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小雁塔を見学した後に向かったのは、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村に位置する空海所縁の『青龍寺』です。唐朝の都、長安城における左街の新昌坊に当たる場所です。2011年以来、二度目の訪問となりました。

2019秋、中国旅行記25(29/34):11月20日(6):西安(16):西安博物院(6):小雁塔、青龍寺(1):空海碑、庭園

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2019/11/17 - 2019/11/21

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旅行記グループ 2019秋、中国旅行記25(下巻)

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旅人のくまさん

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小雁塔を見学した後に向かったのは、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村に位置する空海所縁の『青龍寺』です。唐朝の都、長安城における左街の新昌坊に当たる場所です。2011年以来、二度目の訪問となりました。

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  • 屋外に設置された梵鐘の光景です。現代中国らしく、黄金色や、赤色で装飾されていました。さすがに年代物の梵鐘には細工がありませんでした。その梵鐘の下には空洞が設けられ、共鳴体となっていました。韓国のお寺でもよく見かけた仕組みですが、日本のお寺にもあります。有料で、鐘を撞くことができます。

    屋外に設置された梵鐘の光景です。現代中国らしく、黄金色や、赤色で装飾されていました。さすがに年代物の梵鐘には細工がありませんでした。その梵鐘の下には空洞が設けられ、共鳴体となっていました。韓国のお寺でもよく見かけた仕組みですが、日本のお寺にもあります。有料で、鐘を撞くことができます。

  • 建物の中から、出口を額縁にして眺めた『小雁塔』の光景です。何度も地震被害に遭った石塔ですが、最上階の2階ほどは失ったものの、今も40メートル以上の威容を見せています。現在は世界遺産として登録されている『小雁塔』は、その正式名称は『薦福寺(せんぷくじ)仏塔』です。

    イチオシ

    建物の中から、出口を額縁にして眺めた『小雁塔』の光景です。何度も地震被害に遭った石塔ですが、最上階の2階ほどは失ったものの、今も40メートル以上の威容を見せています。現在は世界遺産として登録されている『小雁塔』は、その正式名称は『薦福寺(せんぷくじ)仏塔』です。

  • 小雁塔の南に位置する、大雄宝殿の甍越しに眺めた『小雁塔』の光景です。 小塔の創建は、大雁塔よりわずかに遅い、唐代の中宗李顕治世の『景龍の時代(707~710年)』とされます。高僧・義浄(635~713年)が、インド・天竺から持ち帰った仏教の経典や仏図などを収めるために建てられました。斉州山(現在の山東省)の出身の義浄は、幼くして出家し、15歳の時(649年:貞観23年)には西域行を志し、法顕や玄奘の行跡を思慕していたと伝わります。(ウィキペディア)

    小雁塔の南に位置する、大雄宝殿の甍越しに眺めた『小雁塔』の光景です。 小塔の創建は、大雁塔よりわずかに遅い、唐代の中宗李顕治世の『景龍の時代(707~710年)』とされます。高僧・義浄(635~713年)が、インド・天竺から持ち帰った仏教の経典や仏図などを収めるために建てられました。斉州山(現在の山東省)の出身の義浄は、幼くして出家し、15歳の時(649年:貞観23年)には西域行を志し、法顕や玄奘の行跡を思慕していたと伝わります。(ウィキペディア)

  • 南側から近寄って見上げた『小雁塔』の光景です。671年(咸亨2年)、37歳で番禺県を同志数十名とともに出発しようとしましたが、余人は全て辞退したため、義浄一人、海路でインドへ渡り、鹿野苑や祇園精舎を巡拝しました。帰路も再び海路で、マレー・インドネシア(スマトラ島にあったシュリーヴィジャヤ王国の中心都市パレンバンなど)を経て、695年(証聖元年)に帰国しました。25年間に30余国を遊歴し、400部、50万頌のサンスクリットの経律論、金剛座、舎利300粒などをもたらしました。(ウィキペディア)

