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『三蔵法師』とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことで、尊称であって固有名詞ではありません。しかし、『西遊記』に描かれる『玄奘三蔵法師』が有名になり、『玄奘』の固有名詞として使われることが多くなりました。その『三蔵法師』の紹介です。

2019秋、中国旅行記25(33/34):11月20日(10):西安(20):大雁塔(3):玄奘三蔵院、大通覚堂

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2019/11/17 - 2019/11/21

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旅行記グループ 2019秋、中国旅行記25(下巻)

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

『三蔵法師』とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことで、尊称であって固有名詞ではありません。しかし、『西遊記』に描かれる『玄奘三蔵法師』が有名になり、『玄奘』の固有名詞として使われることが多くなりました。その『三蔵法師』の紹介です。

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  • 『玄奘法師訳撰全集』:全集共321冊、44函<br />右:『玄奘法師訳撰全集:第27函』<br />左:『玄奘法師訳撰全集:第28函』<br />*写真で紹介するのは、展示品のほんの一部です。<br />

    『玄奘法師訳撰全集』:全集共321冊、44函
    右:『玄奘法師訳撰全集:第27函』
    左:『玄奘法師訳撰全集:第28函』
    *写真で紹介するのは、展示品のほんの一部です。

  • 『玄奘法師訳撰全集』:全集共321冊、44函<br />右:『仏土供養経、無垢称経他:第22函』<br />左:『瑜伽師地論第1之33巻』<br />その他:瑜伽師地論(ゆがしじろん)は、玄奘45歳の646年5月から翻訳が始まり、全100巻の翻訳を終えるのに2年を要しています。

    『玄奘法師訳撰全集』:全集共321冊、44函
    右:『仏土供養経、無垢称経他:第22函』
    左:『瑜伽師地論第1之33巻』
    その他:瑜伽師地論(ゆがしじろん)は、玄奘45歳の646年5月から翻訳が始まり、全100巻の翻訳を終えるのに2年を要しています。

  • 『玄奘法師訳撰全集』:全集共321冊、44函<br />右:『大般若波羅蜜多経:第8函:211~240巻』<br />左:『大般若波羅蜜多経:第9函:241~270巻』<br />その他:玄奘自ら翻訳の指揮を取って4年の歳月を掛けて漢訳し、663年『大般若波羅蜜多経』が完成しました。全16部600巻に及ぶ膨大な経典群です。

    『玄奘法師訳撰全集』:全集共321冊、44函
    右:『大般若波羅蜜多経:第8函:211~240巻』
    左:『大般若波羅蜜多経:第9函:241~270巻』
    その他:玄奘自ら翻訳の指揮を取って4年の歳月を掛けて漢訳し、663年『大般若波羅蜜多経』が完成しました。全16部600巻に及ぶ膨大な経典群です。

  • 工事中の渡り廊下、長廊内の光景になるようです。柱の色は弁柄色、壁の色が白色に統一されていました。工事中の場所を横断する智沖に撮影した記憶です。立入り制限の表示がなかったようですから、通行もできたようです。

    工事中の渡り廊下、長廊内の光景になるようです。柱の色は弁柄色、壁の色が白色に統一されていました。工事中の場所を横断する智沖に撮影した記憶です。立入り制限の表示がなかったようですから、通行もできたようです。

  • 屋外に展示してあった、着飾った象さんの光景です。丸々と太っていました。背後に見えるのが、メンテナンス工事中の『渡り廊下』になります。インド憲法25条では、ヒンドゥー教から分派したと考えられるシク教、ジャイナ教、仏教も広義のヒンドゥーとして扱われています。そのヒンドゥー教のシヴァ神の子供の一人が、象の頭を持つガネーシャー神です。

    屋外に展示してあった、着飾った象さんの光景です。丸々と太っていました。背後に見えるのが、メンテナンス工事中の『渡り廊下』になります。インド憲法25条では、ヒンドゥー教から分派したと考えられるシク教、ジャイナ教、仏教も広義のヒンドゥーとして扱われています。そのヒンドゥー教のシヴァ神の子供の一人が、象の頭を持つガネーシャー神です。

