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岡山と兵庫の百名城巡り、姫路城の紹介です。日本における近世城郭の代表的な遺構です。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されています。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

2018春、岡山と兵庫の日本百名城(13/15):姫路城(2):天守の庭、下山里、二段高石垣

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2018/04/20 - 2018/04/20

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旅人のくまさん

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岡山と兵庫の百名城巡り、姫路城の紹介です。日本における近世城郭の代表的な遺構です。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されています。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
新幹線 JRローカル

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  • ここには、昭和の天守解体修理のときに掘りだした大天守の礎石が平面展示されています。1601年(慶長6年)~1609年(慶長14年)の築城以来、総重量6千トンと言われる天守の総重量を支えてきた地盤は徐々に沈下し、礎石は高低差を生じて東南方向に44センチ傾斜していました。その礎石の展示です。(同上)

    ここには、昭和の天守解体修理のときに掘りだした大天守の礎石が平面展示されています。1601年(慶長6年)~1609年(慶長14年)の築城以来、総重量6千トンと言われる天守の総重量を支えてきた地盤は徐々に沈下し、礎石は高低差を生じて東南方向に44センチ傾斜していました。その礎石の展示です。(同上)

  • 『天守の庭』の説明看板の光景です。昭和の解体修理時に、天守基礎にはコンクリートの地盤を埋め、そこに柱を立てることになりました。このため、従来の礎石はすべて取り除かれました。それらの礎石をもとの配置で再現したのがこの『天守の庭』です。(同上)

    『天守の庭』の説明看板の光景です。昭和の解体修理時に、天守基礎にはコンクリートの地盤を埋め、そこに柱を立てることになりました。このため、従来の礎石はすべて取り除かれました。それらの礎石をもとの配置で再現したのがこの『天守の庭』です。(同上)

  • 入城しませんでしたから、横目で眺めただけの出入り口もんです。手元の資料で確認しましたら、『二の丸』の入り口になる『菱の門』でした。出格子窓、華頭窓、竪格子窓には金箔の飾り金具が使ってあると説明されていました。(同上)

    入城しませんでしたから、横目で眺めただけの出入り口もんです。手元の資料で確認しましたら、『二の丸』の入り口になる『菱の門』でした。出格子窓、華頭窓、竪格子窓には金箔の飾り金具が使ってあると説明されていました。(同上)

  • 長塀腰に眺めた、碑銘事情大天守の光景です。周りに凝天守も見えていました。第二次大戦時の焼夷弾攻撃を潜り抜けたのにはまったくの偶然が幸いしました。それは天守の窓を突き破って落下した焼夷弾が、運よく不発弾だったためです。米軍の当事者により、姫路城は攻撃対象に入っていたことが証言されています。(同上)

    長塀腰に眺めた、碑銘事情大天守の光景です。周りに凝天守も見えていました。第二次大戦時の焼夷弾攻撃を潜り抜けたのにはまったくの偶然が幸いしました。それは天守の窓を突き破って落下した焼夷弾が、運よく不発弾だったためです。米軍の当事者により、姫路城は攻撃対象に入っていたことが証言されています。(同上)

  • 名前:『フジ(藤)』<br />分類:マメ科フジ属のつる性落葉木本<br />分布:日本産のフジは固有種、海外のフジは、フジ属に属する別品種。<br />その他:「藤紋」は、十大家紋に数えられています。(同上)

    名前:『フジ(藤)』
    分類:マメ科フジ属のつる性落葉木本
    分布:日本産のフジは固有種、海外のフジは、フジ属に属する別品種。
    その他:「藤紋」は、十大家紋に数えられています。(同上)

  • 名前:『フジ(藤)』<br />分類:マメ科フジ属のつる性落葉木本<br />分布:日本産のフジは固有種、海外のフジは、フジ属に属する別品種。<br />その他:藤の花のズームアップ光景です。(同上)

    名前:『フジ(藤)』
    分類:マメ科フジ属のつる性落葉木本
    分布:日本産のフジは固有種、海外のフジは、フジ属に属する別品種。
    その他:藤の花のズームアップ光景です。(同上)

  • 『姫路城の歴史』のタイトルがあった説明看板の光景です。姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代といわれています。以来、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日に至りました。赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政が城に夢を託して拡張、いま見られる全容が整ったのは戦乱の世が落着いた1617年のことです。(同上)

    『姫路城の歴史』のタイトルがあった説明看板の光景です。姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代といわれています。以来、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日に至りました。赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政が城に夢を託して拡張、いま見られる全容が整ったのは戦乱の世が落着いた1617年のことです。(同上)

