高尾・八王子旅行記(ブログ) 一覧に戻る
東京富士美術館で開催されている「THIS IS JAPAN IN TOKYO~永遠の日本美術の名宝~」展。9/6に見に行ってきましたが、会期途中で展示作品の入れ替えが行われるということで再度訪問してきました。<br />後期展示作品を中心にご紹介します。<br />※作品コメントは、東京富士美術館HPより参照しました。

東京富士美術館 THIS IS JAPAN IN TOKYO ~永遠の日本美術の名宝~(3)

82いいね!

2020/10/24 - 2020/10/24

62位(同エリア1903件中)

旅行記グループ 東京富士美術館

1

30

+mo2

+mo2さん

東京富士美術館で開催されている「THIS IS JAPAN IN TOKYO~永遠の日本美術の名宝~」展。9/6に見に行ってきましたが、会期途中で展示作品の入れ替えが行われるということで再度訪問してきました。
後期展示作品を中心にご紹介します。
※作品コメントは、東京富士美術館HPより参照しました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5

PR

  • 伊藤若冲「象図」寛政2年(1790)<br />今回はこの作品を見るために来たといってもいい若冲の像図。<br />象を画面いっぱいに真正面から描いた、細長い画面を逆手にとった意表を突く大胆な構図です。象の背景となる部分を全て墨で塗りつぶし、象を着色せず引き立てる手法も効果的で、これは拓版画の効果を肉筆画に応用したものと推測されます。単純な作風に見えるが、淡墨と濃墨を細心の配慮を払って用いていることが理解できます。背中を三本の曲線だけで表わすなど抽象化されていて興味深い。その落款と印章から若冲70歳代半ばの作と知れます。享保13年(1728)、第8代将軍徳川吉宗の要請で実際の象が日本に持ち込まれ、その翌年、長崎から江戸まで歩いて移動しました。14歳を迎えた若冲は、おそらく京都の地でその象を実見したとみられます。本作は、実際に見たであろう象の記憶そのままに、畳一畳近くある大型の画牋紙からはみ出るほどの迫力で描かれています。若冲が手がけた「正面書きの象」は、代表作として名高い「樹下鳥獣図屏風」「鳥獣花木図屏風」を合わせて、現在確認できるのは5点のみ。本作はそのうちの稀少な1点です。

    伊藤若冲「象図」寛政2年(1790)
    今回はこの作品を見るために来たといってもいい若冲の像図。
    象を画面いっぱいに真正面から描いた、細長い画面を逆手にとった意表を突く大胆な構図です。象の背景となる部分を全て墨で塗りつぶし、象を着色せず引き立てる手法も効果的で、これは拓版画の効果を肉筆画に応用したものと推測されます。単純な作風に見えるが、淡墨と濃墨を細心の配慮を払って用いていることが理解できます。背中を三本の曲線だけで表わすなど抽象化されていて興味深い。その落款と印章から若冲70歳代半ばの作と知れます。享保13年(1728)、第8代将軍徳川吉宗の要請で実際の象が日本に持ち込まれ、その翌年、長崎から江戸まで歩いて移動しました。14歳を迎えた若冲は、おそらく京都の地でその象を実見したとみられます。本作は、実際に見たであろう象の記憶そのままに、畳一畳近くある大型の画牋紙からはみ出るほどの迫力で描かれています。若冲が手がけた「正面書きの象」は、代表作として名高い「樹下鳥獣図屏風」「鳥獣花木図屏風」を合わせて、現在確認できるのは5点のみ。本作はそのうちの稀少な1点です。

  • 伊藤若冲「群鶏図」寛政6年(1794)<br />雄鶏の奥から雌鶏が顔を出し、手前に描かれた雛を見守っています。雄鶏の姿は鶏冠や肉?蜷から羽、尾、脚にいたるまで濃密に描かれているのに比べ、雌鶏と雛が単純化されているため、見逃してしまいそうな構図です。雄鶏の背中の羽の部分にはわずかではあるが、墨の滲みの効果を利用した若冲特有のいわゆる「筋目描き」の描写も見られます。左端に記された落款には「米斗翁行年七十九歳画」とあり、若冲が天明8年(1788)の天明の大火後に石峰寺(現在の京都市伏見区深草)の門前に構えた庵で制作していた時期でもある寛政6年(1794)の作と分かります。