    南側から近寄って見上げた『小雁塔』の光景です。671年(咸亨2年)、37歳で番禺県を同志数十名とともに出発しようとしましたが、余人は全て辞退したため、義浄一人、海路でインドへ渡り、鹿野苑や祇園精舎を巡拝しました。帰路も再び海路で、マレー・インドネシア(スマトラ島にあったシュリーヴィジャヤ王国の中心都市パレンバンなど)を経て、695年(証聖元年)に帰国しました。25年間に30余国を遊歴し、400部、50万頌のサンスクリットの経律論、金剛座、舎利300粒などをもたらしました。(ウィキペディア)

  • 武則天は、自ら洛陽の上東門外に義浄を出迎え、勅によって仏授記寺に迎え入れました。以後、義浄は仏典の漢訳を行いました。訳経は国家事業として洛陽・長安の大寺や内道場で行なわれ、実叉難陀・阿?茄真那・波崙らの西域渡来の僧が訳経を担当し、武則天自らが序を著しました。漢訳された経典は56部230巻に及びます。また、『南海寄帰内法伝』、『大唐西域求法高僧伝』を著しています。両著とも、当時のインドや中国の仏教研究、あるいはインドや東南アジアの社会状況に関する貴重な史料となっています。(ウィキペディア)

    イチオシ

    武則天は、自ら洛陽の上東門外に義浄を出迎え、勅によって仏授記寺に迎え入れました。以後、義浄は仏典の漢訳を行いました。訳経は国家事業として洛陽・長安の大寺や内道場で行なわれ、実叉難陀・阿?茄真那・波崙らの西域渡来の僧が訳経を担当し、武則天自らが序を著しました。漢訳された経典は56部230巻に及びます。また、『南海寄帰内法伝』、『大唐西域求法高僧伝』を著しています。両著とも、当時のインドや中国の仏教研究、あるいはインドや東南アジアの社会状況に関する貴重な史料となっています。(ウィキペディア)

  • 『小雁塔』は、唐の中宗が、父・高宗の追善のために薦福寺を造営した時、宮人たちに銭を募って建てられました。全て磚(レンガ)で造られ、15層88mの優美な姿をしていました。薦福寺に住した三蔵・義浄が仏舎利や経典、仏像を安置するのに使用したと考えられています。中宗は、高宗の七男に生まれ、当初は周王に封じられましたが、後に英王に改封されました。同母兄である李弘の急死と李賢の廃立の後、代わって立太子され、高宗の死により即位し、第4代皇帝となりましたが、即位後わずか54日で廃位され、均州・房州に流されました。(ウィキペディア)

    『小雁塔』は、唐の中宗が、父・高宗の追善のために薦福寺を造営した時、宮人たちに銭を募って建てられました。全て磚(レンガ)で造られ、15層88mの優美な姿をしていました。薦福寺に住した三蔵・義浄が仏舎利や経典、仏像を安置するのに使用したと考えられています。中宗は、高宗の七男に生まれ、当初は周王に封じられましたが、後に英王に改封されました。同母兄である李弘の急死と李賢の廃立の後、代わって立太子され、高宗の死により即位し、第4代皇帝となりましたが、即位後わずか54日で廃位され、均州・房州に流されました。(ウィキペディア)

  • 中宗に代わって、同母弟の李旦(睿宗)が即位しましたが、690年に廃位され、武則天が自ら即位して武周時代を迎えました。その末期の699年、李顕は武則天により再び立太子され、705年にクーデタで退位を余儀なくされた武則天は李顕に譲位しました。『唐の再興』と呼ばれる出来事です。女帝の武則天が即位した朝廷の『武周』は、現在では唐代に含まれるものと総括されています。

    中宗に代わって、同母弟の李旦(睿宗)が即位しましたが、690年に廃位され、武則天が自ら即位して武周時代を迎えました。その末期の699年、李顕は武則天により再び立太子され、705年にクーデタで退位を余儀なくされた武則天は李顕に譲位しました。『唐の再興』と呼ばれる出来事です。女帝の武則天が即位した朝廷の『武周』は、現在では唐代に含まれるものと総括されています。