  • 今回の旅行の目的の第一は、見学はしたものの、まだ『百名城巡りスタンプ』が押印していなかった、岡山城、赤穂城と姫路城のスタンプ押印です。これで三箇城とも押印できました。新幹線で日帰りで3箇所ですから、上出来です。姫路城は入場券を購入せずに、ここで押印できました。スタンプ帳には、『管理事務所入り口』と紹介されていました。(同上)

    今回の旅行の目的の第一は、見学はしたものの、まだ『百名城巡りスタンプ』が押印していなかった、岡山城、赤穂城と姫路城のスタンプ押印です。これで三箇城とも押印できました。新幹線で日帰りで3箇所ですから、上出来です。姫路城は入場券を購入せずに、ここで押印できました。スタンプ帳には、『管理事務所入り口』と紹介されていました。(同上)

  • スタンプ帳に記された『管理事務所』近くの低い石垣の光景です。推測ですが、不要になった石材の有効活用で積まれた石垣のようにも見えました。もし、実用性がある石垣とすれば、縄張りの区画用かも知れません。今回目的の3城のスタンプ押印ができましたので、余った時間で、今まであまり見学しなかった、石垣主体の本丸の外回り、二の丸の南側の見学です。(同上)

    スタンプ帳に記された『管理事務所』近くの低い石垣の光景です。推測ですが、不要になった石材の有効活用で積まれた石垣のようにも見えました。もし、実用性がある石垣とすれば、縄張りの区画用かも知れません。今回目的の3城のスタンプ押印ができましたので、余った時間で、今まであまり見学しなかった、石垣主体の本丸の外回り、二の丸の南側の見学です。(同上)

  • 本丸近くから眺めた、『三の丸』の光景です。現在はイベント広場になっているようでしたから、城址見学の対象物はありません。本丸側方面は、三の丸とは石垣で区画されているようでした。その石垣が足元に見えていました。(同上)

    本丸近くから眺めた、『三の丸』の光景です。現在はイベント広場になっているようでしたから、城址見学の対象物はありません。本丸側方面は、三の丸とは石垣で区画されているようでした。その石垣が足元に見えていました。(同上)

  • 姫路城本丸の外周りの見学は、反時計回りに東側方面に向かいました。本丸の南側に位置する、古い時代の石垣が残る場所の一つです。古い時代といっても黒田官兵衛(如水)が、姫路城の城代を務めていた1570年代以降、秀吉が毛利の領域の中国攻めを行っていた1580年代頃のことです。(同上)

    姫路城本丸の外周りの見学は、反時計回りに東側方面に向かいました。本丸の南側に位置する、古い時代の石垣が残る場所の一つです。古い時代といっても黒田官兵衛(如水)が、姫路城の城代を務めていた1570年代以降、秀吉が毛利の領域の中国攻めを行っていた1580年代頃のことです。(同上)

  • この辺りには、姫路城時代の遺構が残されているようでした。この石段やその脇の石垣なども、遺構のようでした。周りの景色は、庭園の雰囲気も残っていました。縄張り図を参照しますと、『二の丸』のエリアになるようでした。(同上)

    この辺りには、姫路城時代の遺構が残されているようでした。この石段やその脇の石垣なども、遺構のようでした。周りの景色は、庭園の雰囲気も残っていました。縄張り図を参照しますと、『二の丸』のエリアになるようでした。(同上)

  • 庭園のような場所をちょおり抜けて、眼前に姿を現したのは、『野面積の二段石垣』の光景です。最近整備されたらしい、すっきりとした姿でした。左端に見えるのは『太鼓櫓』になるようです。外側から眺めて、確実に櫓名を特定できる写真や図面が見当たりませんでしたから、推定になります。(同上)

    庭園のような場所をちょおり抜けて、眼前に姿を現したのは、『野面積の二段石垣』の光景です。最近整備されたらしい、すっきりとした姿でした。左端に見えるのは『太鼓櫓』になるようです。外側から眺めて、確実に櫓名を特定できる写真や図面が見当たりませんでしたから、推定になります。(同上)

  • 『太鼓櫓』らしい櫓のズームアップ光景です。1階の出窓に設けられた石落としが、石垣からの攻撃の防御施設になっていました。高石垣は積み直されたらしく、角の石は、真新しい石を使った算木積になっていました。(同上)

    『太鼓櫓』らしい櫓のズームアップ光景です。1階の出窓に設けられた石落としが、石垣からの攻撃の防御施設になっていました。高石垣は積み直されたらしく、角の石は、真新しい石を使った算木積になっていました。(同上)