    伊藤若冲「群鶏図」寛政6年(1794)
    雄鶏の奥から雌鶏が顔を出し、手前に描かれた雛を見守っています。雄鶏の姿は鶏冠や肉?蜷から羽、尾、脚にいたるまで濃密に描かれているのに比べ、雌鶏と雛が単純化されているため、見逃してしまいそうな構図です。雄鶏の背中の羽の部分にはわずかではあるが、墨の滲みの効果を利用した若冲特有のいわゆる「筋目描き」の描写も見られます。左端に記された落款には「米斗翁行年七十九歳画」とあり、若冲が天明8年(1788)の天明の大火後に石峰寺(現在の京都市伏見区深草)の門前に構えた庵で制作していた時期でもある寛政6年(1794)の作と分かります。

  • 曾我蕭白「亀寿老図(亀仙人)」安永7年(1778)以降<br />太い尾のような苔を従えた亀は蓑亀ともいわれ、吉祥の図案としてよく絵画に用いられました。亀に乗る仙人は中国の仙人についてまとめた『列仙伝』(巻之二)に登場する黄安仙人が知られるます。同書には「赤い銅色の身体を露出し、年中衣服を着ることがなかった」とあり、その容姿について挿絵入りで紹介した『繪本故事談』には亀の上に乗り、伸び切った髪と髭を生やした半裸姿の黄安仙人が描かれています。しかし本作に見られる仙人は、服を着込み、長い禿頭が特徴的に描かれ、明らかに七福神の一人である寿老人を思わせる風貌をしています。現に亀に乗る寿老人をモティーフとした絵画や置物なども残っていることから、本作のように別の仙人を七福神に見立てた図案が、蕭白の生きた時代に吉祥図の一つとして流通していたということも考えられます。いずれにしても、やや企み顔の仙人と存在感のある亀の顔つきに蕭白特有の愛嬌があり面白い作品です。また、もう一つ注目すべきは本作に付された印(朱文壺印)です。この印は元々正方形であったが、時代を経て欠損が進み、印影がまるで壺の形のように変化することで知られます。蕭白作品には珍しく「安永七戊戌春」との年記が入った《蘭亭曲水図》(個人蔵)には、本作よりもやや欠損が進む前の状態にある朱文壺印が見られることから、本作は安永7年(1778)以降に描かれたものと推察することができます。<br />

    曾我蕭白「亀寿老図(亀仙人)」安永7年(1778)以降
    太い尾のような苔を従えた亀は蓑亀ともいわれ、吉祥の図案としてよく絵画に用いられました。亀に乗る仙人は中国の仙人についてまとめた『列仙伝』(巻之二)に登場する黄安仙人が知られるます。同書には「赤い銅色の身体を露出し、年中衣服を着ることがなかった」とあり、その容姿について挿絵入りで紹介した『繪本故事談』には亀の上に乗り、伸び切った髪と髭を生やした半裸姿の黄安仙人が描かれています。しかし本作に見られる仙人は、服を着込み、長い禿頭が特徴的に描かれ、明らかに七福神の一人である寿老人を思わせる風貌をしています。現に亀に乗る寿老人をモティーフとした絵画や置物なども残っていることから、本作のように別の仙人を七福神に見立てた図案が、蕭白の生きた時代に吉祥図の一つとして流通していたということも考えられます。いずれにしても、やや企み顔の仙人と存在感のある亀の顔つきに蕭白特有の愛嬌があり面白い作品です。また、もう一つ注目すべきは本作に付された印(朱文壺印)です。この印は元々正方形であったが、時代を経て欠損が進み、印影がまるで壺の形のように変化することで知られます。蕭白作品には珍しく「安永七戊戌春」との年記が入った《蘭亭曲水図》(個人蔵)には、本作よりもやや欠損が進む前の状態にある朱文壺印が見られることから、本作は安永7年(1778)以降に描かれたものと推察することができます。

  • 曾我次郎暉雄 款(曾我蕭白)「蝦蟇仙人図」江戸時代中期(18世紀)<br />蝦蟇仙人は中国の仙人葛玄あるいは劉海蟾をさします。3本足の蝦蟇(ヒキガエル)を操るとされます。「曾我暉雄」「蕭白」「鸞山」印とその状態からして曾我蕭白の30代前半頃の比較的早い時期の作と考えられます。

    曾我次郎暉雄 款(曾我蕭白)「蝦蟇仙人図」江戸時代中期(18世紀)
    蝦蟇仙人は中国の仙人葛玄あるいは劉海蟾をさします。3本足の蝦蟇(ヒキガエル)を操るとされます。「曾我暉雄」「蕭白」「鸞山」印とその状態からして曾我蕭白の30代前半頃の比較的早い時期の作と考えられます。

  • 「蝦蟇仙人図」(部分拡大)<br />仙人はお腹の着衣の中に蝦蟇を抱え、西王母と蝦蟇との逸話にちなみ仙桃を想起させる桃の枝を手にしています。まさしく「キモカワイイ」作品。

