2019/04/12 - 2019/04/12
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しにあの旅人さん
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パレルモは、フェデリーコ2世の時代、欧州最先端の国際都市でした。シチリア王家はもともとフランスのノルマンディから来て、アラビア人王朝を倒してシチリアを支配しました。その後イタリア化。それに従うノルマン人貴族、イタリア化しています。彼らが支配層です。紀元前8世紀からこの島を開拓したギリシャ人、9世紀に島にやって来て残留したアラビア人と共存していました。
シチリアの国際性は、高山博「中世シチリア王国」を読むとしみじみ分かります。大変お世話になりました。引用は僭越ながら「高山」とさせていただきます。
平家・海軍・国際派といいます。日本で主流になれないもの。反対は源氏・陸軍・国内派。国際派と国内派の対立、これは世界だいたいどこでもいつの時代でも同じ。そして、どこでも、いつでも、国内派が勝ちます。フェデリーコ2世もその死後、彼の王国と理想は滅びました。
彼は13世紀の欧州で国際派の代表です。国内派の親玉はローマ法王、イスラムは十字軍の送り先としか見ていなかったので、ぎんぎんの欧州国内派です。
フェデリーコ2世、今回だけフェデちゃんとよびます、フェデちゃんの国際主義を育てたのは、当時のパレルモだといわれます。
今はイタリアのお荷物といわれる南イタリアの、そのまた端っこのパレルモ、どんな面影が残っているかと、行ってきました。
この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。
フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生
https://4travel.jp/travelogue/11505518
なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。パレルモ滞在は4月15日―20日です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
地図がひどいのはまあ、ご愛敬ということで。
小森谷の地図や、パレルモではどこでも売っている観光案内書「La Chapelle Palatine et le Palais Royal」の地図をベースにしました。
12世紀くらいのパレルモはこんなものだそうです。デコボコ長方形の城壁があり、この城をカッサロといいました。
ヴィア・マルモレア(Via Marmorea、現在のヴィットリア・エマニュエーレ通り)に交差する道路は今と同じマッケーダ通り(Via Maqueda)とよばれ、クアトロ・カンテイ(Quatro Canti)に相当する十字路がありました。当時なんとよばれたかは分かりません。
長辺の城壁の南側にはケーモニア川(Kemonia)、北側にはパピレート川(Papireto)が流れ、カーラ湾(Cala)に注いでいました。これらの川は埋め立てられ、今はありません。このカーラ湾は現在よりかなり内陸まで食い込んでいました。現在のローマ通りは港の波止場、または波打ちぎわだったということです。
カッサロの周囲にも街が広がり、主にアラブ人居住区でした。その外にもう一重城壁があったようです。人口は5万から10万。ヴェネティア、フィレンツェなどの北イタリアの都市、パリが10万ですから、ヨーロッパ最大級の大都市でした。シチリア全体の人口は50万。(高山)
ここではイタリア語、ギリシャ語、アラビア語が飛び交っていたのです。宗教は自由で、ラテン・カトリック(高山の用語)、ギリシャ正教、イスラム教が信仰されておりました。カトリックと正教の教会、モスクが並び立っておりました。 -
マルトラーナ教会(左)、サン・カタルド教会(右)。
マクエダ通りから見るとちょっと高台にあります。ここがカッサロ城の東南の端で、港を見渡すことができました。(小森谷) -
マルトラーナ教会、正式には「海軍提督の聖母マリア教会」という名です。創建は1140年ころ。ビザンティン・ギリシャ正教形式建築の傑作です。
これを造ったのは、ジョルジュ(ギリシャ語ではゲオールギウス)。ルッジェーロ2世(フェデリーコ2世の祖父)に忠誠をつくした宰相です。シリアのアンティオキア生まれのギリシャ人です。非常に優れた人物ではありましたが、外国人が宰相、つまり総理大臣になれたわけです。
これで驚くのはまだ早い。2代の国王の治世で4人の宰相がいましたが、3人はジョルジュを含めて外国人です。アラブ人ペトルス、フランス人ステファヌス。宰相ではありませんが、国政を任された大臣クラスにはなんとイギリス人もいました。(高山)イギリスなんて、当時のヨーロッパではド田舎でしょう。あんな田舎出身でよくシチリアの大臣が勤まったな。
国王がイタリア語のほかにアラビア語、ギリシャ語ができるのは当たり前で、臣下がこの3カ国語ができて、優秀ならば、どんどん国政を任せたのです。うまくいくかどうかは別ですが。 -
内部のビザンツ様式のモザイク画は、1143年から48年に描かれました。絢爛豪華なモザイク画は、キリスト教、ビザンツ、イスラムの文化の融合といわれております。実際に造ったのは現場の職人で、異なる文化をもつ人たちが協力して働いていたというのが驚異です。キリスト教徒とイスラム教徒なんて、イタリアのほかの土地だったらカタキ同士でしょう。
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イスラム風の幾何学模様があちこちにあり、普通のカトリックの教会と雰囲気が全く違います。
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これなどモスクにありそう。
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キリスト生誕の場面でしょう。
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カメラの望遠を使って、なるべく詳細な写真をとりました。
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ほとんど仰向けの姿勢です。カメラを支えるので首が痛くなりました。拡大写真ではないので、モザイクの一つ一つ、マリアの表情がしっかりと読み取れます。
