2019/04/13 - 2019/04/13
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しにあの旅人さん
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1221年フェデリーコ2世は初めてプーリアに足を踏み入れました。今も昔も、なだらかな丘と平原が続きます。
1223年フォッジアに宮殿を築きます。以降ここが彼の本拠地となります。
彼の死後、宮殿は破壊されました。手元の資料だけで、どんなものだったか推測してみました。
この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。
フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生
https://4travel.jp/travelogue/11505518
なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。プーリア滞在は4月9日―14日です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
現在フォッジアで、フェデリーコ2世の宮殿を偲べるものは、これしかありません。
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フォッジア市立美術館(Museo Civico di Foggia)の壁にはめ込まれた、フェデリーコ2世旧宮殿の門(Portale dell'antico Palazzo di Federico II)
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宮殿の正門(Monumental entrance)と考えられています。高さ7.38メートル、幅3.2メートルです。2軒の家の間の庭を繋いでいたので、現在まで残ったそうです。
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ノコギリ状の葉のアーチ、それを支える鷲の彫刻、鷲はフェデリーコ2世の家紋でありました。銘板とバックのレンガは旧王宮から運ばれたものと思われます。
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付近の英文説明板によれば、銘板には、「ローマ人の皇帝(the emperor of the Romans)フェデリーコ2世の直接の命により、この宮殿の建物は1223年に造営が開始された」と書かれております。
銘板の枠には、造営監督として建築家Bartholomeusの名が記されているそうです。名前からするとギリシャ人でしょうか。
宮殿は、広い中庭をもち、2階建て、多くの彫造、柱が連なる広壮、豪華な建物だったようです。後述のように、私の推定では1辺がおそらく100メートルくらいのコの字型でした
それがなぜ現在跡形もないのか。第一にはフェデリーコ2世の死後、その後彼の帝国の継承者がすべて途絶えたあと、ローマ法王により徹底的な破壊が命じられたからです。
16世紀の記録によれば、宮殿は廃墟のままであり、17-18世紀ではまだその廃墟を見ることができました。しかし1731年の地震により廃墟も崩れ去りました。トドメをさしたのは、第二次大戦中1943年夏の連合軍空爆でした。市の南のフォッジア空港、市内が猛烈に爆撃され、完全に宮殿は消滅しました。
13世紀に廃墟になってから、宮殿を覆っていた大理石、柱、彫造などは持ち去られ、再利用され、また現場では建物の上に建物が作られるなどして、現在では遺跡の調査、解析は困難を極めているそうです。 -
宮殿があったところはフォッジア駅からみるとこんな位置関係です。旧市街の北西の隅です。
宮殿はどこに、どのくらいの規模だったのか。
宮殿の位置の推定は説明板をもとに、ネット上のイタリア語資料の機械翻訳を参考にしました。例によって機械翻訳は意味不明の部分が多く、固有名詞、数字以外使いませんので、いちいち引用元を明記しません。
宮殿は現在のアルピ通りの近くでした。
「Porta Grande」と「Piazza della Pescaria」の近くにあった。両方とも現在は、この名そのものの門も広場もありません。
現在のペスケーリア通り(Via Pescaria)、ダンジョウ路地(Vico d’Angio)の地下よりアーチ型天井の遺跡らしきものが発掘されている。
宮殿の位置と規模に関し、説明板その他から得られた情報はこれだけです。 -
説明板による「Porta Grande」は宮殿の正門で間違いないと思います。
ペスケーリア通り(Via Pescaria)は今もあり、 -
一端がフェデリーコ2世広場(Piazza FedericoII)になります。
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この広場です。
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犬を連れた女性の背後の路地がペスケーリア通りです。
この広場をペスケーリア広場と考えます。
これにより宮殿は北西から南東に延びていたと推定できます。この間直線で約100メートルです。
宮殿を、南西があいたコの字型と仮定します。閉まった矩形の可能性もありますが、風通しを考えるとコの字型が妥当だと考えます。
宮殿の北西翼、南東翼の長さは100メートルとなります。 -
現在のダンジョウ通り(Vico d’Angio)の地下よりアーチ型天井の遺跡らしきものが発掘されているので、ここを宮殿の南東の端、南東翼と仮定します。
