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空海所縁の青龍寺の紹介です。1982年以来、西安人民政府が青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地が古の青龍寺であったことが確かめられ、青龍寺が復興されました。

2019秋、中国旅行記25(30/34):11月20日(7):西安(17):青龍寺(2):空海書の仏、恵果大阿闍梨と空海像

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旅人のくまさん

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空海所縁の青龍寺の紹介です。1982年以来、西安人民政府が青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地が古の青龍寺であったことが確かめられ、青龍寺が復興されました。

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  • 少し遅れましたが、『青龍寺』について紹介しておきます。創建は、隋の開皇2年(582年)、当初は『霊感寺』と呼ばれました。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となりましたが、龍朔2年(662年)に再建され、『観音寺』と改められました。『青龍寺』と改称されたのは、景雲2年(711年)のことです。(ウィキペディア)『青龍』は、四神信仰の東に当たります。写真は、恵果と空海の墨絵です。

    少し遅れましたが、『青龍寺』について紹介しておきます。創建は、隋の開皇2年(582年)、当初は『霊感寺』と呼ばれました。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となりましたが、龍朔2年(662年)に再建され、『観音寺』と改められました。『青龍寺』と改称されたのは、景雲2年(711年)のことです。(ウィキペディア)『青龍』は、四神信仰の東に当たります。写真は、恵果と空海の墨絵です。

  • 『仏』の一文字です。左下に『空海書』の落款がありました。唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれました。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学びました。 会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀されました。しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、『護国寺』と改められています。しまし、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまいました。そのため、以後三たび姿を消すこととなりました。(ウィキペディア)

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    『仏』の一文字です。左下に『空海書』の落款がありました。唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれました。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学びました。 会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀されました。しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、『護国寺』と改められています。しまし、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまいました。そのため、以後三たび姿を消すこととなりました。(ウィキペディア)

  • 写真は、大きな石碑の光景です。漢詩らしい文字が刻まれていました。青龍寺の紹介に戻ります。『1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめました。青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建つ。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられた』(ウィキペディア)

    写真は、大きな石碑の光景です。漢詩らしい文字が刻まれていました。青龍寺の紹介に戻ります。『1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめました。青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建つ。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられた』(ウィキペディア)

  • 青龍寺の高這いから眺めた、高層ビルが建つ西安市街光景です。青龍寺の紹介です。『市の東南部、楽遊原にあり、582年に創建された。元の名前は霊感寺といったが、711年に青龍寺と改名された。唐の時代にはかなり有名な寺院であったようで、日本との縁も深い。著名な「入唐八家」のうち、六名の僧侶がここで仏教を学んだ。最も有名なのは空海である』(ウィキペディア)

    青龍寺の高這いから眺めた、高層ビルが建つ西安市街光景です。青龍寺の紹介です。『市の東南部、楽遊原にあり、582年に創建された。元の名前は霊感寺といったが、711年に青龍寺と改名された。唐の時代にはかなり有名な寺院であったようで、日本との縁も深い。著名な「入唐八家」のうち、六名の僧侶がここで仏教を学んだ。最も有名なのは空海である』(ウィキペディア)

  • 弘法大師空海は、ここで恵果和尚を師として、密宗を伝習しました。その恵果和尚の紹介です。『恵果阿闍梨』とも呼ばれます。『恵果(えか/けいか:746~806年1月)』は、中国唐代の密教僧で、俗姓は馬氏。長安の東にある昭応県(現在の臨潼)の出身。真言八祖の第七祖。真言八祖像として描かれるときは、童子を従えた姿に描かれる』と紹介されていました。(ウィキペディア)

    弘法大師空海は、ここで恵果和尚を師として、密宗を伝習しました。その恵果和尚の紹介です。『恵果阿闍梨』とも呼ばれます。『恵果(えか/けいか:746~806年1月)』は、中国唐代の密教僧で、俗姓は馬氏。長安の東にある昭応県(現在の臨潼)の出身。真言八祖の第七祖。真言八祖像として描かれるときは、童子を従えた姿に描かれる』と紹介されていました。(ウィキペディア)