  • 『小雁塔』は、宋代以降、しばしば地震等で被災しました。数次の重修を経て今日の姿となっています。その中でも著名なのは、明の嘉靖34年(1555年)に記された、地震の被害と復旧にまつわる逸話です。それによれば、『地震によって塔が二つに裂けたものの、再度の地震によって元の姿に戻った』という記録です。また、成化末年(1487年)に起きた地震で、『塔に反対側が見える程の亀裂が走ったものの、正徳末年(1521年)の地震により、ひと晩で塔が復旧した』と記されています。『小雁塔』は、文化大革命直前の1964年から2年間で塔の大修復が行われ、二つに裂けていた塔の本体は、現在のように修復されました。 (ウィキペディア)

    『小雁塔』は、宋代以降、しばしば地震等で被災しました。数次の重修を経て今日の姿となっています。その中でも著名なのは、明の嘉靖34年(1555年)に記された、地震の被害と復旧にまつわる逸話です。それによれば、『地震によって塔が二つに裂けたものの、再度の地震によって元の姿に戻った』という記録です。また、成化末年(1487年)に起きた地震で、『塔に反対側が見える程の亀裂が走ったものの、正徳末年(1521年)の地震により、ひと晩で塔が復旧した』と記されています。『小雁塔』は、文化大革命直前の1964年から2年間で塔の大修復が行われ、二つに裂けていた塔の本体は、現在のように修復されました。 (ウィキペディア)

  • 現在の『小雁塔』の上部の光景です。小雁塔は文化大革命直前の1964年から2年間で塔の大修復が行われ、二つに裂けていた塔の本体は現在のように修復されました。 ドイツ人の建築家のべーシュマンが1906~1909 年に撮影し、1923 年に出版した写真集『中国の建築と景観』では、その避けた当時の姿を鮮明に確認することができます。(ウィキペディア)

    現在の『小雁塔』の上部の光景です。小雁塔は文化大革命直前の1964年から2年間で塔の大修復が行われ、二つに裂けていた塔の本体は現在のように修復されました。 ドイツ人の建築家のべーシュマンが1906~1909 年に撮影し、1923 年に出版した写真集『中国の建築と景観』では、その避けた当時の姿を鮮明に確認することができます。(ウィキペディア)

  • 『小雁塔』の見学を終えたところで、昼食の時間となりました。昼食の精進料理のお店に立寄りました。前にも利用したことがある、『天龍宝産素食館』の看板のお店でした。そのお店に飾ってあった達磨大師の絵です。日本でもよく知られているように、インド生まれの禅宗開祖の達磨大師(6世紀頃)は、実在の高僧です。10月5日は達磨忌、日本では全国の禅寺で法要が営まれます。

    『小雁塔』の見学を終えたところで、昼食の時間となりました。昼食の精進料理のお店に立寄りました。前にも利用したことがある、『天龍宝産素食館』の看板のお店でした。そのお店に飾ってあった達磨大師の絵です。日本でもよく知られているように、インド生まれの禅宗開祖の達磨大師(6世紀頃)は、実在の高僧です。10月5日は達磨忌、日本では全国の禅寺で法要が営まれます。

  • 昼食が終わった後での撮影です。精進料理は、仏教では僧は戒律五戒で殺生が禁じられていて、大乗仏教で肉食も禁止されたため、僧への布施として野菜や豆類、穀類を工夫して調理した料理です。中国が起源とされます。上海では、高級な精進料理を御馳走になったことがありますが、『見事』と感嘆した料理の数々でした。ただし、アルコール類は一切注文できません。

    昼食が終わった後での撮影です。精進料理は、仏教では僧は戒律五戒で殺生が禁じられていて、大乗仏教で肉食も禁止されたため、僧への布施として野菜や豆類、穀類を工夫して調理した料理です。中国が起源とされます。上海では、高級な精進料理を御馳走になったことがありますが、『見事』と感嘆した料理の数々でした。ただし、アルコール類は一切注文できません。

  • 精進料理のお店、『天龍宝産素食館』の前の通りの光景です。『エンジュ(槐)』らしい木々が街路樹でした。精進料理のお店の玄関横の柱には、『禅悦為食意不顛倒得自在』と、『茹素修身心无桂碍明己事』の揮毫が刻み込んでありました。

    精進料理のお店、『天龍宝産素食館』の前の通りの光景です。『エンジュ(槐)』らしい木々が街路樹でした。精進料理のお店の玄関横の柱には、『禅悦為食意不顛倒得自在』と、『茹素修身心无桂碍明己事』の揮毫が刻み込んでありました。

  • 同じく、精進料理のお店、『天龍宝産素食館』の前の通りの光景です。青色の道路標識には、『西安曲江新区』の表示がありました。曲江新区内には、大唐芙蓉園や大明宮遺跡公園など、盛唐時代をを偲ばせる遺跡も数多くあるようです。旧正月には、文化イベント『大唐不夜城』が華やかに開催されています。

    同じく、精進料理のお店、『天龍宝産素食館』の前の通りの光景です。青色の道路標識には、『西安曲江新区』の表示がありました。曲江新区内には、大唐芙蓉園や大明宮遺跡公園など、盛唐時代をを偲ばせる遺跡も数多くあるようです。旧正月には、文化イベント『大唐不夜城』が華やかに開催されています。

  • 精進料理の昼食の後にやって来たのは、空海所縁の『青龍寺』です。日本では、88か所巡りの0番札所とも呼ばれています。『青龍寺(せいりゅうじ、しょうりゅうじ)』は、中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院です。写真は、まだ新しい造りの立派な門です。『東門』当たりのようです。

    精進料理の昼食の後にやって来たのは、空海所縁の『青龍寺』です。日本では、88か所巡りの0番札所とも呼ばれています。『青龍寺(せいりゅうじ、しょうりゅうじ)』は、中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院です。写真は、まだ新しい造りの立派な門です。『東門』当たりのようです。

  • 『青龍寺』の故地は、かつての唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所でした。写真は、『尋覧図』のタイトルがあった、現在の史跡案内地図です。恵果&空海記念堂、倣唐庭院、空海記念碑、正果堂、博物院、東門、北門などが表示されていました。

    『青龍寺』の故地は、かつての唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所でした。写真は、『尋覧図』のタイトルがあった、現在の史跡案内地図です。恵果&空海記念堂、倣唐庭院、空海記念碑、正果堂、博物院、東門、北門などが表示されていました。

  • 石造の白い台座の上に置かれた黒い標識の光景です。上から、『陝西省第一批重点文物保護単位』、『青龍寺』と『1956年8月6日公布・陝西省人民委員会』などの文字が刻まれていました。

    石造の白い台座の上に置かれた黒い標識の光景です。上から、『陝西省第一批重点文物保護単位』、『青龍寺』と『1956年8月6日公布・陝西省人民委員会』などの文字が刻まれていました。

  • 紅葉した生垣の上にいた茶色の姿の小鳥さんです。観光客に慣れたのか、あるいはお寺の方から餌付けされたのか、あまり人を恐れない風に見えました。人を恐れない鳥さんでも、幅広い生垣の上は、距離を保つのにも都合がよさそうです。フランスのノートルダム寺院の前でも、生垣を上手に使っていた家雀さんを見ました。

    紅葉した生垣の上にいた茶色の姿の小鳥さんです。観光客に慣れたのか、あるいはお寺の方から餌付けされたのか、あまり人を恐れない風に見えました。人を恐れない鳥さんでも、幅広い生垣の上は、距離を保つのにも都合がよさそうです。フランスのノートルダム寺院の前でも、生垣を上手に使っていた家雀さんを見ました。

  • あまり人を恐れないようでしたから、何枚か写真を撮ることができました。番いで顔を見せに来ていたようです。この写真では、二羽ともカメラの方を向いてくれました。

    あまり人を恐れないようでしたから、何枚か写真を撮ることができました。番いで顔を見せに来ていたようです。この写真では、二羽ともカメラの方を向いてくれました。

  • 先に1羽が近くに移動し、こちらの鳥さんも落ち着かなくなってきたようです。同じ方向に飛び去りました。と言っても、道路の反対側の近い場所でした。ホオジロさん当たりでしょうか。東アジアに広く分布し、顔の模様とさえずりが特徴的な小鳥さんのようです。

    先に1羽が近くに移動し、こちらの鳥さんも落ち着かなくなってきたようです。同じ方向に飛び去りました。と言っても、道路の反対側の近い場所でした。ホオジロさん当たりでしょうか。東アジアに広く分布し、顔の模様とさえずりが特徴的な小鳥さんのようです。

  • 少し高くなった場所から見下ろした、和風庭園風の光景です。和風庭園といっても、元々は、中国渡来の作庭技術や、美意識が反映亜sれているのかも知れません。中国語版の観光案内には、『倣頭庭院』は1982年以来、西安政府と、日本関係者とが共同で建設に取り組んだことが紹介されていました。(相約久久)

    少し高くなった場所から見下ろした、和風庭園風の光景です。和風庭園といっても、元々は、中国渡来の作庭技術や、美意識が反映亜sれているのかも知れません。中国語版の観光案内には、『倣頭庭院』は1982年以来、西安政府と、日本関係者とが共同で建設に取り組んだことが紹介されていました。(相約久久)

  • 秋景色の庭園光景です。『倣唐庭院』当たりの庭のようでした。『倣唐庭園』には日本から送られた桜の木が植えられているようです。現在は、日本とは季節外れですが、西安の桜名所になっているようです。

    秋景色の庭園光景です。『倣唐庭院』当たりの庭のようでした。『倣唐庭園』には日本から送られた桜の木が植えられているようです。現在は、日本とは季節外れですが、西安の桜名所になっているようです。

  • 『倣唐庭院』当たりの庭の光景が続きます。枯山水ではなく、立派な庭石が配された池が中心になっていました。

    『倣唐庭院』当たりの庭の光景が続きます。枯山水ではなく、立派な庭石が配された池が中心になっていました。

  • 池を中心にした、庭の光景が続きます。『青龍寺』は、空海大師を通じて、日本のお寺との関係が深いようですから、作庭には、日本人関係者も携わったようです。

    池を中心にした、庭の光景が続きます。『青龍寺』は、空海大師を通じて、日本のお寺との関係が深いようですから、作庭には、日本人関係者も携わったようです。

  • 回廊のような場所に展示してあった、仏画の光景です。前の見学の時に撮影しましたし、時間がありませんでしたから、今回は、ほんの一部だけの撮影にしておきました。

    回廊のような場所に展示してあった、仏画の光景です。前の見学の時に撮影しましたし、時間がありませんでしたから、今回は、ほんの一部だけの撮影にしておきました。

  • 回廊のような場所に展示してあった仏画の紹介です。2011年旅行時の説明文の再掲です。『詩の末尾に『晩秋興友人游青龍寺』と題が記されていました。作者は唐時代の詩人、『龍得仁』です。全文は、『高視終南秀 西風度閣涼 一生同隙影 幾処好山光 暮鳥投●木,寒鐘送夕陽 因居話心地 川冥宿僧房』です。劉得仁は長く長安に住した晩唐の詩人です』

    回廊のような場所に展示してあった仏画の紹介です。2011年旅行時の説明文の再掲です。『詩の末尾に『晩秋興友人游青龍寺』と題が記されていました。作者は唐時代の詩人、『龍得仁』です。全文は、『高視終南秀 西風度閣涼 一生同隙影 幾処好山光 暮鳥投●木,寒鐘送夕陽 因居話心地 川冥宿僧房』です。劉得仁は長く長安に住した晩唐の詩人です』

  • 同じく、回廊のような場所に展示してあった、仏画の光景です。同じく、2011年旅行時の説明文の再掲です。『恵果空海紀念堂の落成礼賛に読まれた漢詩です。バックに梅の花が描かれていました。575で3回繰り返される形式です。『秋色●長安 一時海会集群賢 千載両邦歓 棟宇仮(?)中唐 青龍謄起赤霞光 天際接(?)金剛 遺像仰英姿 恍見当年●法事 甘露護孫枝』らしい文字です』

    同じく、回廊のような場所に展示してあった、仏画の光景です。同じく、2011年旅行時の説明文の再掲です。『恵果空海紀念堂の落成礼賛に読まれた漢詩です。バックに梅の花が描かれていました。575で3回繰り返される形式です。『秋色●長安 一時海会集群賢 千載両邦歓 棟宇仮(?)中唐 青龍謄起赤霞光 天際接(?)金剛 遺像仰英姿 恍見当年●法事 甘露護孫枝』らしい文字です』

  • 禅問答をイメージするような石碑の光景です。2011年旅行時の説明文の再掲が続きます。『現地ガイドさんが、四国88個所巡りのゼロ番札所と紹介されていた、石のモニュメントです。禅問答を連想させるような造作です。ウィキペディアにも、『四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により、四国八十八箇所の零番札所と名付けられた』と紹介されていました』

    禅問答をイメージするような石碑の光景です。2011年旅行時の説明文の再掲が続きます。『現地ガイドさんが、四国88個所巡りのゼロ番札所と紹介されていた、石のモニュメントです。禅問答を連想させるような造作です。ウィキペディアにも、『四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により、四国八十八箇所の零番札所と名付けられた』と紹介されていました』

  • 『西安市空海記念碑建築協力委員会の篆刻した碑文』の日本語タイトルがあった説明パネルの光景です。『西安市空海記念碑設立協力委員会』名で、本文もすべて日本語表記でした。いくつか誤記がありましたので、日本語に通じた中国人の方が記された碑文のようでした。大意を損ねるような誤記ではありませんでした。日本では四国四県が建設事業に携わったようです。

    『西安市空海記念碑建築協力委員会の篆刻した碑文』の日本語タイトルがあった説明パネルの光景です。『西安市空海記念碑設立協力委員会』名で、本文もすべて日本語表記でした。いくつか誤記がありましたので、日本語に通じた中国人の方が記された碑文のようでした。大意を損ねるような誤記ではありませんでした。日本では四国四県が建設事業に携わったようです。

  • 『空海記念碑』のズームアップ光景です。設計されたのは、中国建築界の重鎮の一人らしい、建築デザイナーで精華大学教授の張錦秋氏のようです。中国語版『維基百科』からの略歴等の紹介です。<br />◎1936年10月7日:出生於四川省成都<br />◎1960年:清華大學建築系本科畢業(卒業)<br />◎1966年:清華大學建築?史與理論研究生畢業(卒業)<br />◎1996年:清華大學聘為雙聘教授<br />◎2001~2005年:擔任中國建築學會副理事長<br />◎2004年:聘為浙江大學兼職教授

    イチオシ

    『空海記念碑』のズームアップ光景です。設計されたのは、中国建築界の重鎮の一人らしい、建築デザイナーで精華大学教授の張錦秋氏のようです。中国語版『維基百科』からの略歴等の紹介です。
    ◎1936年10月7日:出生於四川省成都
    ◎1960年:清華大學建築系本科畢業(卒業)
    ◎1966年:清華大學建築?史與理論研究生畢業(卒業)
    ◎1996年:清華大學聘為雙聘教授
    ◎2001~2005年:擔任中國建築學會副理事長
    ◎2004年:聘為浙江大學兼職教授

  • 『空海記念碑』が設置された、広々とした基壇のような場所の光景です。推測ですが、記念碑の前で、大勢の人が集まる式典が、定期的に行われるのを想定したような広場の設計でした。張錦秋氏の代表作は、西安博物院、阿部仲麻呂記念碑、西安青龍寺空海紀念碑院、陝西省美術博物陝西省図書館、陝西省美術博物院はじめ多数あります。

    『空海記念碑』が設置された、広々とした基壇のような場所の光景です。推測ですが、記念碑の前で、大勢の人が集まる式典が、定期的に行われるのを想定したような広場の設計でした。張錦秋氏の代表作は、西安博物院、阿部仲麻呂記念碑、西安青龍寺空海紀念碑院、陝西省美術博物陝西省図書館、陝西省美術博物院はじめ多数あります。

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