2025/10/04 - 2025/10/04
94位(同エリア2027件中)
+mo2さん
東京富士美術館のコレクション展「ヨーロッパ絵画 美の400年」が10月4日から始まったので、開幕日に行ってきました。こちらは、常設展「西洋絵画 ルネサンスから20世紀まで」の(2)です。
※作品の解説はHPを参照しています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
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ジャン=マルク・ナティエ「ジョフラン夫人」1738年
モデルのジョフラン夫人(39歳)は、18世紀パリ社交界の著名な人物で、文学や芸術に造詣が深く、彼女が主宰するサロンには常に著名な哲学者や文学者、画家、彫刻家らが招かれていたそうです。
この肖像画で、ナティエはジョフラン夫人を非常に繊細なタッチで描いています。彼女の理知的な顔立ち、白絹のローブとバラ色の外套、左手下の書物などにより、画面全体に際だった気品と知性が漂っています。 -
ルイ・ロラン・トランケス「夜会の後で」1774年
真ん中で楽器を奏でる女性は鮮やかな水色の「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」を身にまとい、イギリス趣味の影響で流行ったとされる花飾りのついた小さな帽子を被っています。男性はイギリスのフロックコートを模した「フラック」を着こなし、当時、髪粉が落ちないよう脇の下に挟むことが主流となった三角帽を抱えています。また「クラバット」と呼ばれるネクタイ状のスカーフや、音をさせながらベルトに吊したシャトレーン(帯飾り鎖)、ステッキといった男性の流行りのファッションアイテムをそつなく身につけています。衣装の明るい色彩や艶やかな質感の表現の見事さが目を引きますが、婦人たちはややうつろな表情をしており、夜会の後のくつろいだ雰囲気が本作の主要なテーマとなっています。 -
フランソワ=アンリ・ミュラール「貴婦人の肖像」1810年頃
若くて魅力的な女が椅子に腰を下ろし、少し頭をかしげて、物憂げな、もの問いたげな表情をみせます。室内には家具や装飾はなく、青灰色の無地の背景がモデルを引き立てています。モデルが着る衣装は、薄手の白いコットンを素材としたハイウエストの「シュミーズ・ドレス」で、帝政期に流行ったものです。肩には防寒用として重宝されたショールを羽織り、さらに「メディチ風」と呼ばれる飾り襟が清楚な顔立ちを引き立てています。ドレスの袖口の孔雀の羽の眼のような刺繍も特徴的で、こうした衣装は1810年代のモードを象徴しています。珊瑚を使った髪飾りやネックレスも着こなしのアクセントとなっています。 -
アントワーヌ=フランソワ・カレ「プロヴァンス伯爵」1786年
本作に付属した資料によれば、この作品はアントワーヌ=フランソワ・カレが聖霊騎士団長の服を着た国王ルイ16世を描いた肖像画ということになります。同資料によるとカンヴァスの裏には、今は裏打ちされているために読めませんが、「カレ、1786」と署名と年記があるとされます。描かれた人物は、はたして資料の言うようにルイ16世なのでしょうか。 ジュヌヴィエーヴ・ラカンブルは『ダヴィッドからドラクロワ』展のカタログで、カレの正装の《ルイ16世》(クレルモン=フェラン、バルゴワン美術館[20世紀末に絵画コレクションは新設のロジェ=キヨ美術館に移行])に詳細な解説を施しました。カレは1778年に国王の肖像画の最初の注文を受けて翌年に完成させ、陸軍省に設置されました。さらに外務大臣のヴェルジェンヌ伯爵から国王の肖像画の制作を依頼されましたが、それは外国の宮廷などに贈られる多数の模写作品の原画になったといいます。当時は美術アカデミー会員の監督のもとに、王室の人々の質の高い肖像画を複製する任務を負った肖像画工房(キャビネ・ド・ロワ)が存在していました。さらに、1789年のサロンにはカレが《国王の肖像》と《王弟の肖像》を出品したことがリヴレに残されており、こうしたカレの多数の国王像の来歴を明らかにすることの難しさを指摘しつつ、クレルモン=フェランの作品がサロンの出品作ではないかと推測しています。 2007年の『公的肖像、私的肖像』展のカタログでは、セバスチアン・アラールはジュヌヴィエーヴ・ラカンブルを受け継ぎつつ、カレの数多い《ルイ16世》の中で作品の高い質から、クレルモン=フェランの作品をカレの自筆に近い作品としました。アラールはイアサント・リゴーの《ルイ14世の肖像》(1701年、ルーヴル美術館)が、人であるばかりでなく不滅の権力の化身としての国王の肖像画の祖型となり、後世の国王像を規制したといいます。たしかに、カレの国王の肖像は、王笏や王冠や正義の手などのレガリアとともに、権力を象徴する大きな円柱の前に国王を描くという定法を一歩も踏み越してはいません。 ところで、2016年にヴェルサイユ美術館はカレの《正装のルイ16世》を購入しており、これは1779年の作で陸軍省のために描かれた作品の縮小版とされています。それはともかくとして、それらの顔貌はすべて共通し、さらにカレより一世代年長のジョゼフ=シフレ・デュプレシ(Joseph-Siffred Duplessis, 1725-1802)はルイ16世治世期のもっとも重要な肖像画家ですが、1776年に《正装のルイ16世》を描き翌年のサロンに展示しました。原作の所在は不明ですが、画家自身によるレプリカがヴェルサイユ宮殿美術館に残り、顔立ちはカレの肖像画と共通します。だが、本作はそれらとはまったく異なった相貌を映しだします。 ところで『À travers champs』によれば、グルノーブル美術館からヴィジルVizilleのフランス革命博物館に寄託されたカレの肖像画があります。1788年に描いたとされるこの作品のモデルについては、ルイ16世なのか、それとも王弟で後にルイ18世となるプロヴァンス伯爵(1755-1824)か、議論があったといいます。フランス革命期の美術やダヴィッドの研究で知られる故フィリップ・ボルデス教授は、早くからプロヴァンス伯爵の肖像としており、今日はそれが通説となっているようです。