2019/04/08 - 2019/04/08
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しにあの旅人さん
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母コスタンツァは、イエージでうまれた子供をコスタンティーノと呼んでいました。彼女の名にちなんだものでした。「コスタンツァは息子を母親たる自分の相続人とだけ思いたかったのだろう」(カントーロヴィチ)
シチリア・ノルマン王朝の血統を継いでいるのは自分、そしてそれを継ぐのはこの子だけなんだ、という思いですね。
この子が洗礼を受けたとき、光栄ある2人の祖父の名を受け継ぎました。フェデリーコ・ルッジェーロ、父方の赤髭こと神聖ローマ帝国皇帝フレデリック1世、母方のシチリア国王ルッジェーロ2世。
フェデリーコ2世の洗礼の時期と場所は諸説あるようです。
この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。
フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生
https://4travel.jp/travelogue/11505518
なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。アッシジは4月6日、イエージ7日、フォーリニョ8日が実際の訪問日です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩
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博物館パネルは、洗礼の時期、場所とも不明としながら、イエージのカテドラーレの可能性があるとしています。ご当地びいきですね。洗礼盤は現在もカテドラーレにあるライオンの洗礼盤。(博物館パネル)
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カテドラーレ内部。しかし私たちはこの洗礼盤を見つけることができませんでした。
塩野は、洗礼はコスタンティーノ2才のころ、父親ハインリッヒ6世がアッシジを訪れたとき、としています。
カントーロヴィチは時期と場所を明示していませんが、ハインリッヒ6世が立ち会ったとしています。
小森谷によれば、生後3ヶ月、アッシジ。
「liturgia」は、アッシジ。
アッシジの可能性が強いようです。記述が具体的な塩野の説に従います。 -
場所はアッシジのカテドラーレ・サン・ルッフィーノ(San Rufino)
アッシジのカテドラーレ(主教会)は有名なサン・フランチェスコ聖堂ではありません。この聖堂は、聖フランチェスコの死後1253年に完成したもので、12世紀末にはまだ存在しません。 -
ロッカ・マッジョーレから俯瞰したサン・ルッフィーノ。
サン・フランチェスコ聖堂とはアッシジの旧市街をはさんでほぼ反対側にあります。
聖フランチェスコも聖キアラもここで洗礼を受けました。
私たちの目的は、このカテドラーレにある洗礼盤。 -
一礼してカテドラーレに入ります。私たちはカトリックではないので、十字は切りませんが、崇敬の意を表します。
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正面祭壇。
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見つけました。
右身廊、出入り口を背にして右の隅です。 -
近づきます。
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823年前、コスタンティーノはこの洗礼盤に触れたのです。
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ハインリッヒ6世もこの近くにいたのです。
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母コスタンツァはパレルモです。息子の洗礼に立ち会いたかったでしょうね。
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洗礼盤上の絵画です。普通洗礼は産まれてまもなくこのように行われます。
塩野によれば、
「母親に抱かれて頭部にちょっとばかりの聖水をたらされるのが洗礼式の普通の型だが、フリードリッヒはすでに2才になっていた。自分の足で立っている幼児に洗礼を与えることからして、珍しい光景であったにちがいない」
コスタンティーノはフェデリーコ・ルッジェーロとなりました。
子供は、アッシジの大司教を見上げて、「だれ、このおじさん」と白目をむいた。
母親の代わりをしたのはコンラッド夫人でしょうか。2才では、体重は10キロ以上あります。10キロの子供をこの絵のように捧げると、ぎっくり腰ですね。夫人にこの姿勢はできないでしょう。
洗礼盤の縁に座らせた。水をかけられたコスタンティーノは「なにすんだよ!」と暴れて水盤に落ちた。コンラッド夫人も、アッシジの大司教もずぶ濡れだった。
などということは、どの資料にも書いてありませんが、カンの強いコスタンティーノですから、「珍しい」どころの騒ぎではなかったのではないでしょうか。 -
洗礼盤は柵で囲まれています。鉄柵の左に説明板がありました。
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聖フランチェスコが1181年または1182年に、聖キアラは1193年にこの水盤で洗礼を受けたと書いてあります。その数年後ですから、このカテドラーレのこの洗礼盤で、フェデリーコ2世が洗礼を受けたのは間違いありません。しかしフェデリーコ2世の名はありません。ここで洗礼を受けたかどうか、確かではないということでしょうか。