  • 『太鼓櫓』らしい櫓の光景が続きます。もし、『太鼓櫓』でなければ、縄張り図から推定しますと『チの櫓』当たりになるようです。あるいは、その中間にある『との櫓』の可能性もあります。(同上)

    『太鼓櫓』らしい櫓の光景が続きます。もし、『太鼓櫓』でなければ、縄張り図から推定しますと『チの櫓』当たりになるようです。あるいは、その中間にある『との櫓』の可能性もあります。(同上)

  • 少し場所を変えてズームアップした『太鼓櫓』らしい建物の光景です。東面にはほかの建物が連なり、櫓からは西に向けて多門櫓が伸びていました。これが『太鼓櫓』ですと、東に伸びた多門櫓は『帯の櫓』に達します。(同上)

    少し場所を変えてズームアップした『太鼓櫓』らしい建物の光景です。東面にはほかの建物が連なり、櫓からは西に向けて多門櫓が伸びていました。これが『太鼓櫓』ですと、東に伸びた多門櫓は『帯の櫓』に達します。(同上)

  • 『下山里』と『上山里下段石垣』の二つのタイトルがあった説明パネルの光景です。『上山里下段石垣』の説明には、『積み方、石材の加工からみて16世紀後半天正8年(1580)~9年に羽柴秀吉によって築かれた石垣』、『現在の天守は、池田輝政が秀吉の三重天守を撤去して新たに建てたものですが、天守のある姫山には秀吉によって築かれたとみられる石垣が数多く残り、上山里下段石垣もその一つ』、と紹介されていました。また。秀吉が官兵衛に宛てた『黒田家文書』では、『この石垣も官兵衛が関わった可能性がある』ことを窺わせるようです。(同上)

    『下山里』と『上山里下段石垣』の二つのタイトルがあった説明パネルの光景です。『上山里下段石垣』の説明には、『積み方、石材の加工からみて16世紀後半天正8年(1580)~9年に羽柴秀吉によって築かれた石垣』、『現在の天守は、池田輝政が秀吉の三重天守を撤去して新たに建てたものですが、天守のある姫山には秀吉によって築かれたとみられる石垣が数多く残り、上山里下段石垣もその一つ』、と紹介されていました。また。秀吉が官兵衛に宛てた『黒田家文書』では、『この石垣も官兵衛が関わった可能性がある』ことを窺わせるようです。(同上)

  • 三段に重ねられた基壇の上に建つ石灯篭の光景です。基壇から柱、被服と唐傘まで正方形がベースの石灯篭でした。春日灯篭のようなスマートな石灯篭ですが、別系統のデザインのようでした。(同上)

    三段に重ねられた基壇の上に建つ石灯篭の光景です。基壇から柱、被服と唐傘まで正方形がベースの石灯篭でした。春日灯篭のようなスマートな石灯篭ですが、別系統のデザインのようでした。(同上)

  • 一対になった石灯篭の、もう一方の光景です。日当たりが良さそうな、石垣の南側に建つ石灯篭のようでした。苔むす姿とは無縁のようでした。台座に乗せてあるイメージよりも、台座が言った担ったデザインでした。台座なしでは、間が抜けたような石灯篭になりそうです。(同上)

    一対になった石灯篭の、もう一方の光景です。日当たりが良さそうな、石垣の南側に建つ石灯篭のようでした。苔むす姿とは無縁のようでした。台座に乗せてあるイメージよりも、台座が言った担ったデザインでした。台座なしでは、間が抜けたような石灯篭になりそうです。(同上)

  • 一段高い場所に祭って阿多、小さな社の光景です。先ほど紹介した紹介した石灯篭は、この小さな社のためのようでした。小さな社の周りには、年代を経たらしい五輪塔がいくつも立ち並んでいましたから、姫路城の歴史と関わりがありそうでした。(同上)<br />

    一段高い場所に祭って阿多、小さな社の光景です。先ほど紹介した紹介した石灯篭は、この小さな社のためのようでした。小さな社の周りには、年代を経たらしい五輪塔がいくつも立ち並んでいましたから、姫路城の歴史と関わりがありそうでした。(同上)

  • 石灯篭を前景にして、高石垣の光景です。『これらの五輪塔は、修復工事の際に石垣から取り出されたものを組み上げてここに祀っているものです。また石灯籠は、姫路城最後の藩主にして名君の誉れ高かった酒井忠邦公を慕った旧姫路藩士322名が忠邦公の一周忌である1880年(明治13年)に東京谷中の墓前に建立したもので、1990年(平成2年)にこの地に移されました』、と観光案内に紹介されていました。(同上)

