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1250年12月初め、フェデリーコ2世はカピタナータ(Capitanata)の平原で鷹狩りをしておりました。現在のトッレマジョーレ(Torremaggiore)の近くと思われます。<br />そこで赤痢に襲われました。きわめて重症で、フォッジアの宮殿にもどることができません。急遽もっとも近い彼の城、カステル・フィオレンティーノに運び込まれました。<br /><br />この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。<br />フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生<br />https://4travel.jp/travelogue/11505518<br /><br />今回は特に<br />「CITTA’ DI TORREMAGGIORE CENTRO ATTIVITA’ CULTURALI<br />Settore Cultura “DON TOMMASO LECCISOTTI”」と<br />「CASTEL FIORENTINO」<br />にお世話になりました。(URLは上記参考資料)カステル・フィオレンティーノの歴史を簡潔にまとめ上げたブログでした。共通する文章があり、同じ方が書いていると思います。<br />原文はイタリア語ですので、フランス語に機械翻訳して参考にしました。固有名詞はイタリア語原文から音訳しました。<br /><br />なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。プーリア滞在は4月9日―14日です。

フェデリーコ2世紀行-14 カステル・フィオレンティーノ・終章

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2019/04/19 - 2019/04/19

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旅行記グループ フェデリーコ2世紀行2019

13

59

しにあの旅人

しにあの旅人さん

1250年12月初め、フェデリーコ2世はカピタナータ(Capitanata)の平原で鷹狩りをしておりました。現在のトッレマジョーレ(Torremaggiore)の近くと思われます。
そこで赤痢に襲われました。きわめて重症で、フォッジアの宮殿にもどることができません。急遽もっとも近い彼の城、カステル・フィオレンティーノに運び込まれました。

この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。
フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生
https://4travel.jp/travelogue/11505518

今回は特に
「CITTA’ DI TORREMAGGIORE CENTRO ATTIVITA’ CULTURALI
Settore Cultura “DON TOMMASO LECCISOTTI”」と
「CASTEL FIORENTINO」
にお世話になりました。(URLは上記参考資料)カステル・フィオレンティーノの歴史を簡潔にまとめ上げたブログでした。共通する文章があり、同じ方が書いていると思います。
原文はイタリア語ですので、フランス語に機械翻訳して参考にしました。固有名詞はイタリア語原文から音訳しました。

なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。プーリア滞在は4月9日―14日です。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 4月11日、車載のナビが使い物にならないので、iPhoneのグーグルマップをたよりにSP(県道)16号を南下します。9時半頃でした。カーナビ上では近いはず。<br />11時の方向、緑の牧草の丘がありました。このあたりはこんな丘ばかりです。でも直感で、これだと思いました。

    4月11日、車載のナビが使い物にならないので、iPhoneのグーグルマップをたよりにSP(県道)16号を南下します。9時半頃でした。カーナビ上では近いはず。
    11時の方向、緑の牧草の丘がありました。このあたりはこんな丘ばかりです。でも直感で、これだと思いました。

  • 丘の上になにか建物があります。

    丘の上になにか建物があります。

  • あとで館の跡と分かりました。

    あとで館の跡と分かりました。

  • すぐに標識がありました。左折します。

    すぐに標識がありました。左折します。

  • もうはっきり見えます。頂上より少し右下、青空に出っ張っているのが、かつての城壁です。

    もうはっきり見えます。頂上より少し右下、青空に出っ張っているのが、かつての城壁です。

  • これが登り道です。

    これが登り道です。

  • 廃墟の手前に標識がありました。

    廃墟の手前に標識がありました。

  • 標識

    標識

  • 壊れかけています。来る人も少ないのでしょう。

    壊れかけています。来る人も少ないのでしょう。

  • 廃墟を背後にして登ります。ここからは道はダートです。

    廃墟を背後にして登ります。ここからは道はダートです。

  • (グーグルマップ航空写真より)<br />かなりの登りです。1カ所ジャリが深くてスタックしそうになりました。前輪駆動の車でしたが、四駆がほしい。雨の時は四駆でも無理かもしれません。<br />塔の手前に鉄柵と門がありましたが、門は開いていました。長い間放置されているようです。塔の近くに車をとめました。館まで車は持って行けそうでした。<br /><br />私たちは、カステル・フィオレンティーノは、カステル・デル・モンテのような丘の上の孤立した小城だと思っていたのですが、13世紀半ばでは教会や市街地がある、フィオレンティーヌという名のれっきとした町だったのです。<br />丘の上がフィオレンティーヌの町の跡です。地図上が北です。東西約250メートル、南北150メートルの楕円形です。塔と館は少し小高いところにありますが、丘の頂上はほぼ平坦です。平坦地を囲む城壁がありました。いまはわずかに痕跡を残すのみ。<br />塔から教会にいたる一帯が市街地でした。

