2019/04/17 - 2019/04/17
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しにあの旅人さん
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ブリンディジはバーリから列車で往復しました。
ブリンディジ・スヴェーヴォ城(Castello Svevo di Brindisi)があります。このお城は現在イタリア海軍の司令部があり、中には入れませんが、彼が築城した城とあれば行かざるをえません。
フェデリーコ2世が2番目の正妻となるヨランダとの結婚式をあげたのもこの町です。
ナポリは、ナポリ大学と卵城に行ってきました。
この旅行記を書くにあたり、参考にした資料は下記に列挙してあります。
フェデリーコ2世紀行-1 イエージ・誕生
https://4travel.jp/travelogue/11505518
なおこの旅行記はフェデリーコ2世の年代記風に並べたいと思います。4Travelではブログは旅行日順に並ぶので、表紙写真下に表示される訪問日と実際の訪問日は異なります。プーリア滞在は4月9日―14日です。ナポリは4月20日―22日。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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私たちはアンコーナからバーリ、バーリからブリンディッジを列車で移動しました。アンコーナからバーリの車窓は、リゾートマンション、別荘やバカンス村が並び、豊かな観光地という雰囲気です。
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バーリからブリンディッジというと、ほとんどオリーブ畑です。
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南に行けば行くほど、見渡すかぎりオリーブ。
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廃墟が目立ちます。南イタリアはイタリアのお荷物、これをいうのだなと思いました。
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面白いものがありました。列車の座席の頭おき。これが普通。頭が外側つまり通路側に落ちるのを防ぎます。
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逆ですよね。本来は窓際の席につけるもの。この一つだけ、つけ間違いです。まあいいか、イタリアだから。
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アッピア街道終点の塔。これについては、
「イタリア2019春-5 アッピア街道、ブリンディッジからローマ」
https://4travel.jp/travelogue/11503143
にまとめました。よろしければご覧になって下さい。
ここから海沿いに西に向かいます。 -
しばらくすると軍艦の向こうにブリンディジ・スヴェーヴォ城(Castello Svevo di Brindisi)が見えてきます。
神聖ローマ帝国皇帝としてのフェデリーコ2世の姓は、ホーエンシュタウフェン(Hohenstaufen)ですが、これがイタリア語だとスヴェーヴォ(Svevo)となります。「神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝の城」とイタリア人は思っているわけです。「フェデリーコ2世城」ではありません。
しかし、ウイキペディア(フランス語版)によれば、城は1227年ごろにフェデリーコ2世により、もともとここにあったローマの遺跡、とくに円形劇場の石材を使って築城されたそうです。
その後も歴代の城主により増改築が繰り返されました。現在はイタリア海軍の司令部として使われています。
係留されている軍艦は空母型の一通甲板を持っているので、サン・ジョルジュ級強襲揚陸艦のようです。少なくとも1年くらいは係留されたままです。 -
確かに中世の城らしき城壁はあります。雑草が生えていますね。海軍の司令部なのだから、もうちょっと手入れはしてほしい。内部はよく保存されているそうですが、本当かな。