    石灯篭を前景にして、高石垣の光景です。『これらの五輪塔は、修復工事の際に石垣から取り出されたものを組み上げてここに祀っているものです。また石灯籠は、姫路城最後の藩主にして名君の誉れ高かった酒井忠邦公を慕った旧姫路藩士322名が忠邦公の一周忌である1880年(明治13年)に東京谷中の墓前に建立したもので、1990年(平成2年)にこの地に移されました』、と観光案内に紹介されていました。(同上)

  • 『二段石垣』は、『野面積』ではあまり高く積むことができないために、分割して積んで、高石垣下名残になるようです。『酒井忠邦(1854~1879年)』は、播磨姫路藩最後の第10代藩主で、雅楽頭系酒井家23代当主でした。。明治元年11月に忠邦は版籍奉還の建白書を提出、版籍奉還実施により知藩事となりました。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官されると、上京し、慶應義塾に入学しました。(同上)

    『二段石垣』は、『野面積』ではあまり高く積むことができないために、分割して積んで、高石垣下名残になるようです。『酒井忠邦(1854~1879年)』は、播磨姫路藩最後の第10代藩主で、雅楽頭系酒井家23代当主でした。。明治元年11月に忠邦は版籍奉還の建白書を提出、版籍奉還実施により知藩事となりました。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官されると、上京し、慶應義塾に入学しました。(同上)

  • 最後の藩主・酒井忠邦について、もう少し説明します。明治4年(1871年)12月にはアメリカへ留学し、4年間滞米し、帰国しました。明治12年(1879年)3月25日、26歳で死去しました。長男の忠興の誕生は忠邦の死から2か月余り後の同年6月6日であり、酒井家当主の座には忠邦正室鏐子の父・忠顕の未亡人である文子が一時的に就き、忠興が満8歳になるまでその地位にありました。(同上)

    最後の藩主・酒井忠邦について、もう少し説明します。明治4年(1871年)12月にはアメリカへ留学し、4年間滞米し、帰国しました。明治12年(1879年)3月25日、26歳で死去しました。長男の忠興の誕生は忠邦の死から2か月余り後の同年6月6日であり、酒井家当主の座には忠邦正室鏐子の父・忠顕の未亡人である文子が一時的に就き、忠興が満8歳になるまでその地位にありました。(同上)

  • 正面から見上げた二段石垣の光景です。ネットで、改修工事前の写真を見ることができ案したが、草木が成長し、茫洋とした光景でした。野面積のまま積み直されて、姫路城現役時代の姿に戻ったようです。酒井忠邦の紹介の締め括りです。忠邦は新政府に与することを明確にするため、新政府に対して15万両の献金や旧幕府派の家臣の大量処分(戊辰の獄)を行なっています。詳しい資料は見ていませんが、行動力、判断力に優れた人だったと推測されます。(同上)

    正面から見上げた二段石垣の光景です。ネットで、改修工事前の写真を見ることができ案したが、草木が成長し、茫洋とした光景でした。野面積のまま積み直されて、姫路城現役時代の姿に戻ったようです。酒井忠邦の紹介の締め括りです。忠邦は新政府に与することを明確にするため、新政府に対して15万両の献金や旧幕府派の家臣の大量処分(戊辰の獄)を行なっています。詳しい資料は見ていませんが、行動力、判断力に優れた人だったと推測されます。(同上)

  • 『姫路城跡上山里下段石垣について」のタイトルがあった説明パネルの光景です。その内容は、『上山里下段の石垣は天正8年(1580)、羽柴秀吉の姫路城改築により積まれたと推定されるⅠ期の古式な石垣です。信長の安土城とほぼ同時期のもので、ほとんど加工しない凝灰岩やチャートなどの石材を使用した野面積と呼ばれる積み方です』、また、『羽柴秀吉改築以後の豊臣時代のもの。野面積で隅角部の算木積が未発達。墓石や古墳の石棺などを再利用した転用石が多く見られる』などの説明がありました。(同上)

    『姫路城跡上山里下段石垣について」のタイトルがあった説明パネルの光景です。その内容は、『上山里下段の石垣は天正8年(1580)、羽柴秀吉の姫路城改築により積まれたと推定されるⅠ期の古式な石垣です。信長の安土城とほぼ同時期のもので、ほとんど加工しない凝灰岩やチャートなどの石材を使用した野面積と呼ばれる積み方です』、また、『羽柴秀吉改築以後の豊臣時代のもの。野面積で隅角部の算木積が未発達。墓石や古墳の石棺などを再利用した転用石が多く見られる』などの説明がありました。(同上)

