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9/1から開幕した「THIS IS JAPAN IN TOKYO~永遠の日本美術の名宝~」展の続きです。<br />※作品コメントは、東京富士美術館HPより参照しました。

東京富士美術館 THIS IS JAPAN IN TOKYO 〜永遠の日本美術の名宝〜 (2)

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2020/09/05 - 2020/09/05

38位(同エリア1903件中)

旅行記グループ 東京富士美術館

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9/1から開幕した「THIS IS JAPAN IN TOKYO~永遠の日本美術の名宝~」展の続きです。
※作品コメントは、東京富士美術館HPより参照しました。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車

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  • 屏風が続く部屋に入っていきます。コロナ禍で都内の美術館のほとんどは事前予約がないと入場できませんが、都内といってもこちらは八王子、予約なしで入場できます。混雑もしていませんでした。

    屏風が続く部屋に入っていきます。コロナ禍で都内の美術館のほとんどは事前予約がないと入場できませんが、都内といってもこちらは八王子、予約なしで入場できます。混雑もしていませんでした。

    東京富士美術館 美術館・博物館

  • 狩野派「洛中洛外図屏風」江戸時代前期(17世紀)<br />洛中洛外図は桃山時代後期に成立し、江戸時代まで続いて制作された風俗画の一種です。京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の名所や旧跡、四季折々の行事などを一望のもとに描き、通常、六曲一双の画面に描かれました。

    狩野派「洛中洛外図屏風」江戸時代前期(17世紀)
    洛中洛外図は桃山時代後期に成立し、江戸時代まで続いて制作された風俗画の一種です。京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の名所や旧跡、四季折々の行事などを一望のもとに描き、通常、六曲一双の画面に描かれました。

  • 「洛中洛外図屏風」(左隻)<br />左隻の中央に大きく二条城が描かれ、右上には金閣寺なども見えます。

    「洛中洛外図屏風」(左隻)
    左隻の中央に大きく二条城が描かれ、右上には金閣寺なども見えます。

  • 「洛中洛外図屏風」(右隻)<br />豊臣の余光を反映して方広寺の大仏殿が配されています。

    「洛中洛外図屏風」(右隻)
    豊臣の余光を反映して方広寺の大仏殿が配されています。

  • 「洛中洛外図屏風」(拡大)<br />金雲たなびく眼下に祇園祭などの祭礼・行事や市井の人々の営みが活写され、当時の賑わいが伝わってくるような瑞々しい作品です。

    「洛中洛外図屏風」(拡大)
    金雲たなびく眼下に祇園祭などの祭礼・行事や市井の人々の営みが活写され、当時の賑わいが伝わってくるような瑞々しい作品です。

  • 作者不詳「源氏物語(車争)図屏風」江戸時代前期(17世紀)<br />『源氏物語』第9巻「葵」を代表する場面である「車争い」のワンシーンを描いた作品。本作は土佐光茂筆と伝わる《車争図》(京都・仁和寺蔵)の写しと考えられます。賀茂祭(葵祭)の当日、女三の宮が賀茂の新斎院になる御禊の行列に源氏の君も加わることになったため、その行列を見ようとする人々で一条大路は混雑していました。源氏の君の愛人六条御息所もひそかに見物していましたが、そこへ源氏の君の正妻葵の上も見物に行き、その従者たちが六条御息所の車を喧嘩ごしで押し退けてしまうという場面です。<br />

    作者不詳「源氏物語(車争)図屏風」江戸時代前期(17世紀)
    『源氏物語』第9巻「葵」を代表する場面である「車争い」のワンシーンを描いた作品。本作は土佐光茂筆と伝わる《車争図》(京都・仁和寺蔵)の写しと考えられます。賀茂祭(葵祭)の当日、女三の宮が賀茂の新斎院になる御禊の行列に源氏の君も加わることになったため、その行列を見ようとする人々で一条大路は混雑していました。源氏の君の愛人六条御息所もひそかに見物していましたが、そこへ源氏の君の正妻葵の上も見物に行き、その従者たちが六条御息所の車を喧嘩ごしで押し退けてしまうという場面です。

  • 「源氏物語(車争)図屏風」(左隻)<br />左隻には六条御息所と葵の上の一行が争う場面が描かれています。?風の大画面いっぱいに物語のハイライトを大きく描くとともに、賀茂祭の喧噪を今に伝える屏風絵となっています。