  • 続きの説明です。『出家した後、不空に師事して金剛頂系の密教を、また善無畏の弟子玄超から『大日経』系と『蘇悉地経』系の密教を学んだ。『金剛頂経』・『大日経』の両系統の密教を統合した第一人者で、両部曼荼羅の中国的改変も行った。長安青龍寺に住して東アジアの様々な地域から集まった弟子たちに法を授け、一方では代宗・徳宗・順宗と3代に亘り皇帝に師と仰がれた』とされる高僧です。

    続きの説明です。『出家した後、不空に師事して金剛頂系の密教を、また善無畏の弟子玄超から『大日経』系と『蘇悉地経』系の密教を学んだ。『金剛頂経』・『大日経』の両系統の密教を統合した第一人者で、両部曼荼羅の中国的改変も行った。長安青龍寺に住して東アジアの様々な地域から集まった弟子たちに法を授け、一方では代宗・徳宗・順宗と3代に亘り皇帝に師と仰がれた』とされる高僧です。

  • 手前に古い建物、その先に近代ビルが見える光景です。恵果阿闍梨の六大弟子の紹介です。剣南の『惟上』。河北の『義円』:金剛一界を伝授。新羅の『恵日』。訶陵の『辨弘』:胎蔵一界を伝授。青竜の『義明』:唐朝において灌頂の師となりましたが、早世。日本の『空海』:両部を伝授、真言宗の開祖。弟子千人を数え、空海が最後の高弟子でした。

    手前に古い建物、その先に近代ビルが見える光景です。恵果阿闍梨の六大弟子の紹介です。剣南の『惟上』。河北の『義円』:金剛一界を伝授。新羅の『恵日』。訶陵の『辨弘』:胎蔵一界を伝授。青竜の『義明』:唐朝において灌頂の師となりましたが、早世。日本の『空海』:両部を伝授、真言宗の開祖。弟子千人を数え、空海が最後の高弟子でした。

  • 『青龍寺』境内を散策途中の光景です。木々の間から庭園が見下ろせました。恵果和尚の墓所は、この西安の青龍寺のほか、高知県の青龍寺にも分骨墓があります。 空海の入唐半年後の延暦24年( (805年)の5月末頃、名もなき空海が、恵果阿闍梨に出遭いました。恵果和尚は、初対面から空海からほとばしる何かを感ずるものがあったようです。

    『青龍寺』境内を散策途中の光景です。木々の間から庭園が見下ろせました。恵果和尚の墓所は、この西安の青龍寺のほか、高知県の青龍寺にも分骨墓があります。 空海の入唐半年後の延暦24年( (805年)の5月末頃、名もなき空海が、恵果阿闍梨に出遭いました。恵果和尚は、初対面から空海からほとばしる何かを感ずるものがあったようです。

  • 恵果和尚は、初対面の挨拶も早々に 『我、 先より汝の来るを知りて相待つこと久し。 今日相見ること大いに好し大に好し』 (御請来目録) と、報命が尽きようとしているのに、 法を伝えるに相応しい人がいない。 よくぞ来られた。 急いで香華を整え用意した灌頂壇に入るべしとして、 それから二、 三ヶ月の間に金胎両部の秘法を全て伝授してくれました。司馬さんの小説でもクライマックスの一つです。

    恵果和尚は、初対面の挨拶も早々に 『我、 先より汝の来るを知りて相待つこと久し。 今日相見ること大いに好し大に好し』 (御請来目録) と、報命が尽きようとしているのに、 法を伝えるに相応しい人がいない。 よくぞ来られた。 急いで香華を整え用意した灌頂壇に入るべしとして、 それから二、 三ヶ月の間に金胎両部の秘法を全て伝授してくれました。司馬さんの小説でもクライマックスの一つです。

  • 恵果和尚は、 『今、 日本の僧が来唐して、 仏陀の教えを求め、 二部の曼荼羅、 作壇の規則、 印契を乞うた、 唐語も梵語も間違いなく、 全て心に刻み付けた。 ちょうど水をもれなく一つの瓶から他の瓶へ移すようなものだった。 めでたいことだ。 お前は受法を終え、 私も願いがかなえられた』(性霊集序)と称賛し、 密教法燈の後継者として認知しました。  

