2019/04/11 - 2019/04/11
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しにあの旅人さん
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7才にもならない少年王フェデリーコ2世は王宮に放置されました。
(フェデリーコ2世紀行-5 パレルモ・クーバの少年)
カントーロヴィチによれば、王室財政は破綻し、食べるものにも困ることもありました。
「ついにこれを憐れんだパレルモ市民はわずかなりとも少年の面倒を見るようになり(中略)ある人は一週間ある人は一ヵ月というように、せめてもの食物を彼に与えたのである」
非常に魅力的な少年だったようです。市民はよろこんで彼の世話をしようと思ったのでした。このころかれはすでに母国語イタリア語のほかに、アラブ語、ギリシャ語を話しました。ラテン語の読み書きもできたそうです。(藤沢)
国際都市パレルモのどこに行っても、貴族、僧侶、商人から乞食まで、だれとでも相手の言葉で話ができたのです。
好き勝手に町を放浪したそうです。「食物を与えた」とありますが、彼がその辺をほっつき歩いていると、商家の主人などは大喜びで「王様、よく来て下さった。食べていって下さい」と、その家のガキどもと一緒に飯を食ったのではないかと、私たちは思っています。
塩野があげたフェデリーコ2世の放浪先のうち、今回はジッザ(Ziza)に行ってきました。
この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。
フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生
https://4travel.jp/travelogue/11505518
なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。パレルモ滞在は4月15日―20日です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
ノルマニ宮殿のヌォーヴォ門からコロナ・ロッタ通り(Via Colinna Rotta)を通ってジッザ庭園まで約1キロ、徒歩15分くらいで着きました。宮殿の城壁からここまで、王家の領地でした。フェデリーコ2世も私たちとほぼ同じ道を辿って、ジッザにやってきたはずです。その時代はレモンやオリーブなどがたわわに実る農場を通る路でした。
☆☆☆
パレルモの中心地は東京なら銀座ですから、美しく整然としておりました。それでも日本から来た私たちには道路に散らばるゴミ類にいらいらさせられていたのですが、それがジーザまで歩いてみると、中心部のゴミなんてゴミじゃないと分かってきました。まず道筋が、曲がるくねる分かれる閉じる・・・「ハアー、だーかーらー、バスに乗ろうと言ったじゃない」出かかった言葉を奥歯で押さえ込み歩きます。歩きます、ひたすら歩きます。だってバス停ははるか向こうに過ぎちゃったし、道端には昼間だっつうのに、男どもが立ち話しているし。その男達の顔が凶悪だし。あれほどヴェネティアでイタリア男はかっこいいー!って叫んでいたのに。同じイタリア人かしら、目つき悪いし。早く早く通り過ぎないと。けれどセカセカ歩けばいいもんでもない。道は犬の〇〇、よっぱらいの〇〇だらけ。雨降りそうだし。
あ~きっと仏滅だわ、今日。と思ってたどり着いたプチ広場。 -
中央に教会があって幕がかけてあります。入口の両端にはシュロが飾ってあります。あれこれ飾ってあるんだけれど、中学のときとか鼻紙で花作って飾ったりしたじゃないですか。なんとなくそういう手作り感。お金はかけないけれど時間はかけました感満々。
そうか、この町の祭りか。あんまりじろじろ見ると怒られるぞと(モロッコで怒られたことあり)、また道を急いだのですが、後でこの旅も終わろうかというころに全ての謎は解かれたのであった! と金田一少年じゃないんだから。
要するに復活祭のお祭りだったのです。私が知っているフランスの復活祭は当日だけミサが行われたりしますが、何週間も前からシュロ、紫の幕で飾ったりはしませんでした。
話は変わりますが、甲子園の全国高校野球大会の「栄光は君に輝く」という歌があります。その3番の歌詞に「若人よ、いざ、緑濃きシュロの葉かざす感激を・・・」とあって、優勝者に与えられる冠はオリーブでしょと謎だったのですが、復活祭のシュロはイエス・キリストの栄光のシンボルだそうです。
いくつになっても教えられることってあるんですね。月桂冠ともいいますね。月桂樹はローリエでまた別の樹です。
謎が解けてみれば道端で立ち話していたおじさんたちも、実は復活祭の打ち合わせだったかも。そういえば素朴な働き者って感じだったわ。なんてまったく無責任BBA。スミマセン。
By妻。 -
ジッザです。背後の三角形の山はモンテ・クッチョ。パレルモ市内からよく見えます。
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私たちは、公園の右隅から入りましたが、チェーザレ・カントゥ通り(Via Cesare Cantu)が正式な入口です。
グリエルモ1世によって起工され、グリエルモ2世の時代1180年ごろ完成しました。王家の夏の離宮でした。 -
宮殿本体。長方形で、長辺36.4m、短辺19.6m、高さ25.7m。3階建てです。2階は、1階、3階にくらべて天井が低く、1階中央の「泉の間」は天井が2階まで達しています。2階は中2階という感じで、3階が寝室などのプライベートスペース、1階がサロンでした。王家の私的な宮殿でした。
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大きなアーチ型の入口から直接室内に入るのではなく、
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このようなかなり広い回廊があります
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3階から見ていくことにします。
中央の間です。3階の一番大きな部屋。 -
その両側に小部屋が何室かあります。
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中央の部屋を挟んでほぼ左右対称です。
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建設当時は漆喰が塗ってありました。
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窓にはこうしたすかし窓がはめ込まれておりました。
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通風をよくするためです。
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見事な細工です。一見して分かりますが、アラビア風です。
すべての窓は、かつては現在のような普通の窓ではなく、このようなすかし窓をはめ込める構造でした。大きさもデザインも違いました。 -
