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《2023.June》三年ぶりのTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その壱~アプローチ編~<br /><br />昭和20(1945)年6月23日黎明の刻、沖縄島南部の摩文仁の丘に於いて沖縄守備第32軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将以下幕僚が自決したことにより日本軍の組織的抵抗が終了した。自決の日は6月22日という説もあるが、現在では6月23日説が取られており、沖縄戦終戦日として沖縄慰霊の日となっており、平和祈念公園にて沖縄戦全戦没者追悼式が行われている。<br /><br />追悼式という名称であるため、沖縄戦に於ける全戦没者の御霊を慰霊するのが式の本筋だと思うのだが、追悼式に集まる多くの人々に対し、自前の平和論議を語り参列者に不愉快な思いをさせること。また来賓の安全を第一にした外部から式典会場を遮断する主催者や警官隊が考える空白スペースの設置等肝心な慰霊の気持ちはどこへやら。そんな本末転倒な式典になりつつある。私自身はじめて慰霊の日に来沖するまでは式典のことを知らなかったのが事実ではあるが、テレビで放映されるものが式典だと誤解している者も多い。あれは式典の一部分を切り取った物に過ぎないことは聞かれたら答えるが、それより慰霊の日そのものが知られていないのが現実だ。私自身が追悼式に参列するには連休を取らなくてはならない。しかし日にちを代えろなどという心ないことを言われることもある。<br /><br />沖縄慰霊の日の知名度が低いことから〝終戦日〟を変えるべきという意見も出ている。8月15日は昭和天皇の玉音放送が流された日ではあるが、この日を以て終戦とはなっていないことが昨今良く論議されている。ソ連の参戦も然りではあるが、実際に降伏調印文書の調印がなされた時期を考えると、東京湾上の戦艦ミズーリでは9月2日、沖縄において現在の嘉手納空軍基地内(旧越来村森根)に於いては9月7日と終戦日としている〝日にち〟がズレているのが史実である。<br /><br />沖縄戦に於ける降伏調印日である9月7日は会場となった現沖縄市では沖縄市民平和の日として条例に於ける休日となっている。6月23日が沖縄県条例により休日になっていることも島外では知らない者も多く、沖縄市民平和の日に至ってはなに?と言われることが当たり前となっているようだ。戦没者遺族やその住所地、また戦死された場所によって人それぞれの終戦の日があっても当たり前だが、令和の時代に戦争を知る戦没者遺族の数の減少は否めない事実である。昨今では遺族会の行事参加できる関係が曾孫まで可能になっていることからもわかるように、戦争を知らない世代が戦没者遺族と〝代替わり〟しているのである。具体的な背景も知らずに複数の終戦の日を語られると混乱すると言っても過言ではない。<br /><br />沖縄を内地と一括りにするからおかしくなるのかも知れないが、原爆記念日等悪い意味での記念日はその日のその時間で間違いはないものの、終戦記念日となると背景の違いもあることから解釈によって複数の日が充てられる結果になるのであろう。歴史は変わらないものだと思っていたが、そうでもない。鎌倉幕府は1192年から1185年に変わって今は理解されている。そのような背景を考えれば最後の降伏調印がなされた日こそ本当の終戦の日と言えるのではと思うように私自身もなってきた。<br /><br />戦後70年~74年の追悼式に参列し、いつまでこの日を沖縄で過ごせると考えていた矢先のコロナ禍によるロックダウン。結果75年~77年は内地で過ごすこととなった。本年令和5(2023)年も改善の様子を見て見切り発車をすることにしたまでは良かったが、出発が近付くに連れて沖縄でのコロナ感染者が爆発的に増えていることを知ることとなった。中止も考えたが既に手配した分でチャージが発生するものもあり、また金額的には損はなくとも私のために部屋を空けてくれていた定宿のオーナーさんに申し訳ない気持ちもあった。