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日本百名城巡りの岡山城の紹介です。天守閣は、大入母屋造りの基部に高楼を重ねた、『望楼型』と呼ばれる様式をしています。この様式は、犬山城、丸岡城など初期の天守に見られますが、世界遺産で名高い姫路城もこの様式です。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

2018春、岡山と兵庫の日本百名城(4/15):岡山城(4):発掘石垣、泉水、天守台、野面積

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2018/04/20 - 2018/04/20

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旅人のくまさん

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日本百名城巡りの岡山城の紹介です。天守閣は、大入母屋造りの基部に高楼を重ねた、『望楼型』と呼ばれる様式をしています。この様式は、犬山城、丸岡城など初期の天守に見られますが、世界遺産で名高い姫路城もこの様式です。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
新幹線
  • 天守閣がある、『本段』の見学を終えて『表向(中の段)』に下りる途中の光景です。虎口を意図した、鋭角に曲がる通路の光景です。江戸時代初期頃の岡山城回収の紹介です。元和元年(1615)、忠継の遺領を継いだ弟の忠雄は、岡山城整備の総仕上げをしました。まず、扉を開くと直接二の丸に通じていた大手門を、高麗門から一端右に折れて櫓門を通じて二の丸に入るような枡形門に改修しました。(同上)

    天守閣がある、『本段』の見学を終えて『表向(中の段)』に下りる途中の光景です。虎口を意図した、鋭角に曲がる通路の光景です。江戸時代初期頃の岡山城回収の紹介です。元和元年(1615)、忠継の遺領を継いだ弟の忠雄は、岡山城整備の総仕上げをしました。まず、扉を開くと直接二の丸に通じていた大手門を、高麗門から一端右に折れて櫓門を通じて二の丸に入るような枡形門に改修しました。(同上)

  • さらに忠雄は、本丸『中の段』を大幅に北側に拡張して、廊下門や月見櫓などを建築しました。『本段』の御殿に加え、新たに表書院も設けました。こののち、岡山城は大規模な増改築は行われることはありませんでした。忠雄時代の城郭が明治まで維持されることとなります。(同上)

    さらに忠雄は、本丸『中の段』を大幅に北側に拡張して、廊下門や月見櫓などを建築しました。『本段』の御殿に加え、新たに表書院も設けました。こののち、岡山城は大規模な増改築は行われることはありませんでした。忠雄時代の城郭が明治まで維持されることとなります。(同上)

  • 新緑の木々に半ば隠れてしまった『月見櫓』の光景です。本丸に唯一残る遺構の建物です。元和元年(1615)、池田忠継の遺領を継いだ異母弟の忠雄(ただかつ)により建築されました。忠雄の母は、徳川家康の次女・督姫です。忠勝は、家康の外孫として、随分と寵愛されたようです。(同上)

    新緑の木々に半ば隠れてしまった『月見櫓』の光景です。本丸に唯一残る遺構の建物です。元和元年(1615)、池田忠継の遺領を継いだ異母弟の忠雄(ただかつ)により建築されました。忠雄の母は、徳川家康の次女・督姫です。忠勝は、家康の外孫として、随分と寵愛されたようです。(同上)

  • 『発掘調査で見付かった石垣の現物を展示しています・岡山城を体感し、先人に思いを』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左下の写真が『宇喜多秀家が築いた天守』、右下の写真が『本丸中の段の施設整備』の説明図です。黄色で表示されているのが、『表書院の間取り表示』です。(同上)

    『発掘調査で見付かった石垣の現物を展示しています・岡山城を体感し、先人に思いを』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左下の写真が『宇喜多秀家が築いた天守』、右下の写真が『本丸中の段の施設整備』の説明図です。黄色で表示されているのが、『表書院の間取り表示』です。(同上)

  • 『地中に埋もれていた石垣』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右下の図面には、鋭角になった石垣の角の部分が赤枠で囲ってありました。左下の写真は、発掘調査時の現場状況で、右側の図面に記された、鋭角になった石垣付近の写真です。宇喜多秀家時代の石垣が、江戸時代に『中の段』が拡張されたため、埋め込まれました。(同上)

