2018/04/20 - 2018/04/20
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岡山県と兵庫県の日本百名城巡りです。岡山の岡山城、兵庫の赤穂城と姫路城の3箇所を日帰りで見学しました。往きは岡山まで新幹線、帰りは姫路から新幹線を利用しました。既に見学したことがあるお城ばかりですから、今回は百名城巡りのスタンプ押しが目的でした。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)
- 交通手段
- 新幹線
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名古屋を新幹線で出発し、定時に到着した岡山駅の駅前光景です。時刻は9時15分過ぎです。岡山駅から、岡山城までは歩いても大した距離ではありませんが、往きは、途中まで市電を利用しました。(同上)
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犬と猿、それに雉を従えた桃太郎像です。桃太郎は、鬼門である鬼に対抗して『裏鬼門』に位置する十二支の動物を選んだという解釈があります。その反対の方角になる、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)を率いたとするものです。また、それぞれの役割ですが、猿は知恵の象徴、犬は忠義の象徴、雉は勇気の象徴とされます。(同上)
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岡山駅前からの乗った市電を降りて、歩いて岡山城に向かう途中の光景です。振り返って眺めた岡山市街光景です。今回見学の岡山城は、戦国時代に、備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎がつくられました。その後、小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われました。(同上)
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市電を下りて、岡山城に向かう途中にある公園の光景です。岡山城の始まりは、南北朝時代の正平年間(1346~1369年)に、名和氏の一族の上神高直が石山台(岡山)に城を築いたと、『備前軍記』に書かれているのが初伝とされます。その後、およそ 150年間の城主は明らかではありません。戦国時代に頭角を現したのが宇喜多氏です。(同上)
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元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高に代わり、この地を支配しました。直家は、備前守護代浦上氏の一族、浦上宗景の被官でしたが、備前西部を中心に勢力を伸張しました。直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に付け替えて城下に導き、備前福岡、備前西大寺などから商人を呼び寄せ、城下町の整備を行い、流通主導による経済振興政策を採りました。この後も説明が続きます。(同上)
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『ツツジ(躑躅)』
ツツジ科ツツジ属
分布:主にアジアに広く分布し、ネパールでは国花です。
花期:4月~5月
その他:鮮やかな赤色の小花です。キリシマツツジ(霧島躑躅)でしょうか。(同上) -
名前:『ツツジ(躑躅)』
分類:ツツジ科ツツジ属
分布:主にアジアに広く分布し、ネパールでは国花です。
花期:4月~5月
その他:アザレアもツツジの仲間です。写真はクルメツツジのようです。(同上) -
イチオシ
名前:『ポピー』:和名は虞美人草など
分類:ケシ科ケシ属の1年草
原産地:ヨーロッパ南部、西アジア、トルコ東部、イラン北部、アジア北東部
花期:3月~5月
その他:河畔の道沿いに鉢植えが並んでいました。(同上) -
名前:『ポピー』:和名は虞美人草、雛芥子など
分類:ケシ科ケシ属の1年草
原産地:ヨーロッパ南部、西アジア、トルコ東部、イラン北部、アジア北東部
花期:3月~5月
その他:ポピーには約150種の品種があります。(同上) -
名前:『ポピー』:和名は虞美人草、雛芥子など
分類:ケシ科ケシ属の1年草
原産地:ヨーロッパ南部、西アジア、トルコ東部、イラン北部、アジア北東部
花期:3月~5月
その他:ポピーは、麻薬は採取できないけし類の植物です。(同上) -
岡山城の歴史紹介の続きです。宇喜多直家(1529~1582年)が、岡山城下で経済振興政策を採り入れたのは、信長が安土城を築城する3年前のことです。この先見的な取り組みは、直家が幼少の頃に、備前福岡の商人に庇護を受けたことが無縁ではないとみられています。(同上)
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岡山城に到着しました。石垣の上に見えるのは、国の重要文化財の『月見櫓』です。直家の子、宇喜多秀家(1573~1655年)は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石の大大名となりました。これに相応した城とするため、天正18年から 慶長2年(1590~1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えました。(同上)
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昭和9年9月21日に起きた大水害を記した、昭和13年11月建立の石碑の光景です。当時、世界最低気圧を更新した『室戸台風』による被害です。本丸は本段、中の段、下の段に分かれた構造で、本段の北寄りに金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型天守を建てました。しかし、そのままでは本丸の東側の守りが極めて薄い構造となったため、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形とし、天然の堀としました。この付け替えは、明らかに不自然な形の流路となり、城下に洪水を多発させる原因となりました。(同上)