    恵果和尚は、 『今、 日本の僧が来唐して、 仏陀の教えを求め、 二部の曼荼羅、 作壇の規則、 印契を乞うた、 唐語も梵語も間違いなく、 全て心に刻み付けた。 ちょうど水をもれなく一つの瓶から他の瓶へ移すようなものだった。 めでたいことだ。 お前は受法を終え、 私も願いがかなえられた』(性霊集序)と称賛し、 密教法燈の後継者として認知しました。  

  • 恵果和尚は、空海にすべてを教え、その年の 12月15日に入寂されました。この後は、弘法大師空海について紹介します。『空海(くうかい):774~835年4月22日)』は、平安時代初期の僧で、『弘法大師(こうぼうだいし)』の諡号で知られる真言宗の開祖です。俗名は『佐伯眞魚(さえき の まお)』、四国の讃岐国多度郡屏風浦で生まれました。現在の香川県です。

    恵果和尚は、空海にすべてを教え、その年の 12月15日に入寂されました。この後は、弘法大師空海について紹介します。『空海(くうかい):774~835年4月22日)』は、平安時代初期の僧で、『弘法大師(こうぼうだいし)』の諡号で知られる真言宗の開祖です。俗名は『佐伯眞魚(さえき の まお)』、四国の讃岐国多度郡屏風浦で生まれました。現在の香川県です。

  • 空海は、日本天台宗の開祖で、伝教大師とも呼ばれる『最澄(さいちょう):766/767~822年)』と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの中の双璧に位置し、中国より真言密教をもたらしました。空海は能書家としても名高く、嵯峨天皇(786~842年)、橘逸勢(たちばな の はやなり:782?~842年)と共に、三筆のひとりに数えられています。

    空海は、日本天台宗の開祖で、伝教大師とも呼ばれる『最澄(さいちょう):766/767~822年)』と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの中の双璧に位置し、中国より真言密教をもたらしました。空海は能書家としても名高く、嵯峨天皇(786~842年)、橘逸勢(たちばな の はやなり:782?~842年)と共に、三筆のひとりに数えられています。

  • 佐伯眞魚時代の空海です。延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師だった母方の叔父である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだとされます。延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入利、大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられます。大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入りました。

    佐伯眞魚時代の空海です。延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師だった母方の叔父である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだとされます。延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入利、大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられます。大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入りました。

  • 写真は、竹林の脇にあった石碑の光景です。『楽淳〇京』らしい文字が刻まれていました。空海は、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著しました。『三教指帰』の初稿本に当るものです。この時期から入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多いとされますが、幅広く仏教を学び、修行にも励んだようです。『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられ、さらに中国語や梵字などにも手を伸ばしたとも伝わります。

    写真は、竹林の脇にあった石碑の光景です。『楽淳〇京』らしい文字が刻まれていました。空海は、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著しました。『三教指帰』の初稿本に当るものです。この時期から入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多いとされますが、幅広く仏教を学び、修行にも励んだようです。『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられ、さらに中国語や梵字などにも手を伸ばしたとも伝わります。

  • 『三教指帰(さんごうしき、さんごうしいき)』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが記されています。室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできて、この時、悟りを開いたとも伝わります。洞窟の中で目にしていたのは、空と海だけだったため、『空海』と名乗ったと伝わっています。『空海』の紹介は、ひとまず擱きます。

    『三教指帰(さんごうしき、さんごうしいき)』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが記されています。室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできて、この時、悟りを開いたとも伝わります。洞窟の中で目にしていたのは、空と海だけだったため、『空海』と名乗ったと伝わっています。『空海』の紹介は、ひとまず擱きます。

  • 『倣唐庭院』のタイトルがあった説明パネルの光景です。少し拾い読みしますと、西安市と日本の仏教関係組織が協力して建設された、空海記念碑、詩碑長廊、恵果空海紀念堂などを始めとする施設の紹介でした。広範に施設された施設の一括した呼び名が、『倣唐庭院』になるようです。

    『倣唐庭院』のタイトルがあった説明パネルの光景です。少し拾い読みしますと、西安市と日本の仏教関係組織が協力して建設された、空海記念碑、詩碑長廊、恵果空海紀念堂などを始めとする施設の紹介でした。広範に施設された施設の一括した呼び名が、『倣唐庭院』になるようです。

  • 『北門遺址(六号遺址)』のタイトルがあった、石造の説明プレートの光景です。少し拾い読みしますと、『北門遺址』は、青龍寺の正北に位置することや、その敷地の頂部は地勢の最高地になっていることなどが説明されていました。