  • 正面から眺めた象さんの光景です。現在の仏教国の一つ、タイ王国での象のエピソードです。『1916年まで採用されていたタイ国旗は、赤い地に白い象が描かれたものでした。白い象を発見したらすべて王に献上しなければならないという法律まであるようです』(JTBタイ支店)、と紹介されていました。白い象は、国家の威厳の象徴とされるのがタイ王国です。

    正面から眺めた象さんの光景です。現在の仏教国の一つ、タイ王国での象のエピソードです。『1916年まで採用されていたタイ国旗は、赤い地に白い象が描かれたものでした。白い象を発見したらすべて王に献上しなければならないという法律まであるようです』(JTBタイ支店)、と紹介されていました。白い象は、国家の威厳の象徴とされるのがタイ王国です。

  • 『大通覚堂』の扁額が懸かった建物の正面光景です。その正面に座像と、背後に白く大きなレリーフの壁が見えました。『玄奘三蔵院』の境内にある建物の一つになるようです。玄奘三蔵法所縁のお寺の『大慈恩寺』は、隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の李治が、亡母(文徳皇后)追善のために建立したのが始まりとされます。(ウィキペディア)

    『大通覚堂』の扁額が懸かった建物の正面光景です。その正面に座像と、背後に白く大きなレリーフの壁が見えました。『玄奘三蔵院』の境内にある建物の一つになるようです。玄奘三蔵法所縁のお寺の『大慈恩寺』は、隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の李治が、亡母(文徳皇后)追善のために建立したのが始まりとされます。(ウィキペディア)

  • 『大通覚堂』の内部光景です。中央に坐していたのが玄奘三蔵法師像でした。吹き抜けの造りの建物で、その背後がレリーフ像が刻まれた白い壁でした。『大慈恩寺』は、各地から良材を集め建てられ、その規模は、塔頭10数院を擁し、建築物は総数1,897間、公度僧だけで300名という大寺だったとされます。(ウィキペディア)

    『大通覚堂』の内部光景です。中央に坐していたのが玄奘三蔵法師像でした。吹き抜けの造りの建物で、その背後がレリーフ像が刻まれた白い壁でした。『大慈恩寺』は、各地から良材を集め建てられ、その規模は、塔頭10数院を擁し、建築物は総数1,897間、公度僧だけで300名という大寺だったとされます。(ウィキペディア)

  • 『大通覚堂』の天井光景です。サンスクリット(梵字)で、東西南北が記されているようでした。インドから帰朝した玄奘は、大慈恩寺の上座となり、寺地北西の翻経院で仏典の漢訳事業に従事しました。大慈恩寺での玄奘の訳経活動は、658年(顕慶3年)までの11年に及びます。合わせて40部余の経典が漢訳されました。(ウィキペディア)

    『大通覚堂』の天井光景です。サンスクリット(梵字)で、東西南北が記されているようでした。インドから帰朝した玄奘は、大慈恩寺の上座となり、寺地北西の翻経院で仏典の漢訳事業に従事しました。大慈恩寺での玄奘の訳経活動は、658年(顕慶3年)までの11年に及びます。合わせて40部余の経典が漢訳されました。(ウィキペディア)

  • 正面から眺めた玄奘三蔵法師像の光景です。正面に礼拝する場所が設けてありましたが、聖域とみなされるらしい一角は、立入り禁止になっていました。唐代半ば以降、大慈恩寺の境内には、大きな戯場があり、俗講や見世物が行われていました。また、牡丹の名所としても知られ、それを詠んだ多くの漢詩が知られます。 (ウィキペディア)

    正面から眺めた玄奘三蔵法師像の光景です。正面に礼拝する場所が設けてありましたが、聖域とみなされるらしい一角は、立入り禁止になっていました。唐代半ば以降、大慈恩寺の境内には、大きな戯場があり、俗講や見世物が行われていました。また、牡丹の名所としても知られ、それを詠んだ多くの漢詩が知られます。 (ウィキペディア)

