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東京富士美術館のコレクション展「ヨーロッパ絵画 美の400年」が10月4日から始まったので、開幕日に行ってきました。東京富士美術館のコレクションは常設展で何度も見ていますが、初めて見るものもあり楽しめました。<br />HPより<br />当館の西洋絵画コレクションは、16世紀のイタリア・ルネサンスから20世紀の近現代美術までを網羅しています。西洋では伝統的に神話画や宗教画が高尚な絵画ジャンルとして重視されましたが、近代になると、斬新な絵画主題の開拓や、造形表現そのものの革新へと画家たちの関心が移っていきました。モネ、ルノワール、ゴッホ、シャガールといった人気画家のほか、ティントレット、ヴァン・ダイク、クロード・ロランら古典的巨匠オールド・マスターなど約80点の名画を通して、西洋絵画400年の歴史をたどります。<br />※作品の解説はHPを参照しています。<br /><br />

東京富士美術館コレクション ヨーロッパ絵画 美の400年

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2025/10/04 - 2025/10/04

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東京富士美術館のコレクション展「ヨーロッパ絵画 美の400年」が10月4日から始まったので、開幕日に行ってきました。東京富士美術館のコレクションは常設展で何度も見ていますが、初めて見るものもあり楽しめました。
HPより
当館の西洋絵画コレクションは、16世紀のイタリア・ルネサンスから20世紀の近現代美術までを網羅しています。西洋では伝統的に神話画や宗教画が高尚な絵画ジャンルとして重視されましたが、近代になると、斬新な絵画主題の開拓や、造形表現そのものの革新へと画家たちの関心が移っていきました。モネ、ルノワール、ゴッホ、シャガールといった人気画家のほか、ティントレット、ヴァン・ダイク、クロード・ロランら古典的巨匠オールド・マスターなど約80点の名画を通して、西洋絵画400年の歴史をたどります。
※作品の解説はHPを参照しています。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
交通手段
自家用車
  • 午前中の病院が終わったあと、八王子まで車で行きました。<br />

    午前中の病院が終わったあと、八王子まで車で行きました。

    東京富士美術館 美術館・博物館

  • 本展は、1部の作品を除いてすべて写真撮影OKでした。<br />

    本展は、1部の作品を除いてすべて写真撮影OKでした。

  • ベルナルド・ストロッツィ「アブドロミノに奪われた王冠を返還するアレクサンドロス大王」1615-17年頃<br />王位を剥奪され、領地を失い、農民のような生活を余儀なくされた貧窮のアブドロミノに、アレクサンドロス大王が使者を遣わし、略奪した王冠を返還するという大王の寛大な行為を描いた場面。 本作については、1780年にカルロ・ジュゼッペ・ラッティが『ジェノヴァの優れた絵画・彫刻・建築の解説』第2版の中で触れていますが、17世紀イタリア絵画の研究者であるミナ・グレゴーリ女史は次のように述べている。 「このテーマは非常に珍しいもので、あまり一般的ではないが、ストロッツィの絵画世界や趣好に合致したものである。ベラスケスの《ブレダの開城》(プラド美術館)に描かれているアンブロージオ・スピノラを思い起こさせるような人間性豊かな表情の使者が、百姓姿の侍者を後ろに従えた鄙びた風采のアブドロミノと共に描かれている。そこにはフランドル派風俗画に見られる下層民への同化が明瞭に示されており、このことは17世紀ジェノヴァ派の特徴の一つでもあった。」 ちなみに、《ブレダの開城》は本作とほぼ同じ頃に描かれた作品で、ジェノヴァ出身の将軍スピノラが勝利者として要塞の鍵を受け取るという姿で登場するので、制作年代・都市・構図の上で共通点があって面白い。 作者のストロッツィは、フランドル絵画の影響を受けつつ17世紀ジェノヴァ派の基礎を確立、後にヴェネツィアに移住し、ヴェネツィア派バロックの大様式を形成した画家である。画面は王冠を中心として主要人物の顔が対角線上に配置された安定した構図を持ち、その一人一人の人物は多様な個性と豊かな表情を備えています。また技法の上でも、濃密な厚塗り、重厚な筆の動きと自在なタッチの塗りのマチエールの魅力が特徴的であり、カラヴァッジョ風の強い明暗法を用いることによって画面に鮮烈で劇的な効果を与えることにも成功しています。 この絵は、1617年のものと推定されているドリア家の最初の財産目録に「アレクサンダー大王」の題名で記録されていて、続いて1625年以前に作成された目録では「イル・プレーテの作品 王冠を贈られた農夫」と記述されています。その後、少なくとも18世紀後半まで、ジェノヴァの名家ドリア一族のジュゼッペ・ドリア(1730?1816)のコレクションで、その宮殿の重要な客間を飾っていたことが判っています。

    ベルナルド・ストロッツィ「アブドロミノに奪われた王冠を返還するアレクサンドロス大王」1615-17年頃
    王位を剥奪され、領地を失い、農民のような生活を余儀なくされた貧窮のアブドロミノに、アレクサンドロス大王が使者を遣わし、略奪した王冠を返還するという大王の寛大な行為を描いた場面。 本作については、1780年にカルロ・ジュゼッペ・ラッティが『ジェノヴァの優れた絵画・彫刻・建築の解説』第2版の中で触れていますが、17世紀イタリア絵画の研究者であるミナ・グレゴーリ女史は次のように述べている。 「このテーマは非常に珍しいもので、あまり一般的ではないが、ストロッツィの絵画世界や趣好に合致したものである。ベラスケスの《ブレダの開城》(プラド美術館)に描かれているアンブロージオ・スピノラを思い起こさせるような人間性豊かな表情の使者が、百姓姿の侍者を後ろに従えた鄙びた風采のアブドロミノと共に描かれている。そこにはフランドル派風俗画に見られる下層民への同化が明瞭に示されており、このことは17世紀ジェノヴァ派の特徴の一つでもあった。」 ちなみに、《ブレダの開城》は本作とほぼ同じ頃に描かれた作品で、ジェノヴァ出身の将軍スピノラが勝利者として要塞の鍵を受け取るという姿で登場するので、制作年代・都市・構図の上で共通点があって面白い。 作者のストロッツィは、フランドル絵画の影響を受けつつ17世紀ジェノヴァ派の基礎を確立、後にヴェネツィアに移住し、ヴェネツィア派バロックの大様式を形成した画家である。画面は王冠を中心として主要人物の顔が対角線上に配置された安定した構図を持ち、その一人一人の人物は多様な個性と豊かな表情を備えています。また技法の上でも、濃密な厚塗り、重厚な筆の動きと自在なタッチの塗りのマチエールの魅力が特徴的であり、カラヴァッジョ風の強い明暗法を用いることによって画面に鮮烈で劇的な効果を与えることにも成功しています。 この絵は、1617年のものと推定されているドリア家の最初の財産目録に「アレクサンダー大王」の題名で記録されていて、続いて1625年以前に作成された目録では「イル・プレーテの作品 王冠を贈られた農夫」と記述されています。その後、少なくとも18世紀後半まで、ジェノヴァの名家ドリア一族のジュゼッペ・ドリア(1730?1816)のコレクションで、その宮殿の重要な客間を飾っていたことが判っています。

  • ヘラルト・デ・ライレッセ「天使たちを迎えるアブラハム」17世紀後半<br />ヘラルト・デ・ライレッセは、17世紀フランドルを代表する歴史画家。フランス古典主義の影響を受けた彼の美術理論は著作『大画法書』で知られ、同書は江戸時代の日本に伝わって、北斎などの浮世絵師らにも影響を与えられたと考えられています。 本作の主題は、旧約聖書「創世記」の一場面。昼の暑いころ、100歳のアブラハムが、樫の木がある天幕の入口に座っていると、主の使いである3人の天使の訪問を受け、彼らの足を洗い、食べ物を供して歓迎した。天使たちはアブラハムに「90歳の妻サラが彼の子を授かる」ことを告げる。後ろで予言を聞いていたサラは、おもわず笑ってしまうが、「なぜ笑うのか。主に不可能はない」と咎められ、サラは急いで笑ったことを否定します。 本作では天幕は立派な建物として表現され、3人の天使たちは導きを象徴する杖を持って表現されています。画面中央では、年老いたアブラハムが驚いた表情で手を広げ、ややわかり辛いが、画面右端の扉の奥の暗がりで妻サラが聞き耳を立てています。後日、彼らの言葉通り男の子が生まれ、イサクと名付けられた。イサクはヘブライ語で「彼は笑う」という意味です。ある時、アブラハムは神の試練として「少年のイサクを神に犠牲として捧げよ」との命令を受けたとき、それに服する姿勢を示して信仰の篤さを認められたのです。

    ヘラルト・デ・ライレッセ「天使たちを迎えるアブラハム」17世紀後半
    ヘラルト・デ・ライレッセは、17世紀フランドルを代表する歴史画家。フランス古典主義の影響を受けた彼の美術理論は著作『大画法書』で知られ、同書は江戸時代の日本に伝わって、北斎などの浮世絵師らにも影響を与えられたと考えられています。 本作の主題は、旧約聖書「創世記」の一場面。昼の暑いころ、100歳のアブラハムが、樫の木がある天幕の入口に座っていると、主の使いである3人の天使の訪問を受け、彼らの足を洗い、食べ物を供して歓迎した。天使たちはアブラハムに「90歳の妻サラが彼の子を授かる」ことを告げる。後ろで予言を聞いていたサラは、おもわず笑ってしまうが、「なぜ笑うのか。主に不可能はない」と咎められ、サラは急いで笑ったことを否定します。 本作では天幕は立派な建物として表現され、3人の天使たちは導きを象徴する杖を持って表現されています。画面中央では、年老いたアブラハムが驚いた表情で手を広げ、ややわかり辛いが、画面右端の扉の奥の暗がりで妻サラが聞き耳を立てています。後日、彼らの言葉通り男の子が生まれ、イサクと名付けられた。イサクはヘブライ語で「彼は笑う」という意味です。ある時、アブラハムは神の試練として「少年のイサクを神に犠牲として捧げよ」との命令を受けたとき、それに服する姿勢を示して信仰の篤さを認められたのです。

  • アールト・デ・ヘルダー「ダヴィデ王を諫めるナタン」1683年<br />この絵の主題は、旧約聖書に語られた預言者ナタンがダヴィデ王を諌める場面(「サムエル記下」12章1?14節)。 ウリヤの妻バテシバに恋したダヴィデは、ウリヤを危険な戦場に派遣すします。ダヴィデのもくろみ通りにウリヤが戦死すると、ダヴィデはバテシバを妻にしてしまい、二人のあいだには息子が生まれます。しかし神は、ダヴィデのもとに預言者ナタンを遣わす。そこでナタンは、ダヴィデに富者と貧者の譬え話を語り、ダヴィデに自分の犯した罪を諭すのです。すなわち、ある富者は多くの家畜を所有していたにもかかわらず、客人をもてなす時、自分の家畜を屠殺するのが惜しくなり、貧者が自分の家族同様に可愛がっていた雌羊を盗んでもてなした、と。ダウィデはその男のことを非常に怒り、彼は殺されるべきであるという。ナタンはダヴィデに「あなたはその男だ」と告げる。つまり、栄華をきわめたダヴィデ王が自分の部下の妻を奪ったのは、この富者と同じだというのです。そして、神はこのダヴィデの罪に対する罰として、彼とバテシバの息子の命を奪ったという。 画面には、杖を手にした質素な身なりのナタンと、王笏を持ち豪華な衣装を身につけたダヴィデが描かれています。ここでヘルダーは、譬え話の富者と貧者を暗喩するかのように、対照的な衣装に身を包んだ二人の人物の顔の表情と手ぶりを表現力豊かに描き出し、対話によってあぶり出される心理的な反応を表現しようとしています。明暗の対比で浮かび上がる人物に深い精神性を与えつつ、自身では気がつかないような人間の心の奥底、目には見えない人間の心理的な領域を視覚化しようと試みているかのようです。 ヘルダーはアムステルダムでレンブラントに学び、師の後期様式に手を加え展開させました。ヘルダーの最高傑作のいくつかは、しばしばレンブラント作品と見なされたこともあり、「ヘルダーの絵はレンブラントの絵よりも美しすぎる」との批評があるように、精錬された美感に溢れています。

    アールト・デ・ヘルダー「ダヴィデ王を諫めるナタン」1683年
    この絵の主題は、旧約聖書に語られた預言者ナタンがダヴィデ王を諌める場面(「サムエル記下」12章1?14節)。 ウリヤの妻バテシバに恋したダヴィデは、ウリヤを危険な戦場に派遣すします。ダヴィデのもくろみ通りにウリヤが戦死すると、ダヴィデはバテシバを妻にしてしまい、二人のあいだには息子が生まれます。しかし神は、ダヴィデのもとに預言者ナタンを遣わす。そこでナタンは、ダヴィデに富者と貧者の譬え話を語り、ダヴィデに自分の犯した罪を諭すのです。すなわち、ある富者は多くの家畜を所有していたにもかかわらず、客人をもてなす時、自分の家畜を屠殺するのが惜しくなり、貧者が自分の家族同様に可愛がっていた雌羊を盗んでもてなした、と。ダウィデはその男のことを非常に怒り、彼は殺されるべきであるという。ナタンはダヴィデに「あなたはその男だ」と告げる。つまり、栄華をきわめたダヴィデ王が自分の部下の妻を奪ったのは、この富者と同じだというのです。そして、神はこのダヴィデの罪に対する罰として、彼とバテシバの息子の命を奪ったという。 画面には、杖を手にした質素な身なりのナタンと、王笏を持ち豪華な衣装を身につけたダヴィデが描かれています。ここでヘルダーは、譬え話の富者と貧者を暗喩するかのように、対照的な衣装に身を包んだ二人の人物の顔の表情と手ぶりを表現力豊かに描き出し、対話によってあぶり出される心理的な反応を表現しようとしています。明暗の対比で浮かび上がる人物に深い精神性を与えつつ、自身では気がつかないような人間の心の奥底、目には見えない人間の心理的な領域を視覚化しようと試みているかのようです。 ヘルダーはアムステルダムでレンブラントに学び、師の後期様式に手を加え展開させました。ヘルダーの最高傑作のいくつかは、しばしばレンブラント作品と見なされたこともあり、「ヘルダーの絵はレンブラントの絵よりも美しすぎる」との批評があるように、精錬された美感に溢れています。

  • ノエル=ニコラ・コワペル「ヴィーナスの誕生」1732年頃<br />ギリシア・ローマ神話に登場する女神たちを、ロココ風の感性で優美に描き出した作品。トリトンが法螺貝を吹き鳴らして愛と美の女神の誕生を祝福し、海のニンフたちもその若く美しい姿を波間に漂わせ、この華やかなセレモニーに参加しています。愛を燃え立たせる松明や、美と芳香と棘でこの女神に擬せられるバラを持ったクピドたちがヴィーナスの頭上で飛び交っています。

    ノエル=ニコラ・コワペル「ヴィーナスの誕生」1732年頃
    ギリシア・ローマ神話に登場する女神たちを、ロココ風の感性で優美に描き出した作品。トリトンが法螺貝を吹き鳴らして愛と美の女神の誕生を祝福し、海のニンフたちもその若く美しい姿を波間に漂わせ、この華やかなセレモニーに参加しています。愛を燃え立たせる松明や、美と芳香と棘でこの女神に擬せられるバラを持ったクピドたちがヴィーナスの頭上で飛び交っています。

  • クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 場面不詳(スペイン進軍前日に生け贄の準備をするハミルカル?)」1731-47年<br />トリノの王室のタピスリー芸術に対する関心と情熱はよく知られています。1731年、ボーモンは、アレクサンダー、シーザー、キュロス、ピュロスおよびハンニバルの生涯の5つのシリーズのタピスリーの注文を受けました。中でもハンニバルのシリーズは、王妃の部屋のための特別なものでした。この6点の下絵をもとに大きな下絵が描かれ、1750年から1754年にアントニオ・ディニの工房で織られました。しかし、これが王妃の部屋を飾ることはなく、その主な要因は歴史的な主題に対し「興味を失った」王妃の趣向の変化でした。

    クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 場面不詳(スペイン進軍前日に生け贄の準備をするハミルカル?)」1731-47年
    トリノの王室のタピスリー芸術に対する関心と情熱はよく知られています。1731年、ボーモンは、アレクサンダー、シーザー、キュロス、ピュロスおよびハンニバルの生涯の5つのシリーズのタピスリーの注文を受けました。中でもハンニバルのシリーズは、王妃の部屋のための特別なものでした。この6点の下絵をもとに大きな下絵が描かれ、1750年から1754年にアントニオ・ディニの工房で織られました。しかし、これが王妃の部屋を飾ることはなく、その主な要因は歴史的な主題に対し「興味を失った」王妃の趣向の変化でした。

  • クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 ローマに対する永遠の憎しみを誓う少年ハンニバル」1731-47年<br />

    クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 ローマに対する永遠の憎しみを誓う少年ハンニバル」1731-47年

  • クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 サグントゥムの戦いを前に勝利品の報酬を約束し、兵士を鼓舞するハンニバル」1731-47年

    クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 サグントゥムの戦いを前に勝利品の報酬を約束し、兵士を鼓舞するハンニバル」1731-47年

  • クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 財産を町に集めるサグントゥムの人々」1731-47年

    クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 財産を町に集めるサグントゥムの人々」1731-47年

  • クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 ハンニバルに財産を差し出すサグントゥムの人々」1731-47年

    クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 ハンニバルに財産を差し出すサグントゥムの人々」1731-47年

  • クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 アルプスを越えるハンニバル」1731-47年

    クラウディオ・フランチェスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 アルプスを越えるハンニバル」1731-47年

  • フランソワ・ブーシェ「田園の奏楽」1743年<br />ロココを代表する画家ブーシェは、ポンパドゥール夫人の絵画教師を務め、1765年には首席宮廷画家に任命されています。ボーヴェのタピスリー工場と関わりをもち、1755年には王立ゴブラン織工場の長となったことでも分かるように、装飾の分野で才能を発揮し、絵画にもその装飾的手法を駆使して独自の装飾画の様式を完成させました。 彼は1742年頃から神話画に田園趣味を結びつけた小型の作品も制作するようになりました。それらは森や水辺の中に神話的人物を配し、休息や戯れをテーマにした牧歌的な雰囲気をもつ作品でした。 本作もこの時期の神話的田園画の見事な一例で、羊飼いが奏でる横笛の音に聞きほれるニンフを描きます。この絵と対の《田園の気晴らし》(東京富士美術館蔵)にも、男女が憩う牧歌的情景が描かれています。羊飼いや農民の扮装をして田園の戯れを楽しむという娯楽が上流階級に流行したこととの関連も興味深い。

    フランソワ・ブーシェ「田園の奏楽」1743年
    ロココを代表する画家ブーシェは、ポンパドゥール夫人の絵画教師を務め、1765年には首席宮廷画家に任命されています。ボーヴェのタピスリー工場と関わりをもち、1755年には王立ゴブラン織工場の長となったことでも分かるように、装飾の分野で才能を発揮し、絵画にもその装飾的手法を駆使して独自の装飾画の様式を完成させました。 彼は1742年頃から神話画に田園趣味を結びつけた小型の作品も制作するようになりました。それらは森や水辺の中に神話的人物を配し、休息や戯れをテーマにした牧歌的な雰囲気をもつ作品でした。 本作もこの時期の神話的田園画の見事な一例で、羊飼いが奏でる横笛の音に聞きほれるニンフを描きます。この絵と対の《田園の気晴らし》(東京富士美術館蔵)にも、男女が憩う牧歌的情景が描かれています。羊飼いや農民の扮装をして田園の戯れを楽しむという娯楽が上流階級に流行したこととの関連も興味深い。

  • ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」1805年<br />ナポレオンは1800年の第2次イタリア遠征で、このアルプスの要衝を越えて勝利を収める。ダヴィッドの描いた数あるナポレオンの肖像画の中で、英雄としてのナポレオンの視覚的イメージが最も強く表現された作品。原作はマルメゾン博物館にあり、大型のヴァージョンがヴェルサイユ(フランス)、シャルロッテンブルグ(ドイツ)、ベルヴェデーレ(オーストリア)など、ヨーロッパの主要宮殿に保存されています。

    イチオシ

    ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」1805年
    ナポレオンは1800年の第2次イタリア遠征で、このアルプスの要衝を越えて勝利を収める。ダヴィッドの描いた数あるナポレオンの肖像画の中で、英雄としてのナポレオンの視覚的イメージが最も強く表現された作品。原作はマルメゾン博物館にあり、大型のヴァージョンがヴェルサイユ(フランス)、シャルロッテンブルグ(ドイツ)、ベルヴェデーレ(オーストリア)など、ヨーロッパの主要宮殿に保存されています。

  • ティントレット(ヤコポ・ロブスティ)「蒐集家の肖像」1560-65年<br />繊細な光を反射する緞帳を背景に、椅子に座った男性が、威厳と気品に満ちた眼差しでこちらを見つめています。この男性の洗練された趣味を示すように、窓際に金の機械時計、男性の隣にゴリアテの首に片足をかけるダヴィデの彫刻が置かれています。開け放たれた窓の向こうには、古代ローマ帝国時代に皇帝の霊廟として建設され、当時は教皇のための要塞として使用されていたサン・タンジェロ城が描かれています。このことは、この人物とヴァチカンとのつながりを象徴しており、おそらく同地に滞在していたヴェネツィアの外交官だと推測されます。

    ティントレット(ヤコポ・ロブスティ)「蒐集家の肖像」1560-65年
    繊細な光を反射する緞帳を背景に、椅子に座った男性が、威厳と気品に満ちた眼差しでこちらを見つめています。この男性の洗練された趣味を示すように、窓際に金の機械時計、男性の隣にゴリアテの首に片足をかけるダヴィデの彫刻が置かれています。開け放たれた窓の向こうには、古代ローマ帝国時代に皇帝の霊廟として建設され、当時は教皇のための要塞として使用されていたサン・タンジェロ城が描かれています。このことは、この人物とヴァチカンとのつながりを象徴しており、おそらく同地に滞在していたヴェネツィアの外交官だと推測されます。

