2019/04/14 - 2019/04/14
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しにあの旅人さん
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1223年5月、フェデリーコ2世はシチリアで反乱を起こしたアラブ人全員と家族をルチェラに移住させました。
1231年メルフィ憲章の制定。
この二つの都市で、フェデリーコ2世壮年期の足跡を訪ねてみました。
この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。
フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生
https://4travel.jp/travelogue/11505518
なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。プーリア滞在は4月9日―14日です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
ルチェラは、フェデリーコ2世の新しい都フォッジアから直線約19キロ、ローマまでは240キロです。海岸線まで48キロあります。
1221年、シチリアの奥地の山岳地帯に住むイスラム教徒が一斉に反乱を起こしました。フェデリーコ2世はこれに対し徹底的な制圧に出ます。
カントーロヴィチによれば、降伏してきた反乱の首謀者イブン・アッパードを蹴飛ばして拍車で脇腹を引き裂き、2人の息子と共に絞首刑にしてしまいます。
このとき2人のマルセイユの商人も処刑されています。この2人は10年前に少年十字軍に参加した少年少女を、チュニスやカイロの奴隷市場で奴隷として売りさばいた連中でした。フェデリーコ2世はかつてドイツで、少年十字軍に参加しようと南下する少年少女を見ていたのです。この奴隷商人を絶対に許せなかったのですね。
指導者は無慈悲に処刑したフェデリーコ2世でしたが、農民にたいしては驚くべき対応にでます。
農民蜂起の原因は彼らの貧しさでした。このままにしておけば、再度騒乱の元になります。そこで、蜂起に参加した農民を家族もろとも、プーリアのルチェラに移住させたのです。その数当初1万6千人。
その後、反乱に参加しなかった、シチリア山岳地帯のサラセン人の農民も全て移住させました。その結果、シチリアでは農園での労働力が不足する事態になったそうです。
ルチェラではサラセン人に完全な信仰の自由と自治を与えました。街にはモスクが建ち、彼らの首長(カーイド)がいました。
ローマ法王グレゴリー9世はドミニコ会の修道士を送り込み、住民にキリスト教への改宗を迫りましたが、全然相手にされなかったのです。(イエージのフェデリーコ2世博物館パネル)
信仰だけでは食えません。それを知らないフェデリーコ2世ではない。彼らに住まいと農地と仕事を与えました。女にはアラブの織物を織らせました。フォッジアの宮殿で買い取ります。男にも女にも宮殿に出仕する道を開きました。かなりアラビア風の宮殿だったようで、まさに彼らの出番でした。なんたって、本物ですから。
歌がうまくて芸ができて美人だと、FFC48でスカウトされたようです。「ハレム」と誤解されたサラセン人の美少女ですね。詳しくは
「フェデリーコ2世紀行-8 フォッジア・宮殿残影」
https://4travel.jp/travelogue/11536110
をご覧下さい。
若い男には彼の軍隊に入ることを勧めました。当然お給料は出ます。彼らは軽歩兵、軽騎兵として、「ただちに利用可能で常に攻撃の用意ができた兵力」(カントーロヴィチ)となりました。職業軍人からなる常備軍ですね。とくにその弓兵は精強をもって知られました。 -
14世紀のミニチュア画。Wiki Commonsの著作権フリーの写真です。撮影者はGiovanni Villaniさん。
これは1229年のフェデリーコ2世とアル・カミールの会見の場ですが、アル・カミールの右で弓を持っているのが、アラブの弓兵のようです。顎がしゃくれて強そうですが、根性悪そう。ルチェラのサラセン人部隊もこのような面構えであったのでしょう。
海から遠い内陸で、北アフリカのイスラム世界からは隔離され、フェデリーコ2世に依存するしかない彼らは、忠誠を誓います。彼の親衛隊、護衛兵であり近衛兵でありました。彼のことを「スルタン」とよんでいたそうです。
ここまでくると、ルチェラのサラセン人が、ローマ法王に憎まれたのも分からないではない。ローマからわずか240キロ、南イタリアど真ん中です。
カントーロヴィチは彼らを、後世のオスマントルコのイエニチェリの原型としています。改宗させたキリスト教徒からなる、トルコの最精鋭部隊です。精強、皇帝への絶対忠誠でヨーロッパ人に恐れられました。ただしフェデリーコ2世はサラセン人を改宗させていません。それでもただの一度もフェデリーコ2世を裏切ることはなかったので、よっぽど彼への個人的な崇敬の念が強かったのです。 -
ルチェラの城跡から発掘された、黒大理石のサラセン人の彫造頭部、かれらの出身は北アフリカのムーア人でした。肌の色は浅黒く、精悍な顔立ちです。(博物館パネル)
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これを見てすぐに思い浮かぶのは、パレルモのマルトラーナ天井画のムーア人の姿です。16世紀の絵と思われますが、ルチェラのサラセン人は、おそらくこのようないでたちで、街を闊歩していたでしょう。
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ルチェラの大聖堂。