    (グーグルマップ航空写真より)
    かなりの登りです。1カ所ジャリが深くてスタックしそうになりました。前輪駆動の車でしたが、四駆がほしい。雨の時は四駆でも無理かもしれません。
    塔の手前に鉄柵と門がありましたが、門は開いていました。長い間放置されているようです。塔の近くに車をとめました。館まで車は持って行けそうでした。

    私たちは、カステル・フィオレンティーノは、カステル・デル・モンテのような丘の上の孤立した小城だと思っていたのですが、13世紀半ばでは教会や市街地がある、フィオレンティーヌという名のれっきとした町だったのです。
    丘の上がフィオレンティーヌの町の跡です。地図上が北です。東西約250メートル、南北150メートルの楕円形です。塔と館は少し小高いところにありますが、丘の頂上はほぼ平坦です。平坦地を囲む城壁がありました。いまはわずかに痕跡を残すのみ。
    塔から教会にいたる一帯が市街地でした。

  • 東の端の塔の基礎部分。東に向いて鉄格子がはまっています。

    東の端の塔の基礎部分。東に向いて鉄格子がはまっています。

  • 「LA TORRE 塔」と案内板がありました。

    「LA TORRE 塔」と案内板がありました。

  • 南東より。

    南東より。

  • 南西から。西面にも鉄格子。

    南西から。西面にも鉄格子。

  • 内部をのぞきます。

    内部をのぞきます。

  • 基礎部分です。

    基礎部分です。

  • 天井。立派なアーチ構造です。<br />この町については、文献、口承伝承が現在まで伝わり、1892年-1992年にバーリ大学などによる発掘調査も行われています。

    天井。立派なアーチ構造です。
    この町については、文献、口承伝承が現在まで伝わり、1892年-1992年にバーリ大学などによる発掘調査も行われています。

  • 塔の東側に記念碑が建っています。2000年12月13日、フェデリーコ2世命日に死後750年を記念して建てられました。カステル・デル・モンテのような八角形の記念碑です。<br />一番上に彼の家の紋章である鷲が彫られています。<br />塩野によればこの一面に、フェデリーコ2世と同年代の伝記作家イギリス人マシュー・パトリスの一文が彫られています。その中に有名な「STVPOR MVNDI」という言葉があります。「ストゥポール・ムンディ」世界の驚異、フェデリーコ2世の代名詞です。

    塔の東側に記念碑が建っています。2000年12月13日、フェデリーコ2世命日に死後750年を記念して建てられました。カステル・デル・モンテのような八角形の記念碑です。
    一番上に彼の家の紋章である鷲が彫られています。
    塩野によればこの一面に、フェデリーコ2世と同年代の伝記作家イギリス人マシュー・パトリスの一文が彫られています。その中に有名な「STVPOR MVNDI」という言葉があります。「ストゥポール・ムンディ」世界の驚異、フェデリーコ2世の代名詞です。

  • 頂上付近から、フェデリーコ2世が運び込まれた館。この草に覆われた道がかつてこの町のメインストリートでした。「Magnaplatea」とよばれていました。ラテン語のようです。多分「大通り」ではないかと。もう1本「platea vicinalis」という道路が並行に走っていた。<br />大通りの南、写真では左に教会があり、両側が市街地でした。

    頂上付近から、フェデリーコ2世が運び込まれた館。この草に覆われた道がかつてこの町のメインストリートでした。「Magnaplatea」とよばれていました。ラテン語のようです。多分「大通り」ではないかと。もう1本「platea vicinalis」という道路が並行に走っていた。
    大通りの南、写真では左に教会があり、両側が市街地でした。