  • フランス・ハルス「男の肖像」1633年<br />粗く素早い筆さばきを用いた大胆で個性的な画風で知られるハルスは、何人かの人物の特徴を一瞬のうちに捉える集団肖像画を得意としましたが、1620~30年代にかけては、風俗画も盛んに手がけました。多くは単身の人物を扱ったもので、《陽気な酒飲み》(1628/30年頃、アムステルダム国立美術館)に代表されるように、画面の中から見る者に気さくに話かけるような表情・身振りや、くつろいだ自由なポーズなど、従来の肖像画にはない新しい要素が導入されています。そして1630年代も末頃になると、内省的な趣を強め、色彩も抑制された地味なものへと変化していきます。 このようなハルスの最盛期に描かれた本作は、説教師の威厳ある風貌が的確に捉えられており、この時期の表現に特徴的なプリマ画と呼ばれる直描きの技法による自由な筆致を彷彿とさせるような伸びやかな筆遣いも見られます。 同時代に活躍したレンブラントの、重厚で格調高い趣をみせる肖像画と比較すると、ハルスの作品には実際にモデルの息づかいが感じられるような庶民的な実在感があり、モデルの心理と人間性を巧みに描出することに成功しています。右側の背景の上方に記された銘には、モデルの年齢と制作年が書き込まれていますが、これはハルスの肖像画に見られる記述で、このモデルが73歳であることが分かります。17世紀のオランダで創造された黒を基調色とする色彩感、自由で伸び伸びとした筆さばきは、はるか2世紀後のフランスにおける印象派の父マネの芸術を予見させるかのようです。

    フランス・ハルス「男の肖像」1633年
    粗く素早い筆さばきを用いた大胆で個性的な画風で知られるハルスは、何人かの人物の特徴を一瞬のうちに捉える集団肖像画を得意としましたが、1620~30年代にかけては、風俗画も盛んに手がけました。多くは単身の人物を扱ったもので、《陽気な酒飲み》(1628/30年頃、アムステルダム国立美術館)に代表されるように、画面の中から見る者に気さくに話かけるような表情・身振りや、くつろいだ自由なポーズなど、従来の肖像画にはない新しい要素が導入されています。そして1630年代も末頃になると、内省的な趣を強め、色彩も抑制された地味なものへと変化していきます。 このようなハルスの最盛期に描かれた本作は、説教師の威厳ある風貌が的確に捉えられており、この時期の表現に特徴的なプリマ画と呼ばれる直描きの技法による自由な筆致を彷彿とさせるような伸びやかな筆遣いも見られます。 同時代に活躍したレンブラントの、重厚で格調高い趣をみせる肖像画と比較すると、ハルスの作品には実際にモデルの息づかいが感じられるような庶民的な実在感があり、モデルの心理と人間性を巧みに描出することに成功しています。右側の背景の上方に記された銘には、モデルの年齢と制作年が書き込まれていますが、これはハルスの肖像画に見られる記述で、このモデルが73歳であることが分かります。17世紀のオランダで創造された黒を基調色とする色彩感、自由で伸び伸びとした筆さばきは、はるか2世紀後のフランスにおける印象派の父マネの芸術を予見させるかのようです。

  • アントニー・ヴァン・ダイク「アマリア・ファン・ソルムス=ブランウェルスの肖像」1629年<br />フランドルの出身で、16歳のときには工房を構え弟子をもっていたと伝えられるヴァン・ダイクは、若くして華やかな活動を展開し、21歳で英国ジェームス1世の宮廷画家となりました。22歳からの6年間はイタリアで過ごし、ヴェネツィア派とりわけティツィアーノの作風を吸収しつつ、貴族の肖像画を数多く手がけ大成功を収めました。そして確固たる名声と実力とともに、28歳で故郷アントウェルペンに戻ります。以後、再び英国に渡るまでの5年間は、肖像画の注文が絶えることなく多忙を極めましたが、その間オランダに2度赴き、そこでオランダ総督オラニエ公フレデリック・ヘンドリックとその妻アマリア・フォン・ソルムスの肖像画を数点描きました。 本作はそのうちの最も出来映えの良い作品で、滑るような白い肌をもつ貴婦人のからだが、高雅な黒のドレスに包まれ、茶系色の錦織の掛け物を背景にしてシックな色調の中に凜然と輝きを放っています。ここに描かれた女性の夫フレデリック・ヘンドリック(1584ー1647)は、1625年から没年までオランダの総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の公爵で、現オランダ王室の遠い源流に位置する人物です。 この夫妻の肖像を描いた対作品は2組あり、本作はもとオラニエ=ナッサウ家に伝わる完成度の高い方の組の妻の絵で、これと対をなす夫の肖像画は現在アメリカのバルティモア美術館に収蔵されています。またもう1組はマドリードのプラド美術館の所蔵となっています。 この絵についてはエリック・ラールセンがカタログ・レゾネの中で次のように評価を下しています。「妻の肖像の出来映えは、夫のそれより上質と思われる。どちらも間違いなくオリジナル作品である。この夫人の肖像画は、念入りに技法を駆使した素晴しい仕上がりである」(『ヴァン・ダイク』)

    アントニー・ヴァン・ダイク「アマリア・ファン・ソルムス=ブランウェルスの肖像」1629年
    フランドルの出身で、16歳のときには工房を構え弟子をもっていたと伝えられるヴァン・ダイクは、若くして華やかな活動を展開し、21歳で英国ジェームス1世の宮廷画家となりました。22歳からの6年間はイタリアで過ごし、ヴェネツィア派とりわけティツィアーノの作風を吸収しつつ、貴族の肖像画を数多く手がけ大成功を収めました。そして確固たる名声と実力とともに、28歳で故郷アントウェルペンに戻ります。以後、再び英国に渡るまでの5年間は、肖像画の注文が絶えることなく多忙を極めましたが、その間オランダに2度赴き、そこでオランダ総督オラニエ公フレデリック・ヘンドリックとその妻アマリア・フォン・ソルムスの肖像画を数点描きました。 本作はそのうちの最も出来映えの良い作品で、滑るような白い肌をもつ貴婦人のからだが、高雅な黒のドレスに包まれ、茶系色の錦織の掛け物を背景にしてシックな色調の中に凜然と輝きを放っています。ここに描かれた女性の夫フレデリック・ヘンドリック(1584ー1647)は、1625年から没年までオランダの総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の公爵で、現オランダ王室の遠い源流に位置する人物です。 この夫妻の肖像を描いた対作品は2組あり、本作はもとオラニエ=ナッサウ家に伝わる完成度の高い方の組の妻の絵で、これと対をなす夫の肖像画は現在アメリカのバルティモア美術館に収蔵されています。またもう1組はマドリードのプラド美術館の所蔵となっています。 この絵についてはエリック・ラールセンがカタログ・レゾネの中で次のように評価を下しています。「妻の肖像の出来映えは、夫のそれより上質と思われる。どちらも間違いなくオリジナル作品である。この夫人の肖像画は、念入りに技法を駆使した素晴しい仕上がりである」(『ヴァン・ダイク』)

  • アントニー・ヴァン・ダイク「ベッドフォード伯爵夫人 アン・カーの肖像」1639年<br />フランドルの出身で、イギリス国王チャールズ1世の首席宮廷画家として知られるヴァン・ダイクは、ルーベンスの工房で修業を積み、10代後半の若さで工房の筆頭助手を務めたといわれます。20歳になってまもない1620年に初めてイギリスに渡り、その後6年間イタリアに滞在したのち、1627年にアントウェルペンに帰ってきますが、1632年に再びイギリスを訪れると、そこで約10年間制作を続け、そのまま故郷に戻ることなく42歳で早世しました。 肖像画家としてのヴァン・ダイクの才能は初期のアントウェルペン時代から開花していましたが、晩年のイギリス時代になると、その様式はいっそう洗練の度を加え、多彩な人物の容貌と個性が、高雅で繊細な美しさをたたえた流麗な筆で見事に描きわけられています。彼の高度に完成された王侯貴族の肖像は、以後のヨーロッパ絵画における肖像画様式の手本の役割をも果たしたのです。 モデルのアン・カー(1615ー1684)は、サマセット伯ロバート・カーとその妻フランセスの娘として生まれ、1637年にベッドフォード伯と結婚、7人の息子と3人の娘を産みました。母のフランセスは殺人罪で死刑を宣告されていましたが、後に恩赦の身となった人物で、アンはその服役中にロンドン塔で生まれたのでした。アンが自分の母親に関するスキャンダルを知ったのは結婚のあとで、真実を聞かされたとき、ひどく動揺し気を失って卒倒したと伝えられています。しかしながら二人の結婚生活は順調で、夫の父の死後、彼の遺志を継ぎ夫妻で沼沢地の干拓事業に情熱を傾けました。 さて本作と同じモデルの肖像画が他に3点知られています。1点はベッドフォード伯の邸宅であったウォーバーン・アビー公爵家に今も伝わる全身像、あとの2点は本作とよく似た構図の七分身像(ペットワース・ハウス蔵およびアメリカ個人蔵)で、後者はいずれも本作に基づく第2バージョンと見なされているものです。 20代なかば、結婚して2~3年経った頃であろうか、上品にカールした金髪のヘアスタイルに張りのある白い肌が印象的な、若々しい美貌の英国貴婦人が黒褐色の背景から浮かび上がります。着衣と宝飾品、肌や髪など質感の表現には熟練の技術があり、目もとや口もと、組んだ手の指先ひとつにもヴァン・ダイク調の高貴な表情が宿っています。肖像画の世界に他の追随を許さぬ表現を確立したヴァン・ダイク様式の一つの典型をここに見ることができます。

    アントニー・ヴァン・ダイク「ベッドフォード伯爵夫人 アン・カーの肖像」1639年
    フランドルの出身で、イギリス国王チャールズ1世の首席宮廷画家として知られるヴァン・ダイクは、ルーベンスの工房で修業を積み、10代後半の若さで工房の筆頭助手を務めたといわれます。20歳になってまもない1620年に初めてイギリスに渡り、その後6年間イタリアに滞在したのち、1627年にアントウェルペンに帰ってきますが、1632年に再びイギリスを訪れると、そこで約10年間制作を続け、そのまま故郷に戻ることなく42歳で早世しました。 肖像画家としてのヴァン・ダイクの才能は初期のアントウェルペン時代から開花していましたが、晩年のイギリス時代になると、その様式はいっそう洗練の度を加え、多彩な人物の容貌と個性が、高雅で繊細な美しさをたたえた流麗な筆で見事に描きわけられています。彼の高度に完成された王侯貴族の肖像は、以後のヨーロッパ絵画における肖像画様式の手本の役割をも果たしたのです。 モデルのアン・カー(1615ー1684)は、サマセット伯ロバート・カーとその妻フランセスの娘として生まれ、1637年にベッドフォード伯と結婚、7人の息子と3人の娘を産みました。母のフランセスは殺人罪で死刑を宣告されていましたが、後に恩赦の身となった人物で、アンはその服役中にロンドン塔で生まれたのでした。アンが自分の母親に関するスキャンダルを知ったのは結婚のあとで、真実を聞かされたとき、ひどく動揺し気を失って卒倒したと伝えられています。しかしながら二人の結婚生活は順調で、夫の父の死後、彼の遺志を継ぎ夫妻で沼沢地の干拓事業に情熱を傾けました。 さて本作と同じモデルの肖像画が他に3点知られています。1点はベッドフォード伯の邸宅であったウォーバーン・アビー公爵家に今も伝わる全身像、あとの2点は本作とよく似た構図の七分身像(ペットワース・ハウス蔵およびアメリカ個人蔵)で、後者はいずれも本作に基づく第2バージョンと見なされているものです。 20代なかば、結婚して2~3年経った頃であろうか、上品にカールした金髪のヘアスタイルに張りのある白い肌が印象的な、若々しい美貌の英国貴婦人が黒褐色の背景から浮かび上がります。着衣と宝飾品、肌や髪など質感の表現には熟練の技術があり、目もとや口もと、組んだ手の指先ひとつにもヴァン・ダイク調の高貴な表情が宿っています。肖像画の世界に他の追随を許さぬ表現を確立したヴァン・ダイク様式の一つの典型をここに見ることができます。

  • ジャン=マルク・ナティエ「フェルテ=アンボー侯爵夫人」1740年<br />この肖像画は、手に仮装用の仮面を持ち、バラ色のリボンで縁どりされた白いドミノ(頭巾つきのガウン)を着て座っているジョフラン夫人の娘・フェルテ=アンボー侯爵夫人(1715ー1791)を描いたもの。母親のジョフラン夫人(1699ー1777)が「娘が25歳の時にナティエに彼女の肖像画を描いてもらった」と手帳に書きとめています。胸もとには真珠の縁飾りのある白絹製のローブものぞいています。 本作の2年前に同じナティエの手によって描かれた母親ジョフラン夫人の肖像画も東京富士美術館の所蔵であり、これら2点は対をなすような形となっています。 作者ナティエは当時の上流社会の貴婦人たちの人気を集めて、彼女らを神話の女神になぞらえて描く、いわゆる扮装肖像画の形式を流行させました。フランス王室にも迎えられ、ルイ15世の娘たちの御用画家としても活躍しましたが、後年になって厳正な審美眼に立つディドロから、「紅白粉で絵を描いた」と非難されています。しかし本作をはじめ、彼がこの年代に描いた力作には、充実した様式美と繊細な感受性が溢れており、洗練された典型的なロココ趣味で女性を描く肖像画家としてのナティエの才能を見ることができます。

    ジャン=マルク・ナティエ「フェルテ=アンボー侯爵夫人」1740年
    この肖像画は、手に仮装用の仮面を持ち、バラ色のリボンで縁どりされた白いドミノ(頭巾つきのガウン)を着て座っているジョフラン夫人の娘・フェルテ=アンボー侯爵夫人(1715ー1791)を描いたもの。母親のジョフラン夫人(1699ー1777)が「娘が25歳の時にナティエに彼女の肖像画を描いてもらった」と手帳に書きとめています。胸もとには真珠の縁飾りのある白絹製のローブものぞいています。 本作の2年前に同じナティエの手によって描かれた母親ジョフラン夫人の肖像画も東京富士美術館の所蔵であり、これら2点は対をなすような形となっています。 作者ナティエは当時の上流社会の貴婦人たちの人気を集めて、彼女らを神話の女神になぞらえて描く、いわゆる扮装肖像画の形式を流行させました。フランス王室にも迎えられ、ルイ15世の娘たちの御用画家としても活躍しましたが、後年になって厳正な審美眼に立つディドロから、「紅白粉で絵を描いた」と非難されています。しかし本作をはじめ、彼がこの年代に描いた力作には、充実した様式美と繊細な感受性が溢れており、洗練された典型的なロココ趣味で女性を描く肖像画家としてのナティエの才能を見ることができます。

  • フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス「ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル」1815-20年頃<br />この肖像画のモデルとなっている少年は、スペインの国王カルロス3世(在位1759-1788)の曾孫にあたるドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル(1811-1875)です。父のドン・ペドロは、ポルトガルの王女マリー=テレーズと結婚し、1811年にスペインのブルボン家とポルトガルのブラガンサ家の両家の血筋をひく最後の一人息子をもちました。ホセ・グディオルは、モデルが5歳ぐらいに見えるという推定から出発して、この肖像画が1815年から16年頃に描かれたと主張していますが、モデルはもう少し年上にも見えます。しかし、もしもこの絵を注文したのがマドリッドの宮廷だとすると、本作の制作年代は1820年以降にはならないはずです。なぜならば、1819年までの間にゴヤと王室との関係は終わっていたからです。また少年の服装について、ホセ・グディオルは、1814年以降に採用されたスペイン近衛騎兵の制服を着用していると考えます。したがって、この絵の成立は、早くて1815年頃、遅くて1820年頃の時期に絞られるわけで、ゴヤが宮廷の仕事についていた最後の数年間に描かれたものと考えるのが自然であろう。この親王は、長じてからは大変に教養の高い人物としてその名を知られました。アカデミーの重要なメンバーであり、具象芸術の目ききであり、音楽の愛好家であり、有名な物理学者でした。また豊かな美術品の蒐集でも知られています。この絵の中で少年は右手で背景の風景を指し示しているかに見えます。ある学者は、グアダラマ山脈とラ・グランハの王宮がそびえるセコビア近くのサン・イルデフォンソに通じる道を推測しますが、このモデルとは関係性が薄い。その一方で、旧カスティリヤからアラゴンへ向かうルートの途中に、タルディエンタ山脈、ナポレオン占領下でのスペインのレジスタンスの戦域を望むことができますが、もしもこの場所だとすれば、画家の愛国的な意図を想像することが可能になる。ところでホセ・グディオルは、この絵の中に子供の肖像を描くときに用いたいつものアプローチを認めています。すなわち、身につけた付属品で示される「力強さ」とは対照的に、顔や着衣を表現するのに「単純さ」を志向している点である。アクセサリーや道具は賑やかで微細に描き、人体や服は単純な技法で処理するという対比の手法は、背景の描写にも見られます。前景の確固とした自然主義と遠景の軽やかな優雅さとは、絶妙なコントラストの対話を生んでいます。ゴヤ芸術の特徴ある絵画法によって描かれた本作は、宮廷肖像画の名手ゴヤならではの「愛想のよい高貴な子供の肖像」の一典型を示しています。

    フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス「ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル」1815-20年頃
    この肖像画のモデルとなっている少年は、スペインの国王カルロス3世(在位1759-1788)の曾孫にあたるドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル(1811-1875)です。父のドン・ペドロは、ポルトガルの王女マリー=テレーズと結婚し、1811年にスペインのブルボン家とポルトガルのブラガンサ家の両家の血筋をひく最後の一人息子をもちました。ホセ・グディオルは、モデルが5歳ぐらいに見えるという推定から出発して、この肖像画が1815年から16年頃に描かれたと主張していますが、モデルはもう少し年上にも見えます。しかし、もしもこの絵を注文したのがマドリッドの宮廷だとすると、本作の制作年代は1820年以降にはならないはずです。なぜならば、1819年までの間にゴヤと王室との関係は終わっていたからです。また少年の服装について、ホセ・グディオルは、1814年以降に採用されたスペイン近衛騎兵の制服を着用していると考えます。したがって、この絵の成立は、早くて1815年頃、遅くて1820年頃の時期に絞られるわけで、ゴヤが宮廷の仕事についていた最後の数年間に描かれたものと考えるのが自然であろう。この親王は、長じてからは大変に教養の高い人物としてその名を知られました。アカデミーの重要なメンバーであり、具象芸術の目ききであり、音楽の愛好家であり、有名な物理学者でした。また豊かな美術品の蒐集でも知られています。この絵の中で少年は右手で背景の風景を指し示しているかに見えます。ある学者は、グアダラマ山脈とラ・グランハの王宮がそびえるセコビア近くのサン・イルデフォンソに通じる道を推測しますが、このモデルとは関係性が薄い。その一方で、旧カスティリヤからアラゴンへ向かうルートの途中に、タルディエンタ山脈、ナポレオン占領下でのスペインのレジスタンスの戦域を望むことができますが、もしもこの場所だとすれば、画家の愛国的な意図を想像することが可能になる。ところでホセ・グディオルは、この絵の中に子供の肖像を描くときに用いたいつものアプローチを認めています。すなわち、身につけた付属品で示される「力強さ」とは対照的に、顔や着衣を表現するのに「単純さ」を志向している点である。アクセサリーや道具は賑やかで微細に描き、人体や服は単純な技法で処理するという対比の手法は、背景の描写にも見られます。前景の確固とした自然主義と遠景の軽やかな優雅さとは、絶妙なコントラストの対話を生んでいます。ゴヤ芸術の特徴ある絵画法によって描かれた本作は、宮廷肖像画の名手ゴヤならではの「愛想のよい高貴な子供の肖像」の一典型を示しています。

  • ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房「戴冠式の皇帝ナポレオン」1808年頃<br />本作はダヴィッドの大作《皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式》の中に描かれる、今まさにジョゼフィーヌに王冠を授けようとする皇帝を部分的に抽出したもので、彼の工房で描かれたと考えられます。古代風の金の月桂冠を被り、白テンの毛皮と金の刺繍で装飾を施された赤と白の絢爛たる皇帝の盛装が、暗転させた背景と緑の絨毯に映えます。人物を真横から捉え、左方向へと流れる動勢を計算され尽くした技法で描かれたこの図像は、劇的な舞台装置の中で威厳にあふれたハイライトを形づくっています。<br />

    ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房「戴冠式の皇帝ナポレオン」1808年頃
    本作はダヴィッドの大作《皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式》の中に描かれる、今まさにジョゼフィーヌに王冠を授けようとする皇帝を部分的に抽出したもので、彼の工房で描かれたと考えられます。古代風の金の月桂冠を被り、白テンの毛皮と金の刺繍で装飾を施された赤と白の絢爛たる皇帝の盛装が、暗転させた背景と緑の絨毯に映えます。人物を真横から捉え、左方向へと流れる動勢を計算され尽くした技法で描かれたこの図像は、劇的な舞台装置の中で威厳にあふれたハイライトを形づくっています。

  • エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン「ルイ16世の妹 エリザベート王女」1782年<br />エリザベート王女(1764-1794)は、ルイ15世の息子である王太子ルイ・フェルディナンドとマリー=ジョゼフ・ド・サックスとの間に8人兄弟の末娘として生まれました。ルイ16世は10歳年上の兄にあたります。謙虚で信仰心が篤く、聖女と呼ばれた彼女は、1789年に勃発したフランス革命の最中にも、兄の国王ルイ16世を慕い、その運命を共にしました。革命の運命の嵐に巻き込まれた彼女は、国王一家とともに幽閉された後、1794年5月9日に死の宣告を受け、翌日30歳でその生涯を閉じました。 1782年、エリザベートは画家ヴィジェ=ルブランのためにポーズを取りました。その際に描かれた最初の肖像画は現在所在不明であるが、その絵をもとにした幾つかのヴァージョンが知られており、本作もその1枚です。 本作で王女は、モスリンのキャミソールにすみれ色の絹のドレスを着て、ライトブルーの絹の大きなリボンと縞模様のベルトをつけて描かれています。彼女が被っている色とりどりの花をあしらった大きな麦わら帽子は、当時の貴族たちに流行した田園趣味を象徴しています。ヴィジェ=ルブランはエリザベートについて、「昔の牧人劇に登場するかわいい恋人役のような魅力ある人だった」と評していますが、本作にもそのような王女の魅力が十分に表現されています。

    エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン「ルイ16世の妹 エリザベート王女」1782年
    エリザベート王女(1764-1794)は、ルイ15世の息子である王太子ルイ・フェルディナンドとマリー=ジョゼフ・ド・サックスとの間に8人兄弟の末娘として生まれました。ルイ16世は10歳年上の兄にあたります。謙虚で信仰心が篤く、聖女と呼ばれた彼女は、1789年に勃発したフランス革命の最中にも、兄の国王ルイ16世を慕い、その運命を共にしました。革命の運命の嵐に巻き込まれた彼女は、国王一家とともに幽閉された後、1794年5月9日に死の宣告を受け、翌日30歳でその生涯を閉じました。 1782年、エリザベートは画家ヴィジェ=ルブランのためにポーズを取りました。その際に描かれた最初の肖像画は現在所在不明であるが、その絵をもとにした幾つかのヴァージョンが知られており、本作もその1枚です。 本作で王女は、モスリンのキャミソールにすみれ色の絹のドレスを着て、ライトブルーの絹の大きなリボンと縞模様のベルトをつけて描かれています。彼女が被っている色とりどりの花をあしらった大きな麦わら帽子は、当時の貴族たちに流行した田園趣味を象徴しています。ヴィジェ=ルブランはエリザベートについて、「昔の牧人劇に登場するかわいい恋人役のような魅力ある人だった」と評していますが、本作にもそのような王女の魅力が十分に表現されています。