    「蝦蟇仙人図」(部分拡大)
    仙人はお腹の着衣の中に蝦蟇を抱え、西王母と蝦蟇との逸話にちなみ仙桃を想起させる桃の枝を手にしています。まさしく「キモカワイイ」作品。

  • 作者不詳「うそ姫の縁起(ふくろふ)」慶長年間(1596-1615)頃写

    作者不詳「うそ姫の縁起(ふくろふ)」慶長年間(1596-1615)頃写

  • 東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」寛政6年(1794)<br />寛政6年(1794)の5月に河原崎座で上演された「恋女房染分手綱」の一場面で、前半の山場・道成寺の主役である能師役の竹村定之進を描いたもの。演ずる市川鰕蔵は5世市川団十郎のことで、当代随一の名優と謳われました。大ぶりの体格、彫りの深い顔と顔全体を使った豊かな表情が、この役者がもつ堂々たる風格を伝えてくれます。また定之進の顔、襟や裃の描線、組まれた両手とがリズミカルかつ安定した構図を巧みに演出しています。

    東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」寛政6年(1794)
    寛政6年(1794)の5月に河原崎座で上演された「恋女房染分手綱」の一場面で、前半の山場・道成寺の主役である能師役の竹村定之進を描いたもの。演ずる市川鰕蔵は5世市川団十郎のことで、当代随一の名優と謳われました。大ぶりの体格、彫りの深い顔と顔全体を使った豊かな表情が、この役者がもつ堂々たる風格を伝えてくれます。また定之進の顔、襟や裃の描線、組まれた両手とがリズミカルかつ安定した構図を巧みに演出しています。

  • 歌川国芳「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」弘化4-嘉永5(1847-52)年<br />戯画のうち「寄せ絵」と呼ばれるもので、人間の目、鼻、口から眉毛、丁髷にいたるまで、そしておそらくは着物の中の身体つきについても、さまざまな姿態の人間を組み合わせて表現するというユニークな趣向に富んだ作品。西洋の画家・アルチンボルトが植物や果物などを使い、同じ手法で人体を表現する試みをしていますが、両者の関係性については定かではありません。また着物の文様から鎌倉時代の武将・朝比奈義秀の関係性も取り沙汰されています。こちらも「キモカワ」作品。

    歌川国芳「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」弘化4-嘉永5(1847-52)年
    戯画のうち「寄せ絵」と呼ばれるもので、人間の目、鼻、口から眉毛、丁髷にいたるまで、そしておそらくは着物の中の身体つきについても、さまざまな姿態の人間を組み合わせて表現するというユニークな趣向に富んだ作品。西洋の画家・アルチンボルトが植物や果物などを使い、同じ手法で人体を表現する試みをしていますが、両者の関係性については定かではありません。また着物の文様から鎌倉時代の武将・朝比奈義秀の関係性も取り沙汰されています。こちらも「キモカワ」作品。

  • 歌川国芳「相馬の古内裏」弘化2-3年(1845-46)頃<br />山東京伝の読本『善知安方忠義伝』に取材した本図は、国芳の代表作の1点。相馬の古内裏は、相馬小次郎こと平将門が下総国に建てた屋敷で、将門の乱の際に荒れ果ててしまっていた廃屋。妖術を授かった将門の遺児滝夜叉姫と良門は、父の遺志を継いでこの廃屋に仲間を募り、やがて妖怪が出没するようになります。それを知った源頼信の家臣、大宅太郎光国は妖怪を退治してその陰謀を阻止しました。

    歌川国芳「相馬の古内裏」弘化2-3年(1845-46)頃
    山東京伝の読本『善知安方忠義伝』に取材した本図は、国芳の代表作の1点。相馬の古内裏は、相馬小次郎こと平将門が下総国に建てた屋敷で、将門の乱の際に荒れ果ててしまっていた廃屋。妖術を授かった将門の遺児滝夜叉姫と良門は、父の遺志を継いでこの廃屋に仲間を募り、やがて妖怪が出没するようになります。それを知った源頼信の家臣、大宅太郎光国は妖怪を退治してその陰謀を阻止しました。

  • 「相馬の古内裏」(部分拡大)<br />原作では複数の骸骨が現れますが、国芳はこれを巨大な一体の骸骨に置き換えることによって、迫力ある画面構成を生み出すことに成功しています。

    「相馬の古内裏」(部分拡大)
    原作では複数の骸骨が現れますが、国芳はこれを巨大な一体の骸骨に置き換えることによって、迫力ある画面構成を生み出すことに成功しています。