  • 住居跡です。

    住居跡です。

  • 表示がありました。

    表示がありました。

  • 雑草とタンポポに囲まれて、「AERA URBANA 居住区」とでもいうのでしょうか。

    雑草とタンポポに囲まれて、「AERA URBANA 居住区」とでもいうのでしょうか。

  • フィオレンティーヌは11世紀に、この地を領有していたビザンツ帝国(東ローマ帝国)が建設しました。北からのロンバルディア人、南からのアラブ人からプーリアを守るためでした。住民は主に、この地域で唯一生き残ったランゴバルド人でした。<br />その後12世紀に、ノルマン伯領となり、後年フェデリーコ2世の帝国の一部になります。

    フィオレンティーヌは11世紀に、この地を領有していたビザンツ帝国(東ローマ帝国)が建設しました。北からのロンバルディア人、南からのアラブ人からプーリアを守るためでした。住民は主に、この地域で唯一生き残ったランゴバルド人でした。
    その後12世紀に、ノルマン伯領となり、後年フェデリーコ2世の帝国の一部になります。

  • 右端のアーチ型の穴は、

    右端のアーチ型の穴は、

  • パン焼き釜のようです。

    パン焼き釜のようです。

  • 「LE FORNO パン焼き窯」となっています

    「LE FORNO パン焼き窯」となっています

  • 教会跡も残っています。

    教会跡も残っています。

  • 雑草がはびこり近づけません。

    雑草がはびこり近づけません。

  • ノルマン伯の支配下に入ってから、フィオレンティーヌは飛躍的に発展しました。<br />町の東側というから、この塔の右あたりです。ここに城外の新市街ができました。「Carunculum」というそうです。ラテン語のようです。一般名詞か固有名詞かわかりません。

    ノルマン伯の支配下に入ってから、フィオレンティーヌは飛躍的に発展しました。
    町の東側というから、この塔の右あたりです。ここに城外の新市街ができました。「Carunculum」というそうです。ラテン語のようです。一般名詞か固有名詞かわかりません。

  • 城内の平地には家が建ち並び、壁と壁がくっつき、中庭がないので、光が差し込まない家もありました。繁栄した町でありました。<br />カテドラーレのほかに12の教会があったそうです。

    城内の平地には家が建ち並び、壁と壁がくっつき、中庭がないので、光が差し込まない家もありました。繁栄した町でありました。
    カテドラーレのほかに12の教会があったそうです。

  • フェデリーコ2世が愛したプーリアの平原。<br /><br />彼の死後、敵対していたローマ法王アレクサンドル4世はプーリアに侵入しました。フィオレンティーヌの町は、フェデリーコ2世に忠実であったゆえに、無残な運命をたどります。<br /><br />1255年10月26日、法王が送った、ルジェーロ・サンセヴェルーノ伯指揮下の軍勢がフィオレンティーノを攻撃し、破壊しました。<br />町はオクターヴェ・デ・ラ・ウバルディーニ枢機卿の支配下に置かれ、住民は徐々に町を放棄し、9キロほど北、現在のトッレマッジョーレ(Torremaggiore)近くに避難してゆきました。1300年ごろから町の荒廃は進み、教会の大理石の床ははがされ、ルチェラのサラセン人のモスク跡に建てられたカテドラーレの主祭壇に使われました。<br />フォッジアのフェデリーコ2世の宮殿も法王に破壊されました。それでもフォッジアの町は残りました。ルチェラはサラセン人の住人は追放され、町そのものが破壊されましたが、人の住む町ではあり続けました。しかしフィオレンティーヌは無人となって久しく、今は訪れる人も少なく、町について語られることもありません。<br />私たちは2時間ほどこの丘におりましたが、だれも来ませんでした。<br />フィオレンティーヌの町の紹介は、少なくとも日本語のWeb上では、この短い拙文が初めてでしょう。<br />ただひとつの慰めは、フィオレンティーヌの住民が避難したトッレマジョーレの町は、自分たちがその子孫であること、フェデリーコ2世に忠実であったことを誇りに思っているのです。2016年まではフェデリーコ2世を記念する祭りが行われていました。

    フェデリーコ2世が愛したプーリアの平原。

    彼の死後、敵対していたローマ法王アレクサンドル4世はプーリアに侵入しました。フィオレンティーヌの町は、フェデリーコ2世に忠実であったゆえに、無残な運命をたどります。

