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パレルモ大聖堂(Cattedrale di Palermo)<br />フェデリーコ2世の生涯の節目を彩るカテドラーレです。<br /><br />1197年9月28日、フェデリーコ・ルッジェーロの父、神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ6世が、メッシーナで赤痢で急死しました。母コスタンツァは急ぎ息子をフォーリニョからパレルモに呼び戻しました。その子はまだ3才でした。<br />今回の旅行記はカテドラーレから始まります。<br /><br />パレルモ大聖堂ホームページにあるフェデリーコ2世の棺改葬時遺体調査を翻訳しました。13枚目写真の次です。<br /><br />この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。<br />フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生<br />https://4travel.jp/travelogue/11505518<br /><br />なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。パレルモ滞在は4月15日―20日です。

フェデリーコ2世紀行-4 パレルモ・ノルマンニ宮殿の孤児、フェデリーコ2世遺体調査の邦訳

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2019/04/09 - 2019/04/09

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旅行記グループ フェデリーコ2世紀行2019

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

パレルモ大聖堂(Cattedrale di Palermo)
フェデリーコ2世の生涯の節目を彩るカテドラーレです。

1197年9月28日、フェデリーコ・ルッジェーロの父、神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ6世が、メッシーナで赤痢で急死しました。母コスタンツァは急ぎ息子をフォーリニョからパレルモに呼び戻しました。その子はまだ3才でした。
今回の旅行記はカテドラーレから始まります。

パレルモ大聖堂ホームページにあるフェデリーコ2世の棺改葬時遺体調査を翻訳しました。13枚目写真の次です。

この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。
フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生
https://4travel.jp/travelogue/11505518

なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。パレルモ滞在は4月15日―20日です。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 1198年5月17日、コンスタンツアはこの聖堂で息子の戴冠式を行います。フェデリーコ・ルッジェーロは、正式にシチリア国王フェデリーコ2世となりました。<br />しかしこのときコスタンツァはすでに病に冒され、1198年11月27日世を去ります。あと1ヵ月でやっと4才という一人息子を残すことは、文字通り死んでも死にきれない思いであったでしょう。<br />ハインリッヒ6世の死後、ドイツでも、シチリアでも、反乱が勃発していたのです。フェデリーコ2世は一人っ子、信頼できる肉親も、家臣もシチリアにおりません。「狼の群れの中の一匹の子羊」(塩野)として我が子を残し、コスタンツァは死んでゆきました。<br /><br />☆☆☆<br /><br />1209年、フェデリーコ2世14才のとき、ローマ法王インノケンティウス3世のお節介で、結婚することになります。花嫁は「・・・アラゴン王の息女で、ハンガリーの王に嫁いでいたのが夫に死なれ、唯一得た息子にも死なれてスペインに戻っていた人だった。年齢は、フリードリッヒ(フェデリーコ)よりは10才の年長になる」(塩野)<br />名は、母と同じコスタンツァ。母と区別するためにコスタンツァ・アラゴンとよびます。

    1198年5月17日、コンスタンツアはこの聖堂で息子の戴冠式を行います。フェデリーコ・ルッジェーロは、正式にシチリア国王フェデリーコ2世となりました。
    しかしこのときコスタンツァはすでに病に冒され、1198年11月27日世を去ります。あと1ヵ月でやっと4才という一人息子を残すことは、文字通り死んでも死にきれない思いであったでしょう。
    ハインリッヒ6世の死後、ドイツでも、シチリアでも、反乱が勃発していたのです。フェデリーコ2世は一人っ子、信頼できる肉親も、家臣もシチリアにおりません。「狼の群れの中の一匹の子羊」(塩野)として我が子を残し、コスタンツァは死んでゆきました。

    ☆☆☆

    1209年、フェデリーコ2世14才のとき、ローマ法王インノケンティウス3世のお節介で、結婚することになります。花嫁は「・・・アラゴン王の息女で、ハンガリーの王に嫁いでいたのが夫に死なれ、唯一得た息子にも死なれてスペインに戻っていた人だった。年齢は、フリードリッヒ(フェデリーコ)よりは10才の年長になる」(塩野)
    名は、母と同じコスタンツァ。母と区別するためにコスタンツァ・アラゴンとよびます。

  • 8月15日、ここで結婚式は壮麗に行われました。<br />言うまでもなく、法王がフェデリーコに「暴れ馬にならないうちに手綱をつけてしまう」ための政略結婚でした。(塩野)<br /><br />しかし、姉さん女房コスタンツァは法王の期待には添いません。<br />「フリードリッヒ(フェデリーコ)にとっては良き伴侶であり続けた女人であった。自らも人生の苦を味わったせいか、緊張の解けない日々を送る若い夫の心を、優しく穏やかに包み込むことによって解きほぐしたのかもしれない。2年後には、フリードリヒにとっては初めての男子を出産する」(塩野)

    8月15日、ここで結婚式は壮麗に行われました。
    言うまでもなく、法王がフェデリーコに「暴れ馬にならないうちに手綱をつけてしまう」ための政略結婚でした。(塩野)