しかし、アッシジだけではなくパレルモでも、フェデリーコ2世に対し、イタリア人はなんとなくよそよそしいという印象でした。「反キリスト」と言われるくらいカトリックの精神と相容れない理想を掲げ、ローマ法王に正面切ってたてつき、一時は窮地に追い込んだという歴史が、イタリア人にはうとましく、少なくとも負い目に感じられるのではないでしょうか。
カトリックの伝統が今なお色濃く残るイタリアです。 -
アッシジは美しい町でした。
駅からしてシックでした。第一印象が違います。 -
ほかのイタリアの町と違って、ゴミ一つ落ちていません。
宗教はなによりも清らかであることが第一です。信仰が生きている町を実感しました。 -
ロッカ・マッジョーレに向かいます。
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14世紀の城砦です
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アッシジを見下ろします。
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緑豊かなウンブリアの山野を一望にできます。
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サン・フランチェスコ聖堂の全景です。
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町のあちこちに聖フランチェスコと聖キアラの面影が。
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表札みたいです。
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サン・フランチェスコ聖堂。観光客が多くて、私たちは苦手です。
朝早く、誰もいないときに来てみたかった。 -
サン・キアラ聖堂。
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正面入口。イタリア各地の教会で、同じような彫刻を見ました。
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向かって右、正体不明の動物が何かを食っています。
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左。
ほかの町の教会では、甚だしいのは、食われているのが人間だったりします。これは何なのでしょう。 -
私たちは、サン・ルッフィーノのすぐ近く、デイ・プリオーリを宿にしました。ホテルに着いて荷物を置いてすぐに出かけました。夕方帰って、窓を開けたらこの景色でした。夕暮れの空をバックにサン・ルッフィーノです。ついています。これもフェデリーコ2世のお引き合わせです。
夕食はホテルのレストラン。そこでビールをオーダー。すると、 -
Federico II
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日本まで持って帰りたかったけれど、からのビール瓶をねえ・・・
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1786年10月26日、ペルージャからフォーリニョを結ぶ道を、1台の馬車が走っておりました。現代の国道75号線に相当します。
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サンタ・マリア・デッリ・アンジェロ近く、多分現在のアッシジの駅近くで馬車から一人の紳士が降りました。イタリア旅行中のゲーテであります。「マドンナ・デル・アンジェロの付近」と彼が書いているので、たぶんここでしょう。マドンナはサンタ・マリア(聖母マリア)のことです。
風の強い日でした。(ゲーテ「イタリア紀行」古典教養文庫電子版)
サン・フランチェスコ教会を左に見て、アッシジ目指して坂を上るというので、黒い線の路ということです。私たちのタクシーが通った道です。約4キロです。
サン・フランチェスコ聖堂は彼の気に入らなかったようです。嫌悪の情を感じたと書いております。
ゲーテのお目当ては現在の「Piazza del Comune」市民広場に面するサンタ・マリア・ソープラ・ミネルバ教会。ローマ時代の神殿が教会になって今に残っています。彼はこの建物にいたく感動しております。 -
(撮影:Georges Jansooneさん。この写真はクリエイティブ・コモンズ 表示 2.5 一般ライセンスのもとに利用を許諾されています)
私たちがタクシーから降りたのは、まさにゲーテが目指した教会前でした。けれどゲーテが感激した神殿は若い観光客がびっしり座り込み、楽しい休憩タイムのようでしたので、とても彼らをかき分けて中に入る気にはなりませんでした。
復活祭のバカンスで、それを利用した修学旅行でしょう。きっとキリスト教系私立学校で、宗教の科目でアッシジの聖フランチェスコと聖キアラ、そして美術史としてミネルバ教会の建造物の見学ということなんだろうけれど、若き男女は若き日の、放蕩息子であったフランチェスコにはシンパシーはあっても、聖がついてからはあまり興味はなさそう。 -
ゴミのない町です。こんなに清潔な町はイタリアでは初めてです。
ゲーテは聖フランチェスコにあまり興味なさそうですね。自然科学者でもあったゲーテは汎神論的であったそうですし、恋多き男であり、イタリア旅行のときは人妻との恋に行き詰まっていた頃だし、清貧とか、小さき兄弟とかは、それどころじゃなかったかもしれません。
イタリア語をはじめ複数言語で恋をしたゲーテにとって、着ている僧衣まで乞食に与える聖フランチェスコの考えは、理解できなかったのでしょうね。恋愛優先という観点からすると、ゲーテは今アッシジでふざけている高校生に限りなく近いです。
蛇足ですが、「イタリア紀行」のころのゲーテって、マーロン・ブランドみたいでステキ!