    1255年10月26日、法王が送った、ルジェーロ・サンセヴェルーノ伯指揮下の軍勢がフィオレンティーノを攻撃し、破壊しました。
    町はオクターヴェ・デ・ラ・ウバルディーニ枢機卿の支配下に置かれ、住民は徐々に町を放棄し、9キロほど北、現在のトッレマッジョーレ(Torremaggiore)近くに避難してゆきました。1300年ごろから町の荒廃は進み、教会の大理石の床ははがされ、ルチェラのサラセン人のモスク跡に建てられたカテドラーレの主祭壇に使われました。
    フォッジアのフェデリーコ2世の宮殿も法王に破壊されました。それでもフォッジアの町は残りました。ルチェラはサラセン人の住人は追放され、町そのものが破壊されましたが、人の住む町ではあり続けました。しかしフィオレンティーヌは無人となって久しく、今は訪れる人も少なく、町について語られることもありません。
    私たちは2時間ほどこの丘におりましたが、だれも来ませんでした。
    フィオレンティーヌの町の紹介は、少なくとも日本語のWeb上では、この短い拙文が初めてでしょう。
    ただひとつの慰めは、フィオレンティーヌの住民が避難したトッレマジョーレの町は、自分たちがその子孫であること、フェデリーコ2世に忠実であったことを誇りに思っているのです。2016年まではフェデリーコ2世を記念する祭りが行われていました。

  • フェデリーコ2世の館にむかいます。

    フェデリーコ2世の館にむかいます。

  • ノルマン伯は町の西端、この町の高地に小さな城を築きました。後年フェデリーコは城を彼の館に造り替えました。狩や休息に使う、「憩いの家」でした。

    ノルマン伯は町の西端、この町の高地に小さな城を築きました。後年フェデリーコは城を彼の館に造り替えました。狩や休息に使う、「憩いの家」でした。

  • 館は南に入口があり、

    館は南に入口があり、

  • 長方形で、長辺29メートル、短辺17メートル、

    長方形で、長辺29メートル、短辺17メートル、

  • 2部屋に分かれておりました。暖炉が2つありました。2階、または3階建てでした。

    2部屋に分かれておりました。暖炉が2つありました。2階、または3階建てでした。

  • 1250年12月初め、重篤のフェデリーコ2世はこの入口から館に運び込まれたのでした。<br /><br />枕頭に若い時からの師であり、盟友であり、苦楽を共にしたパレルモ大司教ベラルドが駆けつけます。息子マンフレディ、後年「シチリアの晩鐘」でアンジュ家に一矢報いる主治医ジュヴァンニなど十数人。<br />そのなかに女人のすがたはありません。最愛の女であり、最後の正妻ビアンカ・ランチアは2年前に世を去っていました。

    1250年12月初め、重篤のフェデリーコ2世はこの入口から館に運び込まれたのでした。

    枕頭に若い時からの師であり、盟友であり、苦楽を共にしたパレルモ大司教ベラルドが駆けつけます。息子マンフレディ、後年「シチリアの晩鐘」でアンジュ家に一矢報いる主治医ジュヴァンニなど十数人。
    そのなかに女人のすがたはありません。最愛の女であり、最後の正妻ビアンカ・ランチアは2年前に世を去っていました。