    しかし、姉さん女房コスタンツァは法王の期待には添いません。
    「フリードリッヒ(フェデリーコ)にとっては良き伴侶であり続けた女人であった。自らも人生の苦を味わったせいか、緊張の解けない日々を送る若い夫の心を、優しく穏やかに包み込むことによって解きほぐしたのかもしれない。2年後には、フリードリヒにとっては初めての男子を出産する」(塩野)

  • しかしこの妻は1222年6月23日、マラリアで世を去ります。<br />その葬儀が行われたのも、このカテドラーレです。フェデリーコ2世27才、妻コスタンツァ39才でした。

    しかしこの妻は1222年6月23日、マラリアで世を去ります。
    その葬儀が行われたのも、このカテドラーレです。フェデリーコ2世27才、妻コスタンツァ39才でした。

  • その29年後、1251年2月15日、フェデリーコ2世自身の葬儀もここで行われました。

    その29年後、1251年2月15日、フェデリーコ2世自身の葬儀もここで行われました。

  • 大聖堂に入って左に、四つの棺が安置されております。配置図です。向かって、<br />1:ハインリッヒ6世(フェデリーコ2世の父)<br />2:グリエルモ:アテネ公爵(1338年没、シチリアを引き継いだアラゴン家の一族)<br />3:コスタンツァ・アルタヴィッラ(フェデリーコ2世の母)<br />4:ルッジェーロ2世(フェデリーコ2世の母方祖父)<br />5:コスタンツァ・アラゴン(フェデリーコ2世の最初の正妻)<br />6:フェデリーコ2世

    大聖堂に入って左に、四つの棺が安置されております。配置図です。向かって、
    1:ハインリッヒ6世(フェデリーコ2世の父)
    2:グリエルモ:アテネ公爵(1338年没、シチリアを引き継いだアラゴン家の一族)
    3:コスタンツァ・アルタヴィッラ(フェデリーコ2世の母)
    4:ルッジェーロ2世(フェデリーコ2世の母方祖父)
    5:コスタンツァ・アラゴン(フェデリーコ2世の最初の正妻)
    6:フェデリーコ2世

  • この配置図の説明ですが、間違いがあります。2と5は入れ替わります。2がグリエルモ:アテネ公爵、5がコスタンツァ・アラゴン。

    この配置図の説明ですが、間違いがあります。2と5は入れ替わります。2がグリエルモ:アテネ公爵、5がコスタンツァ・アラゴン。

  • 4:ルッジェーロ2世(フェデリーコ2世の母方祖父)の棺。

    4:ルッジェーロ2世(フェデリーコ2世の母方祖父)の棺。

  • 1:ハインリッヒ6世(フェデリーコ2世の父)

    1:ハインリッヒ6世(フェデリーコ2世の父)

  • 3:コスタンツァ・アルタヴィッラ(フェデリーコ2世の母)<br />修復中でした。

    3:コスタンツァ・アルタヴィッラ(フェデリーコ2世の母)
    修復中でした。

  • 5:コスタンツァ・アラゴン(フェデリーコ2世の最初の正妻)<br />フェデリーコ2世の向かって左隣です。配置図では「Guglielmo Duca di Atene」となっていますが、まちがいです。

    5:コスタンツァ・アラゴン(フェデリーコ2世の最初の正妻)
    フェデリーコ2世の向かって左隣です。配置図では「Guglielmo Duca di Atene」となっていますが、まちがいです。

  • ラテン語で読めませんが、上段右から2番目の単語は「CONSTANTIA」です。塩野によれば「・・・棺には、フリードリッヒの命ずるままに、次の一句が刻まれていた。――皇后でありシチリア王国の王妃であったコスタンツァ、ここに眠る。あなたのフリードリッヒ、それを記す」<br />下段最後の「FEDERICE・TVA」とは「あなたのフリードリッヒ」という意味だそうです。<br />パレルモ大聖堂のホームページもこの石棺をコスタンツァ・アラゴンとしております。<br />http://www.cattedrale.palermo.it/visitavirtualemobile2018/20%20navata%20meridionale%20tomba%20enrico%20VI.htm

    ラテン語で読めませんが、上段右から2番目の単語は「CONSTANTIA」です。塩野によれば「・・・棺には、フリードリッヒの命ずるままに、次の一句が刻まれていた。――皇后でありシチリア王国の王妃であったコスタンツァ、ここに眠る。あなたのフリードリッヒ、それを記す」
    下段最後の「FEDERICE・TVA」とは「あなたのフリードリッヒ」という意味だそうです。
    パレルモ大聖堂のホームページもこの石棺をコスタンツァ・アラゴンとしております。
    http://www.cattedrale.palermo.it/visitavirtualemobile2018/20%20navata%20meridionale%20tomba%20enrico%20VI.htm