建物のあちこちの鍾乳石飾りもアラビアの好みです。
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これは1階の「泉の間」正面。この建物の中心です。
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最初は暖炉の煙突だと思っていたのですが、通風口です。パレルモの夏は暑い。室内の風通しをよくして、夏を過ごしやすくする工夫です。
小森谷によれば、南の吸気口から取り入れられた外気が館内を一巡し北の排気口に抜ける、アラブ式の冷房システムがあったそうです。これが吸排気口ですね。 -
3階の西側、つまり裏側にはこうした通路がありました。各部屋を通らずに、別々に部屋に入ることができるのです。ヨーロッパの宮殿では、これは珍しい。
☆☆☆
入口近くには若い人たちが屯って、通り過ぎる私たちを見ると、ちょっと声をひそめました。それから前にも増したふざけようで、こういう連中と一緒に見学するのは・・・と危惧していたら、なかに入ったらガラーン。だーれもいない。建物は石だし、意外に広い空間です。家具も何もない単なる骨組みですから広いのは当然ですが。自分たちの歩くクツの音ばかり響きます。
2階3階と進んでいきます。照明は部分的なスポット以外ありません。当時のままということでしょうか。プライベート空間だからか部屋の奥にまた小部屋があったり、階段があったりします。まるで迷路。
と、突然暗がりから黒衣の人がぬっと行く手を遮りました。思わず「ギャっ!」警備の人でした。彼女「フフフ」だって。 -
電気をつけてくれました。なんだあるんじゃない。「アー恥ずかしかった」
と角を曲がった暗がりからまた黒衣の人!「ギャっ!」
だか~ら、迷路みたいって・・・ 学習しろよ私。フェデリーコも「ワッ!」なんて遊んだのかな。私、いい遊び相手だワ。
全部見終わって、庭に出て、今は枯れている噴水、水路を確かめていたら、 -
3階の窓から手を振ってくれました。
人間って言葉は通じなくても心が通うときってあるんだな。
出口にはまだ若い人たちがいました。地元の高校生なんでしょうか。
「何時間しゃべっているんだよ、おまえら」と仲間由紀恵ぽく心の中でののしって通り過ぎました。エヘッ。
by妻。
☆☆☆
フェデリーコ2世がパレルモに呼び寄せられたのは1197年の秋、母コスタンツァが死んだのは98年11月。98年の夏はここで母と過ごした可能性があります。コスタンツァはもう病篤く、少しでも過ごしやすい離宮で暮らしたのではないか。
5月には息子の戴冠式をあげています。ほっとして、人生の最期を愛する子と過ごしたいと思った。史実はともかく、この母と子に最初で最後の夏休みを過ごさせてやりましょう。 -
ふたたび3階の中央の部屋。王のプライベートな居室です。ここで、母は息子と、初めて二人だけの生活を送りました。
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1階、「泉の間」です。中央の溝は、
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水路なのです。
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西側の壁から水が流れます。
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水の出口です。王冠をいただいた鷲のモザイクです。
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ここから出てきた水は高さ1メートルほどの傾斜の水路を流れ下り、
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この水路を東に向かいます。
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イエージのフェデリーコ2世紀博物館の展示です。水が本当に流れているようでした。
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水は外に流れ出て、
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池に流れ込みます。残念ながらあまりいい状態で修復されておりません。
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模型です。かつては池にはキオスクがありました。
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この水路は、現在はジッザ公園の端まで続いております。
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ジッザを振り返ります。
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3階の窓から。この水路がどれほどオリジナルに近いか、分かりません。ここはすべて王領でしたから、このような水路が延々と続いていたとしてもおかしくありません。
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1198年の夏、この部屋にさらさらと清らかな水が流れていました。斜面を流れ落ちる水の音は、涼しげでありました。
初めて水入らずの時を過ごす母と子は、何を語ったでしょうか。子は無邪気に水と戯れても、死を悟った母は、一人残してゆく子の将来に胸ふさがれる思いであったでしょう。
夫、神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ6世の死後、帝国の各地で、ドイツでも、南イタリアでも、シチリアでも反乱が勃発していたのです。
☆☆☆
コスタンツァの死後、フェデリーコ2世はジーザに一人でよく来たのではないでしょうか。夏は快適な離宮です。
ノルマンニ宮殿からこの一帯は王家の荘園でした。柑橘類やオリーブがたわわに実る豊かな農園だったのです。農民は北アフリカ出身のアラビア人でした。アラビア語に堪能なフェデリーコ2世です、彼らと親しく話すことがあったでしょう。 -
ジッザに隣接してサン・ツルニタ(SS.Trinita)教会があります。12世紀の創設です。当時の僧侶は知識人ですから、分からないことがあれば彼らに聞けばいい。
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ここにはジッザが建設される前、ローマ時代のヴィッラがありました。その一部がジーザ入口に展示されています。
フェデリーコ2世は歴史の本を読むのが大好きでした。ラテン語は得意でした。遺跡に囲まれてローマ史を学んでいたのですね。 -
3階の窓から。今は建物が邪魔をしていますが、フェデリーコ2世の時代には、森と農場でした。この方向にはパレルモ大聖堂が見えました。
母が眠っています。
彼がひとり、大聖堂を見つめたこともあったでしょう。
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