    『地中に埋もれていた石垣』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右下の図面には、鋭角になった石垣の角の部分が赤枠で囲ってありました。左下の写真は、発掘調査時の現場状況で、右側の図面に記された、鋭角になった石垣付近の写真です。宇喜多秀家時代の石垣が、江戸時代に『中の段』が拡張されたため、埋め込まれました。(同上)

  • ここからは、発掘された時のままの石垣遺構の紹介です。『表向(中の段)』の北側への拡張に伴い、宇喜多秀家時代に築かれた石垣の北側は、再利用されずに、埋め殺されました。写真は、400年近く地中にあった石垣の光景です。(同上)

    ここからは、発掘された時のままの石垣遺構の紹介です。『表向(中の段)』の北側への拡張に伴い、宇喜多秀家時代に築かれた石垣の北側は、再利用されずに、埋め殺されました。写真は、400年近く地中にあった石垣の光景です。(同上)

  • これらの石も、400年近く地中に埋もれたままだったようです。岡山城のこのケースに限らず、石垣を拡張する場合には、石材を再利用するより、埋め殺して、新たに石垣を積む場合が多いようです。推測ですが、古い石垣の石材は無駄になりますが、工程的には楽なのかも知れません。(同上)

    これらの石も、400年近く地中に埋もれたままだったようです。岡山城のこのケースに限らず、石垣を拡張する場合には、石材を再利用するより、埋め殺して、新たに石垣を積む場合が多いようです。推測ですが、古い石垣の石材は無駄になりますが、工程的には楽なのかも知れません。(同上)

  • 大変に珍しい石垣遺構とされる、鋭角に積まれた角の部分です。角の角度は70度、通路の形に合わせて、鋭角に造られた石垣になるようです。算木積の発達途中でしたから、角に大石は使ってありますが、長短の石を交互に組み合わせた算木積ではありません。(同上)

    イチオシ

    大変に珍しい石垣遺構とされる、鋭角に積まれた角の部分です。角の角度は70度、通路の形に合わせて、鋭角に造られた石垣になるようです。算木積の発達途中でしたから、角に大石は使ってありますが、長短の石を交互に組み合わせた算木積ではありません。(同上)

  • 『泉水』のタイトルがあった説明パネルの光景です。表書院の中庭にあった『泉水』の発掘状況の紹介です。発掘調査で確認された『泉水』は、埋め戻されて地下で保存されています。水が漏れないよう、底などに漆喰が張ってあったようです。(同上)

    『泉水』のタイトルがあった説明パネルの光景です。表書院の中庭にあった『泉水』の発掘状況の紹介です。発掘調査で確認された『泉水』は、埋め戻されて地下で保存されています。水が漏れないよう、底などに漆喰が張ってあったようです。(同上)

  • 中央奥に『不明門』が見える『奥向(中の段)』の光景です。戦災で焼失した岡山城ですが、高度経済成長期に入り始めた昭和35年(1960年)、旧藩士を中心に岡山城再建期成同盟会が結成され、天守閣再建の動きが本格化しました。その後岡山市がこの事業を引き継ぎ、篤志による融資と寄付金を資金に昭和39年(1964年)に着工され、2年後の昭和41年11月に天守閣等が竣工しました。(同上)

    中央奥に『不明門』が見える『奥向(中の段)』の光景です。戦災で焼失した岡山城ですが、高度経済成長期に入り始めた昭和35年(1960年)、旧藩士を中心に岡山城再建期成同盟会が結成され、天守閣再建の動きが本格化しました。その後岡山市がこの事業を引き継ぎ、篤志による融資と寄付金を資金に昭和39年(1964年)に着工され、2年後の昭和41年11月に天守閣等が竣工しました。(同上)

  • 『表向(中の段)』から眺めた『本段』との石垣と土塀、さらに天守閣の最上階の光景です。岡山城は、豊臣秀吉による天下統一事業も終わり、全国で城と城下町の整備が促進された時期に造られました。この頃に築造された天守閣は少なく、岡山城以外では、会津若松城、松本城、広島城などです。中でも岡山城は最も古式な様式とされ、意匠を凝らした天守閣でした。(同上)

