2019/11/17 - 2019/11/21
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旅人のくまさんさん
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龍門石窟の紹介です。伊河両岸の断崖に南北1kmに及ぶ規模を持ち、石窟は1352窟、龕750所、仏塔40余基、像は10万体とされます。造像題記や碑刻も多く、書道史で名品として知られる龍門二十品もあります。
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『中国華北地方北朝後期仏教の考古学的研究(河北省響堂山石窟を中心に)』のタイトルの、中央民族大学民族学与社会学学院文博系・外籍教師の篠原典生氏の論文の紹介です。雲崗石窟~龍門石窟~響堂山石窟へと繋がる、石窟と仏像を中心とした仏教文化の紹介です。緒言は、『仏教は2世紀頃にはすでに中国に伝来し、五胡十六国時代を経て南北朝時代に飛躍的な発展を遂げた』で始まっていました。
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緒言では、『北朝の中心地であった華北地方には国家主導で造営された巨大石窟寺院が今なお威容を誇っている。大同の雲岡石窟、洛陽の龍門石窟はそれぞれが時代を代表する仏教遺跡としてよく知られ』ていることが紹介され、篠原氏の主題の『響堂山石窟』については、『河北省と河南省の境に位置する響堂山石窟は北斉王室と関わりが深く、まさに北朝後期を代表する石窟』と続いています。
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『特に北響堂山石窟北洞は規模も大きく、決して雲岡や龍門にひけをとらない』と評価し、『雲岡、龍門、響堂山については、1930年代から水野清一、長廣敏雄両氏による調査が行われ、詳細な調査報告が出版』と具体的に述べられています。その後、『日中両国の研究者を中心にそれぞれの石窟について様々な論考が発表』されています。写真は、『第519窟・火焼洞』に向かう途中で目にした仏像です。
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篠原氏は、『先行研究の成果をふまえ、佛教考古学の方法論によって個々の石窟について調査を行い、同時に各地方の佛教造像の発展と相互の影響関係などにも目を向け、現状残されている仏教遺跡という「モノ」の面から北朝佛教の系譜を探る』と述べられていました。『雲岡から龍門、龍門から響堂山という二つのルートを設定し』、『具体的な調査対象および調査範囲』が設定されました。
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『華北地方の現地調査においては、雲岡、龍門、響堂山を中心に、それぞれの周辺地域に存在する小規模石窟の調査を行った。また響堂山に対する西域の影響を見るために、キジル石窟とトユク石窟の中心柱窟の構造に着目して調査』が行われ、その視点は、『個々の具体的な洞窟について、「箱」(洞窟構造)と「中身」(装飾および造像など)という観点からの観察、記録と分析でした。
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『第519窟・火焼洞』の説明パネルの光景です。北魏時代に開窟された洞の一つ
です。1988年、この洞の下部から、石灰岩で造られた『獅子頭部』が出土しています。火焼洞南下の見学者用階段の整備作業の際に発掘されたものですから、本来どの窟にあったものかは不明とされます。篠原氏の研究成果は、『雲岡から龍門』と『龍門から響堂山』に分けて、後ほど紹介します。 -
『第519窟・火焼洞』の説明パネルがあった付近の洞窟上部の光景です。北魏時代に開かれた洞としては、火焼洞のほか、古陽洞、賓陽洞、蓮華洞、薬方洞、石窟寺、魏字洞、趙客師洞、普泰洞などがあります。北魏期に造営されたものは、全体の約三分の一を占めます。北魏(北魏:386~534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国です。華北を統一しました。
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『第519窟・火焼洞』の説明パネルがあった付近の洞窟の奥の方の光景です。北魏の国号は魏ですが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいます。また三国時代の魏は曹氏が建、これを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって『元魏(げんぎ)』と呼ぶこともあります。
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『火焼』の付近から眺めた、黄河支流の『伊河』と、対岸の東山方面の光景です。『元魏(げんぎ)』の呼び方は、広義には『東魏』と『西魏』も含まれます。また、国の成り立ちから、曹魏のことを『前魏(ぜんぎ)』と呼ぶことに対し、元魏のことを『後魏(こうぎ)』と呼ぶこともあります。
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『第1628窟・八作司洞(唐)』の説明パネルがあった付近の洞内光景です。基壇らしい造りの上に、仏座像の光景が見えました。硬い岩をくり抜いたらしい、かなりの高さの天井です。