  • ロベール・ルフェーヴル「ナポレオン1世」19世紀<br />やや斜めを向いた皇帝ナポレオン。彼の射るような視線と引き締まった口元は、今まさに画面の外の人物に向かって、命令を伝えようとしているような印象を受けます。自信に満ちたその表情には、フランス皇帝としての威厳が備わっています。このような皇帝の肖像画は、各宮殿を飾るため複製画が多数制作されましたが、本作もその1点と思われます。本作のオリジナルは現在ヴェルサイユ宮国立美術館に所蔵されています。

    ロベール・ルフェーヴル「ナポレオン1世」19世紀
    やや斜めを向いた皇帝ナポレオン。彼の射るような視線と引き締まった口元は、今まさに画面の外の人物に向かって、命令を伝えようとしているような印象を受けます。自信に満ちたその表情には、フランス皇帝としての威厳が備わっています。このような皇帝の肖像画は、各宮殿を飾るため複製画が多数制作されましたが、本作もその1点と思われます。本作のオリジナルは現在ヴェルサイユ宮国立美術館に所蔵されています。

  • ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房「ナント侯アントワーヌ・フランセ伯爵の肖像」1811年頃<br />

    ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房「ナント侯アントワーヌ・フランセ伯爵の肖像」1811年頃

  • ヘンリー・レイバーン「アダム・ファーガソンの肖像」18世紀後半<br />この肖像画に描かれているアダム・ファーガソン(1723-1816)は、『国富論』の著者アダム・スミスと並ぶ、スコットランド啓蒙を代表する思想家です。主著に『市民社会史論』があり、原始社会から市民社会への発展を論じた本書は、マルクスらの社会的分業論に大きな影響を与えたとされます。 1759年、彼はデヴィッド・ヒュームの後押しでエディンバラ大学の教授となりました。のちに彼が担当した道徳哲学講座はエディンバラ大学の人気講座となり、遠くロンドンからも受講者が訪れたといいいます。本作に描かれたファーガソンの傍らにも、道徳哲学についての著作が積まれています。仄暗い部屋を背景に、赤い椅子に座る碩学の風貌が、強い明暗表現によって浮かび上がっています。

    ヘンリー・レイバーン「アダム・ファーガソンの肖像」18世紀後半
    この肖像画に描かれているアダム・ファーガソン(1723-1816)は、『国富論』の著者アダム・スミスと並ぶ、スコットランド啓蒙を代表する思想家です。主著に『市民社会史論』があり、原始社会から市民社会への発展を論じた本書は、マルクスらの社会的分業論に大きな影響を与えたとされます。 1759年、彼はデヴィッド・ヒュームの後押しでエディンバラ大学の教授となりました。のちに彼が担当した道徳哲学講座はエディンバラ大学の人気講座となり、遠くロンドンからも受講者が訪れたといいいます。本作に描かれたファーガソンの傍らにも、道徳哲学についての著作が積まれています。仄暗い部屋を背景に、赤い椅子に座る碩学の風貌が、強い明暗表現によって浮かび上がっています。

  • ジャン=フランソワ・ミレー「男の肖像」1840-41年頃<br />幼い頃から絵の世界に興味を示したミレーは、1833年にシェルブールに赴き、ダヴィッド派の肖像画家ムシェルについて初めて絵を学びました。2年後には、同じシェルブールの画家でグロの弟子ラングロワに師事。翌年には、シェルブール市の奨学金を得てパリに行き、アカデミズムの画家ドラローシュのアトリエに入門しました。 しかし、ミレーはこうした教室での修業には馴染めず、もっぱらルーヴル美術館に通って模写をするという日々が続きましたが、1840年、《ルフラン氏の肖像》でサロンに初入選を果たし、画家としてスタートをきることができました。26歳のときです。 彼は肖像画家として身を立てるためにシェルブールに戻り、さっそく同市から依頼された前市長の肖像画を仕上げるものの、モデルの理想化を排したその作品のリアリズムに、市議会は受取りを拒否するという出来事もありました。職業画家としての成功と失敗の因子が交錯するなかで、1841年秋、最初の妻ポーリーヌ・ヴィルジニー・オノと結婚。二人はパリに出て新出発を期しますが、その成功はおぼつかないものでした。 このような時期に描かれたと推測されるこの肖像画は、鼻の下と顎にかすかに薄い髭を生やした長髪の男性を、限られた色数と簡潔なタッチで、冷徹にして虚飾のない表現で描き出している。同じ頃に制作された肖像画で良く知られたものに《自画像》(1841年、シェルブール、トマ・アンリ美術館蔵)があり、その作風は本作と良く似た特徴を示しています。画面左下に大きな文字で記された署名は《ウィトル氏の肖像》(1845年、日本・個人蔵)にあるのと同じタイプのもので、はっきりと力強く書かれた筆跡には、まだ初々しさが感じられます。後にバルビゾン派を代表する農民画家として有名となるミレーの最初期の肖像画の一つです。

    イチオシ

    ジャン=フランソワ・ミレー「男の肖像」1840-41年頃
    幼い頃から絵の世界に興味を示したミレーは、1833年にシェルブールに赴き、ダヴィッド派の肖像画家ムシェルについて初めて絵を学びました。2年後には、同じシェルブールの画家でグロの弟子ラングロワに師事。翌年には、シェルブール市の奨学金を得てパリに行き、アカデミズムの画家ドラローシュのアトリエに入門しました。 しかし、ミレーはこうした教室での修業には馴染めず、もっぱらルーヴル美術館に通って模写をするという日々が続きましたが、1840年、《ルフラン氏の肖像》でサロンに初入選を果たし、画家としてスタートをきることができました。26歳のときです。 彼は肖像画家として身を立てるためにシェルブールに戻り、さっそく同市から依頼された前市長の肖像画を仕上げるものの、モデルの理想化を排したその作品のリアリズムに、市議会は受取りを拒否するという出来事もありました。職業画家としての成功と失敗の因子が交錯するなかで、1841年秋、最初の妻ポーリーヌ・ヴィルジニー・オノと結婚。二人はパリに出て新出発を期しますが、その成功はおぼつかないものでした。 このような時期に描かれたと推測されるこの肖像画は、鼻の下と顎にかすかに薄い髭を生やした長髪の男性を、限られた色数と簡潔なタッチで、冷徹にして虚飾のない表現で描き出している。同じ頃に制作された肖像画で良く知られたものに《自画像》(1841年、シェルブール、トマ・アンリ美術館蔵)があり、その作風は本作と良く似た特徴を示しています。画面左下に大きな文字で記された署名は《ウィトル氏の肖像》(1845年、日本・個人蔵)にあるのと同じタイプのもので、はっきりと力強く書かれた筆跡には、まだ初々しさが感じられます。後にバルビゾン派を代表する農民画家として有名となるミレーの最初期の肖像画の一つです。

  • ジョン・シンガー・サージェント「ハロルド・ウィルソン夫人」1897年<br />サージェントは洗練されたスタイルと性格描写をもって、アメリカやイギリスの上流階級の人々のポートレートを描き続けました。モデルの女性は当時、女性のための実用服として定着しつつあった「ブラウス」に紫色のベルト、そして簡素なスカートを履き、上着として毛皮のあしらわれたケープを羽織っています。19世紀末にはアール・ヌーヴォーが流行し、コルセット を使用し、腰の部分を締めつつ、自然な曲線を意識したフォルムが愛好されました。サージェントはクロード・モネとも親交をもち、印象主義をよく理解していた画家でもありますが、本作のように静的でアカデミックな要素の強い絵画を主としました。

    ジョン・シンガー・サージェント「ハロルド・ウィルソン夫人」1897年
    サージェントは洗練されたスタイルと性格描写をもって、アメリカやイギリスの上流階級の人々のポートレートを描き続けました。モデルの女性は当時、女性のための実用服として定着しつつあった「ブラウス」に紫色のベルト、そして簡素なスカートを履き、上着として毛皮のあしらわれたケープを羽織っています。19世紀末にはアール・ヌーヴォーが流行し、コルセット を使用し、腰の部分を締めつつ、自然な曲線を意識したフォルムが愛好されました。サージェントはクロード・モネとも親交をもち、印象主義をよく理解していた画家でもありますが、本作のように静的でアカデミックな要素の強い絵画を主としました。

  • パオロ・ヴェロネーゼ(パオロ・カリアーリ)と工房「少年と騎士見習」1570年代<br />優雅な服をまとった貴族の少年が、こちら側、すなわち私たち絵の鑑賞者がいる部屋に入ろうとしています。傍らに立つ騎士見習は後ろを振り返り、カーテンの後ろにいる男と会話を交しており、足元のグレイハウンド犬がその声のする方を見上げています。 ヴェロネーゼは、貴族の別荘の装飾をいくつか手がけていますが、本作はもともと、それらの部屋のドアに描かれた装飾画でした。(本作では作品の保存のため、後年になって、絵具層がカンヴァスに移し替えられています。) 絵の中の架空の扉を開けて入ってくる騎士見習や少年を愛らしく描く、こうしたトロンプ=ルイユ(だまし絵)的な手法によって、建築家・彫刻家・画家が共同作業をして一つの邸宅の総合的な装飾に取り組む上で、建築装飾から絵画装飾へと切れ目無くつながる大きな効果をあげています。この絵は、《戦士と騎士見習》と題される同じサイズの別作品と対をなしており、洒落た室内装飾の一翼を担っていたのであろう。 本作にみられるようなローズとグリーンの微妙な色彩のハーモニーと、柔らかい黄色の明るさは、ヴェロネーゼが好んだ特色ある色の使い方です。またヴェロネーゼは、犬や子どもを描くことが好きで、《エマオの巡礼者たち》や《カナの婚宴》(ともにルーヴル美術館)のような大きな宗教画においてさえ、婦人像とともに子どもや犬を描き込んでいます。こうした世俗的表現は、17世紀フランドル絵画のルーベンス、ヴァン・ダイクや、18世紀フランスのロココ絵画に先駆するものとして注目されます。

    パオロ・ヴェロネーゼ(パオロ・カリアーリ)と工房「少年と騎士見習」1570年代
    優雅な服をまとった貴族の少年が、こちら側、すなわち私たち絵の鑑賞者がいる部屋に入ろうとしています。傍らに立つ騎士見習は後ろを振り返り、カーテンの後ろにいる男と会話を交しており、足元のグレイハウンド犬がその声のする方を見上げています。 ヴェロネーゼは、貴族の別荘の装飾をいくつか手がけていますが、本作はもともと、それらの部屋のドアに描かれた装飾画でした。(本作では作品の保存のため、後年になって、絵具層がカンヴァスに移し替えられています。) 絵の中の架空の扉を開けて入ってくる騎士見習や少年を愛らしく描く、こうしたトロンプ=ルイユ(だまし絵)的な手法によって、建築家・彫刻家・画家が共同作業をして一つの邸宅の総合的な装飾に取り組む上で、建築装飾から絵画装飾へと切れ目無くつながる大きな効果をあげています。この絵は、《戦士と騎士見習》と題される同じサイズの別作品と対をなしており、洒落た室内装飾の一翼を担っていたのであろう。 本作にみられるようなローズとグリーンの微妙な色彩のハーモニーと、柔らかい黄色の明るさは、ヴェロネーゼが好んだ特色ある色の使い方です。またヴェロネーゼは、犬や子どもを描くことが好きで、《エマオの巡礼者たち》や《カナの婚宴》(ともにルーヴル美術館)のような大きな宗教画においてさえ、婦人像とともに子どもや犬を描き込んでいます。こうした世俗的表現は、17世紀フランドル絵画のルーベンス、ヴァン・ダイクや、18世紀フランスのロココ絵画に先駆するものとして注目されます。

  • ピエール・ベルゲーニュ「田園の奏楽」17世紀後半-18世紀初頭

    ピエール・ベルゲーニュ「田園の奏楽」17世紀後半-18世紀初頭

  • ジョシュア・レノルズ「少女と犬」1780年頃<br />この魅惑的な作品は、レノルズの後期の作品に見られるファンシー・ワーク(幻想的絵画)の典型といえるもので、このようなジャンルの作品群の中でも、際立って出色の出来映えを示す傑作といってよい。この主題は大変な人気を博し、同一の構図による多くの類作が残されている。 モデルの少女が誰なのかは判っていないが、19世紀を通じて《少女と犬》というタイトルで知られていたようです。田園風景とおぼしき背景に、犬を抱きしめる少女を大きくクローズアップして描いた本作は、肖像画と風俗画の中間をゆくような作品で、ここには同時代の英国作家ゲインズバラとの近似性を見い出すことができます。すなわち古典的な型どおりの肖像画の手法を脱し、自由で親しみやすい作風を追求したもので、本作と似たような子どもの肖像画で、1780年代に描かれた有名な作品に《ヘアのおぼっちゃま》(1788年頃、ルーヴル美術館蔵)があります。

    ジョシュア・レノルズ「少女と犬」1780年頃
    この魅惑的な作品は、レノルズの後期の作品に見られるファンシー・ワーク(幻想的絵画)の典型といえるもので、このようなジャンルの作品群の中でも、際立って出色の出来映えを示す傑作といってよい。この主題は大変な人気を博し、同一の構図による多くの類作が残されている。 モデルの少女が誰なのかは判っていないが、19世紀を通じて《少女と犬》というタイトルで知られていたようです。田園風景とおぼしき背景に、犬を抱きしめる少女を大きくクローズアップして描いた本作は、肖像画と風俗画の中間をゆくような作品で、ここには同時代の英国作家ゲインズバラとの近似性を見い出すことができます。すなわち古典的な型どおりの肖像画の手法を脱し、自由で親しみやすい作風を追求したもので、本作と似たような子どもの肖像画で、1780年代に描かれた有名な作品に《ヘアのおぼっちゃま》(1788年頃、ルーヴル美術館蔵)があります。

  • トマス・ゲインズバラ「田舎家の前の人々」1772-73年<br />暮れなずむ田園風景。とある田舎家の扉の前に家族が集まって一団となり、そこへ薪束を担いだ樵夫が帰ってきました。ある種の叙情をたたえた牧歌的な光景のなかに、理想化された農民たちの姿が描き込まれています。本作はゲインズバラの〈コテージ・ドア〉を主題にした作品群の第1作目の作品です。この主題は、生涯を通じて彼の想像的世界に現われました。ここでは、人物たちが一人一人入念に、注意深く描かれており、仄暗い画中でスポットライトを浴びたように明るく描かれた、赤ん坊を抱いて座る女性の姿は聖母子像を想起させ、それを取り巻く子供たちはコレッジョの描く祭壇画から抜け出してきたキューピッドのようです。樹葉を透かして届く濃厚な夕映えの効果や、窓に反射する光のインパスト(絵具の厚塗り)によって一層の情感を高めつつ、田園の夕暮れの家族像は、絵の中で神聖化されているのです。この作品が描かれたとされる1773年頃は、絵画表現が大きな展開を遂げた画家のバース滞在時代(1759-74)の悼尾を飾る時期にあたり、以後のロンドン滞在時代にその様式の完成をみることになる〈ファンシー・ピクチャー〉(空想画)の世界に繋がるものです。レノルズによって呼ばれたファンシー・ピクチャーという言葉は、18世紀末の肖像画と風俗画の中間に位置する絵画を意味し、田園風景の中に理想化された姿の農民たちが描かれますが、人物はアトリエでポーズをとっているかのように静止しており、実際に風景の中にいるようには見えないのが特徴です。ゲインズバラは「肖像画は生活のために、風景画は楽しみのために描く」と述べていますが、もう一つの得意分野であるこの種の絵画では、空想に満ちた田舎風の光景を、その滑らかな筆力によって自由に構成しており、17~18世紀の先達であるムリーリョ、ヴァトー、グルーズらが示唆した絵画世界を、更に英国風に洗練し発展させたものと解釈することができます。

    トマス・ゲインズバラ「田舎家の前の人々」1772-73年
    暮れなずむ田園風景。とある田舎家の扉の前に家族が集まって一団となり、そこへ薪束を担いだ樵夫が帰ってきました。ある種の叙情をたたえた牧歌的な光景のなかに、理想化された農民たちの姿が描き込まれています。本作はゲインズバラの〈コテージ・ドア〉を主題にした作品群の第1作目の作品です。この主題は、生涯を通じて彼の想像的世界に現われました。ここでは、人物たちが一人一人入念に、注意深く描かれており、仄暗い画中でスポットライトを浴びたように明るく描かれた、赤ん坊を抱いて座る女性の姿は聖母子像を想起させ、それを取り巻く子供たちはコレッジョの描く祭壇画から抜け出してきたキューピッドのようです。樹葉を透かして届く濃厚な夕映えの効果や、窓に反射する光のインパスト(絵具の厚塗り)によって一層の情感を高めつつ、田園の夕暮れの家族像は、絵の中で神聖化されているのです。この作品が描かれたとされる1773年頃は、絵画表現が大きな展開を遂げた画家のバース滞在時代(1759-74)の悼尾を飾る時期にあたり、以後のロンドン滞在時代にその様式の完成をみることになる〈ファンシー・ピクチャー〉(空想画)の世界に繋がるものです。レノルズによって呼ばれたファンシー・ピクチャーという言葉は、18世紀末の肖像画と風俗画の中間に位置する絵画を意味し、田園風景の中に理想化された姿の農民たちが描かれますが、人物はアトリエでポーズをとっているかのように静止しており、実際に風景の中にいるようには見えないのが特徴です。ゲインズバラは「肖像画は生活のために、風景画は楽しみのために描く」と述べていますが、もう一つの得意分野であるこの種の絵画では、空想に満ちた田舎風の光景を、その滑らかな筆力によって自由に構成しており、17~18世紀の先達であるムリーリョ、ヴァトー、グルーズらが示唆した絵画世界を、更に英国風に洗練し発展させたものと解釈することができます。

  • ウィリアム・アドルフ・ブーグロー「漁師の娘」1872年<br />9世紀後半のフランスは、美術の世界でも官展に対抗して印象派が第1回展を開く(1874年)など、新しい時代への転換に向かって、地殻変動が起きた時代でした。しかし正統派を自認するアカデミズムの勢力は健在でした。 アレクサンドル・カバネルとともに、この時代のアカデミズム絵画を代表する画家であるウィリアム・ブーグローは、マネや印象派の画家たちの絵画を拒否した保守派の人物としても有名で、“ブーグロー風”という言葉が印象主義の反意語として用いられもしました。彼は新古典主義の画家ピコの弟子で、1850年にローマ賞を受賞、歴史画や神話画の大作をサロンに出品しています。微妙な明暗まで再現する精緻な描写と磨きあげられたマティエールが際立つその様式は、アカデミックな写実技法の極致といえます。 一方、ブーグローは風俗画も数多く制作しました。1870年代以降は、愛情あふれる母子、牧歌的な風景に愛らしい少女といった定型化した作品を数多く制作するようになりました。本作はこのような時期に描かれた牧歌的少女像のひとつです。網を左肩に担ぎ、籠を右手に抱えてポーズする漁村の若い娘。海辺の場所や着衣などは地味で、頭に被ったスカーフの色と模様がこの絵で唯一の華やかな部分です。それゆえに顔や首すじ、腕や手といった露出した肌の部分の生々しさ、また磁器のように滑らかでみずみずしい描写に、自然と見る者の目は導かれます。ある意味で写真的ともいえる人体の描写は、ブーグロー特有の表現法です。

    ウィリアム・アドルフ・ブーグロー「漁師の娘」1872年
    9世紀後半のフランスは、美術の世界でも官展に対抗して印象派が第1回展を開く(1874年)など、新しい時代への転換に向かって、地殻変動が起きた時代でした。しかし正統派を自認するアカデミズムの勢力は健在でした。 アレクサンドル・カバネルとともに、この時代のアカデミズム絵画を代表する画家であるウィリアム・ブーグローは、マネや印象派の画家たちの絵画を拒否した保守派の人物としても有名で、“ブーグロー風”という言葉が印象主義の反意語として用いられもしました。彼は新古典主義の画家ピコの弟子で、1850年にローマ賞を受賞、歴史画や神話画の大作をサロンに出品しています。微妙な明暗まで再現する精緻な描写と磨きあげられたマティエールが際立つその様式は、アカデミックな写実技法の極致といえます。 一方、ブーグローは風俗画も数多く制作しました。1870年代以降は、愛情あふれる母子、牧歌的な風景に愛らしい少女といった定型化した作品を数多く制作するようになりました。本作はこのような時期に描かれた牧歌的少女像のひとつです。網を左肩に担ぎ、籠を右手に抱えてポーズする漁村の若い娘。海辺の場所や着衣などは地味で、頭に被ったスカーフの色と模様がこの絵で唯一の華やかな部分です。それゆえに顔や首すじ、腕や手といった露出した肌の部分の生々しさ、また磁器のように滑らかでみずみずしい描写に、自然と見る者の目は導かれます。ある意味で写真的ともいえる人体の描写は、ブーグロー特有の表現法です。

  • ミケーレ・ゴルディジャーニ「シルクのソファー」1879年<br />ミケーレ・ゴルディジャーニは、裕福な家に育ったが、小遣いを稼ぐためにタバコ屋の看板描きや、市場での女中や主婦相手の似顔絵描きをはじめ、後の肖像画家としての訓練をしていきました。1856年には、上流階級の注文を受けるようになります。さらに1861年、フィレンツェで開催されたイタリア博覧会では、イタリア王ヴィットリア・エマヌエルの肖像が好評を得て、肖像画家として最高の名誉と栄光と富を獲得しました。本作は、ミケーレの名声が頂点を迎えた時期に描かれたもの。貴族、政治家、音楽家、俳優など、多くの国の上流階級の人々から注文が相継ぎました。素早く仕事を片づけるために写真を用いていましたが、実物をそのままに写し出す写真とは違い、彼は実物の欠点を弱め、より気品高く描くことに努めました。その作品からは、一瞬の心の動きを捉え、そこに一筋の表情の美しさを見い出し、表現することができた彼の才能をうかがい知ることができます。