    『北門遺址(六号遺址)』のタイトルがあった、石造の説明プレートの光景です。少し拾い読みしますと、『北門遺址』は、青龍寺の正北に位置することや、その敷地の頂部は地勢の最高地になっていることなどが説明されていました。

  • 『青龍寺』の立派な扁額が懸かった二階建ての入口門の光景です。扁額の『青龍寺』の文字の背景には、レリーフ飾りがありました。長屋風の二階建ての建物の一部に設けられた門でした。

    イチオシ

    『青龍寺』の立派な扁額が懸かった二階建ての入口門の光景です。扁額の『青龍寺』の文字の背景には、レリーフ飾りがありました。長屋風の二階建ての建物の一部に設けられた門でした。

  • 空海の話しに戻ります。得度に関しては、延暦12年に20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたましたが、現在では、入唐直前の31歳の延暦23年(804年)に、東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されているようです。『空海』の名が初出する、太政官譜では延暦23年(804年)4月7日に出家したと記載します。

    空海の話しに戻ります。得度に関しては、延暦12年に20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたましたが、現在では、入唐直前の31歳の延暦23年(804年)に、東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されているようです。『空海』の名が初出する、太政官譜では延暦23年(804年)4月7日に出家したと記載します。

  • 空海は、延暦22年(803年)、医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発しますが、悪天候で断念し、翌年に、長期留学僧の学問僧として唐に渡りました。第18次遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいました。最澄はこの時期すでに仏教界に確固たる地位を築いていましたが、空海はまったく無名の一沙門でした。

    空海は、延暦22年(803年)、医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発しますが、悪天候で断念し、翌年に、長期留学僧の学問僧として唐に渡りました。第18次遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいました。最澄はこの時期すでに仏教界に確固たる地位を築いていましたが、空海はまったく無名の一沙門でした。

  • 空海の乗った船は、途中で嵐に遭い、大きく航路を逸れて貞元20年(804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着しました。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられました。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆しました。その見事な漢文と書が司馬遼太郎さんの小説でも特筆されていました。

    空海の乗った船は、途中で嵐に遭い、大きく航路を逸れて貞元20年(804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着しました。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられました。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆しました。その見事な漢文と書が司馬遼太郎さんの小説でも特筆されていました。

  • 空海がしたためた、理路整然とした文章と優れた筆跡により遣唐使と認められ、同年11月3日に長安入りを許され、一行は12月23日に長安に入りました。永貞元年(805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となりました。長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧・般若三蔵です。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられています。(ウィキペディア)

    空海がしたためた、理路整然とした文章と優れた筆跡により遣唐使と認められ、同年11月3日に長安入りを許され、一行は12月23日に長安に入りました。永貞元年(805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となりました。長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧・般若三蔵です。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられています。(ウィキペディア)

  • 空海は、5月になると密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになりました。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受けました。8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、『この世の一切を遍く照らす最上の者』を意味する『遍照金剛(へんじょうこんごう)』の灌頂名を与えられました。この名は後世、空海を尊崇する宝号となりました。(ウィキペディア)

    空海は、5月になると密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになりました。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受けました。8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、『この世の一切を遍く照らす最上の者』を意味する『遍照金剛(へんじょうこんごう)』の灌頂名を与えられました。この名は後世、空海を尊崇する宝号となりました。(ウィキペディア)

  • 柱の部分に立派な量の像が刻まれた石灯篭の光景です。まだ新しい造りのようでしたから、建物の建設と同時に設置されたようです。前方に藻に木の石灯篭が見えましたが、飾りの少ないすっきりとした造りでした。8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われました。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられました。伝法の印信です。阿闍梨付嘱物とは、金剛智、不空金剛、恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟や供養具など5点の計13点です。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上しています。『ウィキペディア)<br />

    柱の部分に立派な量の像が刻まれた石灯篭の光景です。まだ新しい造りのようでしたから、建物の建設と同時に設置されたようです。前方に藻に木の石灯篭が見えましたが、飾りの少ないすっきりとした造りでした。8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われました。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられました。伝法の印信です。阿闍梨付嘱物とは、金剛智、不空金剛、恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟や供養具など5点の計13点です。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上しています。『ウィキペディア)

