2018/04/20 - 2018/04/20
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兵庫の日本百名城巡りの赤穂城紹介です。大石神社の祭神は、大石内蔵助良雄以下四十七義士と中折の烈士萱野三平を主神とし、浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、その後の藩主森家の先祖で、本能寺の変で散った森蘭丸ら七代の武将が合祀されています。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)
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『大石神社』の鳥居光景です。赤穂事件において討ち入りをした大石良雄ら赤穂浪士を祀る神社です。江戸時代には江戸幕府にはばかって表立って顕彰することはできませんでしたが、1868年(明治元年)、明治天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わして、弔って以降、赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建されました。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社の一つとされます。(同上)
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『赤穂義士を祀る・大石神社・赤穂城跡内』の文字が刻まれた石標の光景です。末尾に昭和58年(1983年)『赤穂新八景』選定記念の表示もありました。前にも調べたことがありますが、公認された『赤穂新八景』ではないらしく、場所や景色は特定できませんでした。『大石神社』については、『本丸』見学の後に、もう少し詳しく紹介します。(同上)
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左向きの矢印で『本丸庭園』が案内されていた、写真入りの案内板の光景です。さきほどは『赤穂新八景』が紹介できませんでしたが、昭和2年(1927年)に投票で選ばれた『日本八景』は、8部門から、海岸=室戸岬、湖沼=十和田湖、山岳=温泉(雲仙)岳、河川=木曽川、渓谷=上高地渓谷、瀑布(滝)=華厳滝、温泉=別府温泉、平原=狩勝峠、が選ばれました。横山大観らが審査委員でした。(同上)
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この場所は、桜の頃がお勧めです。さきほどの『日本八景』の選定で、もう少し補足しておきます。主催は毎日新聞の前身とされる東京日日新聞と大阪毎日新聞、当時の鉄道省が後援して投票を募りました。国民の関心は高く、投票総数は当時の人口の1.5倍の9348万1773票でした。谷崎潤一郎、横山大観らの審査委員の討論は、13時間に及んだようです。(同上)
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『二之丸門跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。赤穂城の二の丸門は当時は櫓門がありました。この門周辺の縄張りの一部を、当時赤穂藩に滞在していた軍学者の山鹿素行が変更したことが知られています。また、江戸末期には国家老の森主税が暗殺された文久2年(1862年)12月の『文久事件』の場所にもなりました。日本最期の仇討ちとされるこの事件をきっかけに『仇討禁止令』が発布されました。(同上)
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『二之丸門跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。こちらは、『赤穂義士会』の名による看板でした。こちらには、浅野長尚(1610~1672年)に仕えて逗留していた山鹿素行(1622~1685年)のことが、少し詳しく紹介されていました。素行が縄張りの変更をアドバイスしたのは、築城工事中の承応2年(1653年)、当時の二之丸門の寸法なども細かく紹介されていました。(同上)
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軍学者の山鹿素行は、赤穂藩二代藩主の浅野長尚に、1000石の高禄で招請されました。素行は、寛永7年(1630年)、9歳のとき大学頭を務めていた『林羅山(1583~1657年)の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲、北条氏長の下で甲州流の軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学びました。山鹿素行の紹介は、この後も続きます。(同上)
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イチオシ
『山鹿素行先生銅像』の光景です。素行は、寛文2年(1662年)頃から朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究し、寛文5年(1665年)、天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えました。この考えは、門人により編集され『山鹿語類』などに示されています。しかし、朱子学を否定する考えが幕府の禁忌に触れました。(同上)