  • 6:フェデリーコ2世。

    6:フェデリーコ2世。

  • フェデリーコ2世の墓碑銘です。お花が供えられています。献花していいのなら、私たちもしたかった。<br /><br />小森谷によると、18世紀末の聖堂の改造工事前には、この墓所は内陣の右手というよい位置を占めていたそうです。今は聖堂に入ってすぐ左です。「シチリアが誇るべき偉大な君主たちの石棺は、内陣からはるかに離れた南西の隅に追いやられている」<br />アッシジのカテドラーレ・サン・ルッフィーノで私たちが感じた、イタリア人は妙にフェデリーコ2世によそよそしいのではないかという印象を、ふたたび強くしました。<br /><br />☆☆☆<br /><br />フェデリーコ2世遺体調査<br /><br />パレルモ大聖堂のホームページによれば、フェデリーコ2世の棺は2度改葬されています。1度目は1781-1801年にかけて、2度目は1994年。<br />その写真がホームページに掲載されています。遺体の写真ですのでここには載せません。リンクは下記です。下に少しスクロールして下さい。グロテスクなものではありませんが、遺体ですのでご注意願います。<br />http://www.cattedrale.palermo.it/visitavirtualemobile2018/21%20navata%20meridionale%20tomba%20federico%20II.htm<br /><br />18世紀末の改葬時の写生が、いかほど生前の彼の面影を残しているか分かりません。フェデリーコ2世ファンである私としては、あまり気がすすまなかったのですが、こういうブログを書く以上、見ないわけにはいきません。<br />フェデリーコ2世に憧れている方は、見ない方がいいかもしれません。<br /><br />これによると、1度目の改葬の時の写生図ではフェデリーコ2世1名でしたが、2度目の改葬時には、3名でした。男女1名ずつが、左右に安置されています。<br />男性はPietro D’Aragona。(詳細不明)<br />女性の遺体は、氏名不明です。<br /><br />私たちはフェデリーコ2世についてかなり調べたつもりです。でもこのカテドラーレのホームページを知りませんでした。専門家には周知の事実かも知れませんが、ご参考のため遺体調査を翻訳しておきます。<br />翻訳は、まず機械翻訳でイタリア語をフランス語、英語、日本語にし、主にフランス語文を訳しました。英語、日本語も参考にしました。衣服用語などはイタリア語原文が役に立ちました。私の訳の方が日本語の機械翻訳より多少分かりやすいと思います。<br />私のイタリア語レベルは初歩の初歩、でも辞書を頼りに分かった単語だけつなげると、判読できることもあります。「蘭学事始」の雰囲気です。それにしても靴の部分は分からなかった。仏、英、日の機械翻訳も意味不明で、元のイタリア語に欠落があるんじゃないかな。<br />分からない部分は意訳しましたが、大筋ではだいたいこんなところだと思います。<br /><br />(ホームページ写真右が1994年改葬時の棺の中の様子)<br />3体は、フレデリック II の石棺の中に発見されました。右側の最初の1体は袋状に縫われた国王風のマントに覆われ、側には剣が置かれていました。(Pietro D’Aragona )<br />2体目は白骨化し、最初の1体の下に腕を差し入れ、すり切れた幕に覆われ、価値のない石をちりばめた二つの金の指輪をしていました。(未知の女性)<br />3体目(フェデリーコ2世)は非常に良く保存され、皮の枕をし、傍らには、十字架を欠く金属の球体が安置されていました。<br /><br />(左が1781-1801年改葬時の棺の中の様子)<br />フェデリーコ2世の遺体があらわれました<br />頭には頂天が開いた王冠をいただき、王冠は輝く銀光線があしらわれ、小さな真珠と石が飾られております。<br />3枚の衣服を纏っております。最初の1枚はアマ布で、脇腹近くにアマの糸、絹の刺繍による旭日に似た模様があり、左の上腕骨の下には十字架、両手にはクーフィック文字(古代アラビア文字の書体-訳注)による「I」の文字。<br />2枚目は明るい赤の絹で、広い袖と飾り紐をもち、ダルマティカに似ています。(古代ギリシャ、ローマ人が着用した、脇の裂けた膝までの衣類。本来は白衣―訳注)金縁銀色のバラの刺繍がある帯を締めています。<br />3枚目は同色の絹のピヴイァーレ(カトリックの式典で用いるマント風の祭服-訳注)で、鷲が刺繍され、楕円形で金の留め金の帯を締めています。留め金は中央にアメジスト、周囲に20の小さなエメラルド。両太股とアマ布で覆われた両足の上には四つの大きな真珠。<br />上部が刺繍された靴下と鹿革の靴。靴には拍車。(靴の部分は意訳です)<br />左の脇腹に鞘の一部をともなったさびた剣がおかれ、剣には鉄製の鍔と、金縁の木製のつか。銀のすじの入った絹の飾り紐がついた金縁の銀の糸で作られた佩剣帯。<br />手袋はしておらず、金色に塗られた両手は腹の上で合わされ、右手中指には大きなエメラルドが嵌められた金の指輪。<br />(F.Daniele、パレルモ・カテドラルの王家墓所、(版権?)承認すみ、挿絵入り。ナポリ1839年第2版)

    フェデリーコ2世の墓碑銘です。お花が供えられています。献花していいのなら、私たちもしたかった。

    小森谷によると、18世紀末の聖堂の改造工事前には、この墓所は内陣の右手というよい位置を占めていたそうです。今は聖堂に入ってすぐ左です。「シチリアが誇るべき偉大な君主たちの石棺は、内陣からはるかに離れた南西の隅に追いやられている」
    アッシジのカテドラーレ・サン・ルッフィーノで私たちが感じた、イタリア人は妙にフェデリーコ2世によそよそしいのではないかという印象を、ふたたび強くしました。