    「源氏物語(車争)図屏風」(左隻)
    左隻には六条御息所と葵の上の一行が争う場面が描かれています。?風の大画面いっぱいに物語のハイライトを大きく描くとともに、賀茂祭の喧噪を今に伝える屏風絵となっています。

  • 岩佐派「源氏物語図屏風」江戸時代前期(17世紀)<br />『源氏物語』を題材にした絵を「源氏絵」といい、原典成立後まもなく絵画化が始まったとされます。以後、中世、近世を通じて、様々な画派によって描かれ、日本絵画の普遍的・古典的テ-マとなりました。本作は江戸前期に活躍した岩佐又兵衛の作風に近く、画面を金雲や塀で区分し、源氏物語五十四帖から選ばれた、「桐壺」「明石」など計12場面を配しています。

    岩佐派「源氏物語図屏風」江戸時代前期(17世紀)
    『源氏物語』を題材にした絵を「源氏絵」といい、原典成立後まもなく絵画化が始まったとされます。以後、中世、近世を通じて、様々な画派によって描かれ、日本絵画の普遍的・古典的テ-マとなりました。本作は江戸前期に活躍した岩佐又兵衛の作風に近く、画面を金雲や塀で区分し、源氏物語五十四帖から選ばれた、「桐壺」「明石」など計12場面を配しています。

  • 「源氏物語図屏風」(部分拡大)

    「源氏物語図屏風」(部分拡大)

  • 山本元休「大織冠図屏風」(部分拡大)江戸時代前期(17世紀)<br />「大職冠」は藤原鎌足と竜王の宝珠争奪戦を描いた幸若舞の人気の演題。中国から日本に運ばれる宝珠が竜王に奪われ、鎌足の依頼を受けた海女がそれを取り戻す筋書。冠位十三階の最高位である大職冠を得た唯一の人物であることから、大職冠は鎌足の異名となりました。本屏風はこの物語を巧みに構成した優品であることから、現在まで詳細が不明の画家「法橋(山本)元休」を知る重要作品と位置づけられる貴重な屏風です。

    山本元休「大織冠図屏風」(部分拡大)江戸時代前期(17世紀)
    「大職冠」は藤原鎌足と竜王の宝珠争奪戦を描いた幸若舞の人気の演題。中国から日本に運ばれる宝珠が竜王に奪われ、鎌足の依頼を受けた海女がそれを取り戻す筋書。冠位十三階の最高位である大職冠を得た唯一の人物であることから、大職冠は鎌足の異名となりました。本屏風はこの物語を巧みに構成した優品であることから、現在まで詳細が不明の画家「法橋(山本)元休」を知る重要作品と位置づけられる貴重な屏風です。

  • 五十嵐派[重要美術品]「鹿秋草蒔絵硯箱」江戸時代(17-18世紀)<br />本作の全面には蒔絵をはじめ、金属の小片を貼り付ける切金や金属を文様の形に切り抜いて貼り付けた平文などの手法が用いられています。蓋表には四頭の鹿と菊、萩などの秋の草花が配され、その図様は蓋裏から蓋表、身の方へと連続しています。本作の意匠は『古今和歌集』に収められた壬生忠岑の和歌「山里は秋こそことにわびしけれ 鹿の鳴く音に目をさましつつ」の歌意を表現したもの。文学的な詩情性と蒔絵による装飾性が融合した典雅な作品といえます。

    五十嵐派[重要美術品]「鹿秋草蒔絵硯箱」江戸時代(17-18世紀)
    本作の全面には蒔絵をはじめ、金属の小片を貼り付ける切金や金属を文様の形に切り抜いて貼り付けた平文などの手法が用いられています。蓋表には四頭の鹿と菊、萩などの秋の草花が配され、その図様は蓋裏から蓋表、身の方へと連続しています。本作の意匠は『古今和歌集』に収められた壬生忠岑の和歌「山里は秋こそことにわびしけれ 鹿の鳴く音に目をさましつつ」の歌意を表現したもの。文学的な詩情性と蒔絵による装飾性が融合した典雅な作品といえます。