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丘をダラダラと登って、城の正面、つまり海軍司令部の正面にやって来ました。
門が開いているので、衛兵さんに写真を撮らしてくれと頼んだら、ダメ。まあ、軍の施設なのでしょうがないか。ちょっと中庭に入れてくれるだけでいいのに、ケチ。 -
外からならいいらしいので、もう1枚。こちら側はよく手入れされています。
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Wiki Commonsに著作権フリーの写真があるので貼っておきます。
撮影者はPaolo Montiさん。
上の写真の門の奥に見える部分と同じですね。1970年ごろの写真のようですが、雑草が生えている! -
教会の入口の大きなシュロの葉。
この門の近くに小学校4年生くらいの男の子とその父親が、小さな台に銀色のシュロの葉とオリーブの葉を置いて売っている様子。
フランスでは5月1日にちょうどこんな風に鈴蘭を売っています。お互いの健康と幸福を祈り合うのです。それによく似た風景だし他に人もいないので、図々しくなぜ、何の為に売っているのかききました。
そのパパはあんまりフランス語が分からない、私はイタリア語が分からない。が、人間心は通じるものですよ。
本日はパルム祭。イエス・キリストがエルサレムに入った日なのです。それを祝って、だそうです。
現代の我々はキリストがどのような生涯をおくったかを知っているわけで、エルサレムに入ったときのイエスと弟子たちのその後を思うと、何かせずにはいられないということでしょうかね。
と、言語よりも想像力を駆使して理解したのであります。パルム祭(シュロ祭)というのは間違いありませんよ。
その後パパは買えとは言わなかったし、私も無神論者といいますか、神道信者と申しますか、そういう身では買いたいとも言い出せず、「ありがとう!」と別れましたが、彼らの晩ご飯の話題は提供しただろうから、いいや。
by妻 -
8000トンの船が岸壁に係留されています。喫水が深いのです。当時のガレー船など簡単に接岸できた。
1228年6月28日、フェデリーコ2世率いる第6次十字軍は、ブリンディッジを出航しました。できたてほやほやのこの城から、彼の旗艦は出航していったのでありましょう。
パレスティナで、フェデリーコ2世は外交交渉でエルサレム無血開城に成功します。
このあたりに興味のある方は、塩野七生の「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」を是非読んでください。この本のクライマックスの一つです。 -
14世紀のミニチュア画。Wiki Commonsの著作権フリーの写真です。撮影者はGiovanni Villaniさん。
左から2番目がフェデリーコ2世、その右がカイロのスルタン、アル・カミール。右手と左手の変な握手だと思いましたが、右手をとって、右手で城を指さして、「エルサレムに入っていいよ」とスルタンがフェデリーコ2世に言っているのですね。
実際にはフェデリーコ2世は直接アル・カミールに会っていません。 -
狭い湾口の先がアドリア海です。オリエントからの船はここからブリンディジの港に入ります。
1229年6月10日、フェデリーコ2世はブリンディッジに帰還します。 -
フェデリーコ2世は最初の后、コスタンツアを1222年に亡くしていました。
ローマ法王ホノリウス3世のお節介で、エルサレム王国の王女ヨランダ・ブリエンヌ(Jolanda di Brienne)を、后に迎えることになりました。結婚式は1225年11月9日。場所はブリンディジのこの大聖堂。(Basilica Cattedrale della Visitazione e San Giovanni Batista)
大聖堂は現在公開されおらず、中に入ることができません。 -
ヨランダは14才、政略結婚でした。フェデリーコ2世はヨランダの夫として、エルサレム王国の国王というタイトルがほしかっただけ。
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14才ですからね、幼すぎたのです。結婚式の翌日には、フェデリーコ2世はヨランダの女官の一人アナイスに手を出しております。1年後、ヨランダより前、アナイスは女の子を出産しました。(塩野)
ヨランダにとっては、かわいそうな話です。 -