このマリア、だれかに似ている。あとで気がつきました。 -
天井のフレスコ画です。おそらくキリスト生誕のときの東方3博士の礼拝だと思います。マルトラーナは後年16世紀頃バロック様式で増改築されています。この部分はその時に描き換えられたのではないでしょうか。
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マリアの表情など、とても12世紀の絵ではありません。
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私たちが注目したのはこの人物。
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色黒の人物は、北アフリカのムーア人がモデル。ムーア人となれば普通イスラム教徒です。カトリックの教会にイスラム教徒を連想させる人物を描くというのは、いくら16世紀でも大胆です。
元の絵がこのようなテーマだったのでしょうか、それがどんな絵だったのか知りたいな。 -
サン・カタルド教会。1160年創建。
屋上の三つのクーポラは、明かり取りだそうです。赤に塗られているのは近代になってからの塗装とのこと。(Palermo et Monreale)
造ったのは唯一のイタリア人宰相マイオ。彼はシチリア人ではなく、王国領内とはいえバーリ出身です。マイオは1160年に暗殺されたので、建物は教会としては未完成でした。 -
このアラビア風たこ焼きが気になる。
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入りました。
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内陣です。
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この教会は未完成でした。そのため内装がほとんどなく、建物の構造がはっきり分かって貴重だそうです。
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屋上のたこ焼きの内部です。
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明かり取りにはなったでしょう。上昇した暖かい空気を逃がす役目もしていたのではないかな。
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ビザンチンとアラビアの融合はノルマンニ宮殿の王の間でも顕著です。
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左右対称のクジャク、
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左右対象のライオン、「砂漠の楽園オアシスのイメージを喚起するイスラム風のモチーフがビザンツ様式のモザイク画で描かれているのである」(高山)
王宮は異国情緒豊かです。加えて、ここで暮らした3代の王のお后様は、全部外国人でした。(高山)スペインから2人、フランス2人、イングランド1人、みなさん実家は立派な家柄で、お姫様です。お輿入れの時は当然女官だの侍女だのがいっぱいついてきます。
王宮ではその時々によりイタリア語に加え、フランス語、スペイン語、英語が、アラビア語とともに飛び交ったでしょうね。王宮の使用人にはアラビア人が多かったのでアラビア語は必須。
国連安保理事会のようでありますな。 -
パラティーナ教会の天井です。壁はラテン・カトリックの宗教画ですが、天井はアラビア風。
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宗教は自由で、ラテン・カトリック、ギリシャ正教、イスラム、どれを信仰してもかまわない。その信仰もかなりいい加減みたい。
イブン・ジュバイルというアラビア人の旅行記には、キリスト教徒のご婦人がムスリムの美しい衣装を纏い、ベールをつけて街を歩いていたと書いてある。(高山)
いつの世も女性はおしゃれが大事ということですね。「キリスト教徒の衣装なんて、ダサっ。ベールってステキじゃない、色っぽく見えるわよ」
一方イスラム教徒の親は妻や子供を𠮟れなかった。叱るとキリスト教の教会に駆け込んで改宗してしまう恐れがあったから。「イスラム教徒たちは家族や子供に対して非常に気をつかって生活するようになったという」(高山)
お姫様のお輿入れについてきたフランク人女性が、王宮のアラビア人女官の影響でイスラムに改宗したということもありました。(高山)
フランスから来たお后は、ブルゴーニュ公のお嬢さん、もう一人はレテル伯の娘さん、フランスとはいえ田舎ですね。パリですら、パレルモから見ればドン臭かったでしょう。ましてもっと田舎から来た侍女ですから、洗練されたアラビア女性の衣装、立ち居振る舞いに憧れちゃったのではないかと。
こうした国際色豊かな街を、よく言えば自由放任、正直な話し、手に負えないので放置されたフェデちゃんは、勝手に王宮を抜け出してうろつきまわりました。4才でラテン語が読み書きできたというくらい頭がいい、7才前に鎧をきた兵士に飛びかかるという向こうっ気が強い少年です。 -
現代のヴィットリア・エマニュエーレ通り。フェデちゃんが歩いていたころはヴィア・マルモレア。ノルマンニ宮殿から港に一直線です。カテドラーレの位置は同じなので、両側の建物は変わっても位置や道幅は同じなのではないか。
フェデちゃんはなんたって王様ですから、そのへんのガキを束ねてこの道路を闊歩していたのです。織田信長のカブいていた時代という感じで。 -
ヴィットリア・エマニュエーレ通りの両側にはこうした路地がいくつもあります。路地は当時と変わっていないそうです。右側の建物は廃墟です。石の建物ですから800年くらいもつでしょう。
パレルモの町全部が、フェデちゃんの遊び場でした。
でも勉強もしていたようです。グイエルモ・フランチェスコが少年をリードしました。王宮に謀反の兵が乱入したとき唯一少年王をかばってくれた、あの家庭教師です。
カントーロヴィチによれば、1208年、フェデちゃんが12才ころまで近くにいたことが分かっている。後年彼はこの人の息子を重用しているので、感謝していたことがわかります。(塩野)生徒が好きなことを、好きなように伸ばすいい教師でした。