  • 歌川広重「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」安政4年(1857)閏5月<br />「十万坪」は現在の江東区千田および千石周辺に当たります。享保8年(1723)から行われた干潟の埋め立てにより10万坪に及ぶ新田が開発されたため、「十万坪」と呼ばれていました。高潮の被害が発生するなど居住には適さない土地で、一時幕府が鋳銭場を置いたりしましたが、寛政8年(1796)には一橋徳川家の所有となりました。江戸時代後期には、この付近は春の海辺での潮干狩りや初日の出、月見を楽しめる名所として人気を集めるようになり、海岸に面した洲崎弁天社(現在の洲崎神社)にも多くの参拝者が訪れていました。天保年間に出版された広重の『東都名所』や『江都名所』などのシリーズでは、そのような潮干狩りや初日の出、洲崎弁天社の賑わいの様子が描かれています。<br />広重は『名所江戸百景』で再び同地を描くにあたり、それまで描いた題材から大きく趣向を変えて、海側からの鳥瞰という大胆な構図によって、湿地帯の荒涼とした冬の雪景として描き出しました。しんしんと雪が舞う浜辺に静けさが漂う一方で、大きく翼を広げた鷲が上空から獲物を狙う様子は躍動感に溢れており、この静と動の対比が本作の大きな魅力となっています。遠方には、富士山と並ぶ関東の霊峰、筑波山が静かに下界を見下ろしています。

    歌川広重「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」安政4年(1857)閏5月
    「十万坪」は現在の江東区千田および千石周辺に当たります。享保8年(1723)から行われた干潟の埋め立てにより10万坪に及ぶ新田が開発されたため、「十万坪」と呼ばれていました。高潮の被害が発生するなど居住には適さない土地で、一時幕府が鋳銭場を置いたりしましたが、寛政8年(1796)には一橋徳川家の所有となりました。江戸時代後期には、この付近は春の海辺での潮干狩りや初日の出、月見を楽しめる名所として人気を集めるようになり、海岸に面した洲崎弁天社(現在の洲崎神社)にも多くの参拝者が訪れていました。天保年間に出版された広重の『東都名所』や『江都名所』などのシリーズでは、そのような潮干狩りや初日の出、洲崎弁天社の賑わいの様子が描かれています。
    広重は『名所江戸百景』で再び同地を描くにあたり、それまで描いた題材から大きく趣向を変えて、海側からの鳥瞰という大胆な構図によって、湿地帯の荒涼とした冬の雪景として描き出しました。しんしんと雪が舞う浜辺に静けさが漂う一方で、大きく翼を広げた鷲が上空から獲物を狙う様子は躍動感に溢れており、この静と動の対比が本作の大きな魅力となっています。遠方には、富士山と並ぶ関東の霊峰、筑波山が静かに下界を見下ろしています。

  • 歌川国芳「川中島百勇将戦之内 義将 武田左馬之助」弘化期(1844-48)<br />武田左馬之助信繁は武田信玄の弟。知勇に優れ、武田の副大将として信玄の右腕となって活躍しました。川中島の合戦では、死を覚悟した信繁は家臣に息子への形見を託して、討死したとされます。『甲陽軍鑑」では「毎事相整う真の副将なり」と評され、嫡子武田信豊に残した「武田信繁家訓」は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれており、まさしく文武両道の士として人気を博していました。

    歌川国芳「川中島百勇将戦之内 義将 武田左馬之助」弘化期(1844-48)
    武田左馬之助信繁は武田信玄の弟。知勇に優れ、武田の副大将として信玄の右腕となって活躍しました。川中島の合戦では、死を覚悟した信繁は家臣に息子への形見を託して、討死したとされます。『甲陽軍鑑」では「毎事相整う真の副将なり」と評され、嫡子武田信豊に残した「武田信繁家訓」は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれており、まさしく文武両道の士として人気を博していました。

  • 歌川国芳「宇治川先陣」弘化4-嘉永5(1847-1852)年頃<br />『平家物語』に登場する「宇治川の戦い」の一場面。平安時代末期の寿永3年(1184)1月、木曽義仲と源頼朝が派遣した源範頼・源義経との間で行われた合戦の様子が描かれます。

    歌川国芳「宇治川先陣」弘化4-嘉永5(1847-1852)年頃
    『平家物語』に登場する「宇治川の戦い」の一場面。平安時代末期の寿永3年(1184)1月、木曽義仲と源頼朝が派遣した源範頼・源義経との間で行われた合戦の様子が描かれます。