ところで聖フランチェスコという聖人は、粗衣粗食の宗教家であったと、尊敬され続けているわけですが、禅宗、修験道のある日本では、宗教家が粗衣粗食、質実なのは当然で、そんなに特筆すべきことなのかと、不思議でした。
そこで調べてみました。その当時、病気になる者、災害に遭う者、その他不幸な者どもは、すべて信仰がたりない人間、神様に愛されない人間という認識だったそうです。そのとき聖フランチェスコは、病人貧者その他不幸な人々は神に愛されていないわけではない。神は全ての人々を愛すと言ったのです。そうして自ら弱者の立場に立って、神の愛を伝えたのです。
なるほど! 粗衣粗食だからではなく、弱者に光を見せてくれたから今日までも信仰され続けていたのですね。
いずれにしてもアッシジに満ちている青少年には喜びと幸せと、ほんの少しのバカバカしか見えませんでした。
あっ、ゲーテはバカバカしくないですよ。
by妻
その後ゲーテはフォーリニョに向かいます。あいかわらず歩きです。4時間かかったと書いています。「フォーリニョへの道は、私が今まで通ってきたうちで、最も美しい、最も気持ちの良い散歩道だった。たっぷり4時間、山に沿って進む。右手に豊かに開墾された谷を見ながら」 -
これですよね。翌日、私たちはフォーリニョの駅までタクシーで行きました。「山に沿って進み、右手に豊かに開墾された谷」です。ゲーテが見ていた景色と同じです。
☆☆☆
私たち夫婦は普段の生活ではタクシーに乗ることはほとんどありません。車なしでは生きていけない田舎暮らしなので、自分の車で動いてしまうからなのですが、旅行中はしばしば利用することになります。
ところが乗り慣れないということは困ったもので、必要以上に身構えてしまいます。
毎回乗る度にわざわざ遠回りしてメータを稼いでいるのではないか、観光客だと思って法外な値段をふっかけるのではないか、こんな中途半端なところで降ろして大丈夫なのか? と顔のしわが刻まれることばかり思っていました。
何故こうタクシーに否定的なのかというと、少々ながら理由があります。昔、博多の飛行場から市内のホテルまで、タクシーに乗りました。タクシー乗り場で順番に来たタクシーです。行き先を告げます。ブスッ、ウンでもなければスーでもない。もう一度行き先を告げます。「ああ」へっ?と顔を見直すとバタンと扉が閉まってビュワーン!! 発進。それからは右に左にシェイクシェイク。おっおーっ。左へ右へシェイクシェイク。目的地に着いた後、当時10才の息子が「お母さん、偉かったねえ。よくケンカしなかった。えらい、えらい」とほめてくれたのですが、ケンカも何も文句を言えば舌を噛みそうで。
今気づいたのですが、息子はスピードの恐怖プラス母親がいつ啖呵をきるかという恐怖に耐えていたのですね。よく育った。息子、40才になりました。
なぜそんな話を書いたというと、アッシジからフォーリニョへのタクシーが、そのときのスピード。シェイクシェイクです。さらにもっと怖いのは、道はデコボコ、田舎道。細いし曲がるし、右は谷だし。写真だとのどかな耕作地ですが、我々はこれを見下ろす高台をビュワーンと走っているわけです。そしてもっと恐ろしいのは、運転手さんは上機嫌。よく分かるイタリア語だなと思ったら英語。
「日本から来たの~? じゃあXXさん知っている~? 〇〇さんは~?」語尾が全部「~」って歌うよう。「ぼく友達なんだよ~」XXさんと〇〇さんは神父さんで、日本のどこ出身かとか、どういう人かとか話してくれましたが、私は車から降りたかった。そこのところは、馬車から降りて徒歩でフォーリニョへ向かった大文豪ゲーテと100%気持ちが一致した時間でした。
XX神父さん、〇〇神父さん、この陽気で人のいい運転手さんにもう少しスピードを緩めるよう言って下さい。そして無事を祈ってあげて下さい。
by妻
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