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兵庫の日本百名城巡りの赤穂城紹介です。赤穂藩の藩主は、池田氏、浅野氏、永井氏、森氏と変遷し、明治期を迎えました。領知高は初め3万5000石~5万3000石、森氏の代からは2万石でした。浅野氏時代に入浜塩田の干拓、塩の藩営専売などで藩財政を確立しましたが,1704年の江戸城内での刃傷事件で断絶となりました。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

2018春、岡山と兵庫の日本百名城(10/15):赤穂城(5):本丸門、天守台、本丸御殿、庭園

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2018/04/20 - 2018/04/20

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旅人のくまさん

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兵庫の日本百名城巡りの赤穂城紹介です。赤穂藩の藩主は、池田氏、浅野氏、永井氏、森氏と変遷し、明治期を迎えました。領知高は初め3万5000石~5万3000石、森氏の代からは2万石でした。浅野氏時代に入浜塩田の干拓、塩の藩営専売などで藩財政を確立しましたが,1704年の江戸城内での刃傷事件で断絶となりました。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
新幹線 JRローカル

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  • 振り返って眺めた、本丸門の光景です。本丸門は、1992年(平成4年)~1996年(平成8年)にかけて復元されました。長方形の内枡形を備え、『一の門』の櫓門と『二の門』である高麗門の二つの門で構成されています。こちらは『一の門』の櫓門です。櫓門内部は資料館になっていますが、土曜、日曜、祝日の公開に限られています。(同上)

    振り返って眺めた、本丸門の光景です。本丸門は、1992年(平成4年)~1996年(平成8年)にかけて復元されました。長方形の内枡形を備え、『一の門』の櫓門と『二の門』である高麗門の二つの門で構成されています。こちらは『一の門』の櫓門です。櫓門内部は資料館になっていますが、土曜、日曜、祝日の公開に限られています。(同上)

  • 赤穂城の『本丸』の光景です。再建された建物はありませんが、『天守台』、平面表示された『本丸御殿』や『本丸庭園』があります。この後、順次紹介していきます。生い茂った木々の背後の右手に、『天守台』が見えていました。(同上)

    赤穂城の『本丸』の光景です。再建された建物はありませんが、『天守台』、平面表示された『本丸御殿』や『本丸庭園』があります。この後、順次紹介していきます。生い茂った木々の背後の右手に、『天守台』が見えていました。(同上)

  • 高さ9.2メートルとされる天守台の光景です。例えば彦根城の天守台(4.5メートル)、や松本城の天守台(4.4メートル)などより、はるかに大きく、5万石の小藩の天守台とは思えない規模です。当初は、5層の天守が計画されていたようです。本丸や二の丸などの庭園の規模からみても、財政的には余裕があったかもしれません。その財源になったのが、多分塩田とその販売網です。(同上)

    イチオシ

    高さ9.2メートルとされる天守台の光景です。例えば彦根城の天守台(4.5メートル)、や松本城の天守台(4.4メートル)などより、はるかに大きく、5万石の小藩の天守台とは思えない規模です。当初は、5層の天守が計画されていたようです。本丸や二の丸などの庭園の規模からみても、財政的には余裕があったかもしれません。その財源になったのが、多分塩田とその販売網です。(同上)

  • 平面復元された、表御殿や奥御殿などからなる、赤穂城の本丸御殿跡の光景です。当時の藩邸(御殿)は、右手(西)から大部屋を主とする『表御殿(おもてごてん)』、『中奥(なかおく)』、小部屋を主とする『奥御殿(おくごてん)』に区分されていました。(同上)

    平面復元された、表御殿や奥御殿などからなる、赤穂城の本丸御殿跡の光景です。当時の藩邸(御殿)は、右手(西)から大部屋を主とする『表御殿(おもてごてん)』、『中奥(なかおく)』、小部屋を主とする『奥御殿(おくごてん)』に区分されていました。(同上)

  • 平面復元された本丸御殿の光景です。本丸御殿絵図(永井文庫)の解説には、『建物跡を床高だけ高くし、コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、板間(いたま)、座敷間(ざしきま)、土間(どま)、敷居(しきい)、廊下(ろうか)、柱、縁(えん)などを表現した。また坪庭跡には木陰をつくるため、中高木を植栽した』、と紹介されていました。(同上)