  • 「宇治川先陣」(部分拡大)<br />連銭葦毛の馬にまたがる勇壮な武者姿の人物が佐々木四郎高綱。波しぶきを上げながら勢いよく岸に駆け上がっています。

    「宇治川先陣」(部分拡大)
    連銭葦毛の馬にまたがる勇壮な武者姿の人物が佐々木四郎高綱。波しぶきを上げながら勢いよく岸に駆け上がっています。

  • 琳派「白梅図屏風」江戸時代<br />しなやかに枝を伸ばし、ちらほらと蕾が咲きだした梅を、金地の対角線状に配置した意匠性の高い作品。画面の上下をはみ出して描かれた梅は枝振りや幹の一部のみを描き、独特の形態の美しさを捉えて簡潔にまとめ上げられています。薄墨のたらし込みで表された樹幹に、点苔として加えられた緑青が潤いを感じさせます。梅の花は尾形光琳がよく用いたモティーフで、花弁をひとつなぎの輪郭線のみで描いた梅は「光琳梅」とも称されました。

    琳派「白梅図屏風」江戸時代
    しなやかに枝を伸ばし、ちらほらと蕾が咲きだした梅を、金地の対角線状に配置した意匠性の高い作品。画面の上下をはみ出して描かれた梅は枝振りや幹の一部のみを描き、独特の形態の美しさを捉えて簡潔にまとめ上げられています。薄墨のたらし込みで表された樹幹に、点苔として加えられた緑青が潤いを感じさせます。梅の花は尾形光琳がよく用いたモティーフで、花弁をひとつなぎの輪郭線のみで描いた梅は「光琳梅」とも称されました。

  • 酒井抱一「白梅図」江戸時代後期(19世紀)<br />花弁の描写を略し、花の輪郭だけを捉えた世に言う「光琳梅」と呼ばれる意匠化された梅の花と、たらし込みの技法を駆使した幹の表現は、琳派を継承した抱一の確かな技量を感じさせます。上部には「梅の花 八千代の春に 匂うとも 赤く色香の なとこもるらん」との歌が添えられています。この歌の作者は京都出身の国学者であり歌人の富士谷御杖で、おそらく抱一と何らかの交友をもっていたと考えられます。

    酒井抱一「白梅図」江戸時代後期(19世紀)
    花弁の描写を略し、花の輪郭だけを捉えた世に言う「光琳梅」と呼ばれる意匠化された梅の花と、たらし込みの技法を駆使した幹の表現は、琳派を継承した抱一の確かな技量を感じさせます。上部には「梅の花 八千代の春に 匂うとも 赤く色香の なとこもるらん」との歌が添えられています。この歌の作者は京都出身の国学者であり歌人の富士谷御杖で、おそらく抱一と何らかの交友をもっていたと考えられます。

  • 後柏原天皇「宸翰 朗詠断簡」室町時代(15-16世紀)<br />後柏原天皇の筆による『和漢朗詠集』の書写。後柏原天皇は後土御門天皇を父とし、その死去を受けて即位しました。在位は1500年~1526年。土御門天皇と同様、応仁の戦乱で衰退した朝儀の再興に尽力する一方、詩歌や管弦などにも長け、歌集『柏玉集』をまとめています。<br /> 写されているのは『和漢朗詠集』巻下、慶賀に収められている橘正通の漢詩と、作者未詳の和歌です。まず漢詩は「君と私は、花月などを愛でながら交流を深めてきた。しかし、今君は高貴な身分の人となり、微官に留まっている私とは天地ほども離れてしまい、目に届かなくなってしまった」と訳せ、旧友への今昔の感を読み取ることができます。続く和歌は、「昔は嬉しさを袖に包んだというが、今宵の私の嬉しさは袖に包むどころか、身にも余ってしまうほどである」と訳せます。『和漢朗詠集』では、この歌に作者名は付されていないが、『撰集抄』では、藤原斉信より先に昇進した藤原公任の喜びを表した歌として出ています。

    後柏原天皇「宸翰 朗詠断簡」室町時代(15-16世紀)
    後柏原天皇の筆による『和漢朗詠集』の書写。後柏原天皇は後土御門天皇を父とし、その死去を受けて即位しました。在位は1500年~1526年。土御門天皇と同様、応仁の戦乱で衰退した朝儀の再興に尽力する一方、詩歌や管弦などにも長け、歌集『柏玉集』をまとめています。
     写されているのは『和漢朗詠集』巻下、慶賀に収められている橘正通の漢詩と、作者未詳の和歌です。まず漢詩は「君と私は、花月などを愛でながら交流を深めてきた。しかし、今君は高貴な身分の人となり、微官に留まっている私とは天地ほども離れてしまい、目に届かなくなってしまった」と訳せ、旧友への今昔の感を読み取ることができます。続く和歌は、「昔は嬉しさを袖に包んだというが、今宵の私の嬉しさは袖に包むどころか、身にも余ってしまうほどである」と訳せます。『和漢朗詠集』では、この歌に作者名は付されていないが、『撰集抄』では、藤原斉信より先に昇進した藤原公任の喜びを表した歌として出ています。