    『表向(中の段)』から眺めた『本段』との石垣と土塀、さらに天守閣の最上階の光景です。岡山城は、豊臣秀吉による天下統一事業も終わり、全国で城と城下町の整備が促進された時期に造られました。この頃に築造された天守閣は少なく、岡山城以外では、会津若松城、松本城、広島城などです。中でも岡山城は最も古式な様式とされ、意匠を凝らした天守閣でした。(同上)

  • 本丸の『表向(中の段)』から眺めた『廊下門』方面の光景です。『廊下門』は、徳川家康の外孫で、幼くして大名となった『池田忠雄(ただかつ:1602~1632年)』により築かれました。元々は外様大名でしたが、徳川家からは、身内のように扱われました。(同上)

    本丸の『表向(中の段)』から眺めた『廊下門』方面の光景です。『廊下門』は、徳川家康の外孫で、幼くして大名となった『池田忠雄(ただかつ:1602~1632年)』により築かれました。元々は外様大名でしたが、徳川家からは、身内のように扱われました。(同上)

  • 『廊下橋』の下から眺めた、城外の光景です。今回は、『後楽園』は見学しませんでしたが、紹介だけしておきます。岡山城本体ではありませんが、備前池田家時代の岡山城に係る大きな動きは後楽園の築庭です。日本三名園に数えられるこの庭園は、池田綱政が貞享4年(1687年)から14年の歳月をかけて造営した林泉回遊式の大名庭園です。江戸時代は『御後園』『御茶屋』『御菜園場』などと呼ばれました。(同上)

    『廊下橋』の下から眺めた、城外の光景です。今回は、『後楽園』は見学しませんでしたが、紹介だけしておきます。岡山城本体ではありませんが、備前池田家時代の岡山城に係る大きな動きは後楽園の築庭です。日本三名園に数えられるこの庭園は、池田綱政が貞享4年(1687年)から14年の歳月をかけて造営した林泉回遊式の大名庭園です。江戸時代は『御後園』『御茶屋』『御菜園場』などと呼ばれました。(同上)

  • 『廊下橋』と、その周りの光景です。『後楽園』は、旭川を隔てて本丸のちょうど対岸を取り巻くように築かれているため、本丸の防備を強化する曲輪の役割を果たしているという説もあります。後園は藩主の好みや使い勝手に応じて幕末に至るまでたびたび改修が加えられ、明治4年(1871年)に一般公開され、この時名称を『後楽園』と改称、明治17年(1884年)に岡山県の所管となりました。(同上)

    『廊下橋』と、その周りの光景です。『後楽園』は、旭川を隔てて本丸のちょうど対岸を取り巻くように築かれているため、本丸の防備を強化する曲輪の役割を果たしているという説もあります。後園は藩主の好みや使い勝手に応じて幕末に至るまでたびたび改修が加えられ、明治4年(1871年)に一般公開され、この時名称を『後楽園』と改称、明治17年(1884年)に岡山県の所管となりました。(同上)

  • 『廊下橋』の外から眺めた天守閣の光景です。岡山城はいったん陸軍省の所管になったのち明治23年(1890年)、旧藩主・池田章政に払い下げられました。その後、池田家の提供により本丸に県立岡山第一中学校が建てられ、昭和になって残っていた天守閣など4棟の建物は相次いで国宝に指定されました。しかし、昭和20年(1945年)6月29日、米空軍による岡山大空襲により、天守閣は焼失しました。(同上)

    『廊下橋』の外から眺めた天守閣の光景です。岡山城はいったん陸軍省の所管になったのち明治23年(1890年)、旧藩主・池田章政に払い下げられました。その後、池田家の提供により本丸に県立岡山第一中学校が建てられ、昭和になって残っていた天守閣など4棟の建物は相次いで国宝に指定されました。しかし、昭和20年(1945年)6月29日、米空軍による岡山大空襲により、天守閣は焼失しました。(同上)

