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《2021. April》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅奈良そのⅢ~宇陀の桜と道の駅編~<br /><br />閉門時間まで室生寺を堪能して来た。あと数カ所立ち寄り地点候補のデータを調べて持参しているのでそれに従うことにする。宇陀本郷と言えば桜井市と隣接するエリアになるが、約20km離れたところへ車を走らせて行く。<br /><br />本郷川沿いにある駐車場に車を停めて向かった先は瀧桜。一般的に〝又兵衛桜〟として知られているシダレザクラの名所である。戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将後藤基次(ごとう もとつぐ)、またの名を後藤又兵衛と言うが永禄3(1560)年に播磨国の南山田城主後藤基国の次男として誕生したと言われている。父の主君は播磨の守護大名赤松氏の庶流である別所氏。三木城を本拠地としていた別所氏であるが、城主別所長治の時代に起こった〝三木合戦〟に於いて反信長勢力への見せしめとして羽柴秀吉に兵糧攻め〝三木の干殺し〟を行われている。充てにしていた毛利の援軍も期待できなくなった状況で2年間籠城をしたものの城内では餓死者が続出。結果として秀吉が出した〝城主一族の切腹〟により城兵の助命を保証するとの条件を受け入れ、別所長治やその一族は切腹して果てるが、秀吉は約束を守らず城から出てくる城兵や一般人までをも殺害して首を刎ねたと言われている。<br /><br />三木合戦のさなか福崎にあった春日山城も攻められることとなり、その戦乱のさなか叔父である後藤伊勢守基信は中国攻めに向かう秀吉軍に攻められて自害、また父の後藤基国も三木合戦の最中討ち死にしたとされている。そんな中春日山城の支城であった南山田城主を継いだ基次であるが、諸説あるものの三木合戦にて秀吉と戦ったという説、幼少だったこともあり家臣団の進言に依るという説、いずれも秀吉に降伏し、秀吉家臣の仙石秀久のもとへと身を寄せたとされている。<br /><br />その後黒田孝高(官兵衛)に仕えることとなり、戦に強かった黒田家臣団の一角をなし、数多くの戦で活躍を見せている。記録に残っているものとして天正15(1587)年の九州攻めにおける戦功が挙げられている。九州攻めの戦果を挙げた黒田孝高は豊前に加増転封を告げられて従った。その際基次も同行したと言われているが、領地召し上げに対する反発する勢力も多々あり、先ずそれらの勢力に対する対処が必要とされていた。特に強硬に反発した城井鎮房が争う姿勢を呈し、その対応に対し黒田家での意見が分かれている。黒田孝高に嫡男長政は強固に討伐を主張するが、基次や吉田長利といった黒田家の家臣らが反対意見を表明する。しかし血色張った長政はこれを聞き入れず出陣を強行し、結果として黒田軍は大敗を喫してしまう。このことに対し孝高は激怒したと言われており、それを恐れた長政以下家臣団は山籠もりや坊主頭にすることで誠意を見せようとしたが、唯一何食わぬ顔で出仕し続けたのが基次であった。〝戦には勝ちもあれば負けもあるもので、一度負けたからといって弱気になるのは武士の恥〟と切り捨てたことで孝高が〝もっともな言い分だ〟として長政達を許したことで、長政の面子を潰したと言われている。しかし卒のない基次は豊前の国人との争いのひとつに数えられる長岩城主野仲鎮兼を攻めた際に瀕死の重傷を負う。しかし九死に一生を得た基次は引き続き孝高に仕え、遂に長岩城を攻略するに至った。<br /><br />その後孝高から長政に主君が変わった後の朝鮮出兵にも従軍しており、戦況を即座に判断する〝軍師〟としての才能を発揮したと伝わり、その逸話こそが〝軍師官兵衛〟の成り立ちだったとも表現されている。また慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでは東軍についた黒田長政軍の先鋒を務め、石田三成家臣の剛槍使い〝大橋掃部〟を一騎討ちで討ち取る武功を挙げている。東軍の勝ち戦となったことからも日本中に武勇を知らしめた上に黒田家重臣の一人として筑前六端城のひとつである大隈城16,000石の城主となっている。<br /><br />このように黒田家中でも名を上げた基次は、後世で黒田家臣の中でも特に武勇の優れた人物であることを示す〝黒田二十四騎〟に加え〝黒田八虎〟の一員に数えられるなど、武勇を天下に轟かせていたことは間違いないことである。