考えても答えは出ないことから、コロナ禍と言われるようになってからここで初めて暴走モードに入った。外出を控えても罹患はする。しかし私はどこへ行くにも一人である。下戸なので酒を飲むこともない。ならば自己責任で行ってしまえ~と思うようになり、今回の旅の出発日を迎えた次第である。<br /><br />今回の沖縄旅行にあたり6月21日から24日の3泊4日の行程に対し6月20日から5連休を取った。例年ならば旅行日数=連休日数となるのだが、店を異動して21:00迄の営業に変わった。旅行前日は早上がりが出来た以前とは違い、仕事=21:00迄が変更できない。というより早上がりに変えられない現実がある。スタッフ数はいても日数や時間制限があるためそうなってしまう。仕方がないので前日に休みを当てて用意と休憩に当てる手筈でいたのだが、これまたバカな自動作成シフトが6月14日から19日までの6連勤を作り上げた。法的な問題はないのだが15日締めのシフト故に前月度の勤務日数は加味されないことが発覚。その犠牲者第一号になったのが私であった。<br /><br />という経緯から20日はほぼぐったりとして早寝をする。翌21日は朝2番のバスに乗車する。こういう時間の際にははるに送って貰うのだが、意地を張って沖縄行きを決めた手前頼めない。曇ってはいるがなんとか天気は保ちそうな感じの南淡海のど田舎バス停を出発する。<br /><br />田舎駅を経て京都駅に到着。八条口から阪急観光バスのオペレーションとなった大阪伊丹空港リムジンバスに乗車し一路伊丹を目指す。中国自動車道の一斉工事の影響で豊中ICから阪神高速を走るルートを取る。遅れが生じるかもというアナウンスはあったが、寧ろ若干早着するぐらいで無事に到着した。<br /><br />伊丹空港はJAL利用が圧倒的に多いため、北ターミナルを利用するためにバスも終点まで乗ることがほとんどだ。しかし今回に限っては出発時刻の関係でANAを利用する。よって南ターミナルの利用のために最後まで乗らないのだが習慣とは怖いもので全日空ご利用の方…というアナウンスで我に返って下車した次第である。<br /><br />空港に到着してみてギリギリJALを利用できたかも…と思いながら南ターミナルで搭乗手続きをする。UAマイレージで全日空を利用するには、UAマイレージのルールで発券されることは前回知った。今回も前回同様那覇ダイレクト便ではない。B738で運航されるANA1635はMYJ、つまり松山行きである。松山はトランジットだけだが、伊丹から松山に飛んできた機材がANA1883としてOKA、つまり那覇に向かう。1行程でツーセクター利用となるのは、前回の那覇からの帰りに仙台を経由して伊丹に戻って来たことで体験済みである。座席もリクエストをかけてみると5Aで那覇まで利用できることとなった。<br /><br />気ばかり焦るがここまで来たら沖縄に到着できると安心する。しかし搭乗はバス&タラップだった。エコノミーの最前列のシートに陣取りベルトを締める。なにか雲行きが怪しくなって来た伊丹空港を定刻通りANA1635は松山に向かって離陸した。<br /><br />伊丹から松山迄は40分程のフライトだが、四国に近付くと雲が垂れ込める天候になってきた。機内でも揺れることが予想されるとのことでドリンクサービスはなくキャンディが配られた。改めてCAさんの仕事の大変さを知る。しまなみ海道を眼下に見ると間もなく松山。ここまではなんとか雨は降らなかったようだ。<br /><br />松山空港ではボーディングブリッジを利用する。一旦5Aシートから離れるが40分後にはまた戻って来る。ターミナルに入る際に見送りのCAさんから〝次のフライトでもお待ちしております〟と声がけを頂く。まあ珍しいルートのフライトを利用するものは私ぐらいなものなのであろうと苦笑する。<br /><br />トランジットだけならばそのまま待合に向かうだけだが、人の流れに流されて出てしまいそうになる。階段を降りたところでおかしいの気付き、グランドスタッフに聞いたのは正解だった。再び階段を上り待合へと案内される。出てしまっていれば面倒な事になっていたとちょっと焦った。