  • 池田氏の時代の石積でしょうか、苔むしていますが、隙間のない『切り込み接ぎ(きりこみはぎ)』で、角の算木積も理想的な積み方でした。石垣の上には、白漆喰の長塀が続いていました。(同上)

    池田氏の時代の石積でしょうか、苔むしていますが、隙間のない『切り込み接ぎ(きりこみはぎ)』で、角の算木積も理想的な積み方でした。石垣の上には、白漆喰の長塀が続いていました。(同上)

  • 四種の家紋が刻まれた石標の光景です。『岡山開府四百年記念・開祖宇喜多氏顕彰碑』のタイトルがありました。歴代城主ではなく、開祖の宇喜多氏に絞った4種の家紋でした。左上が『児文字』の紋、その下が『五七桐』の紋、右上が『剣片喰』の紋、その下の八角形の紋は、家紋一覧などでも名前が分かりませんでした。(同上)

    四種の家紋が刻まれた石標の光景です。『岡山開府四百年記念・開祖宇喜多氏顕彰碑』のタイトルがありました。歴代城主ではなく、開祖の宇喜多氏に絞った4種の家紋でした。左上が『児文字』の紋、その下が『五七桐』の紋、右上が『剣片喰』の紋、その下の八角形の紋は、家紋一覧などでも名前が分かりませんでした。(同上)

  • 南東側から見上げた天守閣の光景です。宇喜多直家の跡を継いだ秀家は、羽柴(豊臣)秀吉の寵を受け、その庇護の下で成長、天下統一の合戦にも従軍し、57万石余を領する大大名となりました。そうなると父の頃のままの石山城は、大身の大名の居城としてはあまりにも手狭で、かつ構造も古く、57万石にふさわしい城と城下町を整備する必要に迫られました。(同上)

    南東側から見上げた天守閣の光景です。宇喜多直家の跡を継いだ秀家は、羽柴(豊臣)秀吉の寵を受け、その庇護の下で成長、天下統一の合戦にも従軍し、57万石余を領する大大名となりました。そうなると父の頃のままの石山城は、大身の大名の居城としてはあまりにも手狭で、かつ構造も古く、57万石にふさわしい城と城下町を整備する必要に迫られました。(同上)

  • そこで秀家は、秀吉の天下統一事業も一段落した天正18年(1590年)、新規築城と城下町整備に着手しました。写真は、『野面積』高石垣の光景です。角の部分は鈍角で、大きめの石は使われていますが、算木積が使用される以前の石積のようでした。部分的にも、布積らしい箇所のない乱積の石垣です。五角形の天守台の一部でした。家秀時代の天守台になるようです。(同上)

    そこで秀家は、秀吉の天下統一事業も一段落した天正18年(1590年)、新規築城と城下町整備に着手しました。写真は、『野面積』高石垣の光景です。角の部分は鈍角で、大きめの石は使われていますが、算木積が使用される以前の石積のようでした。部分的にも、布積らしい箇所のない乱積の石垣です。五角形の天守台の一部でした。家秀時代の天守台になるようです。(同上)

  • 写真は、北側から眺めた、五角形の天守台の上に建つ岡山城の光景です。戦後に外観復元された天守閣ですが、明治期に撮影された写真と比較しますと、かなり正確に外観復元されたことが確認できます。秀家による岡山城築城は、秀吉の指導のもとに進められました。石山城の本丸を二之丸内郭、二之丸を西之丸とし、新たに本丸を東の岡山に構築、本丸北端に天守閣を築きました。この場所です。(同上)

    イチオシ

    写真は、北側から眺めた、五角形の天守台の上に建つ岡山城の光景です。戦後に外観復元された天守閣ですが、明治期に撮影された写真と比較しますと、かなり正確に外観復元されたことが確認できます。秀家による岡山城築城は、秀吉の指導のもとに進められました。石山城の本丸を二之丸内郭、二之丸を西之丸とし、新たに本丸を東の岡山に構築、本丸北端に天守閣を築きました。この場所です。(同上)