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上の看板は、赤穂義士会名の『山鹿素行先生銅像』のタイトル、下の看板は、『山鹿素行銅像・碑文』のタイトルがあった、赤穂義士会の資料からの解説文です。官学である朱子学を否定した『聖教要録』などの著作は幕府の怒りをかい、素行は寛文6年(1666)、45歳の時に播州赤穂藩に預けられることになりました。しかし、浅野家は約10年に亘って素行を優遇し、彼を兵学の教育に当たらせました。この時に教えを受けた一人に、後に赤穂藩国家老となる大石内蔵助良雄がいます。内蔵助だけでなく、赤穂藩士たちの精神に、素行が少なからぬ影響を与えたことが予想できます。(同上)
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『大石頼母之助屋敷門』のタイトルがあった説明看板の光景です。大石頼母助良重(よししげ)は、大石内蔵助良雄(よしたか)の大叔父にあたる人で、家老職にありました。藩主の浅野長直に重用され、二之丸に屋敷を構え、妻には長直の娘を迎えています。1665年、山鹿素行が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で8年余りを過ごしたとされます。(同上)
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イチオシ
『大石頼母之助屋敷門』と呼ばれる薬医門の光景です。平成10年~平成13年(1998~2001年)にかけて実施された二之丸庭園の発掘調査により、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかりました。この門は、発掘調査によって見つかった遺構に基づき、その規模及び構造が検証され、薬医門形式の屋敷門として平成21年(2009年)3月に再現されました。(同上)
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写真は、二之丸庭園の周りにあった冠木門(かぶきもん)の光景です。延宝3年(1675年)、54歳の素行は追放を許されて江戸に戻り、軍学を教えたといわれます。貞享2年(1685年)、64歳で死去しました。 元禄15年(1703年)の赤穂浪士討ち入り以後、山鹿流兵学は実戦的な軍学として、さらに人気が高まりました。(同上)
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『二之丸庭園』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『二之丸庭園』は赤穂城の北西部に位置する、大型の回遊式庭園です。東は『大石頼母之助屋敷』から始まり、西は西仕切りにまで及びました。頼母之助屋敷で約8年間を過ごした山鹿素行は、『年譜』に記録を残しました。素行が池泉で遊興した庭園は、発掘調査を経て、『旧赤穂城庭園』として本丸庭園とともに国の名勝に指定されました。(同上)
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『国史跡・赤穂城跡案内図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。内堀に囲まれた本丸を、堀で囲まれた二之丸で囲い、北側に三の丸を配置する構成です。現況図に縄張りを落とし込んでありますから、堀などは一部欠落しているかも知れません。また、二の丸の南半分と三の丸の西側が瀬戸内海に面していました。左向きが北側となる地図です。(同上)
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名前:『ムクドリ(椋鳥)』
分類:スズメ目ムクドリ科ムクドリ属
分布:日本、東アジアに分布。
その他:雑食性で、植物の種子や果物、虫の幼虫などを好んで食べます。(同上) -
名前:『ムクドリ(椋鳥)』
分類:スズメ目ムクドリ科ムクドリ属
分布:日本、東アジアに分布。
その他:日本国内のほぼ全域に分布し、都市部の街路樹などにねぐらをとる例も増えています。(同上) -
赤穂城は、正保2年(1645年)に常陸国笠間から入封した浅野長直が近藤三郎左衛門正純に命じ、慶安元年(1648)から寛文元年(1661年)まで13年をかけて完成させた甲州流小円法に準じた梯郭式の平城です。築城当時は、二の丸の南半分と三の丸の西側が瀬戸内海に面していて、海城ともいえる特徴も備えていました。写真は、本丸の周りの石垣と内堀です。(同上)
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右端に見えるのが『本丸門』、その左方面が、隅櫓の姿はありませんが、『東北隅櫓』あった方面になるようです。当時の藩士の数は、士分308人が定説とされ、300~360人まで諸説あります。また、足軽は300人、中間が490人いたとされます。(同上)
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『国史跡・赤穂城跡・本丸門(復元)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。平成8年(1996年)11月、赤穂市教育委員会名の説明パネルでした。紹介されていた写真は、取り壊される前の本丸門の明治10年代頃の写真です。『花岳寺』が所蔵する写真と紹介されていました。一の門、二の門、土塀、中道と、虎口左前(門桝式)と呼ばれる枡形石垣から構成されています。(同上)