<br /><br />ともかく無事待合に到着する。平日の地方空港なので空いているはずだが、隣の搭乗口が混雑しているようだ。次便はGK408成田行きのはずだがどうやら今年GKの松山就航10周年を迎えるようだ。GKスタッフの他愛媛のゆるキャラみきゃんも参加している。コロナ禍で乗客数が伸び悩む中、路線継続に尽くしたGKに対する県民の感謝の気持ちが溢れ出ている。今回の目的地ではない松山だが、立ち寄った価値はあった様に思えた一瞬であった。<br /><br />先発のGKは結構な搭乗客がいたようだが、私の乗るNH1883は閑散としている。地方からの観光ブームはまだまだなのかと考えさせられる景色であった。本来ならばエコノミーの前方席は一番後の搭乗になるはずだが、然程待つことなく搭乗できた。改めて5Aに陣取り準備をする。窓の外は雨が遂に降ってきた。機内アナウンスでも雨雲を避けながら飛ぶため到着時間の遅れや機内の揺れが生じる可能性がある旨がコールされていた。実際には鹿児島上空辺りまでは揺れもあったが、その後は安定したフライトだった。ドリンクサービスも提供され、一息つくともう沖縄上空だ。着陸待ちはあったものの時間通りに到着する。雲は立ち込めてはいるものの雨は降っていなかったためだろうか?那覇でもタラップ&バスでの降機であった。<br /><br />4年ぶりの那覇は蒸し暑かった。LCC利用時には当たり前のタラップ&バスだが、ANA便でそうなるとは考えてはいなかった。という理由でいつもより早く沖縄の暑さに触れたのであった(笑)。到着ロビーを経てバゲッジピックアップへと向かう。荷物は一番に出てきたようだ。伊丹から松山経由で那覇に向かう客は私ぐらいだったことが示された瞬間である。<br /><br />荷物を受け取り国内線ターミナルを通過して喫煙コーナーへと向かう。今回も梅雨明けしていない沖縄なので湿気が凄い。一服を終えるとレンタカー待合へと向かい、今回利用するユウ・アイレンタカーの待合場所で名前を名乗り事前手続きを行う。マイクロバス送迎はいつものことだが、空港よりも南側にあるレンタカーを利用したのは久しぶりなので渋滞していることにびっくりする。営業所に着けばフルコミブランは早いもの。最終給油のみ指定場所で入れてねと言うレベルだった。こうして14:17に旅の友となったN-ONEクンと共にレンタカー営業所を出発し沖縄旅を開始することとなる。<br /><br />いつもはガッツリ予定を組んでいるが、今年に限ってはかなり余裕を持って組んでいる、先ずはお年玉用の新札2,000円の入手のためにコザ信金開南支店に向かう。在庫は電話で確認済みだがどうやら意図が通じていなかったようで流通しているお札を渡される。新札両替機が故障しているとかで、迷惑を承知で新札が欲しい旨を伝えたら替えて頂く事ができた。もし私が沖縄に住むことがあるならば迷うことなくコザ信金をメインバンクにしようと思う。勿論実現する可能性は限りなく低いことではあるのだが…。<br /><br />そして第一の目的を完遂すると向かいの開南郵便局へと向かう。これは旅行貯金のためだが、これもはるを連れて沖縄に来る可能性が低いから私が代行しているようなものだ。郵便局で用事を済ませると車に戻り出発する。次に立ち寄ったのは那覇東郵便局。那覇市における集配局のひとつだが、本年9月に新設される樋川郵便局に郵便・貯金窓口を移設し、那覇東郵便局は郵便の集配とゆうゆう窓口のみになるらしいのこと。そのような理由から旅行貯金は来年できない郵便局となるためにラストチャンスであった。そんないつもの沖縄旅と違う体験をしながら各所を回る私であった。<br /><br />那覇市街を後にして沖縄自動車道那覇ICから高速走行をする。途中伊芸SAにて一息入れるが、昼間に訪れたのは初めてのことである。沖縄島東岸を一望できる場所はなかなかのものであった。また構造上逆走が多いことを示している逆走注意の看板があちらこちらに建てられていることも理解できる。認知機能に問題がなくとも、出入口が瞬時に分かり辛いことからもそういった案件があるのだろうか。最新の注意を払いながら元の道に戻り、終点の許田ICを目指して走って行く。