪国道を走る。前回利用した五月橋ICを通り過ぎ針ICで降りた。道の駅針テラスで一息入れ、一路室生寺を目指す。このまま国道369号線と県道28号線のルートを走るだろうと考えていたら、ナビ曰く小倉ICまで戻れと指示される。なぜ名阪国道を逆走するのかわからなかったが、やまなみロードを利用した方が〝走りやすい〟ということのようだ。もうこうなってしまうとカーナビに頼るしかなくなってしまう。やまなみロードをひた走り、国道165号線との交差点も通り過ぎる。室生トンネルという〝利便性〟だけを考えたようなトンネルに差し掛かるが、入口手前で〝西ヶ滝〟という小さな滝を見つけて立ち寄った。真新しいトンネルと手が入っていない滝の姿にギャップを感じたことが立ち寄る理由だったのだろう。トンネルを抜けるとそこは室生の集落であった。旧街道そのものの道であるがため、幅員も狭く走り辛い。このことを考慮したのがカーナビルートだと初めて知る。安全運転を心がけて走っていくと〝室生寺駐車場〟と書かれた看板が目に入る。無料と書かれている以外は相場は同じ位のようだ。参道入口から最も近いおもや室生寺山門前第1駐車場に駐車することにした。駐車料金600円は道路を挟んだ店舗の方で支払うことになっている。無料駐車場として有名な回転焼き屋の栄吉は、参道入口を通り過ぎた右側にある。事前に調べておけばまだしも、室生トンネルを経由して来ると参道を一旦通り過ぎる形になるため勇気が必要。特に室生寺巡りに時間を費やしたい者にとってはお金を払ってさっさと室生寺参拝に向かう方が良いと勝手に理由をつける私であった。

女人高野室生寺の石標を見ながら太鼓橋を渡る。突き当りの本坊は真言宗室生寺派宗務所とあり拝観はできなかった。室生川沿いに聳える三宝杉、境内には名前こそついてはいないものの杉の大木がたくさんあるようだ。仁王門手前の受付で入山券を購入する。大人600円は平均的なものではあるが、昔に比べると高くなったなと思う。バン字池は梵字で書かれているが、表記はできない。室生寺は石楠花の名所としても知られているが、このバン字池そばにひと花咲いていた。

いよいよ鎧坂を登り参拝が始まることとなる。坂途中にある弁財天に立ち寄ってお参りし、その後一挙に階段を登り切った。正面には金堂、右に天神社拝殿、左に弥勒堂が立ち並ぶ。秘仏の扱いで各堂の仏様は撮影禁止となっている。そのことを踏まえかなり距離を取って撮影したものが以下の写真である。目視で確認できる距離ではないために〝勘〟でシャッターを切っているが以外にも撮れるものがと驚いた。また天神社拝殿は工事中であった。拝殿奥にぼや~っと社が見えてはいるが、工事中につきこれ以上近付くことはできなくなっていた。拝殿の隣には良く見落とすと言われる巨石に刻まれた〝軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)像〟が鎮座している。最初私自身撮りこぼしたかと思ったのであるが、実際には天神社拝殿の隣にちゃんと写っている。しかし工事道具が煩くわかり辛いものとなっているため、一部を切り取って紹介している。

金堂を眼下に見て灌頂堂へと向かう途中、苔生した石標を見つける。北畠親房之墓と刻まれていた。北畠親房と言えば鎌倉後期から南北朝時代の公家であり歴史家でもある。後醍醐天皇による鎌倉幕府の打倒計画には参加していないと伝えられてはいるが、南北朝時代に後醍醐天皇率いる南朝方の〝後の三房(のちのさんぼう)〟のとして、通常では考えられない〝権大納言〟まで昇進し、政務に携わった一人である。後醍醐帝亡き後は後村上帝を擁し南朝に於ける権勢を振るっている。正平9(1354)年4月には南朝が置かれていた賀名生行宮(あのうのあんぐう)にて62歳で逝去するが、その後親房の後継者となる人物は現れず、結果南朝は衰退への道を辿っていくことになる。北畠親房の墓と呼ばれるものは全国にあり、室生寺にあるものも〝伝〟という文字が書かれている。鎌倉末期から南北朝時代のものと推定されており、国の重要文化財指定を受けている。高貴な人物の墓ということは間違いないらしいが、誰のものか迄は特定できてはいない。ただ隣に並ぶ二基の五輪塔も同時期のものとされており、南朝の〝賢臣〟と言われた親房のものと思わせるような風格があるのも確かである。