  • わずかに残る城壁。<br />必ずやルチェラからサラセン人の近衛兵が駆けつけ、皇帝の警護にあたったでありましょう。

    わずかに残る城壁。
    必ずやルチェラからサラセン人の近衛兵が駆けつけ、皇帝の警護にあたったでありましょう。

  • サラセンの兵士は沈痛な面持ちで、城壁に立ち、館の周囲を固め、彼らの「スルタン」の平癒回復を祈ります。その後十数年にして彼らを襲う悲劇をまだ知りません。

    サラセンの兵士は沈痛な面持ちで、城壁に立ち、館の周囲を固め、彼らの「スルタン」の平癒回復を祈ります。その後十数年にして彼らを襲う悲劇をまだ知りません。

  • 塩野によれば、フェデリーコ2世はプーリアの人々に、次の手紙を送っています。<br />「皇帝の位を占めるようになって長い私だが、プーリア人の一人と思われるのは、不名誉どころか名誉と思っている。責務はしばしばわたしにプーリアから離れることを強いるが、そのたびにわたしが感じるのは、我が家から遠く離された亡命者の心境に似ている。甘美で穏やかな気候と惜しみなく降りそそぐ陽光にあふれた大地もわたしを優しくつつんでくれるが、それよりもなおプーリアを我が家と思うのは、そこに住むおまえたちのわたしに対する態度なのだ。わたしに不運が襲えば、おまえたちは自分のことのように悲哀にくれる。わたしが成功したときは、おまえたちはわたし以上に喜び、歓声をあげてわたしの帰りを迎えてくれる。プーリアにもどるときは、なぜかいつも急ぎ足になる。わたしの領国のなかで、帰ると決めたらこうも急ぎ足になるのは、プーリアしかない」

    塩野によれば、フェデリーコ2世はプーリアの人々に、次の手紙を送っています。
    「皇帝の位を占めるようになって長い私だが、プーリア人の一人と思われるのは、不名誉どころか名誉と思っている。責務はしばしばわたしにプーリアから離れることを強いるが、そのたびにわたしが感じるのは、我が家から遠く離された亡命者の心境に似ている。甘美で穏やかな気候と惜しみなく降りそそぐ陽光にあふれた大地もわたしを優しくつつんでくれるが、それよりもなおプーリアを我が家と思うのは、そこに住むおまえたちのわたしに対する態度なのだ。わたしに不運が襲えば、おまえたちは自分のことのように悲哀にくれる。わたしが成功したときは、おまえたちはわたし以上に喜び、歓声をあげてわたしの帰りを迎えてくれる。プーリアにもどるときは、なぜかいつも急ぎ足になる。わたしの領国のなかで、帰ると決めたらこうも急ぎ足になるのは、プーリアしかない」

  • 館の西側の部屋です。私たちはこの部屋がフェデリーコ2世の終の棲家であると確信しています。

    館の西側の部屋です。私たちはこの部屋がフェデリーコ2世の終の棲家であると確信しています。

  • なぜなら、フィオレンティーヌの西端にあり、プーリアが見渡せるのです。彼が大好きなプーリアです。

    なぜなら、フィオレンティーヌの西端にあり、プーリアが見渡せるのです。彼が大好きなプーリアです。

  • 風車以外、彼が見た風景と変わりはないでしょう。雲と、蒼い空、吹く風は全く同じ。<br /><br />1250年12月13日、フェデリーコ2世は世を去りました。<br /><br />☆☆☆

    風車以外、彼が見た風景と変わりはないでしょう。雲と、蒼い空、吹く風は全く同じ。

    1250年12月13日、フェデリーコ2世は世を去りました。

    ☆☆☆

  • ローマ、ミラノ、ヴェネティア、フィレンツェ、ナポリ、バーリ、パレルモ、ポンペイ・・・行ったイタリアの町です。どの町もそれぞれに美しく、思い出深いものがあります。が、フィオレンティーヌほど、心に残る、心に刻み込まれたところはありません。<br />春でした。荒城というよりも城跡でした。敗者の悲哀も恨みも完膚なきまでに叩きのめされて、今は風となってしまったところでした。

    ローマ、ミラノ、ヴェネティア、フィレンツェ、ナポリ、バーリ、パレルモ、ポンペイ・・・行ったイタリアの町です。どの町もそれぞれに美しく、思い出深いものがあります。が、フィオレンティーヌほど、心に残る、心に刻み込まれたところはありません。
    春でした。荒城というよりも城跡でした。敗者の悲哀も恨みも完膚なきまでに叩きのめされて、今は風となってしまったところでした。