しかし黒田孝高の死から2年後の慶長11(1606)年に基次は一族揃って黒田家を出奔することとなる。基次が他国の、特に細川氏や池田氏と頻繁に書状を交わすことに原因があったとされている。当初は小倉藩の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた黒田・細川両家が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁によりなんとか細川家を退去して解決させる。基次の智勇を惜しむ福島正則・前田利長・結城秀康などから召し出しがかかるが、元主である黒田長政の〝奉公構〟がなされていたために実現しなかったと言われている。一旦張間国へと戻り、領主池田輝政を介して岡山藩の池田輝次に仕えた時期もあったようである。しかしやはり〝奉公構〟の影響で慶長16(1611)年より京都で浪人生活を送っている。同年基次の黒田家への帰参問題が起こったことで、藩主黒田長政は幕府を通して交渉を行ったが、基次と連絡がうまくとれなかったことにより実現することはなかったようだ。<br /><br />そんな中で大阪の役が勃発する。浪人生活を送りつつも歴戦の〝智勇〟を知られている基次は大野治長の誘いを受け大阪城へと入る。〝摩利支天の再来〟と称される基次は、徳川家康に大阪城に入った要警戒武将として〝御宿政友〟共々二将として警戒されている。また城内でも大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らの補佐を担当している。冬の陣に於いては6,000名を率い、鴫野・今福方面を木村重成共に守備して上杉及び佐竹勢と相対している。そして夏の陣に於いては道明寺の戦いで大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率い平野郷から出陣した。しかし徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が既に国分村まで進出してために、次策として中間にあった小松山(現:玉手山公園近隣)に布陣、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次を討ち取るなど孤軍で奮戦し賞賛されている。しかし後続の薄田兼相・明石全登・真田幸村らの軍が霧の発生により到着が遅れたところに、伊達政宗家臣の片倉重長率いる鉄砲隊等が集まって十倍以上となった敵兵に対し、基次は小松山を降りての展開・突撃を敢行した後に乱戦の中に討死したとされている。享年56歳であった。<br /><br />後藤基次の生涯というものは、前半生が不明であるのに対し後半生は凡そこの様に言われている。だが智勇の将と言われるだけあって死なずに…という逸話も残っている。大坂夏の陣で傷を負った基次は、僧侶として宇陀本郷の地を訪れて屋敷を構え、天寿を全うしたというものが今回の〝又兵衛桜〟に関わることである。現在桜が咲く場所に住んでいた基次は、藩主となった織田信長の次男である織田信雄と共に、山間の街である宇陀の地で農地開拓や産物を作る術を伝えたと言われている。基次の死後その屋敷跡に植えられたシダレザクラ〝又兵衛桜〟が植えられ、春を迎えるたびに3世紀以上に渡って花を咲かせてくれているということが又兵衛桜の伝承でもある。また大阪城入りするまでの数年間をこの宇陀本郷の地で過ごし、その屋敷跡だとも語る説もあるようだ。どこまで本当なのかはわからないが、その〝歴史の深さ〟にどっぷりと浸かれる位のオーラは放っているように見えてしまう。今回は残念ながらまさかの間違った開花情報のため、そのオーラを全身に浴びることはできなかったが、いつの日かまた改めて満開の又兵衛桜に再開したいと思った私であった。<br /><br />本郷川沿いのこの界隈は、川砂溜工が行われたと書かれている。見るからに川底が浅い川ゆえちょっとしたことで川が溢れることもあったのだろう。護岸を含めた工事が成されたために又兵衛桜が快適に見学できるようになったらしいが、まあ工事に関しては賛否両論あるにしても結果オーライだとは感じられるものとなっていた。<br /><br />辺りはかなり暗くなって来た。今年はどこの桜もコロナ禍の影響で〝タイトアップ〟を休止している報が入っている。なのでいつもののんびりとした散策を急いで行かねばならない。しばらく走ると神社らしき鳥居を発見し停車する。<br /><br />阿紀神社は神代に神楽岡に創建され、第10代崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わった。