本作は、まさにこの肖像画の相貌と瓜二つで、デュプレシが描いた《プロヴァンス伯爵》の顔立ちにも通じています。さらに、アデライード・ラビーユ=ギアール(Adélaïde Labille-Guiard, 1749-1803)の《ルイ16世の弟殿下による騎士章の授与》(パリ、レジオン・ドヌール勲章博物館)は、王弟プロヴァンス伯爵が聖ラザロ騎士団の騎士章を授与する場面で、女性画家が革命前に描いた大作のエスキースです。革命後に焼却されて残っていない原作を知るための数少ない資料です。興味深いのはこの作品が、長らくカレが描いた、プロヴァンス伯爵が聖霊騎士団騎士の宣誓を受領する場面と考えられていたことです。この作品の豊かな頬の下膨れをした伯爵の顔立ちは、本作のモデルと共通します。この作品のモデルはプロヴァンス伯爵とするのが妥当でしょう。 問題は、プロヴァンス伯爵の肖像画にレガリアが描きこまれている点です。ルイ16世には王太子ルイ=ジョゼフ・ド・フランス(1781-1789)がいました。後継者の像というのはあたるまい。たとえば、フランソワ=ユベール・ドルエ(François-Hubert Drouais, 1727-1775)が1774年頃に描いたとされる《聖霊騎士団章をつけたプロヴァンス伯爵》(ヴェルサイユ宮殿美術館)には、レガリアは描かれていません。 革命直前の政情不安の時代、王族の一員としての表象の意味が込められたか。国王の肖像のように、レガリアを手にしていないことに意味があるのか、ヴィジルの作品と本作の関係など、なお資料の調査研究がこれらの問題を解決するためには必要です。 -
ロベール・ルフェーヴル「ジョゼフ・ボナパルトの肖像」1811年頃
肖像画の人物はナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルト。ジョゼフは温厚で善良な紳士として、兄弟のなかでもナポレオンが最も信頼した人物であり、その性格はこの絵の人物の表情にもうかがえます。本作を描いたのは、のちにルイ18世の首席画家として活躍するロベール・ルフェーヴルです。皇帝に即位したナポレオンは、征服したヨーロッパ各国を支配する手段として、血縁関係を利用しました。兄ジョゼフをナポリとシチリア王、のちにスペイン王に。また、弟ルイをオランダ王、末弟ジェロームをウェストファリア王に据えました。さらには妹ポーリーヌをはじめとする、三人の妹たちをヨーロッパ各国の王侯貴族に嫁がせました。この絵が描かれたときジョゼフはスペイン王に即位していました。ジョゼフのまとう衣装は金の刺繍が施された儀式用の正装であり、彼が羽織ったコートには、ナポレオンが帝国の象徴として採用した蜜蜂の刺繍が施されています。またその胸元にはナポレオンが創設したレジオン・ドヌール勲章が見えます。小道具として配置された王錫や王冠、ナポレオンのために指物師ジャコブが創りあげたモデルのラインを踏襲した玉座が、肖像画の人物が王位にあることを物語っています。 -
フランソワ・ジェラールの工房「ナポレオン1世」19世紀初頭
月桂冠を戴き、白テンの毛皮を裏地とした緋色のガウンを身にまとったナポレオン1世の肖像です。理知的な表情はやや冷ややかな感じがしますが、非常に若々しく描かれており、まるで青年を見るようです。流暢な面貌の表現に加えて、柔らかでボリュームのある豪華な白テンの毛皮の質感が見事に表現され、この肖像を見応えのあるものにしています。本作品はその面貌の表現などの様式的特徴から、ダヴィッド派を代表する画家ジェラールの工房で制作されたものと考えられます。 -
マリー・フランソワーズ・コンスタンス・マイユール・ラマルチニエール「ローマ王」1811年頃
この愛くるしさに満ちた肖像画は、ナポレオン2世、つまりナポレオンがフランス帝国の第二の首都にしようと考えたローマの王の誕生間もない姿を表します。小品ながらコンスタンス・マイユールの表現を充分に嘆賞できる作品といえます。楕円形の画面が、親密で愛くるしさの描写には効果的です。 ナポレオンは子どもが生まれないという理由で皇后ジョゼフィーヌとの結婚を無効にし、新たな后としてオーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世)の長女マリー=ルイーズと1810年3月に結婚しました。翌年3月にチュイルリー宮で難産の末に男児が生まれ、ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトと名付けられました。男児ならローマ王の称号を与えようと考えていたナポレオンは、1813年に戴冠式を計画しましたが、教皇ピウス7世が出席を拒んだために実現しませんでした。ナポレオンの退位に伴い母子はフランツ1世を頼ってウィーンに行き、マリー=ルイーズはパルマ公国の一代限りの統治権を与えられてパルマ女公として父のもとを離れましたが、幼子は祖父の下にとどめられました。 ナポレオンが歓喜した長男の誕生は、画家たちが肖像画に取り組む格好の機会になりました。ローマ王と称号が与えられたことで、ローマ神話を引用した多くの作品が生まれました。マイユールの師ピエール=ポール・プリュードンは、ローマ建国の伝説の主人公ロムルスとレムスが狼の乳を飲む場面の上に新生児を描いたデッサンを残しました。かれの《眠るローマ王、1811年》は、レア・シルウィアが軍神マルスとの子ロムルスとレムスを川に流す場面を想起させる構成になっています。幼児を守るように咲く皇帝の花、別名ヨウラクユリの2つの花はフランスとオーストリアの末裔を、ウェヌスの聖花ミルトは母を、月桂樹は父ナポレオンを、枝にかかる青の布と白のシーツと赤の覆い布はフランス国旗をなど、さまざまな象徴が散りばめられています。さらに左から射す光はあたかも天から射す光のようで、ルネサンス期に描かれた眠る幼いキリスト像を想起させます。ここには聖なるイメージも密かに重ねられているのです。 フランソワ・ジェラールの《ローマ王》は、楕円形の画面に観者の方を向く幼子を描きます。マリー=ルイーズがひそかに注文して、モスクワの戦いに出向いたナポレオンに送ったという肖像画です。