14世紀のミニチュア画。Wiki Commonsの著作権フリーの写真です。撮影者はGiovanni Villaniさん。
結婚式の絵。中央に立っている人相の悪いのはホノリウス3世。実際には結婚式には立ち会っていません。この法王が、ヨランダにとって不幸の元凶でした。
1228年男の子を一人産みますが、出産の10日後、4月25日、バルレッタに近いアンドリアで死んでしまいます。わずか16年の人生でした。
フェデリーコ2世は女には猛烈に手の早い男だったようです。英雄色を好むといいますから、そういうものかもしれませんが、このヨランダにはもう少し優しくしてあげればよかったのに。
☆☆☆
ブリンディジの町はもう一度行ってみたい町の一つです。
港は軍港らしくいかめしいのですが、町中に入ると古い石造りの家が建ち並ぶ静かな落ち着いた町でした。公園で子連れの家族がサッカーの練習。ほのぼのと見ていたら、そこで何と!秋田犬を見つけたのです。腹から胸が白く、立派なしっぽ、立ち耳の本物のアキタイヌでした。連れている男性はショーンコネリー風。
実は私たちはアキタイヌを飼っていたことがあり、その犬の兄弟がスペイン、イタリアに行ったとは聞いていたのです。
「オオッ-うちの犬の甥?姪?」とか思ったんだけど、我が愛犬は10年前に15才で虹の橋のたもとにいっちゃたので、甥姪どころかその孫くらいで、うーん、もう何等親? 他人、他犬ですね。でもなんとか、その犬の飼い主のショーンコネリー風に声をかけたかったんだけど。でもなんというんですかね。「あなたの犬は私の犬の姪ですよね」って?うーん、うーん、何と言おうと思っているうちに、その犬はゆっさゆっさとしっぽを揺らしながら、静かな豊かそうな町の一角に消えてゆきました。ショーンコネリーさんはお金持ちなんだ、散歩にも行ってくれるし、いいご飯もくれるんだろう。よかった、よかった、とその場を離れました。
――というわけで、ブリンディジは親戚のいる町って感じです。
By妻 -
ナポリの卵城。(Castel dell’Ovo)
ナポリは、フェデリーコ2世関連でナポリ大学が目的だったのですが、少しは定番の観光もしようということで、お上りさん気分で行ってみました。すると、城内の説明板にフェデリーコ2世が登場するのです。俄然取材モードになります。
この城がシチリア王家の支配下にあったのは1194年ごろから1266年まで。城には塔が多く建てられました。一番古い塔は現在でもノルマンの塔(Normandia)とよばれます。
フェデリーコ2世からこの城は王宮として使われ始めました。彼の妻の館を造ったとなっていますが、どの妻かは分かりません。いっぱいいましたから。
息子マンフレディは後年ここに住んだことがあるので、母のビアンカ・ランチアかもしれません。彼女はバーリに近いジョーイア・デル・コッレの城に住み、ここで死んでいますが、フェデリーコ2世の最愛の女だったので、二つくらい城をもらってもいいんじゃないかと。
マンフレディはマザコンだったようで、亡き母の面影を偲んで・・・などということはないかな。 -
これは1352年の卵城で、アンジュー朝の支配下ですが、フェデリーコ2世のころと外観は変わっていないそうです。なるほど塔がいっぱいある。
現在のようなごっつい城壁に囲まれた城になったのは、15世紀アルフォンソ1世の時代です。 -
1593年の卵城
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現在と同じです。
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フェデリーコ2世大学。Università degli Studi di Napoli Federico II
ナポリ大学といわれますが、正式にはフェデリーコ2世大学です。ヨーロッパ最初の国立大学。フェデリーコ2世がシチリア王国丸抱えで造った大学ですから、たしかに国立大学です。
残念ながら私たちがナポリにいた3日間は復活祭の休暇で、大学は閉まっていました。建物正面と正門上のレリーフだけ写真にとりました。 -
大学正面とその上のレリーフ。
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19世紀に造られたものだそうです。現在は網がかかっています。
正面がフェデリーコ2世。彼の左に初代学長ロフレド・エピファーニ、右側にピエール・デッラ・ヴィーニャという構図になっています。(塩野) -