    ☆☆☆

    フェデリーコ2世遺体調査

    パレルモ大聖堂のホームページによれば、フェデリーコ2世の棺は2度改葬されています。1度目は1781-1801年にかけて、2度目は1994年。
    その写真がホームページに掲載されています。遺体の写真ですのでここには載せません。リンクは下記です。下に少しスクロールして下さい。グロテスクなものではありませんが、遺体ですのでご注意願います。
    http://www.cattedrale.palermo.it/visitavirtualemobile2018/21%20navata%20meridionale%20tomba%20federico%20II.htm

    18世紀末の改葬時の写生が、いかほど生前の彼の面影を残しているか分かりません。フェデリーコ2世ファンである私としては、あまり気がすすまなかったのですが、こういうブログを書く以上、見ないわけにはいきません。
    フェデリーコ2世に憧れている方は、見ない方がいいかもしれません。

    これによると、1度目の改葬の時の写生図ではフェデリーコ2世1名でしたが、2度目の改葬時には、3名でした。男女1名ずつが、左右に安置されています。
    男性はPietro D’Aragona。(詳細不明)
    女性の遺体は、氏名不明です。

    私たちはフェデリーコ2世についてかなり調べたつもりです。でもこのカテドラーレのホームページを知りませんでした。専門家には周知の事実かも知れませんが、ご参考のため遺体調査を翻訳しておきます。
    翻訳は、まず機械翻訳でイタリア語をフランス語、英語、日本語にし、主にフランス語文を訳しました。英語、日本語も参考にしました。衣服用語などはイタリア語原文が役に立ちました。私の訳の方が日本語の機械翻訳より多少分かりやすいと思います。
    私のイタリア語レベルは初歩の初歩、でも辞書を頼りに分かった単語だけつなげると、判読できることもあります。「蘭学事始」の雰囲気です。それにしても靴の部分は分からなかった。仏、英、日の機械翻訳も意味不明で、元のイタリア語に欠落があるんじゃないかな。
    分からない部分は意訳しましたが、大筋ではだいたいこんなところだと思います。

    (ホームページ写真右が1994年改葬時の棺の中の様子)
    3体は、フレデリック II の石棺の中に発見されました。右側の最初の1体は袋状に縫われた国王風のマントに覆われ、側には剣が置かれていました。(Pietro D’Aragona )
    2体目は白骨化し、最初の1体の下に腕を差し入れ、すり切れた幕に覆われ、価値のない石をちりばめた二つの金の指輪をしていました。(未知の女性)
    3体目(フェデリーコ2世)は非常に良く保存され、皮の枕をし、傍らには、十字架を欠く金属の球体が安置されていました。

    (左が1781-1801年改葬時の棺の中の様子)
    フェデリーコ2世の遺体があらわれました
    頭には頂天が開いた王冠をいただき、王冠は輝く銀光線があしらわれ、小さな真珠と石が飾られております。
    3枚の衣服を纏っております。最初の1枚はアマ布で、脇腹近くにアマの糸、絹の刺繍による旭日に似た模様があり、左の上腕骨の下には十字架、両手にはクーフィック文字(古代アラビア文字の書体-訳注)による「I」の文字。
    2枚目は明るい赤の絹で、広い袖と飾り紐をもち、ダルマティカに似ています。(古代ギリシャ、ローマ人が着用した、脇の裂けた膝までの衣類。本来は白衣―訳注)金縁銀色のバラの刺繍がある帯を締めています。
    3枚目は同色の絹のピヴイァーレ(カトリックの式典で用いるマント風の祭服-訳注)で、鷲が刺繍され、楕円形で金の留め金の帯を締めています。留め金は中央にアメジスト、周囲に20の小さなエメラルド。両太股とアマ布で覆われた両足の上には四つの大きな真珠。
    上部が刺繍された靴下と鹿革の靴。靴には拍車。(靴の部分は意訳です)
    左の脇腹に鞘の一部をともなったさびた剣がおかれ、剣には鉄製の鍔と、金縁の木製のつか。銀のすじの入った絹の飾り紐がついた金縁の銀の糸で作られた佩剣帯。
    手袋はしておらず、金色に塗られた両手は腹の上で合わされ、右手中指には大きなエメラルドが嵌められた金の指輪。
    (F.Daniele、パレルモ・カテドラルの王家墓所、(版権?)承認すみ、挿絵入り。ナポリ1839年第2版)

  • 現在の聖堂は、建設以来何度も改修が行われ、内部も外部も創建当時の面影をほとんど残していません。

    現在の聖堂は、建設以来何度も改修が行われ、内部も外部も創建当時の面影をほとんど残していません。

  • 比較的オリジナルに近いのは、この後陣といわれています

    比較的オリジナルに近いのは、この後陣といわれています

  • 大聖堂の入口にいた犬です。もう1頭、セパードの雑種とコンビで大聖堂近くの道をうろついていました。2頭で仲良くカフェに入っていくのも見ました。街で飼われているみたい。忠犬パレ公と名づけました。フェデリーコ2世とは何の関係もありません。<br /><br />イタリアでは野良犬をよく見ました。どの犬も精気がなく、だからと言って、死にそうでもなく、人間には一定の距離を保ちつつ暮らしているようでした。昼間は日向でぐったりと寝ているふうでしたが、眠ったふりで人々を冷めた目で観察しているんじゃないか。そして大河ドラマで主人公の一部始終を見守っている脇役みたいに、実はフェデリーコ2世の生涯を見つめ続けてきたのではないか・・・<br />なんて想像させるメランコリックな犬でした。<br />by妻

