宜野湾・北谷・中城旅行記(ブログ) 一覧に戻る
《2023.June》3年ぶりのTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その五~来年に続く旅編~<br /><br />目覚ましの音で目が覚める。4年ぶりとなった沖縄の旅も最終日を迎えた。天気は極めて良い。今日も暑くなりそうな感じがする。いつものように朝食を頂く。同宿の家族連れは早速海へと行ったそうだ。若いということが羨ましいと思ってしまった私であった。<br /><br />今日は土曜日ということもあり、旅行貯金はできない。なので時間に追い捲られることなくドライブしようと思う。荷物を先に送ろうと考えていたのだが、結局バックに被せる袋が購入出来なかったために持ち運ぶこととなったため、今日使わない物やお土産等をバックに詰め、リュックだけで動けるようにする。ほぼほぼフリータイムの一日なので、チェックアウト時間を見計らって出発する。ホストファミリーに手を振られながらこちらも視界から消えるまで手を振り続けるといった例年同様の見送りを受けながらみん宿ヤポネシアを後にした。<br /><br />大度の交差点を左折して一旦那覇方面へと走る。向かった先はファミリーマート糸満米須店である。飲み物を飲み、タバコをふかしながらコースを決めることが常の場所ではあるが、四年ぶりに訪れるとマイタバコの取扱が終わっていた。月日の流れを感じてしまった。<br /><br />売っていないものは仕方がないので、諦めて移動することにした。向かった先は南の駅やえせ。昨日も来ている場所なのだが、今日は駅となりの具志頭歴史民俗資料館を訪れるためである。元々は具志頭村の歴史や民俗を紹介している資料館なのであるが、現在は戦跡発掘により出土した遺物の展示が期間限定で行われている。そういった情報は耳に入ってくることも稀なのであるが、昨日にガイドして頂いた松永さんも出展に関わっていることを聞き、立ち寄ることにした。掘り出されたままの遺物が来館者に無言でなにかを語りかけているような不思議な感覚に駆られた私であった。<br /><br />資料館を出て南の駅やえせに停めてある車に戻って来た。別に無断駐車ではなく、資料館の駐車場が狭いのでなるべく南の駅やえせの駐車場を利用して欲しいと書かれていたためである。国道507号線を走りまず立ち寄ったのはローソン白川小学校前店である。勿論第一の目的はタバコの購入だが、こちらにも置いてはいなかった。次に立ち寄ったセブンイレブン豊見城公園前店でやっとお目当てのタバコを見つけて二箱購入することが出来た。<br /><br />タバコを手に入れ次の目的地を目指す。旧陸軍第24師団第二野戦病院壕跡である。その前に旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑に立ち寄るのだが、以前は旧豊見城城跡公園の敷地内にある御嶽を目指して行った。城跡公園としては既に閉園してはいたが、御嶽に参ることは認められていたようで比較的すぐに場所を見つけられたように記憶している。しかしその後空手会館が作られ、園内の様子も少し変わった。また前回訪れた際は御嶽に通ずる道程が地図に記載されていたが、それもなくなっていた。仕方がないのでgoogleナビに従って公園内の狭い道をゆっくりと走るが良くわからず、車を停めては周辺を探すということを数回行い、やっとの思いでたどり着いた。<br /><br />再訪となる旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑は、戦後学徒を含む野戦病院スタッフの手によって昭和57(1982)年に建立された。中心となったのは軍医士官として従軍した島尾ニ氏である。戦後医局に戻られた島尾氏は、この陸軍病院での様子を忘れることなく生きて来られ、合祀碑の建立に尽力されたが、碑の完成を待たず亡くなっている。上官である小池勇助軍医少佐が患者の始末を命令するも島尾軍医は従わなかったことは生存者の口から伝えられている史実である。本来ならば上官の命令は絶対だが、この命令違反に対し、小池軍医も咎めることはなかったという。医者としての気持ちにお二人共違いはなかったためであろう。その後司令部の南下と共に陸軍病院も同行。糸洲の壕で学徒や病院職員に対し解散命令を出した後、小池軍医は自決している。<br /><br />陸軍病院関係者からすれば思い出そのものの合祀碑であるが、豊見城城址公園の閉鎖後は非公式に慰霊の日に追悼式をすることだけしか出来なかったようだ。私自身も偶々慰霊の日だったために入れたようだ。しかし病院壕は朽ち果てており、自然に返って行くものだと確信していた。しかし最近壕に至る歩道と入口が整備され、中には入れないものの入口には由来碑が設けられるなど、遺構を知るレベルにはなったようだ。その姿を確認すべく本日訪れた訳だが、改善点はあれど朽ち果てるままの壕ではなくなっていた。内部は落盤等もあり、すぐには開放する訳にもいかないようだが、戦跡の一つとして後世に伝えていけるものになることを願うのみだ。合祀碑と野戦病院壕、どちらにも手を合わせて犠牲者の冥福を祈り、野戦病院壕を後にすることにした。<br /><br />那覇市に入り泊へと向かう。元は崇元寺町と呼ばれた界隈であるが、現在は泊となっている。ここを訪れたのは沖縄戦に動員された“梯梧学徒隊”を組織した私立沖縄昭和高等女学校の跡地碑があることを知ったためである。googleナビの指し示す場所がわからず何度も“ここ”というところを行き過ぎながら、やっと到着することができた。安里川沿いの狭い道に面したマンションの前に“私立沖縄昭和高等女学校跡”の碑は建立されていた。元々この辺りは崇元寺があり、その近隣に昭和高女が開校したという。山梨県出身の教育者である八巻太一が定年退職後に私財を投じて沖縄の女子学生の商業他実務を学ぶ学校として昭和7(1932)年に創立した学校である。沖縄の高等女学校の中で最も新しい学校であったが、沖縄戦に於いて学徒隊として従軍し。学徒看護隊要員として陸軍病院野戦病院壕を転々とした。戦争末期に出された解散命令後も含め、動員学徒の内9名が犠牲となり、彼女達の学び舎も砲火により煤塵に帰し、そのまま廃校となった。<br /><br />昭和高等女学校学徒隊は、戦後校章にあった“梯梧”の花から“梯梧学徒隊”と呼ばれるようになった。戦争で犠牲となった学校関係者を祀る“梯梧之塔”は当初学校跡地に建立されたが、後に多くの犠牲者を出した糸満市米須の場所に移設された今日に至っている。私自身梯梧之塔は幾度となく訪れてはいるが、学校跡地にはたどり着かないまま時間切れしてしまい、訪れることが出来ないままとなっていた。偶々学校跡地の碑の場所を記したものを見つけ、今日の訪問に漕ぎ着けられたのであった。学校跡地といえばそれなりの広場に建立されていると思っていたのだが、私立沖縄昭和高等女学校跡地はその“跡地碑”があるだけの場所であった。