    ミケーレ・ゴルディジャーニ「シルクのソファー」1879年
    ミケーレ・ゴルディジャーニは、裕福な家に育ったが、小遣いを稼ぐためにタバコ屋の看板描きや、市場での女中や主婦相手の似顔絵描きをはじめ、後の肖像画家としての訓練をしていきました。1856年には、上流階級の注文を受けるようになります。さらに1861年、フィレンツェで開催されたイタリア博覧会では、イタリア王ヴィットリア・エマヌエルの肖像が好評を得て、肖像画家として最高の名誉と栄光と富を獲得しました。本作は、ミケーレの名声が頂点を迎えた時期に描かれたもの。貴族、政治家、音楽家、俳優など、多くの国の上流階級の人々から注文が相継ぎました。素早く仕事を片づけるために写真を用いていましたが、実物をそのままに写し出す写真とは違い、彼は実物の欠点を弱め、より気品高く描くことに努めました。その作品からは、一瞬の心の動きを捉え、そこに一筋の表情の美しさを見い出し、表現することができた彼の才能をうかがい知ることができます。

  • ジュール・ジェーム・ルージュロン「鏡の前の装い」1877年<br />明るいピンク色のドレスに身を包んだ若い貴婦人が、化粧室の鏡の前でポーズをとっています。このドレスは、1870年代から80年代にかけて流行し、腰の後ろに膨らみを作るための腰枠の名前に因み、「バスル・スタイル」と呼ばれます。女性はこれから始まる夜会の身支度しているのでしょう。モデルが顎の下に手をやり、今まさに結ぼうとしているような髪飾りは、既婚女性が正装用としてよく用いたものです。またチェストの上には手袋や香水瓶が置かれ、女性の幾分高揚した雰囲気を演出しています。「化粧をする女」という主題は、フォンテーヌブロー派の時代から愛好されてきましたが、本作も甘美な親密さがあふれる愛らしい作品です。

    ジュール・ジェーム・ルージュロン「鏡の前の装い」1877年
    明るいピンク色のドレスに身を包んだ若い貴婦人が、化粧室の鏡の前でポーズをとっています。このドレスは、1870年代から80年代にかけて流行し、腰の後ろに膨らみを作るための腰枠の名前に因み、「バスル・スタイル」と呼ばれます。女性はこれから始まる夜会の身支度しているのでしょう。モデルが顎の下に手をやり、今まさに結ぼうとしているような髪飾りは、既婚女性が正装用としてよく用いたものです。またチェストの上には手袋や香水瓶が置かれ、女性の幾分高揚した雰囲気を演出しています。「化粧をする女」という主題は、フォンテーヌブロー派の時代から愛好されてきましたが、本作も甘美な親密さがあふれる愛らしい作品です。

  • アンドリース・ファン・エールトフェルト「オランダ船対バーバリ海賊船の海戦」17世紀前半<br />ここに描かれている海戦がいつの出来事かは確認されていません。さまざまな旗や紋章から察するところ、おそらくオランダとバーバリの交戦であったと推測されます。バーバリは、現在のエジプト西部から北大西洋沿岸一帯の北アフリカの古称。海洋画というジャンルは17世紀の初めにオランダで好まれ、はじめてこのジャンルの専門画家も現れて、のちに海洋国イギリスでも愛好されました。

    アンドリース・ファン・エールトフェルト「オランダ船対バーバリ海賊船の海戦」17世紀前半
    ここに描かれている海戦がいつの出来事かは確認されていません。さまざまな旗や紋章から察するところ、おそらくオランダとバーバリの交戦であったと推測されます。バーバリは、現在のエジプト西部から北大西洋沿岸一帯の北アフリカの古称。海洋画というジャンルは17世紀の初めにオランダで好まれ、はじめてこのジャンルの専門画家も現れて、のちに海洋国イギリスでも愛好されました。

  • ヤン・ファン・ホイエン「釣り人のいる川の風景」1644年<br />ファン・ホイエンは、熱心に風景画の表現を探求しました。小さなボートを所有し、それに乗って海や湖に出て、風や太陽の光、水面の見え方の変化を観察しています。1625年頃より単色による簡潔で構築的な画面へと作風を変化させ、モノクローム的色彩の風景画へ移行していきます。こうした彼の様式が後のオランダ風景画に大きな影響を与えました。 川面の穏やかな流れと遠景の町のシルエットが、詩的な静けさを演出しています。前景右では、ボートに乗った三人の釣り人が投網で漁をしています。その左奥には、たくさんの人を乗せて町に向かう小舟が描かれ、そのマストにはオランダの三色旗が掲げられています。 画面の大半を空が占め、低くとられた水平線に垂直に立つ幾本かの帆船マストが、ともすれば単調になりがちな画面にリズムと奥行きのある空間を作り出しています。こうした低い視点からみた水平線と広い空という構図は、ファン・ホイエンが生み出した独自のスタイルといえます。 モノクローム的色彩の微妙な色調の変化を重視した作者にとって、光の当たり具合でトーンが少しずつ変化する雲や川面は絶好のモチーフとなりました。トーン重視の作風は本作の描かれた1640年代に至って円熟を見せています。

    ヤン・ファン・ホイエン「釣り人のいる川の風景」1644年
    ファン・ホイエンは、熱心に風景画の表現を探求しました。小さなボートを所有し、それに乗って海や湖に出て、風や太陽の光、水面の見え方の変化を観察しています。1625年頃より単色による簡潔で構築的な画面へと作風を変化させ、モノクローム的色彩の風景画へ移行していきます。こうした彼の様式が後のオランダ風景画に大きな影響を与えました。 川面の穏やかな流れと遠景の町のシルエットが、詩的な静けさを演出しています。前景右では、ボートに乗った三人の釣り人が投網で漁をしています。その左奥には、たくさんの人を乗せて町に向かう小舟が描かれ、そのマストにはオランダの三色旗が掲げられています。 画面の大半を空が占め、低くとられた水平線に垂直に立つ幾本かの帆船マストが、ともすれば単調になりがちな画面にリズムと奥行きのある空間を作り出しています。こうした低い視点からみた水平線と広い空という構図は、ファン・ホイエンが生み出した独自のスタイルといえます。 モノクローム的色彩の微妙な色調の変化を重視した作者にとって、光の当たり具合でトーンが少しずつ変化する雲や川面は絶好のモチーフとなりました。トーン重視の作風は本作の描かれた1640年代に至って円熟を見せています。

  • サロモン・ファン・ロイスダール「宿の前での休息」1645年<br />風景画家ヤコプ・ファン・ロイスダール(1628/29?82)の叔父であり、絵画上の師でもあったサロモン・ファン・ロイスダールは、ヤン・ファン・ホイエンとともに当時を代表する風景画家でした。 この二人は後のオランダ風景画の偉大な「古典」時代の基礎を築くことになりますが、1640年代半ば頃からサロモンは、非常に独特な様式を生み出すようになります。大型の画面を用いたことと、年齢を重ねるごとに強烈になっていったその色遣いによって、その作品を見分けることができます。本作はその時期の作品であり、その色遣いと生き生きとした人物の描き方によって他の風景画家たちとは一線を画しています。 この題材はサロモンが好んで描いた風景の主題で、彼の自然に対する詩的な解釈を遺憾なく表現しています。馬が草をはんでいる間、満員の乗客を乗せた屋根なし馬車が宿の前で待っています。その横には覆いのついた馬車が一台止まっています。その左手を馭者に先導された四頭立て馬車が反対の方向へ横切っていきます。背景には近くの村の教会や塔が見えます。中景では牛の一群が牛小屋に向かっており、犬たちが走り回っています。 明と暗、静と動が巧みに描き込まれ、見事に調和のとれた風景画であり、ロイスダールの円熟期の代表作といえます。

    サロモン・ファン・ロイスダール「宿の前での休息」1645年
    風景画家ヤコプ・ファン・ロイスダール(1628/29?82)の叔父であり、絵画上の師でもあったサロモン・ファン・ロイスダールは、ヤン・ファン・ホイエンとともに当時を代表する風景画家でした。 この二人は後のオランダ風景画の偉大な「古典」時代の基礎を築くことになりますが、1640年代半ば頃からサロモンは、非常に独特な様式を生み出すようになります。大型の画面を用いたことと、年齢を重ねるごとに強烈になっていったその色遣いによって、その作品を見分けることができます。本作はその時期の作品であり、その色遣いと生き生きとした人物の描き方によって他の風景画家たちとは一線を画しています。 この題材はサロモンが好んで描いた風景の主題で、彼の自然に対する詩的な解釈を遺憾なく表現しています。馬が草をはんでいる間、満員の乗客を乗せた屋根なし馬車が宿の前で待っています。その横には覆いのついた馬車が一台止まっています。その左手を馭者に先導された四頭立て馬車が反対の方向へ横切っていきます。背景には近くの村の教会や塔が見えます。中景では牛の一群が牛小屋に向かっており、犬たちが走り回っています。 明と暗、静と動が巧みに描き込まれ、見事に調和のとれた風景画であり、ロイスダールの円熟期の代表作といえます。

  • ウィルム・デ・ヘゥス「木立のある風景」17世紀後半<br />ウィルム・デ・ヘゥスは17世紀オランダの画家ヤン・ボト(1615頃?1652)の弟子であったと考えられており、師の作風を忠実に守った画家です。 本作に描かれた構図や主題を理解するためには、ヤン・ボトの様式を解読することが必要です。ヤン・ボトはイタリア、ローマ平原の空想的な、または現実の景観を背景として描いた一群のオランダ人画家のリーダーで、その画面上には牛を追う農夫や、夕陽に映えるローマの廃墟を眺める旅人が登場します。 本作は、このボトの描く風景の生き写しで、樹木、植物、岩、急流、その上に架かる橋、山道を往く旅人(ここでは赤ん坊を抱いた若い母親がロバに乗り、その傍らをその夫と覚しき男性が歩いている)、牛と山羊を追う牧童たち、遠くの廃墟など、画面に登場すべき〈要素〉がすべて盛り込まれています。 ここにはアルプス以北の国々の画家たちが理想とした、南の国イタリアの明るい陽光と牧歌的な詩情あふれる風景への憧憬が託されているのです。

    ウィルム・デ・ヘゥス「木立のある風景」17世紀後半
    ウィルム・デ・ヘゥスは17世紀オランダの画家ヤン・ボト(1615頃?1652)の弟子であったと考えられており、師の作風を忠実に守った画家です。 本作に描かれた構図や主題を理解するためには、ヤン・ボトの様式を解読することが必要です。ヤン・ボトはイタリア、ローマ平原の空想的な、または現実の景観を背景として描いた一群のオランダ人画家のリーダーで、その画面上には牛を追う農夫や、夕陽に映えるローマの廃墟を眺める旅人が登場します。 本作は、このボトの描く風景の生き写しで、樹木、植物、岩、急流、その上に架かる橋、山道を往く旅人(ここでは赤ん坊を抱いた若い母親がロバに乗り、その傍らをその夫と覚しき男性が歩いている)、牛と山羊を追う牧童たち、遠くの廃墟など、画面に登場すべき〈要素〉がすべて盛り込まれています。 ここにはアルプス以北の国々の画家たちが理想とした、南の国イタリアの明るい陽光と牧歌的な詩情あふれる風景への憧憬が託されているのです。

  • ヤン・ハッカールト「イタリア的な風景」17世紀<br />17世紀のオランダで、イタリア的な風景画が流行した要因の一つに、オランダではまず見ることができない強い陽気な日射しと、詩情溢れる広大な田園での生活に対する人々の憧憬を挙げることができます。古典の英雄や歴史物語に胸を踊らせていたとは判じがたく、それは画中に神話・歴史上の登場人物が配されず、物語性が含まれないことからも証明されます。17世紀オランダの大都市に暮らす市民にとって、田舎での素朴な生活を夢想させてくれる風景画は、ほんの束の間でも心の清涼剤になったことでしょう。

    ヤン・ハッカールト「イタリア的な風景」17世紀
    17世紀のオランダで、イタリア的な風景画が流行した要因の一つに、オランダではまず見ることができない強い陽気な日射しと、詩情溢れる広大な田園での生活に対する人々の憧憬を挙げることができます。古典の英雄や歴史物語に胸を踊らせていたとは判じがたく、それは画中に神話・歴史上の登場人物が配されず、物語性が含まれないことからも証明されます。17世紀オランダの大都市に暮らす市民にとって、田舎での素朴な生活を夢想させてくれる風景画は、ほんの束の間でも心の清涼剤になったことでしょう。

  • カナレット(ジョヴァンニ・アントニオ・カナル)「ヴェネツィア、サンマルコ広場」1732-33年<br />鋭い遠近法が、人間の視界ではおよそ不可能な横長のアングルを実現させています。左側のサンマルコ寺院をはじめ建築物の細部描写には、作者の几帳面な筆使いとはっきりとした明暗の使い分けが認められますが、これらが総合されて画面全体の写真的リアリズムが生み出されます。ヴェネツィアの水と大気を含んだ空の青と、燦々と降り注ぐ太陽光を受けた地上風景のオレンジとが創りだす色彩のハーモニーは、カナレットの絵画の基調でもあります。

    カナレット(ジョヴァンニ・アントニオ・カナル)「ヴェネツィア、サンマルコ広場」1732-33年
    鋭い遠近法が、人間の視界ではおよそ不可能な横長のアングルを実現させています。左側のサンマルコ寺院をはじめ建築物の細部描写には、作者の几帳面な筆使いとはっきりとした明暗の使い分けが認められますが、これらが総合されて画面全体の写真的リアリズムが生み出されます。ヴェネツィアの水と大気を含んだ空の青と、燦々と降り注ぐ太陽光を受けた地上風景のオレンジとが創りだす色彩のハーモニーは、カナレットの絵画の基調でもあります。

  • クロード・ロラン(クロード・ジュレ)「小川のある森の風景」1630年<br />褐色の前景、緑の中景、そして青いパノラマ的遠景という微妙に変化する淡い色彩の段階的な移行を用いた完璧な空気遠近法と古典的な構図の中に、物語性をほのめかす人物を配したロランのごく初期の風景画。 拡散する光が空間を満たし、深い静寂感の中に見る者を瞑想の世界へと誘います。ローマ近郊の田園地帯(カンパーニャ)の実在する風景をもとに描いたと考えられる本作は、厳密な自然描写による風景と思われるため、詩的で理想的な風景画を人為的に構成したロランらしい表現ではないという見方もできます。しかし、彼の名高い素描と同様、油彩画においても正確な自然描写はこのように厳然と存在しています。ここと同じ場所を描いたものに、ロランとの相互関係が注目されるオランダの画家ブレーンベルフの大型の素描(ルーヴル美術館)があり、この場所が人気のある写生場所であったことは間違いありません。また繊細に描かれた群葉、川岸に生い茂っている低木や潅木、さらに人物描写等には彼独自の特徴が見られます。 この画面に表現された人物から推定すると、描かれた物語は古代ギリシア神話に登場する一挿話<アモルとプシュケ>であろう。愛(アモル)が魂(プシュケ)を求める寓話で、物語はこうである。 「美貌の王女プシュケにアモルが恋をし、何も知らない彼女は谷間の宮殿に導かれ、人間の姿をしたアモルと夫婦になる。二人はいつも暗闇の中で会ったので、彼の正体は秘められていたが、ある時つい眠るアモルの姿を見てしまう。アモルは怒り、宮殿は消えて、プシュケは世界を彷徨う・・・。」 前景中央の座っている女性がプシュケで、恋人アモルに見放されて深いもの思いに沈んでいるところを農夫に慰められている場面。周囲を取り囲まれたような印象のあるこの川面の場所は、物語に出てくる幻の宮殿があった谷間を連想させます。

    クロード・ロラン(クロード・ジュレ)「小川のある森の風景」1630年
    褐色の前景、緑の中景、そして青いパノラマ的遠景という微妙に変化する淡い色彩の段階的な移行を用いた完璧な空気遠近法と古典的な構図の中に、物語性をほのめかす人物を配したロランのごく初期の風景画。 拡散する光が空間を満たし、深い静寂感の中に見る者を瞑想の世界へと誘います。ローマ近郊の田園地帯(カンパーニャ)の実在する風景をもとに描いたと考えられる本作は、厳密な自然描写による風景と思われるため、詩的で理想的な風景画を人為的に構成したロランらしい表現ではないという見方もできます。しかし、彼の名高い素描と同様、油彩画においても正確な自然描写はこのように厳然と存在しています。ここと同じ場所を描いたものに、ロランとの相互関係が注目されるオランダの画家ブレーンベルフの大型の素描(ルーヴル美術館)があり、この場所が人気のある写生場所であったことは間違いありません。また繊細に描かれた群葉、川岸に生い茂っている低木や潅木、さらに人物描写等には彼独自の特徴が見られます。 この画面に表現された人物から推定すると、描かれた物語は古代ギリシア神話に登場する一挿話<アモルとプシュケ>であろう。愛(アモル)が魂(プシュケ)を求める寓話で、物語はこうである。 「美貌の王女プシュケにアモルが恋をし、何も知らない彼女は谷間の宮殿に導かれ、人間の姿をしたアモルと夫婦になる。二人はいつも暗闇の中で会ったので、彼の正体は秘められていたが、ある時つい眠るアモルの姿を見てしまう。アモルは怒り、宮殿は消えて、プシュケは世界を彷徨う・・・。」 前景中央の座っている女性がプシュケで、恋人アモルに見放されて深いもの思いに沈んでいるところを農夫に慰められている場面。周囲を取り囲まれたような印象のあるこの川面の場所は、物語に出てくる幻の宮殿があった谷間を連想させます。

  • ユベール・ロベール「スフィンクス橋の眺め」1767年<br />古代風の建物や廃墟を主題に描いたロマン主義風景画や、18世紀後半のパリの生活や出来事を描きとめた記録画を得意としたユベール・ロベールは、1754年から65年までローマに滞在しました。この期間に、「廃墟の画家」として知られるピラネージやパニーニと知り合っています。ロベールが古代の建築やモニュメントを同時代のモチーフと組み合わせて描くスタイルはこのローマ滞在に影響を受けています。 本作の画面の前景では、川にかかる石橋のアーチの下で、女たちが洗濯や炊事に余念がありません。スフィンクス型の2対のライオン像が置かれた石の階段を上り降りする人々、母親の傍で戯れる子どもたち、両岸に渡された板の上を歩く犬など、日常のありふれた生活のひとコマが描き出されています。一方、対岸の左下方は反対に暗くなっていて、薪を焚く炎の黄色い明るさが周囲の暗さを強調する格好になっています。川面に沿って上流の方向に眼を向けると、遠景には二つのアーチをもつ石橋の下に滝のような急流があり、ごつごつとした大きな岩の間をぬって下り落ちているのが見えます。繁みのある岩場の上には古城がそびえ立っています。近景の現実的な生活空間とは対照的なロマン主義風の非現実な空間ともいえる光景で、明るい幻を見ているような印象を受けます。 すなわちこの作品は、近景では当時の庶民の生活風景を、遠景では橋と城のあるロマン主義的な風景を表わしており、その両者を一つの画面に組み合わせて描いた彼の得意のスタイルといえます。ロベールはローマから戻った後、本作が描かれた1767年には王立絵画彫刻アカデミーに入会し、その後も宮殿の装飾などを手がけて活躍しました。

    ユベール・ロベール「スフィンクス橋の眺め」1767年
    古代風の建物や廃墟を主題に描いたロマン主義風景画や、18世紀後半のパリの生活や出来事を描きとめた記録画を得意としたユベール・ロベールは、1754年から65年までローマに滞在しました。この期間に、「廃墟の画家」として知られるピラネージやパニーニと知り合っています。ロベールが古代の建築やモニュメントを同時代のモチーフと組み合わせて描くスタイルはこのローマ滞在に影響を受けています。 本作の画面の前景では、川にかかる石橋のアーチの下で、女たちが洗濯や炊事に余念がありません。スフィンクス型の2対のライオン像が置かれた石の階段を上り降りする人々、母親の傍で戯れる子どもたち、両岸に渡された板の上を歩く犬など、日常のありふれた生活のひとコマが描き出されています。一方、対岸の左下方は反対に暗くなっていて、薪を焚く炎の黄色い明るさが周囲の暗さを強調する格好になっています。川面に沿って上流の方向に眼を向けると、遠景には二つのアーチをもつ石橋の下に滝のような急流があり、ごつごつとした大きな岩の間をぬって下り落ちているのが見えます。繁みのある岩場の上には古城がそびえ立っています。近景の現実的な生活空間とは対照的なロマン主義風の非現実な空間ともいえる光景で、明るい幻を見ているような印象を受けます。 すなわちこの作品は、近景では当時の庶民の生活風景を、遠景では橋と城のあるロマン主義的な風景を表わしており、その両者を一つの画面に組み合わせて描いた彼の得意のスタイルといえます。ロベールはローマから戻った後、本作が描かれた1767年には王立絵画彫刻アカデミーに入会し、その後も宮殿の装飾などを手がけて活躍しました。

  • ヤン・グリフィエ「川の風景」7世紀後半ー18世紀初頭

    ヤン・グリフィエ「川の風景」7世紀後半ー18世紀初頭

  • ジャン=バティスト・モノワイエ「花」17世紀<br />太陽王ルイ14世時代のヴェルサイユ宮殿において、宮廷の首席画家モノワイエは、60点にも及ぶ「花の肖像画」を描き、その作品が宮殿中を飾ったといわれます。彼は17世紀フランスにあって最も活躍をした「花の画家」でありました。 当時大きな影響力をもっていた宮廷画家シャルル・ルブランの援助と友情もあって、モノワイエはその豊かな才能と意欲的な創作力を存分に発揮しました。ヴェルサイユ以外にもヴァンセンヌ、トリアノン、マルリーなど各地の王宮の装飾に従事し、1678年には英国に渡り、そこでも有名になりました。やがてメアリー女王にも用いられるようになり、モノワイエの絵はウィンザー城、ケンジントン、ハンプトン・コートでも見られるようになったといいます。 このように両国の王や貴族たちの人気を集めた彼の作品は、広大な宮殿や貴族の邸宅を装飾するための「花の絵画」の一様式として発展しました。その作風はフランドルやイタリアの装飾性豊かなバロック風に加えて、フランスらしい軽快さと洗練されたセンスの良さを感じさせる優雅さを持っている。 本作で彼は花の季節にはこだわらず、本来ならば同時期に咲くことのない異なる四季の花々をひとつの画面上に集めて描いています。花束は偶然に一緒になったかのように自然に見えますが、画家は全体の調和を保つことに細心の注意を払って花の一輪一輪を丁寧に配置していることが分かります。ここでは白の薔薇、ピンクの牡丹やカーネーション、黄色の百合、赤のアマリリス、薄紫のライラックなどが端正かつ色彩感豊かに描写されています。 完璧なまでに緻密な作業と構想によって描き出された本作は、伝記作家ダルジャンヴィルがモノワイエの絵画について書いた次のような賛辞「これらの花々に欠けているものといえば、かぐわしい香りだけである」という表現こそ相応しいといえます。