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『国史跡・赤穂城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。側面に『平成8年(1996年)11月吉日』の文字がありました。『赤穂城跡』が国史跡に指定されたのは、昭和46年(1971年)3月31日です。昭和52年3月7日と平成15年8月27日に追加指定されています。(同上)
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『本丸門』の北側から眺めた、『本丸』の北西面の石垣と内堀の光景です。本丸の面積は9.350坪とされ、形は輪郭式で藩邸、番所、倉庫などの建物と天守台や庭園(泉水)などがありました、また、門は本丸門、厩口門、刎橋門の三箇所でした。隅櫓は南北に二箇所、大筒狭間数は八箇所、天守台は築かれましたが天守閣はありませんでした。(同上)
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証券から眺めた『本丸門』の光景です。本丸門は、1992年(平成4年)~1996年(平成8年)にかけて復元されました。長方形の内枡形を備え、『一の門』の櫓門と『二の門』である高麗門の二つの門で構成されています。こちらは、外から眺めた、『二の門』の『高麗門』の光景です。(同上)
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内側から眺めた、『二の門』の『高麗門』の光景です。『高麗門』秀吉の時代の文禄・慶長の役(1592~1598年)以後に造られた城門です。鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める『薬医門』を簡略化したもので、屋根を小振りにして守備側の死角を減らす工夫が施されました。江戸時代以降には、城郭に限らず神社仏閣や町の出入口を仕切る木戸門などとして多く築造されました。(同上)
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本丸門を潜った枡形虎口の光景です。右手に幅広い『雁木』ありました。その上には、狭間を備えた土塀が見えています。『枡形虎口(ますがたこぐち)』は、戦国時代の末期に登場しました。虎口の前面に方形の空間を設けることで、直角に曲がらないと門へ入れないため、横側からより効果的な攻撃が出来るようになりました。雁木の部分は、外の敵に対する攻撃場所です。(同上)
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本丸門の虎口の石垣光景です。積んだばかりの『打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』の石垣です。石質もそろっていて、まさに新築の石垣です。地面から傾斜を持たせずに、まっすぎに立ち上がった石垣です。(同上)
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外側(枡形虎口側)から眺めた、『一の門』の『櫓門(やぐらもん)』の光景です。櫓門は、門の上に櫓を設けた、特に城に構えられる門の総称です。二階門とも呼ばれます。門の上にある櫓を門櫓(もんやぐら)と呼び、門櫓が太鼓櫓をかねたものを『太鼓門』、枡形の表側を平門にし内側を櫓門とした組み合わせを『枡形門』と呼びます。(同上)
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城内側から眺めた、『一の門』の『櫓門』の光景です。前方に見えているのは、虎口の石垣と、狭間が付いた土塀です。赤穂城の本丸門は、『内枡形(うちますがた)』の虎口(こぐち)を持つ『枡形門(ますがたもん)』と呼んで良さそうです。(同上)
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『赤穂御城御殿絵図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。浅野家断絶後に赤穂藩主となった永井家の所蔵文書の絵図(永井文書の現在所蔵者は、東京大学資料編纂所)であることが紹介されていました。元資料は、美濃紙全体に基準線を墨書きし、柱を書き入れた色紙を貼り付けて作成されているようです。(同上)
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『赤穂城本丸御殿見取図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。こちらはCAD(キャド)当たりを使って描かれた、現在の製図技法を使った見取り図です。ただし、こちらも北の方角は上ではなくした方向です。廊下や縁側などの板張りは、密な細線で表示されていました。『CAD(キャド)』は、コンピュータによる設計支援ツールのことです。(同上)
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『赤穂城本丸御殿見取図』の『説明文』の紹介です。永井家の所蔵文書の絵図(永井文書)に基づき再建された『本丸御殿の平面図』であることが紹介されていました。本丸全体の面積は15114平方メートル、その3分の2が本丸御殿などの建物と天守台、あとの3分の1が、発掘された池泉などの空き地でした。本丸の建物跡は、床高だけを高くし、間取りなどが表示されています。(同上)
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