安里川と川沿いに建てられたマンションの隙間に建立された記念碑は、正にこの場所界隈に学校があったことを示しているだけに過ぎない。残念ながら往時を偲ぶものは碑に埋め込まれた写真製版のプレートだけであることからも流石にここを学校跡地として戦跡にするようなものでもない。既に再開発が行われた場所故仕方がないと言ってしまえば終わりである。学友を亡くした上に母校も焼失した挙句廃校となってしまった史実を受け入れなければならなかった学徒隊の生き残りのメンバーからすればやるせない気持ちだったことは容易く想像できよう。学友が亡くなった場所に移設された“梯梧之塔”。しかしすぐ隣のひめゆりの塔との“知名度”の差は訪れる者の数を見れば明らかであろう。私自身は偶々慰霊の日に梯梧之塔を訪れた際に慰霊祭を終えたスタッフの方のご厚意でお線香を上げさせて頂いた経験がある。その時に改めて感じたことは、知名度の差はあれど、慰霊する心は失われていないという確信であった。残念ながら梯梧之塔・私立沖縄昭和高等女学校についての情報は誤って記載されているものもあり、私のように所縁の場所を探し歩く者からすれば“ある”と書かれているにも関わらず見つけることができない事実に違和感すら感じてしまう残念さが散見する。未だ崇元寺跡に旧梯梧之塔があるというのは間違いでしかない。人によって感じ方の違いはあると思うが、そういった情報は“正しい”ものだけを後世に伝えて行くべきではと切に思うのは私だけであろうか?<br /><br />そんな風に感じながらも学校跡地の記念碑をぼんやり眺め、路駐した車に戻り出発する。ナビが示す通り走って行き、到着したのは那覇市立大道小学校である。小学校校庭角にある“野外彫刻公園”という小さな場所に2体の少女と由来書が刻まれた本の形をしたブロンズ像がひっそりと佇んでいる。現在の那覇市立大道小学校は戦前戦中には沖縄師範女子部の付属だった歴史がある。そんな流れで平成14(2002)年にこの地に野外彫刻公園が作られることとなった。沖縄女子師範代用附属小学校として大道尋常高等小学校が開校したのは昭和9(1934)年4月のこと。現在では往時を偲ぶものは残ってはいないが、栄町商店街付近までの広大な敷地を有する沖縄師範女子部であったという。校地は姉妹校である沖縄県立第一高等女学校と共用しており、沖縄の将来を担う子供達への“教育者”の育成場として“文教地区”を構成していた。沖縄戦の戦火により女子師範・一高女とも昭和20(1945)年3月に灰燼と化し、戦後復興されることなく廃校となった。またこの二校の女子生徒が徴兵され学徒隊“ひめゆり学徒看護隊”を結成し沖縄戦に従軍。教師・学徒240名のうち136名が戦死した史実は、沖縄を訪れる多くの旅行者が立ち寄る“ひめゆり平和祈念館”で記されており、知る者も多いことである。<br /><br />往時と同じ場所に大道小学校は建てられているが、一高女・師範女子部が“存在した”ことを知る景色は全く残ってはいない。戦後の再開発に於いて遺構を残さない方向で進んだことも記されている。戦跡を残すことは必要なことではあれど、戦後復興の妨げになるからと言われてしまえば部外者には返す言葉がない。ただひめゆりの塔同様に両校の“生徒と学校”の歴史を今に伝えるものとしては同等なものだと私には思えてならない。戦跡巡りと題するものにはこの“野外彫刻公園”も必ず紹介して貰いたいと切に願う私であった。<br /><br />この界隈は駐車場らしきものがないのか少ないために路駐をせざるを得ない。10分程の滞在で車へと戻り出発する。那覇市街を外れ宜野湾市へと向かう。嘉数高台公園脇を通り、数年前に探した〝ぎのわんおもと園〟を目指す。とは言っても老健施設に向かう訳ではない。建物隣にある2つの慰霊碑を再訪するためである。道路から階段を下りて行った場所にその慰霊碑は建立されている。独立混成第45旅団独立歩兵第第272歩兵大隊、と第62師団歩兵第64旅団独立歩兵第23大隊のそれぞれ戦没者を祀る〝下田部隊慰霊碑〟と〝捧英魂(ほうえいこん)碑〟である。前者は610柱、後者は不明とされているものの1,700柱を祀る慰霊碑として平成2(1990)年7月、昭和41(1966)年3月にそれぞれ建立されている。建立者も〝下田部隊生存者有志一同〟と〝石部隊生存者〟の建立と碑に刻まれてはいるのだが、沖縄県の調査によるとどちらも管理者不明という扱いを受けている。どちらの部隊も沖縄戦に於ける激戦のひとつである〝嘉数の戦い〟で米軍を迎え撃っている。しかし火力の歴然とした差に犠牲者を増やして行く。この辺りは激戦区故に生存者が少なく、明確な玉砕場所が不明であることは前回の訪問時に記述した。実際に下田部隊は〝嘉数の戦い〟が行われた場所で、第23大隊は第13大隊の増援部隊として配属されたが、嘉数での戦いの末2個中隊を現地に残して1個小隊規模で後退したものの、5月の〝沢岻の戦い〟に於いてやはり玉砕したとされている。どちらの部隊にも僅かな生存者がおり、その方々の手によって慰霊碑は建立されたようだ。しかしその後建立者達との連絡が取れなくなったという理由で〝管理者不明〟という扱いになってしまい現在に至っている。沖縄戦に於いて20万もの人命が失われたことは今更言うまでもないことであろう。戦没者の家族や戦友、学校の同窓生からすれば亡くなった方への慰霊の念というものはあって当然のことであろう。ただ現実には〝墓〟の扱いと同様に、墓の所有者と連絡が取れず、墓の管理費が徴収できない場合は、一定の期間告知をした上で申し出がなければ〝無縁墓〟として更地にされてしまうのが現実である。実際に沖縄県が定期的に慰霊碑の一覧を発表していることは、逆を返せば土地の利用に対する〝税金〟を徴収できないことに対する〝告知〟であると捉えることができるような内容である。沖縄の場合、戦後棒で線を引いたところが〝所有地〟をされたなどと言われていることを踏まえれば、借地料か固定資産税を払ってくれと言いたいのかも知れない。本年令和5(2023)年で戦後78年を迎えた。日本の戦後復興は目を見張るものがあるとよく言われるが、その反面こういった〝現実〟にも突き当たっていることを改めて感じた慰霊碑訪問であった。<br /><br />問題提起をしても私自身には解決できる手腕はない。もやもやした気持ちを感じながら車に戻り出発する。帰路の飛行機の時間を踏まえるとあと一ケ所位は回れそうだと考え、嘉数高台公園を訪れることにした。<br /><br />記憶によればここを訪れるのは4回目になると思う。2回は夜だったが昼間に展望台から駐機するオスプレイを見て、沖縄の終わらない戦争を感じたことがあった。またこの嘉数高台公園自体沖縄返還前に作られた〝時代物〟であったが故に特に夜間では恐怖感を感じる建物であり施設であると思っていた。だがナビに案内されて訪れた嘉数高台公園は全くの〝別物〟に変貌していた。拡張された駐車場、そして改宗されたトイレ等草臥れた感を感じさせない都市公園に成り代わっていた。