    ジャン=バティスト・モノワイエ「花」17世紀
    太陽王ルイ14世時代のヴェルサイユ宮殿において、宮廷の首席画家モノワイエは、60点にも及ぶ「花の肖像画」を描き、その作品が宮殿中を飾ったといわれます。彼は17世紀フランスにあって最も活躍をした「花の画家」でありました。 当時大きな影響力をもっていた宮廷画家シャルル・ルブランの援助と友情もあって、モノワイエはその豊かな才能と意欲的な創作力を存分に発揮しました。ヴェルサイユ以外にもヴァンセンヌ、トリアノン、マルリーなど各地の王宮の装飾に従事し、1678年には英国に渡り、そこでも有名になりました。やがてメアリー女王にも用いられるようになり、モノワイエの絵はウィンザー城、ケンジントン、ハンプトン・コートでも見られるようになったといいます。 このように両国の王や貴族たちの人気を集めた彼の作品は、広大な宮殿や貴族の邸宅を装飾するための「花の絵画」の一様式として発展しました。その作風はフランドルやイタリアの装飾性豊かなバロック風に加えて、フランスらしい軽快さと洗練されたセンスの良さを感じさせる優雅さを持っている。 本作で彼は花の季節にはこだわらず、本来ならば同時期に咲くことのない異なる四季の花々をひとつの画面上に集めて描いています。花束は偶然に一緒になったかのように自然に見えますが、画家は全体の調和を保つことに細心の注意を払って花の一輪一輪を丁寧に配置していることが分かります。ここでは白の薔薇、ピンクの牡丹やカーネーション、黄色の百合、赤のアマリリス、薄紫のライラックなどが端正かつ色彩感豊かに描写されています。 完璧なまでに緻密な作業と構想によって描き出された本作は、伝記作家ダルジャンヴィルがモノワイエの絵画について書いた次のような賛辞「これらの花々に欠けているものといえば、かぐわしい香りだけである」という表現こそ相応しいといえます。

  • コルネリス・ファン・スペンドンク「花と果物のある静物」1804年<br />

    コルネリス・ファン・スペンドンク「花と果物のある静物」1804年

  • アンリ・ファンタン=ラトゥール「葡萄と桃のある静物」19世紀後半<br />ファンタン=ラトゥールは、印象派の画家と親しく交遊のあった人物ですが、印象派の運動には参加せず、独自のアカデミックな道を歩んだ画家です。その素地は、若い頃よりルーヴルに通い、16世紀ヴェネツィア派や17世紀フランドルの巨匠たちの作品の模写をした絵画体験から生まれています。本作にみられるように彼の表現は、暗色による渋い背景に、堅固で明快な構成をもつ写実的な造形が特徴です。

    アンリ・ファンタン=ラトゥール「葡萄と桃のある静物」19世紀後半
    ファンタン=ラトゥールは、印象派の画家と親しく交遊のあった人物ですが、印象派の運動には参加せず、独自のアカデミックな道を歩んだ画家です。その素地は、若い頃よりルーヴルに通い、16世紀ヴェネツィア派や17世紀フランドルの巨匠たちの作品の模写をした絵画体験から生まれています。本作にみられるように彼の表現は、暗色による渋い背景に、堅固で明快な構成をもつ写実的な造形が特徴です。

  • ジョセフ・ロデファー・デキャンプ「静物、バラ」1890年頃<br />ジョセフ・ロデファー・デキャンプは、アメリカの画家。シンシナティに生まれ、ミュンヘンで絵画を学びます。1883年にアメリカに戻り、ボストンで画家としての成功を収めます。主にボストンとニューヨークで展覧会を開催し、1897年、「テン・アメリカン・ペインターズ」というアメリカ人画家による印象派グループを結成しました。優雅で当世風の女性の肖像画で知られ、特にモデルの身体的構造や顔の輪郭を正確に描写するのを得意としました。平面的で暗い背景を好み、光の反射やその効果などに伝統的な印象派の作風がうかがえます。

    ジョセフ・ロデファー・デキャンプ「静物、バラ」1890年頃
    ジョセフ・ロデファー・デキャンプは、アメリカの画家。シンシナティに生まれ、ミュンヘンで絵画を学びます。1883年にアメリカに戻り、ボストンで画家としての成功を収めます。主にボストンとニューヨークで展覧会を開催し、1897年、「テン・アメリカン・ペインターズ」というアメリカ人画家による印象派グループを結成しました。優雅で当世風の女性の肖像画で知られ、特にモデルの身体的構造や顔の輪郭を正確に描写するのを得意としました。平面的で暗い背景を好み、光の反射やその効果などに伝統的な印象派の作風がうかがえます。

  • ルイ=レオポルド・ボワイ「ルイ=レオポルド・ボワイ」1795年頃<br />本作は、近年の研究で革命派と反革命派の争いの場面であるとの指摘がなされています。革命後、貴族文化に反対する人々が、貴族の象徴であったキュロットや絹の長靴下を履かず、下層階級の人々が身につけていたパンタロンを着用するようになり、こうした人々を「サン・キュロット(キュロットを履かない人)」と呼びました。画面左側にはジャコバン派といわれる粗末な「サン・キュロット」姿をした人々が見え、右側にはミュスカダンといわれるクラバットを顎まで巻き上げた反革命派の貴族たちが見えます。両グループの衝突は当時頻繁にあったようで、革命後のパリの市中でしばしば見られたといいます。

    ルイ=レオポルド・ボワイ「ルイ=レオポルド・ボワイ」1795年頃
    本作は、近年の研究で革命派と反革命派の争いの場面であるとの指摘がなされています。革命後、貴族文化に反対する人々が、貴族の象徴であったキュロットや絹の長靴下を履かず、下層階級の人々が身につけていたパンタロンを着用するようになり、こうした人々を「サン・キュロット(キュロットを履かない人)」と呼びました。画面左側にはジャコバン派といわれる粗末な「サン・キュロット」姿をした人々が見え、右側にはミュスカダンといわれるクラバットを顎まで巻き上げた反革命派の貴族たちが見えます。両グループの衝突は当時頻繁にあったようで、革命後のパリの市中でしばしば見られたといいます。

  • ジャック=フランソワ・スヴェバック「タボル山の戦い」1812年<br />1798年エジプトを征服したナポレオンは更にシリアまで進軍し、タボル山(ナザレの南東約10km)の麓で再びオスマン=トルコ軍と開戦、勝利を収めました。画面に非常にたくさんの人物を配し、細部に注意を払いながらも、全体的にバランスのとれた画面構成、細部を全体に従属させる手法には注目すべきものがあります。様々な姿態を見せる馬の描写が画面に躍動感を与えていますが、ここに、馬の観察と研究を熱心に行った作者の習練の確かさを見て取ることができます。

    ジャック=フランソワ・スヴェバック「タボル山の戦い」1812年
    1798年エジプトを征服したナポレオンは更にシリアまで進軍し、タボル山(ナザレの南東約10km)の麓で再びオスマン=トルコ軍と開戦、勝利を収めました。画面に非常にたくさんの人物を配し、細部に注意を払いながらも、全体的にバランスのとれた画面構成、細部を全体に従属させる手法には注目すべきものがあります。様々な姿態を見せる馬の描写が画面に躍動感を与えていますが、ここに、馬の観察と研究を熱心に行った作者の習練の確かさを見て取ることができます。

  • ジョセフ・マラード・ウィリアム・ターナー「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」1832年<br />9世紀前半のイギリスで色彩感豊かに水と空気を描き、後のフランス印象主義の先駆的な役割を果たしたターナーは、生涯、海を友とし海景を描き続けました。 本作に描かれた「ユトレヒトシティ64号」は、1688年のイギリス名誉革命の際、イギリス議会に招請されたオランダ提督オレンジ公ウィリアムがイギリスへ向けて出航した艦隊の先導艦。 つまり本作でターナーは、150年前の祖国イギリスを救った歴史的な出来事───オレンジ公ウィリアムが妻メアリ2世とともに共同統治者として王に即位(ウィリアム3世)し、権利章典が定められ近代議会政治の基礎が確立した───をテーマに、いわば「歴史画」の主題を制作のきっかけにして、歴史画の枠組みを超えた「船と海のジオラマ」を描いています。ただし、ターナーは想像だけで描いているわけではなく、船の構造にも詳しく、この絵でもかなり正確に17世紀の船を再現していると思われます。 曇り空で風が強く、天候が定まらないのであろう、近景では黒い波が大きくうねり、その向こうでは白い波頭が小刻みに動いています。全体的にグレーとブルーの寒色系の色調に重く沈んでいる海。そこに左上方から海上に向かって斜めにうす日が差し込んでいて、風を受けた帆船を淡いオレンジ色に染めています。左から右へ、上から下へ、重苦しい海に動きが加わり、寒色の中にわずかな暖色を見いだすことができます。ここには、海、空、雲、光、風、大気、帆船といったターナーの絵画の主要なモチーフを見ることができます。 この作品は1832年のロイヤル・アカデミーの展覧会に出品されましたが、そこでちょっと面白い「事件」が起きています。展覧会の直前の最後の手直しが許される日に、隣に展示された好敵手コンスタブルの絵に刺激を受け、よりいっそう効果を上げるため、中央よりやや右の海上に、最後に赤いブイを描き入れたというのです。

    ジョセフ・マラード・ウィリアム・ターナー「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」1832年
    9世紀前半のイギリスで色彩感豊かに水と空気を描き、後のフランス印象主義の先駆的な役割を果たしたターナーは、生涯、海を友とし海景を描き続けました。 本作に描かれた「ユトレヒトシティ64号」は、1688年のイギリス名誉革命の際、イギリス議会に招請されたオランダ提督オレンジ公ウィリアムがイギリスへ向けて出航した艦隊の先導艦。 つまり本作でターナーは、150年前の祖国イギリスを救った歴史的な出来事───オレンジ公ウィリアムが妻メアリ2世とともに共同統治者として王に即位(ウィリアム3世)し、権利章典が定められ近代議会政治の基礎が確立した───をテーマに、いわば「歴史画」の主題を制作のきっかけにして、歴史画の枠組みを超えた「船と海のジオラマ」を描いています。ただし、ターナーは想像だけで描いているわけではなく、船の構造にも詳しく、この絵でもかなり正確に17世紀の船を再現していると思われます。 曇り空で風が強く、天候が定まらないのであろう、近景では黒い波が大きくうねり、その向こうでは白い波頭が小刻みに動いています。全体的にグレーとブルーの寒色系の色調に重く沈んでいる海。そこに左上方から海上に向かって斜めにうす日が差し込んでいて、風を受けた帆船を淡いオレンジ色に染めています。左から右へ、上から下へ、重苦しい海に動きが加わり、寒色の中にわずかな暖色を見いだすことができます。ここには、海、空、雲、光、風、大気、帆船といったターナーの絵画の主要なモチーフを見ることができます。 この作品は1832年のロイヤル・アカデミーの展覧会に出品されましたが、そこでちょっと面白い「事件」が起きています。展覧会の直前の最後の手直しが許される日に、隣に展示された好敵手コンスタブルの絵に刺激を受け、よりいっそう効果を上げるため、中央よりやや右の海上に、最後に赤いブイを描き入れたというのです。

  • ジャン=バティスト・カミーユ・コロー「もの思い」1865-70年頃<br />生来の風景画の詩人であるコローは、また人物画の名手でもありました。 40歳を過ぎた頃から、知人の娘や友人の子どもたちをモデルに肖像画を描いていましたが、1850年頃よりコローの人物画に変化が見え始めます。綿密に細部まで描かれることはなくなり、個人的なモデルの特徴をとどめるものも失われていきます。コローの描く人物像は、「寓意性」が強められ、芸術の本質を詩的に想起させようとする試みに結び付いた「象徴性」を帯びるようになります。 一方、このような人物が置かれる風景は、特定の場所ではない架空の、また普遍的な自然そのものの雰囲気を醸し出す背景として描かれます。画面はロマンティックな夢想と、夢見るような憂愁に満たされ、詩的で静謐な空気に包まれた世界となりました。とくに晩年は、リューマチの発作に悩まされ、戸外での風景写生が制限されたこともあって、屋内でモデルに人物画のポーズをとらせることが多くなりました。1860年代後半の絵画がそれである。 うつむいた少女のほぼ全身を左斜め前方から捉えた本作の構図は、ウィンタートゥールのオスカー・ラインハルト・コレクションにある《読書する羊飼いの少女》(1855ー65年頃)に大変良く似ています。しかし、全体に漂う詩的で瞑想的な雰囲気は、本作の方においてより深まりを見せている。 コローはここで、モデルの背後に、数本の黒褐色の細い線と2つの小さな黄土色のタッチを描き加えています。コローの風景画を知る者にとって、この記号のような微かな線とタッチが何を意味するかは一目瞭然です。樹木の幹か枝か、その梢の向こう側に望まれるのは古城か、周囲の空気を震わすかのような「森の生命」です。これこそ彼が最も得意としたライト・モティーフであり、生涯に幾度となく描き続けた形態でした。瞑想的な人間像として描かれる〈メランコリア〉(憂鬱質)は、芸術家そのものを意味することから、本作は「芸術の象徴」として描かれた寓意像とも解釈することができます。

    ジャン=バティスト・カミーユ・コロー「もの思い」1865-70年頃
    生来の風景画の詩人であるコローは、また人物画の名手でもありました。 40歳を過ぎた頃から、知人の娘や友人の子どもたちをモデルに肖像画を描いていましたが、1850年頃よりコローの人物画に変化が見え始めます。綿密に細部まで描かれることはなくなり、個人的なモデルの特徴をとどめるものも失われていきます。コローの描く人物像は、「寓意性」が強められ、芸術の本質を詩的に想起させようとする試みに結び付いた「象徴性」を帯びるようになります。 一方、このような人物が置かれる風景は、特定の場所ではない架空の、また普遍的な自然そのものの雰囲気を醸し出す背景として描かれます。画面はロマンティックな夢想と、夢見るような憂愁に満たされ、詩的で静謐な空気に包まれた世界となりました。とくに晩年は、リューマチの発作に悩まされ、戸外での風景写生が制限されたこともあって、屋内でモデルに人物画のポーズをとらせることが多くなりました。1860年代後半の絵画がそれである。 うつむいた少女のほぼ全身を左斜め前方から捉えた本作の構図は、ウィンタートゥールのオスカー・ラインハルト・コレクションにある《読書する羊飼いの少女》(1855ー65年頃)に大変良く似ています。しかし、全体に漂う詩的で瞑想的な雰囲気は、本作の方においてより深まりを見せている。 コローはここで、モデルの背後に、数本の黒褐色の細い線と2つの小さな黄土色のタッチを描き加えています。コローの風景画を知る者にとって、この記号のような微かな線とタッチが何を意味するかは一目瞭然です。樹木の幹か枝か、その梢の向こう側に望まれるのは古城か、周囲の空気を震わすかのような「森の生命」です。これこそ彼が最も得意としたライト・モティーフであり、生涯に幾度となく描き続けた形態でした。瞑想的な人間像として描かれる〈メランコリア〉(憂鬱質)は、芸術家そのものを意味することから、本作は「芸術の象徴」として描かれた寓意像とも解釈することができます。

  • ジャン=バティスト・カミーユ・コロー「ユディト」1872-74年頃<br />19世紀風景画家の最高峰、コロー。とりわけ光のとらえ方は、印象派への道を開くものとなりました。風景画の傑作を多数生みだした彼は、晩年の15年間、人物画を描くようになります。初期は家族・友人など身近な人物を肖像画風に描きましたが、やがて、静かに夢想し、詩的な雰囲気の漂う人物を描きます。ユディトは、ユダヤ民族の愛国の女傑。西洋絵画の主要モチーフの一つで、この「ユディト」にはそうしたコローの作風がよく表されています。

    ジャン=バティスト・カミーユ・コロー「ユディト」1872-74年頃
    19世紀風景画家の最高峰、コロー。とりわけ光のとらえ方は、印象派への道を開くものとなりました。風景画の傑作を多数生みだした彼は、晩年の15年間、人物画を描くようになります。初期は家族・友人など身近な人物を肖像画風に描きましたが、やがて、静かに夢想し、詩的な雰囲気の漂う人物を描きます。ユディトは、ユダヤ民族の愛国の女傑。西洋絵画の主要モチーフの一つで、この「ユディト」にはそうしたコローの作風がよく表されています。

  • ウジェーヌ・ドラクロワ「手綱を持つチェルケス人」1858年頃<br />ドラクロワが描いた東方的主題の作品は、他の追随を許さぬ独創的な成果として知られています。東方趣味はナポレオンがエジプト遠征を行ってからヨーロッパに広まり、19世紀前半にロマン主義絵画のテーマと相俟って流行しました。 チェルケス人はヨーロッパとアジアの境といわれるカフカス山脈の麓、北カフカス地方の黒海沿岸に住む民族で、中世には奴隷として多くの人々がイスラム諸国へ流出しました。マムルーク(奴隷軍人)として重用され、エジプトのマムルーク王朝を建てたことは有名です。 本作は、よどみのない自由で流れるような筆致、空のピンクとブルーの色調、小画面ながら宝石のような色彩の輝きは、画家の後期に見られる様式上の特徴をよく示しています。この絵は以前「マムルーク騎兵」と呼ばれ、確たる論証もなしに1828年から1835年頃の間に描かれたものとされていました。しかしながら、一般的にマムルークは回教徒のターバンを着けているものです。実際、ドラクロワ、ジェリコー、グロ、カルル・ヴェルネなどの初期作品にはそのような姿で描かれています。また、チェルケス人としての人物の特徴は、たしかに描写に反映されているのですが、空想の要素も衣服に絡み付いていて、確信をもってチェルケス人と見なすことにも不安が残ります。そのような意味で、本作はドラクロワが1832年前半に北アフリカ諸国を随行訪問した取材で得た映像の記憶をたぐりながら創作をした図なのであろうという推測が成り立ちます。ドラクロワの晩年にあっては、この作品の様式に見るように、東方的な衣装を描く際、そこに独自の芸術的創造を付け加えることに心を奪われていたからです。 本作と同じ構図で1858年4月9日の日付が記されている素描がありますが、これは油彩画を描く前の準備段階で作られたものと見なされ、本作が1858年頃の制作であることの有力な証拠となっています。

    ウジェーヌ・ドラクロワ「手綱を持つチェルケス人」1858年頃
    ドラクロワが描いた東方的主題の作品は、他の追随を許さぬ独創的な成果として知られています。東方趣味はナポレオンがエジプト遠征を行ってからヨーロッパに広まり、19世紀前半にロマン主義絵画のテーマと相俟って流行しました。 チェルケス人はヨーロッパとアジアの境といわれるカフカス山脈の麓、北カフカス地方の黒海沿岸に住む民族で、中世には奴隷として多くの人々がイスラム諸国へ流出しました。マムルーク(奴隷軍人)として重用され、エジプトのマムルーク王朝を建てたことは有名です。 本作は、よどみのない自由で流れるような筆致、空のピンクとブルーの色調、小画面ながら宝石のような色彩の輝きは、画家の後期に見られる様式上の特徴をよく示しています。この絵は以前「マムルーク騎兵」と呼ばれ、確たる論証もなしに1828年から1835年頃の間に描かれたものとされていました。しかしながら、一般的にマムルークは回教徒のターバンを着けているものです。実際、ドラクロワ、ジェリコー、グロ、カルル・ヴェルネなどの初期作品にはそのような姿で描かれています。また、チェルケス人としての人物の特徴は、たしかに描写に反映されているのですが、空想の要素も衣服に絡み付いていて、確信をもってチェルケス人と見なすことにも不安が残ります。そのような意味で、本作はドラクロワが1832年前半に北アフリカ諸国を随行訪問した取材で得た映像の記憶をたぐりながら創作をした図なのであろうという推測が成り立ちます。ドラクロワの晩年にあっては、この作品の様式に見るように、東方的な衣装を描く際、そこに独自の芸術的創造を付け加えることに心を奪われていたからです。 本作と同じ構図で1858年4月9日の日付が記されている素描がありますが、これは油彩画を描く前の準備段階で作られたものと見なされ、本作が1858年頃の制作であることの有力な証拠となっています。

  • コンスタン・トロワイヨン「家畜の群れ」1850-60年代<br />陶磁器の町セーヴルで磁器職人の子に生まれたトロワイヨンは、最初は絵付職人として磁器工場で働いていましたが、その後画家を志し独学で絵を学び、さらに風景画家としての基本を友人の画家ジュール・デュプレとナルシス・ディアズに教わりました。 1840年代のはじめ、パリ近郊フォンテーヌブローの森で制作していたトロワイヨンは、やがてバルビゾンでテオドール・ルソーやポール・ユエらとも交友を結ぶようになり、バルビゾンの画家たちの絵画観に共鳴してゆきます。 風景画家として実力を磨くなか、1847年、オランダでの1年間にわたる滞在は、彼の絵画の方向性を決定する重要な転機となりました。トロワイヨンはオランダの画家パウルス・ポッテルやアルベルト・カイプの作品に触れ、大きな感化を受け、以後「動物画」の世界に独自の画境を拓いてゆくようになります。帰国後、彼は風景の中に家畜、特に牛の群れや牛のいる風景を主に描き、動物画家としての地歩を固めました。 本作には風景画家と動物画家の両方の特徴がよく出ています。地平線の高さを画面のほぼ中央に定め、画家は眼の高さをそれと同じにして画架を立てていまっす。近景の牛の群れを主役に大きく扱い、遠近法の消失点をその向こうの人物付近に置いて、画面の中央の彼方へと視線が届くような構図となっています。先頭の牛二頭が左方向を向いているのは、畜舎がそちらの方にあるのか、また牛の姿を斜め横から美しく描くためにそうしたのか、画面からは定かではありません。午後の放牧から帰る牛や羊の群れに、夕暮れの抒情を託して描いた動物画家の典型的な小品のひとつです。