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基壇らしい造りの上に置かれた、仏座像のズームアップ光景です。全体に、天井からの漏水などで傷んでいましたが、基壇などに施された、鋭角で精緻な彫刻部分が残されていました。
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『第1628窟・八作司洞(唐)』の説明パネルの光景です。北壁下部に刻まれた『東京八作司』に因む命名と紹介されていました。底部に『八位楽伎舞人』の彫刻もあるようです。
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崖の途中から見上げた光景です。篠原氏の研究成果の紹介の続きです。『雲岡や響堂山など、規模が大きく、かつ複雑な構造の洞窟の調査』は、『高い位置にある構造物や造像の状況を現地で観察することは困難』なため、既存の調査報告書などが活用されました。『保存や安全の観点から立入りが制限されている洞窟や地域の調査』等は、報告書の活用と、研究当事者の方からの聞取りがを行われました。
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『雲岡から龍門』のルートの調査に関しての考察です。『洞窟の構造について、雲岡第一期の曇曜五窟は先に建物を造ってその中に大仏を納めるというよりも、大仏を彫りぬいたあとの空間が石窟になっている、という水野、長廣報告の見解はまさに卓見』と評価されていました。『窟内に余計な装飾を施さないこうした構造は雲岡第一期にのみ見られる傾向で、他には例がない』と、『雲岡第十八洞』の写真を添えて考察されていました。
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『雲岡第二期には洞窟の中心に仏塔を象徴するとされる方柱を彫り残した中心柱窟と、巨大な座仏を本尊とする仏殿窟などがあらわれ、窟内すべてに造像や装飾が施され、いっぺんの余白も残さない。曇曜が翻訳した仏典に典拠が求められるモチーフが多く見られ、この時期の石窟こそ仏教者としての曇曜が理想とした佛教世界を体現している』と、『雲岡第六窟』写真を引用して考察されていました。
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イチオシ
造像形式については、雲岡第二期に表れる『仏像の中国化』を『岡第六窟』の中国風の衣服を纏った仏像写真を引用して指摘されていました。これは『孝文帝による漢化政策の影響とされ、その傾向は龍門石窟北魏窟に受け継がれ、さらなる発展が見られる』と考察されていましたが、『龍門北魏窟には中心柱窟はひとつも見られない』と技術伝承の上での疑問点も挙げられていました。
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『伊河』を挟んだ上が『西山石窟』、下が『東山石窟』がある案内地図です。篠原氏は、『宣文帝によって開かれた賓陽中洞は奥壁に本尊仏が座し、左右両壁にはそれぞれ脇侍仏が立つ三壁構造となっているが、こうした洞窟構造は雲岡石窟では龍門北魏窟と平行する雲岡三期に多く見られ、雲岡から龍門に影響したと断言することは難しい』との見解です。『龍門賓陽中洞』は写真紹介がありました。
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あてにはならない判断ですが、ダイサギさんか、チュウサギさん当たりでしょうか、コサギさんの大きさではないようです。篠原氏の解説に戻ります。『窟内外の仏龕や装飾の配置に関しても、雲岡第二期のような様々なモチーフが渾然一体となってひとつの空間を構成しているのとは異なり、本尊仏を中心にすっきりとした構成になっている』と、龍門賓陽中洞を分析されていました。
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中々こちらを向いてくれない白鷺さんです。『龍門賓陽中洞に見られる窟内装飾には天蓋(帷帳)、維摩文殊対問図、本生図、帝王皇妃供養図、十神図があります(手書き図)。このうち、天蓋と本生図は雲岡に早い例が見られるが、維摩文殊対問図は賓陽洞中洞とほぼ同時期に現れており、帝王皇妃供養図と十神図に関しては雲岡には見られない』と、龍門賓陽中洞の説明が続きます。
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やっと横顔を見ることができました。『クチバシは年中黒くて、脚も黒いが指だけは黄色い』のがコサギさんですから、やはりコサギさんではなかったようです。篠原氏は、『造像形式に関しても、雲岡で中国式仏像に切り替わっていた時期に、龍門古陽洞ではいまだ雲岡の古い形式を保っている』として、雲崗から龍門に移っていった工人集団の動きに触れられていました。
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シラサギさんでもお手上げ状態でしたが、今度は私は見掛けたことがない茶色のグラデーションの鳥さんの登場です。黄河の鳥さんの写真などを少しだけ探してみましたが、特定できそうにありません。話を戻して、雲崗から龍門に移っていった工人集団の動きは『雲岡の造営活動が一段落してからまとまった工人集団が洛陽に移っていった訳ではないことを示している』、と総括されていました。