天正年間に本郷川西岸の現在地に遷座され、その際に現在の阿紀神社へと改められらしい。社伝によると第11代垂仁天皇が先帝崇神天皇の偉業をたたえて神を祀ることを皇女である倭姫命に託し、天照大神の祭祀地を探して宇陀・近江・美濃と周った後、最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した〝元伊勢伝承〟の一端を担っている高貴な場所でもある。ご祭神は天照皇大神他で、社殿は伊勢神宮と同じ神明造である。境内には江戸時代前期に建設された非常に珍しい能舞台がある。その後定期的に行われるようになった〝能舞台〟だが、毎年6月中旬に〝あきの螢能〟が開催され人で賑わうという。明治35(1902)年旧郷社から昇格して県社に列格したとあるが、この能舞台を奉納したのは宇陀松山藩初代藩主である織田信雄公である。歴史上では父織田信長が本能寺で横死した後、豊臣・徳川と続く勢力争いの中で〝忘れられた感〟が強いように思うが、大坂夏の陣で徳川の世が決定的となった際、信長公の次男という〝血筋〟が生かされ、ここ宇陀松山藩初代藩主に抜擢されている。本人は京都で隠居生活を楽しんでいたらしいが、三代に渡る織田治世の間に趣味と実益を兼ねて奉納を決め、歴代藩主も能を舞っている。室生寺を含めて織田信雄公所縁のものが残っているこの地は、なかなか興味深いものが残っている地のように思う。ただこの阿紀神社だが、普段は訪れる人が〝全くと言っていい程いない〟と書かれている。日暮れ後なので私が訪れた際もそうであったが、ちょっとくらい時間帯は訪れるのに勇気が必要な場所であった。<br /><br />一息つくために道の駅宇陀路大宇陀に立ち寄った。19:40という時間帯故、店はすべて閉まっている。旧街道の町家を模した建物を駅舎としていることが、宇陀の歴史を感じるところでもある。ちなみに道の駅の案内所には〝桜花速報〟が貼りだされていた。web情報を信じて〝又兵衛桜〟を目指したが、既に〝散りました〟と書かれている。これを先に見ておくべきだったと後悔するが仕方がない。ただこんなものがあったよ~ということでカメラに収めておく。<br /><br />また道の駅宇陀路大宇陀には〝温泉〟が引かれている。足湯のサービスもあるが夜は行ってはいない。ただ温泉がためられていることには違いないので手を付けてみたところ…暖かい。でも下手に緊張を解してしまうと自宅までの道のりがキツくなる…ということで今回は諦めた。他にも温泉スタンドもあり40L/100円のセルフサービスで24時間利用できる。こういうものを見せられると持って帰りたくなる私だが、ポリタンクもないので諦めざるを得ない。足湯横にキャンピングカーが停まっておりそんな旅をされているご夫婦がいた。こんな形態の旅もいつかはしてみたいと思った私であった。<br /><br />最後に道路を挟んで向かい側にある大宇陀郵便局のポストに撮影済みフィルムの発送をするために歩いて向かう。以前は普通集配局で郵便に関しては多くの業務を行っていたが、郵政民営化後は特定集配局に格下げになったようで、エリアの配達のみとなっているようだ。ポストの取り集めも桜井郵便局となっており、大宇陀郵便局の文字は書かれてはいない。ただ局前のポスト取り集めは、土平日に限るが8:05・8:30・12:15・14:15・17:35の5便回収がある。日祝祭日は16:00の1便のみしかないのが普通なのかも知れないが…。<br /><br />そんなこんなで道の駅宇陀路大宇陀を後にして車を走らせる。宇陀川沿いに咲く〝夜桜〟がきれいに咲いているのを見て、車を停めて暫し眺めることにした。なんとなく近鉄大阪線の榛原駅に立ち寄った。特にすることもないのだが、さすが宇陀市の中核駅だけあり規模の大きさはかなりのものである。10年程前に野暮用で桜井から榛原迄電車に乗って来たことがあるが、山岳鉄道の様子を呈す景色にびっくりしたことをふと思い出した。<br /><br />榛原駅を後にして再び山がつながる方向へと進む。榛原赤埴の仏隆寺を目指しているのだが、出発前の候補地のひとつに挙げてはいたが、又兵衛桜の開花情報にショックを受け、立ち寄らず帰ろうと考えていた場所でもある。実は先ほど立ち寄った道の駅宇陀路大宇陀の〝桜花開花情報〟に〝散り始め〟の表記を見つけて急遽立ち寄ることに決めたのだった。<br /><br />榛原赤埴にある摩尼山仏隆寺は真言宗室生寺派の寺院である。室生寺の南門として本寺と末寺の関係にある。境内に残る大和茶発祥の地碑は、空海が唐から持ち帰った最古の茶を栽培したという伝承に基づき建立された。