    大聖堂の入口にいた犬です。もう1頭、セパードの雑種とコンビで大聖堂近くの道をうろついていました。2頭で仲良くカフェに入っていくのも見ました。街で飼われているみたい。忠犬パレ公と名づけました。フェデリーコ2世とは何の関係もありません。

    イタリアでは野良犬をよく見ました。どの犬も精気がなく、だからと言って、死にそうでもなく、人間には一定の距離を保ちつつ暮らしているようでした。昼間は日向でぐったりと寝ているふうでしたが、眠ったふりで人々を冷めた目で観察しているんじゃないか。そして大河ドラマで主人公の一部始終を見守っている脇役みたいに、実はフェデリーコ2世の生涯を見つめ続けてきたのではないか・・・
    なんて想像させるメランコリックな犬でした。
    by妻

  • (この絵は17世紀のノルマンニ宮殿を描いたものです。宮殿近くの歩道の案内板です)<br /><br />1198年、母コスタンツァの死のときに戻ります。フェデリーコ2世は、このノルマンニ宮殿に一人取り残されました。コスタンツァは死に臨んで法王インノケンティウス3世に息子の後見を頼みました。<br />それでもシチリアの支配を狙う獰猛な封建領主どもは、イタリア派とドイツ派に分かれ、フェデリーコ2世を錦の御旗に立てようと、争奪戦を始めます。<br />塩野によれば、1201年10月、ドイツ派がパレルモのこの城の城門まで攻め込みました。

    (この絵は17世紀のノルマンニ宮殿を描いたものです。宮殿近くの歩道の案内板です)

    1198年、母コスタンツァの死のときに戻ります。フェデリーコ2世は、このノルマンニ宮殿に一人取り残されました。コスタンツァは死に臨んで法王インノケンティウス3世に息子の後見を頼みました。
    それでもシチリアの支配を狙う獰猛な封建領主どもは、イタリア派とドイツ派に分かれ、フェデリーコ2世を錦の御旗に立てようと、争奪戦を始めます。
    塩野によれば、1201年10月、ドイツ派がパレルモのこの城の城門まで攻め込みました。

  • この門ですね。ルネッサンス期にファッサードは改築されたそうです。

    この門ですね。ルネッサンス期にファッサードは改築されたそうです。

  • 現在の王宮入り口です。17世紀そのままです。フェデリーコ2世の少年時代は、外壁の装飾は違っていたでしょう。

    現在の王宮入り口です。17世紀そのままです。フェデリーコ2世の少年時代は、外壁の装飾は違っていたでしょう。

  • ここでドイツ派の首領マルコバルトは開門を迫ります。守備隊は戦わずして降伏しました。

    ここでドイツ派の首領マルコバルトは開門を迫ります。守備隊は戦わずして降伏しました。

  • フェデリーコ2世の拉致を目指して兵士が中庭に乱入します。

    フェデリーコ2世の拉致を目指して兵士が中庭に乱入します。

  • 現在の中庭は17世紀に改築されたもので、中世の建築物はこのなかに組み込まれました。<br /><br />カントーロヴィチによれば、フェデリーコ2世は、唯一の彼の味方、家庭教師グイエルモ・フランチェスコに導かれて宮殿の奥に閉じこもります。