ルチェラはローマ帝国の軍事都市でした。しかしその後衰退し、13世紀では小さな村落でした。
ここにはもともと小さなカトリックの教会がありました。移住してきたサラセン人は、この位置に巨大なモスクを建設しました。
フェデリーコ2世はルチェラの西に城を築きました。
現在残っている城は、アンジェ家が1269年~1283年に築いたもので、フレデリック2世のものではありません。 -
城の航空写真です。(博物館パネル)
左の端の正方形の廃墟がフェデリーコ2世の城の跡です。これ以外残っておりません。 -
1786年に描かれた銅版画です。城の廃墟です。右の台形の石垣が、フェデリーコ2世の城の基盤です。3層からなり32の部屋がありました。(博物館パネル)
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フェデリーコ2世の死後、息子マンフレディがこの地を引き継ぎました。
1266年、フランス王ルイ9世の弟、アンジェ家のシャルルが南イタリアに侵攻しました。2月26日、マンフレディはナポリの近くベネヴェントの戦いで、シャルルに敗れ、戦死しました。
ルチェラはこの地を支配したアンジェ家により、街ごと完全に破壊されました。サラセン人は街から追放され、奴隷に売られました。
ここにあった巨大なモスクは破壊されました。1300年8月、アンジェ家シャルル2世により、その跡地に現在のカテドラーレが建設されたのです。(博物館パネル) -
大聖堂内部。
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祭壇を飾る大理石は、フェデリーコ2世終焉の地フィオレンティーヌの教会を破壊してもってきたものでした。
(「CITTA’ DI TORREMAGGIORE CENTRO ATTIVITA’ CULTURALI
Settore Cultura “DON TOMMASO LECCISOTTI”」より)
ルチェラにはフェデリーコ2世の面影は一切なし。大聖堂の前にさえゴミが積み上がる、ただの汚い田舎町でした。 -
メルフィ。
私が塩野の「フェデリーコ2世の生涯」で一番好きな場面は、メルフィでの1231年5月から9月までのある朝です。
「メルフィの町の住民の一日は、雄鳥の第一声でもなく教会の鐘の音でもなく、丘の上に立つ城から石畳を蹴って降りてくる蹄の音によって始まるのが習いになっていた」 -
夜明け前、まだ薄暗いころ、フェデリーコ2世は中庭で愛馬にうちまたがり、
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この門から出てくるのですね。何人かの同好の士と少数の従者、鷹匠、総勢20人くらい。
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石の橋を渡って、
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石畳の、
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坂道を下ります。
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「メルフィは、最も高所に建つ城の
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「東側に広がる斜面に家々がへばりつくようにできた町だ」
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「道もその間を縫って下る石畳。反響は大きく、人の眠りを邪魔する役割は十分に果たした」
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「高位の者ともなれば、城中に宿舎を提供されていたが、それ以外の多くはメルフィの一般の家に間借りしていた。(フェデリーコ2世の一行が戻ってきます)石畳の坂道を戻っていく蹄の音は、書類の束を小脇に抱えて城に出勤する時刻が来たことを告げていたからだった」
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スタッフは「本当にもう、何時だと思ってるんだ、朝っぱらから」などとぶつぶつ言いながら、坂を登り、
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城に入っていくのでした。
ローマ法の大家ロフレド(このあとナポリ大学の初代学長)、パレルモ大司教ベラルド、カプア大司教ジャコモ、国の中枢を占める高級官僚、事務方をメルフィに缶詰にして、フェデリーコ2世がやろうとしていたのは、メルフィ憲章の作成でした。彼の王国を、法によって統治するための、その法律を作ろうというのです。
近代法治主義の嚆矢となるものです。 -
スイスの歴史家ヤコーブ・ブルクハルトはフェデリーコ2世を「王座に座った最初の近代人」と評しました。
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法治主義は、現代においてさえ、看板倒れの国家がむしろ多数です。それをフェデリーコ2世は13世紀前半にやろうとしたのです。
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フェデリーコ2世の理想を実行に移すべく法律の条項作りに邁進した一群の男達の城です。
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1231年9月、メルフィ憲章は発布されました。
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