  • 関ヶ原以降の石積ですと、『野面積の二段石垣』ではなく、『打ち込み接ぎ』当たりで一気に積み上げたのでしょうが、当時としては、最高レベルの石積かもしれません。現代にも、石積の醍醐味を十分に味わわせてくれています。下段の石垣の上には、かつては櫓が建っていたかも知れません。(同上)

    関ヶ原以降の石積ですと、『野面積の二段石垣』ではなく、『打ち込み接ぎ』当たりで一気に積み上げたのでしょうが、当時としては、最高レベルの石積かもしれません。現代にも、石積の醍醐味を十分に味わわせてくれています。下段の石垣の上には、かつては櫓が建っていたかも知れません。(同上)

  • 横から眺めた、二段石垣の光景です。三の丸北部、二の丸の上山里曲輪の南側下段には『下山里曲輪』がありました。西側から南側の石垣に土塀が築かれ東側に門があり、1955年(昭和30年)までは『下山里展望台』となっていました。その後の『昭和の大修理』の時に墓石・石像などが発見されました。春と秋の彼岸、旧盆には正明寺と姫路城を守る会によって供養が行われています。(同上)

    横から眺めた、二段石垣の光景です。三の丸北部、二の丸の上山里曲輪の南側下段には『下山里曲輪』がありました。西側から南側の石垣に土塀が築かれ東側に門があり、1955年(昭和30年)までは『下山里展望台』となっていました。その後の『昭和の大修理』の時に墓石・石像などが発見されました。春と秋の彼岸、旧盆には正明寺と姫路城を守る会によって供養が行われています。(同上)

  • 一見して、野面積の石垣光景です。1600年の関ヶ原の戦いよりも前に積まれたもののようです。秀吉の中国平定の拠点の城として整備された時の石垣のようです。施工したのは、元の姫路城の主の黒田官兵衛(如水)かも知れません。姫路城を進んで秀吉に提供し、秀吉の軍事参謀、絶大な信頼もあったようです。(同上)

    一見して、野面積の石垣光景です。1600年の関ヶ原の戦いよりも前に積まれたもののようです。秀吉の中国平定の拠点の城として整備された時の石垣のようです。施工したのは、元の姫路城の主の黒田官兵衛(如水)かも知れません。姫路城を進んで秀吉に提供し、秀吉の軍事参謀、絶大な信頼もあったようです。(同上)

  • 『姫路城の石垣』に関する説明パネルには、『姫路城の石垣は、羽柴時代、本多時代及び池田時代の築城期の3期とその後の修復された石垣に分けられ』、秀吉が黒田官兵衛にあてた書状には、『秀吉は築城にあたって最も頼りとする重臣であり、地域の事情に精通している黒田官兵衛に普請を命じていることから、現存している羽柴期の石垣は、官兵衛ゆかりの石垣と考えられます』、と解説されていました。(同上)

    『姫路城の石垣』に関する説明パネルには、『姫路城の石垣は、羽柴時代、本多時代及び池田時代の築城期の3期とその後の修復された石垣に分けられ』、秀吉が黒田官兵衛にあてた書状には、『秀吉は築城にあたって最も頼りとする重臣であり、地域の事情に精通している黒田官兵衛に普請を命じていることから、現存している羽柴期の石垣は、官兵衛ゆかりの石垣と考えられます』、と解説されていました。(同上)

  • 人工的に積んだ石垣ではなく。地肌の石も見えていたようです。天正・慶長初期の石垣の特徴は、①野面石(自然石)を使用、②積み方は「布積み崩し」(野面の横目地が部分的に走る古式方式)、③隅角部稜線が不揃い、④石垣が低く、二段石垣で補う、⑤間詰め石は主に河原石を使用、⑥転用材を多用するとともに、刻印がない、と紹介されていました。(同上)

    人工的に積んだ石垣ではなく。地肌の石も見えていたようです。天正・慶長初期の石垣の特徴は、①野面石(自然石)を使用、②積み方は「布積み崩し」(野面の横目地が部分的に走る古式方式)、③隅角部稜線が不揃い、④石垣が低く、二段石垣で補う、⑤間詰め石は主に河原石を使用、⑥転用材を多用するとともに、刻印がない、と紹介されていました。(同上)

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