皇帝は、子どもながら思慮深げな表情、右手に持つおもちゃのガラガラは笏に似て、左手は権力を象徴する地球儀の上に置かれていること、レジオン・ドヌール最高勲章を胸にかけていることなどをあげて、描かれているのは皇位継承者だと述べて、作者を賞讃しました。原作は失われ、フォンテーヌブロー宮殿にレプリカが所蔵されています。 これらに対して、マイユールの半身の肖像は象徴物を描かず幼い子どもの純真なあどけなさを表現します。ふっくらとした頬、語りだしそうな柔らかな唇、穏やかにカールする髪の毛、聡明さを暗示する大きな双眸の輝き、これらが繊細な色彩と巧みな明暗法で表されます。ただひとつ、雲の中に浮かんでいるような設定が、至高の存在を暗示するだけです。 安易な想像は慎まねばなりませんが、ここにはマイユールのひそかな願望が隠されているようにも思われます。彼女は愛人の子を産むこともなく、悲劇的な自殺を遂げました。 この小品はプリュードンが死ぬまで手元に置いていました。かれもまたこの作品に格別の思いをもっていたことの証でしょう。 -
フランソワ=ジョゼフ・キンソンに帰属「ネイ元帥」19世紀前半
精悍で精力的な表情の人物はミシェル・ネイで、皇帝に即位したナポレオンが1804年に任命した18人の帝国元帥のひとりです。ジョアキム・ミュラとともに、有能で最もよく知られた軍人です。 ネイはロレーヌ地方のサールルイ(現在はドイツのザーラント州)の樽屋の次男に生まれました。フランス語とドイツ語を話し、フルートなどの楽器を演奏する一面もありました。はじめは公証人を目指しましたが性に合わなかったようで、1787年に両親の反対を押し切ってメス連隊の軽騎兵になりました。フランス革命後の1792年に、クレベール将軍によってライン軍の中尉に昇進しさらに副旅団長になりました。「疲れ知らず」「トマトの頭」「赤ら顔」という仲間からのあだ名が、人となりを物語ります。 ナポレオン皇帝の下で、バイエルン地方のエルシンゲンで1805年にオーストリア軍と戦って勝利をおさめ、エルシンゲン公爵の称号を得ました。さらにイエナ、アイラウ、フリートラントと相次いで戦闘に参加し、1812年のロシア遠征では首に銃弾を受けて負傷しましたが、退却するフランス軍の後衛司令官になりました。その功あって、モスクワ大公の称号が与えられました。エルバ島を脱出したナポレオンに加わりワーテルローの戦いにも参加しましたが、敗戦後に王党派によって軍法会議で有罪とされ、1815年12月、パリのオプセルヴァトワール広場で自身のかけ声で銃殺刑に処せられました。 さて、ナポレオンはチュイルリー宮殿の「元帥の間」のために、元帥たちの大理石の胸像と肖像画を注文しなした。ネイ元帥の胸像は、当時の最も優れた彫刻家のひとりジャン=アントワーヌ・ウードンが1804年に制作しましたが原作は失われ、1835年にヴェルサイユの歴史美術館に設置するために注文された石膏像が残ります。礼服を身に着けレジオン・ドヌール勲章と綬をつけていますが、王政復古期に授与されたサン=ルイ勲章も胸を飾っていることから、ウードンの原作を改作したことがわかります。鋭い眼差しときりりと引き締まった口もとは、ネイ元帥の勇敢で一途な内面を浮き彫りにし、ネイの肖像の最高傑作のひとつという評価を裏切りません。一方、ネイ将軍の肖像画はナポレオンの戦役をはじめ歴史画や肖像画を手がけたシャルル・メニエに任されました。重厚なカーテンの前に礼服をまとった元帥をネ家の紋章(?)とともに表す公的肖像画の形式を踏襲しながら、背景に戦場を描き軍人としての活躍を暗示します。衣装の刺繍などの精緻な描写はメニエの技術の証ですが、ウードンの作品に見られる元帥の内面への鋭い洞察は見られません。 さて本作では、この顔にはどんな戦いにもしり込みをしない、ナポレオンが「勇者の中の勇者」と呼んだ軍人の漲る精力が表現されています。フランソワ・ジェラールの《ネイ元帥》と顔立ちは共通しますが、ジェラールの上品な優美さは軍人の力強い活力に席を譲っています。礼服の金の刺繍の精緻な表現も見事というほかはありません。気になるのは、顔の部分と首から下の部分が継ぎ合わされたようにぎこちないことです。肖像画によくある顔と衣服が合成されたのでしょうか。さらに生色ある顔の描写は、《ジェローム・ボナパルト》のような彫像のように冷ややかなキンソンの肖像画には見られません。魅力的なこの肖像画については、さらに調査が必要でしょう。 -
エミール=ジャン=オラース・ヴェルネ「ミュラ元帥」1935-36年頃
1804年5月8日に皇帝に即位したナポレオン・ボナパルトは、12月2日にパリのノートル=ダム大聖堂で壮麗な戴冠式を挙げました。革命後の混沌としたフランス社会で、経済の活気を取り戻し、治安を回復した立役者は、新たな栄光と没落の生涯を始めることになります。 「私の権力は私の栄光によるものであり、私の栄光は私の勝利によるものです。栄光とあらたな勝利を権力の基盤にしないならば、私の権力は衰弱するであろう」と、秘書のブリエンヌは皇帝の言葉を記しています。戦争は続けなくてはならないのです。ひとつは皇帝が権力を獲得維持するために、もうひとつは財政上の理由から。 フランスは1798年の法制定によって義務兵法制を導入し、この徴兵制によって兵士の供給は進みましたが、一方で、50万人ともいわれる大兵力を維持するための経費を賄うため、戦争に勝って賠償金を獲得し、軍を占領地の負担でそこに駐留させる必要があったのです。 戴冠1周年記念の1805年12月2日、アウステルリッツの会戦でオーストリアとロシアの連合軍に勝利したナポレオンの帝国支配拡大戦略に対抗して、イギリスとプロイセンは1806年に第四次対仏大同盟を結成しました。プロイセンを封じ込めるために遠征計画を進めていたナポレオンは、同年10月14日にドイツ中部東寄りのイエナと、そのわずか北に位置するアウエルシュタットで、プロイセン軍と戦って大勝利を収めました。 オラース・ヴェルネはルイ・フィリップがヴェルサイユ宮殿に設けた歴史美術館のために、帝政時代の戦争と当時のアルジェリア戦役の巨大な画面の絵画の注文を受けました。叙事詩的な大作は、戦争画の機構を踏んだもので、絵画的魅力に欠ける恨みがあります。《近衛兵を閲兵するナポレオン》は、ヴェルネがイエナの戦いをもとに、1836年完成させた縦が463センチメートル、横が543センチメートルという大作です。はるか遠方には硝煙があがる広大な戦場に、精鋭の近衛兵の一隊を馬上から閲兵するナポレオンの凛々しい姿があらわれます。背中を向けたミュラ元帥は奥に向かって走り出しそうな姿勢で、身体を捩るようにして兵士たちを見ます。静的な皇帝に対して、画面に動きを呼び入れる表現は、ヴェルネと親交があったジェリコーを思い出させます。公的な記録画的な画面で、唯一生気を感じる造型です。 ジョアシャン・ミュラはきわめて優秀な騎兵指揮官であり、エジプト遠征中の1799年のアブキールの戦いで評価を高めました。ナポレオンの末妹カロリーヌ・ボナパルト(1782-1839)は美男子のミュラに一目ぼれし、1800年に18歳で結婚しています。1804年に元帥、1808年にはナポリ王になりました。 本作は、イエナの戦いのミュラ元帥の準備作品でしょうか。軍服のデザインを除けばポーズなどほとんど完成作と変わりありません。それ以上に、鋭い眼光の表情の描写や二角帽や軍服の飾りの表現などからすれば、公的戦争画より魅力的とさえいえます。 -
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル「ユピテルとテティス」1807-25年頃
この絵は、いうまでもなくフランスのエクス=アン=プロヴァンスにあるグラネ美術館の大作(327×260cm)と同題、同一構図の小品です。グラネ美術館の作品は、イタリアで研鑽を積んでいた若き日のアングルが、ローマのフランス・アカデミーからパリへ送った最後の野心作で、彼の青春の想像力の振幅を物語る画面として知られます。それは男性的なるものへの畏敬──崇高な男性神、威厳のあるポーズ、力強い身体の大きさ──と、女性的なるものへの崇拝──豊満な女性像、官能的なポーズ、柔らかな裸婦の白い肌──という両極に対峙する要素を一つの主題の中で結合させることでした。この作品を非常に高く評価していたアングルは、1811年に署名をした後、国家によって購入される1834年までの間、アトリエに保存していたといいます。 さて本作は、グラネ美術館の大作と比べてかなり小さな画面であり、アングル作品の文献にも触れられていないので、大作の「縮小ヴァージョン」と考えるか、大作のための「習作」と考えるか、大作の制作後の「記録」と考えるか、それとも弟子や工房による「模写」と考えるか、意見の分かれるところでしょう。いずれにせよ、1806年12月25日付の義父フォレスティエ氏に宛てた手紙の中で「私はテティスがユピテルの方に近寄ってユピテルの膝と顎を抱擁するという構図は素晴らしいテーマであり、私の仕事に値するものだと考えています。(中略)私は頭の中でほぼ構想を練り、思い描いています」と書いているように、アングルは1806年頃から本図の制作を具体的に準備していたようです。 ユピテルはローマ神話の主神(ギリシア神話ではゼウス)で、神々と人間たちの最高支配者。天空を司り、有鬚で、聖鳥の鷲を連れています。慈悲深く、しかも好色です。テティスは海の精ネレイスで、トロイア戦争のギリシア側の英雄アキレウスの母。『イリアス』によれば、トロイアの包囲戦のとき、アキレウスはギリシア軍の総帥アガメムノンとの争いに関することで、ある請願をしてもらうため、母をユピテルのもとに行かせました。テティスは地上で戦っている息子を勝たせてほしいと懇願するのです。この作品では、王笏を手にしたユピテルが威厳をもって、雲に聳えるオリュンポス山上の玉座についています。その前でテティスが跪き、嘆願するようにその左手を差し上げ、指で神の鬚を愛撫しています。更によく見ると、右手、右足の先、そして乳房もユピテルの体に触れているようです。右側の傍らにはユピテルの鷲が控え、反対の左手には妻のユノ(ギリシア神話ではヘラ)が顔を覗かせ、両者ともテティスの方をじっと見つめています。ここに正面向きの座像として描かれた「男性的なるもの」の象徴のような人物像は、アングルが1806年に制作した《皇帝の玉座のナポレオン1世》(パリ軍事博物館蔵)を想起させます。事実、ユピテルをナポレオンに、テティスをマリー=ルイーズに、ユノをジョゼフィーヌに譬えることが可能です。ともあれ、ここに後のアングル芸術を語る際の二つの重要なテーマ──「古典芸術の偉大さの再創造」と「官能的なまでに純化された裸婦」──の萌芽を見い出すことができるでしょう。 -
イポリト=ポール・ドラローシュと工房「フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日」1840年代
《フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日》は、ポール・ドラローシュがナポレオンを題材に描いた二番目の作品になります。第一作の《書斎のナポレオン》が、イギリスの老貴族婦人サンドウィッチ伯爵夫人からの注文制作であったように、この作品もライプツィヒでフランスの絹製品を扱う商人であったアドルフ・ハインリヒ・シュレターから依頼されました。シュレターの注文の背景は未詳ですが、かれは美術のコレクターでもあって、80点の絵画と17点の彫刻をライプツィヒ市に遺贈し、この作品は現在ライプツィヒ造型美術館に収蔵されています。つまり原作はいまライプツィヒにあります。原作に基づいてドラローシュがすこし縮小して模写した作品がパリの軍事美術館にあり、本作はナポレオン人気にあやかってかれと工房が手掛けた模写のひとつといえます。パリの軍事美術館の作品は縦横がそれぞれ181センチメートルと137センチメートルであるから、本作はその半分より小さいということになりますが、出来栄えはなかなかに見事です。 サンドウィッチ伯爵夫人の注文した《書斎のナポレオン》は、原作の所在地はいまわかりませんが、それに基づくアリスチド・ルイの版画は、ロンドンの大英博物館に残ります。それを見ると、ダヴィッドがイギリスのナポレオン讃美者ハミルトン卿の注文を1811年に受けて翌年に完成させた《チュイルリー宮殿の書斎のナポレオン》(1954年にサミュエル・クレスが購入しワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵)を手本にしていることはまちがいありません。短くなったろうそくの下、朝の4時過ぎまで仕事をする、近衛騎兵隊の制服をまとって勲章を付けた、やや身体を画面左手に向けた精悍な姿が描写されます。1812年末、ナポレオンはロシア遠征に失敗して凋落が始まりますが、その前の覇気に満ちた皇帝像といえるでしょう。伯爵夫人は縁故から制服やサーベルや煙草入れなど、ナポレオンが着用したものを借りて、画家を助けました。全身像と半身像、舞台装置など異動する点があるのは確かですが、繰り返しになりますが、ドラローシュがダヴィッドの作品を参照したことはまちがいありません。 さて、《フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日》は、同盟軍がパリに入場した3月31日、フォンテーヌブロー宮殿の小アパルトマンに逃れてきた皇帝を描きます。憔悴し怒っているようにも見えるのは、かれの置かれた状況を反映しています。土埃が付着したままの靴、床に投げ出された帽子、ソファの上に無造作に置かれた書類カバン、円卓の上のサーベル、これらが皇帝の表情や仕草とともに苦境を明示します。肥満した老齢の皇帝は、かつての精悍な風貌からは程遠い。 シュレターがなぜ苦境の皇帝像を注文したかはわかりません。パリの軍事美術館のカタログによれば、作品の制作年は1840年である。しかるに1999年から2000年にナントとモンペリエで行われた『ポール・ドラローシュ、歴史の中の画家』展では、ケント大学のシュテファン・バンはシェルターへの支払いの記録が1845年であることを手掛かりのひとつとして、1845年の制作としています。支払いの期日と制作年を同一と考えることは問題があるが、画家は栄光の英雄ではなく不幸な英雄、殉教のイメージの創造に腐心したとします。妻がこの年の12月に亡くなるなど、妻の容態などの身辺の事情もその判定に与っているようです。ただ、画家は制作上の挫折などはこの時期は無縁だったように感じられます。 この作品をロダンの《考える人》の祖型と指摘したドイツの美術史家ヴェルナー・ホフマンの見解があることを加えておきたい。造型の特徴とともに、絵画の将来に心を砕いたドラローシュの心情を、それはくみ取っての卓見といえるでしょう。 この工房作は、明暗のコントラストなど原作より強調され、皇帝の置かれた苦境をより強烈に表現します。ドラローシュとアカデミスムの画家たちの確とした技量を証しする作品といえるでしょう。 -
肖像画が並ぶ部屋
東京富士美術館 美術館・博物館
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ギヨーム・ギヨン・ルティエール「パリの人々にルイ・フィリップを紹介するラ・ファイエット」1831年頃
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テオドール・ジェリコー「突撃するナポレオン軍の将軍」1810年頃
幼い頃から馬と絵画を熱烈に愛していたジェリコーは、1808年にパリのリセ・アンペリアルを卒業すると、ナポレオン軍の士官たちや優美な馬の姿を描いて当時人気を得ていた画家カルル・ヴェルネのもとに入門しました。さらにその2年後の1810年には、ピエール=ナルシス・ゲランのアトリエに入り、本格的な修業を積むようになります。この門下からは、ジェリコーの他にもドラクロワ、レオン・コニエなどロマン主義の重要な画家が輩出しましたが、ジェリコーは師の厳格な新古典主義の規律になじまず、このアトリエを去って、まもなくルーヴル美術館で過去のさまざまな巨匠の作品を模写することに専念するようになります。当時ナポレオン美術館と呼ばれていたルーヴルは、皇帝がヨーロッパ各地から集めた戦利品のおかげで名画の宝庫となっていたこともあり、先達の遺した偉大な作品を模写することが、若きジェリコーの最高の実践教育となったのです。こうした修業の成果は、1812年、《突撃する近衛猟騎兵士官》(ルーヴル美術館蔵)をもって、弱冠21歳の若さでサロンに入選、金賞を獲得するという華々しいデビューとなって結実しました。ジェリコーは、この大成功の後もさらに勉強に打ち込みました。ヴェルサイユの帝室厩舎に通い、飽くことなき入念な観察力で馬のさまざまな姿態を描きとどめ、また軍隊のテーマによる素描で彼のスケッチブックを埋め尽くしました。このような若き日の濃密な修練の賜物というべきか、ジェリコーはわずか33歳という短い生涯ではあるが、ロマン主義の精髄を体現した巨匠として名を残すことができたといえます。本作は、彼がこうした画家としての出発点に位置していた20歳前後の時期に描かれた習作風の作品の一つと見ることができます。ジェリコーの作品には、完成された大作というのは少なく、むしろ同じ主題をさまざまに追求した小画面の習作風のものが多いが、本作もおそらく人馬一体の勇壮な騎馬像をテーマとして、ある構想のもとに練られた一表現なのでしょう。激烈な感情、緊張感あふれる動勢を迫真的に描こうとする態度は、まさにロマン主義特有の表現です。ジェリコーがナポレオン軍の将軍をこのように描いていた頃、当のナポレオンはワグラムの戦勝、ジョゼフィーヌとの離婚、マリー=ルイーズとの結婚、ロシア遠征、モスクワ撤退というように、公私ともにめまぐるしい戦いを重ねていました。一方、美術の分野においては、アングル《ヴァルパンソンの浴女》、ダヴィッド《鷲の軍旗の授与》、グロ《アイラウの戦場のナポレオン》、ジロデ《アタラの埋葬》、ゴヤ《戦争の惨禍》といったように、新古典派とロマン派の両者が互いにその妍を競っていました。時代は間違いなく、怒涛のようにロマン主義の時代へと突き進んでいきました。ジェリコーに続くロマン主義の旗手ドラクロワが《キオス島の虐殺》を出品して、サロンでロマン主義が勝利を収めるのは、これから約15年後(1824年)のことです。 -
ウジェーヌ・ドラクロワ「書斎のドン・キホーテ」1824年
ロマン主義の巨匠ドラクロワは、バイロンやユゴーなど同時代の文学や、ダンテ、シェークスピアなどのヨーロッパ各国の国民文学をとりわけ好んでいました。彼の溢れるような情熱は、それらに表現された激しい感情や理性、狂気が交錯する世界に感応したのです。 本作の主題は、17世紀スペインの作家セルバンテスが書いた小説「ドン・キホーテ」の一場面。物語の主人公はラ・マンチャ県のある村の郷士。騎士物語を読み耽るあまり、ついには正気をなくして、自らをドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗り、隣村の百姓娘を姫君と思い込み、武勲を立てるために遍歴の騎士となって冒険に出るという物語です。 ここでは、本を広げた机の前で、椅子に座って夢想にふける人物がドン・キホーテです。その後ろには、彼の身を案じて書物を焼いてしまう村の司祭や床屋のニコラス親方、家政婦たちが困惑した姿で描かれています。 実際の「ドン・キホーテ」にはこのような場面は出てきませんが、騎士物語に影響されたドン・キホーテが旅に出てやがて自宅に担ぎ込まれるという、第1章から6章までの物語の冒頭部分を要約した形で描いたものです。 床に散乱した書物や騎士の武具らしき道具。後ろの人物たちに背を向けた彼の視線は宙をさまよい、彼らを気にする様子もありません。そして彼の不自然な左手の動きは、まるで彼の理性を彼から切り離そうとしているようです。ほぼ正方形の小さな画面に、正気を失ったドン・キホーテの内面が見事に描き込まれています。 -
ウジェーヌ・ドラクロワ「オランのアラブ人」1834年
1835年のサロン出品作。1832年前半の北アフリカ旅行は、彼の芸術形成にとって貴重な体験でした。本作の構図はこの旅行中に描いた画帖のスケッチから採られたことが指摘されています。ドラクロワはタンジールから地中海を東へと航行し、オラン、アルジェと寄港し、その土地の風俗を描いたのでしょう。オランは大きな港町で、カスバ(城砦)やモスクなど、異国情緒に富みます。本作と同一構図の鉛筆による習作がウィーンのアルベルティーナ版画素描館にあり、エッチングの版画(左右逆の絵柄)も知られています。 -
アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズ「フローラ」1863年
カリエ=べルーズは、第二帝政期のフランスを中心に活躍し、アトリエには多くの職人を抱え、当時大量に建築された建造物の屋内外の装飾を担いました。中でも、室内装飾の一つとして重宝されたのが小さな彫像や胸像の類でした。彼はナポレオン3世やオノレ・ドーミエをはじめ著名な政治家や芸術家、作家といった特定の人物から、ディアナなどの象徴的な人物にいたるまで、多種多様なモデルの胸像を手がけています。本作も室内の装飾品として注文・制作されたものと推されます。女性は髪から肩にかけ、多数のバラの花を飾り、花や春、また豊穣の女神として知られる「フローラ」を思わせます。顔は斜め前方を向き、女性の生き生きとした視線からは作者の確かな技量が窺えます。また作品右側の肩口に「A.CARRIER 1863」と刻まれていることから、本作が1863年作だと分かります。アメリカ・マサチューセッツ州のウィリアムズ大学美術館には同様の主題で1865年頃の制作とされる大理石像が収蔵されており、本作はそのエスキースである可能性も考えられます。 -
エティエンヌ=モーリス・ファルコネ「アモール」18世紀
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バルビゾン派や印象派などの作品が並ぶ部屋
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ジョセフ・マラード・ウィリアム・ターナー「嵐の近づく海」1803-04年頃
ターナーは幼児期からテムズ川とその周辺の風景に愛着をもち、刻々と変化する海や河の景観は、雄大な自然のリズムの美を少年の心に植え付けました。
初期の作品は、綿密な観察に基づくリアリズムの技法に、明るい光や大気の表現法などクロード・ロランらの古典的手法を取り入れたもので、本作は小品ながらも、この時期の画家の力量を如実に示しています。
左から右へ覆い始めた暗雲、強風で横倒しになる船、急いで帆を下げようとする人の動き、強大な力を今にも爆発させようとする波のうねりによって、差し迫った嵐の緊迫感が見事に描出されています。
この時期、ターナーは、人間のささやかな努力を圧倒するような強大な自然の力をロマンティックな手法で描く海景画を何点か残しています。 -
エドモンド・ジョン・ニーマン「ロワール河での釣人」1869年
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ベンジャミン・ウィリアムズ・リーダー「小川の夕べ」1887年
イギリスの19世紀アカデミズムの成果ともいえる本作は、自然に対する作者の透徹した眼と描写技術の確かさを窺わせます。静寂な秋の夕暮れどきの、仄かな残照の暖かさ、小川の流れの透明な冷たさ、大気の緩やかな動き、淡い時間の移ろいゆくさまを、自然主義に根ざした画風で、実在感をもって描出しています。他にヴィクトリア朝風景画の特色をよく示している代表作として1881年のロイヤル・アカデミーに出品した《2月のフィル・ダイク》(バーミンガム市立美術館蔵)が知られています。 -
シャルル=フランソワ・ドービニー「川辺の風景」1874年
画面に横たわる川の水面。遠方には木立の緑と青い空。釣り人が一人、川辺に佇む。十数羽のあひるの群れが、作品の平和で穏やかな印象と調和しています。画家の視線は、ローアングルで、地面に近く低い安定した視点から風景を捉えています。まさにドービニーの描く川の景色の典型です。1857年に小舟を買い、故郷に近い川のそばに移住した彼は、晩年にはフランス各地の川の景色を求めて旅行し、よく小舟の中から水面の風景を写し取ったりしていました。横長の低視点の画面は、そうした彼の趣向を反映しているといえます。 -
イチオシ
クロード・モネ「海辺の船」1881年
1880年代の初めにモネは、ある転機を迎えていました。1879年、妻を失い、翌80年にはサロン出品をめぐってドガと対立、印象派展への出品をとりやめました。本作が描かれた81年も参加を断っています。そうした時期にモネを引き寄せたのは、幼い頃から親しんだノルマンディーの海でした。本作はこの年の春、滞在したフェカンで描かれたもの。心の暗雲を吹き払うかのような陽光満ちわたる空と、岸に乗り上げた帆船の黒いシルエット。ノルマンディーの明るい空と海はモネの画興を誘い、翌年のプールヴィルの連作へと続いてゆきます。 -
クロード・モネ「プールヴィルの断崖」1882年
明るい太陽の光に照射された空、海、切り立った断崖。まばゆいばかりの光の乱舞に、刻々と変容する自然の諸相。移ろいゆく色彩の戯れを短いタッチの積み重ねの上に記録したこの作品は、モネの絵画制作の真髄を魅せます。 従来の固有色という色彩の観念を捨てて、自分の眼に見える通りの色をカンヴァスの上に置いてゆく方法は、印象派の画家たちによる全く新しい描き方でした。この年の夏、モネはこの海岸を集中的に描いています。 -
カミーユ・ピサロ「春、朝、曇り、エラニー」1900年
晩年のピサロの制作拠点となったのは、1884年から移り住んでいたエラニー=シュル=エプトの家で、彼は林檎の果樹園に続く庭の納屋を改造したアトリエで、1903年の死の年まで制作を続けました。エラニーはパリの北西郊外約70kmのところに位置し、傍を流れるエプト川を下流に約30kmほど下ると、モネが1883年以来住んで睡蓮を描いていたジヴェルニーがあります。 ピサロはエラニーの家を生活の中心に据えながらも、都会のパリにもたびたび足を運び、田園の生活と都市の生活を描き分けました。この頃の彼は、デュラン=リュエル画廊との専属契約によって定期的な個展の開催が約束されていましたし、また年齢の上でも、経済的な面でも、そして技術の点においても、安定した環境と要因に恵まれていたといえます。 1900年のピサロは、前年から引き続き4月までパリで制作をして、春から初夏にかけての5~6月にエラニーの自宅に戻って制作。夏の7~9月にはノルマンディー海岸の避暑地ベルヌヴァルを訪れ、秋の10~11月に再びエラニーに戻っています。 この年、エラニーで描かれた風景は春の絵が5点、秋の絵が4点ありますが、この中の春と秋の1点ずつが東京富士美術館に所蔵されています。 前述のように、本作が描かれた1900年の春(5~6月)は、エラニーの果樹園のアトリエで萌え出ずる春盛りの田園風景の制作にいそしみました。ピサロは5月7日付の手紙の中で、エラニーの樹木の開花についての情熱的な心情を吐露しています。この絵でピサロはエラニーの花咲く桃源郷を爽やかに屈託なく表現しました。春のいくぶん湿気を含んだ新緑の鮮やかさや満開の林檎の花のほのぼのとした美しさを、春特有の花曇りの日差しの中に捉えようとしたのでしょう。このようにピサロは、移り変わる自然の一瞬のヴィジョンをカンヴァスの上に連作として描きとどめました。同じ頃モネが、光によって変幻する色彩それ自体の変化に興味の主たる対象があったのに対して、ピサロは同じ場所のなかで視点を移動し、変化させることによって風景をさまざまな角度から切り取り、春夏秋冬の四季の変化、朝、昼、夕の一日の変化、晴れ、曇り、雨、雪の気象の変化を自在にあやつりながら、そのヴァラエティーを楽しんだのです。 -
イリヤ・レーピン「ウクライナの女」1880年頃
1881年3月、レーピンはサンクトペテルブルクで開催された第9回移動美術展覧会に、「夕べの宴」(国立トレチャコフ美術館所蔵)を出品しました。「夕べの宴」はウクライナの風習を題材にした作品で、若者たちが秋や冬の夜に小屋に集って楽しむ様子を描いています。本作はトルストイが高く評価した「夕べの宴」に登場する、画面の中央でダンスを踊る若い女性の習作と推測されます。 -
エドゥワール・マネ「散歩(ガンビー夫人)」1880-81年頃
1880年に健康を崩したマネは療養のためパリ郊外のベルヴュに家を借ります。そうしたマネのもとに友人たちが見舞いに訪れる中、彼は油絵に取り組み、人物、風景、静物などを約30点ほど描いています。 本作はこうした夏のベルヴュ滞在のあいだに制作された作品のひとつ。この絵はマネ没後の翌年に行われた競売で、マネ作品の収集家であったオペラ座のバリトン歌手ジャン=バティスト・フォールが購入し、以後、欧米の著名な収集家の手を経て、現在東京富士美術館の所蔵となっています。 この作品のモデルは見舞客の一人、ガンビー夫人といわれています。アドルフ・タバランの『マネとその作品』によれば、ガンビー夫人は、マネ家と親しい付き合いのあったルバン夫人の友人であるらしい。またマネの義妹にあたる画家ベルト・モリゾの親戚筋の女性ともいわれます。紫色の花があしらわれた黒い帽子を被り、髪は前髪を垂らした流行のスタイル。背景の緑の庭は、印象派に近い筆触を生かした描き方ですが、モデルの女性の服は、他の印象派の画家の絵には見られない「黒」で大胆に描かれています。しかもすけて見えるような薄い着色で、筆跡を残しながら巧みに女性の体を描き出しているあたりは、マネの並はずれた造形センスとともに近代的で都会的な感性を感じさせます。 緑と黒の対比で構成された画中で、女性の顔の白と手袋の黄色が目に鮮やかに映ります。そして女性の唇の赤と、絶妙のバランスで描きこまれた小さな赤い花の色がマネの天才的な色彩センスを存分に感じさせるスパイスとなっています。この作品でマネが描き留めたものは、もはや特定の女性の肖像というよりは、パリを象徴する「女性美」そのものといえるでしょう。 -
ピエール=オーギュスト・ルノワール「浴後の女」1896年
「坐る裸婦の大作または浴後の女」というタイトルが付けられた本作品は、ルノワールがその画業の後期に取り組んだ裸婦像の輝かしい成果のひとつです。 1896年5月、ルノワールはパリのデュラン=リュエル画廊で個展を開催し、そのあと7月にモンマルトルのラ・ロシュフーコー街に転居しました。本作はその年に描かれ、3年後の1899年1月にデュラン=リュエルの手に渡り、それから更に3年たった1902年6月にパリのデュラン=リュエル画廊で行われた「ルノワール展」で展示されたものです(この展覧会にはルノワールの近作40点が出品され、本作は出品番号23の作品として記録が残っています)。その後、スイスのヴィンタートゥールの世界的に著名な蒐集家オスカー・ラインハルトのコレクションを経て、当館の所蔵となっています。ルノワールは本作を描いてからほどない1898年暮れには、右腕がきかなくなるほどリューマチが悪化しており、その後も健康は悪化する一方で、左目の筋の部分的な萎縮とリューマチの激しい発作に襲われ続けました。このように身体は病気に苛まれても画術はますます円熟の一途をたどり、ルノワールの裸婦像は他の追随を許さぬモニュメンタルな人体表現として発展していきました。水浴の後で足を拭くポーズの裸婦像は、1902年から06年頃にかけて、屋外で脚を組んで坐り、白い布をもつ右手で左脚を拭き、左手で髪を撫でる姿のヴァリエーションで4点描かれています(ウィーン美術史美術館、デトロイト美術研究所の作品など)。 これらの作品群と本作の異なる点は、本作の方は室内でクッションの上に腰をかけ、身体を横から捉えた構図であり、脚は組まずに右脚を拭くポーズとなっている点です。その人体表現の彫塑的なヴォリューム感は、晩年の彼の彫刻作品を思わせるほどで、ふくよかな量塊の把握が見事である。また色彩は、健康的な肌色が生命の讃歌を歌い上げるように輝き、白い布や黄色、オレンジ色、緑色、茶色といったルノワール絵画の属性となっている親密な色彩群──黒色を排除し最高の強度をもった純色のみに限定した配色は「虹色のパレット」と呼ばれる──と混然一体となって眼を楽しませてくれます。マチエールについて言えば、絵画というよりは滑らかな陶磁器の表面のような質感をも感じさせる(リモージュに生まれたルノワールは、10代の頃に陶磁器の絵付け職人として働いていたことがありました)。 ルノワールが裸婦を好んで描いたのは、彼にとって自然がもたらしてくれた恵みの中で最高の形象が女性の身体であり、その健康美を愛で、祝福し、永遠の映像として定着させる行為が絵画という手段であったからです。その意味で、ルノワールを印象主義という枠だけで定義することは不可能であり、むしろティツィアーノ、ルーベンスといった偉大な絵画の先達の系譜に連なり、ブーシェにも共通する職人芸をもった画家として認識することが必要でしょう。 -
ピエール=オーギュスト・ルノワール「読書する女」1900年頃
ルノワールは読書をする女性をしばしば描いています。なかでも最も有名な作品はオルセー美術館にある《読書する女》(1874年)で、ふっくらとした頬の若い娘マルゴが反射する光の中で一心に本を読み耽っている絵です。ここでは画家の興味は明るい日差しを受けて輝く彼女の顔で、まばゆいほどに光を吸い込むような肌に正面からハイライトを当てています。 それに対して本作の方は、斜め横から後ろ姿を捉えたもので、モデルの女性の顔も名前も分かりません。ソファーに裸足で腰掛け、着衣の白いブラウスがはだけて左肩があらわになっていますが、彼女は読書に夢中で他人の視線を気にする様子は全くない。肩から白い肌が見えている女性というのはルノワールの作品で時折見かけるものです。部屋の壁には大きなタピスリーのようなものが飾られ、その絵柄には半裸の女性らしき図像が見えます。赤、白、黄、緑、青など、純粋な色相のみを採用し、全体的に暖かみのある配色にまとめられています。この女性だけが占有する時間と空間の中に画家が入り込み、のぞき見たような印象を与える作品で、親密な雰囲気を漂わせています。 読書する人物のいる室内の情景は、マネやモリゾらの手によっても繰り返し描かれているように、当時のパリにおいては「新しい光景」「近代的な風俗」であり、印象派の人物画家が好んで取り上げた主題のひとつでした。 -
アンリ・ルバスク「ヴァイオリンのあるマルト・ルバスクの肖像、サントロペにて」1920年頃
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アンリ・マルタン「画家のアトリエからの眺め」1902年頃
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アンリ・マルタン「風景」制作年不詳
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ギュスターヴ・ロワゾー「ヴォードルイユの農家」1900-03年頃
光溢れる田舎の農家の庭先を描いています。ル・ヴォードルイユはパリ北西部のセーヌ川下流にあって、ルーアンとレザンドリの中程に位置します。短いタッチの塗り重ねによる描き方や特徴ある渦巻き状の雲のかたちなど、1900年頃に描かれた他の作品とよく似ています。また、この絵が1903年2月にデュラン=リュエルが画家本人から買い取った記録のあることから、1900年代初めに描かれたものでしょう。 -
ギュスターヴ・ロワゾー「オワーズ河岸の工場」1905年
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モーリス・ユトリロ「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1920年
ムーラン・ド・ラ・ギャレットは当時パリの盛り場として有名であったモンマルトルにあったダンスホール。ルノワールやロートレックもこの店を描いた名作を残し、ユトリロ自身何度も描いています。 -
オーギュスト・ロダン「青銅時代」原型1875-76年、鋳造1900-01年
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「皇后ジョゼフィーヌのティアラ」19世紀初頭
V字型を成す基底部の上に、古代ギリシャの植物文様(アンテミオン)やアカンサスの花を思わせる文様が、ダイヤモンドを用いて表現され、最上部の中央に11個、左右それぞれ2ヶ所に9個のダイヤモンドを固めて形成したクラスターがシンメトリーに配置されています。本作に使用されているダイヤモンドは全部で1040個、260カラットに及びます。本作は過去に皇帝ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌが所有していたとされています。 -
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