    コンスタン・トロワイヨン「家畜の群れ」1850-60年代
    陶磁器の町セーヴルで磁器職人の子に生まれたトロワイヨンは、最初は絵付職人として磁器工場で働いていましたが、その後画家を志し独学で絵を学び、さらに風景画家としての基本を友人の画家ジュール・デュプレとナルシス・ディアズに教わりました。 1840年代のはじめ、パリ近郊フォンテーヌブローの森で制作していたトロワイヨンは、やがてバルビゾンでテオドール・ルソーやポール・ユエらとも交友を結ぶようになり、バルビゾンの画家たちの絵画観に共鳴してゆきます。 風景画家として実力を磨くなか、1847年、オランダでの1年間にわたる滞在は、彼の絵画の方向性を決定する重要な転機となりました。トロワイヨンはオランダの画家パウルス・ポッテルやアルベルト・カイプの作品に触れ、大きな感化を受け、以後「動物画」の世界に独自の画境を拓いてゆくようになります。帰国後、彼は風景の中に家畜、特に牛の群れや牛のいる風景を主に描き、動物画家としての地歩を固めました。 本作には風景画家と動物画家の両方の特徴がよく出ています。地平線の高さを画面のほぼ中央に定め、画家は眼の高さをそれと同じにして画架を立てていまっす。近景の牛の群れを主役に大きく扱い、遠近法の消失点をその向こうの人物付近に置いて、画面の中央の彼方へと視線が届くような構図となっています。先頭の牛二頭が左方向を向いているのは、畜舎がそちらの方にあるのか、また牛の姿を斜め横から美しく描くためにそうしたのか、画面からは定かではありません。午後の放牧から帰る牛や羊の群れに、夕暮れの抒情を託して描いた動物画家の典型的な小品のひとつです。

  • ジャン=フランソワ・ミレー「鵞鳥番の少女」1866-67年<br />1849年春にパリからバルビゾン村に移り住んだミレーは、1867年のサロンに本作と同じ題名の《鵞鳥番の少女》という作品を出品しました。同年に友人のサンスィエに宛てた手紙で彼は、この出品作について「私は鵞鳥の鳴声が画面一杯に響き渡るように描きたい。ああ、生命よ!みんな一緒の生命よ!」と記しています。 本作は友人サンスィエの旧蔵品で、前出のサロン出品作と同時期に同じ場所で描かれたものらしく、「鵞鳥の番をする少女」をテーマにしたシリーズの中核をなす作品。下描きの線が透けるほど油絵具を薄く塗り、まるで水彩画のような効果で夏の日ざしに照らされた水辺の雰囲気をよく表しています。 この鵞鳥番の少女というテーマは、大人の労働を描いたミレーの宗教的ともいえる作品群とは趣きを異にし、純粋に牧歌的な世界を表しています。農民生活と自然環境の調和を見事に描いた本作は、円熟したミレー晩年の傑作です。

    ジャン=フランソワ・ミレー「鵞鳥番の少女」1866-67年
    1849年春にパリからバルビゾン村に移り住んだミレーは、1867年のサロンに本作と同じ題名の《鵞鳥番の少女》という作品を出品しました。同年に友人のサンスィエに宛てた手紙で彼は、この出品作について「私は鵞鳥の鳴声が画面一杯に響き渡るように描きたい。ああ、生命よ!みんな一緒の生命よ!」と記しています。 本作は友人サンスィエの旧蔵品で、前出のサロン出品作と同時期に同じ場所で描かれたものらしく、「鵞鳥の番をする少女」をテーマにしたシリーズの中核をなす作品。下描きの線が透けるほど油絵具を薄く塗り、まるで水彩画のような効果で夏の日ざしに照らされた水辺の雰囲気をよく表しています。 この鵞鳥番の少女というテーマは、大人の労働を描いたミレーの宗教的ともいえる作品群とは趣きを異にし、純粋に牧歌的な世界を表しています。農民生活と自然環境の調和を見事に描いた本作は、円熟したミレー晩年の傑作です。

  • シャルル=フランソワ・ドービニー「ヴィレールヴィルの海岸」1870年<br />ドービニーは、普仏戦争を避けて家族とともにヴィレールヴィルおよびロンドンへ旅行をしています。この絵もその旅行中に描かれたものでしょう。 ヴィレールヴィルはノルマンディーの小さな町で、セーヌ川の河口に当たる。浜辺の風景はドービニーの主要なモチーフで、絶えず水のそばから霊感を引き出していた彼独自の世界です。干潮時に、牡蠣や貝を採る女たちの姿を点景として、磯の香漂う抒情を描いた大作。

    シャルル=フランソワ・ドービニー「ヴィレールヴィルの海岸」1870年
    ドービニーは、普仏戦争を避けて家族とともにヴィレールヴィルおよびロンドンへ旅行をしています。この絵もその旅行中に描かれたものでしょう。 ヴィレールヴィルはノルマンディーの小さな町で、セーヌ川の河口に当たる。浜辺の風景はドービニーの主要なモチーフで、絶えず水のそばから霊感を引き出していた彼独自の世界です。干潮時に、牡蠣や貝を採る女たちの姿を点景として、磯の香漂う抒情を描いた大作。

  • ギュスターヴ・クールベ「水平線上のスコール」1872-73年<br />クールベの海景は、1865年から1873年にかけての9年間に集中しています。この時期、彼は英仏海峡に面した美しいノルマンディーの海岸を訪れ、静かな海、荒れ狂う海、船のある浜辺、絶壁が海に迫り出す特異な景観で知られるエトルタの断崖などを連作風に描いています。とくに1869年のエトルタ滞在中には、生涯で最も多くの海景画を残しました。その数はカタログレゾネに所収の作品だけでもおよそ50点以上にのぼります。 クールベは、1871年に国会議員、パリ市会議員の選挙で続けて落選。その後、パリ・コミューンの際にサント=ペラジー監獄に入牢。しかし病気のため手術をうけます。1873年にスイスに亡命するまでの間、生まれ故郷のオルナンですごしますが、体調は思わしくなかった。こうした困難な時期に、クールベにとって絵画上の最良のモチーフとなったのは、ノルマンディーで見た重厚な迫力で押し寄せてくる荒れた嵐の海でした。 本作は、友人の手紙によると、クールベがこのオルナンに滞在していた1872年から73年にかけて制作した一連の海景画のうちの一枚だと推測されます。オルナンはスイス国境に近い地方都市で、海には全く縁がないところですが、1869年のエトルタでの集中的な制作のおかげで、以後数年間は海景をしばしば再創造することができたのでしょう。動感あふれる大波の塊は彼の絶好のテーマで、波の内側に秘められた自然界の力強さを、パレットナイフを駆使して重量感豊かに描いています。この「波」の連作は、有名な「鹿」の連作と並んでクールベ絵画の代名詞ともいえるものです。

    ギュスターヴ・クールベ「水平線上のスコール」1872-73年
    クールベの海景は、1865年から1873年にかけての9年間に集中しています。この時期、彼は英仏海峡に面した美しいノルマンディーの海岸を訪れ、静かな海、荒れ狂う海、船のある浜辺、絶壁が海に迫り出す特異な景観で知られるエトルタの断崖などを連作風に描いています。とくに1869年のエトルタ滞在中には、生涯で最も多くの海景画を残しました。その数はカタログレゾネに所収の作品だけでもおよそ50点以上にのぼります。 クールベは、1871年に国会議員、パリ市会議員の選挙で続けて落選。その後、パリ・コミューンの際にサント=ペラジー監獄に入牢。しかし病気のため手術をうけます。1873年にスイスに亡命するまでの間、生まれ故郷のオルナンですごしますが、体調は思わしくなかった。こうした困難な時期に、クールベにとって絵画上の最良のモチーフとなったのは、ノルマンディーで見た重厚な迫力で押し寄せてくる荒れた嵐の海でした。 本作は、友人の手紙によると、クールベがこのオルナンに滞在していた1872年から73年にかけて制作した一連の海景画のうちの一枚だと推測されます。オルナンはスイス国境に近い地方都市で、海には全く縁がないところですが、1869年のエトルタでの集中的な制作のおかげで、以後数年間は海景をしばしば再創造することができたのでしょう。動感あふれる大波の塊は彼の絶好のテーマで、波の内側に秘められた自然界の力強さを、パレットナイフを駆使して重量感豊かに描いています。この「波」の連作は、有名な「鹿」の連作と並んでクールベ絵画の代名詞ともいえるものです。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「赤い服の女」1892年頃<br />本作には、ルノワールが好んだ〈赤い色〉〈美しい服〉〈若い女性の肌〉〈穏やかさ〉といった要素を見つけることができます。また黄色い帽子も大切な脇役で、ルノワールの絵画にしばしば登場するポイントのひとつとなっています。 この絵が描かれたと思われる1890年代前半は、ルノワールがいわゆるアングル風の「古典の時代」から「真珠色の時代」と呼ばれる新しい画風を確立しつつあった時期にあたります。彼はいよいよ晩年の様式の完成に向かって、新たな一歩を踏み出していきます。1880年代の「古典の時代」での厳格な線による写実主義はすでに影をひそめ、本作にも見る事ができるように、輪郭線は流れ去り、衣服は震えるような色調を帯び、人物は背景とともに光の中に溶け込むかのようです。そこには、柔らかで、穏やかな眼差しの、まるで果実のような典型的な〈ルノワールの女〉があります。人物と背景は、互いに影響しあい、光の中で融合するかのようで、遠近法は失われ、空間は平面に近づいています。色彩はモノの固有色にしばられずに、色そのものの美しさが画家のテーマとなっています。モノの形によってではなく、色彩の輝きによって見る者に働きかけます。 ルノワールの作品に見られるこれらの特徴は、ジャン・クレイが『印象派』の中で分析したように、印象派の画家が伝統的な絵画法を解体して獲得した全く新しい視覚の喜び、ともいうべきものです。なおこの作品は、ベルネーム=ジュンヌ画廊、デュラン=リュエル画廊というルノワール作品を取り扱った最大手の画商から世に出た経歴が残っています。

    イチオシ

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「赤い服の女」1892年頃
    本作には、ルノワールが好んだ〈赤い色〉〈美しい服〉〈若い女性の肌〉〈穏やかさ〉といった要素を見つけることができます。また黄色い帽子も大切な脇役で、ルノワールの絵画にしばしば登場するポイントのひとつとなっています。 この絵が描かれたと思われる1890年代前半は、ルノワールがいわゆるアングル風の「古典の時代」から「真珠色の時代」と呼ばれる新しい画風を確立しつつあった時期にあたります。彼はいよいよ晩年の様式の完成に向かって、新たな一歩を踏み出していきます。1880年代の「古典の時代」での厳格な線による写実主義はすでに影をひそめ、本作にも見る事ができるように、輪郭線は流れ去り、衣服は震えるような色調を帯び、人物は背景とともに光の中に溶け込むかのようです。そこには、柔らかで、穏やかな眼差しの、まるで果実のような典型的な〈ルノワールの女〉があります。人物と背景は、互いに影響しあい、光の中で融合するかのようで、遠近法は失われ、空間は平面に近づいています。色彩はモノの固有色にしばられずに、色そのものの美しさが画家のテーマとなっています。モノの形によってではなく、色彩の輝きによって見る者に働きかけます。 ルノワールの作品に見られるこれらの特徴は、ジャン・クレイが『印象派』の中で分析したように、印象派の画家が伝統的な絵画法を解体して獲得した全く新しい視覚の喜び、ともいうべきものです。なおこの作品は、ベルネーム=ジュンヌ画廊、デュラン=リュエル画廊というルノワール作品を取り扱った最大手の画商から世に出た経歴が残っています。

  • フィンセント・ファン・ゴッホ「鋤仕事をする農婦のいる家」1885年<br />オランダに生まれたゴッホは、ブリュッセルで素描の基礎を学び、1881年、28歳の時、牧師であった父の任地であったオランダ南部のエッテンヘ赴きます。 この年の終わり、ゴッホは画家になることに反対だった父との衝突からハーグへ移り、ハーグ派の画家たちと出会っています。オランダ時代のゴッホの作品は、ハーグ派の画家たちや17世紀のオランダの巨匠たちの作品の影響を受け、全体的に落ち着いた暗い色調で描かれています。 1883年、30歳の時、ハーグを起ったゴッホはやはり父が赴任していたオランダ南部のニューネンへ移ります。この頃より、ゴッホは油彩画に本格的に取り組み、農民や職人、ニューネン近郊の風景を精力的に描いています。 ニューネン時代は、農民画家としてのゴッホが形成されていった重要な時期で、オランダ時代のゴッホの集大成ともいうべき《馬鈴薯を食べる人たち》(1885年)が描かれています。本作は、《馬鈴薯を食べる人たち》が描かれた翌月の、1885年の6月に描かれた作品。 ゴッホは弟テオへ宛てた手紙の中で、 「今は、ここ(ニューネン)から2時間のところで仕事をしているので、全ての時間を有する。私が求めているのは、あといくつかのきれいな荒野の農家。既に4つ、前回送った大きさが2点と、小さいのがいくつかある。」 と述べており、この作品は、この手紙の中で「いくつか」と言及されている作品。 農民が暮らす場所を描くことは、ミレーを崇拝するゴッホにとって、農民の生活の厳しさや、自然との深い結びつきを表現する重要なモチーフでした。ゴッホは愛情を込め、農民の家を、雀より小さな野鳥のミソサザイの巣に喩え「農民の巣」と呼んでいます。その力強いタッチと落ち着いた色調は、大地に根ざして生きる農民のたくましさと、自然の持つ包容力を描きだしています。 同じ時期に描かれた、同じモチーフの作品が、いくつも残っており、このモチーフがゴッホにとって、重要なものであったことが伺えます。

    フィンセント・ファン・ゴッホ「鋤仕事をする農婦のいる家」1885年
    オランダに生まれたゴッホは、ブリュッセルで素描の基礎を学び、1881年、28歳の時、牧師であった父の任地であったオランダ南部のエッテンヘ赴きます。 この年の終わり、ゴッホは画家になることに反対だった父との衝突からハーグへ移り、ハーグ派の画家たちと出会っています。オランダ時代のゴッホの作品は、ハーグ派の画家たちや17世紀のオランダの巨匠たちの作品の影響を受け、全体的に落ち着いた暗い色調で描かれています。 1883年、30歳の時、ハーグを起ったゴッホはやはり父が赴任していたオランダ南部のニューネンへ移ります。この頃より、ゴッホは油彩画に本格的に取り組み、農民や職人、ニューネン近郊の風景を精力的に描いています。 ニューネン時代は、農民画家としてのゴッホが形成されていった重要な時期で、オランダ時代のゴッホの集大成ともいうべき《馬鈴薯を食べる人たち》(1885年)が描かれています。本作は、《馬鈴薯を食べる人たち》が描かれた翌月の、1885年の6月に描かれた作品。 ゴッホは弟テオへ宛てた手紙の中で、 「今は、ここ(ニューネン)から2時間のところで仕事をしているので、全ての時間を有する。私が求めているのは、あといくつかのきれいな荒野の農家。既に4つ、前回送った大きさが2点と、小さいのがいくつかある。」 と述べており、この作品は、この手紙の中で「いくつか」と言及されている作品。 農民が暮らす場所を描くことは、ミレーを崇拝するゴッホにとって、農民の生活の厳しさや、自然との深い結びつきを表現する重要なモチーフでした。ゴッホは愛情を込め、農民の家を、雀より小さな野鳥のミソサザイの巣に喩え「農民の巣」と呼んでいます。その力強いタッチと落ち着いた色調は、大地に根ざして生きる農民のたくましさと、自然の持つ包容力を描きだしています。 同じ時期に描かれた、同じモチーフの作品が、いくつも残っており、このモチーフがゴッホにとって、重要なものであったことが伺えます。

  • ピエール・ボナール「若い女」1905年頃<br />

    ピエール・ボナール「若い女」1905年頃

  • エドゥアール・ヴュイヤール「婦人と子供」1904年<br />婦人はヴュイヤールの姉マリーで、2人の子どもはその娘と息子です。マリーはヴュイヤールの生涯の親友であり画家のケル=グザヴィエ・ルーセルの妻でしたが、ヴュイヤールはルーセルの田舎の邸宅をしばしば訪れ、彼ら家族の絵を描きました。本作でマリーは茶色を主とした簡素なシルエットのドレスに身を包み、姪のアネットは白い帽子、赤いストライプの服を身につけています。ヴュイヤールにとってアネットはとりわけお気に入りのモデルで、他の作品にも同様の出で立ちで描かれています。家族のスナップ写真のアルバムをめくるような、日常生活の親密で温和なモチーフを描いたヴュイヤールらしいショットです。

    エドゥアール・ヴュイヤール「婦人と子供」1904年
    婦人はヴュイヤールの姉マリーで、2人の子どもはその娘と息子です。マリーはヴュイヤールの生涯の親友であり画家のケル=グザヴィエ・ルーセルの妻でしたが、ヴュイヤールはルーセルの田舎の邸宅をしばしば訪れ、彼ら家族の絵を描きました。本作でマリーは茶色を主とした簡素なシルエットのドレスに身を包み、姪のアネットは白い帽子、赤いストライプの服を身につけています。ヴュイヤールにとってアネットはとりわけお気に入りのモデルで、他の作品にも同様の出で立ちで描かれています。家族のスナップ写真のアルバムをめくるような、日常生活の親密で温和なモチーフを描いたヴュイヤールらしいショットです。

  • マリー・ローランサン「二人の女」20世紀前半<br />アポリネールやピカソとの出会いを通じて相次ぐ20世紀の絵画革新の波を体験したローランサンでしたが、その作風は甘美で、繊細で、叙情的な彼女独自の世界を創りあげています。真珠の首飾りが描かれるようになるのは1929年以降のことで、バラの花を持つポーズもお馴染のもの。ローランサンの晩年は、からだも未成熟な美少女をアトリエに侍らせ、薄い布をまとわせて絵を描く日々であったといいます。詩人の言葉を借りれば、それは“女性的なるもの”による“人工楽園”でした。

    マリー・ローランサン「二人の女」20世紀前半
    アポリネールやピカソとの出会いを通じて相次ぐ20世紀の絵画革新の波を体験したローランサンでしたが、その作風は甘美で、繊細で、叙情的な彼女独自の世界を創りあげています。真珠の首飾りが描かれるようになるのは1929年以降のことで、バラの花を持つポーズもお馴染のもの。ローランサンの晩年は、からだも未成熟な美少女をアトリエに侍らせ、薄い布をまとわせて絵を描く日々であったといいます。詩人の言葉を借りれば、それは“女性的なるもの”による“人工楽園”でした。

  • アメデオ・モディリアーニ「ポール・アレクサンドル博士」1909年<br />イタリアのリヴォルノに生まれたモディリアーニは、1906年1月、絵を描くためにパリに出ました。その翌年の11月、本作のモデルとなっている人物───医師で美術愛好家のポール・アレクサンドル博士と知り合います。モディリアーニの作品に関心をもった最初の人です。彼は1914年に第一次世界大戦に出征を余儀なくされるまで、モディリアーニのパトロンであり、この若い画家を激励し、その作品を買い続けました。フランス人で知識豊かな美術愛好家であったポール・アレクサンドルは、無名の芸術家を公衆、画商、収集家に紹介するチャンスのある公的機関にもよく通じており、さまざまな面でモディリアーニを支援し、その芸術活動を支えました。1908年になると、モディリアーニはポール博士とその弟ジャンが創設した芸術家コロニーにしばしば通うようになります。 1909年には同博士の3点の肖像画が描かれましたが、その中では本作が最も完成度が高く、素晴らしい出来映えを示しています。同年に描かれた《乗馬服の女》(ニューヨーク、個人蔵)と同じように、左手を腰にあてたポーズの4分の3分身像となっています。 この博士の肖像画シリーズは、ある意味では「芸術のパトロンが画家へ出資することによって彼の肖像画が描かれる」というルネサンス以来のイタリア絵画の伝統を思い起こさせます。ちょうどこの絵が描かれた頃、モディリアーニは彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと友情を結び、以後の数年間は彫刻に没頭することになります。しかし絵画を放棄したわけではなく、1914年以降の細長く平面的にデフォルメされたいわゆるモディリアーニ様式に繋がってゆきます。本作は若いモディリアーニの瑞々しい感覚が漂う初期の秀作といえます。

    アメデオ・モディリアーニ「ポール・アレクサンドル博士」1909年
    イタリアのリヴォルノに生まれたモディリアーニは、1906年1月、絵を描くためにパリに出ました。その翌年の11月、本作のモデルとなっている人物───医師で美術愛好家のポール・アレクサンドル博士と知り合います。モディリアーニの作品に関心をもった最初の人です。彼は1914年に第一次世界大戦に出征を余儀なくされるまで、モディリアーニのパトロンであり、この若い画家を激励し、その作品を買い続けました。フランス人で知識豊かな美術愛好家であったポール・アレクサンドルは、無名の芸術家を公衆、画商、収集家に紹介するチャンスのある公的機関にもよく通じており、さまざまな面でモディリアーニを支援し、その芸術活動を支えました。1908年になると、モディリアーニはポール博士とその弟ジャンが創設した芸術家コロニーにしばしば通うようになります。 1909年には同博士の3点の肖像画が描かれましたが、その中では本作が最も完成度が高く、素晴らしい出来映えを示しています。同年に描かれた《乗馬服の女》(ニューヨーク、個人蔵)と同じように、左手を腰にあてたポーズの4分の3分身像となっています。 この博士の肖像画シリーズは、ある意味では「芸術のパトロンが画家へ出資することによって彼の肖像画が描かれる」というルネサンス以来のイタリア絵画の伝統を思い起こさせます。ちょうどこの絵が描かれた頃、モディリアーニは彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと友情を結び、以後の数年間は彫刻に没頭することになります。しかし絵画を放棄したわけではなく、1914年以降の細長く平面的にデフォルメされたいわゆるモディリアーニ様式に繋がってゆきます。本作は若いモディリアーニの瑞々しい感覚が漂う初期の秀作といえます。

  • ルネ・マグリット「観念」1966年<br />この作品に描かれた人物は、特徴のない既成の服を着せられ、顔を消されることによって、人間でありながら人間そのものから引き離されています。同じように宙に浮かぶリンゴもその個性を消されています。無性格にされた二つの物体は、一見互いに脈絡をもたずに、絵のなかでこそ可能な出会いを果たします。シュルレアリスムの、そしてマグリットの手法の典型である「日常の中ではあり得ない出会い」。そこには、通常の意識を突き抜け、驚きの入り混ざった超現実的な感覚が引き起こされます。

    ルネ・マグリット「観念」1966年
    この作品に描かれた人物は、特徴のない既成の服を着せられ、顔を消されることによって、人間でありながら人間そのものから引き離されています。同じように宙に浮かぶリンゴもその個性を消されています。無性格にされた二つの物体は、一見互いに脈絡をもたずに、絵のなかでこそ可能な出会いを果たします。シュルレアリスムの、そしてマグリットの手法の典型である「日常の中ではあり得ない出会い」。そこには、通常の意識を突き抜け、驚きの入り混ざった超現実的な感覚が引き起こされます。

  • ルネ・マグリット「再開」1965年

    ルネ・マグリット「再開」1965年

  • ウジェーヌ・ブーダン「ベルクの海岸」1878年<br />アトリエでの制作をきらい、自然を前にして戸外の光のもとで直接制作することを信念としたブーダンは、徹底して外光主義を推進し、印象派の先駆的役割を果たしました。彼に師事した若いモネもこの方法を学びました。海景の画家ブーダンには、フランス各地の海岸の名作が残されていますが、本作も光満ちあふれる空を画面上方に大きく取り入れたブーダン独特の構図をもつ名品の一つで、英仏海峡に臨む保養地ベルクの浜辺の明るい抒情を捉えています。