    現在の中庭は17世紀に改築されたもので、中世の建築物はこのなかに組み込まれました。

    カントーロヴィチによれば、フェデリーコ2世は、唯一の彼の味方、家庭教師グイエルモ・フランチェスコに導かれて宮殿の奥に閉じこもります。

  • ルッジェーロ王の間、ここは王家のプライベートスペースでした。ここのどこかに避難したのでしょうか。

    ルッジェーロ王の間、ここは王家のプライベートスペースでした。ここのどこかに避難したのでしょうか。

  • ノルマンニ宮殿は中世以降何回も大規模な改修が行われています。それでもこの王家の居室は当時の面影を残しているそうです。

    ノルマンニ宮殿は中世以降何回も大規模な改修が行われています。それでもこの王家の居室は当時の面影を残しているそうです。

  • 12世紀の、まばゆいアラブ・ノルマン様式の天井です。

    12世紀の、まばゆいアラブ・ノルマン様式の天井です。

  • パラティーナ礼拝堂。

    パラティーナ礼拝堂。

  • この礼拝堂は12世紀半ばに祖父ルッジェーロ2世が作ったものです。

    この礼拝堂は12世紀半ばに祖父ルッジェーロ2世が作ったものです。

  • 内陣の「天使に囲まれたキリスト」は12世紀にはここにありました。

    内陣の「天使に囲まれたキリスト」は12世紀にはここにありました。

  • ここをグイエルモ・フランチェスコとフェデリーコ2世は走り抜けたでしょうか。

    ここをグイエルモ・フランチェスコとフェデリーコ2世は走り抜けたでしょうか。

  • 中央身廊西壁、「立法者キリスト」 このモザイクも12世紀の作品です。

    中央身廊西壁、「立法者キリスト」 このモザイクも12世紀の作品です。

  • このキリストは逃げ惑う2人を見ていたのですね。

    このキリストは逃げ惑う2人を見ていたのですね。

  • 内陣祭壇背後。キリストがもつ本にはギリシャ語とラテン語で「私に従うものは闇を歩くことはなく、命の光明を得るであろう」と書いてあります。フェデリーコ2世はこのころすでにラテン語もギリシャ語も読めました。城内に響く兵士の鎧の音を聞きながら、思ったのではないか。「ぼくは従ってきたよ」

    内陣祭壇背後。キリストがもつ本にはギリシャ語とラテン語で「私に従うものは闇を歩くことはなく、命の光明を得るであろう」と書いてあります。フェデリーコ2世はこのころすでにラテン語もギリシャ語も読めました。城内に響く兵士の鎧の音を聞きながら、思ったのではないか。「ぼくは従ってきたよ」

  • 中央身廊南壁「ダマスカスにおけるパウロの洗礼」

    中央身廊南壁「ダマスカスにおけるパウロの洗礼」

  • 南身廊中央壁、窓の右「ダマスカスにおけるパウロの洗礼」 左「サウル王の改宗」

    南身廊中央壁、窓の右「ダマスカスにおけるパウロの洗礼」 左「サウル王の改宗」

  • 南身廊南壁、左「パウロとキリストの論争」右「ペテロの牢からの開放」<br /><br />神の家で、王である自分が賤しい臣下から逃げ惑う。早熟で聡明なフェデリーコ2世が感じた不条理が、後年の彼の「反キリスト」といわれる思想をはぐくんだ、というのは考えすぎでしょうか。<br />私たち日本人なら、「神も仏もあるものか」<br /><br />「モーゼ、キリスト、マホメットは世界三大詐欺師」だとフェデリーコ2世が言った、というのが、1228年教皇グレゴリウス9世が彼を破門した理由の一つ。ただしこれは16世紀のさる史書によるでっちあげだそうです。(菊池)<br />が、「火のないところに煙はたたぬ、という。でっちあげにも一辺の真理は含まれている。たしかにフリードリッヒは「世界3大詐欺師」という言葉を口にこそ出していわなかったが、その心底では何度か呟いたことだろう」(菊池)<br />聡明な子供がこういう目にあえば、後年そう思うのも無理はないでしょう。<br /><br />カントーロヴィチからの要約です<br />見張り番の裏切りにより、追手は彼の居室に侵入してきます。追手は彼を捕らえようとします。<br />引用します。<br />「・・・小さき王は望みなき争いであったにもかかわらず、触れるに値しない者が不当にも自分に触れることの嫌悪感に駆られて侵入者に飛びかかり、主により塗油された者たる自分にあえて触れようとした追手の手をなんとかへし折ろうとした。これが失敗に終わると、彼は自分の王衣の紐を解き、衣服を苦痛に満ちながら引き裂いて、鋭い爪でもって自分の体を掻きむしったのである。これは、聖別された王の威厳に危害を加えようとする者に対する少年の激しい粗暴さと計り知れぬ怒りの噴出であった」<br />侵入者はフェデリーコ2世の拉致をあきらめました。<br /><br />この情景は後見人である法王インノケンティウス3世に報告されています。<br />カントーロヴィチによれば報告は、<br />「王としての心情の高貴さを放棄できず、猛獣が彼に触れるとシナイ山のように自らが辱めを承けたと感ずる将来の支配者の善き前触れ」<br /><br />塩野によれば、その報告の最後はこう終わります。<br />「少年の王のこのときの気狂いじみたと言ってよい振る舞いは、恐怖や絶望から出たものではなかったのです。家臣の分際にすぎない人物から身体に手をかけられるという、王でありながらもその実権は持っていない自分の現在の状態への強烈な怒りから出た行為であったのでした」<br /><br />フェデリーコ2世6才10ヵ月のことです。

    南身廊南壁、左「パウロとキリストの論争」右「ペテロの牢からの開放」

    神の家で、王である自分が賤しい臣下から逃げ惑う。早熟で聡明なフェデリーコ2世が感じた不条理が、後年の彼の「反キリスト」といわれる思想をはぐくんだ、というのは考えすぎでしょうか。
    私たち日本人なら、「神も仏もあるものか」

    「モーゼ、キリスト、マホメットは世界三大詐欺師」だとフェデリーコ2世が言った、というのが、1228年教皇グレゴリウス9世が彼を破門した理由の一つ。ただしこれは16世紀のさる史書によるでっちあげだそうです。(菊池)
    が、「火のないところに煙はたたぬ、という。でっちあげにも一辺の真理は含まれている。たしかにフリードリッヒは「世界3大詐欺師」という言葉を口にこそ出していわなかったが、その心底では何度か呟いたことだろう」(菊池)
    聡明な子供がこういう目にあえば、後年そう思うのも無理はないでしょう。