  • 後陽成天皇「宸翰 古歌御色紙」桃山時代(16世紀)<br />上下二段に割った色紙に金銀泥で肥痩のある流麗な書体で『源氏物語』にある和歌を散らし書きにしています。後陽成天皇の筆による帚木の巻にある男女が詠み交わす和歌の書写。

    後陽成天皇「宸翰 古歌御色紙」桃山時代(16世紀)
    上下二段に割った色紙に金銀泥で肥痩のある流麗な書体で『源氏物語』にある和歌を散らし書きにしています。後陽成天皇の筆による帚木の巻にある男女が詠み交わす和歌の書写。

  • 後西天皇「宸翰 源氏詞」江戸時代前期(17世紀)<br />後西天皇筆による『源氏物語』帚木の巻の書写。後西天皇は、後水尾天皇の第8皇子として誕生。在位期間は1655年~1663年。父天皇の資質を受け継ぎ、和歌や連歌に優れ、古典への関心も高かった。ほかにも書道や茶道、香道にも精通し、勅作の香銘も多くあります。また、古記録の謄写にもあたり、譲位の後もその活動を続けました。

    後西天皇「宸翰 源氏詞」江戸時代前期(17世紀)
    後西天皇筆による『源氏物語』帚木の巻の書写。後西天皇は、後水尾天皇の第8皇子として誕生。在位期間は1655年~1663年。父天皇の資質を受け継ぎ、和歌や連歌に優れ、古典への関心も高かった。ほかにも書道や茶道、香道にも精通し、勅作の香銘も多くあります。また、古記録の謄写にもあたり、譲位の後もその活動を続けました。

  • 伝 俵屋宗雪「四季草花図屏風」江戸時代前期(17世紀)<br />左隻に白菊、野紺菊などの野菊を中心として、桔梗、女郎花、萩、芒、南天、藪柑子などの秋から冬にかけての草花、右隻にたんぽぽ、芥子、野あざみ、すみれ、つつじ、紫陽花、つくし、蕨といった春から夏にかけての植物を描く。

    伝 俵屋宗雪「四季草花図屏風」江戸時代前期(17世紀)
    左隻に白菊、野紺菊などの野菊を中心として、桔梗、女郎花、萩、芒、南天、藪柑子などの秋から冬にかけての草花、右隻にたんぽぽ、芥子、野あざみ、すみれ、つつじ、紫陽花、つくし、蕨といった春から夏にかけての植物を描く。

    東京富士美術館 美術館・博物館

  • 「四季草花図屏風」(部分拡大)<br />横長の金地画面をいっぱいに使って、地面を描かずに一つ一つの植物を点在させる装飾的な表現は琳派が得意としたもの。精細に描写された草花は生き生きとした生命力を宿しています。

    「四季草花図屏風」(部分拡大)
    横長の金地画面をいっぱいに使って、地面を描かずに一つ一つの植物を点在させる装飾的な表現は琳派が得意としたもの。精細に描写された草花は生き生きとした生命力を宿しています。

  • 葛飾北斎「冨嶽三十六景 山下白雨」天保1-天保3年(1830-32)頃<br />冨嶽三十六景シリーズの三役にも挙げられる作品。《凱風快晴》と双璧をなすように、富士の堂々たる姿を表した本図は、《凱風快晴》が「赤富士」と称されたのに対し「黒富士」と呼ばれました。漆黒に包まれた裾野から山頂へのシャープなグラディエーションと頂の尖った形容が、富士の峻厳さとその周辺に立ちこめる静寂な雰囲気を伝えています。画題の「白雨」は夕立を意味する。裾野に描かれた稲光りが画面全体にいっそう鋭さを与えるとともに奥より迫る黒く染まった雨雲が、これから来るであろう俄雨を予兆します。

    葛飾北斎「冨嶽三十六景 山下白雨」天保1-天保3年(1830-32)頃
    冨嶽三十六景シリーズの三役にも挙げられる作品。《凱風快晴》と双璧をなすように、富士の堂々たる姿を表した本図は、《凱風快晴》が「赤富士」と称されたのに対し「黒富士」と呼ばれました。漆黒に包まれた裾野から山頂へのシャープなグラディエーションと頂の尖った形容が、富士の峻厳さとその周辺に立ちこめる静寂な雰囲気を伝えています。画題の「白雨」は夕立を意味する。裾野に描かれた稲光りが画面全体にいっそう鋭さを与えるとともに奥より迫る黒く染まった雨雲が、これから来るであろう俄雨を予兆します。