<br /><br />沖縄自動車道終点の許田ICは一昔前迄この先一般道というような作りであった。接続する名護東バイパスへも一般道を経由しなければならなかったために混雑する場所としても有名であった。しかし現在では一般道の走行は残ってはいるものの信号が撤去されてスムーズに走れるようになっていた。目指す八重岳中腹へも数久田IC を利用した方が早いように見え、そのルートを走る予定だったが、バイパス入口で先行車両を抜こうとする所謂沖縄走りに邪魔をされ、車線変更ができなかったことからナビの指し示す国道58号線経由のルートを取らざるを得なくなってしまった。<br /><br />そんなこんなで沖縄県道71号線等を走り八重岳へと向かう。名護市から本部町に入り八重岳中腹にある三中学徒之碑を訪れた。先の大戦の末期沖縄戦に於いて学徒隊として駆り出された沖縄県立第三中学校学徒隊の戦没者を祀る慰霊碑である。伊江島や本部半島を守備していた独立混成第44旅団第二大隊(通称宇土支隊)に配属された少年隊は、部隊が早々に本部としていた八重岳を離れたために共に名護の多野岳に移動し、ゲリラ戦を戦う戦力となった。部隊自体の動きが不明なところが多く、はっきりとした内容は不明ではあるが通信隊や機雷を抱えて戦車に飛び込む特攻に従事したとされている。他の学徒隊の所属校同様戦後に廃校になったことから正確な戦死者数もわからないとされている。あくまで判明した犠牲者を祀っているものだと解釈してもらった方が良いだろう。すぐ近くには大隊本部壕や沖縄陸軍病院八重岳分院壕等があり、そちらは以前訪れたことはあるが、三中学徒之碑は見落としていた。沖縄県立第三高等女学校学徒からなるなごらん学徒隊と三中学徒隊であるが、戦後新生名護高校として共学となり再出発した関係で、この両校の学徒隊犠牲者を合祀した南燈慰霊之塔が名護高校の敷地内に建立されて現在に至っている。沖縄戦戦没者慰霊碑全てに言えることだが、同級生を含め戦没者家族も高齢化し、鬼籍に入ることで慰霊祭そのものが継続不可能となっているものも少なくはない。この三中学徒之碑も然りであるが、後身の名護高校の生徒が引き継いでいることを考えれば、慰霊は続いている事になる。賛否論があるのはわかるが、後世に学徒隊の存在を伝えて行くならば致し方ない決断だと思えてならない。この三中学徒之碑の後に再訪となる八重岳本部壕と陸軍病院八重岳分院跡も訪れたが、やはり史実を語る由来書が劣化して読めなくなっている現実を見れば私にはそう感じるのである。三中学徒之碑のように慰霊碑として建立すれば兎も角戦跡として残すにはあまりにも数があり過ぎることから、全てを網羅して維持をすることは行政でも不可能であろう。ならば関係する団体がその史実を語り継ぎ、後世に伝えて行くことを行政サイドで補助をするようにすれば立ち消えにはならないであろう。話題に上ることは少ないが、沖縄県下で建立者や管理者不明とされている慰霊碑等はかなりの数があるというのが現実である。建立した目的は勿論戦没者慰霊であるにしても、その維持管理者がいないとなると土地の占拠という問題が絡んでくるために、朽ちて崩壊の危険性が出てくると行政代執行の対象になる可能性が大きい。それだけの場所が戦地となり多くの戦没者を出した史実故に起こりうる問題である。中には不法占拠の対象物として撤去を暗に示している慰霊碑もある。史実を踏まえ今後の維持管理を考えなければならない時期に差しかかっているのは事実である。子や孫の世代に平和を維持することに異論はないが、かと言って史実をないものにしてしまえば、結局のところ史実を伝えるものを撤去して写真や動画等で説明したとしても、それがどこまで若年層の心に響くかは疑問である。確かにあまりにも多い戦跡や慰霊碑のすべてを残すことは不可能であろう。苦渋の選択になるだろうが遺さなければならない物を切り分けて行くことも必要だと私は感じるのであった。<br /><br />そんな思いを持ちながらも三中学徒之碑・八重岳本部壕跡・八重岳分院壕跡と巡り手を合わせて初日の戦跡巡りを終わらせることにした。<br /><br />その後は同じ本部町にあるよへなあじさい園に向かうために車を走らせた。<br /><br />  《続く》

