2018/04/20 - 2018/04/20
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兵庫の日本百名城巡り、赤穂城紹介の締め括りです。山鹿素行は、万治3年(1660年)、赤穂藩への仕官を辞して、江戸へ戻りました。しかし、赤穂藩と素行との関係はこれで終わりませんでした。寛文6年(1666年)、朱子学を非難した著書『聖教要録』が幕府の禁忌に触れ、播磨国・赤穂藩での謹慎の命が下り、これが、後の赤穂事件のバックボーンとなりました。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)
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振り返って眺めた、下ってきた天守台の石段光景です。赤穂城には立派な天守台がありますが、一度も天守は築かれませんでした。この天守台は築城当時のもので、1937年(昭和12年)に石垣隅角部の崩壊箇所が修復され、さらに1985年(昭和60年)には登り階段が修復整備されています。メンテナンスは行き届いているようでした。(同上)
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『本丸御殿跡』越しに眺めた『本丸門』方面の光景です。すでに紹介しましたように、永井家文庫を元に、かつての本丸御殿の間取りが、正確に平面復元されています。1701年の松の廊下の刃傷事件で浅野家が取り潰しになった後、譜代の永井家が3万2千石で1706年まで藩主を務めています。(同上)
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城内側から眺めた『本丸門』の光景です。本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治10年代後半の取壊しまで、約230年間存続していました。現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採用され、国・兵庫県の補助を受けて総事業費約6.7億円をかけ、平成8年(1996年)3月に完成したものです。(同上)
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赤穂市のカラーマンホール蓋の紹介です。討ち入りの装束姿の赤穂義士が描かれていました。雪が降る中呼子を手にしていました。四十七士は討ち入りに際し事細かに打ち合わせを行っていて、その一つに『上野父子を討ち取ったら合図の笛を吹き次々と継いで皆に知らせること』というのがありました。それぞれが首からぶら下げたり、懐に入れたりしました。『呼子鳥笛』とも呼ばれます。(同上)
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『本丸』の見学を終え、次は「二の丸」の見学です。『本丸』の見どころには、本丸櫓門の展示品がありますが、今回は見学を端折りました。参考までに次の資料を紹介しておきます。(同上)
https://4travel.jp/travelogue/11006167
(2015春、近畿・中国・四国の百名城巡り:赤穂城) -
『二の丸跡』から眺めた『本丸』にあるの天守台の光景です。五層の天守の計画もあったようですが、結局、天守閣が建つことはありませんでした。その理由は、幕府に慮ったとする説と、京都御所に関する天下普請の申し付けがあり、経済的に困難になったとする説などがあります。(同上)
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『本丸』の次は、『二の丸』の紹介です。現在入口となっている門は、二つありました、浅野氏の重臣・大石頼母助の武家屋敷門、左端に見えている冠木門です。『三の丸』には大石内蔵助の屋敷など、数多くの武家屋敷がありましたが、『二の丸』にはこの大石頼母助の屋敷以外にはなかったようです。(同上)
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国指定の名勝、『旧赤穂城二之丸庭園』の光景です。江戸時代初期の作庭と推定されている庭園です。近年、復元されて2016年より一般公開がはじまりました。山鹿素行は、貞応元年(1652年)、数え31歳の時に、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長友に1千石で招請されました。江戸に勤め、赤穂にも赴き、赤穂城築城についての指導もしたことが、発掘調査でも確認されています。(同上)
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素行が高禄で迎えられたのは、門下希望者が、常に2千人を超えていたとされ、赤穂藩は5万石の小藩でしたが、高禄を提示しました。万治3年(1660年)、数え39歳で赤穂藩への仕官を辞して、江戸へ戻りました。しかし、赤穂藩と素行との関係はこれで終わりませんでした。寛文6年(1666年)、数え45歳の時に朱子学を非難した著書『聖教要録』が幕府の禁忌に触れ、播磨国・赤穂藩での謹慎の命が下りました。(同上)