ここには奈良県最古の桜の古木と言われる千年桜がある。奈良県の天然記念物の指定を受けているが、当初の〝仏隆寺のヤマザクラ〟ではなく、ヤマザクラとエドヒガンザクラの勾配種である〝モチヅキザクラ〟であることが鑑定でわかっている。いずれにせよ古木であることには違いなく、例年ならばライトアップされて多くの人々で夜も賑わっているはずであった。この千年桜が目当てであったがどうやら場所を勘違いしていたようだ。入口の山門にはセンサーが付いており、夜間でも人を感知すると照明が点く様になっている。山門には志納箱があり、そこに入山料200円を納めるシステムであった。灰皿も置いてあったが流石にこの時間にタバコを吸う気にはなれず石段へと向かう。179段の石段は数はあるが傾斜は緩く歩きやすいものとなっている。階段を登り切った場所にある本堂には、聖徳太子作と伝わる十一面観音立像が安置されている筈だが、夜のためか扉が閉められており拝観はできなかった。また参道脇に植っている千年桜だが、どうやらこの階段付近にはない様で見つけることができなかった。例年ならばライトアップされているために場所が〝わからない〟ことはない様に思うが、初訪問ではそこまでわかってはいなかった。残念ながら次回の来訪時の楽しみとしてとっておくしかない。<br /><br />階段下には住職家族が住んでいると思われる住居があった。その一角は生活感が溢れ出ており俗世間空間を感じる所であった。石段の上り下りを含めて30分程で参拝を済ませた。いつもならば所要時間の倍の時間は費やす私だが、どこに何があるかをビジュアル的に見つけることができないので致し方なかった。境内に咲いていたソメイヨシノは、寺院としてなのか個人としてなのかはわからないが、ちょうど満開の時期を迎えていた。有名処の桜ならば行けばわかるとタカを括っていたのが甘かった。思いつきで巡ると結局時間の無駄遣いや非効率につながることを改めて知らされた仏隆寺参拝であった。<br /><br />山の中の仏隆寺を後にして山道を下って行く。道中にはヤマザクラやソメイヨシノがまだ綺麗に咲いている樹木も残っていた。そして国道165号線に入り道の駅宇陀路室生に立ち寄って一息付く。すぐ側には室生川が流れているが真っ暗で何もわからない。また山側には近鉄大阪線の線路が通っており、上下線数本が通過をして行くのが見えていた。近くの三本松駅迄はすぐだったので少し立ち寄ってみた。ちょうど列車が入ってきたが、暗過ぎでノンストロボで列車の撮影は出来ず、改めて出発する。ここからは国道165・368号線を利用して伊賀市へと向かうのが最短ルートのはずだが、記憶ではなぜが名阪国道を走った記憶がある。いずれにせよファミリーマート伊賀三田店に立ち寄って一息ついて、最近頻繁に利用している国道422号線を走って行く。暗い山道ではあるが真っ直ぐなので走りにくさはない。立石橋を左折し近江グリーンロードに入るまではいつも通りの帰り道ではあるが、途中でふと思うことがあり寄り道をするためにナビを再設定する。朝宮で県道に入るルートは以前仙禅寺磨崖仏に向かうルートだが、真っ暗の中行くのは怖い。だが今回は素通りする。国道とは違い真っ暗な山道を走ること数分、信楽町畑集落へと到着する。畑と言えば〝畑のしだれ桜〟だ。ナビを確認するまでもなく目的地に到着した。いつもならば公民館の駐車場に車を停めて歩いて行くのだが、今回は午前2時という時間もあり、会場入口迄車を乗り入れて路肩に停める。ライトアップされていない畑のしだれ桜を見るのは初めてではあるが、あまりに暗すぎて花の様子もわからない。iPhoneのナイトモードを使ってみるが、元来光源のない場所では役に立たないことが判明し、急遽アナログカメラ+外付けストロボで撮影をする。こちらも光源がない中でオートフォーカスが働いているかは微妙だが、闇夜の中に浮かび上がるシダレザクラの様子を記録することができた。また怪我の功名でその実力を発揮できなかったと思われたiPhone11Proだが、僅かな光源でも認識していることがわかった。人工光のない山中の集落ゆえ〝星の光〟を写し出していたのだ。後で画像を確認してわかったのだが、しだれ桜の上に光る無数の星は幻想的な風景を醸し出してくれていた。<br /><br />畑のしだれ桜を訪れた後は帰るのみ。行きに通った山道を逆走し、朝宮から国道を走り自宅に到着する。無事に帰れたのは良かったのであるが、翌朝ハルに怒られることになる。家に辿り着いたのは日が変わった4月8日午前2時半・・・。調子に乗り過ぎたことは少し反省しないといけない。<br /><br />《終わり》