    平面復元された本丸御殿の光景です。本丸御殿絵図(永井文庫)の解説には、『建物跡を床高だけ高くし、コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、板間(いたま)、座敷間(ざしきま)、土間(どま)、敷居(しきい)、廊下(ろうか)、柱、縁(えん)などを表現した。また坪庭跡には木陰をつくるため、中高木を植栽した』、と紹介されていました。(同上)

  • 『旧水道角桝』の表示があった場所の光景です。赤穂の旧上る道は、『日本三大水道』に数えられた、歴史的価値の高い施設でした。7キロ先ほどから運ばれた上水道は、赤穂の民家に各戸に配水され、その最終配水場所が赤穂城内でした。江戸時代初期に施設されました。(同上)

    『旧水道角桝』の表示があった場所の光景です。赤穂の旧上る道は、『日本三大水道』に数えられた、歴史的価値の高い施設でした。7キロ先ほどから運ばれた上水道は、赤穂の民家に各戸に配水され、その最終配水場所が赤穂城内でした。江戸時代初期に施設されました。(同上)

  • 『縁側(えんがわ)』の表示があった場所の光景です。コンクリート製のようでしたが、板張りのような外観に造られた部分が、本丸御殿の縁側になるようです。復元された本丸御殿は、浅野家断絶後に入封してきた永井家の史料である赤穂御城御殿絵図(東京大学史料編纂所蔵)をベースに、関連資料や発掘調査結果が反映されています。(同上)

    『縁側(えんがわ)』の表示があった場所の光景です。コンクリート製のようでしたが、板張りのような外観に造られた部分が、本丸御殿の縁側になるようです。復元された本丸御殿は、浅野家断絶後に入封してきた永井家の史料である赤穂御城御殿絵図(東京大学史料編纂所蔵)をベースに、関連資料や発掘調査結果が反映されています。(同上)

  • 『国名勝・赤穂城跡・本丸庭園・大池泉』のタイトルがあった説明パネルの光景です。この庭園は、昭和59年(1984年)の発掘調査で見付かった庭園跡をそのまま利用して復元して、浅野・森時代の庭園を復元したものと解説されていました。元禄期(1688~1704年)の池泉は、右上の図のように方形がベースだったようです。(同上)

    『国名勝・赤穂城跡・本丸庭園・大池泉』のタイトルがあった説明パネルの光景です。この庭園は、昭和59年(1984年)の発掘調査で見付かった庭園跡をそのまま利用して復元して、浅野・森時代の庭園を復元したものと解説されていました。元禄期(1688~1704年)の池泉は、右上の図のように方形がベースだったようです。(同上)

  • 国の名勝に指定されている『本丸庭園・大池泉』の光景です。この辺りの光景は、『赤穂城から眺めた播磨灘』と読み解いたネット情報もありました。御殿側が波止場で、対岸は四国、池に浮かぶ島が小豆島や、家島などとするものです。現在の瀬戸内海や兵庫県などの地図を参照しましたが、なかなかの見立てでした。(同上)

    イチオシ

    国の名勝に指定されている『本丸庭園・大池泉』の光景です。この辺りの光景は、『赤穂城から眺めた播磨灘』と読み解いたネット情報もありました。御殿側が波止場で、対岸は四国、池に浮かぶ島が小豆島や、家島などとするものです。現在の瀬戸内海や兵庫県などの地図を参照しましたが、なかなかの見立てでした。(同上)

  • 入江あたりを表現したらしい『大池泉』の光景です。池の底が透き通って見えるように水が綺麗なのは、現代の上水道としての役割を終えたものの、日本三大上水道と呼ばれた『旧赤穂上水道』が、まだ農業用水や、工業用水などとしては機能しているためのようでした。(同上)

    入江あたりを表現したらしい『大池泉』の光景です。池の底が透き通って見えるように水が綺麗なのは、現代の上水道としての役割を終えたものの、日本三大上水道と呼ばれた『旧赤穂上水道』が、まだ農業用水や、工業用水などとしては機能しているためのようでした。(同上)