  • 暑くも寒くもなく、優しい風が吹くたびに、最初は気づかないくらいのかすかな香りがこの城跡を包んでいました。

    暑くも寒くもなく、優しい風が吹くたびに、最初は気づかないくらいのかすかな香りがこの城跡を包んでいました。

  • この青い花は、

    この青い花は、

  • ラヴェンダーかしら?と思いましたが、違いました。リンゴの木があったので、これかしらとも思いました。かすかな、控えめな、甘すぎない香りでした。

    ラヴェンダーかしら?と思いましたが、違いました。リンゴの木があったので、これかしらとも思いました。かすかな、控えめな、甘すぎない香りでした。

  • 犬が鳴いていました。姿を探しても見当たりません。

    犬が鳴いていました。姿を探しても見当たりません。

  • この城跡の丘のふもとは緑の絨毯です。犬は遠くのたった1軒の農家の庭で吠えているようでした。<br /><br />この城跡の、草に覆われた遺跡を見てまわるうちに、この場にふさわしくない作業手袋とバケツを見つけました。まだ新しく、たけの高い草に隠すように置いてありました。そういえば丘に登る道は草刈りがしてありました。手入れをする人がいるのです。<br />静かです。犬もいつしか鳴き止みました。この丘からあの農家まで何メートルあるのでしょう。かなり遠くです。ほかに建物も森もないので、丘の上の東洋人の匂いは犬の鼻に怪しく届いたのでしょうか。<br />犬が鳴いても百姓家に動きはありません。<br />草刈りをしたのはあの百姓家の人かもしれない。家の中からそっと私たちを覗いて、「私のフィオレンティーヌも外国にまで知れ渡ったのだ!」と嬉しく思ったかもしれません。

    この城跡の丘のふもとは緑の絨毯です。犬は遠くのたった1軒の農家の庭で吠えているようでした。

    この城跡の、草に覆われた遺跡を見てまわるうちに、この場にふさわしくない作業手袋とバケツを見つけました。まだ新しく、たけの高い草に隠すように置いてありました。そういえば丘に登る道は草刈りがしてありました。手入れをする人がいるのです。
    静かです。犬もいつしか鳴き止みました。この丘からあの農家まで何メートルあるのでしょう。かなり遠くです。ほかに建物も森もないので、丘の上の東洋人の匂いは犬の鼻に怪しく届いたのでしょうか。
    犬が鳴いても百姓家に動きはありません。
    草刈りをしたのはあの百姓家の人かもしれない。家の中からそっと私たちを覗いて、「私のフィオレンティーヌも外国にまで知れ渡ったのだ!」と嬉しく思ったかもしれません。

  • 丘の上の樹は、記念碑近くのこのリンゴなどわずか数本だけ。

    丘の上の樹は、記念碑近くのこのリンゴなどわずか数本だけ。

  • 小さい実がなっていました。<br />見事な蒼空でした。

    小さい実がなっていました。
    見事な蒼空でした。

  • 香りの主は白い地味な花でした。

    香りの主は白い地味な花でした。

  • 花の名前が知りたくて、その後何人かのイタリア人に写真を見せてたずねましたが、知っている人はいませんでした。

    花の名前が知りたくて、その後何人かのイタリア人に写真を見せてたずねましたが、知っている人はいませんでした。

  • かつてはきらびやかな皇帝の部屋だった石の囲いを覗くと、金と緑の閃光が走りました。トカゲでした。柔らかい太陽の光で、トカゲはダイヤモンドやエメラルドよりも美しく輝いておりました。このトカゲの先祖は、フェデリーコ2世を見たのだ、などと、いとおしく思ってしまう私でした。<br /><br />「世界の驚異」とまで讃えられ、怒濤の人生を送った英雄の魂は、ここで安らかにまどろんでいることでしょう。

    かつてはきらびやかな皇帝の部屋だった石の囲いを覗くと、金と緑の閃光が走りました。トカゲでした。柔らかい太陽の光で、トカゲはダイヤモンドやエメラルドよりも美しく輝いておりました。このトカゲの先祖は、フェデリーコ2世を見たのだ、などと、いとおしく思ってしまう私でした。

    「世界の驚異」とまで讃えられ、怒濤の人生を送った英雄の魂は、ここで安らかにまどろんでいることでしょう。

  • やがて、後ろ髪引かれる思いで、車を出し、丘を下り、振り返ると、記念碑が見えました。

    やがて、後ろ髪引かれる思いで、車を出し、丘を下り、振り返ると、記念碑が見えました。

  • 記念碑に見送られながら、

    記念碑に見送られながら、

  • 私たちはフェデリーコ2世が愛したプーリアの風景の中の一点となってゆきました。<br />By妻

    私たちはフェデリーコ2世が愛したプーリアの風景の中の一点となってゆきました。
    By妻

  • フェデリーコ2世紀行、ひとまず終わります。

    フェデリーコ2世紀行、ひとまず終わります。

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フェデリーコ2世紀行2019

この旅行記へのコメント (13)