  • 玄奘三蔵法師像のズームアップ光景です。正面に建設当初の姿になるらしい、5層の大雁塔が置かれていました。その塔の前には、『仏門浄地』として、喫煙、喧噪等の禁止の表示がありました。かつての『大慈恩寺』には、藤等も植えられ、春には、寺が所有していた南にある通善坊の「杏園」で杏の花が、夏には、寺の南池で蓮の花が咲き、秋には、柿が生り、紅葉に包まれたと伝えられます。(ウィキペディア) <br />

    玄奘三蔵法師像のズームアップ光景です。正面に建設当初の姿になるらしい、5層の大雁塔が置かれていました。その塔の前には、『仏門浄地』として、喫煙、喧噪等の禁止の表示がありました。かつての『大慈恩寺』には、藤等も植えられ、春には、寺が所有していた南にある通善坊の「杏園」で杏の花が、夏には、寺の南池で蓮の花が咲き、秋には、柿が生り、紅葉に包まれたと伝えられます。(ウィキペディア)

  • 更にズームアップした、玄奘三蔵法師像の光景です。玄奘所縁の大慈恩寺は、845年(会昌5年)の、武宗による会昌の廃仏の時には、大薦福寺・西明寺・大荘厳寺と共に、廃寺を免れました。その後、1550年(嘉靖29年)に、現在の大慈恩寺が建立されたと伝わります。(ウィキペディア)

    更にズームアップした、玄奘三蔵法師像の光景です。玄奘所縁の大慈恩寺は、845年(会昌5年)の、武宗による会昌の廃仏の時には、大薦福寺・西明寺・大荘厳寺と共に、廃寺を免れました。その後、1550年(嘉靖29年)に、現在の大慈恩寺が建立されたと伝わります。(ウィキペディア)

  • この辺りも、『玄奘三蔵院』の境内の一部になるようです。左手に見える案内板には、前方が『図芸館(ライブラリ)』、後方が先程立寄った『大通覚堂』、南になるらしい左向き方向が『大雁塔』と記されていました。今向かっているのが、西方向になるようです。

    この辺りも、『玄奘三蔵院』の境内の一部になるようです。左手に見える案内板には、前方が『図芸館(ライブラリ)』、後方が先程立寄った『大通覚堂』、南になるらしい左向き方向が『大雁塔』と記されていました。今向かっているのが、西方向になるようです。

  • 『玄奘三蔵院』の境内から眺めた『大雁塔』の光景です。工事中の長廊下越しの光景になりました。歴史上、日本人僧の中で唯一『三蔵』」の称号を与えられた人がいます。その人は、近江出身の興福寺僧・霊仙です。霊仙は804年(和の延暦23年、唐の貞元20年)、最澄や空海と同じ遣唐使の一行として唐に渡りました。長安で仏典の訳経に従事し、その功績が認められ憲宗皇帝より『三蔵』の称号が贈られました。霊仙が関わった『大乗本生心地観経』は日本の石山寺に現存します。(ウィキペディア)

    『玄奘三蔵院』の境内から眺めた『大雁塔』の光景です。工事中の長廊下越しの光景になりました。歴史上、日本人僧の中で唯一『三蔵』」の称号を与えられた人がいます。その人は、近江出身の興福寺僧・霊仙です。霊仙は804年(和の延暦23年、唐の貞元20年)、最澄や空海と同じ遣唐使の一行として唐に渡りました。長安で仏典の訳経に従事し、その功績が認められ憲宗皇帝より『三蔵』の称号が贈られました。霊仙が関わった『大乗本生心地観経』は日本の石山寺に現存します。(ウィキペディア)

  • 先程紹介した『案内標識』によれば、『図芸館(ライブラリ)』の内部になるようですが、違っていたかも知れません。先に紹介した展示室ともよく似た内部光景でした。壁面は、玄奘三蔵に纏わるらしいレリーフ像で溢れていました。

    先程紹介した『案内標識』によれば、『図芸館(ライブラリ)』の内部になるようですが、違っていたかも知れません。先に紹介した展示室ともよく似た内部光景でした。壁面は、玄奘三蔵に纏わるらしいレリーフ像で溢れていました。

  • 同じく、壁画光景です。団体客がやって起案したので、場所を譲って、少し離れた場所からの観賞です。中央付近に、大勢の人に歓待される玄奘三蔵らしい座像がありました。壁画鑑賞には、少しjyまでしたが、左手前の展示板には、『玄奘游学・路線図』らしいタイトルがありました。

    同じく、壁画光景です。団体客がやって起案したので、場所を譲って、少し離れた場所からの観賞です。中央付近に、大勢の人に歓待される玄奘三蔵らしい座像がありました。壁画鑑賞には、少しjyまでしたが、左手前の展示板には、『玄奘游学・路線図』らしいタイトルがありました。

  • 大勢の人に歓待される玄奘三蔵らしい座像部分のズームアップ光景です。玄奘に対応する人は、高僧らしい人でした。周りを弟子たちが取り囲み、座には果物などが溢れていました。

    イチオシ

    大勢の人に歓待される玄奘三蔵らしい座像部分のズームアップ光景です。玄奘に対応する人は、高僧らしい人でした。周りを弟子たちが取り囲み、座には果物などが溢れていました。

  • 同じく、『図芸館(ライブラリ)』らしい展示館の中のレリーフで表現された壁画光景です。床から天井まで、装飾で溢れていました。そのなかで、一番の見どころがレリーフを主にした壁画でした。

    同じく、『図芸館(ライブラリ)』らしい展示館の中のレリーフで表現された壁画光景です。床から天井まで、装飾で溢れていました。そのなかで、一番の見どころがレリーフを主にした壁画でした。

  • 三蔵法師の愛馬の『玉龍』かも知れません。『西遊記』は、16世紀の明の時代に大成した小説です。唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語です。日本でも、パロディを多く含んだ連続TVドラマが何度もヒットしました。

    三蔵法師の愛馬の『玉龍』かも知れません。『西遊記』は、16世紀の明の時代に大成した小説です。唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語です。日本でも、パロディを多く含んだ連続TVドラマが何度もヒットしました。

  • 玄奘三蔵法師の像になるようです。手にしているのは『錫杖(しゃくじょう)』です。遊行僧が携帯する杖のことで、有声杖、鳴杖、智杖、徳杖、金錫とも言われます。銅や鉄などで造られた頭部の輪形に遊環(ゆかん)と呼ばれる金輪が複数通してあり、音が出る仕組みになっています。仏教の教義では煩悩を払い、智慧を得る効果があるともされますが、山野においては護身の武器ともなりました。

    イチオシ

    玄奘三蔵法師の像になるようです。手にしているのは『錫杖(しゃくじょう)』です。遊行僧が携帯する杖のことで、有声杖、鳴杖、智杖、徳杖、金錫とも言われます。銅や鉄などで造られた頭部の輪形に遊環(ゆかん)と呼ばれる金輪が複数通してあり、音が出る仕組みになっています。仏教の教義では煩悩を払い、智慧を得る効果があるともされますが、山野においては護身の武器ともなりました。

  • 『慈悲道生懺法』のタイトルがあった木版刷りらしい冊子の中身です。明代の万歴36年(1608年)に印刷されたものです。冊子の中央部分に『啓運慈悲道生懺法・一心帰命三世諸仏』の見出しと、三世諸仏像と八つの仏名が記されていました。<br />

    『慈悲道生懺法』のタイトルがあった木版刷りらしい冊子の中身です。明代の万歴36年(1608年)に印刷されたものです。冊子の中央部分に『啓運慈悲道生懺法・一心帰命三世諸仏』の見出しと、三世諸仏像と八つの仏名が記されていました。

  • 『大勢至菩薩像』<br />唐代(618~907年)<br />出土場所:記載なし(当地?)<br />その他:上半身像です。

    『大勢至菩薩像』
    唐代(618~907年)
    出土場所:記載なし(当地?)
    その他:上半身像です。

  • 『慈氏菩薩像』<br />唐代(618~907年)<br />出土場所:記載なし(当地?)<br />その他:座像です。

    『慈氏菩薩像』
    唐代(618~907年)
    出土場所:記載なし(当地?)
    その他:座像です。

  • 『観音菩薩像』<br />唐代(618~907年)<br />出土場所:記載なし(当地?)<br />その他:座像です。

    『観音菩薩像』
    唐代(618~907年)
    出土場所:記載なし(当地?)
    その他:座像です。

  • 『毘盧遮那仏(法身仏)』<br />唐代(618~907年)<br />出土場所:記載なし(当地?)<br />その他:座像です。

    『毘盧遮那仏(法身仏)』
    唐代(618~907年)
    出土場所:記載なし(当地?)
    その他:座像です。

  • 見学は出来ましたが、工事中だった『玄奘三蔵院』の建物光景です。遮蔽シートに覆われた中で、渡り廊下がある建物の補修工事が行われていました。建物の横断についての制約はありませんでした。

    見学は出来ましたが、工事中だった『玄奘三蔵院』の建物光景です。遮蔽シートに覆われた中で、渡り廊下がある建物の補修工事が行われていました。建物の横断についての制約はありませんでした。

  • 玄奘三蔵法師が、出国から16年を経た貞観19年1月(645年)に、657部の経典を長安に持ち帰ったことは既に紹介しましたが、帰国後についても紹介しておきます。玄奘が密出国を咎められなかった理由には、玄奘が西域で学んできた情報を政治に利用したい太宗皇帝の思惑もあったようです。写真は、九龍壁に相応しいような造りですが、代わりにスローガンらしい『民族背梁』の文字がありました。

    玄奘三蔵法師が、出国から16年を経た貞観19年1月(645年)に、657部の経典を長安に持ち帰ったことは既に紹介しましたが、帰国後についても紹介しておきます。玄奘が密出国を咎められなかった理由には、玄奘が西域で学んできた情報を政治に利用したい太宗皇帝の思惑もあったようです。写真は、九龍壁に相応しいような造りですが、代わりにスローガンらしい『民族背梁』の文字がありました。

  • 玄奘は帰国後、太宗の側近となって国政に参加するよう求められましたが、彼は国外から持ち帰った経典の翻訳を第一の使命と考えていたため、太宗の要請を断り、太宗もこれを了承しました。その代わりに太宗は、西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめて提出することを玄奘に命じました。これに応ずる形で後に編纂された報告書が『大唐西域記』です。(ウィキペディア)

    玄奘は帰国後、太宗の側近となって国政に参加するよう求められましたが、彼は国外から持ち帰った経典の翻訳を第一の使命と考えていたため、太宗の要請を断り、太宗もこれを了承しました。その代わりに太宗は、西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめて提出することを玄奘に命じました。これに応ずる形で後に編纂された報告書が『大唐西域記』です。(ウィキペディア)

  • 帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げました。太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年)2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始しました。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移りました。さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立されました。(ウィキペディア)

    帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げました。太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年)2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始しました。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移りました。さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立されました。(ウィキペディア)

  • その後、玄奘は玉華宮に居を移しましたが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられました。麟徳元年2月5日(664年3月7日)、玄奘は経典群の中で最も重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に玉華宮で寂しました。『王華宮(ぎょくかきゅう)』は、銅川市の北45キロの玉華山にあり、唐代最初の三代の皇帝の避暑地として用いられました。(ウィキペディア)

    その後、玄奘は玉華宮に居を移しましたが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられました。麟徳元年2月5日(664年3月7日)、玄奘は経典群の中で最も重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に玉華宮で寂しました。『王華宮(ぎょくかきゅう)』は、銅川市の北45キロの玉華山にあり、唐代最初の三代の皇帝の避暑地として用いられました。(ウィキペディア)