    ウジェーヌ・ブーダン「ベルクの海岸」1878年
    アトリエでの制作をきらい、自然を前にして戸外の光のもとで直接制作することを信念としたブーダンは、徹底して外光主義を推進し、印象派の先駆的役割を果たしました。彼に師事した若いモネもこの方法を学びました。海景の画家ブーダンには、フランス各地の海岸の名作が残されていますが、本作も光満ちあふれる空を画面上方に大きく取り入れたブーダン独特の構図をもつ名品の一つで、英仏海峡に臨む保養地ベルクの浜辺の明るい抒情を捉えています。

  • カミーユ・ピサロ「秋、朝、曇り、エラニー」1900年<br />この作品は、画商のデュラン=リュエルが1900年11月22日に画家から入手し、翌年1月にパリの画廊で行われたピサロの個展に展示されました。その後、1913年にニューヨークのデュラン=リュエル画廊での展覧会に出品されています。 ピサロは四季の変化とともに異なった様相を見せる果樹園の景色をテーマに、エラニー風景の連作を試みています。クリストファー・ロイドは、こうした画家の試みについて次のように説明しています。「ジヴェルニーにおけるモネのように、ピサロを取り囲む田舎の光景に対する彼の考察は強烈だった。彼は変化していく風景のつかの間の状態を楽しんだ。そして冬の霧、霜、雪、あるいは夏の活気ある暑気やみずみずしく繁った緑が、それぞれ同じように価値があることを発見した。ピサロはまた、対象への視線の位置をたえず移動しながら、変化する季節、一日の区分による視覚的多様性を連作として描くことを始めたのである。」 ピサロは死を迎える前、自身の絵画制作の方法を次のように定義しました。「作品を手がけるとき、初めに決定することは調和である。この空と、この大地と、この水のあいだには、必然的に何らかの関係がある。それは調和の関係でしかない」本作に見るように終生かわらぬ「田園画家」であったピサロ最晩年のエラニー風景は、この調和の原則のもとに描かれています。 この絵でピサロは《春・・・》とは違った方角に眼を向けており、画面中央には農家の赤煉瓦の屋根や煙突も見えています。しかし草地の気ままな斑点状のタッチや木の葉の細かい筆触、空の大らかな筆致などにみるように、描き方は変わっていません。大きく変わっているのは色彩で、《春・・・》の若々しい黄緑色の大地、花をつけた浅い緑色の木の葉、青く澄んだ空と比べて、《秋・・・》の方は枯れ葉色に染まる大地、緑濃い木の葉、どんよりとした冷たいグレーの空といった具合で、いくぶん乾燥した秋特有の色相を呈しています。

    カミーユ・ピサロ「秋、朝、曇り、エラニー」1900年
    この作品は、画商のデュラン=リュエルが1900年11月22日に画家から入手し、翌年1月にパリの画廊で行われたピサロの個展に展示されました。その後、1913年にニューヨークのデュラン=リュエル画廊での展覧会に出品されています。 ピサロは四季の変化とともに異なった様相を見せる果樹園の景色をテーマに、エラニー風景の連作を試みています。クリストファー・ロイドは、こうした画家の試みについて次のように説明しています。「ジヴェルニーにおけるモネのように、ピサロを取り囲む田舎の光景に対する彼の考察は強烈だった。彼は変化していく風景のつかの間の状態を楽しんだ。そして冬の霧、霜、雪、あるいは夏の活気ある暑気やみずみずしく繁った緑が、それぞれ同じように価値があることを発見した。ピサロはまた、対象への視線の位置をたえず移動しながら、変化する季節、一日の区分による視覚的多様性を連作として描くことを始めたのである。」 ピサロは死を迎える前、自身の絵画制作の方法を次のように定義しました。「作品を手がけるとき、初めに決定することは調和である。この空と、この大地と、この水のあいだには、必然的に何らかの関係がある。それは調和の関係でしかない」本作に見るように終生かわらぬ「田園画家」であったピサロ最晩年のエラニー風景は、この調和の原則のもとに描かれています。 この絵でピサロは《春・・・》とは違った方角に眼を向けており、画面中央には農家の赤煉瓦の屋根や煙突も見えています。しかし草地の気ままな斑点状のタッチや木の葉の細かい筆触、空の大らかな筆致などにみるように、描き方は変わっていません。大きく変わっているのは色彩で、《春・・・》の若々しい黄緑色の大地、花をつけた浅い緑色の木の葉、青く澄んだ空と比べて、《秋・・・》の方は枯れ葉色に染まる大地、緑濃い木の葉、どんよりとした冷たいグレーの空といった具合で、いくぶん乾燥した秋特有の色相を呈しています。

  • アルフレッド・シスレー「牧草地の牛、ルーヴシエンヌ」1874年<br />ルーヴシエンヌはパリの西郊約25キロの静かな村で、以前はのどかな風景が広がり、風景画を描くには絶好の場所でしたが、現在はパリへ通勤をする人たちのベッドタウンに変わりつつあるようです。 印象派の画家たちは、1874年の第1回印象派展が始まる前の数年間、この地によく画架を立てて制作をしました。おそらく最も早くここを訪れた印象派の画家はピサロで、1868年秋にポントワーズからルーヴシエンヌに移り、普仏戦争が始まる1870年までと、その後の1871~72年の間ここに住みました。ルノワールは母親が1868年にこの近くに越してきたので、その後の数年間ここで過ごしたことがあります。1869年、モネは愛人カミーユと息子を連れてブージヴァルに移り、この地域で制作をしました。ルノワールとモネが一緒に「ラ・グルヌイエール」で描くのは、この年の初秋のことです。しかし、ルーヴシエンヌに最も結びつきが深い画家というとシスレーです。シスレーは1869年の冬に彼らを訪問し、翌70年の夏頃にルーヴシエンヌに移り住みました。それから1875年にマルリー=ル=ロワに転居するまで、1870年代の前半をこの地で過ごし、制作を行いました。 この時期のルーヴシエンヌ風景は柔らかな印象主義的手法で描かれ、緑豊かで起伏と変化に富んだこの土地の印象を穏やかなタッチで捉えています。またルーヴシエンヌを離れた後もしばしば訪れ、季節感にあふれる作品を残しています。 本作に描かれた場所は、ヴェルサイユ街道からマルリー=ル=ロワの「水場」の方向に降りてゆく道か、あるいは逆にマルリー=ル=ロワの丘の方からルーヴシエンヌの方向を望んだ眺めか、定かではありませんが、画面左側から右側の方向へゆるやかな傾斜面になっているようにも見えます。右手にカーブする道の曲線は、この画面に重要な要素を与えており、近景に広がる牧草地で草を食む牛が三頭、画面の中心を形づくっています。その傍らの画面左手には大木が聳え、一人の女性が幹に寄りかかっています。ここには、シスレーの初期の作品に見られる特徴──樹木の葉、夏空と雲、空間の広がり、曲がり道、光と影など──が勢いよく表現されており、ヴァルール(画面の各部間の色彩の色相、明度、彩度の相関関係)の均整のとれた美しさを見ることができます。本作は1874年4月の第1回印象派展に出品された5点の風景画のうちの1点であった可能性があります。

    アルフレッド・シスレー「牧草地の牛、ルーヴシエンヌ」1874年
    ルーヴシエンヌはパリの西郊約25キロの静かな村で、以前はのどかな風景が広がり、風景画を描くには絶好の場所でしたが、現在はパリへ通勤をする人たちのベッドタウンに変わりつつあるようです。 印象派の画家たちは、1874年の第1回印象派展が始まる前の数年間、この地によく画架を立てて制作をしました。おそらく最も早くここを訪れた印象派の画家はピサロで、1868年秋にポントワーズからルーヴシエンヌに移り、普仏戦争が始まる1870年までと、その後の1871~72年の間ここに住みました。ルノワールは母親が1868年にこの近くに越してきたので、その後の数年間ここで過ごしたことがあります。1869年、モネは愛人カミーユと息子を連れてブージヴァルに移り、この地域で制作をしました。ルノワールとモネが一緒に「ラ・グルヌイエール」で描くのは、この年の初秋のことです。しかし、ルーヴシエンヌに最も結びつきが深い画家というとシスレーです。シスレーは1869年の冬に彼らを訪問し、翌70年の夏頃にルーヴシエンヌに移り住みました。それから1875年にマルリー=ル=ロワに転居するまで、1870年代の前半をこの地で過ごし、制作を行いました。 この時期のルーヴシエンヌ風景は柔らかな印象主義的手法で描かれ、緑豊かで起伏と変化に富んだこの土地の印象を穏やかなタッチで捉えています。またルーヴシエンヌを離れた後もしばしば訪れ、季節感にあふれる作品を残しています。 本作に描かれた場所は、ヴェルサイユ街道からマルリー=ル=ロワの「水場」の方向に降りてゆく道か、あるいは逆にマルリー=ル=ロワの丘の方からルーヴシエンヌの方向を望んだ眺めか、定かではありませんが、画面左側から右側の方向へゆるやかな傾斜面になっているようにも見えます。右手にカーブする道の曲線は、この画面に重要な要素を与えており、近景に広がる牧草地で草を食む牛が三頭、画面の中心を形づくっています。その傍らの画面左手には大木が聳え、一人の女性が幹に寄りかかっています。ここには、シスレーの初期の作品に見られる特徴──樹木の葉、夏空と雲、空間の広がり、曲がり道、光と影など──が勢いよく表現されており、ヴァルール(画面の各部間の色彩の色相、明度、彩度の相関関係)の均整のとれた美しさを見ることができます。本作は1874年4月の第1回印象派展に出品された5点の風景画のうちの1点であった可能性があります。

  • アルフレッド・シスレー「レディース・コーヴ、ラングランド湾、ウェールズ」1897年<br />1897年、シスレーは数ヵ月の間、南イングランドと南ウェールズを訪れ、カーディフ、ペナースの海岸を描きました。秋、現地で制作した25枚ほどの絵画を携えて戻ってきましたが、本作はこの中に含まれていたと思われます。シスレーはこの頃すでに喉頭癌に冒されていましたが、最後の生命力をふりしぼるように美しい海岸線をカンヴァスに描きとどめました。近景の人物はシスレーの家族でしょうか。ラングランド湾は南ウェールズの港で、シスレーはこの海岸の波打ち際と岩場を淡々とした筆致で描いています。

    アルフレッド・シスレー「レディース・コーヴ、ラングランド湾、ウェールズ」1897年
    1897年、シスレーは数ヵ月の間、南イングランドと南ウェールズを訪れ、カーディフ、ペナースの海岸を描きました。秋、現地で制作した25枚ほどの絵画を携えて戻ってきましたが、本作はこの中に含まれていたと思われます。シスレーはこの頃すでに喉頭癌に冒されていましたが、最後の生命力をふりしぼるように美しい海岸線をカンヴァスに描きとどめました。近景の人物はシスレーの家族でしょうか。ラングランド湾は南ウェールズの港で、シスレーはこの海岸の波打ち際と岩場を淡々とした筆致で描いています。

  • ポール・セザンヌ「オーヴェールの曲がり道」1873年頃<br />1866年以降、4年続けてサロンに落選していたセザンヌは、30歳になった1869年、パリで後に妻となる年若いモデルのオルタンス・フィケと出会いました。1872年には二人の間に長男ポールが誕生し、その年の夏、ピサロが移り住んだばかりのポントワーズへ家族とともに赴き、セザンヌは同地でピサロと一緒に制作に励むようになりました。同年秋、セザンヌがしばらく滞在したオーヴェール・シュル・オワーズで、ピサロは自らの主治医であり、前衛絵画の熱心な蒐集家であった医師のガシェ博士にセザンヌを紹介しました。これを機縁にガシェ博士は、セザンヌに自分の家族と一緒に住むように提案。こうした環境のなかで、セザンヌとピサロは画架を並べて制作し、田園的な主題への愛好、厚塗りの絵具と十分に描き込んだ画面を特徴とするポントワーズ派として知られる新しい様式を発展させました。このようにセザンヌは、ピサロの影響下にあって、それまでの文学的なテーマへの関心を放棄し、目に見える外界の自然を真摯に見つめるようになったのです。1873年にはオーヴェールに移り、その年の大半は同地で過ごして風景画の制作にいそしみました。この時期に描いた《首吊りの家》《モデルヌ・オランピア》《オーヴェール風景》の3点は、翌1874年の第1回印象派展に出品されましたが、全くの不評に終わりました。しかし、セザンヌにとっては真に重要な画家としての出発点でした。《首吊りの家》と《モデルヌ・オランピア》は、初期セザンヌの記念碑的な作品として、今日オルセー美術館の壁面を飾っています。(もう1点の《オーヴェール風景》は、その絵柄の確証がなく、現在フィラデルフィア美術館所有の作品かワシントン・ナショナルギャラリー所有の作品ではないかと推測されています)いずれにせよ、セザンヌが1872年から74年にかけてポントワーズとオーヴェールに滞在した時期は、彼の画家としての胚胎期であったし、絵画上の師や援護者と出会ったことは、後の成長の決定的な要因となったことは間違いありません。セザンヌにとって貴重な体験は、師ピサロの熟練した画法と、眼前に広がる自然に対して見せる謙虚さを学びとりながら、共に制作活動に従事できたことでしょう。ガシェ博士によれば、セザンヌは一日に2回、写生に出かけたといいます。いわく「朝に1回、午後に1回、曇りの日、晴れの日、彼は死にもの狂いでカンヴァスに戦いを挑みました。季節が流れ、年月がたち、1873年に描いた春の絵は、74年には雪景色に変わっていたのである」本作は、第1回印象派展の出品作ではありませんが、セザンヌが最初にオーヴェールに滞在した時期に制作されたものです。曲がった道、慎ましやかな住居、視点の高さなど、他の作品との共通性も多い。ここでセザンヌは、縦長の画面を用いて道と空を強調しています。また、後のセザンヌ絵画の特徴ともなる「斜めの」「構成的な」筆触の萌芽も見られます。同じ頃に同じ場所を描いて、本作と類似した作品が2点オルセー美術館にあります。《オーヴェールの村の道》と《オーヴェールのガシェ博士の家》で、切り取られた風景を捉える眼や画法は、本作と全く同じ系統のものであり、この時期に徹底して風景を描く訓練を重ねていたことが偲ばれます。ちなみに本作は、著名なアメリカ人蒐集家で、アメリカに印象派絵画を最初にもたらした功労者であるハヴメイヤー夫妻が、友人の画家メアリー・カサットとともに1901年、パリのヴォラール画廊で見つけ購入したものとされています。いわばアメリカに渡ったセザンヌ作品の第一号という歴史的な過去を持っている作品なのです。

    ポール・セザンヌ「オーヴェールの曲がり道」1873年頃
    1866年以降、4年続けてサロンに落選していたセザンヌは、30歳になった1869年、パリで後に妻となる年若いモデルのオルタンス・フィケと出会いました。1872年には二人の間に長男ポールが誕生し、その年の夏、ピサロが移り住んだばかりのポントワーズへ家族とともに赴き、セザンヌは同地でピサロと一緒に制作に励むようになりました。同年秋、セザンヌがしばらく滞在したオーヴェール・シュル・オワーズで、ピサロは自らの主治医であり、前衛絵画の熱心な蒐集家であった医師のガシェ博士にセザンヌを紹介しました。これを機縁にガシェ博士は、セザンヌに自分の家族と一緒に住むように提案。こうした環境のなかで、セザンヌとピサロは画架を並べて制作し、田園的な主題への愛好、厚塗りの絵具と十分に描き込んだ画面を特徴とするポントワーズ派として知られる新しい様式を発展させました。このようにセザンヌは、ピサロの影響下にあって、それまでの文学的なテーマへの関心を放棄し、目に見える外界の自然を真摯に見つめるようになったのです。1873年にはオーヴェールに移り、その年の大半は同地で過ごして風景画の制作にいそしみました。この時期に描いた《首吊りの家》《モデルヌ・オランピア》《オーヴェール風景》の3点は、翌1874年の第1回印象派展に出品されましたが、全くの不評に終わりました。しかし、セザンヌにとっては真に重要な画家としての出発点でした。《首吊りの家》と《モデルヌ・オランピア》は、初期セザンヌの記念碑的な作品として、今日オルセー美術館の壁面を飾っています。(もう1点の《オーヴェール風景》は、その絵柄の確証がなく、現在フィラデルフィア美術館所有の作品かワシントン・ナショナルギャラリー所有の作品ではないかと推測されています)いずれにせよ、セザンヌが1872年から74年にかけてポントワーズとオーヴェールに滞在した時期は、彼の画家としての胚胎期であったし、絵画上の師や援護者と出会ったことは、後の成長の決定的な要因となったことは間違いありません。セザンヌにとって貴重な体験は、師ピサロの熟練した画法と、眼前に広がる自然に対して見せる謙虚さを学びとりながら、共に制作活動に従事できたことでしょう。ガシェ博士によれば、セザンヌは一日に2回、写生に出かけたといいます。いわく「朝に1回、午後に1回、曇りの日、晴れの日、彼は死にもの狂いでカンヴァスに戦いを挑みました。季節が流れ、年月がたち、1873年に描いた春の絵は、74年には雪景色に変わっていたのである」本作は、第1回印象派展の出品作ではありませんが、セザンヌが最初にオーヴェールに滞在した時期に制作されたものです。曲がった道、慎ましやかな住居、視点の高さなど、他の作品との共通性も多い。ここでセザンヌは、縦長の画面を用いて道と空を強調しています。また、後のセザンヌ絵画の特徴ともなる「斜めの」「構成的な」筆触の萌芽も見られます。同じ頃に同じ場所を描いて、本作と類似した作品が2点オルセー美術館にあります。《オーヴェールの村の道》と《オーヴェールのガシェ博士の家》で、切り取られた風景を捉える眼や画法は、本作と全く同じ系統のものであり、この時期に徹底して風景を描く訓練を重ねていたことが偲ばれます。ちなみに本作は、著名なアメリカ人蒐集家で、アメリカに印象派絵画を最初にもたらした功労者であるハヴメイヤー夫妻が、友人の画家メアリー・カサットとともに1901年、パリのヴォラール画廊で見つけ購入したものとされています。いわばアメリカに渡ったセザンヌ作品の第一号という歴史的な過去を持っている作品なのです。

  • ギュスターヴ・カイユボット「トルーヴィルの別荘」1882年<br />

    ギュスターヴ・カイユボット「トルーヴィルの別荘」1882年

  • ポール・ゴーガン「水辺の柳、ポン=タヴェン」1888年<br />ポン=タヴェンは、ケルト民族の伝統を継承した文化や風習を色濃く残した、ブルターニュ地方の小さな村で、1860年代以降、多くの画家たちがこの場所に魅了されていました。1886年に初めてこの村を訪れたゴーガンもまたこの村の魅力に惹かれ、86年から94年の間に4度滞在しています。 本作は、ゴーガンの2度目のポン=タヴェン滞在時に描かれており、印象派の要素を残しつつも、より革新的な構図と色彩への変化を見て取ることができます。画面右を上下に貫く木の幹が印象的で、歌川広重の浮世絵を彷彿とさせます。本作の構図にとって重要な構成要素ともなっているこの木は、じつは1938年以降の所有者によって塗りつぶされてしまっていました。近年修復によって元の姿を取り戻していますが、この木を消すことにどのような意味があったのか、改変者の意図は不明です。描かれている場所では、19世紀末から20世紀初頭にかけて川の浚渫が行われていました。右奥には赤い茅葺き屋根の建物がありますが、その前の道には川の浚渫で出た土砂が積まれているのがわかります。また、画面左にある丘も山肌があらわになっており、道路として造成中であることがわかります。現在このあたりはボートを係留する船着場として利用されています。 この絵を描いた年の10月、ゴーガンはゴッホの誘いをうけてアルルを訪れ、ゴッホとの共同生活を行います。二人の共同生活は2ヶ月で悲劇的な終わりを迎えますが、やがてゴーガンは、目に見える世界を描写する印象派のスタイルを脱却して、人間の原初の姿にやどる精神的な実在を、単純化された色彩とフォルムの調和によって描き出す独自の様式を創造していきます。

    ポール・ゴーガン「水辺の柳、ポン=タヴェン」1888年
    ポン=タヴェンは、ケルト民族の伝統を継承した文化や風習を色濃く残した、ブルターニュ地方の小さな村で、1860年代以降、多くの画家たちがこの場所に魅了されていました。1886年に初めてこの村を訪れたゴーガンもまたこの村の魅力に惹かれ、86年から94年の間に4度滞在しています。 本作は、ゴーガンの2度目のポン=タヴェン滞在時に描かれており、印象派の要素を残しつつも、より革新的な構図と色彩への変化を見て取ることができます。画面右を上下に貫く木の幹が印象的で、歌川広重の浮世絵を彷彿とさせます。本作の構図にとって重要な構成要素ともなっているこの木は、じつは1938年以降の所有者によって塗りつぶされてしまっていました。近年修復によって元の姿を取り戻していますが、この木を消すことにどのような意味があったのか、改変者の意図は不明です。描かれている場所では、19世紀末から20世紀初頭にかけて川の浚渫が行われていました。右奥には赤い茅葺き屋根の建物がありますが、その前の道には川の浚渫で出た土砂が積まれているのがわかります。また、画面左にある丘も山肌があらわになっており、道路として造成中であることがわかります。現在このあたりはボートを係留する船着場として利用されています。 この絵を描いた年の10月、ゴーガンはゴッホの誘いをうけてアルルを訪れ、ゴッホとの共同生活を行います。二人の共同生活は2ヶ月で悲劇的な終わりを迎えますが、やがてゴーガンは、目に見える世界を描写する印象派のスタイルを脱却して、人間の原初の姿にやどる精神的な実在を、単純化された色彩とフォルムの調和によって描き出す独自の様式を創造していきます。

  • アンリ・マルタン「画家の家の庭」1902年<br />フランスの古都トゥールーズで家具職人の息子として生まれたマルタンは、地元の美術学校で学んだあと奨学金を得てパリに出て、1879年にジャン・ポール・ローランス(1838-1921)のアトリエに入りました。学生の個性を重視するローランスのもとでは、中村不折(1866-1943)といったパリに留学した日本人洋画家たちが指導を受けたことでも知られます。ローランスのもとで学んだマルタンは、4年後にサロンで一等賞を獲得し、さらにその2年後にはイタリア旅行の奨学金を得るなどその才能を伸ばしました。もともとは古典主義的な作品を描いていましたが、友人のアマン・ジャンやローランを通してスーラの新印象主義の技法を取り入れるようになり、晩年に向かうにつれて、その細かい筆致の色彩は冴えわたりました。 晩年、フランス南部の小さな町ラバスティド・デュ・ヴェールに移り住んだマルタンは、町が見渡せる小高い丘に大きな邸宅を構え、美しい花々が咲き香る自宅の庭園やそこから望む自然の美しい風景を描いています。本作に描かれているのも、晩年彼が好んで描いた自宅の庭です。 手入れが行き届いた庭には、赤やピンク、白など色とりどりの花々が咲き誇っています。暖かな陽光が草花を包み込んで淡い輝きを放っています。