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素行は、10月9日に江戸の浅野藩邸を出発し、播州赤穂へ護送されました。10月24日に赤穂の刈屋城に到着、6年振りの赤穂入りでした。家族は、10月17日に出立し、11月4日に赤穂へ着いています。45歳から54歳までの10年間ほどを赤穂で過ごすことになりました。待遇は幽閉とは名許りで、衣料、食事、住まいまで、何不自由なく厚遇されました。(同上)
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家老の大石頼母助良重(良雄の祖父)からは、毎日朝夕の2回、欠かすことなく野菜を送り届け続けられました。それを辞退をすると、藩主の内匠頭の命だと答えて、送り続けられました。素行は因山と号し、朝寝などすることもなく、無作法な態度もとらず、1室で謹慎していました。国家老の大石良雄をはじめ赤穂藩士たちも、素行宅を訪れては諸学、特に軍学を学びました。(同上)
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素行は、長期間滞在したことで、この庭園で舟遊もしたことなども書き残しています。延宝3年(1675年)、数え54歳の時の6月15日に『謹慎の身を許す』、との命が下り、7月20日に『江戸へ帰還するよう』命が下りました。写真は、『三の丸』の『大石家老邸跡』に建つ『大石神社』の光景です。参道の両脇には、四十七士の像が並びます。赤穂浪士の討ち入りは、まさに素行の教えでした。(同上)
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二度目の赤穂暮らしは、素行にとって実り多いものでした。この間に、著書の『謫居童問』、『中朝事実』、『武家事紀』、『配所残筆』などが完成しました。貞享2年(1685年)、数え64歳の時、病(黄疸)に臥しましたが、赤穂藩主・浅野長矩、平戸藩主・松浦鎮信、津軽藩主・津軽信寿などの藩主はもとより、大勢の門下生が見舞いに馳せ参じました。写真は、正面から眺めた大石神社の光景です。(同上)
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『藩医・寺井玄渓屋敷跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。不行跡が絶えなかった藩主のため、主家を失った玄渓は京都で医業を開業していましたが、元禄13年(1700年)、播磨国赤穂藩・藩医として招かれ、浅野長矩に300石5人扶持で仕えました。元禄14年(1701年)3月14日の浅野長矩殿中刃傷事件の時には、江戸藩邸に詰めていました。(同上)
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『世の無常』を思わせる、草が生い茂ったかつての武家屋敷跡の『三の丸』の光景です。松の廊下での事件の後、玄渓は直ちに赤穂へ向かい、終始国家老の大石良雄に従って行動しました。良雄が江戸へ下る決意をすると、玄渓も同行しようとしましたが、8月6日に良雄は書簡を送ってこれを制止しました。玄渓は代わりに息子玄達を江戸へ送り、赤穂浪士たちの医療を担当させました。(同上)
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右側の『磯貝十郎左衛門正久』のタイトルがあった説明看板と、左側の『磯貝十郎左衛門正久宅阯』の文字が刻まれた石標の光景です。父・正次は幕臣・松平隼人正に仕えていましたが、主家が断絶して浪人になると、正久は京都愛宕山教学院の稚児小姓となりました。14歳の時、父と懇意だった赤穂藩士・堀部武庸の推挙によって浅野長矩に側小姓として仕えました。(同上)
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『磯貝十郎左衛門正久』のタイトルがあった説明看板の光景です。『磯貝十郎左衛門正久(1679~1703年)』は四十七士の1人です。討ち入り前の変名は、内藤十郎左衛門です。正久は、美童で利発だったことから長矩に寵愛され、物頭側用人(150石)にまで引き立てられました。浅野長矩は、正久と側用人・片岡高房に宛てて遺言を残し、二人は藩主の遺体を引き取りました。(同上)
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右側の『間瀬久太夫正明』のタイトルがあった説明看板と、左側の『間瀬久太夫宅阯』の文字が刻まれた石標の光景です。正保2年(1645年)に父が隠居したため家督相続し、赤穂藩では200石の藩大目付(役料10石)でした。(同上)
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『間瀬久太夫正明』のタイトルがあった説明看板の光景です。『間瀬正明(ませ・まさあき:1641~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人です。通称は『久大夫/久太夫(きゅうだゆう)』です。間瀬の読みは一説に『まなせ』があります。江戸下向中の変名は、祖父の名を使った三橋浄貞です。(同上)