    カントーロヴィチからの要約です
    見張り番の裏切りにより、追手は彼の居室に侵入してきます。追手は彼を捕らえようとします。
    引用します。
    「・・・小さき王は望みなき争いであったにもかかわらず、触れるに値しない者が不当にも自分に触れることの嫌悪感に駆られて侵入者に飛びかかり、主により塗油された者たる自分にあえて触れようとした追手の手をなんとかへし折ろうとした。これが失敗に終わると、彼は自分の王衣の紐を解き、衣服を苦痛に満ちながら引き裂いて、鋭い爪でもって自分の体を掻きむしったのである。これは、聖別された王の威厳に危害を加えようとする者に対する少年の激しい粗暴さと計り知れぬ怒りの噴出であった」
    侵入者はフェデリーコ2世の拉致をあきらめました。

    この情景は後見人である法王インノケンティウス3世に報告されています。
    カントーロヴィチによれば報告は、
    「王としての心情の高貴さを放棄できず、猛獣が彼に触れるとシナイ山のように自らが辱めを承けたと感ずる将来の支配者の善き前触れ」

    塩野によれば、その報告の最後はこう終わります。
    「少年の王のこのときの気狂いじみたと言ってよい振る舞いは、恐怖や絶望から出たものではなかったのです。家臣の分際にすぎない人物から身体に手をかけられるという、王でありながらもその実権は持っていない自分の現在の状態への強烈な怒りから出た行為であったのでした」

    フェデリーコ2世6才10ヵ月のことです。

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フェデリーコ2世紀行2019

この旅行記へのコメント (9)

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  • Januaさん 2019/12/07 04:32:51
    私はいつも薔薇をお供えします
    こんにちは。私も皇帝のファンです。
    パレルモの大聖堂には何度か行っていますが、毎回お花を買ってお供えしています。でも先客が必ずいるんです。
    ということで、同志たちがやっているのだとお考え下さい。
    私も皇帝の足跡を訪ねていまして、プーリアの城は色々訪問しました。来年はラーゴペゾーレ城に行きたいと考えています。
    お邪魔しました。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2019/12/07 06:08:28
    Re: 私はいつも薔薇をお供えします
    コメント有り難うございます。
    やはりバラは同志の方の献花ですか。ブログにも書きましたが、パレルモ大聖堂のホームページでFDIIの遺体スケッチを見たときはショックでした。あの豪華な棺の中で、あの表情で今も眠っているのですね。もう一度パレルモに行くことがあれば、私もバラをお供えしようと思いました。
    私たちも来年3月-4月もう一度イタリアに行きます。Gioia del Colleに7泊する予定です。ビアンカ・ランチアが見たのと同じ景色を見ることができたらいいなと思っています。
    ラーゴペゾーレにはFDIIの博物館があるそうですね。Gioia del Colleから遠くないので、私たちも行ってみるつもりです。

    Janua

    Januaさん からの返信 2019/12/09 04:52:35
    Re: 私はいつも薔薇をお供えします
    シニアの旅人さま
    実は二度目の棺の調査時、ちょうど私は大聖堂に行って、開けているところを実際に見ました。中までは覗けませんでした。その時はもうスケッチのようなミイラ状態ではなく完全に骨になっていたようです。しかし三人一緒なので窮屈そうです。ちゃんと別々に葬って差し上げれば良いのにと思ってしまいます。
    ジョイア・デル・コッレ行きました。美女ビアンカはほとんど幽閉状態だったようですが・・。
  • cokemomoさん 2019/08/08 12:26:44
    赤い薔薇
    シニアの旅人さん、こんにちは。
    毎日毎日暑いですが、お二人とも夏負けしないよう気をつけてお過ごしくださいね。

    私が行きました時もフェデリーコ2世の棺に赤い花束が2つ供えられていました。
    1つには白い薔薇が一本加わっていましたっけ。
    私も持って来ればと思ったり、今もこうしてお花を供えてくれる方がいる事が嬉しかったりしました。
    棺の調査で三人のご遺体が見つかったことは、Fiorenzaさんから教えていただいたものの、詳細は知らないままでしたから、シニアの旅人さんの翻訳をありがたく拝見しました。

    王宮は前々回にモザイクを見に行ったきり、その当時は塩野本も読んでなくて。
    この旅行記で懐かしく写真を見つつ、シニアの旅人さんの文章に往時のフェデリーコ2世の姿が浮かんできて、重なるというとても贅沢な体験ができました。

    それでは、また。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2019/08/13 08:47:02
    Re: 赤い薔薇
    コメント有り難うございました。
    なんとかこの暑さを生き残るべく、朝夕涼しいときに庭仕事などはすませ、昼間は寝ております。
    cokemomoさんもご自愛下さい。