次いで階段を登った先にあったのは灌頂堂、所謂本堂である。真言密教に於ける最も大切な法儀や灌頂を行なう堂が灌頂堂であり、真言寺院の中心であるところから本堂とも呼ばれていると書かれてあった。鎌倉時代後期の延慶元(1308)年の建立であり国宝指定がされているもののひとつである。灌頂堂の扁額には〝悉地院(しっちいん)〟と書かれてある。これについての詳細は不明だが、既に無くなっている建物の名称であるとされている。堂内には平安時代に作られた重要文化財の如意輪観音坐像(平安時代/重文)が安置されており、その両脇に両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を配している。扁額を撮ってはみたが、堂宇の内部と地面の高さの差があり、内部の様子は目で見るしかないものであった。

また本堂横には石塔が並んでいる。このあたりは室生寺の境内マップにも記載がされておらずわからないものもあるのだが、歴史上の評価はともかく室生寺に対し多額の寄付をして復興の手助けをした徳川三代将軍家光の側室で、五代将軍綱吉の生母である桂昌院の供養塔や、宇陀松山藩初代藩主で織田信長の次男でもある織田信雄の供養塔がある。修円廟は室生寺中興の祖とされる修円の墓とされるもので、興福寺の賢憬に法相を学んだ後最澄から灌頂を受けた経歴の持ち主で、律師・興福寺別当・小僧都を経て賢璟(けんけい)が基礎を作り始めた室生寺建立に尽力したと言われている。長年興福寺末法相宗の寺院であったが、江戸中期に隆光が領したことで護国寺末真言宗寺院となった。その後真言宗豊山派の一本寺を経て真言宗室生寺派の大本山となり現在に至っている。この修円の在世中には空海の高弟である真泰、初代天台座主の義真の弟子である円修と堅慧が入山している。そのような経緯から諸宗の学問道場であり、俗世を離れた山林修行の場としての密教寺院を確立させたとされているようだ。一般的に言われる室生寺の別称〝女人高野〟は、江戸時代に確立されたものであり、それほど古くから浸透していたものではないことがわかる。

そんな中日本の木造建築で法隆寺に次いで2番目に古い五重塔がある。高さは16m強の小型の塔であるが、実際に見てみるとその小ささが良くわかる。また新聞にも載っていたことだが平成10(1998)年9月22日の台風7号の強風により、塔近くの高さ約50mの杉の木が倒れた際に屋根を直撃し、西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けた。しかし不幸中の幸いで心柱を含めた塔の根幹部は損傷せずに済んだ。約2年間を費やして修理が行われ元の姿に戻った訳だが、その際当初材を年輪年代測定法で調査した結果延暦13(794)年ごろに伐採されたものであることが判明し、このことから寺伝の19(800)年頃という説が裏付けられることとなった。倒れた杉の木は切り株が今なお塔横にそのまま残っている状態であった。修理が可能だったことと、建立時期が判明したことも踏まえて今後も長い年月室生寺の中核としての立ち位置を続けて行って貰いたいと思う歴史的建造物だと感じた。

五重塔は後ほどゆっくり眺めるとして、時間の制限があるところを先に訪れる。室生寺の一番奥に位置する奥之院である。五重塔から15分とか書かれているが、要は山道を登っていく階段が続く場所である。旅行ブログには〝行く〟べきか〝行かない〟べきか?などと書かれているが、私の場合は貧乏性なので勿論GO!である。