  • 「鹿秋草蒔絵硯箱」<br />五十嵐派は、室町時代より続くと伝えられる名門で幸阿弥派と並び称された蒔絵師の流派。江戸時代には加賀藩前田家の御用を勤め、加賀蒔絵の基礎を築きました。ただし、初代五十嵐信斎、2代甫斎ともに生没年不詳で、室町時代の五十嵐派の実態はよくわかっていません。江戸時代の作品には切金や金貝、螺鈿や銀鋲などの精巧な技術が見られ、格調高く上品で精緻な正統派の作風に特色があります。

    「鹿秋草蒔絵硯箱」
    五十嵐派は、室町時代より続くと伝えられる名門で幸阿弥派と並び称された蒔絵師の流派。江戸時代には加賀藩前田家の御用を勤め、加賀蒔絵の基礎を築きました。ただし、初代五十嵐信斎、2代甫斎ともに生没年不詳で、室町時代の五十嵐派の実態はよくわかっていません。江戸時代の作品には切金や金貝、螺鈿や銀鋲などの精巧な技術が見られ、格調高く上品で精緻な正統派の作風に特色があります。

  • 「吉野山蒔絵大書棚」明治時代(19-20世紀)<br />

    「吉野山蒔絵大書棚」明治時代(19-20世紀)

  • 「竹貼源氏蒔絵提重」江戸-明治時代(19世紀)<br />提重は重箱の一種で、花見遊山など屋外での酒宴等に便利なように、携帯用重箱として工夫されたもの。提鐶のついた全体に竹が貼られた枠型の中に重箱、竹製の酒瓶、杯、銘々皿などを一具として組み入れています。竹の生地に、源氏物語の車争いの場面が蒔絵の高度な技術を施して描かれています。手提げ部分に用いられた七宝金具なども質の高い優品。幕末から明治期の富裕層の注文によって作られたものと考えられます。

    「竹貼源氏蒔絵提重」江戸-明治時代(19世紀)
    提重は重箱の一種で、花見遊山など屋外での酒宴等に便利なように、携帯用重箱として工夫されたもの。提鐶のついた全体に竹が貼られた枠型の中に重箱、竹製の酒瓶、杯、銘々皿などを一具として組み入れています。竹の生地に、源氏物語の車争いの場面が蒔絵の高度な技術を施して描かれています。手提げ部分に用いられた七宝金具なども質の高い優品。幕末から明治期の富裕層の注文によって作られたものと考えられます。

  • 天璋院篤姫の婚礼調度「葵紋牡丹紋二葉葵唐草蒔絵茶碗台 同蓋」江戸時代後期(19世紀)<br />天璋院篤姫の婚礼調度の一部で、陶磁器製の茶碗をのせる台、および蓋です。篤姫の婚礼調度品はこれまで国内外で4件しか確認されていない希少なもので、東京富士美術館のほかアメリカのスミソニアン協会、徳川記念財団、大阪青山大学短期大学が所蔵するそうです。薩摩に生まれた篤姫は、安政3年(1856)に右大臣近衛忠煕の養女となり、その年の11月に第13代将軍徳川家定の正室となりました。近衛家の抱き牡丹紋、徳川家の三葉葵紋を配し、二葉葵唐草の意匠が施されています。

    天璋院篤姫の婚礼調度「葵紋牡丹紋二葉葵唐草蒔絵茶碗台 同蓋」江戸時代後期(19世紀)
    天璋院篤姫の婚礼調度の一部で、陶磁器製の茶碗をのせる台、および蓋です。篤姫の婚礼調度品はこれまで国内外で4件しか確認されていない希少なもので、東京富士美術館のほかアメリカのスミソニアン協会、徳川記念財団、大阪青山大学短期大学が所蔵するそうです。薩摩に生まれた篤姫は、安政3年(1856)に右大臣近衛忠煕の養女となり、その年の11月に第13代将軍徳川家定の正室となりました。近衛家の抱き牡丹紋、徳川家の三葉葵紋を配し、二葉葵唐草の意匠が施されています。

  • 順姫所用「竹雀紋竪三引両紋牡丹唐草蒔絵女乗物」江戸時代中期(18世紀)<br />宇和島伊達家の家紋である「竹に雀紋」と「竪三引両紋」が描かれた乗物。駕籠の中でも引き戸が付いている高級なものを乗物と呼びます。

    順姫所用「竹雀紋竪三引両紋牡丹唐草蒔絵女乗物」江戸時代中期(18世紀)
    宇和島伊達家の家紋である「竹に雀紋」と「竪三引両紋」が描かれた乗物。駕籠の中でも引き戸が付いている高級なものを乗物と呼びます。

  • 「竹雀紋竪三引両紋牡丹唐草蒔絵女乗物」<br />本作は仙台藩第7代藩主伊達重村の娘順姫が伊予宇和島藩第6代藩主伊達村壽に嫁いだ際に用いられた品と考えられています。大名家にふさわしい豪華な蒔絵、華やかな花鳥画が特徴的で、同種の乗物はわずかしか現存しておらず、文化的にも高い価値があります。

    「竹雀紋竪三引両紋牡丹唐草蒔絵女乗物」
    本作は仙台藩第7代藩主伊達重村の娘順姫が伊予宇和島藩第6代藩主伊達村壽に嫁いだ際に用いられた品と考えられています。大名家にふさわしい豪華な蒔絵、華やかな花鳥画が特徴的で、同種の乗物はわずかしか現存しておらず、文化的にも高い価値があります。

  • 「竹雀紋竪三引両紋牡丹唐草蒔絵女乗物」<br />内装部分には、金地に風景と草花が極彩色で丁寧に描かれています。

    「竹雀紋竪三引両紋牡丹唐草蒔絵女乗物」
    内装部分には、金地に風景と草花が極彩色で丁寧に描かれています。

  • 伊年 印「春秋草花図屏風」江戸時代前期(17世紀)<br />画面左下に「伊年印」と呼ばれる俵屋宗達が主宰した工房作を示す商標印が付されています。二曲仕立ての屏風には女竹・蔦・もろこし・芥子・すみれ・桜草・つくし・立葵・竜胆・燕子花・撫子・たんぽぽ・鶏頭・芒・萩など十数種の草花を散見することができます。草花の配置や組み合わせには花卉全体を見渡せるよう配慮がなされています。<br />

    伊年 印「春秋草花図屏風」江戸時代前期(17世紀)
    画面左下に「伊年印」と呼ばれる俵屋宗達が主宰した工房作を示す商標印が付されています。二曲仕立ての屏風には女竹・蔦・もろこし・芥子・すみれ・桜草・つくし・立葵・竜胆・燕子花・撫子・たんぽぽ・鶏頭・芒・萩など十数種の草花を散見することができます。草花の配置や組み合わせには花卉全体を見渡せるよう配慮がなされています。

  • 「春秋草花図屏風」(部分拡大)江戸時代前期(17世紀)<br />花々の最盛期を捉えた瑞々しい生命感が心地よく、艶やかな花の色と金地が相まって琳派特有の雅な空間を創り出しています。<br />

    「春秋草花図屏風」(部分拡大)江戸時代前期(17世紀)
    花々の最盛期を捉えた瑞々しい生命感が心地よく、艶やかな花の色と金地が相まって琳派特有の雅な空間を創り出しています。

  • 狩野派「吉野山龍田川図屏風」(左隻)江戸時代前期(17世紀)<br />江戸時代に入り、桃山時代の豪奢で勇壮な狩野派様式を、端麗な様式へと革新したのは狩野探幽でした。探幽は新たにやまと絵の技法も取り入れ、「景物画」と呼ばれる日本の名所における四季や風俗を主題とした新しい絵画の領域を開拓しました。

    狩野派「吉野山龍田川図屏風」(左隻)江戸時代前期(17世紀)
    江戸時代に入り、桃山時代の豪奢で勇壮な狩野派様式を、端麗な様式へと革新したのは狩野探幽でした。探幽は新たにやまと絵の技法も取り入れ、「景物画」と呼ばれる日本の名所における四季や風俗を主題とした新しい絵画の領域を開拓しました。

  • 「吉野山龍田川図屏風」(左隻拡大)<br />本作で描かれる龍田川の紅葉は、秋を代表する景物として和歌にも詠まれ、古来より親しまれてきた伝統的画題の一つです。<br />

    「吉野山龍田川図屏風」(左隻拡大)
    本作で描かれる龍田川の紅葉は、秋を代表する景物として和歌にも詠まれ、古来より親しまれてきた伝統的画題の一つです。

  • 「吉野山龍田川図屏風」(右隻)<br />こちらは吉野山の桜。ここでは狩野派特有の樹木や岩の豪快な描写をおさえ、やまと絵風の花木や山々の大らかで精緻な画風を引き立たせることで、自然の心地よい風情を引き出すことに成功しています。

    「吉野山龍田川図屏風」(右隻)
    こちらは吉野山の桜。ここでは狩野派特有の樹木や岩の豪快な描写をおさえ、やまと絵風の花木や山々の大らかで精緻な画風を引き立たせることで、自然の心地よい風情を引き出すことに成功しています。

  • 「吉野山龍田川図屏風」(右隻拡大)<br />

    「吉野山龍田川図屏風」(右隻拡大)

  • 狩野常信「四季山水図屏風」江戸時代前期(17世紀)<br />右隻から左隻へと春夏秋冬の季節の移り変わりを描いた四季山水図です。江戸狩野の継承者として活躍した常信が描いた水墨山水で、画面全面に金砂子を散らして装飾性を加えています。こうした「四季山水図」は中国より伝来した「瀟湘八景図」に由来しており、洞庭湖を中心とした8種の構図が四季と組み合わせられ、巧みに画面に取り込まれています。

    狩野常信「四季山水図屏風」江戸時代前期(17世紀)
    右隻から左隻へと春夏秋冬の季節の移り変わりを描いた四季山水図です。江戸狩野の継承者として活躍した常信が描いた水墨山水で、画面全面に金砂子を散らして装飾性を加えています。こうした「四季山水図」は中国より伝来した「瀟湘八景図」に由来しており、洞庭湖を中心とした8種の構図が四季と組み合わせられ、巧みに画面に取り込まれています。

  • 横山大観「春秋」明治42年(1909)<br />右隻に春のしだれ桜とたんぽぽ。左隻に秋の楓とりんどう、おみなえし、芒が描かれます。左右に季節の風趣を対比させて、没線主彩、たらしこみなどを用いながら、琳派風に描いたもの。

    横山大観「春秋」明治42年(1909)
    右隻に春のしだれ桜とたんぽぽ。左隻に秋の楓とりんどう、おみなえし、芒が描かれます。左右に季節の風趣を対比させて、没線主彩、たらしこみなどを用いながら、琳派風に描いたもの。

  • 「春秋」(拡大)<br />余白を大きく残すなかに、真っ青なりんどうが画面を引きしめ、さらに落ちかかる一葉の楓が一瞬の時の流れを意識させ、静寂な雰囲気を与えています。

    「春秋」(拡大)
    余白を大きく残すなかに、真っ青なりんどうが画面を引きしめ、さらに落ちかかる一葉の楓が一瞬の時の流れを意識させ、静寂な雰囲気を与えています。

  • 橋本雅邦「桜花紅葉山水図」(右側)明治26年(1893)頃<br />双幅の雉が飛ぶ桜花爛漫の春の野辺を描いた右側です。東京美術学校の指導教官として1期生を送り出した雅邦円熟期の作。

    橋本雅邦「桜花紅葉山水図」(右側)明治26年(1893)頃
    双幅の雉が飛ぶ桜花爛漫の春の野辺を描いた右側です。東京美術学校の指導教官として1期生を送り出した雅邦円熟期の作。

  • 「桜花紅葉山水図」(左側)<br />左側の紅葉舞い散る秋の景観とかなたに雁の群れを望む風景。木々の幹や岩の描写には、狩野派ならではの力強い筆致が見られ、画面にアクセントを与えています。また中景から遠景にかけては西洋の空気遠近法が取り入れられ、奥深くに広がる空間表現にも成功しています。

    「桜花紅葉山水図」(左側)
    左側の紅葉舞い散る秋の景観とかなたに雁の群れを望む風景。木々の幹や岩の描写には、狩野派ならではの力強い筆致が見られ、画面にアクセントを与えています。また中景から遠景にかけては西洋の空気遠近法が取り入れられ、奥深くに広がる空間表現にも成功しています。

  • 鈴木其一「風神雷神図襖」(雷神側)江戸時代後期(19世紀)<br />俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一という琳派の巨匠たちによって手がけられてきた重要画題である「風神雷神図」を抱一の高弟其一が再構成した作品。3人の巨匠が二曲の金地屏風に二神を収めたのに対し、其一は絹本の襖四面に各々を描いています。

    鈴木其一「風神雷神図襖」(雷神側)江戸時代後期(19世紀)
    俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一という琳派の巨匠たちによって手がけられてきた重要画題である「風神雷神図」を抱一の高弟其一が再構成した作品。3人の巨匠が二曲の金地屏風に二神を収めたのに対し、其一は絹本の襖四面に各々を描いています。

  • 「風神雷神図襖」(雷神)<br />軽やかな白の色彩を得た雷神が、墨の滲みを使った柔らかな雲を従えて、与えられた広々とした空間を我が物顔で支配しています。落款には「為三堂」「噲々」の印、「祝琳斎其一」の署名がなされており、抱一の死後、其一独自の作風を確立しゆく30代半ばから40代後半の充溢した時代の作と考えられます。

    「風神雷神図襖」(雷神)
    軽やかな白の色彩を得た雷神が、墨の滲みを使った柔らかな雲を従えて、与えられた広々とした空間を我が物顔で支配しています。落款には「為三堂」「噲々」の印、「祝琳斎其一」の署名がなされており、抱一の死後、其一独自の作風を確立しゆく30代半ばから40代後半の充溢した時代の作と考えられます。

  • 「風神雷神図襖」(風神)<br />本作では風神・雷神の二神の胴体・腕・足の凹凸を表す描線や目玉の周囲にわずかな陰影を施し、立体性をより強調しているのが見て取れ、他の3巨匠にはないリアリティへの追求が窺えます。

    「風神雷神図襖」(風神)
    本作では風神・雷神の二神の胴体・腕・足の凹凸を表す描線や目玉の周囲にわずかな陰影を施し、立体性をより強調しているのが見て取れ、他の3巨匠にはないリアリティへの追求が窺えます。

  • 土田麦僊「紅葉小禽」制作年不詳<br />鮮やかな紅葉の中で3羽のシジュウカラと思われる小禽が戯れています。紅葉した葉はそれぞれ赤の色合いに細心の注意を払い彩色されています。紅葉の葉や幹に輪郭線はなく、隈取りの技法を上手く使い、見事に表現しています。<br />

    土田麦僊「紅葉小禽」制作年不詳
    鮮やかな紅葉の中で3羽のシジュウカラと思われる小禽が戯れています。紅葉した葉はそれぞれ赤の色合いに細心の注意を払い彩色されています。紅葉の葉や幹に輪郭線はなく、隈取りの技法を上手く使い、見事に表現しています。

  • 「紅葉小禽」(部分拡大)<br />落款・印章から、制作は渡欧から帰国した直後の大正10年(1921)頃から昭和初期にかけてと推測されます。麦僊は渡欧を通して、改めて日本美術の奥深さや美しさを再考することができたといいます。それは本作のような日本画特有のぼかしの効果を駆使したような作品からも窺え、新鮮な気持ちで、日本画の制作を楽しんでいるようにも感じられます。<br />

    「紅葉小禽」(部分拡大)
    落款・印章から、制作は渡欧から帰国した直後の大正10年(1921)頃から昭和初期にかけてと推測されます。麦僊は渡欧を通して、改めて日本美術の奥深さや美しさを再考することができたといいます。それは本作のような日本画特有のぼかしの効果を駆使したような作品からも窺え、新鮮な気持ちで、日本画の制作を楽しんでいるようにも感じられます。

  • 土田麦僊「雪中梅」大正-昭和時代(20世紀)<br />雪が積もった梅の木に5羽の雀がとまっています。枝に積もった雪は彩色をせずに表現しており、雀の身体も塗り残しを上手く利用し、最低限の着彩によって仕上げられています。箱書には「庚申臘月」とあり、本作が大正9年(1920)12月の作であることを伝えてくれます。

    土田麦僊「雪中梅」大正-昭和時代(20世紀)
    雪が積もった梅の木に5羽の雀がとまっています。枝に積もった雪は彩色をせずに表現しており、雀の身体も塗り残しを上手く利用し、最低限の着彩によって仕上げられています。箱書には「庚申臘月」とあり、本作が大正9年(1920)12月の作であることを伝えてくれます。

  • 「雪中梅」(部分拡大)<br />本作制作の2年前の同7年(1918)に国画創作協会を立ち上げ、翌10年(1921)には渡欧する麦僊の過渡期にあたり、ラフな描法からは新たな日本画表現を模索せんとする作者の旺盛な野心が窺えます。

    「雪中梅」(部分拡大)
    本作制作の2年前の同7年(1918)に国画創作協会を立ち上げ、翌10年(1921)には渡欧する麦僊の過渡期にあたり、ラフな描法からは新たな日本画表現を模索せんとする作者の旺盛な野心が窺えます。

  • 葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」天保1-天保3年(1830-32)頃<br />眼前で激しく逆巻く大波と波間の遥か遠くに鎮座する富士山。動と静、遠と近を対比させる絶妙な構図は、海外でも「グレート・ウェーヴ」と称され、画家ゴッホや作曲家ドビュッシーをはじめ世界的に賞讃を受けました。波に翻弄される3艘の船は「押送り舟」と呼ばれる舟で、伊豆や安房の方から江戸湾に入り、日本橋などの市場に鮮魚や野菜を運搬していました。千葉県木更津方面から江戸湾を臨んで描いたとの説もあります。

    葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」天保1-天保3年(1830-32)頃
    眼前で激しく逆巻く大波と波間の遥か遠くに鎮座する富士山。動と静、遠と近を対比させる絶妙な構図は、海外でも「グレート・ウェーヴ」と称され、画家ゴッホや作曲家ドビュッシーをはじめ世界的に賞讃を受けました。波に翻弄される3艘の船は「押送り舟」と呼ばれる舟で、伊豆や安房の方から江戸湾に入り、日本橋などの市場に鮮魚や野菜を運搬していました。千葉県木更津方面から江戸湾を臨んで描いたとの説もあります。

  • 歌川広重「東海道五拾三次之内 吉原 左富士」天保4-5年(1833-34)<br />元吉原から吉原へ、田んぼのなかを曲がりくねって続く松並木の街道は、富士の姿を左に見ることができ、「左富士」と呼ばれ親しまれた名所だったそうです。現在の富士市吉原ですが、勤務地がこの先の吉原にあり毎日ここを通っていました。左に富士山は見えますが、現在の風景はこの作品とまったく違います。

    歌川広重「東海道五拾三次之内 吉原 左富士」天保4-5年(1833-34)
    元吉原から吉原へ、田んぼのなかを曲がりくねって続く松並木の街道は、富士の姿を左に見ることができ、「左富士」と呼ばれ親しまれた名所だったそうです。現在の富士市吉原ですが、勤務地がこの先の吉原にあり毎日ここを通っていました。左に富士山は見えますが、現在の風景はこの作品とまったく違います。

  • 歌川広重「東海道五拾三次之内 原 朝之富士」天保4-5年(1833-34)<br />地元の沼津市の原です。この作品では、母娘であろうか、2人の女性とお供の男性。その背後には、朝焼けをバックに雪を被る雄大な富士がそびえており、女性たちはその偉容に思わず足を止めています。富士の頂が画面をはみ出すように描かれた斬新な構図には、すでに人気を博していた葛飾北斎の《冨嶽三十六景》シリーズへの対抗心のようなものを感じとることができます。田畑に戯れる2羽の鶴が峻厳な富士の姿を和らげるアクセントにもなっています。

    歌川広重「東海道五拾三次之内 原 朝之富士」天保4-5年(1833-34)
    地元の沼津市の原です。この作品では、母娘であろうか、2人の女性とお供の男性。その背後には、朝焼けをバックに雪を被る雄大な富士がそびえており、女性たちはその偉容に思わず足を止めています。富士の頂が画面をはみ出すように描かれた斬新な構図には、すでに人気を博していた葛飾北斎の《冨嶽三十六景》シリーズへの対抗心のようなものを感じとることができます。田畑に戯れる2羽の鶴が峻厳な富士の姿を和らげるアクセントにもなっています。

  • 橋本雅邦「三保松原図」明治35年(1902)頃<br />謡曲「羽衣」で名高い三保松原は、絵画の画題としても多く描かれてきました。手前に白砂青松、背景に富士を見る構図は今も残されている絶景といえます。この伝統的画題を雅邦は自身の近代的な感性で昇華し、輪郭線を一切排除するとともに、着彩は必要最低限にとどめ、空気遠近法を意識するかのように、前景・中景・遠景と徐々に霞んでいく様を描き、空間を表現しています。本作は、明治30年(1897)に結成された画宝会の主催で4回にわたって行われた自身の大規模絵画展のうち、同33年(1900)に行われた第2回展の出品作で、その中から選抜した150点を収録した『雅邦集 第二』(画報社)の18番目の作品として掲載されており、雅邦にとっても思い入れのある作品であったことが窺えます。

    橋本雅邦「三保松原図」明治35年(1902)頃
    謡曲「羽衣」で名高い三保松原は、絵画の画題としても多く描かれてきました。手前に白砂青松、背景に富士を見る構図は今も残されている絶景といえます。この伝統的画題を雅邦は自身の近代的な感性で昇華し、輪郭線を一切排除するとともに、着彩は必要最低限にとどめ、空気遠近法を意識するかのように、前景・中景・遠景と徐々に霞んでいく様を描き、空間を表現しています。本作は、明治30年(1897)に結成された画宝会の主催で4回にわたって行われた自身の大規模絵画展のうち、同33年(1900)に行われた第2回展の出品作で、その中から選抜した150点を収録した『雅邦集 第二』(画報社)の18番目の作品として掲載されており、雅邦にとっても思い入れのある作品であったことが窺えます。

  • 横山大観「神嶽不二山」昭和15年(1940)<br />「紀元二千六百筆」との年記があることから昭和15年(1940)の作であることが分かる。同年は神武天皇の即位から2600年を当たる節目の年であることから各地で記念の奉祝展が多く開催されました。大観は同年の4月、日本橋の高島屋と三越の2会場でそれぞれ「横山大観紀元二千六百年奉祝記念展」を開催し、そこに《海に因む十題》《山に因む十題》として各々10点ずつを出品し、売上金の50万円を全て陸海軍に献納したことは有名です。本作もこうした奉祝ムードの中で、同様の展覧会もしくは個人の依頼によって描かれたものと思われます。大型の画面に淡墨と胡粉を使い、靄の中からセピア調に浮かび上がらせた富士の姿は壮麗で神々しさすらおぼえる。富士の山頂の形状からすると、南西側の静岡方面から見た富士と思われます。

    横山大観「神嶽不二山」昭和15年(1940)
    「紀元二千六百筆」との年記があることから昭和15年(1940)の作であることが分かる。同年は神武天皇の即位から2600年を当たる節目の年であることから各地で記念の奉祝展が多く開催されました。大観は同年の4月、日本橋の高島屋と三越の2会場でそれぞれ「横山大観紀元二千六百年奉祝記念展」を開催し、そこに《海に因む十題》《山に因む十題》として各々10点ずつを出品し、売上金の50万円を全て陸海軍に献納したことは有名です。本作もこうした奉祝ムードの中で、同様の展覧会もしくは個人の依頼によって描かれたものと思われます。大型の画面に淡墨と胡粉を使い、靄の中からセピア調に浮かび上がらせた富士の姿は壮麗で神々しさすらおぼえる。富士の山頂の形状からすると、南西側の静岡方面から見た富士と思われます。

  • 「富士蒔絵印籠」江戸時代中期(18世紀)<br />水戸黄門でおなじみの印籠ですが、元来薬入れを用途とする装身具で、後には薬を入れずに装身具として提げることも多かったそうです。印籠の名称の由来は明らかでなく、室町時代に床飾りであった唐物の印を入れる印籠と薬を入れる薬籠の形状が似ていたためとも伝えられるが定かではありません。ともかくも江戸時代の印籠の用途は薬入れであって、印を入れるものはほとんどありません。実際に薬がそのまま残されたものや、内側に薬名を墨書したものもしばしばみられ、上等な蒔絵の印籠でも、薬入れとして実用に使われていたことがわかります。本作は、常形4段の印籠で、黒蝋色塗地に肉合研出蒔絵と螺鈿で富士山・三保松原・清見寺を表しています。

    「富士蒔絵印籠」江戸時代中期(18世紀)
    水戸黄門でおなじみの印籠ですが、元来薬入れを用途とする装身具で、後には薬を入れずに装身具として提げることも多かったそうです。印籠の名称の由来は明らかでなく、室町時代に床飾りであった唐物の印を入れる印籠と薬を入れる薬籠の形状が似ていたためとも伝えられるが定かではありません。ともかくも江戸時代の印籠の用途は薬入れであって、印を入れるものはほとんどありません。実際に薬がそのまま残されたものや、内側に薬名を墨書したものもしばしばみられ、上等な蒔絵の印籠でも、薬入れとして実用に使われていたことがわかります。本作は、常形4段の印籠で、黒蝋色塗地に肉合研出蒔絵と螺鈿で富士山・三保松原・清見寺を表しています。

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