宮殿正門は、建物の中心にあるのが普通ですから、北東翼の建物の中心になるように配置します。 -
その結果がこの地図です。1辺が100メートルのコの字型です。
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ペスケーリア通りからも遺跡が出ているので、南東翼をペスケーリア通りとすると、北東翼は半分の長さ、約50メートルとなります。
手元にある資料を押さえていくとこんな感じです。
まあ、大ざっぱに言って、今のフォッジアのアルピ通りあたりに、2辺が100メートルくらい、1辺が100メートルから50メートルのコの字型、2階建ての超豪華な宮殿があったということです。
パリのルーブル美術館はコの字型です。ピラミッドのある中庭から見て長辺が約200メートル、短辺が約130メートルですから、あれを大体半分にしたような宮殿だということです。
1226年エジプトのスルタンの使節ファラディンを迎え、エルサレム無血開城の外交交渉を始めたのはこの宮殿でした。
1234年3人目の正妻イザベッラ・アングリテッラ(Isabella D'Inghilterra)と結婚します。1214年生まれですから20才、美人で才媛だったそうです(塩野)彼女は1241年12月1日産褥でみまかりました。彼女を看取ったのはこの宮殿です。
後半生のすべてをかけ彼の理想をイタリア全土に広げようと画策したのもここです。北イタリアと中部イタリアに近く、ローマにもにらみをきかせやすい。
カントーロヴィチによれば、「フォッジアの広大な城は、白い筋目の緑の大理石でできた彫造と円柱、大理石のライオン像や水盤など、大理石に満ちた宮殿として物語られている」
イングランド王の息子、コーンウイール伯リチャードは不思議な光景を見ました。彼が十字軍からの帰還の途中宮殿に立ち寄ると、入浴などによって旅の疲れを癒やします。「・・・(宮殿の人々は)さまざまな遊戯によって彼を元気にしようと試みた。そして伯は珍しい楽器が奏でるエグゾティック(原文ママ)な旋律を驚きをもって聴き、曲芸師が自分の技を披露するのを見た。またかれは美しいサラセン人の乙女たちの踊りを見て楽しんだ。乙女たちは大きな球に乗りながらシンバルとカスタネットのリズムに合わせて、広間の彩色された滑らかな床の上を回転しながら進んでいったのである」同時代の年代記作者が伝えています。
このサラセン人の美女たちは皇帝のハーレムだと、ローマ法王が非難しています。カントーロヴィチによれば、彼女たちは単に宮廷従者団に所属していただけ。フェデリーコ2世宮廷広報部員です。
出身は近くのサラセン人の町ルチェラ。
FFC48にスカウトされたということじゃあないかな。Foggiaの「F」Federicoの「F」と「C」、FFC48、なんちゃって。
後年、フェデリーコ2世の王朝が滅びた後、ローマ法王がこの宮殿を破壊した理由は、このアラブ的な風景が気に入らなかったからだといわれております。「楽しみやがって、うらやまけしからん」ということですね。
宮殿には動物園があったはずです。フェデリーコ2世は国内移動の際、珍しい動物を引き連れていました。
美しく着飾ったサラセン人が「豹、大山猫、サルや熊、ピューマやライオンを鎖でつないで引き連れていた。また皇帝はキリンさえ所有していたのである」駝鳥や、象もいました。
「後にクレモーナで行われるような華麗な凱旋行進に際しては皇帝自らこの行列の先頭を騎行した。皇帝は、この世の全被造物の上に見えるように置かれた神人のようだった」
人々は争って動物を見に来ました。大人気。そりゃそうでしょうね、坊主の辛気くさい説教にうんざりしていた一般民衆にしてみれば、最高のアトラクションでしょう。曲芸師なども一緒に行進していたので、移動ディズニーランドみたいなものです。きっとローマ法王へのあてつけでやったに違いない。
カントーロヴィチによれば、フェデリーコ2世の宮廷で特筆すべきは、後世のイタリア語の基礎となる文芸活動です。
フランスのプロバンス俗語恋愛詩がフェデリーコ2世の宮廷に入ってきて、フェデリーコ2世自身が、アプーリアとシチリア方言で詩を書き始めた。目的は言語を通じて国民感情を育てるため。要するに伊達や酔狂でやったのではないということらしい。
皇帝が詩作を始めたら、「皇帝に倣って宮廷の官吏自身が突如として詩作を始めていた」
フリードリッヒがマッチをすったら、それが燃え広がったということですね。
「日常言語を磨き上げ宮廷風のものにすることによって、フリードリッヒと彼の流派はこのように地方の普通の言語を「燦然たる俗語」へと高めた」。
イタリア語の創始者はダンテだが、「フリードリッヒはイタリア語の形成を準備した最も重要な人物」だそうです。
とにかく非常に頭の回転の速い人で、その皮肉などは猛烈に辛辣でした。
カントーロヴィチが出典を明記してないのでどういう状況でこの話が語られたか不明ですが、
「皇帝は自分と同時代のチンギス・ハーンでさえ嘲弄している。チンギス・ハーンはフリードリッヒ二世が自分に服従するならば大ハーンの宮廷で官職に就けてやろうという-アジア側の視点に立ってのみ理解しうる-提案をしたことがあるが、これに対して皇帝は当意即妙に、自分としては鷹匠の職しか考えられないと答えた」
ジンギス・ハーンの在位は1206年-1227年ですから、真偽はともかく年代的にはこういうエピソードが語られても、矛盾はしません。
彼の宮廷では、この種のウイットに富んだ会話が交わされていたのです。宮廷のだれかが、逆にフェデリーコ2世に辛辣な言葉を吐いても、彼はそれを楽しんでいたそうです。
以上カントーロヴィチに大変お世話になりました。
ところで、1240年にはバトゥに率いられたモンゴル軍がポーランド、ハンガリーに侵入しています。ヨーロッパ軍は連戦連敗、1241年にはウイーンに迫りました。ウイーンは、神聖ローマ帝国を構成するオーストリア公国の首都です。
このときは1242年大ハーンが死んだので、モンゴル軍はヨーロッパから引き上げました。歴史にifは存在しませんが、もしこのとき大ハーンが死なず、ウイーンが陥落して、モンゴル軍が神聖ローマ帝国内に侵入したら、フェデリーコ2世、いや神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世は応戦に出動したはずです。ローマ法王との争いも蜂の頭もない話しで、法王とは急転直下和解、その後の欧州の歴史が変わった可能性があるのではないか。
☆☆☆
フェデリーコ2世の宮殿を偲ぶ何かがないかと、街を歩きました。 -
アルピ通り。
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普通のイタリアの通りですね。
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寿司屋がありました。宮殿のすぐ近くです。フェデリーコ2世となにかこじつけようかと思いましたが、無理ですね。すべて夢の跡です。
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これはもしかしたら・・・
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17世紀の建物でした。しかしどうして落書きをするのでしょうか。「17世紀の建物ですよ」という標識に落書きをして、何が楽しいのでしょう。書いたやつの寂しい頭の中です。
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廃墟となった宮殿からは、多くの資材が再利用されたと、説明板はいっていました。これがそうだといいなあ。
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こういう建物の柱頭なども生き残りかもしれません。
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フェデリーコ2世広場から100メートルほど南のフォッジア大聖堂(Cathedral Basillica di Foggia)
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1073年に建てられ、1731年の地震で損害を受け、その後バロック様式で修復されたものだそうです。
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これなどかなり古い建物の一部を教会に取り込んだ感じがします。
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地震前、1703年のフォッジアの絵です。中央の尖塔がこの教会ですね。地震後修復されているのが分かります。
フェデリーコ2世の宮殿跡は放置されたわけです。
17世紀の建物といい、この教会といい、宮殿から100メートルしか離れていません。それでも1943年の空爆の被害を免れています。
残念。
前述のようにこの空爆で宮殿は跡形もなく破壊されました。
逆にいうと、1943年までは廃墟にしても、もう少しかつての面影が残っていた。残骸でいいから建物の一部、ライオンまるごとは無理でもせめて頭、柱の2、3本、柱頭の5、6個くらいなんとか保存できなかったのでしょうか。
イタリア人は、フェデリーコ2世になんとなく冷たいと、私はあちこちで感じました。 -
アルピ通りを下ると、アーチの奥に教会が。
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説明板によると、「The Church of Our Lady of Sorrows」とありました。後期バロック様式の建物ですが、その母体となるものは8世紀に遡るそうです。
フェデリーコ2世はその建物を見ているということですね。 -
「Ricciardi Building」とありました。8世紀の建物だそうです。
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手前がアルピ通りです。
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サン・トマソ教会。11世紀の創建、1766年に再建とあります。
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母体となるものは13世紀にあったということです。
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あまり大事にされていません。
アルピ通りには宮殿があったときと同時代の建物はありましたが、面影を偲ぶようなものは皆無でした。 -
こんな廃墟が残っているくらいです。
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残す気があれば残りましたよね。
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アルピ通りにはフォッジアの大学があります。
「人文学部」ということでしょうか。文学、教養、教育学。学問が大好きだったフェデリーコ2世としては、自分の宮殿の近くに大学があることは、きっと嬉しいでしょう。
これを唯一の慰めとして、フォッジアの散策を終えます。
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