《2021. April》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅奈良そのⅢ~宇陀の桜と道の駅編~

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《2021. April》あみんちゅなにげに関西街歩きの旅奈良そのⅢ~宇陀の桜と道の駅編~

閉門時間まで室生寺を堪能して来た。あと数カ所立ち寄り地点候補のデータを調べて持参しているのでそれに従うことにする。宇陀本郷と言えば桜井市と隣接するエリアになるが、約20km離れたところへ車を走らせて行く。

本郷川沿いにある駐車場に車を停めて向かった先は瀧桜。一般的に〝又兵衛桜〟として知られているシダレザクラの名所である。戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将後藤基次(ごとう もとつぐ)、またの名を後藤又兵衛と言うが永禄3(1560)年に播磨国の南山田城主後藤基国の次男として誕生したと言われている。父の主君は播磨の守護大名赤松氏の庶流である別所氏。三木城を本拠地としていた別所氏であるが、城主別所長治の時代に起こった〝三木合戦〟に於いて反信長勢力への見せしめとして羽柴秀吉に兵糧攻め〝三木の干殺し〟を行われている。充てにしていた毛利の援軍も期待できなくなった状況で2年間籠城をしたものの城内では餓死者が続出。結果として秀吉が出した〝城主一族の切腹〟により城兵の助命を保証するとの条件を受け入れ、別所長治やその一族は切腹して果てるが、秀吉は約束を守らず城から出てくる城兵や一般人までをも殺害して首を刎ねたと言われている。

三木合戦のさなか福崎にあった春日山城も攻められることとなり、その戦乱のさなか叔父である後藤伊勢守基信は中国攻めに向かう秀吉軍に攻められて自害、また父の後藤基国も三木合戦の最中討ち死にしたとされている。そんな中春日山城の支城であった南山田城主を継いだ基次であるが、諸説あるものの三木合戦にて秀吉と戦ったという説、幼少だったこともあり家臣団の進言に依るという説、いずれも秀吉に降伏し、秀吉家臣の仙石秀久のもとへと身を寄せたとされている。

その後黒田孝高(官兵衛)に仕えることとなり、戦に強かった黒田家臣団の一角をなし、数多くの戦で活躍を見せている。記録に残っているものとして天正15(1587)年の九州攻めにおける戦功が挙げられている。九州攻めの戦果を挙げた黒田孝高は豊前に加増転封を告げられて従った。その際基次も同行したと言われているが、領地召し上げに対する反発する勢力も多々あり、先ずそれらの勢力に対する対処が必要とされていた。特に強硬に反発した城井鎮房が争う姿勢を呈し、その対応に対し黒田家での意見が分かれている。黒田孝高に嫡男長政は強固に討伐を主張するが、基次や吉田長利といった黒田家の家臣らが反対意見を表明する。しかし血色張った長政はこれを聞き入れず出陣を強行し、結果として黒田軍は大敗を喫してしまう。このことに対し孝高は激怒したと言われており、それを恐れた長政以下家臣団は山籠もりや坊主頭にすることで誠意を見せようとしたが、唯一何食わぬ顔で出仕し続けたのが基次であった。〝戦には勝ちもあれば負けもあるもので、一度負けたからといって弱気になるのは武士の恥〟と切り捨てたことで孝高が〝もっともな言い分だ〟として長政達を許したことで、長政の面子を潰したと言われている。しかし卒のない基次は豊前の国人との争いのひとつに数えられる長岩城主野仲鎮兼を攻めた際に瀕死の重傷を負う。しかし九死に一生を得た基次は引き続き孝高に仕え、遂に長岩城を攻略するに至った。

その後孝高から長政に主君が変わった後の朝鮮出兵にも従軍しており、戦況を即座に判断する〝軍師〟としての才能を発揮したと伝わり、その逸話こそが〝軍師官兵衛〟の成り立ちだったとも表現されている。また慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでは東軍についた黒田長政軍の先鋒を務め、石田三成家臣の剛槍使い〝大橋掃部〟を一騎討ちで討ち取る武功を挙げている。東軍の勝ち戦となったことからも日本中に武勇を知らしめた上に黒田家重臣の一人として筑前六端城のひとつである大隈城16,000石の城主となっている。