ちょうど五重塔と奥之院の中間付近にゲートがある。何か参拝者を分けているようにも思えるのであるが、奥之院は締まる時間が30分早いため、時間になると立入禁止区域となるためのゲートであることがわかる。通過時刻は16:13、さあ行けるかどうかのチャレンジが始まった。参道界隈には天然記念物に指定されている暖地性シダが自生している。時間の都合で記録だけを取って置き先を急ぐ。無明橋という橋を渡る頃から本格的な石段を登って行くこととなる。そして最後の急な石段にトライする手前に〝ちょっと一休み〟と書かれた休憩所がある。湧水が出ており生水だとは知りながら口に含み嗽をする。程無くして懸造の〝足組〟が見えて来る。常燈堂(位牌堂)の足組であった。写真を見るだけでもわかることだが、良くこのような場所に建物を建てたと感心する造りである。ただ油断は禁物、この場所で16:18を指している。若い頃なら気にもしなかったことなのだろうが、思うように足が上がってくれないのである…。結局奥の院に到着したのは16:25。終了5分前のことであった。

残念ながらすべての施設が閉まっていた。御朱印を頂く供物所、常燈堂、弘法大師42歳の時の木造を安置した重要文化財指定の御影堂…。残念だがゆっくり見ている余裕はない。個々の建物と七重石塔、常燈堂舞台から眺めた室生の街並みをカメラに収め、鍵番のおじさんにもう終わるけど…と追い立てられながら来た石段を再び歩いて行く。奥之院に至る石段は奈良の神社仏閣の中でも急なものだと言われており、石段が狭いこともあり降りる時に特に気を付けるようにと書かれてあった。ただこういう時は〝辛いこと〟を引き合いに出して考える性格のため、スタスタ下りて行くことができるのが有難いと思ってしまう。行きは14分かかったが、帰りは10分で五重塔に到着することができた。時間の余裕を持ってコロナが収まりまだ〝歩く〟ことができる間に奥之院再チャレンジをしてみたいと思った私であった。

五重塔の素晴らしさを改めて確認した後は、参道の〝花〟を探しながら階段を下って行く。花蘇芳(ハナズオウ)、ヤマザクラ、ソメイヨシノ、石楠花、杉の大木等本当に〝花の寺〟と言われる理由がわかる。サクラの次はシャクナゲであるが、シャクナゲは最盛期には赤い花を咲かせ、時が経つに従い白くなって最後は散ることを知った。今年は急に暑くなった気候により、ウメやサクラが3月中に満開を迎えた名所も少なくはなかった。その結果本来ならば満開の時期に当たる本日4月8日だと既に〝葉桜〟となっているものの方が多いようだ。そんなことからシャクナゲの開花にも影響があるのか、既に花弁が白くなっているものもあった。もしかすると元々花弁が白い種類だったのかも知れないが、画像データを弄るとピンク色に戻すことができたので、やはり開花時期が早くなったのであろうと想像できる。そんな感じであちらでパチリ、こちらでパチリとカメラに花を収めて行き、バン字池横を通り仁王門を潜って受付前を通過したのは17:00丁度であった。1時間20分で奥之院まで往復したことを考えれば、ゆっくり見物できたわけでもないとは思う。ただ本来の目的であった〝花〟に関してはそれなりの収穫は得られたので良しとする。水曜日は門前のお店も休みを取っている様子で、行きも帰りも開いていなかったところが多かった。そんなこともあってか観光客も比較的少なかったので境内散策を楽しむことができた。

そうこうしている内に駐車場へと戻って来た。三宝杉が川向うに真正面に見える場所だったので、最後に三宝杉や太鼓橋をカメラに収め、次の目的地へと出発する。既に時刻は17:30となってはいるが、その後の工程は如何なるものになったのであろうか?

  《後半に続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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