地元では〝南郷洗堰〟の呼称を使う〝瀬田川洗堰〟。
- 5.0
- 旅行時期:2020/06(約6年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
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近畿の水瓶琵琶湖。そこから流れ出る川は瀬田川1本でしかない。元来水深が浅いことから流域に水害を齎してきた。幾度となく架け替えられた瀬田の唐橋。勿論重要性からそうなった訳だが、その背景に水深問題は深く関係していた。
古より〝川ざらい〟をすることにより水深を深くすることは行われてきたようである。しかし江戸時代に深溝村の庄屋であった藤本太郎兵衛が3代に渡り幕府に嘆願を続け、規模の大小はあれど50年3度に渡って〝川ざらい〟を行っている。深溝というと現在の高島市であるが、なぜこの地の庄屋が瀬田川の治水に尽力したのかは、琵琶湖と瀬田川は表裏一体と考えられていたからである。
田上山から流れ出る大戸川が多量の土砂を運んでくるためにすぐに川底が浅くなる。それに加えて琵琶湖から運ばれてくる泥の堆積もある。琵琶湖の水を履く役割をする瀬田川の流れが悪くなると、当然上流の琵琶湖岸でも水位が高くなり、水害の危機にさらされることになる。生活を脅かされるという点では同じであった。
江戸時代になり〝争い〟がなくなった。しかし治水に幕府が乗り気でなかったのは、水深が浅いところは万が一瀬田唐橋が利用できない場合その浅瀬を渡ることを想定しており、また湖城であった膳所城や彦根城が琵琶湖の水位が下がることにより防備が弱まるとの懸念もあった。江戸幕府を平穏に続けて行くには琵琶湖や瀬田川に手を加えたくなかったと推測できる。そんな時代に治水嘆願を続けた藤本太郎兵衛らの尽力もあり、一定の効果はあったようだ。しかし自然の力は衰えを知らない。明治期になってもたびたび流域で氾濫が起こっており明治29(1896)年には琵琶湖大水害が起こっている。同年まとまった淀川改修計画により明治33(1900)春瀬田川改修工事が着工した。しかし琵琶湖沿岸の浸水被害は瀬田川の浚渫工事(川ざらい)をすると減るが、今度は下流域での水害が増加するという懸念が出てきた。その両方を立てるために考えられたのが治水拠点となる南郷洗堰の建設であった。
明治38(1905)年に完成した南郷洗堰は瀬田川の大規模な浚渫工事が完成後に再び行われたため、瀬田川の疎通能力は以前の4倍にまで大幅に高まっている。水害を減らすことに成功し、貯められた水は水道・農業・工業用に供給されるものとなった。昭和36(1961)年に現在の瀬田川洗堰が整備されるまでの60年間に渡り湖国を守り続けた南郷洗堰はその役目を終え、瀬田川両岸に一部を残して撤去された。そしてその遺構は平成14(2002)年には南郷洗堰の歴史的価値が認められ、土木学会選奨土木遺産に選ばれている。
現在南郷洗堰には立ち入りが禁じられているが、東側の一角は毎月第4土曜日に開催されている〝洗堰レトロカフェ〟で一部立ち入ることができるようになっている。
以前は瀬田川を渡る主要道のひとつであったが、現在では瀬田川令和大橋も完成しそれなりに分散して利用されているため、特定日を除けばさほど混雑することもなくなった。交通の要として役割はともかく、利水・治水の要として南郷洗堰共々湖国の〝水との付き合い方〟について〝生き証人〟として存在感を呈し続けて貰いたいと改めて願う場所であった。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 南郷洗堰バス停からすぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時期と時間によります。
- バリアフリー:
- 5.0
- 瀬田川洗堰上は舗装されています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 新旧のコラボがまた頼もしい。
クチコミ投稿日:2020/06/03
いいね!:7票
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