このように黒田家中でも名を上げた基次は、後世で黒田家臣の中でも特に武勇の優れた人物であることを示す〝黒田二十四騎〟に加え〝黒田八虎〟の一員に数えられるなど、武勇を天下に轟かせていたことは間違いないことである。しかし黒田孝高の死から2年後の慶長11(1606)年に基次は一族揃って黒田家を出奔することとなる。基次が他国の、特に細川氏や池田氏と頻繁に書状を交わすことに原因があったとされている。当初は小倉藩の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた黒田・細川両家が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁によりなんとか細川家を退去して解決させる。基次の智勇を惜しむ福島正則・前田利長・結城秀康などから召し出しがかかるが、元主である黒田長政の〝奉公構〟がなされていたために実現しなかったと言われている。一旦張間国へと戻り、領主池田輝政を介して岡山藩の池田輝次に仕えた時期もあったようである。しかしやはり〝奉公構〟の影響で慶長16(1611)年より京都で浪人生活を送っている。同年基次の黒田家への帰参問題が起こったことで、藩主黒田長政は幕府を通して交渉を行ったが、基次と連絡がうまくとれなかったことにより実現することはなかったようだ。

そんな中で大阪の役が勃発する。浪人生活を送りつつも歴戦の〝智勇〟を知られている基次は大野治長の誘いを受け大阪城へと入る。〝摩利支天の再来〟と称される基次は、徳川家康に大阪城に入った要警戒武将として〝御宿政友〟共々二将として警戒されている。また城内でも大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らの補佐を担当している。冬の陣に於いては6,000名を率い、鴫野・今福方面を木村重成共に守備して上杉及び佐竹勢と相対している。そして夏の陣に於いては道明寺の戦いで大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率い平野郷から出陣した。しかし徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が既に国分村まで進出してために、次策として中間にあった小松山(現:玉手山公園近隣)に布陣、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次を討ち取るなど孤軍で奮戦し賞賛されている。しかし後続の薄田兼相・明石全登・真田幸村らの軍が霧の発生により到着が遅れたところに、伊達政宗家臣の片倉重長率いる鉄砲隊等が集まって十倍以上となった敵兵に対し、基次は小松山を降りての展開・突撃を敢行した後に乱戦の中に討死したとされている。享年56歳であった。

後藤基次の生涯というものは、前半生が不明であるのに対し後半生は凡そこの様に言われている。だが智勇の将と言われるだけあって死なずに…という逸話も残っている。大坂夏の陣で傷を負った基次は、僧侶として宇陀本郷の地を訪れて屋敷を構え、天寿を全うしたというものが今回の〝又兵衛桜〟に関わることである。現在桜が咲く場所に住んでいた基次は、藩主となった織田信長の次男である織田信雄と共に、山間の街である宇陀の地で農地開拓や産物を作る術を伝えたと言われている。基次の死後その屋敷跡に植えられたシダレザクラ〝又兵衛桜〟が植えられ、春を迎えるたびに3世紀以上に渡って花を咲かせてくれているということが又兵衛桜の伝承でもある。また大阪城入りするまでの数年間をこの宇陀本郷の地で過ごし、その屋敷跡だとも語る説もあるようだ。どこまで本当なのかはわからないが、その〝歴史の深さ〟にどっぷりと浸かれる位のオーラは放っているように見えてしまう。今回は残念ながらまさかの間違った開花情報のため、そのオーラを全身に浴びることはできなかったが、いつの日かまた改めて満開の又兵衛桜に再開したいと思った私であった。

本郷川沿いのこの界隈は、川砂溜工が行われたと書かれている。見るからに川底が浅い川ゆえちょっとしたことで川が溢れることもあったのだろう。護岸を含めた工事が成されたために又兵衛桜が快適に見学できるようになったらしいが、まあ工事に関しては賛否両論あるにしても結果オーライだとは感じられるものとなっていた。

辺りはかなり暗くなって来た。今年はどこの桜もコロナ禍の影響で〝タイトアップ〟を休止している報が入っている。なのでいつもののんびりとした散策を急いで行かねばならない。しばらく走ると神社らしき鳥居を発見し停車する。