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  • Januaさん 2019/12/07 04:40:14
    何とここまで行かれているとは・・
    脱帽です。私でも行ったことがないのに・・
    一昔前(もっと前?)、ネット上でちょっと有名なイタリア女性単独旅行の達人のPさんSさんというお二方がそれぞれ別に行かれて線香を焚いた話をブログで読んで、私も行きたいと長年思い続けています。ああ先を越されてしまったという感じです。
    レンタカーは自分には無理なので、やっぱり専用車に頼るしかないなあと悩んでいます。
    お邪魔しました。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2019/12/07 06:37:12
    Re: 何とここまで行かれているとは・・
    二つ目のコメント、うれしく読みました。
    来年は、Torremaggioreに行く予定です。FDIIにちなむお祭りをずっとやっていました。
    カステル・フィオレンティーノに近いので、天候が許せばもう一度行ってみようかと思います。私tたちもお線香を上げてきます。
    PさんとSさんはどのように線香をあげたのでしょうか。Torremaggioreで終焉の部屋の様子を調べて、もし詳しくわかれば、そこで手向けの水とお線香をあげてきます。FDIIとしては、仏式でお参りされるのは迷惑ですかね。いくら彼でも死後何百年もたって、そういう弔問者がくるとは思いもしなかったでしょう。宗教に寛容だった彼ですから、多分喜んでくれると思うのですが。

    Janua

    Januaさん からの返信 2019/12/09 04:56:00
    Re: 何とここまで行かれているとは・・
    こちらにもまたお返事いたします。
    PさんもSさんもいつのまにかブログを閉めてしまわれたため、もうお尋ねすることもできなくなりました。大先輩だったのですが。
    皇帝はきっと仏教というものに興味を示してくれると思います。なんといっても実験精神の人ですから。私もやってみたいです。
  • クリスさん 2019/11/12 07:43:58
    初めまして
    凄いなカステル・フィオレンティーノに行かれたのですか。私もフェデリーコ2世を尊敬しているので、この光景は感動ものですね。
    5年ほど昔になりますかガルガノ半島に出かけたおりにここも行けたらいいのかなと調べたのですが、グーグルで見ると道が途中からオフロードになっていて普通の車だと最後まで行けないかもと思って断念しました。もっとも立ち寄るとスケジュール的にも厳しくなってしまうというのもありましたが。
    乾燥していたから良かったのでしょうが、やはり車を選ばないと難しいようですね。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2019/11/18 11:09:56
    Re: 初めまして
    コメント有り難うございます。お礼が遅れました。またもやヤマトタケルで信州、奈良に行っておりました。
    カステル・フィオレンティーノは本当に行ってよかったと思います。無人の丘の上で、周囲360度、はるか地平線まで動くものがないのです。人も自動車も小さすぎて見えない。
    風力発電の風車と、遠くの町のビルを無視すれば、FDIIが目にしたプーリアの景色と大して変わりはないだろうと思います。
    私たちが訪れた日は快晴、しばらく雨は降っていなかったようで、なんとか前輪駆動車で上がれました。道はダートですが、平地はどうってことはありません。最後の登りは数百メートルです。頂上でのUターンは問題ありません。
    天候と相談ですが、可能であれば行かれることをお勧めします。
  • kummingさん 2019/11/01 17:06:20
    お祝い申し上げます♪
    終章脱稿、おめでとうございます♪
    パレルモ、フォッジア、ルチェラ、メルフィ、バーリー、それから、イェージ博物館とカステルデルモンテ!
    行きたい! けれど、レンタカーでの旅? 1人じゃムリ~
    シチリア行きたい友だちはいても、一緒だとFDl lに特化した旅はムリ~(;_;)
    ならば、
    ひとまず?!
    終章=最終章に非ず??
    という事で、ますます(続編?)期待に胸膨らませつつ、いつか私もプーリアの風に吹かれ、その地に立つ日を夢見ながら。
    ありがとうございました♪