  • このため城は『岡山城』と呼ばれ、同時に整備された城下町も『岡山』と呼ばれるようになりました。本丸・二之丸内郭・西之丸は総石垣造りで、西から南面に堀を穿ち、さらにその南には重臣の屋敷地となる二之丸(外郭)を設けました。写真は『野面積』の天守台の石垣のズームアップ光景です。変化に富んだ石材が目を楽しませてくれます。(同上)

    このため城は『岡山城』と呼ばれ、同時に整備された城下町も『岡山』と呼ばれるようになりました。本丸・二之丸内郭・西之丸は総石垣造りで、西から南面に堀を穿ち、さらにその南には重臣の屋敷地となる二之丸(外郭)を設けました。写真は『野面積』の天守台の石垣のズームアップ光景です。変化に富んだ石材が目を楽しませてくれます。(同上)

  • 『野面積』の石垣と、その上に建つ天守閣の光景が続きます。しかし、この郭の配置では、城の中心である本丸の東側の防御が極めて手薄となるため、およそ2キロ北方を蛇行していた旭川の流れを、城郭の北から東側に沿うように変更して天然の堀としました。個人的見解ですが、水攻めを得意とした秀吉らしいアドバイスでなければ、実現しなかった縄張りのように思えます。(同上)

    『野面積』の石垣と、その上に建つ天守閣の光景が続きます。しかし、この郭の配置では、城の中心である本丸の東側の防御が極めて手薄となるため、およそ2キロ北方を蛇行していた旭川の流れを、城郭の北から東側に沿うように変更して天然の堀としました。個人的見解ですが、水攻めを得意とした秀吉らしいアドバイスでなければ、実現しなかった縄張りのように思えます。(同上)

  • 『旭川(あさひがわ)』の流れを変えて防御力を強化した岡山城は、約8年の工期を経て、慶長2年(1597年)、天守の竣工をもって一応の完成をみました。秀家は、同時に城下町整備も進めました。二之丸西・南側に内堀を挟んで三之曲輪を設けて町屋とし、父・直家が石山城の南に沿って通していた山陽道(西国街道)を、旭川を渡ってこの曲輪を縦断するよう道筋を変更しました。(同上)

    『旭川(あさひがわ)』の流れを変えて防御力を強化した岡山城は、約8年の工期を経て、慶長2年(1597年)、天守の竣工をもって一応の完成をみました。秀家は、同時に城下町整備も進めました。二之丸西・南側に内堀を挟んで三之曲輪を設けて町屋とし、父・直家が石山城の南に沿って通していた山陽道(西国街道)を、旭川を渡ってこの曲輪を縦断するよう道筋を変更しました。(同上)

  • 写真は、『要害門』とも呼ばれる『六十一雁木上門』と、現在は石垣だけの遺構になった、本格的な櫓門跡(下門)の光景です。『本段』にある上門は、先に紹介しました。秀家は、さらに国内の有力商人をこの地に呼び寄せて、領内経済活動の中心としました。これが今の市内一の繁華街となった表町商店街の始まりです。なんとなく、信長が採用した『楽市楽座』を連想させます。(同上)

    写真は、『要害門』とも呼ばれる『六十一雁木上門』と、現在は石垣だけの遺構になった、本格的な櫓門跡(下門)の光景です。『本段』にある上門は、先に紹介しました。秀家は、さらに国内の有力商人をこの地に呼び寄せて、領内経済活動の中心としました。これが今の市内一の繁華街となった表町商店街の始まりです。なんとなく、信長が採用した『楽市楽座』を連想させます。(同上)

  • 話が少し外れますが、『楽市楽座』について補足しておきます。『楽市楽座}は、天文18年(1549年)に近江国の六角定頼が、居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を布いたのが文献上の初見とされるようです。戦国時代後期に、織田信長をはじめ、各地の戦国大名などにより、支配地の市場で行われた経済政策です。楽市令または楽市・楽座令とも呼称されます。(同上)

    話が少し外れますが、『楽市楽座』について補足しておきます。『楽市楽座}は、天文18年(1549年)に近江国の六角定頼が、居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を布いたのが文献上の初見とされるようです。戦国時代後期に、織田信長をはじめ、各地の戦国大名などにより、支配地の市場で行われた経済政策です。楽市令または楽市・楽座令とも呼称されます。(同上)