《2023.June》三年ぶりのTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その壱~アプローチ編~

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《2023.June》三年ぶりのTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その壱~アプローチ編~

昭和20(1945)年6月23日黎明の刻、沖縄島南部の摩文仁の丘に於いて沖縄守備第32軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将以下幕僚が自決したことにより日本軍の組織的抵抗が終了した。自決の日は6月22日という説もあるが、現在では6月23日説が取られており、沖縄戦終戦日として沖縄慰霊の日となっており、平和祈念公園にて沖縄戦全戦没者追悼式が行われている。

追悼式という名称であるため、沖縄戦に於ける全戦没者の御霊を慰霊するのが式の本筋だと思うのだが、追悼式に集まる多くの人々に対し、自前の平和論議を語り参列者に不愉快な思いをさせること。また来賓の安全を第一にした外部から式典会場を遮断する主催者や警官隊が考える空白スペースの設置等肝心な慰霊の気持ちはどこへやら。そんな本末転倒な式典になりつつある。私自身はじめて慰霊の日に来沖するまでは式典のことを知らなかったのが事実ではあるが、テレビで放映されるものが式典だと誤解している者も多い。あれは式典の一部分を切り取った物に過ぎないことは聞かれたら答えるが、それより慰霊の日そのものが知られていないのが現実だ。私自身が追悼式に参列するには連休を取らなくてはならない。しかし日にちを代えろなどという心ないことを言われることもある。

沖縄慰霊の日の知名度が低いことから〝終戦日〟を変えるべきという意見も出ている。8月15日は昭和天皇の玉音放送が流された日ではあるが、この日を以て終戦とはなっていないことが昨今良く論議されている。ソ連の参戦も然りではあるが、実際に降伏調印文書の調印がなされた時期を考えると、東京湾上の戦艦ミズーリでは9月2日、沖縄において現在の嘉手納空軍基地内(旧越来村森根)に於いては9月7日と終戦日としている〝日にち〟がズレているのが史実である。

沖縄戦に於ける降伏調印日である9月7日は会場となった現沖縄市では沖縄市民平和の日として条例に於ける休日となっている。6月23日が沖縄県条例により休日になっていることも島外では知らない者も多く、沖縄市民平和の日に至ってはなに?と言われることが当たり前となっているようだ。戦没者遺族やその住所地、また戦死された場所によって人それぞれの終戦の日があっても当たり前だが、令和の時代に戦争を知る戦没者遺族の数の減少は否めない事実である。昨今では遺族会の行事参加できる関係が曾孫まで可能になっていることからもわかるように、戦争を知らない世代が戦没者遺族と〝代替わり〟しているのである。具体的な背景も知らずに複数の終戦の日を語られると混乱すると言っても過言ではない。

沖縄を内地と一括りにするからおかしくなるのかも知れないが、原爆記念日等悪い意味での記念日はその日のその時間で間違いはないものの、終戦記念日となると背景の違いもあることから解釈によって複数の日が充てられる結果になるのであろう。歴史は変わらないものだと思っていたが、そうでもない。鎌倉幕府は1192年から1185年に変わって今は理解されている。そのような背景を考えれば最後の降伏調印がなされた日こそ本当の終戦の日と言えるのではと思うように私自身もなってきた。

戦後70年~74年の追悼式に参列し、いつまでこの日を沖縄で過ごせると考えていた矢先のコロナ禍によるロックダウン。結果75年~77年は内地で過ごすこととなった。本年令和5(2023)年も改善の様子を見て見切り発車をすることにしたまでは良かったが、出発が近付くに連れて沖縄でのコロナ感染者が爆発的に増えていることを知ることとなった。中止も考えたが既に手配した分でチャージが発生するものもあり、また金額的には損はなくとも私のために部屋を空けてくれていた定宿のオーナーさんに申し訳ない気持ちもあった。考えても答えは出ないことから、コロナ禍と言われるようになってからここで初めて暴走モードに入った。外出を控えても罹患はする。しかし私はどこへ行くにも一人である。下戸なので酒を飲むこともない。ならば自己責任で行ってしまえ~と思うようになり、今回の旅の出発日を迎えた次第である。