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2019/11/01 20:56:24
    Re: お祝い申し上げます♪
    プーリアの風、いいですね。
    丘の上の風景が一瞬でよみがえります。雲でもなく、青空でもなく、目に見えない風が、あの丘を描写する一番いい言葉です。
    mistralさんにも申し上げましたが、いつの日か、あの丘の風に吹かれることをお勧めします。
    縦の旅と、横の旅があると思います。時間を遡る縦の旅には、とてもいい場所です。カステル・フィオレンティーノでは、kummingさんとFDIIのあいだに何もありません。
    ただ問題は、どうやって行くかですが・・・
  • mistralさん 2019/11/01 14:35:22
    大好きなボリジ(ルリジサ)
    シニアの旅人さん

    「世界の脅威」フェデリーコ二世を訪ねる旅
    最終章の投稿、お疲れさまでした。
    どの章も力作でしたね。
    特に最終章はこころにしみました。

    最後の頃、登場したお花、ボリジ だと思います。
    ハーブです。
    シチリアのセジェスタの神殿で
    やはり風が吹き渡る草原の中、抜けるような青空の下で
    蒼い花を咲かせていたボリジに出会った時
    わ~、私の大好きだったボリジに、こんな地で出会うなんて、
    と一人で感動した事を良く覚えています。

    ここまではレンタカーで辿られたんですよね。
    確かに、このような地に、最寄の交通機関を利用して
    というのは無理そうですね。

    カステル デル モンテのような碑は
    地元の方々のフェデリーコ愛を感じさせられるものですね。

    世界の脅威だったお方のお城も、時の流れに抗うことは出来ず
    廃墟となって、かすかにその痕跡をとどめるにすぎなくても
    こうしてはるばる日本からやってきて、終焉の地をご紹介
    される方の存在に、フェデリーコさんもご満足な想いで
    おられることと想いました。

    mistral

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2019/11/01 20:40:25
    Re: 大好きなボリジ(ルリジサ)
    ポリジ、ネットの花図鑑で確認しました。間違いありません。
    フィオレンティーヌの丘は、今思うと、お花畑でした。ももであさんが教えてくれたレモングラス、ポリジ、もっとほかにも知らない花がありました。ここ700年ほど、人が住んだことはないのですから、人が植えた花ではなく、自然に育った花なのですね。

    -こうしてはるばる日本からやってきて、終焉の地をご紹介
    される方の存在に、フェデリーコさんもご満足な想いで
    おられることと想いました。

    FDII(フェデリーコ2世)もそう思ってくれたら嬉しい。原稿第1稿では土井晩翠の「星落秋風五丈原」を引用して、戦陣に倒れた諸葛孔明とFDIIを重ねて、もっと思いを直接ぶつけようと思ったのですが、押さえました。でもmistralさんには意図は伝わったようで、私たちも嬉しい。

    祁山悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原
    零露の文は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども
    蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今しづか

    で始まる長い叙事詩です。

    カステル・フィオレンティーノは車以外、訪ねる方法はないでしょう。レンタカーが一番ですが、タクシーという手もあります。その場合、場所をちゃんと説明して了解を取っておかないと、丘の麓まできて登ってくれない可能性があると思います。雨だと確実にアウトです。
    でもイタリアを旅するなら、いつか一度あの丘の上に立つことをお勧めします。雲と空と風とプーリアの平原、FDIIの記憶以外なにもありませんが。

    mistral

    mistralさん からの返信 2019/11/01 21:10:36
    Re: 大好きなボリジ(ルリジサ)
    シニアの旅人さん

    フェデリーコ二世の記憶以外何もありません、
    というコメントに
    グッと込み上げてくるものがありますね。
    その地に自ら立った方のお言葉!
    ボリジもレモングラス達も
    いまだに彼の記憶に浸っていることでしょう。

    mistral
  • ももであさん 2019/11/01 12:49:13
    プーリアの丘
    レモングラスに似ていますね。
    でも本当にそうだとすると、花はとても珍しい。

    フェデリーコ2世からのささやかなプレゼントでしょうか。

    千の風が吹いていそうです。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2019/11/01 14:35:00
    Re: プーリアの丘
    コメントありがとうございます。
    レモングラスと葉はよく似ています。気がついたら丘一面に咲いていました。匂いは強いそうですが、丘の上では淡い匂いでした。丘のてっぺんだし、風は吹いていたし、匂いは散っていたのかもしれません。
    贈り物、うれしく受け取っておきます。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2019/11/02 06:32:28
    Re: プーリアの丘
    千の風というのはあれを言うのですね。

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