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茶色のグラデーションの鳥さんの早々の退場です。名前は、この後、もう少し探してみます。篠原氏は『龍門では全く新しい「箱」が用意され、「中身」も賓陽中洞の造営までには新しい要素が加えられていることがわかる。ただ、「中身」だけ見れば、龍門最初期には雲岡の影響が小さくなかった、あるいは直接的な影響を受けていたことも無視できない』、と判断されていました。
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篠原さんの『雲崗から龍門』石窟へのまとめの部分です。『雲岡石窟のある北魏の旧都平城(今の大同)から、龍門石窟が開かれた新都洛陽の間を官吏や商人、僧侶など様々な人々が行き交い、その中に石を穿ち仏像を彫る工人たちも多く存在していたと考えられる。そのルート上にある高平県からは近年多くの北魏時代の石窟や摩崖造像が報告』されていると言及されていました。
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イチオシ
そのルート上でも、『なかでも大仏山造像は雲岡第一期から第二期にかけての造像的特徴と一致し、平城の工人の手によるものと考えられる。ただここでも注意されるのは、大仏山造像は一個の巨石に穿たれた平面的な仏龕形式であり、洞窟構造は存在しないということである』と締め括られていました。写真は、岩肌に刻まれた古い書体らしい楷書文字です。
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岩肌に設けられた見学路の踊り場のような場所の光景です。北魏時代の最も古い時代に設けられた『古陽洞』や『葯方洞』の案内が見えましたので、石段を登ってみることにしました。篠原さんの論文の紹介に戻ります。今度は『龍門から響堂山』のルートの調査と分析の紹介です。『響堂山では中心柱窟が再び現れるが、雲岡で見られたような方柱の四面すべてに龕を開く構造ではなく、正面と左右面の三面か、正面にひとつだけ龕をつくっている。方柱の背面はそのまま窟の奥壁に接続しており、下部に天井の低い通路を設けている』と紹介されていました。その説明は、『北響堂山北洞:李裕群:北朝晩期石窟寺研究』のイラスト図の引用でした。
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更に篠原氏は、『こうした正面にのみ龕を設ける中心柱窟は、キジル石窟など西域の石窟構造によく似るが、ただこちらの中心柱窟は方柱にはならず、正面部分だけが高く、左右と背面に天井の低い通路を設けて回廊のようにしているため、全く同様の構造だとは言えない』と分析されていました。その説明は、『キジル石窟(「中国美術全集 新疆石窟壁画』図版より制作)』の手書き図面でした。
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『葯方洞』のタイトルがあった説明パネルの光景です。篠原氏の論文の話しに戻ります。『トユク石窟の報告によれば、三面を彫りだし、背面に通廊をつける形式の洞窟があるということだが、前室部がほぼ崩壊しているために元の様子は明らかではない(図8)。造像形式も雲岡、龍門の伝統とは異なり、仏は再び古式の通肩をまとい、座姿も多様化する(図9)。菩薩は肉体の露出傾向があらわれ、これらは北魏の「漢化」に反発した北斉高氏による「鮮卑化」あるいは「胡化」の結果と考えられている。このように、響堂山石窟は極めて特殊な形式を持っており、従来この特殊性に着目した研究が多くなされてきた』と述べられていました。
図8:トユク石窟K18『新疆?睚善県吐峪溝東区北側石窟発掘簡報』より引用
図9:北響堂山北洞 -
『龍門から響堂山へのルート上にも数多くの石窟が存在するが、なかでも注目されるのが鞏県石窟である。洛陽市から東へ80 kmほどの鞏儀市に位置し、仏像は龍門
賓陽中洞本尊の形式を踏襲していることが早くから指摘されてきた(図10)。ところが、鞏県石窟は中心柱窟であり、龍門とは完全に異なっている。つまり「箱」は全く違うが、「中身」は同じものなのである。しかも中心柱窟は洛陽地域ではほとんど見られず、非常に珍しい例となっている。では具体的な石窟構造を見ると、第四窟の中心柱は四面とも仏龕を上下二段に開いており、下段の一龕は釈迦多宝二仏並座像で、雲岡第六窟中心柱の構造と同じである。(中略)要するに鞏県石窟は雲岡から「箱」を、龍門から「中身」をそれぞれ受け継ぎ、発展させたと考えられる』
図10:鞏県石窟第四窟 -
イチオシ
篠原氏の論文のまとめ部分です。『雲岡、龍門、響堂山は華北地方を代表する石窟であり、それぞれが時の政治勢力と地理的、精神的に非常に近い関係にあった。これらの石窟の関係を明らかにすることで、当時の「ヒト」がどのように動いていたかをある程度あきらかにできる。雲岡、龍門、響堂山はそれぞれ異なる特徴を持ちながら、同時に深いつながりを持っており、それは北朝文化の独自的発展ととらえてよいだろう。響堂山石窟中心柱窟に現れる変化をどうとらえるかは依然として重要な問題である』
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『第1443窟・古陽洞』のタイトルがあった説明パネルの光景です。 古陽洞は、高さ11.20m、広さ7.27m、深さ11.83mであり、竜門石窟の中で最も早く開かれ、建設時間が最も長く、内容が豊富な洞窟であり、北魏皇室の貴族が願をかけて建造した塑像が集中する洞窟です。洞内の四壁及び天井に仏壇が1000以上、石碑の題記が800程です。(ウィキペディア)
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