今回の沖縄旅行にあたり6月21日から24日の3泊4日の行程に対し6月20日から5連休を取った。例年ならば旅行日数=連休日数となるのだが、店を異動して21:00迄の営業に変わった。旅行前日は早上がりが出来た以前とは違い、仕事=21:00迄が変更できない。というより早上がりに変えられない現実がある。スタッフ数はいても日数や時間制限があるためそうなってしまう。仕方がないので前日に休みを当てて用意と休憩に当てる手筈でいたのだが、これまたバカな自動作成シフトが6月14日から19日までの6連勤を作り上げた。法的な問題はないのだが15日締めのシフト故に前月度の勤務日数は加味されないことが発覚。その犠牲者第一号になったのが私であった。

という経緯から20日はほぼぐったりとして早寝をする。翌21日は朝2番のバスに乗車する。こういう時間の際にははるに送って貰うのだが、意地を張って沖縄行きを決めた手前頼めない。曇ってはいるがなんとか天気は保ちそうな感じの南淡海のど田舎バス停を出発する。

田舎駅を経て京都駅に到着。八条口から阪急観光バスのオペレーションとなった大阪伊丹空港リムジンバスに乗車し一路伊丹を目指す。中国自動車道の一斉工事の影響で豊中ICから阪神高速を走るルートを取る。遅れが生じるかもというアナウンスはあったが、寧ろ若干早着するぐらいで無事に到着した。

伊丹空港はJAL利用が圧倒的に多いため、北ターミナルを利用するためにバスも終点まで乗ることがほとんどだ。しかし今回に限っては出発時刻の関係でANAを利用する。よって南ターミナルの利用のために最後まで乗らないのだが習慣とは怖いもので全日空ご利用の方…というアナウンスで我に返って下車した次第である。

空港に到着してみてギリギリJALを利用できたかも…と思いながら南ターミナルで搭乗手続きをする。UAマイレージで全日空を利用するには、UAマイレージのルールで発券されることは前回知った。今回も前回同様那覇ダイレクト便ではない。B738で運航されるANA1635はMYJ、つまり松山行きである。松山はトランジットだけだが、伊丹から松山に飛んできた機材がANA1883としてOKA、つまり那覇に向かう。1行程でツーセクター利用となるのは、前回の那覇からの帰りに仙台を経由して伊丹に戻って来たことで体験済みである。座席もリクエストをかけてみると5Aで那覇まで利用できることとなった。

気ばかり焦るがここまで来たら沖縄に到着できると安心する。しかし搭乗はバス&タラップだった。エコノミーの最前列のシートに陣取りベルトを締める。なにか雲行きが怪しくなって来た伊丹空港を定刻通りANA1635は松山に向かって離陸した。

伊丹から松山迄は40分程のフライトだが、四国に近付くと雲が垂れ込める天候になってきた。機内でも揺れることが予想されるとのことでドリンクサービスはなくキャンディが配られた。改めてCAさんの仕事の大変さを知る。しまなみ海道を眼下に見ると間もなく松山。ここまではなんとか雨は降らなかったようだ。

松山空港ではボーディングブリッジを利用する。一旦5Aシートから離れるが40分後にはまた戻って来る。ターミナルに入る際に見送りのCAさんから〝次のフライトでもお待ちしております〟と声がけを頂く。まあ珍しいルートのフライトを利用するものは私ぐらいなものなのであろうと苦笑する。

トランジットだけならばそのまま待合に向かうだけだが、人の流れに流されて出てしまいそうになる。階段を降りたところでおかしいの気付き、グランドスタッフに聞いたのは正解だった。再び階段を上り待合へと案内される。出てしまっていれば面倒な事になっていたとちょっと焦った。

ともかく無事待合に到着する。平日の地方空港なので空いているはずだが、隣の搭乗口が混雑しているようだ。次便はGK408成田行きのはずだがどうやら今年GKの松山就航10周年を迎えるようだ。GKスタッフの他愛媛のゆるキャラみきゃんも参加している。コロナ禍で乗客数が伸び悩む中、路線継続に尽くしたGKに対する県民の感謝の気持ちが溢れ出ている。今回の目的地ではない松山だが、立ち寄った価値はあった様に思えた一瞬であった。

先発のGKは結構な搭乗客がいたようだが、私の乗るNH1883は閑散としている。地方からの観光ブームはまだまだなのかと考えさせられる景色であった。本来ならばエコノミーの前方席は一番後の搭乗になるはずだが、然程待つことなく搭乗できた。改めて5Aに陣取り準備をする。窓の外は雨が遂に降ってきた。機内アナウンスでも雨雲を避けながら飛ぶため到着時間の遅れや機内の揺れが生じる可能性がある旨がコールされていた。実際には鹿児島上空辺りまでは揺れもあったが、その後は安定したフライトだった。ドリンクサービスも提供され、一息つくともう沖縄上空だ。着陸待ちはあったものの時間通りに到着する。雲は立ち込めてはいるものの雨は降っていなかったためだろうか?那覇でもタラップ&バスでの降機であった。

4年ぶりの那覇は蒸し暑かった。LCC利用時には当たり前のタラップ&バスだが、ANA便でそうなるとは考えてはいなかった。という理由でいつもより早く沖縄の暑さに触れたのであった(笑)。到着ロビーを経てバゲッジピックアップへと向かう。荷物は一番に出てきたようだ。伊丹から松山経由で那覇に向かう客は私ぐらいだったことが示された瞬間である。

荷物を受け取り国内線ターミナルを通過して喫煙コーナーへと向かう。今回も梅雨明けしていない沖縄なので湿気が凄い。一服を終えるとレンタカー待合へと向かい、今回利用するユウ・アイレンタカーの待合場所で名前を名乗り事前手続きを行う。マイクロバス送迎はいつものことだが、空港よりも南側にあるレンタカーを利用したのは久しぶりなので渋滞していることにびっくりする。営業所に着けばフルコミブランは早いもの。最終給油のみ指定場所で入れてねと言うレベルだった。こうして14:17に旅の友となったN-ONEクンと共にレンタカー営業所を出発し沖縄旅を開始することとなる。

いつもはガッツリ予定を組んでいるが、今年に限ってはかなり余裕を持って組んでいる、先ずはお年玉用の新札2,000円の入手のためにコザ信金開南支店に向かう。在庫は電話で確認済みだがどうやら意図が通じていなかったようで流通しているお札を渡される。新札両替機が故障しているとかで、迷惑を承知で新札が欲しい旨を伝えたら替えて頂く事ができた。もし私が沖縄に住むことがあるならば迷うことなくコザ信金をメインバンクにしようと思う。勿論実現する可能性は限りなく低いことではあるのだが…。

そして第一の目的を完遂すると向かいの開南郵便局へと向かう。これは旅行貯金のためだが、これもはるを連れて沖縄に来る可能性が低いから私が代行しているようなものだ。郵便局で用事を済ませると車に戻り出発する。次に立ち寄ったのは那覇東郵便局。那覇市における集配局のひとつだが、本年9月に新設される樋川郵便局に郵便・貯金窓口を移設し、那覇東郵便局は郵便の集配とゆうゆう窓口のみになるらしいのこと。そのような理由から旅行貯金は来年できない郵便局となるためにラストチャンスであった。そんないつもの沖縄旅と違う体験をしながら各所を回る私であった。

那覇市街を後にして沖縄自動車道那覇ICから高速走行をする。途中伊芸SAにて一息入れるが、昼間に訪れたのは初めてのことである。沖縄島東岸を一望できる場所はなかなかのものであった。また構造上逆走が多いことを示している逆走注意の看板があちらこちらに建てられていることも理解できる。認知機能に問題がなくとも、出入口が瞬時に分かり辛いことからもそういった案件があるのだろうか。最新の注意を払いながら元の道に戻り、終点の許田ICを目指して走って行く。