  • 葛飾北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」天保1-天保3年(1830-32)頃<br />冨嶽三十六景シリーズを代表する作品。画題にある「凱風」とは南風のこと。「赤富士」とも称されるこの情景は、夏から秋にかけての早朝にかぎり見られるといいいます。諸説はあるが、右側に寄せられた構図は左側(東)からの光を意識しているとも感じられ、河口湖付近から富士の北側を捉えたと思われます。秋を予感させる鰯雲の中に悠然とそびえるその偉容は、富士を形象化した作品の中でも唯一無二の逸品といえます。

    葛飾北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」天保1-天保3年(1830-32)頃
    冨嶽三十六景シリーズを代表する作品。画題にある「凱風」とは南風のこと。「赤富士」とも称されるこの情景は、夏から秋にかけての早朝にかぎり見られるといいいます。諸説はあるが、右側に寄せられた構図は左側(東)からの光を意識しているとも感じられ、河口湖付近から富士の北側を捉えたと思われます。秋を予感させる鰯雲の中に悠然とそびえるその偉容は、富士を形象化した作品の中でも唯一無二の逸品といえます。

  • 葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州三嶌越」天保1-天保3年(1830-32)頃<br />三島越とは、甲府盆地から富士山麓を経て駿河国・相模国へと続く鎌倉往還(各地方と鎌倉を結ぶ古道)を指します。本図は、鎌倉往還の甲駿国境にある籠坂峠から富士を望みます。画面中央を巨木が貫き、背後に富士がそびえる圧巻の構図です。

    葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州三嶌越」天保1-天保3年(1830-32)頃
    三島越とは、甲府盆地から富士山麓を経て駿河国・相模国へと続く鎌倉往還(各地方と鎌倉を結ぶ古道)を指します。本図は、鎌倉往還の甲駿国境にある籠坂峠から富士を望みます。画面中央を巨木が貫き、背後に富士がそびえる圧巻の構図です。

  • 葛飾北斎「冨嶽三十六景 尾州不二見原」天保1-天保3年(1830-32)頃<br />現在の愛知県名古屋市中区不二見町の付近からの富士の眺めと思われます。職人が大きな桶の製作に一心に取り組んでいます。その桶を通して、遠方に小さく富士が見えます。大きな円と小さな三角形とが組み合わされた、大胆で奇抜な構図で<br />す。

    葛飾北斎「冨嶽三十六景 尾州不二見原」天保1-天保3年(1830-32)頃
    現在の愛知県名古屋市中区不二見町の付近からの富士の眺めと思われます。職人が大きな桶の製作に一心に取り組んでいます。その桶を通して、遠方に小さく富士が見えます。大きな円と小さな三角形とが組み合わされた、大胆で奇抜な構図で
    す。

  • 歌川広重「東海道五拾三次之内 川崎 六郷渡舟」天保4-5年(1833-34)<br />現在の神奈川県川崎市川崎区にあたります。東海道五拾三次の道のりの最初に渡る大きな川が本図で描かれる多摩川です。対岸に見えるのが川崎宿。多摩川は六郷川とも呼ばれ、ここを渡す船は「六郷の渡し」といわれました。もともとは大きな橋が架けられていたが、たびたび洪水で流されたため、舟で渡河するようになったという。画面奥には西日で真っ赤に染まった空と雪化粧した富士の姿のコントラストが美しく、情感をかき立てられます。

    歌川広重「東海道五拾三次之内 川崎 六郷渡舟」天保4-5年(1833-34)
    現在の神奈川県川崎市川崎区にあたります。東海道五拾三次の道のりの最初に渡る大きな川が本図で描かれる多摩川です。対岸に見えるのが川崎宿。多摩川は六郷川とも呼ばれ、ここを渡す船は「六郷の渡し」といわれました。もともとは大きな橋が架けられていたが、たびたび洪水で流されたため、舟で渡河するようになったという。画面奥には西日で真っ赤に染まった空と雪化粧した富士の姿のコントラストが美しく、情感をかき立てられます。

  • 歌川広重「東海道五拾三次之内 平塚 縄手道」天保4-5年(1833-34)<br />現在の神奈川県平塚市にあたります。遠景に見えるまん丸い形をした山は高麗山で、その後ろには小さく富士の姿が見えます。縄手道とは畦道のことで、ここでは奥に向かって「く」の字に表現され、画面に奥行きをもたらす効果を生んでいます。中央には道沿いに立つ樹木の合間を上半身裸の状態で先を急ぐ早飛脚と、空になった駕籠を担ぎ、帰路につく駕籠かきが描かれます。街道脇に立つ平塚宿との境を示す榜示杭が、一種のアクセントとなっています。