ピエール・デッラ・ヴィーニャは大学の設立趣旨書を読み上げているというので、左端の人物。
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左端の台の上に左足を上げているのがロフレド・エピファーニだと思いますが、よく分かりませんでした。
☆☆☆
ナポリはやっぱりうわさ通りのナポリで、大都会で、大観光地でした。
着いた日に大学の大階段に貧しい服装の女性が、まるで祭壇に捧げられたかのように長く横たわっているのを見たとき、その異様さに目が釘付けになりました。駅の広場の階段には乞食がいて、通行人に哀れな声をかけているのはよく見ていました。
が、この場合は通行人が行き交う道よりはるかに高いところに長々と体を伸ばしており、それはうち捨てられた人形にようにも見えました。通行人はギョッとはするものの、そのまま通り過ぎます。彼女の周囲には乞食がよくする誘い銭もありません。第一小銭を与えようにも階段を上っていかねばなりません。彼女はただ横たわっているだけです。
2日目、よくよく観察してみました。彼女は手が片方、肘から先がないようでした。これはもう観光客が1、2ユーロをめぐんでかたづく話ではないでしょう。 -
3日目に彼女の姿はありませんでした。
ナポリ大学の大階段の話です。
通りにはおしゃれなナポリっ子と観光客が明るい日の光の中を笑いながら歩いていました。
☆☆☆
ポンペイにも行きました。ここまで来たんだから行かなくちゃ。
ポンペイはもう、もう、ものすごい人で、世界中から来た見物客で遺跡の中は通勤ラッシュ並み。小学校、中学校、高等学校の遠足らしき団体がキャーキャー騒ぐし。野外だからって走りまわる子供を追いかける親達。後から思えば復活祭の休みで遊びに来た良き家庭人達ですよ。が、騒ぐ、騒ぐ。
キミ達、ここがどういう場所か知っているのか?不運な人々の墓場なんだゾ!
凸凹石道を歩かされて疲れ切った私は内心叫びつつ夫を見ると、苦虫かみつぶした顔。
で、意見一致して途中ですが出てきました。
あーあ、疲れた。もう二度と行かない。
不幸せは他人事でも疲れます。
そしてナポリ駅に帰り着きました。行きは歩いたんだけど疲れたし、ホテルの最寄り駅までメトロに乗ろうと。そうしたら乗降口が閉まっている!なんじゃ?こりゃ。事故?それともストライキ? イタリア語分かんないし、わけ分からん。あー!めんどくさっ!で歩いて帰ってきました。そしてホテルのレセプションに聞いたら、パソコンで調べてくれました。
「復活祭だから」だって!!
信じられます? レセプション嬢も「ヘエーッ!」だって。
(全線ではなく、動いている線もありました。念のため)
復活祭のたたりは更に続くのです。
さて、疲れ果てたあげくの徒歩帰宅。一休みしたら、やっぱりお腹がすきます。ご飯に出かけましょう。
と、イタリア最後はココ!と思っていたレストランは閉まっています。なぜ? じゃあ違うレストラン、閉まっています。なぜ?
なぜ? なぜ? なぜ? 復活祭だからでした。
仕方ない、ホテルの近くのカフェに入って「食べられます?」と問うと変な顔したんだよね、あとで思うと。「メニューを見せて下さい」というと更に変な顔。なんだか違和感感じながら、夫は「まずはビールだなあ」ビール飲みながら料理選ぼうと注文します。ビールはすぐ出てきました。カフェですから。ところが料理はピッザしかないって。まさかの事態ですが、我々の危機管理はアマかった。ピッザは焼きたてが出てくると思っていました。本場だし。熱々チーズトロトロで、ハフッハフッてなると。甘かったですね-。外は雨がかなり激しく降り始めました。
「ピッザは作り置きだけど、い~い?」店員さんは問い返してくれました。私は彼の名誉のためにも、お店の名誉のためにも、イタリア人の信仰心のためにも、ここではっきり証言します。だまされたわけではありません。彼は事実を伝え、我々はそれを承知で受け入れたことを。
でも数々のレストランを見た後、外は土砂降りの中、あるかないかの食べ物を求めて外に出る勇気のある人間はいるでしょうか。
というわけで、我々の夕食は今日一日、もしかしたら昨日から店ざらしにされたピッザでした。なかなかあごに手強いエクササイズでしたが。
石にされたわけでもなし、石になったピッザを食べさせられたわけでもなし。
はいはい、シャワー浴びて寝ちゃお!
ナポリの夜は雨の中にとけてゆきました。
by妻
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