  • 岡山城には、撮影した写真で数えましたら、6匹の金シャチがいましたが、この金ぴかの軒飾りは、それとは別のものです。『楽市楽座』は、織田信長によるものが有名ですが、六角氏や北条氏、今川氏も行っています。今川義元の嫡男・氏真(うじざね:1538~1615年)の富士大宮楽市に関する文書は、 永禄9年(1566年)4月3日の日付けがあります。(同上)

    岡山城には、撮影した写真で数えましたら、6匹の金シャチがいましたが、この金ぴかの軒飾りは、それとは別のものです。『楽市楽座』は、織田信長によるものが有名ですが、六角氏や北条氏、今川氏も行っています。今川義元の嫡男・氏真(うじざね:1538~1615年)の富士大宮楽市に関する文書は、 永禄9年(1566年)4月3日の日付けがあります。(同上)

  • 振り返って眺めた、本丸の『本段』の石垣と、その上の白い長塀の光景です。秀家は1600年の関ヶ原合戦に敗れて八丈島流罪となり、岡山を去りましたが、城下町はその後も領国経営の中心地として発展を続けました。関ヶ原合戦後に岡山城主となったのは、小早川秀秋です。わずか1年10ヶ月の在城期間でしたが、城と城下町の改造を積極的に行いました。(同上)

    振り返って眺めた、本丸の『本段』の石垣と、その上の白い長塀の光景です。秀家は1600年の関ヶ原合戦に敗れて八丈島流罪となり、岡山を去りましたが、城下町はその後も領国経営の中心地として発展を続けました。関ヶ原合戦後に岡山城主となったのは、小早川秀秋です。わずか1年10ヶ月の在城期間でしたが、城と城下町の改造を積極的に行いました。(同上)

  • 野面積の石垣のズームアップ光景です。小早川秀秋に次いで城主となったのは、池田輝政の子の『忠継(1599~1615年)』です。忠継は5歳と幼かったため、兄の利隆が『備前監国』として代わって国政を執り、忠継は父がいる姫路城に留まりました。17歳という早過ぎる死には、毒殺説もあります。(同上)

    野面積の石垣のズームアップ光景です。小早川秀秋に次いで城主となったのは、池田輝政の子の『忠継(1599~1615年)』です。忠継は5歳と幼かったため、兄の利隆が『備前監国』として代わって国政を執り、忠継は父がいる姫路城に留まりました。17歳という早過ぎる死には、毒殺説もあります。(同上)

  • 『岡山城天守台(岡山大空襲による被災建築物説明板)』のタイトルがあった説明看板の光景です。『昭和20年6月29日未明の岡山大空襲により岡山市街地は焼け野原となり、天守閣は焼失、天守台の石垣も焼けて赤く変色した』と紹介されていました。平成9年(1997年)、岡山市による説明看板です。(同上)

    『岡山城天守台(岡山大空襲による被災建築物説明板)』のタイトルがあった説明看板の光景です。『昭和20年6月29日未明の岡山大空襲により岡山市街地は焼け野原となり、天守閣は焼失、天守台の石垣も焼けて赤く変色した』と紹介されていました。平成9年(1997年)、岡山市による説明看板です。(同上)

  • 『天守台の石垣』のタイトルがあった説明パネルの光景です。宇喜多秀家が、慶長2年(1597年)までに築いた石垣と紹介されていました。そのほかには、『加工を施さない自然石を用い、その高さは14.9メートル、岡山の元の丘の崖面に当たり、石垣の背後は、その固い地山に持たせている』(岡山市教育委員会)、と紹介されていました。(同上)

    『天守台の石垣』のタイトルがあった説明パネルの光景です。宇喜多秀家が、慶長2年(1597年)までに築いた石垣と紹介されていました。そのほかには、『加工を施さない自然石を用い、その高さは14.9メートル、岡山の元の丘の崖面に当たり、石垣の背後は、その固い地山に持たせている』(岡山市教育委員会)、と紹介されていました。(同上)

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