移設された〝弾痕の残る壁〟はそのままのようだったが、イオンの出資で講演の回収が行われたらしいことが書かれていた。車を停めて展望台に繋がる〝大階段〟の下に立つ。今回は休憩だけの予定だったので、展望台へと行くかどうかを躊躇したが、ほかにも変わっているものがあるならば…という思いで会談にチャレンジする。夏の暑さ到来の沖縄の地でカンカン照りの太陽の元階段を上ることは一苦労であったが、何とか登りきることができた。展望台下のトイレも改宗されバリアブル化されていたものの、足の不自由な方がここまで登って来られる訳はない…と思ったのも束の間、来ていたグループがトイレの前をすっと歩き、見えなくなっている。よく見ると駐車場が設けられていた。どうやら高台公園の脇から車で展望台下まで来ることができるようになったらしい。展望台に上るには相変わらず階段を上らねばならないが、広場までは来られるので、京都の塔・嘉数の塔等の慰霊碑には訪れることができるようになった。陣地壕には階段を下りる必要があるが、トーチカ跡へも足元に気を付ければ訪れることは可能と思われる。この改築は昨年令和4(2022)年6月に終了したもので、現在展望台も改築に入っており、令和6(2024)年3月まで(予定)で利用が出来なくなっている。大きく変わった嘉数高台公園、それを見る限り展望台も大きく変わってくれそうだ。沖縄戦に於いて日米両軍が死力を尽くして戦った〝戦場〟であることに変わりはないために〝観光客受け〟するような話は慎まなければならないことなのかも知れない。しかし訪れたくても訪れることが出来なかった嘉数高台公園が変わり、誰でも手軽に訪れることが出来る場所となれば、写真等だけではなく自分の〝目〟で過去・現在そして未来の沖縄を見て感じることが出来れば正しく生きた教材に成りうると私には思える。今回は時間の都合で慰霊碑までは行かなかったが、来年もこの時期に沖縄に来ることが出来るのであれば、必ず訪れる場所の候補として嘉数高台公園を挙げておく…そんな気持ちになった私であった。<br /><br />そろそろ那覇へと戻る時間が近付いてきた。名残惜しいところもあるがここは現実的判断をする。嘉数高台公園駐車場を出発し、ユウ・アイレンタカー空港店まで約15km、時間にして30分程度の距離ではあるのだが、通勤にはまだ早い時刻でも国道330号線は那覇市内に近付くに従って混雑の度合いが増して来る。渋滞しているためにチンタラと走るしかないのであるが、途中で今回の旅路3回目の交通事故現場に遭遇する。前方の確認不足による追突のようだが、普段から車に乗っていない者にはレンタカー利用を勧めないと言われる理由を垣間見たように思う。因みにパトカーとはいえ〝交通規則〟を守っていない輩も多いので、例えぶつかられても自分に非がないことにはならないことを注意して貰いたい。様々な要素から生み出される渋滞の道路を通常の所要時間の倍の時間をかけて、先ずはレンタカー指定給油所のコスモサザンウィング高良セルフSSで給油する。ここ数年〝乗るだけ〟プランのレンタカーを利用していたために、沖縄のガソリン価格に関しては無頓着であった。しかし全国的にレンタカー代金そのものが高騰しており、乗るだけプランだと4年前の凡そ2倍の金額を支払わなければならない。貧乏旅行に3万円のレンタカー代はキツイので、敢えて〝フル補償〟に拘って手配したのがユウ・アイレンタカーだった訳である。またガソリン価格も高騰しており、少しでも安いところで給油することは〝当たり前〟のこととなっている。セコいと言われようが払わなくても良いお金は私自身払わない主義である。別に沖縄に限らず自宅から車で走った際でも、基本道中の格安ガソリンスタンドを候補に挙げておき、実際に利用することも習慣付いた。多くの場合特別な日を除けば都道府県でさほど大きな価格差がないのであるが、ここ沖縄は注意が必要である。那覇空港から車で5km以内の距離にあるレンタカー会社は必ず〝指定ガソリンスタンド〟を指定している。勿論満タン貸しの満タン返しの還俗による理由なのであるが、その指定されたガソリンスタンドの給油価格は、フリーで給油すると全国平均よりかなり割高となっている。一昨日利用した宜野座のJAのSSは151円/L、昨日のやはりJAの東風平SSで156円/L、そしてここでは175円/Lなのである。お金より〝手間をかけたくない〟方には必要のない情報だが、基本那覇空港近くのレンタカー会社指定の給油所は高いと思って間違いはない。別に〝ランキング上位〟のSSを探して行くまでせずとも、開いていたSSで給油すれば良いのである。私と同じ考えを持つ方は騙されたと思って試して欲しい。お土産がひとつ余分に買えるのだから(笑)…。<br /><br />給油を済ませ本当のラストランに挑む。いつもならば颯爽と走って返車するのだが、渋滞には付き合わなければならない。1.4kmの距離を10分かけてユウ・アイレンタカー空港店に到着し、旅の友N-ONEクンとお別れする。荷物を下ろして返車の手続きを終わらせたところで笑い話がひとつ、空港への送迎車が私の帰着に気が付かず発車しようとしたのであった。さすがに行かせてしまうと手間が増えると他のスタッフが慌てて出発を止めてくれたお陰ですぐに乗ることが出来た。混雑していなければ次便に回しても良いのかも知れないが、空港からも、空港へも渋滞している状況下で必要以上に待たせてしまい搭乗に間に合わない等の話になると厄介だからである。基本フライトの何時間前ということを取り決めて貸し出し・借り受けしている以上、時間を守らなかった等の過失がなければ〝債務不履行〟はレンタカー会社の問題となり、予想できる渋滞を理由に責任回避はできないという見解が一般的だと聞いた。実際に支払いをした案件もあるそうだが、ことの発端はレンタカー会社が乱立し人や車も不足している状況で営業した挙句に、送迎が出来ずに飛行機に盛り遅れたことがあったらしい。確かに怪しいレンタカー会社も増えては来ているので、最終的な判断は自己責任だとしても口コミ等を参考にしなければならないのかな…とふと思った私であった。<br /><br />16:49にレンタカー待合所に到着。この辺りは小規模のレンタカー会社の特徴であり、それなりに大きな会社だと3階の出発ロビーに送ってくれるものだ。という訳で文句を言う訳にも行かず3階迄エスカレーターで上がってチャックインロビーに向かう。いつもならば〝もう終わりか~〟のため息しかない帰りの那覇空港ではあるが、今回に限ってはもうひとつ〝お楽しみ〟が残っている。因みに今日のJL2088大阪伊丹行きはA350-900のトリプルクラスでの運航となっている。エコノミーは若干空きはあるようだが、ファーストクラス・クラスJとも満席と表示されていた。いつもならば左のカウンターに進み荷物を預け、前方席のリクエストをするのだが、今回は右側のカウンターへと進む。ファーストクラス(??>?<?)。??。私の辞書にはない言葉ではあるが、今回に限って付け加える。なんとファーストクラスで大阪に向かうのである。