  • 切石が真っすぐに並んだ左側が、先ほど眺めた本丸御殿の波止場を模した護岸の光景になるようです。魚の姿は見えませんでしたが、魚が嫌がるほどの澄み方をした池の水のようです。大小の石が、播磨灘に浮かぶ小島を表わしているようでした。大池泉は、表御殿南面に広がり、東西38m、南北26m、外周150mの広さで、二つの岬、三つの入江、中央に中島をもちます。(同上)

    切石が真っすぐに並んだ左側が、先ほど眺めた本丸御殿の波止場を模した護岸の光景になるようです。魚の姿は見えませんでしたが、魚が嫌がるほどの澄み方をした池の水のようです。大小の石が、播磨灘に浮かぶ小島を表わしているようでした。大池泉は、表御殿南面に広がり、東西38m、南北26m、外周150mの広さで、二つの岬、三つの入江、中央に中島をもちます。(同上)

  • 『大池泉』には、2箇所の『給水口』と、2箇所の『排水口』が設けられていたようです。この光景は、その一つかも知れませんが、詳しいことは分かりませんでした。もし、該当するとすれば、排水溝のようです。(同上)<br />

    『大池泉』には、2箇所の『給水口』と、2箇所の『排水口』が設けられていたようです。この光景は、その一つかも知れませんが、詳しいことは分かりませんでした。もし、該当するとすれば、排水溝のようです。(同上)

  • 『大池泉』の排水溝かもしれない箇所のズームアップ光景です。水は、左側から流れ落ちているようでした。少なくとも、給水施設ではないようです。千種川から取り込まれた水は、全ての役割を終えた後に、播磨灘に戻されているようでした。(同上)

    『大池泉』の排水溝かもしれない箇所のズームアップ光景です。水は、左側から流れ落ちているようでした。少なくとも、給水施設ではないようです。千種川から取り込まれた水は、全ての役割を終えた後に、播磨灘に戻されているようでした。(同上)

  • 角度を変えて眺めた『大池泉』の光景です。『赤穂城から眺めた播磨灘』と読み解いたネット情報を発信された方は、朝鮮通信使との関連で『大池泉』に籠められた謎を読み解かれていました。池の護岸汀線は曲線であり、北護岸は直線の石組みで築かれています。また、池底は、瓦や石を幾何学的に整った形で敷き詰め、周囲には立石が据え付けられ、大名庭園の体裁を整えています。(同上)

    角度を変えて眺めた『大池泉』の光景です。『赤穂城から眺めた播磨灘』と読み解いたネット情報を発信された方は、朝鮮通信使との関連で『大池泉』に籠められた謎を読み解かれていました。池の護岸汀線は曲線であり、北護岸は直線の石組みで築かれています。また、池底は、瓦や石を幾何学的に整った形で敷き詰め、周囲には立石が据え付けられ、大名庭園の体裁を整えています。(同上)

  • 何も置かれず、芝生だけの天守台の上の光景です。現在は四方が見渡せる展望台として機能していました。込み合う日もあるでしょうが、今日は貸し切り状態での赤穂城址の見学になりました。(同上)

    何も置かれず、芝生だけの天守台の上の光景です。現在は四方が見渡せる展望台として機能していました。込み合う日もあるでしょうが、今日は貸し切り状態での赤穂城址の見学になりました。(同上)

  • ここからは、天守台の上から眺めた光景になります。先ほどまで紹介した、『本丸庭園・大池泉』が見える、西側方面の光景です。右手に天守台への出入口の階段が見えていましたから、場所を変えての撮影にしました。(同上)

    ここからは、天守台の上から眺めた光景になります。先ほどまで紹介した、『本丸庭園・大池泉』が見える、西側方面の光景です。右手に天守台への出入口の階段が見えていましたから、場所を変えての撮影にしました。(同上)