沖縄自動車道終点の許田ICは一昔前迄この先一般道というような作りであった。接続する名護東バイパスへも一般道を経由しなければならなかったために混雑する場所としても有名であった。しかし現在では一般道の走行は残ってはいるものの信号が撤去されてスムーズに走れるようになっていた。目指す八重岳中腹へも数久田IC を利用した方が早いように見え、そのルートを走る予定だったが、バイパス入口で先行車両を抜こうとする所謂沖縄走りに邪魔をされ、車線変更ができなかったことからナビの指し示す国道58号線経由のルートを取らざるを得なくなってしまった。

そんなこんなで沖縄県道71号線等を走り八重岳へと向かう。名護市から本部町に入り八重岳中腹にある三中学徒之碑を訪れた。先の大戦の末期沖縄戦に於いて学徒隊として駆り出された沖縄県立第三中学校学徒隊の戦没者を祀る慰霊碑である。伊江島や本部半島を守備していた独立混成第44旅団第二大隊(通称宇土支隊)に配属された少年隊は、部隊が早々に本部としていた八重岳を離れたために共に名護の多野岳に移動し、ゲリラ戦を戦う戦力となった。部隊自体の動きが不明なところが多く、はっきりとした内容は不明ではあるが通信隊や機雷を抱えて戦車に飛び込む特攻に従事したとされている。他の学徒隊の所属校同様戦後に廃校になったことから正確な戦死者数もわからないとされている。あくまで判明した犠牲者を祀っているものだと解釈してもらった方が良いだろう。すぐ近くには大隊本部壕や沖縄陸軍病院八重岳分院壕等があり、そちらは以前訪れたことはあるが、三中学徒之碑は見落としていた。沖縄県立第三高等女学校学徒からなるなごらん学徒隊と三中学徒隊であるが、戦後新生名護高校として共学となり再出発した関係で、この両校の学徒隊犠牲者を合祀した南燈慰霊之塔が名護高校の敷地内に建立されて現在に至っている。沖縄戦戦没者慰霊碑全てに言えることだが、同級生を含め戦没者家族も高齢化し、鬼籍に入ることで慰霊祭そのものが継続不可能となっているものも少なくはない。この三中学徒之碑も然りであるが、後身の名護高校の生徒が引き継いでいることを考えれば、慰霊は続いている事になる。賛否論があるのはわかるが、後世に学徒隊の存在を伝えて行くならば致し方ない決断だと思えてならない。この三中学徒之碑の後に再訪となる八重岳本部壕と陸軍病院八重岳分院跡も訪れたが、やはり史実を語る由来書が劣化して読めなくなっている現実を見れば私にはそう感じるのである。三中学徒之碑のように慰霊碑として建立すれば兎も角戦跡として残すにはあまりにも数があり過ぎることから、全てを網羅して維持をすることは行政でも不可能であろう。ならば関係する団体がその史実を語り継ぎ、後世に伝えて行くことを行政サイドで補助をするようにすれば立ち消えにはならないであろう。話題に上ることは少ないが、沖縄県下で建立者や管理者不明とされている慰霊碑等はかなりの数があるというのが現実である。建立した目的は勿論戦没者慰霊であるにしても、その維持管理者がいないとなると土地の占拠という問題が絡んでくるために、朽ちて崩壊の危険性が出てくると行政代執行の対象になる可能性が大きい。それだけの場所が戦地となり多くの戦没者を出した史実故に起こりうる問題である。中には不法占拠の対象物として撤去を暗に示している慰霊碑もある。史実を踏まえ今後の維持管理を考えなければならない時期に差しかかっているのは事実である。子や孫の世代に平和を維持することに異論はないが、かと言って史実をないものにしてしまえば、結局のところ史実を伝えるものを撤去して写真や動画等で説明したとしても、それがどこまで若年層の心に響くかは疑問である。確かにあまりにも多い戦跡や慰霊碑のすべてを残すことは不可能であろう。苦渋の選択になるだろうが遺さなければならない物を切り分けて行くことも必要だと私は感じるのであった。

そんな思いを持ちながらも三中学徒之碑・八重岳本部壕跡・八重岳分院壕跡と巡り手を合わせて初日の戦跡巡りを終わらせることにした。

その後は同じ本部町にあるよへなあじさい園に向かうために車を走らせた。

  《続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JALグループ ANAグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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