私のような中の下ランクの庶民には、エコノミーをクラスJにアップグレードすることが旅の贅沢である。今回もそうなるはずだったのだが、JMBのシステム海底からおかしな表示に遭遇することが増えた。元来はITM-OKAは5,000マイルで行けたと思うのだが、今回検索すると16,000マイルと表示されていた。これが改悪か…と思ったのも束の間22,000マイルのクラスJの下にファーストクラス16,000マイルと表示されている。こんなチャンスはな~~~いと反射的に席を押さえる。勿論エコノミーが5,000マイルで利用できたならばありえないことなのだが、システム改悪が私を突き落としたのである。という経緯で帰りは1Dのファーストクラスに搭乗する。<br /><br />そんなこんなの帰路だったため少し余裕を持って搭乗しようと保安検査場へと向かう。いつも通りカバンにすべてを突っ込んでゲートを無事通過する。26番搭乗口まで行って言われたことを思い出し、ブルースカイの店舗に向かう。御翔印を頼まれたのだが、行けと言われた場所が間違っており、域に時間ロスをしてしまった。そもそも那覇空港1階にブルースカイはない。取り合えずブルースカイを確認し、御翔印を2枚購入する。私自身ため込むと捨てられない性分のため、この類のものは購入しないし集めない。データを保存し、必要な際に眺めるだけである。そんな性格なのであまり気が進まない頼まれ物だったがまあ定期的に沖縄に行けている自分の立場を思い手に入れた。<br /><br />用事も済ませたので後は搭乗だけだ。17:46、搭乗のアナウンスが入る。勿論ファーストクラスは一番先。誰もいないボーディングブリッジをいの一番に進む姿は正に貧乏な田舎者。まあそれでも良い!次回はないのであるから(笑)。そして搭乗、真ん中2列の左側〝1D〟席に陣取る。パーソナルモニターもだが、何もかもが珍しく思えあちこちを弄ってしまう。ただUSBポートが腰のあたりにあることはわからずに素知らぬ顔をして探したけれど…。乗客の搭乗が終わり出発待ちをしている時間にCAさんが2人も挨拶に来られ恐縮する。当たり前なのかも知れないが、乗り慣れていないとそう思うものであろう。因みにJAC線を利用した時にSAAB240Bの非常口座席をリクエストし、行きも帰りもCAさんに挨拶をされたことは過去にはある(笑)。勿論意味が違うが…。<br /><br />そうこうしているうちにドアが閉まりプッシュバックの後タキシングが始まる。混雑する離発着で混雑する時間帯故待ち時間はあったものの、さほど気にならないまま離陸滑走が始まる。まだ陽の高い那覇を後にして、JL2088は一路大阪へと向けて飛んで行った。<br /><br />暫く時間を置いて機内食が出てくる。那覇発18:00のこの便は機内食提供対象便であることは手配後に知った。機内食って…すぐには思い出せない程久しぶり。多分平成19(2007)年のバリからの帰路以来だと思う。ただふと思ったのだがせっかくならば〝シャンパン〟とか言えば格好も良いのだろうが、残念なことに私は下戸。という訳でアイスコーヒーをオーダーする。すべてのことで私自身がファーストクラスに〝向いていない客〟だと感じる。ただエコノミーと比べると格段に広いシート故に適度に体を動かすことが出来ると時間の経つのはホントあっという間。定刻19:58、無事伊丹空港に到着。2時間弱のファーストクラスの旅はあっけなく終わったのであった。<br /><br />既に出発便がない伊丹空港は閑散としていた。そんな中ファーストクラスの座席位置の利を生かし、ドアが開いたと同時に降機する。そしてバゲッジのピックアップだがこれもクレームタグに〝First class〟と書かれたオレンジ色のタグが付き、ピンク色のかばんはサッと取り上げることが出来た。昨今の旅路では〝終バス〟の時刻が急ぐ度合いとなっており、6月24日土曜日は22:10田舎駅発が目安となる。荷物を抱えて大阪空港リムジンバスのバス停へと急ぎ、列に並ぶ。20:30発のバスは四条大宮行きなので、若干乗客が多めのようだ。リムジンバスの荷物持ち込みは数年前に膝の上に乗せたまま京都駅まで耐えたという〝苦い体験〟以降、必ずトランクに乗せて貰うことにしている。20:25にバスが入線し、乗車する。Pitapa利用なので乗車時に受信機に翳すだけで終わりとなる。定刻になったが出発しない。珍しいな~と思っていたら、乗務員氏がトイレに行っており帰りを待って出発するとのこと。1分の遅れで出発したが、乗務員氏は乗車時の改札もやらなければならないために、すべての乗客が乗り終えないとトイレにも行けないことを改めて知る。運転士さんも大変だ!そうして大阪伊丹空港を出発した阪急観光オペレーションの伊丹空港リムジンバスは、中国道通行止めのため阪神高速を迂回して名神高速へと入り、京都南ICで一般道へと下りた後京都駅へと向かって行くのであった。<br /><br />京都駅八条口には21:18に少し早着する形で無事到着する。荷物を受け取り京都駅地下東口を目指す。このあたりは記録を残したいこともあり、時間さえ許せば切符を購入したいのだが、予定より早い電車に乗ろうとPitapaで改札を通過し、2番線に入線していた21:32発の新快速野洲行きに乗車する。膳所駅以外に停車し田舎駅には21:44に到着。平日ならば21:50のバスがあるのだが、土日祝日は22:10発迄なく、おまけにその便が最終バスとなる。別に次の電車でも間に合ったのだが、タバコの購入、そして一服タイムを取るためであった。ほぼ通勤時と同じパターンでファミリーマート石山駅前店で飲み物とタバコを購入し、数件隣の喫煙スペースで一服する。考えれば那覇空港で一服してから4時間半ほど禁煙していた計算になる。ヘビースモーカーと思われることも多いのだが、仕事の時も出勤と退勤時にこの喫煙スペースを利用すれば勤務時間中はタバコには手を付けない。店敷地内禁煙命令が昨年7月に発せられたこともあるのだが、別に未成年じゃないので隠れてまで吸う気はない。また8時間の禁煙がいつまで続けられるかと考えたこともその理由かも知れない。気が付けばもう1年、このままやめられそうにも思ったりもするが、ヘタレには禁煙する覚悟がない。そこは自分に甘くの精神で1年間やって来た次第である。そんな余計なことを考えているうちに折り返しのバスがやって来た。バスの本数が減ったこともあり、この終バスは意外に混雑していることもあるためバス停へと向かう。いつもと変わらぬ乗車口後ろの席に座り一路ド田舎マイタウンを目指す。22:24ド田舎バス停着後、今回の旅最後の〝バス停写真〟を撮って自宅へと向かう。22:30、無事に自宅に到着。旅行最終日にやっと梅雨明けした沖縄だったが、にも拘らず肌が露出している部分は真っ黒になった。体力の消耗も自覚している。せめて戦後80年の式典までは参加したいと考えてはいるのだが、体力的に可能なのだろうか?そんな一抹の不安を感じつつ6回目の慰霊の日を過ごした私であった。<br /><br />  《終わり》