  • 天守台から眺めた『大池泉』のズームアップ光景です。赤穂城の本丸庭園は、御殿南面の大池泉、中奥坪庭の小池泉、本丸北西隅の池泉が設けられていて、発掘調査後に整備され、公開されています。平成14年(2002年)に、二之丸庭園とともに国の名勝に指定されました。(同上)

    イチオシ

    天守台から眺めた『大池泉』のズームアップ光景です。赤穂城の本丸庭園は、御殿南面の大池泉、中奥坪庭の小池泉、本丸北西隅の池泉が設けられていて、発掘調査後に整備され、公開されています。平成14年(2002年)に、二之丸庭園とともに国の名勝に指定されました。(同上)

  • 天守台の周りの柵に表示してあった説明パネルの紹介です。このパネルには『国史跡・赤穂城跡』のタイトルがありました。国史跡の概要の説明は、国の史跡や、国の名勝などの指定概要のほか、城内の史跡の大石邸跡などの紹介でした。その最後に『赤穂城跡の概説』の見出しで歴史が概説されていました。(同上)

    天守台の周りの柵に表示してあった説明パネルの紹介です。このパネルには『国史跡・赤穂城跡』のタイトルがありました。国史跡の概要の説明は、国の史跡や、国の名勝などの指定概要のほか、城内の史跡の大石邸跡などの紹介でした。その最後に『赤穂城跡の概説』の見出しで歴史が概説されていました。(同上)

  • 同じく、天守台の周りの柵に表示してあった説明パネルの紹介です。こちらには前半が『赤穂城本丸』のタイトルの説明文に図面と写真、後半は『赤穂城本丸天守からの風景』のタイトルの説明文でした。左端の大きな面には、『江戸時代の塩田(城下町は浅野時代)』のタイトルがありました。浅野時代には東浜塩田が、森時代には西浜塩田が天守台から眺望できたかもしれません。(同上)

    同じく、天守台の周りの柵に表示してあった説明パネルの紹介です。こちらには前半が『赤穂城本丸』のタイトルの説明文に図面と写真、後半は『赤穂城本丸天守からの風景』のタイトルの説明文でした。左端の大きな面には、『江戸時代の塩田(城下町は浅野時代)』のタイトルがありました。浅野時代には東浜塩田が、森時代には西浜塩田が天守台から眺望できたかもしれません。(同上)

  • 天守台から眺めた『本丸御殿』の平面表示の光景です。中央奥に本丸門が見えていますから、概ね北側方面の光景になるようです。平面表示のところどころに樹木があるのは、見学用に木陰を設けたものです。(同上)

    天守台から眺めた『本丸御殿』の平面表示の光景です。中央奥に本丸門が見えていますから、概ね北側方面の光景になるようです。平面表示のところどころに樹木があるのは、見学用に木陰を設けたものです。(同上)

  • 天守台から眺めた『本丸御殿』の平面表示の中の、生庭のような場所のズームアップ光景です。確認はできませんでしたが、中奥坪庭に設けられた『小池泉』かも知れません。(同上)

    天守台から眺めた『本丸御殿』の平面表示の中の、生庭のような場所のズームアップ光景です。確認はできませんでしたが、中奥坪庭に設けられた『小池泉』かも知れません。(同上)

  • 天守台から眺めた。右手上方に見える『厩口門(うまやぐちもん)』方面の光景です。本丸には、本丸門、厩口門と刎橋門の三箇所の門がありました。『本丸厩口門』は、平成8年(1996年)に、大手門枡形、本丸門および枡形とともに再建されました。(同上)

    天守台から眺めた。右手上方に見える『厩口門(うまやぐちもん)』方面の光景です。本丸には、本丸門、厩口門と刎橋門の三箇所の門がありました。『本丸厩口門』は、平成8年(1996年)に、大手門枡形、本丸門および枡形とともに再建されました。(同上)

  • 同じく、『厩口門(うまやぐちもん)』方面の光景です。明治の廃城後、跡地は県立赤穂高等学校の通用門になっていました。平成8年(1996年)の発掘調査により門礎石等が良好な状態で見つかり、赤穂高等学校を移転させて復元事業が進められました。平成13年(2001年)に門、橋、土塀や周辺の石垣が整備され、往時の姿を取り戻しました。(同上)