阿紀神社は神代に神楽岡に創建され、第10代崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わった。天正年間に本郷川西岸の現在地に遷座され、その際に現在の阿紀神社へと改められらしい。社伝によると第11代垂仁天皇が先帝崇神天皇の偉業をたたえて神を祀ることを皇女である倭姫命に託し、天照大神の祭祀地を探して宇陀・近江・美濃と周った後、最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した〝元伊勢伝承〟の一端を担っている高貴な場所でもある。ご祭神は天照皇大神他で、社殿は伊勢神宮と同じ神明造である。境内には江戸時代前期に建設された非常に珍しい能舞台がある。その後定期的に行われるようになった〝能舞台〟だが、毎年6月中旬に〝あきの螢能〟が開催され人で賑わうという。明治35(1902)年旧郷社から昇格して県社に列格したとあるが、この能舞台を奉納したのは宇陀松山藩初代藩主である織田信雄公である。歴史上では父織田信長が本能寺で横死した後、豊臣・徳川と続く勢力争いの中で〝忘れられた感〟が強いように思うが、大坂夏の陣で徳川の世が決定的となった際、信長公の次男という〝血筋〟が生かされ、ここ宇陀松山藩初代藩主に抜擢されている。本人は京都で隠居生活を楽しんでいたらしいが、三代に渡る織田治世の間に趣味と実益を兼ねて奉納を決め、歴代藩主も能を舞っている。室生寺を含めて織田信雄公所縁のものが残っているこの地は、なかなか興味深いものが残っている地のように思う。ただこの阿紀神社だが、普段は訪れる人が〝全くと言っていい程いない〟と書かれている。日暮れ後なので私が訪れた際もそうであったが、ちょっとくらい時間帯は訪れるのに勇気が必要な場所であった。

一息つくために道の駅宇陀路大宇陀に立ち寄った。19:40という時間帯故、店はすべて閉まっている。旧街道の町家を模した建物を駅舎としていることが、宇陀の歴史を感じるところでもある。ちなみに道の駅の案内所には〝桜花速報〟が貼りだされていた。web情報を信じて〝又兵衛桜〟を目指したが、既に〝散りました〟と書かれている。これを先に見ておくべきだったと後悔するが仕方がない。ただこんなものがあったよ~ということでカメラに収めておく。

また道の駅宇陀路大宇陀には〝温泉〟が引かれている。足湯のサービスもあるが夜は行ってはいない。ただ温泉がためられていることには違いないので手を付けてみたところ…暖かい。でも下手に緊張を解してしまうと自宅までの道のりがキツくなる…ということで今回は諦めた。他にも温泉スタンドもあり40L/100円のセルフサービスで24時間利用できる。こういうものを見せられると持って帰りたくなる私だが、ポリタンクもないので諦めざるを得ない。足湯横にキャンピングカーが停まっておりそんな旅をされているご夫婦がいた。こんな形態の旅もいつかはしてみたいと思った私であった。

最後に道路を挟んで向かい側にある大宇陀郵便局のポストに撮影済みフィルムの発送をするために歩いて向かう。以前は普通集配局で郵便に関しては多くの業務を行っていたが、郵政民営化後は特定集配局に格下げになったようで、エリアの配達のみとなっているようだ。ポストの取り集めも桜井郵便局となっており、大宇陀郵便局の文字は書かれてはいない。ただ局前のポスト取り集めは、土平日に限るが8:05・8:30・12:15・14:15・17:35の5便回収がある。日祝祭日は16:00の1便のみしかないのが普通なのかも知れないが…。

そんなこんなで道の駅宇陀路大宇陀を後にして車を走らせる。宇陀川沿いに咲く〝夜桜〟がきれいに咲いているのを見て、車を停めて暫し眺めることにした。なんとなく近鉄大阪線の榛原駅に立ち寄った。特にすることもないのだが、さすが宇陀市の中核駅だけあり規模の大きさはかなりのものである。10年程前に野暮用で桜井から榛原迄電車に乗って来たことがあるが、山岳鉄道の様子を呈す景色にびっくりしたことをふと思い出した。

榛原駅を後にして再び山がつながる方向へと進む。榛原赤埴の仏隆寺を目指しているのだが、出発前の候補地のひとつに挙げてはいたが、又兵衛桜の開花情報にショックを受け、立ち寄らず帰ろうと考えていた場所でもある。実は先ほど立ち寄った道の駅宇陀路大宇陀の〝桜花開花情報〟に〝散り始め〟の表記を見つけて急遽立ち寄ることに決めたのだった。