《2023.June》3年ぶりのTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その五~来年に続く旅編~

20いいね!

2023/06/24 - 2023/06/24

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目覚ましの音で目が覚める。4年ぶりとなった沖縄の旅も最終日を迎えた。天気は極めて良い。今日も暑くなりそうな感じがする。いつものように朝食を頂く。同宿の家族連れは早速海へと行ったそうだ。若いということが羨ましいと思ってしまった私であった。

今日は土曜日ということもあり、旅行貯金はできない。なので時間に追い捲られることなくドライブしようと思う。荷物を先に送ろうと考えていたのだが、結局バックに被せる袋が購入出来なかったために持ち運ぶこととなったため、今日使わない物やお土産等をバックに詰め、リュックだけで動けるようにする。ほぼほぼフリータイムの一日なので、チェックアウト時間を見計らって出発する。ホストファミリーに手を振られながらこちらも視界から消えるまで手を振り続けるといった例年同様の見送りを受けながらみん宿ヤポネシアを後にした。

大度の交差点を左折して一旦那覇方面へと走る。向かった先はファミリーマート糸満米須店である。飲み物を飲み、タバコをふかしながらコースを決めることが常の場所ではあるが、四年ぶりに訪れるとマイタバコの取扱が終わっていた。月日の流れを感じてしまった。

売っていないものは仕方がないので、諦めて移動することにした。向かった先は南の駅やえせ。昨日も来ている場所なのだが、今日は駅となりの具志頭歴史民俗資料館を訪れるためである。元々は具志頭村の歴史や民俗を紹介している資料館なのであるが、現在は戦跡発掘により出土した遺物の展示が期間限定で行われている。そういった情報は耳に入ってくることも稀なのであるが、昨日にガイドして頂いた松永さんも出展に関わっていることを聞き、立ち寄ることにした。掘り出されたままの遺物が来館者に無言でなにかを語りかけているような不思議な感覚に駆られた私であった。

資料館を出て南の駅やえせに停めてある車に戻って来た。別に無断駐車ではなく、資料館の駐車場が狭いのでなるべく南の駅やえせの駐車場を利用して欲しいと書かれていたためである。国道507号線を走りまず立ち寄ったのはローソン白川小学校前店である。勿論第一の目的はタバコの購入だが、こちらにも置いてはいなかった。次に立ち寄ったセブンイレブン豊見城公園前店でやっとお目当てのタバコを見つけて二箱購入することが出来た。

タバコを手に入れ次の目的地を目指す。旧陸軍第24師団第二野戦病院壕跡である。その前に旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑に立ち寄るのだが、以前は旧豊見城城跡公園の敷地内にある御嶽を目指して行った。城跡公園としては既に閉園してはいたが、御嶽に参ることは認められていたようで比較的すぐに場所を見つけられたように記憶している。しかしその後空手会館が作られ、園内の様子も少し変わった。また前回訪れた際は御嶽に通ずる道程が地図に記載されていたが、それもなくなっていた。仕方がないのでgoogleナビに従って公園内の狭い道をゆっくりと走るが良くわからず、車を停めては周辺を探すということを数回行い、やっとの思いでたどり着いた。

再訪となる旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑は、戦後学徒を含む野戦病院スタッフの手によって昭和57(1982)年に建立された。中心となったのは軍医士官として従軍した島尾ニ氏である。戦後医局に戻られた島尾氏は、この陸軍病院での様子を忘れることなく生きて来られ、合祀碑の建立に尽力されたが、碑の完成を待たず亡くなっている。上官である小池勇助軍医少佐が患者の始末を命令するも島尾軍医は従わなかったことは生存者の口から伝えられている史実である。本来ならば上官の命令は絶対だが、この命令違反に対し、小池軍医も咎めることはなかったという。医者としての気持ちにお二人共違いはなかったためであろう。その後司令部の南下と共に陸軍病院も同行。糸洲の壕で学徒や病院職員に対し解散命令を出した後、小池軍医は自決している。

陸軍病院関係者からすれば思い出そのものの合祀碑であるが、豊見城城址公園の閉鎖後は非公式に慰霊の日に追悼式をすることだけしか出来なかったようだ。私自身も偶々慰霊の日だったために入れたようだ。しかし病院壕は朽ち果てており、自然に返って行くものだと確信していた。しかし最近壕に至る歩道と入口が整備され、中には入れないものの入口には由来碑が設けられるなど、遺構を知るレベルにはなったようだ。その姿を確認すべく本日訪れた訳だが、改善点はあれど朽ち果てるままの壕ではなくなっていた。内部は落盤等もあり、すぐには開放する訳にもいかないようだが、戦跡の一つとして後世に伝えていけるものになることを願うのみだ。合祀碑と野戦病院壕、どちらにも手を合わせて犠牲者の冥福を祈り、野戦病院壕を後にすることにした。

那覇市に入り泊へと向かう。元は崇元寺町と呼ばれた界隈であるが、現在は泊となっている。ここを訪れたのは沖縄戦に動員された“梯梧学徒隊”を組織した私立沖縄昭和高等女学校の跡地碑があることを知ったためである。googleナビの指し示す場所がわからず何度も“ここ”というところを行き過ぎながら、やっと到着することができた。安里川沿いの狭い道に面したマンションの前に“私立沖縄昭和高等女学校跡”の碑は建立されていた。元々この辺りは崇元寺があり、その近隣に昭和高女が開校したという。山梨県出身の教育者である八巻太一が定年退職後に私財を投じて沖縄の女子学生の商業他実務を学ぶ学校として昭和7(1932)年に創立した学校である。沖縄の高等女学校の中で最も新しい学校であったが、沖縄戦に於いて学徒隊として従軍し。学徒看護隊要員として陸軍病院野戦病院壕を転々とした。戦争末期に出された解散命令後も含め、動員学徒の内9名が犠牲となり、彼女達の学び舎も砲火により煤塵に帰し、そのまま廃校となった。

昭和高等女学校学徒隊は、戦後校章にあった“梯梧”の花から“梯梧学徒隊”と呼ばれるようになった。戦争で犠牲となった学校関係者を祀る“梯梧之塔”は当初学校跡地に建立されたが、後に多くの犠牲者を出した糸満市米須の場所に移設された今日に至っている。私自身梯梧之塔は幾度となく訪れてはいるが、学校跡地にはたどり着かないまま時間切れしてしまい、訪れることが出来ないままとなっていた。偶々学校跡地の碑の場所を記したものを見つけ、今日の訪問に漕ぎ着けられたのであった。学校跡地といえばそれなりの広場に建立されていると思っていたのだが、私立沖縄昭和高等女学校跡地はその“跡地碑”があるだけの場所であった。安里川と川沿いに建てられたマンションの隙間に建立された記念碑は、正にこの場所界隈に学校があったことを示しているだけに過ぎない。残念ながら往時を偲ぶものは碑に埋め込まれた写真製版のプレートだけであることからも流石にここを学校跡地として戦跡にするようなものでもない。既に再開発が行われた場所故仕方がないと言ってしまえば終わりである。学友を亡くした上に母校も焼失した挙句廃校となってしまった史実を受け入れなければならなかった学徒隊の生き残りのメンバーからすればやるせない気持ちだったことは容易く想像できよう。学友が亡くなった場所に移設された“梯梧之塔”。しかしすぐ隣のひめゆりの塔との“知名度”の差は訪れる者の数を見れば明らかであろう。私自身は偶々慰霊の日に梯梧之塔を訪れた際に慰霊祭を終えたスタッフの方のご厚意でお線香を上げさせて頂いた経験がある。その時に改めて感じたことは、知名度の差はあれど、慰霊する心は失われていないという確信であった。残念ながら梯梧之塔・私立沖縄昭和高等女学校についての情報は誤って記載されているものもあり、私のように所縁の場所を探し歩く者からすれば“ある”と書かれているにも関わらず見つけることができない事実に違和感すら感じてしまう残念さが散見する。未だ崇元寺跡に旧梯梧之塔があるというのは間違いでしかない。人によって感じ方の違いはあると思うが、そういった情報は“正しい”ものだけを後世に伝えて行くべきではと切に思うのは私だけであろうか?

そんな風に感じながらも学校跡地の記念碑をぼんやり眺め、路駐した車に戻り出発する。ナビが示す通り走って行き、到着したのは那覇市立大道小学校である。小学校校庭角にある“野外彫刻公園”という小さな場所に2体の少女と由来書が刻まれた本の形をしたブロンズ像がひっそりと佇んでいる。現在の那覇市立大道小学校は戦前戦中には沖縄師範女子部の付属だった歴史がある。そんな流れで平成14(2002)年にこの地に野外彫刻公園が作られることとなった。沖縄女子師範代用附属小学校として大道尋常高等小学校が開校したのは昭和9(1934)年4月のこと。現在では往時を偲ぶものは残ってはいないが、栄町商店街付近までの広大な敷地を有する沖縄師範女子部であったという。校地は姉妹校である沖縄県立第一高等女学校と共用しており、沖縄の将来を担う子供達への“教育者”の育成場として“文教地区”を構成していた。沖縄戦の戦火により女子師範・一高女とも昭和20(1945)年3月に灰燼と化し、戦後復興されることなく廃校となった。またこの二校の女子生徒が徴兵され学徒隊“ひめゆり学徒看護隊”を結成し沖縄戦に従軍。教師・学徒240名のうち136名が戦死した史実は、沖縄を訪れる多くの旅行者が立ち寄る“ひめゆり平和祈念館”で記されており、知る者も多いことである。

往時と同じ場所に大道小学校は建てられているが、一高女・師範女子部が“存在した”ことを知る景色は全く残ってはいない。戦後の再開発に於いて遺構を残さない方向で進んだことも記されている。戦跡を残すことは必要なことではあれど、戦後復興の妨げになるからと言われてしまえば部外者には返す言葉がない。ただひめゆりの塔同様に両校の“生徒と学校”の歴史を今に伝えるものとしては同等なものだと私には思えてならない。戦跡巡りと題するものにはこの“野外彫刻公園”も必ず紹介して貰いたいと切に願う私であった。

この界隈は駐車場らしきものがないのか少ないために路駐をせざるを得ない。10分程の滞在で車へと戻り出発する。那覇市街を外れ宜野湾市へと向かう。嘉数高台公園脇を通り、数年前に探した〝ぎのわんおもと園〟を目指す。とは言っても老健施設に向かう訳ではない。建物隣にある2つの慰霊碑を再訪するためである。道路から階段を下りて行った場所にその慰霊碑は建立されている。独立混成第45旅団独立歩兵第第272歩兵大隊、と第62師団歩兵第64旅団独立歩兵第23大隊のそれぞれ戦没者を祀る〝下田部隊慰霊碑〟と〝捧英魂(ほうえいこん)碑〟である。前者は610柱、後者は不明とされているものの1,700柱を祀る慰霊碑として平成2(1990)年7月、昭和41(1966)年3月にそれぞれ建立されている。建立者も〝下田部隊生存者有志一同〟と〝石部隊生存者〟の建立と碑に刻まれてはいるのだが、沖縄県の調査によるとどちらも管理者不明という扱いを受けている。どちらの部隊も沖縄戦に於ける激戦のひとつである〝嘉数の戦い〟で米軍を迎え撃っている。しかし火力の歴然とした差に犠牲者を増やして行く。この辺りは激戦区故に生存者が少なく、明確な玉砕場所が不明であることは前回の訪問時に記述した。実際に下田部隊は〝嘉数の戦い〟が行われた場所で、第23大隊は第13大隊の増援部隊として配属されたが、嘉数での戦いの末2個中隊を現地に残して1個小隊規模で後退したものの、5月の〝沢岻の戦い〟に於いてやはり玉砕したとされている。どちらの部隊にも僅かな生存者がおり、その方々の手によって慰霊碑は建立されたようだ。しかしその後建立者達との連絡が取れなくなったという理由で〝管理者不明〟という扱いになってしまい現在に至っている。沖縄戦に於いて20万もの人命が失われたことは今更言うまでもないことであろう。戦没者の家族や戦友、学校の同窓生からすれば亡くなった方への慰霊の念というものはあって当然のことであろう。ただ現実には〝墓〟の扱いと同様に、墓の所有者と連絡が取れず、墓の管理費が徴収できない場合は、一定の期間告知をした上で申し出がなければ〝無縁墓〟として更地にされてしまうのが現実である。実際に沖縄県が定期的に慰霊碑の一覧を発表していることは、逆を返せば土地の利用に対する〝税金〟を徴収できないことに対する〝告知〟であると捉えることができるような内容である。沖縄の場合、戦後棒で線を引いたところが〝所有地〟をされたなどと言われていることを踏まえれば、借地料か固定資産税を払ってくれと言いたいのかも知れない。本年令和5(2023)年で戦後78年を迎えた。日本の戦後復興は目を見張るものがあるとよく言われるが、その反面こういった〝現実〟にも突き当たっていることを改めて感じた慰霊碑訪問であった。

問題提起をしても私自身には解決できる手腕はない。もやもやした気持ちを感じながら車に戻り出発する。帰路の飛行機の時間を踏まえるとあと一ケ所位は回れそうだと考え、嘉数高台公園を訪れることにした。

記憶によればここを訪れるのは4回目になると思う。2回は夜だったが昼間に展望台から駐機するオスプレイを見て、沖縄の終わらない戦争を感じたことがあった。またこの嘉数高台公園自体沖縄返還前に作られた〝時代物〟であったが故に特に夜間では恐怖感を感じる建物であり施設であると思っていた。だがナビに案内されて訪れた嘉数高台公園は全くの〝別物〟に変貌していた。拡張された駐車場、そして改宗されたトイレ等草臥れた感を感じさせない都市公園に成り代わっていた。移設された〝弾痕の残る壁〟はそのままのようだったが、イオンの出資で講演の回収が行われたらしいことが書かれていた。車を停めて展望台に繋がる〝大階段〟の下に立つ。今回は休憩だけの予定だったので、展望台へと行くかどうかを躊躇したが、ほかにも変わっているものがあるならば…という思いで会談にチャレンジする。夏の暑さ到来の沖縄の地でカンカン照りの太陽の元階段を上ることは一苦労であったが、何とか登りきることができた。展望台下のトイレも改宗されバリアブル化されていたものの、足の不自由な方がここまで登って来られる訳はない…と思ったのも束の間、来ていたグループがトイレの前をすっと歩き、見えなくなっている。よく見ると駐車場が設けられていた。どうやら高台公園の脇から車で展望台下まで来ることができるようになったらしい。展望台に上るには相変わらず階段を上らねばならないが、広場までは来られるので、京都の塔・嘉数の塔等の慰霊碑には訪れることができるようになった。陣地壕には階段を下りる必要があるが、トーチカ跡へも足元に気を付ければ訪れることは可能と思われる。この改築は昨年令和4(2022)年6月に終了したもので、現在展望台も改築に入っており、令和6(2024)年3月まで(予定)で利用が出来なくなっている。大きく変わった嘉数高台公園、それを見る限り展望台も大きく変わってくれそうだ。沖縄戦に於いて日米両軍が死力を尽くして戦った〝戦場〟であることに変わりはないために〝観光客受け〟するような話は慎まなければならないことなのかも知れない。しかし訪れたくても訪れることが出来なかった嘉数高台公園が変わり、誰でも手軽に訪れることが出来る場所となれば、写真等だけではなく自分の〝目〟で過去・現在そして未来の沖縄を見て感じることが出来れば正しく生きた教材に成りうると私には思える。今回は時間の都合で慰霊碑までは行かなかったが、来年もこの時期に沖縄に来ることが出来るのであれば、必ず訪れる場所の候補として嘉数高台公園を挙げておく…そんな気持ちになった私であった。

そろそろ那覇へと戻る時間が近付いてきた。名残惜しいところもあるがここは現実的判断をする。嘉数高台公園駐車場を出発し、ユウ・アイレンタカー空港店まで約15km、時間にして30分程度の距離ではあるのだが、通勤にはまだ早い時刻でも国道330号線は那覇市内に近付くに従って混雑の度合いが増して来る。渋滞しているためにチンタラと走るしかないのであるが、途中で今回の旅路3回目の交通事故現場に遭遇する。前方の確認不足による追突のようだが、普段から車に乗っていない者にはレンタカー利用を勧めないと言われる理由を垣間見たように思う。因みにパトカーとはいえ〝交通規則〟を守っていない輩も多いので、例えぶつかられても自分に非がないことにはならないことを注意して貰いたい。様々な要素から生み出される渋滞の道路を通常の所要時間の倍の時間をかけて、先ずはレンタカー指定給油所のコスモサザンウィング高良セルフSSで給油する。ここ数年〝乗るだけ〟プランのレンタカーを利用していたために、沖縄のガソリン価格に関しては無頓着であった。しかし全国的にレンタカー代金そのものが高騰しており、乗るだけプランだと4年前の凡そ2倍の金額を支払わなければならない。貧乏旅行に3万円のレンタカー代はキツイので、敢えて〝フル補償〟に拘って手配したのがユウ・アイレンタカーだった訳である。またガソリン価格も高騰しており、少しでも安いところで給油することは〝当たり前〟のこととなっている。セコいと言われようが払わなくても良いお金は私自身払わない主義である。別に沖縄に限らず自宅から車で走った際でも、基本道中の格安ガソリンスタンドを候補に挙げておき、実際に利用することも習慣付いた。多くの場合特別な日を除けば都道府県でさほど大きな価格差がないのであるが、ここ沖縄は注意が必要である。那覇空港から車で5km以内の距離にあるレンタカー会社は必ず〝指定ガソリンスタンド〟を指定している。勿論満タン貸しの満タン返しの還俗による理由なのであるが、その指定されたガソリンスタンドの給油価格は、フリーで給油すると全国平均よりかなり割高となっている。一昨日利用した宜野座のJAのSSは151円/L、昨日のやはりJAの東風平SSで156円/L、そしてここでは175円/Lなのである。お金より〝手間をかけたくない〟方には必要のない情報だが、基本那覇空港近くのレンタカー会社指定の給油所は高いと思って間違いはない。別に〝ランキング上位〟のSSを探して行くまでせずとも、開いていたSSで給油すれば良いのである。私と同じ考えを持つ方は騙されたと思って試して欲しい。お土産がひとつ余分に買えるのだから(笑)…。

給油を済ませ本当のラストランに挑む。いつもならば颯爽と走って返車するのだが、渋滞には付き合わなければならない。1.4kmの距離を10分かけてユウ・アイレンタカー空港店に到着し、旅の友N-ONEクンとお別れする。荷物を下ろして返車の手続きを終わらせたところで笑い話がひとつ、空港への送迎車が私の帰着に気が付かず発車しようとしたのであった。さすがに行かせてしまうと手間が増えると他のスタッフが慌てて出発を止めてくれたお陰ですぐに乗ることが出来た。混雑していなければ次便に回しても良いのかも知れないが、空港からも、空港へも渋滞している状況下で必要以上に待たせてしまい搭乗に間に合わない等の話になると厄介だからである。基本フライトの何時間前ということを取り決めて貸し出し・借り受けしている以上、時間を守らなかった等の過失がなければ〝債務不履行〟はレンタカー会社の問題となり、予想できる渋滞を理由に責任回避はできないという見解が一般的だと聞いた。実際に支払いをした案件もあるそうだが、ことの発端はレンタカー会社が乱立し人や車も不足している状況で営業した挙句に、送迎が出来ずに飛行機に盛り遅れたことがあったらしい。確かに怪しいレンタカー会社も増えては来ているので、最終的な判断は自己責任だとしても口コミ等を参考にしなければならないのかな…とふと思った私であった。

16:49にレンタカー待合所に到着。この辺りは小規模のレンタカー会社の特徴であり、それなりに大きな会社だと3階の出発ロビーに送ってくれるものだ。という訳で文句を言う訳にも行かず3階迄エスカレーターで上がってチャックインロビーに向かう。いつもならば〝もう終わりか~〟のため息しかない帰りの那覇空港ではあるが、今回に限ってはもうひとつ〝お楽しみ〟が残っている。因みに今日のJL2088大阪伊丹行きはA350-900のトリプルクラスでの運航となっている。エコノミーは若干空きはあるようだが、ファーストクラス・クラスJとも満席と表示されていた。いつもならば左のカウンターに進み荷物を預け、前方席のリクエストをするのだが、今回は右側のカウンターへと進む。ファーストクラス(??>?<?)。??。私の辞書にはない言葉ではあるが、今回に限って付け加える。なんとファーストクラスで大阪に向かうのである。私のような中の下ランクの庶民には、エコノミーをクラスJにアップグレードすることが旅の贅沢である。今回もそうなるはずだったのだが、JMBのシステム海底からおかしな表示に遭遇することが増えた。元来はITM-OKAは5,000マイルで行けたと思うのだが、今回検索すると16,000マイルと表示されていた。これが改悪か…と思ったのも束の間22,000マイルのクラスJの下にファーストクラス16,000マイルと表示されている。こんなチャンスはな~~~いと反射的に席を押さえる。勿論エコノミーが5,000マイルで利用できたならばありえないことなのだが、システム改悪が私を突き落としたのである。という経緯で帰りは1Dのファーストクラスに搭乗する。

そんなこんなの帰路だったため少し余裕を持って搭乗しようと保安検査場へと向かう。いつも通りカバンにすべてを突っ込んでゲートを無事通過する。26番搭乗口まで行って言われたことを思い出し、ブルースカイの店舗に向かう。御翔印を頼まれたのだが、行けと言われた場所が間違っており、域に時間ロスをしてしまった。そもそも那覇空港1階にブルースカイはない。取り合えずブルースカイを確認し、御翔印を2枚購入する。私自身ため込むと捨てられない性分のため、この類のものは購入しないし集めない。データを保存し、必要な際に眺めるだけである。そんな性格なのであまり気が進まない頼まれ物だったがまあ定期的に沖縄に行けている自分の立場を思い手に入れた。

用事も済ませたので後は搭乗だけだ。17:46、搭乗のアナウンスが入る。勿論ファーストクラスは一番先。誰もいないボーディングブリッジをいの一番に進む姿は正に貧乏な田舎者。まあそれでも良い!次回はないのであるから(笑)。そして搭乗、真ん中2列の左側〝1D〟席に陣取る。パーソナルモニターもだが、何もかもが珍しく思えあちこちを弄ってしまう。ただUSBポートが腰のあたりにあることはわからずに素知らぬ顔をして探したけれど…。乗客の搭乗が終わり出発待ちをしている時間にCAさんが2人も挨拶に来られ恐縮する。当たり前なのかも知れないが、乗り慣れていないとそう思うものであろう。因みにJAC線を利用した時にSAAB240Bの非常口座席をリクエストし、行きも帰りもCAさんに挨拶をされたことは過去にはある(笑)。勿論意味が違うが…。

そうこうしているうちにドアが閉まりプッシュバックの後タキシングが始まる。混雑する離発着で混雑する時間帯故待ち時間はあったものの、さほど気にならないまま離陸滑走が始まる。まだ陽の高い那覇を後にして、JL2088は一路大阪へと向けて飛んで行った。

暫く時間を置いて機内食が出てくる。那覇発18:00のこの便は機内食提供対象便であることは手配後に知った。機内食って…すぐには思い出せない程久しぶり。多分平成19(2007)年のバリからの帰路以来だと思う。ただふと思ったのだがせっかくならば〝シャンパン〟とか言えば格好も良いのだろうが、残念なことに私は下戸。という訳でアイスコーヒーをオーダーする。すべてのことで私自身がファーストクラスに〝向いていない客〟だと感じる。ただエコノミーと比べると格段に広いシート故に適度に体を動かすことが出来ると時間の経つのはホントあっという間。定刻19:58、無事伊丹空港に到着。2時間弱のファーストクラスの旅はあっけなく終わったのであった。

既に出発便がない伊丹空港は閑散としていた。そんな中ファーストクラスの座席位置の利を生かし、ドアが開いたと同時に降機する。そしてバゲッジのピックアップだがこれもクレームタグに〝First class〟と書かれたオレンジ色のタグが付き、ピンク色のかばんはサッと取り上げることが出来た。昨今の旅路では〝終バス〟の時刻が急ぐ度合いとなっており、6月24日土曜日は22:10田舎駅発が目安となる。荷物を抱えて大阪空港リムジンバスのバス停へと急ぎ、列に並ぶ。20:30発のバスは四条大宮行きなので、若干乗客が多めのようだ。リムジンバスの荷物持ち込みは数年前に膝の上に乗せたまま京都駅まで耐えたという〝苦い体験〟以降、必ずトランクに乗せて貰うことにしている。20:25にバスが入線し、乗車する。Pitapa利用なので乗車時に受信機に翳すだけで終わりとなる。定刻になったが出発しない。珍しいな~と思っていたら、乗務員氏がトイレに行っており帰りを待って出発するとのこと。1分の遅れで出発したが、乗務員氏は乗車時の改札もやらなければならないために、すべての乗客が乗り終えないとトイレにも行けないことを改めて知る。運転士さんも大変だ!そうして大阪伊丹空港を出発した阪急観光オペレーションの伊丹空港リムジンバスは、中国道通行止めのため阪神高速を迂回して名神高速へと入り、京都南ICで一般道へと下りた後京都駅へと向かって行くのであった。

京都駅八条口には21:18に少し早着する形で無事到着する。荷物を受け取り京都駅地下東口を目指す。このあたりは記録を残したいこともあり、時間さえ許せば切符を購入したいのだが、予定より早い電車に乗ろうとPitapaで改札を通過し、2番線に入線していた21:32発の新快速野洲行きに乗車する。膳所駅以外に停車し田舎駅には21:44に到着。平日ならば21:50のバスがあるのだが、土日祝日は22:10発迄なく、おまけにその便が最終バスとなる。別に次の電車でも間に合ったのだが、タバコの購入、そして一服タイムを取るためであった。ほぼ通勤時と同じパターンでファミリーマート石山駅前店で飲み物とタバコを購入し、数件隣の喫煙スペースで一服する。考えれば那覇空港で一服してから4時間半ほど禁煙していた計算になる。ヘビースモーカーと思われることも多いのだが、仕事の時も出勤と退勤時にこの喫煙スペースを利用すれば勤務時間中はタバコには手を付けない。店敷地内禁煙命令が昨年7月に発せられたこともあるのだが、別に未成年じゃないので隠れてまで吸う気はない。また8時間の禁煙がいつまで続けられるかと考えたこともその理由かも知れない。気が付けばもう1年、このままやめられそうにも思ったりもするが、ヘタレには禁煙する覚悟がない。そこは自分に甘くの精神で1年間やって来た次第である。そんな余計なことを考えているうちに折り返しのバスがやって来た。バスの本数が減ったこともあり、この終バスは意外に混雑していることもあるためバス停へと向かう。いつもと変わらぬ乗車口後ろの席に座り一路ド田舎マイタウンを目指す。22:24ド田舎バス停着後、今回の旅最後の〝バス停写真〟を撮って自宅へと向かう。22:30、無事に自宅に到着。旅行最終日にやっと梅雨明けした沖縄だったが、にも拘らず肌が露出している部分は真っ黒になった。体力の消耗も自覚している。せめて戦後80年の式典までは参加したいと考えてはいるのだが、体力的に可能なのだろうか?そんな一抹の不安を感じつつ6回目の慰霊の日を過ごした私であった。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JALグループ ANAグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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