    歌川広重「東海道五拾三次之内 平塚 縄手道」天保4-5年(1833-34)
    現在の神奈川県平塚市にあたります。遠景に見えるまん丸い形をした山は高麗山で、その後ろには小さく富士の姿が見えます。縄手道とは畦道のことで、ここでは奥に向かって「く」の字に表現され、画面に奥行きをもたらす効果を生んでいます。中央には道沿いに立つ樹木の合間を上半身裸の状態で先を急ぐ早飛脚と、空になった駕籠を担ぎ、帰路につく駕籠かきが描かれます。街道脇に立つ平塚宿との境を示す榜示杭が、一種のアクセントとなっています。

  • 歌川広重「東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺」天保4-5年(1833-34)<br />東海道の難所のひとつとして知られたのが薩埵峠です。海に面し切り立った峠を越えるとき、突然背後に見える富士の姿に、旅人は感動しました。峠の道を通る以前は、崖の波打ち際の道を通っていました。押し寄せる荒波にさらわれる旅人も多く、「親知らず子知らず」と人々に呼ばれた危険な道だったそうです。駿河湾越しに見える富士の絶景と、峠の急な勾配の対比が美しい。

    歌川広重「東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺」天保4-5年(1833-34)
    東海道の難所のひとつとして知られたのが薩埵峠です。海に面し切り立った峠を越えるとき、突然背後に見える富士の姿に、旅人は感動しました。峠の道を通る以前は、崖の波打ち際の道を通っていました。押し寄せる荒波にさらわれる旅人も多く、「親知らず子知らず」と人々に呼ばれた危険な道だったそうです。駿河湾越しに見える富士の絶景と、峠の急な勾配の対比が美しい。

  • 歌川広重「東海道五拾三次之内 舞坂 今切真景」天保4-5年(1833-34)<br />その昔、浜名湖は遠州灘とは砂州で隔てられた湖だったが、室町時代の大地震によって、浜名湖と海を隔てていた砂州が決壊し、海につながる汽水湖となりました。この砂州が決壊した部分を「今切れた」という意味で「今切」と呼ばれるようになり、今切の渡しと呼ばれた渡し船が行き交うようになりました。画面手前の並んだ杭は波除杭で遠州灘の荒波から渡し船を守るために幕府が築いたものです。

    歌川広重「東海道五拾三次之内 舞坂 今切真景」天保4-5年(1833-34)
    その昔、浜名湖は遠州灘とは砂州で隔てられた湖だったが、室町時代の大地震によって、浜名湖と海を隔てていた砂州が決壊し、海につながる汽水湖となりました。この砂州が決壊した部分を「今切れた」という意味で「今切」と呼ばれるようになり、今切の渡しと呼ばれた渡し船が行き交うようになりました。画面手前の並んだ杭は波除杭で遠州灘の荒波から渡し船を守るために幕府が築いたものです。

  • 作者不詳「武蔵野図屏風」江戸時代前期(17世紀)<br />武蔵野図は、近世初期のやまと絵系諸画派に好まれた構図で、一般に風情あふれる武蔵野の原野を描いたもの。武蔵野とは江戸(東京)の西部に広がる、関東平野の一部であり、古く「万葉集」や「伊勢物語」にもその名がみえ、俗謡に「武藏野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ」とあります。一面を無数の秋草で埋めつくし、左隻に雲上の富士を、右隻に草の間に沈む月を配す。銀の顔料で描かれた月は、経年変化で黒く変色しています。

    作者不詳「武蔵野図屏風」江戸時代前期(17世紀)
    武蔵野図は、近世初期のやまと絵系諸画派に好まれた構図で、一般に風情あふれる武蔵野の原野を描いたもの。武蔵野とは江戸(東京)の西部に広がる、関東平野の一部であり、古く「万葉集」や「伊勢物語」にもその名がみえ、俗謡に「武藏野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ」とあります。一面を無数の秋草で埋めつくし、左隻に雲上の富士を、右隻に草の間に沈む月を配す。銀の顔料で描かれた月は、経年変化で黒く変色しています。

    東京富士美術館 美術館・博物館

この旅行記のタグ

関連タグ

82いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (1)

開く

閉じる

  • ねもさん 2020/11/16 08:38:20
    お久しぶりです
    +mo2さん いつもご投票ありがとうございます。
    連れられて美術館に行った私のいい加減な旅行記とは正反対の、広重の由井が勉強になります。
    薩埵峠は何度も訪ねましたが、今回初めて広重の浮世絵もしっかり観ました。江戸時代は、まさに難所だったのでしょうね。

+mo2さんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP