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長安(西安)の青龍寺で学んだ空海は、博学で、造詣も深く、仏教、詩、詞、サンスクリット、書などについても成果をあげました。806年、多数の仏教経典や書籍、仏具を携えて帰国し、奈良の東大寺で日本密宗真言宗を開きました。

2019秋、中国旅行記25(31/34):11月20日(8):西安(18):青龍寺(3):堂内、木魚、大雁塔(1):大慈恩寺

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2019/11/17 - 2019/11/21

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旅行記グループ 2019秋、中国旅行記25(下巻)

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

長安(西安)の青龍寺で学んだ空海は、博学で、造詣も深く、仏教、詩、詞、サンスクリット、書などについても成果をあげました。806年、多数の仏教経典や書籍、仏具を携えて帰国し、奈良の東大寺で日本密宗真言宗を開きました。

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  • 『恵果空海紀念堂』に入場しての見学です。内部はお寺の講堂と言った造りでした。天井が高く、寺院に必要な祭壇や飾り付けがありました。もちろん、入口で履き物を脱いでの見学と参拝です。

    『恵果空海紀念堂』に入場しての見学です。内部はお寺の講堂と言った造りでした。天井が高く、寺院に必要な祭壇や飾り付けがありました。もちろん、入口で履き物を脱いでの見学と参拝です。

  • 台の上の敷物の上に置かれた、大きな『木魚(もくぎょ)』の光景です。『杢魚』とも記されます。木魚は、読経をするときに打ち鳴らすことでリズムを整え、また、眠気覚ましの意味もあります。木魚が魚を模しているのは、眠るときも目を閉じない魚が、かつて眠らないものだと信じられていたことに由来するようです。

    台の上の敷物の上に置かれた、大きな『木魚(もくぎょ)』の光景です。『杢魚』とも記されます。木魚は、読経をするときに打ち鳴らすことでリズムを整え、また、眠気覚ましの意味もあります。木魚が魚を模しているのは、眠るときも目を閉じない魚が、かつて眠らないものだと信じられていたことに由来するようです。

  • 『恵果空海紀念堂』の堂内光景です。普段も礼拝が行われている雰囲気を感じました。木魚を先に紹介しましたが、太鼓も置かれていました。黄色の敷き物は、座る目的より、礼拝に必要な品かも知れません。

    『恵果空海紀念堂』の堂内光景です。普段も礼拝が行われている雰囲気を感じました。木魚を先に紹介しましたが、太鼓も置かれていました。黄色の敷き物は、座る目的より、礼拝に必要な品かも知れません。

  • 『恵果空海紀念堂』の内部見学を終えて、再び屋外の光景です。世界和平を祈念する白い塔と、その周りの像の光景です。中央の黄金像が、密教の最高神の大日如来、右手の立像が地蔵尊、左手が薬師如来か、観音菩薩のようです。

    『恵果空海紀念堂』の内部見学を終えて、再び屋外の光景です。世界和平を祈念する白い塔と、その周りの像の光景です。中央の黄金像が、密教の最高神の大日如来、右手の立像が地蔵尊、左手が薬師如来か、観音菩薩のようです。

  • 『密宗之教法最為高深』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。『原来仏法之目的』から始まり、その後に、『唐玄宗時、印度善無畏三蔵、金剛智三蔵先後〇入此地』と、玄宗皇帝時に『大日経』、『金剛頂経』などが入り、仏教が栄えましたが、元の時代に衰え、近年再興し、再び盛んになったことなどが紹介されていました。(元後即衰、近年再興、甚盛。)

    『密宗之教法最為高深』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。『原来仏法之目的』から始まり、その後に、『唐玄宗時、印度善無畏三蔵、金剛智三蔵先後〇入此地』と、玄宗皇帝時に『大日経』、『金剛頂経』などが入り、仏教が栄えましたが、元の時代に衰え、近年再興し、再び盛んになったことなどが紹介されていました。(元後即衰、近年再興、甚盛。)

  • 『唐密述要』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。仏法が東にやってきて(自仏法東来)、禅、浄土、密等の十宗がもたらされたことなどが紹介されていました。また、密教では、大日如来が最高位であることも強調されていました。(密教始祖為法身仏大日如来)

    『唐密述要』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。仏法が東にやってきて(自仏法東来)、禅、浄土、密等の十宗がもたらされたことなどが紹介されていました。また、密教では、大日如来が最高位であることも強調されていました。(密教始祖為法身仏大日如来)

  • 『恵果大阿闍梨』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。天宝5年(746年)に生まれ、永貞元年(806年)に示寂した恵果和尚についての略歴と、業績の数々が記されていました。11人の高弟子(阿闍梨)が列挙され、空海もその中に挙げられていました。右の図は、童子を伴う仕来りに沿った恵果和尚のイラストです。

    『恵果大阿闍梨』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。天宝5年(746年)に生まれ、永貞元年(806年)に示寂した恵果和尚についての略歴と、業績の数々が記されていました。11人の高弟子(阿闍梨)が列挙され、空海もその中に挙げられていました。右の図は、童子を伴う仕来りに沿った恵果和尚のイラストです。

  • 『青龍寺』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。隋代に文帝により、開皇2年(582年)に創建されたことから説明が始まっていました。最初の寺名が『霊感寺』、その後に『観音寺』と改められました。唐代の景雲2年(711年)に『青龍寺』の寺名になったことが紹介されていました。『日本真言宗的発祥地』と紹介されていたのは、恵果阿闍梨と空海の関係を指すようです。

    『青龍寺』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。隋代に文帝により、開皇2年(582年)に創建されたことから説明が始まっていました。最初の寺名が『霊感寺』、その後に『観音寺』と改められました。唐代の景雲2年(711年)に『青龍寺』の寺名になったことが紹介されていました。『日本真言宗的発祥地』と紹介されていたのは、恵果阿闍梨と空海の関係を指すようです。

  • 黄葉の木々と、堂々とした造りの青龍寺の建物の甍の光景です。中央に、控えめの造りの屋根飾りも見えていました。手前に見える六角屋根の置物は、線香立のようです。

    黄葉の木々と、堂々とした造りの青龍寺の建物の甍の光景です。中央に、控えめの造りの屋根飾りも見えていました。手前に見える六角屋根の置物は、線香立のようです。

  • 『全国第四批重点文物保護単位』の石標です。中央に『隋大興、唐長安城遺址・青龍寺遺址』の史跡名が記されていました。中国国務院による、1996年11月20日公布の石標でした。その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所でした。

    『全国第四批重点文物保護単位』の石標です。中央に『隋大興、唐長安城遺址・青龍寺遺址』の史跡名が記されていました。中国国務院による、1996年11月20日公布の石標でした。その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所でした。

  • 雨に濡れた、青龍寺の周りの建物光景です。新しい建物ですから、電飾などが使用されていました。『不断恐(?)固衛生城市成果』の名院の表示のほか、現在時刻が『11月20日15次40分33秒』と、秒単位まで表示されていました。中国での秒単位の表示は、上海市の電車駅での時刻でも目にしました。

    雨に濡れた、青龍寺の周りの建物光景です。新しい建物ですから、電飾などが使用されていました。『不断恐(?)固衛生城市成果』の名院の表示のほか、現在時刻が『11月20日15次40分33秒』と、秒単位まで表示されていました。中国での秒単位の表示は、上海市の電車駅での時刻でも目にしました。

  • 『青龍寺』の金文字が刻された立派な石標の光景です。まだ新しい造りでした。その上に記された四文字は、『唐密祖廟』のようでした。創建は、隋代の開皇2年(582年)とされます。

    『青龍寺』の金文字が刻された立派な石標の光景です。まだ新しい造りでした。その上に記された四文字は、『唐密祖廟』のようでした。創建は、隋代の開皇2年(582年)とされます。

  • 『青龍寺』を護る狛犬の光景です。左足の下に子獅子がいる、雌獅子です。一対で置かれていましたが、その片方だけの紹介です。随分と厳めしい姿で、足の指なども細かく表現されていました。

    『青龍寺』を護る狛犬の光景です。左足の下に子獅子がいる、雌獅子です。一対で置かれていましたが、その片方だけの紹介です。随分と厳めしい姿で、足の指なども細かく表現されていました。

  • ここからは、場所を移動して『大雁塔』の紹介です。大雁塔は、652年に帰国した、唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔です。 現在は、『シルクロード:長安-天山回廊の交易路網』の一部として、小雁塔とともに世界遺産に登録されています。

    ここからは、場所を移動して『大雁塔』の紹介です。大雁塔は、652年に帰国した、唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔です。 現在は、『シルクロード:長安-天山回廊の交易路網』の一部として、小雁塔とともに世界遺産に登録されています。

  • 『大慈恩寺』の金文字が記された、まだ新しい扁額の光景です。落款は、『江澤民』氏でした。『江沢民(1926~)』は、当時の最高実力者のトウ小平(1904~1997年)引退後の中国の最高指導者で、中国共産党中央委員会総書記、中国共産党中央軍事委員会主席、国家主席、国家中央軍事委員会主席を務めました。 江蘇省揚州市に生まれました。

    イチオシ

    『大慈恩寺』の金文字が記された、まだ新しい扁額の光景です。落款は、『江澤民』氏でした。『江沢民(1926~)』は、当時の最高実力者のトウ小平(1904~1997年)引退後の中国の最高指導者で、中国共産党中央委員会総書記、中国共産党中央軍事委員会主席、国家主席、国家中央軍事委員会主席を務めました。 江蘇省揚州市に生まれました。

  • 『大慈恩寺』の山門を護る狛犬の光景です。右足の下に玉を置く、雄獅子のようです。山門側に首を傾げていました。大雁塔に所縁が深い玄奘三蔵法師について紹介します。『三蔵法師(さんぞうほうし)』とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のことです。転じて訳経僧を意味する呼び名にもなりました。その中でも高名なのが、『玄奘三蔵法師(602~664年)』です。

    『大慈恩寺』の山門を護る狛犬の光景です。右足の下に玉を置く、雄獅子のようです。山門側に首を傾げていました。大雁塔に所縁が深い玄奘三蔵法師について紹介します。『三蔵法師(さんぞうほうし)』とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のことです。転じて訳経僧を意味する呼び名にもなりました。その中でも高名なのが、『玄奘三蔵法師(602~664年)』です。

  • こちらも『大慈恩寺』の山門を護る狛犬の光景です。左足の下に子獅子がいる、雌獅子の方です。『玄奘三蔵法師』は、唐代の訳経僧で、『玄奘』は戒名です。俗名は『陳?樛(チンキ)』、諡は大遍覚で、尊称は法師、三蔵などです。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれます。玄奘三蔵は、629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となりました。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著しました。

    こちらも『大慈恩寺』の山門を護る狛犬の光景です。左足の下に子獅子がいる、雌獅子の方です。『玄奘三蔵法師』は、唐代の訳経僧で、『玄奘』は戒名です。俗名は『陳?樛(チンキ)』、諡は大遍覚で、尊称は法師、三蔵などです。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれます。玄奘三蔵は、629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となりました。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著しました。

  • 正面から眺めた『大雁塔』の光景です。大雁塔の名前は、菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来します。大慈恩寺の境内に建つ、7層64メートルの塔です。玄奘三蔵の設計により、当初は5層でした。各階に仏舎利が納められ、経典は上層部の石室に置かれました。玄奘自ら、造営に携わったと伝えられます。

    正面から眺めた『大雁塔』の光景です。大雁塔の名前は、菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来します。大慈恩寺の境内に建つ、7層64メートルの塔です。玄奘三蔵の設計により、当初は5層でした。各階に仏舎利が納められ、経典は上層部の石室に置かれました。玄奘自ら、造営に携わったと伝えられます。

  • 写真は、立派で大きな香炉のような置物の光景です。玄奘三蔵法師が著わした、インドへの旅の『大唐西域記』は、『西遊記(さいゆうき)』として、16世紀の明の時代に大成した白話小説に生まれ変わりました。白話小説とは、口語体、話し言葉で記された小説のことです。日本でもよく知られた物語ですが、中国の方からは、若い頃の必須の読み物の一つともお聞きしました。

    写真は、立派で大きな香炉のような置物の光景です。玄奘三蔵法師が著わした、インドへの旅の『大唐西域記』は、『西遊記(さいゆうき)』として、16世紀の明の時代に大成した白話小説に生まれ変わりました。白話小説とは、口語体、話し言葉で記された小説のことです。日本でもよく知られた物語ですが、中国の方からは、若い頃の必須の読み物の一つともお聞きしました。

  • 写真は、レンガを積み上げた石造の建物の『鐘楼』です。『西遊記』は、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語で、全100回です。中国四大奇書に数えられています。

    写真は、レンガを積み上げた石造の建物の『鐘楼』です。『西遊記』は、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語で、全100回です。中国四大奇書に数えられています。

  • こちらは鼓楼の建物光景だったようです。同じようにレンガを積み上げた石造の建物です。二階に連子窓が開いていました。

    こちらは鼓楼の建物光景だったようです。同じようにレンガを積み上げた石造の建物です。二階に連子窓が開いていました。

  • 『鼓楼:Drum Tawer』のタイトルがあった説明パネルの光景です。中国語の説明文は、『鼓被導奉為通天的神器、主要是作為祭祀的器具、也称地音。』で始まっていました。『鼓の音は天に通じる神器。主要な祭祀に用いられる器具で、地の音とも称される』といった意味のようです。

    『鼓楼:Drum Tawer』のタイトルがあった説明パネルの光景です。中国語の説明文は、『鼓被導奉為通天的神器、主要是作為祭祀的器具、也称地音。』で始まっていました。『鼓の音は天に通じる神器。主要な祭祀に用いられる器具で、地の音とも称される』といった意味のようです。