  • 鏡のように磨き上げられた黒い石材に記された石碑の光景です。周りの景色が映り込んでいました。題字は、『恵果空海紀念堂記』でした。恵果阿闍梨と空海大師の師弟の関係と、その後の紀念堂建設までのいきさつなどが記されていました。1984年9月8日の日付があった、西安市修復青龍寺委員会名の漢文の説明碑でした。<br />

    鏡のように磨き上げられた黒い石材に記された石碑の光景です。周りの景色が映り込んでいました。題字は、『恵果空海紀念堂記』でした。恵果阿闍梨と空海大師の師弟の関係と、その後の紀念堂建設までのいきさつなどが記されていました。1984年9月8日の日付があった、西安市修復青龍寺委員会名の漢文の説明碑でした。

  • 恵果和尚と空海の像です。台座に『空海真言密教八祖誕生』の文字が記されていました。恵果和尚が、真言密教の奥義らしいものを手渡す場面のようです。司馬遼太郎さん御小説、『空海の日々』の中では、恵果和尚の高弟らが、異国から来た若い僧にすべてを託す恵果和尚に反発した場面も描かれていた記憶があります。結果として、空海は密教のお経や仏画、仏具を日本に持ち帰ることができました。

    恵果和尚と空海の像です。台座に『空海真言密教八祖誕生』の文字が記されていました。恵果和尚が、真言密教の奥義らしいものを手渡す場面のようです。司馬遼太郎さん御小説、『空海の日々』の中では、恵果和尚の高弟らが、異国から来た若い僧にすべてを託す恵果和尚に反発した場面も描かれていた記憶があります。結果として、空海は密教のお経や仏画、仏具を日本に持ち帰ることができました。

  • 恵果和尚が、空海に密教の奥義らしいものを渡す場m、円のズームアップ光景です。空海と、それに先立つ最澄が持ち帰った密教のお経や仏画、仏具は平安時代から鎌倉時代かけて複製されたものが密教寺院で用いられてきました。仏具では、元々は護身具だった、五鈷杵や三鈷杵などもあります。

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    恵果和尚が、空海に密教の奥義らしいものを渡す場m、円のズームアップ光景です。空海と、それに先立つ最澄が持ち帰った密教のお経や仏画、仏具は平安時代から鎌倉時代かけて複製されたものが密教寺院で用いられてきました。仏具では、元々は護身具だった、五鈷杵や三鈷杵などもあります。

  • お供え物が置かれた台座越しに眺めた、『恵果空海紀念堂』方面の光景です。先に紹介した、立派な石灯篭が右手に見えていました。台座の側面には、『相互供養』と『相互礼拝』の陽刻文字がありました。

    お供え物が置かれた台座越しに眺めた、『恵果空海紀念堂』方面の光景です。先に紹介した、立派な石灯篭が右手に見えていました。台座の側面には、『相互供養』と『相互礼拝』の陽刻文字がありました。

  • 右から読んで『恵果空海紀念堂』の金文字が記された立派な扁額のズームアップ光景です。日本でも一昔前までは『紀念』の表示が使われていましたが、現在は『記念』だけになりました。古くから『古事記』と『日本書紀』を合わせて「記紀」と呼んで馴染んだ言葉でした。日本の正史とされる日本書紀には『紀』の文字が、正史ではない『古事記』には『紀』の文字が使われたようです。『紀』には、編年体で編纂された歴史書の意味もあるようです。

    右から読んで『恵果空海紀念堂』の金文字が記された立派な扁額のズームアップ光景です。日本でも一昔前までは『紀念』の表示が使われていましたが、現在は『記念』だけになりました。古くから『古事記』と『日本書紀』を合わせて「記紀」と呼んで馴染んだ言葉でした。日本の正史とされる日本書紀には『紀』の文字が、正史ではない『古事記』には『紀』の文字が使われたようです。『紀』には、編年体で編纂された歴史書の意味もあるようです。

  • 『恵果空海紀念堂』の立派な扁額があった建物の入口付近の光景です。日中共同で建設された建物の一つのようです。この後、入場して見学することができました。

    『恵果空海紀念堂』の立派な扁額があった建物の入口付近の光景です。日中共同で建設された建物の一つのようです。この後、入場して見学することができました。

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