2019/04/07 - 2019/04/07
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しにあの旅人さん
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コスタンツァ・アルタヴィッラは、シチリア王国唯一の王位継承者でした。神聖ローマ帝国皇帝であるフリードリッヒ1世の息子、ハインリッヒと結婚しました。当時ですから、当然政略結婚です。
ハインリッヒが父の後を継ぎ神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ6世となりました。ハインリッヒはコスタンツァの夫として、同時にシチリア国王でもあるのです。
ハインリッヒ6世は1194年12月パレルモのカテドラルで戴冠式をあげるため、身重の妻を残してシチリアに先行しました。コスタンツァは戴冠式に参列すべく旅を急いでいましたが、途中イエージで産気づいてしまったわけです。
この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。
フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生
https://4travel.jp/travelogue/11505518
今回は特に下記にお世話になりました
☆ニックネームliturgia「アッシジのフランシスコ その政治的及び社会的歴史(2)」
(https://liturgia.exblog.jp/7693726/)
引用は「liturgia」
この方は中世カトリック史とイタリア史の専門家とお見受けしました。12-13世紀の歴史に非常に詳しく、ありがたく参考にさせていただきました。特にコンラート夫人に関する情報は貴重でした。ご本人がプロフィルで何も語っておられませんので経歴など詳細は不明です。
なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。イエージは4月7日、フォーリニョ8日が実際の訪問日です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
(13世紀のミニチュア画。博物館パネルより)
コスタンツァは、産後旅を続ける体力が回復すると、パレルモの夫に合流すべくイエージを旅立ちました。
息子コスタンティーノを、女官長コンラッド夫人に託します。先を急ぐドイツの兵士に馬を引かれ、後ろ髪引かれる思いで息子を手渡したのです。コンラッド夫人は赤ちゃんをおくるみで受け取ります。
コンラッド夫人の夫はスポレート侯爵です。「liturgia」によれば、夫はドイツ人でウルスリンゲン公爵、神聖ローマ帝国皇帝フレデリック1世の信任が厚く、1174年にスポレート侯爵に任ぜられ(博物館パネル)、アッシジ、フォーリニョなどの領主でした。
彼女自身はアッシジに近いノチェーラ生まれのイタリア人とのことです。スポレート侯が領国の民に受け入れられるようにと、彼女を妻としたのです。(「liturgia」)
この絵、そして出産直後の絵でも、コンラッド夫人は40才のコスタンツァと同じか少し若い程度に見えます。1174年にイタリアに来てすぐのスポレート侯爵と、20歳前後で結婚したとすると、ほぼ同年配ということで、絵の年齢と一致します。
コスタンツァがどのくらいドイツ語を話せたか分かりませんが、ドイツ人主体の神聖ローマ帝国宮廷で、自分の言葉であるイタリア語で話せるコンラッド夫人を信頼したことは十分理解できます。
コンラッド夫人はコスタンティーノを、彼女の生まれ故郷に近い
フォーリニョに連れて行き、ここで3才まで育てました。
この3年間については、博物館パネルは信頼すべき情報がないと書いています。キュレーターに直接聞きましたが、フォーリニョで育ったこと以外、分からないそうです。
フォーリニョ市にメールで、コンラッド夫人は市のどこでフェデリーコ2世を育てたか問い合わせましたが、返事がありませんでした。