  • 『鐘楼:Bell Tower』のタイトルがあった説明パネルの光景です。中国語の説明文は『鐘是寺院的号令、他称天声。僧人毎日的修習起自鐘鼓、止于鐘鼓』で始まっていました。『鐘は寺院の号令であり、天の声でもある。僧人は、鐘と鼓で修習を始め、鐘と鼓で終わる』といったところのようです。嘉靖27年(1548年)に鋳造された重さ15トンの鐘とも紹介されていました。

    『鐘楼:Bell Tower』のタイトルがあった説明パネルの光景です。中国語の説明文は『鐘是寺院的号令、他称天声。僧人毎日的修習起自鐘鼓、止于鐘鼓』で始まっていました。『鐘は寺院の号令であり、天の声でもある。僧人は、鐘と鼓で修習を始め、鐘と鼓で終わる』といったところのようです。嘉靖27年(1548年)に鋳造された重さ15トンの鐘とも紹介されていました。

  • 『全国第一批重点文物保護単位』の石標です。中央に『大雁塔』の史跡名が記されていました。中国国務院による、1991年3月4日公布の石標でした。大雁塔は、玄奘三蔵法師所縁の建物です。

    『全国第一批重点文物保護単位』の石標です。中央に『大雁塔』の史跡名が記されていました。中国国務院による、1991年3月4日公布の石標でした。大雁塔は、玄奘三蔵法師所縁の建物です。

  • 『大雁塔』の遠望光景です。当初は表面を磚に覆っただけで土によって作られていたために、老朽化してしまいました。このため、長安年間(701~705年)、武則天の統治時代に、全て『磚(でん)』で造られ、上まで登れるようになり、現在の7層になりました。『磚(でん)』は、煉瓦と考えていいようです。

    イチオシ

    『大雁塔』の遠望光景です。当初は表面を磚に覆っただけで土によって作られていたために、老朽化してしまいました。このため、長安年間(701~705年)、武則天の統治時代に、全て『磚(でん)』で造られ、上まで登れるようになり、現在の7層になりました。『磚(でん)』は、煉瓦と考えていいようです。

  • それほど大きな建物ではありませんが、寺院らしい反りを持った甍の光景です。『客堂』の扁額が懸かっていました。

    それほど大きな建物ではありませんが、寺院らしい反りを持った甍の光景です。『客堂』の扁額が懸かっていました。

  • 二頭の龍が刻まれた、大きな石造レリーフの光景です。宮殿や、大きな寺院などの階段でよく見かける光景です。龍は、中国皇帝のシンボルとされます。

    二頭の龍が刻まれた、大きな石造レリーフの光景です。宮殿や、大きな寺院などの階段でよく見かける光景です。龍は、中国皇帝のシンボルとされます。

  • 左手奥に大雁塔が見える、大慈恩寺の境内光景です。右手前に見える建物は、『鐘楼』のようです。

    左手奥に大雁塔が見える、大慈恩寺の境内光景です。右手前に見える建物は、『鐘楼』のようです。

  • 二つの扁額が懸かっていた建物の光景です。大慈恩寺の境内にある多くの建物の内の一つです。手前の扁額が『伽藍殿』、奥の方の扁額が『甘露堂』でした。側壁が石造でしたから、近代建築で再建された建物のようです。<br /><br /><br /><br />

    二つの扁額が懸かっていた建物の光景です。大慈恩寺の境内にある多くの建物の内の一つです。手前の扁額が『伽藍殿』、奥の方の扁額が『甘露堂』でした。側壁が石造でしたから、近代建築で再建された建物のようです。



  • 『大雄宝殿』の扁額と、外から眺めた大日如来らしい金銅仏の光景です。『大雄宝殿』は、本堂の建物となることが多いようです。大雄宝殿は、『古代仏教伽藍の本尊を安置する主要堂で、後世の本堂にあたる。仏殿ともいわれ、中国、朝鮮では大雄宝殿などとも呼ぶ。金堂の呼名は百済、新羅にあり(三国遺事)、金人(本尊仏)の堂という表現から生まれたらしい』(コンバクト)と解説されていました。

    イチオシ

    『大雄宝殿』の扁額と、外から眺めた大日如来らしい金銅仏の光景です。『大雄宝殿』は、本堂の建物となることが多いようです。大雄宝殿は、『古代仏教伽藍の本尊を安置する主要堂で、後世の本堂にあたる。仏殿ともいわれ、中国、朝鮮では大雄宝殿などとも呼ぶ。金堂の呼名は百済、新羅にあり(三国遺事)、金人(本尊仏)の堂という表現から生まれたらしい』(コンバクト)と解説されていました。

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