    同じく、『厩口門(うまやぐちもん)』方面の光景です。明治の廃城後、跡地は県立赤穂高等学校の通用門になっていました。平成8年(1996年)の発掘調査により門礎石等が良好な状態で見つかり、赤穂高等学校を移転させて復元事業が進められました。平成13年(2001年)に門、橋、土塀や周辺の石垣が整備され、往時の姿を取り戻しました。(同上)

  • 天守台から見下ろした、木々が生い茂る、本丸の敷地の一角の光景です。以前に見学した時には、この辺りで『モクレン(紫木蓮)』の花を目にした記憶があります。同じような春の時期でした。(同上)

    天守台から見下ろした、木々が生い茂る、本丸の敷地の一角の光景です。以前に見学した時には、この辺りで『モクレン(紫木蓮)』の花を目にした記憶があります。同じような春の時期でした。(同上)

  • 同じく、天守台から見下ろした、木々が生い茂る本丸の敷地の一角の光景です。高さが10メートルほどの天守台の上からの光景ですから、木々を上から眺める光景になりました。(同上)

    同じく、天守台から見下ろした、木々が生い茂る本丸の敷地の一角の光景です。高さが10メートルほどの天守台の上からの光景ですから、木々を上から眺める光景になりました。(同上)

  • もし、天守台に天守閣が建てられた場合には、天守閣への入口になる『付櫓(つけやぐら)』が置かれることになっていたらしい石垣部分の光景です。その東南角付近の光景になるようです。(同上)

    もし、天守台に天守閣が建てられた場合には、天守閣への入口になる『付櫓(つけやぐら)』が置かれることになっていたらしい石垣部分の光景です。その東南角付近の光景になるようです。(同上)

  • 同じく、『付櫓(つけやぐら)』が置かれることになっていたらしい石垣部分の光景です。見学用の金属製の階段で天守台と繋がり、更に地上へと続いていました。見学用の金属製の階段は、難なく上り下りできますが、遺構の石段は段差が大きく、なかなか骨が折れました。(同上)

    同じく、『付櫓(つけやぐら)』が置かれることになっていたらしい石垣部分の光景です。見学用の金属製の階段で天守台と繋がり、更に地上へと続いていました。見学用の金属製の階段は、難なく上り下りできますが、遺構の石段は段差が大きく、なかなか骨が折れました。(同上)

  • 天守台から眺めた西南方面の光景です。『刎橋門(はねばしもん)』方面になるようです。その延長線上に櫓台が見えていました。この辺りでの本丸の防御は、外に向かって石垣、内側が土塁になっているようでした。(同上)

    天守台から眺めた西南方面の光景です。『刎橋門(はねばしもん)』方面になるようです。その延長線上に櫓台が見えていました。この辺りでの本丸の防御は、外に向かって石垣、内側が土塁になっているようでした。(同上)

  • 天守台の石垣のズームアップ光景です。均一の石材を使ったらしい、『打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』の石積でした。横のラインが揃った『布積』でした。天守台の東北角付近の光景になるようです。(同上)

    天守台の石垣のズームアップ光景です。均一の石材を使ったらしい、『打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』の石積でした。横のラインが揃った『布積』でした。天守台の東北角付近の光景になるようです。(同上)

  • 天守台の石垣の最下部のズームアップ光景です。『天守台』の小さな標識がありました。1609年前後に徳川家康により行われた天守の高さ制限によって、5重以上の天守は国持ちの有力大名に限られたようです。また、江戸期になり平和な時代が訪れると、城は防衛の役目を終え政庁へと変化しましたので、天守の役目も終わり、城は次第に御殿や二の丸、三の丸が拡充されていきました。(同上)

    天守台の石垣の最下部のズームアップ光景です。『天守台』の小さな標識がありました。1609年前後に徳川家康により行われた天守の高さ制限によって、5重以上の天守は国持ちの有力大名に限られたようです。また、江戸期になり平和な時代が訪れると、城は防衛の役目を終え政庁へと変化しましたので、天守の役目も終わり、城は次第に御殿や二の丸、三の丸が拡充されていきました。(同上)

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