1927年発表のカントーロヴィチの著作は、フェデリーコ2世研究の底本といわれております。邦訳2段組734ページという浩瀚なものですが、この時期のコスタンティーノについてはなにも書いておりません。
要するに分からないということですね。
彼の揺籃の地の雰囲気だけでも知ろうと、フォーリニョを訪ねることにしました。 -
イエージからフォーリニョにいたる陸路は二つあります。国道76号、フォッサートで国道3号に入り、フォーリニョ(黒線)。もう一つは国道76号をファブリアーノの手前で地方道路256号に入り、カメリーノの先で国道77に右折、フォーリニョ(ファブリアーノ以降赤線)。
イタリアのこのあたりの都市は、ローマ時代に起源を持ちます。ローマ人の道路の作り方の原則は簡単です。できるだけ直線、最短距離、地形を利用し上り下りを少なくする。現代と同じです。都市を結ぶ道路は、時代が変わっても道筋は大きくは変わらないと思います。
コスタンティーノを懐に抱いたコンラッド夫人は、間違いなく最初のルートを取ったはずです。彼女の故郷、ノチェーラ(Nocera Umbra)を通るからです。現在の道路で約104キロあります。
このルートは幸いなことに、かなり鉄道の線路と平行して走ります。
列車の車窓から、825年前の二人の旅を偲ぶことにします。
ローマ時代のことですが、カルカといわれる寝台馬車があり、1日に進める距離は25キロから30キロだったそうです。(塩野七生「すべての道はローマに通ず」新潮社電子版)生まれたての赤ん坊を連れているので、無理はできません。1日10キロか20キロ進むくらいでしょうか。最短でも5泊、6泊かかります。直行するか、1カ所何泊かして疲れをとり、また進むか。決めるのはコンラッド夫人でしたでしょう。ここは彼女のホームグランドなのです。宿を借りたお城の城主は彼女の一族や家臣だったかもしれません。
それを見込んでコスタンツァは彼女に我が子を託したのだと思います。
将来の神聖ローマ帝国皇帝の移動です。少なくない護衛部隊がついたことでしょう。
こんな情景が目に浮かびませんか。
夫人はコスタンティーノの様子を見ます。今朝は機嫌がいい、「出発します」護衛の隊長に指示を出す夫人。兵士たちは隊列を整え、隊長は今日の旅路の要所要所に物見を出します。騎士が石畳に馬蹄を響かせ城門を出て行きます・・・
生まれたての赤ん坊が主役の旅です。歴戦の騎士たちも勝手が違ったでしょう。でも、どこか嬉しそうです。 -
カステルベッリーノ。イエージを背にして左の丘の上の町です。尖塔は教会です。カステルというからには、昔は小さな城だったかもしれません。
1194年にはイエージに従属していたという記録があるそうです。「Contado」というのは「中世都市国家の支配下にある都市周辺領地」という意味だそうです。「(イエージの)第1の周辺領地」ということでしょうか。
Castelbellino: Il primo del Contado
https://www.museodelverdicchio.com/ja/castelbellino-il-primo-del-contado/
イエージからは12キロ、コスタンティーノが旅の最初の一夜を過ごした可能性は十分にあると思います。
ここから道は山路に入ります。こうした小城が車窓のあちこちに見えました。 -
ジェンガの駅近く。遠くに道路が見えます。国道76です。
川はトピノ川、フォーリニョまで流れ下り、町を堀のように半周しています。
現在はナトゥラーレ・レジョナーレ・ゴーラ・デッラ・ロッサ・エ・ディ・フラザッシ公園。日本の県立公園といったところでしょうか。景色のいい山間部でしたが、旅人にとっては、一番の難所です。 -
山間部を出てファブリアーノに近づくと平地が広がります。
-
不思議な雲が山を覆っていました。
-
再び山間部。この山地を抜けると、
-
フォッサート・ディ・ヴィーコ。起源はローマ時代、1~2世紀に遡るという古い町です。
-
こうした小城の領主は、コンラッド夫人を丁重にもてなしたことでしょう。懐に抱いているのは、未来の神聖ローマ帝国皇帝なのです。
まっすぐ西に行けばアッシジ、ここから南に路を取ります。ノチェーラはもうすぐです。 -
旧市街は駅の東側。
-