藤沢によれば、フェデちゃんの後見人であるローマ法王インノケンティウス3世は、幼王教育のため選りすぐりの教師団をパレルモに送り込んできました。その中には60すぎのサヴェッリ枢機卿もいました。インノケンティウス3世の次の法王、ホノリウス3世です。
でも少年王は、こういう重厚な教師団を全然相手にしなかったようです。「不屈の精神旺盛にして、万事につき御しがたし」(塩野)
フェデちゃんの学問は独学でした。
言語は、イタリア語、母国語ですからあたりまえ。フランス語、おじいさんのルッジェーロ2世はフランス生まれです。ドイツ語、なんたってお父さんが神聖ローマ帝国皇帝、いつお呼びがかかるか分からない。現にすぐお呼びがかかります。
ギリシャ語、アラビア語は、当時のパレルモではどこでも話されていた言葉で、街で覚えた言葉ですね。相当悪い言葉も覚えたはずですが、王様だし頭はいいのでケースバイケースで使い分けた。
「・・・それでいながら一方では、王という高い地位を占める人にはふさわしくない、庶民的な話し方で人々を驚かせることも少なくない」と、ローマ法王から送られたお目付役が報告書を出しています。(塩野)
平たくいえば、XXXとか○○○と伏せ字にするような、下品で卑猥な言葉も駆使した。法王への、典雅なラテン語の報告書に、XXXだの◯◯◯だの書くわけにはいかないでしよ。
フェデちゃんが、相手によってイタリア語で、アラビア語で、ギリシャ語で、その他の言葉でXXXや、◯◯◯を連発していた。江戸町奉行遠山の金さんがいきなり片肌脱いで、べらんめえでまくし立てるような感じ。庶民はスカッとします。
それでいて、読書が大好きで、スポーツ万能。頭の回転は最高。ただの無頼の徒ではない。こういう息子がいたら親は嬉しいですよね。
でもいうことは聞かない。
親の言うことをきいていちゃだめ! その段階でワクが親の世界になっちゃう。もっと広い世界に出ようと思ったら親のワクから出ないとね。逆らわないと!
by妻。 -
モンレアーレ大聖堂。
塩野によれば、フェデちゃんの立ち回り先の一つです。乗馬が得意だったので、馬を駆ったのでしょうか。ノルマンニ宮殿から道なり約7キロ、歩いても2時間かからないはず。 -
王宮から標高差が280メートルくらいありますが、元気な少年ですから駆け上がってきたことでしょう。
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豪華絢爛なアラブ・ノルマン様式の内部です。
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壁の宗教画とアラビア風の天井装飾。
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アーチの装飾もアラビアぽい。
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天井本体です。
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窓枠の装飾、
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ステンドグラスもアラビア風。
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これなんか、アラビア風模様と十字架を並べているわけで、よく両方から文句が出なかったな。
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アラビアの雰囲気が、
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こうしたラテン・カトリックの宗教画と共存しています。
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内陣背後のキリスト。
パレルモでは、ラテン・カトリックとイスラムが共存していたのです。
「カトリックのキリスト教の王が依頼した聖者のテーマをギリシャ正教徒のギリシャ人がモザイクに作り、壁面や床を飾る多色の敷石は、アラブ人が作りあげた教会」(塩野)
成人してからのフェデちゃん、フェデリーコ2世は、サラセンに対し偏見を持っていなかったのです。
こうした環境に育ったら、なんの不思議もありません。 -
マルトラーナでお会いしたこのマリア様、誰かに似ていると思いました。
-
パレルモの街に貼ってあったモジリアーニの展覧会ポスター。
似ていると思いませんか。
左右反転して、 -
首の傾きを同じにして、瞳を入れました。
-
細長い顔、長い鼻、バターをナイフでさくっとえぐったようなくっきりした目元、鼻。
モジリアーニは北イタリア生まれですが、1901年17歳の時、南イタリアを旅行しています。マルトラーナに来たか、さあ、どうでしょう。
「マルトラーナのマリアとモジリアーニ」
イタリア美術史専攻の学生さん、卒論でいかがですか。アイデア料はシチリア産レモンチェロ半ダースということで。
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この旅行記へのコメント (1)
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- baraさん 2019/08/15 11:21:13
- はじめまして。
- シニアの旅人さん
おはようございます。
パレルモをじっくり歩かれたんですね。旅行記は全部拝見できていませんが、自分が立ち寄ったエリアの旅行記を先に読ませていただきました。自分の知らない路地やいろんな街の情景を拝見し、僕たち夫婦は連れられるまま通り過ぎtだけだと感じています。
シニアの旅人さんのようにこれからはちゃんと歴史を見ながら旅ができるようになりたいと思いました。
どうぞこれからも良い旅を続けてくださいね。私もエベレストトレッキングで一息つきましたのでこれからはなるべくお金をかけず目的を持って旅ができるよう頑張ります。
どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。
bara
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