    アンリ・マルタン「画家の家の庭」1902年
    フランスの古都トゥールーズで家具職人の息子として生まれたマルタンは、地元の美術学校で学んだあと奨学金を得てパリに出て、1879年にジャン・ポール・ローランス(1838-1921)のアトリエに入りました。学生の個性を重視するローランスのもとでは、中村不折(1866-1943)といったパリに留学した日本人洋画家たちが指導を受けたことでも知られます。ローランスのもとで学んだマルタンは、4年後にサロンで一等賞を獲得し、さらにその2年後にはイタリア旅行の奨学金を得るなどその才能を伸ばしました。もともとは古典主義的な作品を描いていましたが、友人のアマン・ジャンやローランを通してスーラの新印象主義の技法を取り入れるようになり、晩年に向かうにつれて、その細かい筆致の色彩は冴えわたりました。 晩年、フランス南部の小さな町ラバスティド・デュ・ヴェールに移り住んだマルタンは、町が見渡せる小高い丘に大きな邸宅を構え、美しい花々が咲き香る自宅の庭園やそこから望む自然の美しい風景を描いています。本作に描かれているのも、晩年彼が好んで描いた自宅の庭です。 手入れが行き届いた庭には、赤やピンク、白など色とりどりの花々が咲き誇っています。暖かな陽光が草花を包み込んで淡い輝きを放っています。

  • アンリ・ル・シダネル「森の小憩、ジェルブロワ」1925年<br />緑濃い木々の間を縫って差し込む木漏れ日が、点描による美しいタッチで詩情豊かに描かれています。柔らかな光線の振動、微かな空気のゆらめきを、夏の日のひとときの印象として見事に捉えた名画です。白布の上の果物、パン、ワインなどの小道具が、背景の木陰の大道具とともに《草上の昼食》のシーンを想起させます。手前の枝に掛けられた帽子や放り出されたバラの花は、若い女の匂いを漂わせている。人影はないが、人の気配は明瞭です。

    アンリ・ル・シダネル「森の小憩、ジェルブロワ」1925年
    緑濃い木々の間を縫って差し込む木漏れ日が、点描による美しいタッチで詩情豊かに描かれています。柔らかな光線の振動、微かな空気のゆらめきを、夏の日のひとときの印象として見事に捉えた名画です。白布の上の果物、パン、ワインなどの小道具が、背景の木陰の大道具とともに《草上の昼食》のシーンを想起させます。手前の枝に掛けられた帽子や放り出されたバラの花は、若い女の匂いを漂わせている。人影はないが、人の気配は明瞭です。

  • アンリ・ル・シダネル「黄昏の古路」1929年<br />陽が暮れ落ちて、夜のしじまを待つばかりの街角の小径。霧のヴェールに包まれているかのような乳白色の静寂。深まりゆく闇の中で、室内に点された灯がほのかな光の効果を生んで印象的です。また淡い紫色と黄色の補色関係にある色彩の組み合わせは、点描による色彩の調律の美しさとともに、この作品を更に魅惑的なものにしています。人物はどこにも描かれていませんが、人の気配を感じさせる手法は、ル・シダネルの特徴でもあります。 この絵の舞台となったのは、画家が愛したパリ北方の小さな町ジェルブロワで、ここで彼は、この街並みがもつ古風な情緒を美しく描き出しています。作者は夕方の風景を描くときの心情について、こう語っています。「私はよくあなたの注意を黄昏どきに向けさせた。そしてあなたは、私がどうして何度も黄昏に魅了されるのか、訊ねた。わざと黄昏を選んだのだろうか。または、内面の感情に流されない人でさえ突然感じる音楽的共鳴のようなもの、または感情的な感覚のようなものにとらわれていたためであろうか」(ヤン・ファリノー・ル・シダネル、レミー・ル・シダネル『ル・シダネルー絵画・版画作品集』660ページ) ル・シダネルは、1894年にサロンに初出品し、その後サロン・ナショナルや1900年のパリ万国博覧会に出品しました。印象派や新印象派の影響を受けながら、どこか暗い霧に包まれたような静謐な風景や室内を描きました。本作において見られるように、点描画法を駆使した作風には、印象派、新印象派の新技法の影響が顕著です。なおこの作品は、1929年、パリのジョルジュ・プティ画廊で開催された個展に出品されました。

    アンリ・ル・シダネル「黄昏の古路」1929年
    陽が暮れ落ちて、夜のしじまを待つばかりの街角の小径。霧のヴェールに包まれているかのような乳白色の静寂。深まりゆく闇の中で、室内に点された灯がほのかな光の効果を生んで印象的です。また淡い紫色と黄色の補色関係にある色彩の組み合わせは、点描による色彩の調律の美しさとともに、この作品を更に魅惑的なものにしています。人物はどこにも描かれていませんが、人の気配を感じさせる手法は、ル・シダネルの特徴でもあります。 この絵の舞台となったのは、画家が愛したパリ北方の小さな町ジェルブロワで、ここで彼は、この街並みがもつ古風な情緒を美しく描き出しています。作者は夕方の風景を描くときの心情について、こう語っています。「私はよくあなたの注意を黄昏どきに向けさせた。そしてあなたは、私がどうして何度も黄昏に魅了されるのか、訊ねた。わざと黄昏を選んだのだろうか。または、内面の感情に流されない人でさえ突然感じる音楽的共鳴のようなもの、または感情的な感覚のようなものにとらわれていたためであろうか」(ヤン・ファリノー・ル・シダネル、レミー・ル・シダネル『ル・シダネルー絵画・版画作品集』660ページ) ル・シダネルは、1894年にサロンに初出品し、その後サロン・ナショナルや1900年のパリ万国博覧会に出品しました。印象派や新印象派の影響を受けながら、どこか暗い霧に包まれたような静謐な風景や室内を描きました。本作において見られるように、点描画法を駆使した作風には、印象派、新印象派の新技法の影響が顕著です。なおこの作品は、1929年、パリのジョルジュ・プティ画廊で開催された個展に出品されました。

  • モーリス・ユトリロ「モンマルトル、ノルヴァン通り」1916年頃<br />ユトリロはエコール・ド・パリの画家たちの中にあって、マリー・ローランサンとともに、ほとんど唯一の純粋なフランス人でした。他のエコール・ド・パリの画家はモンパルナスのカフェを中心に活動しましたが、ユトリロの活動拠点はモンマルトルの丘でした。 彼は精神病院を転々とする重症のアルコール中毒患者で、1917年に母の画家シュザンヌ・ヴァラドンに「あなたの席はルーヴルにありますが、僕の席は病院にあります。僕は16歳のとき人生を投げ出したので、今となっては社会に馴染むには遅すぎます」と苦しい胸のうちを告白しています。もっとも入院先の病院の医師の勧めで絵筆をとったのが、画家ユトリロの誕生でした。 彼の作風は一般的に以下の4つの時期に分類されています。1903?06年の初期の時代、1906?07年の印象派時代、1907?13年の「白の時代」、1913年以降の「色彩の時代」がそれです。特に本作が描かれた1910年代後半は、それまでの白を中心としたパレットがさまざまな色彩の広がりを見せていきますが、白はまだ主要な色として用いられています。 ノルヴァン通りは、モンマルトルの丘の上に立つサクレ=クール寺院へと続く小路で、ユトリロはしばしばこの付近を描きました。人影もまばらな狭い道の両側には白い壁が続き、その先にはサクレ=クール寺院の白亜の円蓋がそびえています。哀愁を帯びた裏通りの淡い詩情をたたえた空間が印象的な本作は、ユトリロが傑作を最も多く生み出した1910年代の典型的な佳品のひとつといえるでしょう。

    モーリス・ユトリロ「モンマルトル、ノルヴァン通り」1916年頃
    ユトリロはエコール・ド・パリの画家たちの中にあって、マリー・ローランサンとともに、ほとんど唯一の純粋なフランス人でした。他のエコール・ド・パリの画家はモンパルナスのカフェを中心に活動しましたが、ユトリロの活動拠点はモンマルトルの丘でした。 彼は精神病院を転々とする重症のアルコール中毒患者で、1917年に母の画家シュザンヌ・ヴァラドンに「あなたの席はルーヴルにありますが、僕の席は病院にあります。僕は16歳のとき人生を投げ出したので、今となっては社会に馴染むには遅すぎます」と苦しい胸のうちを告白しています。もっとも入院先の病院の医師の勧めで絵筆をとったのが、画家ユトリロの誕生でした。 彼の作風は一般的に以下の4つの時期に分類されています。1903?06年の初期の時代、1906?07年の印象派時代、1907?13年の「白の時代」、1913年以降の「色彩の時代」がそれです。特に本作が描かれた1910年代後半は、それまでの白を中心としたパレットがさまざまな色彩の広がりを見せていきますが、白はまだ主要な色として用いられています。 ノルヴァン通りは、モンマルトルの丘の上に立つサクレ=クール寺院へと続く小路で、ユトリロはしばしばこの付近を描きました。人影もまばらな狭い道の両側には白い壁が続き、その先にはサクレ=クール寺院の白亜の円蓋がそびえています。哀愁を帯びた裏通りの淡い詩情をたたえた空間が印象的な本作は、ユトリロが傑作を最も多く生み出した1910年代の典型的な佳品のひとつといえるでしょう。

  • モイーズ・キスリング「花」1929年<br />茶色い大柄な文様のある黒い花瓶に色とりどりのバラやチューリップ、ポピー、ミモザなどが美しく咲き誇っています。背景の白地の下に透けて見えるわずかなブルーが花々の赤やピンク、黄色などの色彩の鮮やかさをいっそう引き立てています。キスリングの描く花は、彼の描く人物たちがそうであるように、澄んだ色彩、丸みを帯びたかたち、明暗の差のはっきりした明快な陰影法、そして平滑なマチエールなどに見るように、おおらかで健康的です。

    モイーズ・キスリング「花」1929年
    茶色い大柄な文様のある黒い花瓶に色とりどりのバラやチューリップ、ポピー、ミモザなどが美しく咲き誇っています。背景の白地の下に透けて見えるわずかなブルーが花々の赤やピンク、黄色などの色彩の鮮やかさをいっそう引き立てています。キスリングの描く花は、彼の描く人物たちがそうであるように、澄んだ色彩、丸みを帯びたかたち、明暗の差のはっきりした明快な陰影法、そして平滑なマチエールなどに見るように、おおらかで健康的です。

  • クロード・モネ「睡蓮」1908年<br />本作はモネが68歳の1908年に描かれた15点の連作の1点で、他の連作47点とともに翌年5月、パリのデュラン=リュエル画廊における「睡蓮ー水の風景連作」と題する個展に出品されました。1906年頃から時折試みていたことですが、ここでモネは明暗の差を極力抑え、ロココ的ともいえる繊細で優美な色彩と装飾性を見せています。膨大な睡蓮の作品全体の中で、最も軽快な作風です。<br />モネは、睡蓮に魅せられた理由のひとつをこう説明しています。「そのイメージは無限の感覚を呼び覚ます。宇宙を構成する諸要素と、われわれの眼前で刻一刻と変わってゆく宇宙の不安定さとが、まるで小宇宙のようにそこに存在している」よく指摘されるように、水面の一部を切り取り、クローズアップして描く方法は、「一部を描いて全体を表わす」という日本の浮世絵版画に見られるような暗示的な手法といえます。モネが、浮世絵版画から「視点」と「表現」を学んだことは間違いなく、それは今日モネ美術館となっている彼の住居の壁に掛かる200余点に及ぶモネ蒐集の浮世絵版画からも想像できます。

    クロード・モネ「睡蓮」1908年
    本作はモネが68歳の1908年に描かれた15点の連作の1点で、他の連作47点とともに翌年5月、パリのデュラン=リュエル画廊における「睡蓮ー水の風景連作」と題する個展に出品されました。1906年頃から時折試みていたことですが、ここでモネは明暗の差を極力抑え、ロココ的ともいえる繊細で優美な色彩と装飾性を見せています。膨大な睡蓮の作品全体の中で、最も軽快な作風です。
    モネは、睡蓮に魅せられた理由のひとつをこう説明しています。「そのイメージは無限の感覚を呼び覚ます。宇宙を構成する諸要素と、われわれの眼前で刻一刻と変わってゆく宇宙の不安定さとが、まるで小宇宙のようにそこに存在している」よく指摘されるように、水面の一部を切り取り、クローズアップして描く方法は、「一部を描いて全体を表わす」という日本の浮世絵版画に見られるような暗示的な手法といえます。モネが、浮世絵版画から「視点」と「表現」を学んだことは間違いなく、それは今日モネ美術館となっている彼の住居の壁に掛かる200余点に及ぶモネ蒐集の浮世絵版画からも想像できます。

  • エミール・ベルナール「城のあるスミュールの眺め」1905年<br />ベルナールは、1890年前後にゴーガンを中心にブルターニュの小村に集まって活動したポン=タヴェン派の理論的なリーダーでした。このグループは後期印象主義の世代に属しますが、その様式は装飾性、平面性の強いものでした。しかし彼の画歴の後半では、古典的な手法に戻っています。 ここに描かれたスミュールは、12世紀の古城のあるパリ南東の町。仄暗い色調に沈む本作品においてはゴーガンのもとで展開していた個性的な画風はすでに影を潜めています。

    エミール・ベルナール「城のあるスミュールの眺め」1905年
    ベルナールは、1890年前後にゴーガンを中心にブルターニュの小村に集まって活動したポン=タヴェン派の理論的なリーダーでした。このグループは後期印象主義の世代に属しますが、その様式は装飾性、平面性の強いものでした。しかし彼の画歴の後半では、古典的な手法に戻っています。 ここに描かれたスミュールは、12世紀の古城のあるパリ南東の町。仄暗い色調に沈む本作品においてはゴーガンのもとで展開していた個性的な画風はすでに影を潜めています。

  • アルベール・マルケ「トゥーロン湾の眺め」1938年<br />マルケは、マティスなどとともにフォーヴィスムの代表的画家の一人に数えられていますが、本質的には色彩の強烈さよりは、微妙なニュアンスの諧調にいっそう鋭敏でした。後期になると、その色彩は更に柔らかさを増していきました。マティスの親友であった関係から、フォーヴの運動に参加はしましたが、グループからは距離を保っていた彼は、その気質からして、コローやクールベの伝統に連なる写実主義者でした。マルケの才能は、情景を澄明な明晰さをもって表わすことにありました。 港の風景は、彼が好んで描いたテーマの一つである。本作においてマルケは、穏やかな色調を用いて、温暖で陽光あふれる南仏の入り江を描き出しています。トゥーロンは、フランス南部の地中海に臨む軍港都市で、マルセイユの東方約50kmほどのところに位置し、西から東に突き出す岬によって守られた湾に面しています。セザンヌが制作をしたエクス・アン・プロヴァンスにもほど近い。16世紀にアンリ4世が港と城を整備し、海軍工廠を設置してより、軍港・造船工業都市として発達し、フランス革命では王党反革命派の拠点でした。 マルケは1909年頃より、ヨーロッパや地中海沿岸各地を訪れるようになりますが、生まれ故郷ボルドーの記憶がそうさせたのか、彼が足を運ぶ先には、必ず水や港のモティーフがありました。本作に描かれているのも、そのような港の風景です。 1938年、多忙な日々を送っていたマルケと妻のマルセルは、この夏、友人からの招待を受け、トゥーロンの港町の近郊にあるカップ・ブランを訪れています。このときマルケはほぼ同じ場所からの風景を数点描いていることから、本作もこの時に描かれた1点と思われます。地中海の暑い、霧がかった夏の日の印象が、淡い色彩と単純化された構図によって見事に捉えられています。

    アルベール・マルケ「トゥーロン湾の眺め」1938年
    マルケは、マティスなどとともにフォーヴィスムの代表的画家の一人に数えられていますが、本質的には色彩の強烈さよりは、微妙なニュアンスの諧調にいっそう鋭敏でした。後期になると、その色彩は更に柔らかさを増していきました。マティスの親友であった関係から、フォーヴの運動に参加はしましたが、グループからは距離を保っていた彼は、その気質からして、コローやクールベの伝統に連なる写実主義者でした。マルケの才能は、情景を澄明な明晰さをもって表わすことにありました。 港の風景は、彼が好んで描いたテーマの一つである。本作においてマルケは、穏やかな色調を用いて、温暖で陽光あふれる南仏の入り江を描き出しています。トゥーロンは、フランス南部の地中海に臨む軍港都市で、マルセイユの東方約50kmほどのところに位置し、西から東に突き出す岬によって守られた湾に面しています。セザンヌが制作をしたエクス・アン・プロヴァンスにもほど近い。16世紀にアンリ4世が港と城を整備し、海軍工廠を設置してより、軍港・造船工業都市として発達し、フランス革命では王党反革命派の拠点でした。 マルケは1909年頃より、ヨーロッパや地中海沿岸各地を訪れるようになりますが、生まれ故郷ボルドーの記憶がそうさせたのか、彼が足を運ぶ先には、必ず水や港のモティーフがありました。本作に描かれているのも、そのような港の風景です。 1938年、多忙な日々を送っていたマルケと妻のマルセルは、この夏、友人からの招待を受け、トゥーロンの港町の近郊にあるカップ・ブランを訪れています。このときマルケはほぼ同じ場所からの風景を数点描いていることから、本作もこの時に描かれた1点と思われます。地中海の暑い、霧がかった夏の日の印象が、淡い色彩と単純化された構図によって見事に捉えられています。

  • モーリス・ド・ヴラマンク「セーヌ河畔の家並み」1910年頃<br />フランドル人の血を父方から継いでパリに生まれ、正規の美術教育を受けずに絵を描き始めたヴラマンクは、1901年頃、シャトゥーでドランと共同アトリエを営み、制作活動をはじめました。ゴッホに刺激されたフォーヴィスムの画家を代表する一人として、チューブからひねり出したままの絵具による溢れるばかりの色彩を駆使し、強い原色と奔放な筆触、スピード感のあるすばやいタッチで、ダイナミックな風景世界を描きました。その傾向は生涯を通じて変わらないものでしたが、更に後期には彼独特の表現主義的な描写へと画風を発展させていきます。こうした画風の展開の中で、1908年頃から1914年にかけての数年間だけ、セザンヌの影響を受けて、より堅固な構成と空間の把握を求め、構成的な画風に転じた時代がありました。 本作は、まさにこの「セザニスム」の特徴を良く示す作品です。形態のヴォリュームを強調し、空間の奥行きを勘案し、よく構成された構図を追求していたことが分かります。色調は、赤い屋根、白い建物、緑の樹木のアンサンブルに還元され、程よい音楽的な響きを醸し出しています。この色彩は、モチーフの固有の色を離れ、緊張感をもった絵画空間をつくるために赤と緑の原色による補色関係で配置されています。建物や木々の細部は省略され、説明的な描写を残しながらも、対象はより単純な形の連続によって造形されています。セザンヌの洗礼を受けることは、20世紀初頭の多くの前衛画家に共通した現象でしたが、ヴラマンクはわずか数年でセザンヌの主知主義と訣別し、このあと、彼の後期の特徴ある表現主義的風景画へと突き進んでゆくことになるのです。

    モーリス・ド・ヴラマンク「セーヌ河畔の家並み」1910年頃
    フランドル人の血を父方から継いでパリに生まれ、正規の美術教育を受けずに絵を描き始めたヴラマンクは、1901年頃、シャトゥーでドランと共同アトリエを営み、制作活動をはじめました。ゴッホに刺激されたフォーヴィスムの画家を代表する一人として、チューブからひねり出したままの絵具による溢れるばかりの色彩を駆使し、強い原色と奔放な筆触、スピード感のあるすばやいタッチで、ダイナミックな風景世界を描きました。その傾向は生涯を通じて変わらないものでしたが、更に後期には彼独特の表現主義的な描写へと画風を発展させていきます。こうした画風の展開の中で、1908年頃から1914年にかけての数年間だけ、セザンヌの影響を受けて、より堅固な構成と空間の把握を求め、構成的な画風に転じた時代がありました。 本作は、まさにこの「セザニスム」の特徴を良く示す作品です。形態のヴォリュームを強調し、空間の奥行きを勘案し、よく構成された構図を追求していたことが分かります。色調は、赤い屋根、白い建物、緑の樹木のアンサンブルに還元され、程よい音楽的な響きを醸し出しています。この色彩は、モチーフの固有の色を離れ、緊張感をもった絵画空間をつくるために赤と緑の原色による補色関係で配置されています。建物や木々の細部は省略され、説明的な描写を残しながらも、対象はより単純な形の連続によって造形されています。セザンヌの洗礼を受けることは、20世紀初頭の多くの前衛画家に共通した現象でしたが、ヴラマンクはわずか数年でセザンヌの主知主義と訣別し、このあと、彼の後期の特徴ある表現主義的風景画へと突き進んでゆくことになるのです。

  • ジョルジオ・モランディ「静物」1948-49年<br />モランディは、アトリエのテーブルの上に整然と並べられた瓶や器を描いた静物の主題を生涯にわたり執拗に繰り返しました。瓶は一種の記号であって、それ自体が重要なのではありません。その存在を通して量塊や調子、色や形に還元する作業=絵画という行為そのものの深化なのです。乳白色を基調とした柔らかな色彩のハーモニーに導かれ、純粋なリズムに溢れた構図は、静謐な均衡と荘厳さに満ちており、古典の伝統と近代の手法を融合した永遠の光を放っています。

    ジョルジオ・モランディ「静物」1948-49年
    モランディは、アトリエのテーブルの上に整然と並べられた瓶や器を描いた静物の主題を生涯にわたり執拗に繰り返しました。瓶は一種の記号であって、それ自体が重要なのではありません。その存在を通して量塊や調子、色や形に還元する作業=絵画という行為そのものの深化なのです。乳白色を基調とした柔らかな色彩のハーモニーに導かれ、純粋なリズムに溢れた構図は、静謐な均衡と荘厳さに満ちており、古典の伝統と近代の手法を融合した永遠の光を放っています。

  • 開幕初日でしたが、それほど混んでおらず、じっくり鑑賞することができました。

    開幕初日でしたが、それほど混んでおらず、じっくり鑑賞することができました。

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