那覇市立大道小学校グランドの角に2体のブロンズ像がある。沖縄戦に於いて組織された学徒隊のひとつひめゆり学徒隊。学徒隊を構成...
続きを読むした沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校がこの地に存在した。
ふたつの学校は教師の兼務等繋がりが深く、学徒隊を組織する際は両校の校友会誌名である沖縄師範学校女子部の白百合、沖縄県立第一高女のおとひめから大正5(1916)年に校舎を共有する併設校となった折に校友会誌名を統合しひめゆりとなったと言われている。
沖縄県に於ける優秀な女子が集まる両校ではひめゆりの響きが在校生・卒業生共に誇り高きものだったに違いない。
しかし女子の高等教育の場であった両校も沖縄戦によって本来の目的から外れることとなり、学徒看護隊として戦場に駆り出されることとなる。生徒222名は教師18名に引率され、南風原の陸軍病院に看護補助要員として派遣される。病院とはいえ野戦病院、丘に掘られた洞窟に二段ベッドが並ぶだけの粗末な場所が彼女達の職場であった。
日本軍が劣勢となり前線から多くの重傷を負った兵士が休みなしに送られてくる。中には病院に連れて来られて安心したのかこと切れる兵士達も少なくなかった。寝る間どころか一休みをする時間もなく彼女達は働き続けた。病院壕近くに着弾した砲撃により亡くなる学徒もいる中で、米軍が首里の司令部壕に近付いてきたことから野戦病院も南部に撤退命令が出され、糸満の伊原の複数の壕に分かれて看護補助業務に携わることとなる。しかしその場所も安住の場所とはならず、米軍が近づいて来ると学徒隊に解散命令が出される。今までは迷うこともある中で仲間同士で助け合いながら何とかやって来たことを一人ひとりで行うようにとの命令だ。鬼畜米英と教えられ、岩陰に隠れながらも進んで行くが戻ることはできない。どんどん海岸に押し込まれ、ある者は砲弾によって、またある者は手榴弾を使って自決する等ひめゆり学徒隊の犠牲者の9割近い少女達は解散命令後に出ていることからもその悲惨な状況は想像できるであろう。
昭和20(1945)年6月23日第32軍司令官・参謀長の自決によって日本軍の組織的抵抗は終わりを告げる。しかし引率教員を含む240名のうち学徒隊の犠牲者は136名(諸説あり)で実に半数以上の学徒隊が戦死している。また沖縄戦によって沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校共に校舎は消失したことは勿論校名までもが廃校となり無くなってしまった。
ひめゆり学徒隊で最も犠牲者を出した伊原第三外科壕前には終戦の翌年学徒犠牲者を慰めるひめゆりの塔が建立された。その後ひめゆり学徒隊を忘れないようにとひめゆり平和祈念資料館が建てられることとなった。しかし肝心の学校跡地が脚光を浴びるようになったのは21世紀に入った平成14(2002)年に附属校であった大道小学校グランドの片隅にひめゆり同窓会によってひめゆり学園跡のモニュメントが建てられる迄更に時間がかかっている。
せっかく建立されたモニュメントではあるが、知名度は高くなく、この場所に両校があったことすら知らないで帰る者も多いと聞いた。実は私もその一人であり、今回訪れるまで学園跡のモニュメントがあることすら知らなかったのが事実である。ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館の知名度が高過ぎることも理由ではあるが、折角学徒の足跡に興味を持つ若者が増えている中ではなにか物悲しさを感じてしまう。
夢の途中で斃れた少女達が尊いのは勿論だが、その少女達が夢を持って学んでいた場所を知る・知らないではその思いを感じるレベルが異なるように思えてならない。街中の一角にある狭い場所故に見つけるのも一苦労かも知れないが、ひめゆりの足跡を辿るためには決してスルー出来る場所ではないという思いを感じた私であった。
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投稿日:2023/07/14