  • 玄奘自信は、亡くなるまでに国外から持ち帰った京店全体の約3分の1までしか翻訳を進めることができませんでしたが、それでも彼が生前に完成させた経典の翻訳の数は、経典群の中核とされる『大般若経』16部600巻(漢字にして約480万字)を含め76部1347巻(漢字にして約1100万字)に及びます。レプリカのようでしたが、その訳本の一部を写真紹介しておきました。(ウィキペディア)

    玄奘自信は、亡くなるまでに国外から持ち帰った京店全体の約3分の1までしか翻訳を進めることができませんでしたが、それでも彼が生前に完成させた経典の翻訳の数は、経典群の中核とされる『大般若経』16部600巻(漢字にして約480万字)を含め76部1347巻(漢字にして約1100万字)に及びます。レプリカのようでしたが、その訳本の一部を写真紹介しておきました。(ウィキペディア)

  • 玄奘は、サンスクリット語の経典を中国語に翻訳する際、中国語に相応しい訳語を新たに選び直しています。このため、それ以前の『鳩摩羅什(くまらじゅう):344~413年)』らの仏典を『旧訳(くやく)』 、それ以後の漢訳仏典を『新訳(しんやく)』と呼んでいます。鳩摩羅什は、後秦の時代(384~417年)に長安に来て、約300巻の仏典を漢訳しました。(ウィキペディア)

    玄奘は、サンスクリット語の経典を中国語に翻訳する際、中国語に相応しい訳語を新たに選び直しています。このため、それ以前の『鳩摩羅什(くまらじゅう):344~413年)』らの仏典を『旧訳(くやく)』 、それ以後の漢訳仏典を『新訳(しんやく)』と呼んでいます。鳩摩羅什は、後秦の時代(384~417年)に長安に来て、約300巻の仏典を漢訳しました。(ウィキペディア)

  • 中国原産とされる、『イチョウ(公孫樹、銀杏)』の語源についての昭介です。『葉は扇形で葉脈は二叉に分枝し、末広がりにひろがる。中国名は銀杏、公孫樹または鴨脚樹(ヤーチアオシユー)で、後者は葉形に由来する。これを日本でヤーチャオと聞き、さらにイーチャオと転訛、後にイチョウとなったといわれる』(世界大百科事典)との解説がありました。写真は大慈恩寺境内の公孫樹の黄葉光景です。

    中国原産とされる、『イチョウ(公孫樹、銀杏)』の語源についての昭介です。『葉は扇形で葉脈は二叉に分枝し、末広がりにひろがる。中国名は銀杏、公孫樹または鴨脚樹(ヤーチアオシユー)で、後者は葉形に由来する。これを日本でヤーチャオと聞き、さらにイーチャオと転訛、後にイチョウとなったといわれる』(世界大百科事典)との解説がありました。写真は大慈恩寺境内の公孫樹の黄葉光景です。

  • 慧立等により伝記が編まれ、玄奘の死から24年後にあたる垂拱4年3月15日(688年)に『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が完成しました。その略称は『慈恩伝』です。 元代(1279~1368年)に成立した小説『西遊記』は、『大唐西域記』や 『大慈恩寺三蔵法師伝』を踏まえて書かれています。玄奘は『三蔵法師』の名で登場しています。

    慧立等により伝記が編まれ、玄奘の死から24年後にあたる垂拱4年3月15日(688年)に『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が完成しました。その略称は『慈恩伝』です。 元代(1279~1368年)に成立した小説『西遊記』は、『大唐西域記』や 『大慈恩寺三蔵法師伝』を踏まえて書かれています。玄奘は『三蔵法師』の名で登場しています。

  • ツアーメンバーの再集合場所は、大慈恩寺境内の中の屋外喫茶店のような場所でしたが、全員が揃ったところで、出口に向かいました。その山門光景です。これで、今回の仏教遺跡を主とした中国旅行は終了しました。明日は、セントレアに向かって帰国です。

    ツアーメンバーの再集合場所は、大慈恩寺境内の中の屋外喫茶店のような場所でしたが、全員が揃ったところで、出口に向かいました。その山門光景です。これで、今回の仏教遺跡を主とした中国旅行は終了しました。明日は、セントレアに向かって帰国です。

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