ノチェーラ。(以下の写真はノチェーラ町のホームページから)
紀元前7世紀に起源を遡ります。紀元前3-4世紀にローマ帝国の支配下に入りました。(ウイキペディア英語版より) -
季節は冬、標高500メートルの山中ですから、雪だったかもしれません。
フォーリニョはもうすぐです。
コンラッド夫人はほっと安心したことでしょう。
この町にコスタンティーノがたとえ一夜だけでもとどまったとすると、それから54年後、あまりにも悲しい事件が起きてしまいます。
ウイキペディア英語版によれば、1248年に、この町はフェデリーコ2世により破壊されたのです。
この年、フェデリーコ2世は、ミラノを中心とするロンバルディア同盟と戦いを繰り広げおりました。戦場はパルマなどの北イタリアでした。この地方はローマから中央部を通って北イタリアにいたる交通の要衝です。
博物館パネルによれば、フェデリーコ2世は1239年よりマルケ州、スポレート侯国を軍事的、外交的に制圧しようとしました。
ノチェーラは南イタリアを本拠地とするフェデリーコ2世軍の北上を阻んだのかもしれません。
ノチェーラを攻めたのは彼自身か、麾下の将軍かは分かりませんが、かつて赤子の自分に宿を貸した城を破壊するのは、政治、軍事上やむを得ないとはいえ、フェデリーコ2世にとって、忍びなかったと想像します。
コンラッド夫人は、年齢を考えると、この戦いの時、この町の破壊を見ることはなかったと思います。 -
車窓には丘の上の古い町が点々と続きます。
フォーリニョ間近です。
☆☆☆
列車がイエージをゴトンと出たその時、若い男がバタバタと入ってきました。車内は丁度乗り込んで来た人が各々席に着き、荷物も棚に上げたり片付けて、ほっと一段落。やれやれ、サテと、暇つぶしの新聞を出したり、携帯を出したりする、ちょうどそのときでしたから、車内の人々の注目が集まります。
彼はいかにもやっと乗れた、ギリギリだったあ。という態度で、私たちの隣、中年のこぎれいな女性1人が座っているボックスに、ドサっと本当に音がする勢いで座りました。彼女は本を読んでいて、チラリと目を上げましたが、又目を本にもどします。ここまではよくある風景です。
ところがこの若い男、我々常人(常人とは何ぞやという話は別にして)が思いもしない行動をとります。
肩にかけていた、日本のランチジャーによく似ていますが、外装は皮のようでした、高級ですね、その四角いバックのチャックを開けるとマホービン、小さなコーヒーカップ2個とあと何やらを出しました。そしてアセアセとそのドミタスに粉末コーヒーを入れてマホービンからお湯を注ぎ始めたのです。彼女はその時初めて「ちょっとちょっと、お湯をかけないでよ」みたいなことを言ったみたいです。男はうなずきつつ、振り向きもせずコーヒーつくりに没頭。その間ずっとアセアセしています。私は男が非常に焦りながらカバンから何かを取り出そうとしている様子から、ギョッ、これはクスリ中毒なのか、逃げた方がいいゾ、と目が離せません。
が、意外や意外、コーヒーでした。彼はそのコーヒーを一気に飲むと落ち着いたのか、カフェインの作用でさらに興奮したのか、彼女にしゃべるしゃべる・・・
最初は「あら、そんな携帯コーヒーセットあるのねえ」なんて興味を示していた彼女にしゃべるしゃべる・・・
多分、このセットは何たらかんたらで、このコーヒーは何たらかんたらでと言っていたんだと思います。最初は興味深く聞いていた彼女は、本に戻りたくて「ふーん、あっそ」になってゆきます。おかまいなしに男は大興奮。この時は列車に乗り込んできたときのアセアセは消えて、その代わり自信に満ち満ちて、大音声でしゃべるしゃべる。その声に刺激されたのか、向こうの方で犬が吠え始める。(ヨーロッパでは犬は普通に列車に乗れます)こっちの隅では赤ん坊が泣き始める。
阿鼻叫喚というのではないよね、でも騒然とした列車は、静かで美しいイタリアの山の中を駆け抜けてゆきました。
私たちはフォーリニョで降りました。あの2人はいったいどこまで行ったのでしょう。
by妻。 -
16世紀のフォーリニョ。(博物館パネルより)
城門の右奥の尖塔とドームがカテドラーレ・サン・フェリシアーノです。
この町は、ローマ帝国成立以前、BC8世紀には存在し、BC3-4世紀ころからローマの支配下に入った古い町でした。1185年に神聖ローマ帝国皇帝フレデリック1世の庇護下で自由都市になり、コンラッド夫人が安心してコスタンティーノを育てられる環境にあったのです。
中央の門から、2人はフォーリニョに入城したことでしょう。 -
この門は19世紀に取り壊され、現在は同じ位置に「ローマ門、Porta Romana」という記念碑として残っております。
-
フォーリニョには七つの城門があり、「フェリシアネット門、Porta S. Felicianetto」は博物館パネルの絵にも描かれております。
-
この門だけが現在も保存されています。
-
現在のカテドラーレ。16世紀のままです。
このカテドラーレは12世紀の建築です。1195年、コンラッド夫人が幼いコスタンティーノをこの町で育て始めたときも、尖塔とドームはあったはずです。 -
幼いコスタンティーノがこのファッサードを見上げることもあったでしょう。
-
コンラッド夫人に連れられてミサに行ったかもしれません。
-
このカテドラーレは珍しく二つのファッサードをもちます。これはもう一つの正面です。
-
正面を通り過ぎると、サン・フェリシアーノに接する路地があります。同時代の路地ということです。
コンラッド夫人に手を引かれ、コスタンティーノがよちよちと歩いた可能性あり。 -
古い路地が入り組んでおります。
-
「サン・ジアコーモ教会、Chiesa di San Giacomo」
残念ながらこの教会は15世紀初頭の建設で、当時にはありません。しかしこのあたりはフォーリニョでも古い地区です。 -
こうした町並みが当時を偲ばせます。
-
フォーリニョを囲むトピノ川、城壁、サン・ジアコーモ教会の尖塔です。
-
矢狭間があります。城壁だったのです。
-
城壁の内側の古い町並みです。
フォーリニョは私たちが期待していたほど12世紀の雰囲気を残していませんでした。
しかしこの町のどこかで、幼いコスタンティーノはコンラッド夫人と3年間を過ごしたのです。
カントーロヴィチによれば、父親、皇帝ハインリッヒ6世はフォーリニョを訪れ、生後まもなくのコスタンティーノの顔を見ているそうです。
☆☆☆
ところで、産まれたばかりのコスタンティーノにだれがお乳を与えたのでしょうか。オムツを替えたのでしょうか。
コンラッド夫人は赤ちゃんの養育係ではあっても、乳母ではありません。オムツも替えないでしょう。
一つの仮説です。身分と教養はあったが、キリスト教徒に捕らわれ、奴隷となったサラセン人ではないか。
キリスト教徒は、異教徒を奴隷とすることができました。逆もまたありました。サラセンにつかまって奴隷とされたキリスト教徒も多かったのです。中世とはそういう時代でした。
彼女は授乳がおわっても、乳母として、3才までコスタンティーノの傍らにいたのではないか。
フェデリーコ2世はアラビア語ができました。
1226年、彼は第6次十字軍の準備をしていました。しかし、戦さなしに、外交交渉でエルサレムを取り戻そうというのが、彼の真意でした。
フォッジアにカイロの太守アル・カミールからの外交使節ファラディンを迎えます。塩野からの引用です。
「・・・この皇帝はファラディンが持参したアル・カミールからの親書を、誰の助けも借りずに読め、理解し、それへの彼の考えをアラビア語で言えるのだった」
1228年から29年にかけて、フェデリーコ2世はパレスティナにおります。ファラディンを仲介にして、アル・カミールと文書で外交交渉を行います。彼自身が起案したアラビア語の文書でありましょう。
引用です。
「ときには、互いに作った詩を交換することもあった。詩作はイスラム世界の教養人にとって必須の条件だが、フリードリッヒにも、いくつかの詩が残っている」(塩野はフェデリーコをドイツ風にフリードリッヒと表記しています)
なんとか読めるというレベルではなく、公式文書を理解し、起案し、詩も書けるのです。
私はフランス語が多少できます。でも文書を正しく完璧に書けといわれたら、自信がありません。ネイティブの助けが必要です。
よくアメリカでは乞食も英語を話すといいます。オーラルが重要だと言っているつもりでしょうが、外国語で仕事するとき、最も難しくて重要なのは、正しく文書を読み、書くことです。読み書きができれば、オーラルなど単に慣れと勘と度胸の問題です。
でもそれよりはるかに困難なのは、詩を感じることです。私はフランス語の詩を読んでも、まるっきりピンときません。文章の意味は分かります。でもそれを詩として感じることができないのです。ましてや、書くなど問題外の外です。体に染みこんだこの言語への反応回路が、私にはないのです。所詮大人になってから頭で学んだ言葉なのです。
私とフェデリーコ2世を同列において、誠に恐縮の至りですが、要するに彼のアラビア語のレベルは尋常ではないということです。はっきり言えば、母語だということです。母国語ではなく、母の言葉ということです。
どこでかれはそのアラビア語を学んだか、いや基本的な反応回路を体に染みこませたか。
私たちの仮説です。乳母となったサラセン人の女は乳を含ませながら、彼にアラビア語で話しかけ、子守歌を歌います。オムツをかえながら、
彼女が母から受け継いだおとぎ話を聞かせたのです。
こうして3歳までにコスタンティーノは体でアラビア語を学んだのではないか。三つ子の魂百まで。
もとよりこの仮説は証明できません。しかしアラビア語がそこまでできたとなると、考えられる一つの仮説だと思います。
フェデリーコ2世は語学の天才でした。藤沢によれば、話すだけなら9カ国語、読み書きは7カ国語を自由にあやつったといいます。文学の才能もあり、イタリア語で詩も作ったそうです。(塩野)しかし、その他の言語ではアラビア語だけです。
フェデリーコ2世にとって、アラビア語が母語であるという所以です。
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この旅行記へのコメント (5)
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- cokemomoさん 2019/07/09 23:28:02
- 楽しんでいます。
- シニアの旅人さん、こんばんは。
昨年の旅行で電車から見た景色を思い出しながら旅行記を興味深く拝見しました。
本当にジェンガのあたりは岩山が迫ってきて風景が一変しますよね。新生児のフェデリーコ2世とコンラッド夫人の一行にとっては難所だったろうという考察に「うんうん、そうだろうなぁ」と。
シニアの旅人さんが思い浮かべる情景がとても生き生きと感じられるのは、ご覧になる風景に厚い知識が重なって、時間旅行も楽しんでおられるからでしょうね。
そしてby妻さんの書かれる情景や気持ちもとても楽しんでます。車内で話し相手にされ「ふーん、あっそ」となってしまった女性はどこまで行ったやら。
今回通過されたフォッサート・ディ・ビーコから少し離れたグッビオはぜひ行ってみたいところ。(マッテオ神父の事件簿というイタリアの長寿ドラマの舞台だったので)
フォーリニョのドゥオーモのロマネスク様式のファサードも見たいです。
というか・・シニアの旅人さんの旅行記を全て拝見したら行きたい所だらけになるであろう困った予感がしています。
明日はアッシジ編を拝見します~。
- しにあの旅人さん からの返信 2019/07/10 08:50:43
- コメントありがとうございます
- 楽しんでいただけたようで嬉しいです。
フォーリニョのカテドラーレ、あれがロマネスクなんですね。地味な教会だと思いました。建築様式はゴシック以外見分けがつきません。Cokemomoさんとはいかないまでも、もうちょっと建築も勉強しようかなと思いました。
グッビオ、大きくはない都市ですよね。いずれにしてもフォッサートあたりというと、田舎もいいところで、そんなところでどういうドラマになるのでしょうか。
妻のパートも愛読者ができて、本人も喜んでいます。がらりと文体も中身も変わって、能のなかの狂言という感じで、これからも増えます。
ジェンガのあたりって本当に何もありませんね。今がこうなら、12世紀はもっとひどかったでしょう。Cokemomoさんが訪問された修道院は、もしかするとコンラッド夫人たちが泊まったかもしれませんね。11世紀前のものらしいし、今の国道、多分当時の街道からそんなに離れていません。ほかになにもないので、選択の余地がありません。
来年もまたイタリアになりそうで、レンタカーをかりて、しらみつぶしにこのあたりの古い町を訪ねてみようかと思っています。
-
- kummingさん 2019/07/03 15:39:50
- はじめまして^ ^
- シニアの旅人様、初めてコメント投稿させて頂きます♪
かねてから、シニアの旅人さんのイタリアを巡るマニアック!?な旅に、心惹かれおりました。
私、俄か塩野ファンでして、昨年末から、ローマ人の物語、にはじまり、ベネチア関連の3冊、ローマ亡き後の地中海世界、十字軍物語、ギリシア人物語、そしてつい最近、皇帝フリードリッヒ2世の生涯、を読み終えたばかり。今後も当分は、地中海を巡る歴史、キリスト教とイスラム教を巡る歴史、など興味が尽きる事はなさそうです。
シニアの旅人さんがブログ内でご紹介されている文献にも、手に入るなら挑戦してみたいです♪
ブログ訪問して途中で、フェデリーコ、がイタリア読みで、フリードリッヒはドイツ語読み、という事を思い出し、今後も続編を見逃したくないので、遅ればせながら、フォローさせて頂きます♪
歴史上興味ある人物やその所縁の地を実際に訪れられる旅、羨ましい限り、次回作、楽しみにお待ちしておりまする~^ ^
- しにあの旅人さん からの返信 2019/07/03 19:49:47
- ありがとうございます
- コメントとフォロー有り難うございます。長い文章をメインとする4Traでは異端の旅行記です。読んでくれる人いるのかな、と妻と二人でいつも思っております。「マニアック」と言っていただけるのは、本当に嬉しい。自分でもそう思っております。
塩野七生の作品をいっぱい読んでおられますね。私より多そうです。私たちのイタリア旅行のガイドブック兼教科書です。来年の旅行先もまたイタリアになりそうで、これからも読み進めていきます。
私の参照文献はカントーロヴィチとドイツ史1以外は簡単に入手可能です。この2冊はとにかく値段が高いので図書館をお勧めします。ドイツ史は町の図書館にはなかったので、大きな図書館から取り寄せてもらいました。
カントーロヴィチはフェデリーコ2世をかじる場合の基礎資料ですから、入場料だと思って買いました。法哲学の研究者です。フェデリ−コ2世の神学的、法体系的背景がどうのこうのというのが、全体のほとんどを占めます。
私はフェデリーコ2世がどこで何をした、何を食ったというような些細な事実関係を知りたかったのですが、ちょっと当てが外れました。
そのうちフェデリーコ2世の内面をえぐるようなブログを書くならば、参考になりそうですが、まあ、私の出る幕はなさそうです。
私たちのフェデリーコ2世紀行は、このあとアッシジ、パレルモ、プーリアと延々と続きます。長い文章としつこい文献紹介に飽きずに読んでいただけたら幸いです。
もしかしたら日本ではまだ珍しい写真と文献もご紹介できると思います。
-
- ももであさん 2019/07/02 19:56:14
- 二つ目の仮説
- フリードリヒ2世さん
教皇に協力すると見せかけて、実は野心家でやりたいことをやろうとした人ですよね。
イタリアを統一しようとして挫折 惜しぃ! なんか人間くさい気がします。
アラビア語まで堪能だったのですか? スーパーマルチリンガル。
まるで神聖ローマ帝国版 雅子様!?
新仮説:
猫の原産地はエジプト。北アフリカにはたくさんの猫たちが生息していた。
時は流れて… 猫の子孫で一番の有名なのが、ドラえもん
ある日、フェデリコの前に現れた。これは渡りに猫
「ドラえもん、今度G20があるのに、アラビア語が分かんなくて困ってんだよ…」
タッタラタッタッタ~! 「ほんやくコンニャク~」
「フェデ太くん。これを食べればどんな言葉でも理解できて話せるよ」
と、言う経緯があったか否かは定かではありませんが、ご参考までに。
現在に通じる「医薬分業」の創始者も、このお方ですよね。
フェデ太くんがいなければ、日本の保険医療保険制度は、今よりひっ迫し
薬害も増えていたかもしれません。ありがたや、フェデ太くん♪
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