    あのバラはだれがお供えするのでしょうか。カテドラーレのだれかでしょうか。
    棺の遺体の写真は、墓所の説明板の近くに掲示されておりましたので、だれでも見ることはできたはずですが、話題にする人は少ないようです。ただそれがカテドラーレのホームページにあるとは、私も別の資料を探していて偶然見つけました。
    3人目の白骨遺体は、ビアンカ・ランチャではないかという説もあるとあるブログに書いてありましたが、根拠が全然示されていないので取り上げませんでした。この件、なにかご存知ですか。
    2人目のPietro D’Aragonaはれっきとしたシチリア・アラゴン王朝の王様ですから、3人目もいずれは名のある方なのでしょう。ただ衣装がとても貧弱です。そもそもカテドラーレ自身が「未知の女性」と言っているのが気になります。2人目がPietro D’Aragonaと分かっているのに、そんなはずはないと思うのですが。
    仮に3人目がビアンカ・ランチャだとして、それを隠す理由はなんでしょう。ローマ法王から正式に皇后と認められなかったからでしょうか。
    来年もう一度パレルモに行って調べてみようかと、今ちらっと思いつきましたが、どうしようかな。

    もうそろそろイタリアを卒業しないと、こっちの寿命の範囲内でほかに行けなくなっちゃう。イタリアは深みにはまりますね。
  • cookieさん 2019/07/24 23:00:06
    すすすごいですねー
    こんばんは シニア旅人さん

    ちょっと すごすぎて 恐れ入りました。。
    私のフレディ追いかけてるのとは ちゃいまする。。。
    爆笑

    残念なのは フレデリック2世の時のままの宮殿(入り口)に 復旧してほしいですよね。。
    無理な話しだーー
    まー 中は そのままだということで 安心ですが。。
    やっぱり フレデリーコ 2世って 本当に 凄い人だったんですね。

    それでは また ゆっくり遊びに(読ませて、いただきます。)きますね
    もう 晩が遅いんで もう脳みそが シャットダウンなのです。。

    では では 明日にでも。。。
    cookie

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2019/07/25 06:36:28
    Re: すすすごいですねー
    おはようございます。
    コメントありがとうございます。楽しんでいただければ嬉しい。フェデリーコ2世紀行前半の山場でして、そこのところを感じ取っていただいたので、これからも腕によりをかけて、ますますぐだぐだと理屈をこねます。
    こういう文章どっさり派は、4traでも異端なので、読んでくれる方がいるのはとても励みになります。
    チェーザレ・ボルジアの旅行記見つけました。読ませていただきます。
  • kummingさん 2019/07/09 17:12:42
    ありがとうございます♪
    素晴らしい♪
    パレルモ大聖堂の写真に始まり、皇后かつシチリア王国王妃、フェデリーコ2世の妻コンスタンツアの棺(これが父王ハインリヒがどこぞから運ばせた、男性用の棺?)、フェデリーコ2世が臨終の際息子に「アレを」と指示した、生前から用意していた赤大理石の棺、更に、棺改装時の写真とシニアの旅人さん渾身の翻訳付き解説(°_°)
    棺が改装されるとは、知りませんでしたし、その写真が公開されているとは、びっくりの2乗でした!
    イタリアはカソリックの国なので、明らかにローマ法皇と対立しあからさまに対抗し続けたフェデリーコ2世の立ち位置が、現在不当に貶められている?とは、とっても悲しい情報です(;_;)
    ノルマン宮殿で少年フェデリーコ2世の拉致を目指すドイツ派兵士に追い詰められ、自らの身体を掻きむしって抵抗したという、エピソード、幼くして既に有していた生まれながらの誇り高い精神が考えついた、最上の自己防御術でしょうか(笑)
    触れるに値しない者が不当にも自分に触れる事への嫌悪感、聖別された王の威厳に危害を加えようとする者に対する激しい粗暴さ、計り知れぬ怒りの噴出… このくだりは塩野本でも印象的でした。
    私も、忠犬パレ君に準じる!?フェデリーコ2世があと400年後の時代に生まれていたら!と思わずにはいられない、フェデリーコ2世信奉者の1人です^ ^
    ますます、続編、心待ちにしておりまする~

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2019/07/10 17:07:02
    Re: ありがとうございます♪
    コメント有り難うございます。
    びっくりしていただいてうれしい。遺体の調査書の邦訳紹介は、もしかすると日本最初かな。
    改葬時の写真も載せようかと思って、準備したのですが、希望者だけということで、リンクを張るだけにしました。初めて見たとき、私自身、切ない思いがしました。

    コスタンツアの棺は、確かに男性用らしく、勇壮なレリーフです。一方間違えられた相手の棺は女性が横たわっているような優しい彫刻なのです。紹介すればよかったですね。それで聖堂の展示担当者も間違えたのではないかな。でも棺の覆いにはっきりと、ラテン語とはいえ、名前が彫ってあるのですが。

    ノルマンニ宮殿でのフェデリーコ2世拉致未遂事件は、たしかに塩野の本前半クライマックスですね。私も何度も読みました。カントーロヴィチの本は塩野も読んでおりまして、それと重複しないようにこの場面を書いています。カントーロヴィチも読まれると、この場面がもっとイキイキとイメージできます。とにかく高い本ですから、図書館で借りることをお勧めします。私はフェデリーコ2世ワールドへの入場料だと思って買いました。

    次回以降は塩野がちょこっと触れているクーバ、ジッザです。

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