榛原赤埴にある摩尼山仏隆寺は真言宗室生寺派の寺院である。室生寺の南門として本寺と末寺の関係にある。境内に残る大和茶発祥の地碑は、空海が唐から持ち帰った最古の茶を栽培したという伝承に基づき建立された。ここには奈良県最古の桜の古木と言われる千年桜がある。奈良県の天然記念物の指定を受けているが、当初の〝仏隆寺のヤマザクラ〟ではなく、ヤマザクラとエドヒガンザクラの勾配種である〝モチヅキザクラ〟であることが鑑定でわかっている。いずれにせよ古木であることには違いなく、例年ならばライトアップされて多くの人々で夜も賑わっているはずであった。この千年桜が目当てであったがどうやら場所を勘違いしていたようだ。入口の山門にはセンサーが付いており、夜間でも人を感知すると照明が点く様になっている。山門には志納箱があり、そこに入山料200円を納めるシステムであった。灰皿も置いてあったが流石にこの時間にタバコを吸う気にはなれず石段へと向かう。179段の石段は数はあるが傾斜は緩く歩きやすいものとなっている。階段を登り切った場所にある本堂には、聖徳太子作と伝わる十一面観音立像が安置されている筈だが、夜のためか扉が閉められており拝観はできなかった。また参道脇に植っている千年桜だが、どうやらこの階段付近にはない様で見つけることができなかった。例年ならばライトアップされているために場所が〝わからない〟ことはない様に思うが、初訪問ではそこまでわかってはいなかった。残念ながら次回の来訪時の楽しみとしてとっておくしかない。

階段下には住職家族が住んでいると思われる住居があった。その一角は生活感が溢れ出ており俗世間空間を感じる所であった。石段の上り下りを含めて30分程で参拝を済ませた。いつもならば所要時間の倍の時間は費やす私だが、どこに何があるかをビジュアル的に見つけることができないので致し方なかった。境内に咲いていたソメイヨシノは、寺院としてなのか個人としてなのかはわからないが、ちょうど満開の時期を迎えていた。有名処の桜ならば行けばわかるとタカを括っていたのが甘かった。思いつきで巡ると結局時間の無駄遣いや非効率につながることを改めて知らされた仏隆寺参拝であった。

山の中の仏隆寺を後にして山道を下って行く。道中にはヤマザクラやソメイヨシノがまだ綺麗に咲いている樹木も残っていた。そして国道165号線に入り道の駅宇陀路室生に立ち寄って一息付く。すぐ側には室生川が流れているが真っ暗で何もわからない。また山側には近鉄大阪線の線路が通っており、上下線数本が通過をして行くのが見えていた。近くの三本松駅迄はすぐだったので少し立ち寄ってみた。ちょうど列車が入ってきたが、暗過ぎでノンストロボで列車の撮影は出来ず、改めて出発する。ここからは国道165・368号線を利用して伊賀市へと向かうのが最短ルートのはずだが、記憶ではなぜが名阪国道を走った記憶がある。いずれにせよファミリーマート伊賀三田店に立ち寄って一息ついて、最近頻繁に利用している国道422号線を走って行く。暗い山道ではあるが真っ直ぐなので走りにくさはない。立石橋を左折し近江グリーンロードに入るまではいつも通りの帰り道ではあるが、途中でふと思うことがあり寄り道をするためにナビを再設定する。朝宮で県道に入るルートは以前仙禅寺磨崖仏に向かうルートだが、真っ暗の中行くのは怖い。だが今回は素通りする。国道とは違い真っ暗な山道を走ること数分、信楽町畑集落へと到着する。畑と言えば〝畑のしだれ桜〟だ。ナビを確認するまでもなく目的地に到着した。いつもならば公民館の駐車場に車を停めて歩いて行くのだが、今回は午前2時という時間もあり、会場入口迄車を乗り入れて路肩に停める。ライトアップされていない畑のしだれ桜を見るのは初めてではあるが、あまりに暗すぎて花の様子もわからない。iPhoneのナイトモードを使ってみるが、元来光源のない場所では役に立たないことが判明し、急遽アナログカメラ+外付けストロボで撮影をする。こちらも光源がない中でオートフォーカスが働いているかは微妙だが、闇夜の中に浮かび上がるシダレザクラの様子を記録することができた。また怪我の功名でその実力を発揮できなかったと思われたiPhone11Proだが、僅かな光源でも認識していることがわかった。人工光のない山中の集落ゆえ〝星の光〟を写し出していたのだ。後で画像を確認してわかったのだが、しだれ桜の上に光る無数の星は幻想的な風景を醸し出してくれていた。

畑のしだれ桜を訪れた後は帰るのみ。行きに通った山道を逆走し、朝宮から国道を走り自宅に到着する。無事に帰れたのは良かったのであるが、翌朝ハルに怒られることになる。家に辿り着いたのは日が変わった4月8日午前2時半・・・。調子に乗り過ぎたことは少し反省しないといけない。

《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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