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『塩屋門跡』の光景です。三之丸に位置した『塩屋門』は、赤穂城の搦手(からめて)となります。枡形と高麗門から構成されていました。枡形内には太鼓櫓があり、塩屋門の外にある侍屋敷に向け合図を発したとされます。枡形石垣は現在もよく残り、枡形内部の雁木板や枡形外面の複雑な折れなども見られます。(同上)
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『塩屋門』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『塩屋門』は、浅野内匠頭長矩の切腹を知らせる早籠が潜った門として、また赤穂城明渡しの際に、備中足守藩主が入城した門としても知られます。写真は明治10年頃に撮影されたもので、原画は花岳寺が所有しています。(同上)
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『良寛歌碑』の光景です。現地では読むことができない歌碑ですが、『あこうてふところにて天神の森に宿りぬ さよふけがたあらしのいとさむふふきたりければ やまあらしよ いたくなふきそ しろたへの ころもかたしき たひねせしよは』の文字が刻まれているようです。『良寛(りょうかん:1758~1831年)』は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家です。号は大愚。名は栄蔵。(同上)
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『元禄の名残豊かな・赤穂城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。末尾に『昭和58年(1983年)・赤穂八景選定記念』の文字がありました。『赤穂新八景』がどこかは分かりませんが、この場所は、『塩屋門跡』として石碑が建っていたようです。あるいは、題字から見て、『赤穂城跡』全体を指している可能性もあります。(同上)
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『博文館跡』の文字が記された、白い標柱の光景です。側面に『家中の子弟の教育のため、安永6年(1777年)塩屋門外に完成した藩校』と記されていました。平成29年(2017年)11月、耐震防火水槽設置のための発掘調査が行われましたが、博物館の場所が特定され、それ以前の武家屋敷跡や木簡などが出土しました。その結果、防火用水の設置場所は、博文館跡の敷地にかからないよう、変更がなされました。(同上)
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『岡野金右衛門宅阯』の文字が刻まれた石標の光景です。入口の石垣の脇に立てられていました。延宝8年(1680年)、赤穂藩士・岡野包住(番使200石)の長男として赤穂に誕生、幼名は九十郎(くじゅうろう)です。妾腹の子でしたが、っ多とされます。他に男子はいなかったので、岡野家の嫡男となりました。(同上)
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『岡野金右衛門包秀(かねひで)』のタイトルがあった説明看板の光景です。『岡野包秀(1680~1703年)』は、江戸時代前期の武士で、赤穂浪士四十七士の一人です。岡野包住の子で、通称は金右衛門(きんえもん)、本姓は藤原氏です。美男で知られ、俳句も詠みました。辞世の句は、『その匂ひ雪のあさぢの野梅かな』です。(同上)
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名前:『オダマキ(苧環)』
分類:キンポウゲ科オダマキ属
分布:日本、アジア、ヨーロッパに約70種自生します。
その他:平家物語の静御前の歌と踊りでも有名です。『しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな』に北条時子が同情しました。(同上) -
『いきつぎ広場』の文字と、赤穂義士が描か江R多大きな看板の光景です。この広場には、『息継ぎ井戸』があり、早水藤左衛門、萱野三平の両名が、早かごで主君刃傷の凶報をもって江戸より駆けつけた際、この井戸の水で一息ついて、城内の三の丸にあった大石内蔵助邸へ入ったと伝わります。(同上)
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往きにも通った、赤穂の駅前通りの光景です。先ほど紹介した『いきつぎ広場』もこの通りに面していました。正面に見えるホテルは、駅横にありましたので、あと5分も歩けば播州赤穂駅に到着です。(同上)
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赤穂城から城下町を散策しながら『播州赤穂駅』に到着しました。ここからは、赤穂線で姫路までの移動です。姫路では、今回のお城巡りでは最後となる姫路城の見学です。現在の播州赤穂駅の駅舎は、第3回近畿の駅百選に選ばれています。(同上)
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