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城下町の洪水対策として、放水路としての百間川の整備へと繋がりました。城を南から取り巻くように西国往来の道筋を変えて、直家時代の城下町を拡大整備し、引き続き領内の有力商人を勧誘して経済活動を発展させるよう努めました。築城には義父となった秀吉の意向が大いに働いたようです。元服の際、秀吉より『秀』の字を与えられ『秀家』と名乗り、秀吉の猶子(ゆうし)となりました。(同上)
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秀家は、秀吉の養女である、前田利家の娘の豪姫を正室としました。このため、外様ではあるものの、秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなりました。 関ヶ原の戦いでは西軍の副大将として戦い、敗戦しました。このため、八丈島に流されましたが、関ヶ原の戦いに参戦した大名としては一番の長生きをしました。(同上)
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『岡山城の歴史を今に』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1597年の宇喜多秀家の築城から説明が始まっていました。昭和62年(1987年)に国の史跡に指定された後は、コンクリート建物の撤去、石垣の補修など、歴史に重きを置いた遺跡の整備が行われていることが紹介されていました。(同上)
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イチオシ
その色合いから、『烏城』、『金烏城』とも呼ばれる岡山城の天守光景です。関ヶ原の戦いで、宇喜多家は改易となり、代わって小早川秀秋が入城しました。秀秋は、天正13年(1585年)に義理の叔父である羽柴秀吉の養子になり、幼少より高台院(秀吉の正室)に育てられました。元服して木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗りました。天正17年(1589年)、秀吉の後継者候補として、僅か7歳で元服させられ、豊臣秀勝の領地であった丹波亀山城10万石を与えられました。諸大名からは、関白・豊臣秀次に次ぐ豊臣家の継承権保持者とも見られていました。(同上)
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『岡山城(烏城)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。関ヶ原の合戦中に裏切りを行ったことで歴史に残った秀秋です。豊臣家の養子として出世したにも関わらず、裏切りに及んだことが当時からも批判されました。しかし、戦後の論功行賞では備前・美作・備中東半にまたがる播磨国の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封されました。(同上)
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関ヶ原の戦いからまもなく、秀秋から秀詮へと改名しました。そして、2年後の慶長7年(1602年)10月、秀詮は21歳で急死しました。残されている病歴からは、酒色(アルコール依存症)による内臓疾患が死因として最有力とされます。秀吉の後継者とみられていた頃、秀秋に取り入ろうとする諸大名から接待攻勢を受け、7歳の元服と同時に毎晩酒を飲み続けた付けが回ったようです。(同上)
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『岡山城周辺観光案内図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。岡山城に入った秀詮は、家臣の知行割り当て、寺社寄進領の安堵といった施策を行う一方で、伊岐遠江守、林長吉ら側近勢力の拡充を図りましたが、旧来の家臣団層と新たに台頭してきた側近層との対立が起きたようです。秀詮の死後、小早川家は無嗣断絶により改易されました。これは徳川政権初の無嗣改易とされます。(同上)
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城外側から眺めた、『廊下門』の光景です。秀詮死後の慶長8年(1603年)、備前28万石は播磨姫路城主・池田輝政の次男忠継に与えられたましたが、幼少(5歳)だったため、兄の利隆が『備前監国』として代政しました。利隆は西之丸を整備したと言われています。慶長18年(1613年)に忠継は岡山城に入りましたが、慶長20年(1615年)に死去しました。(同上)
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『廊下門』のタイトルがあった説明パネルの光景です。元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄が淡路より31万5千石で入封しました。幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿に加え、新たに表書院も設けました。また大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川を整備するなど、ここに岡山城の縄張りが完成しました。(同上)
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廊下門を潜った後の登り坂の石段光景です。現在の重要文化財に指定されている『月見櫓』はこの頃の創建とされ、中の段の北西角の隅櫓で一部地下付き、本葺き、総白漆喰塗籠の壁仕上げの二階建てです。城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見えます。 後ほど、城内側からと、城外側からの眺めも紹介します。(同上)
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振り返って眺めた『廊下門』の光景です。先に紹介した『廊下門』のパネルでは、上屋は、本段(住居)と中の段表書院(藩庁)を結ぶ、藩主の通路として用いられていたと紹介されていました。昭和41年(1966年)、鉄筋コンクリート造りで再建された建物です。(同上)
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江戸期の縄張は『岡山』に本丸、二之丸内郭(東南の郭)、『石山』付近に二之丸内郭(西の郭)、西の丸が置かれ、それらの南に二之丸、その西南に三之曲輪、中堀の外に三之曲輪の内、西に三之外曲輪の内と言う配置です。本丸には天守の他に三つの御殿、大納戸櫓を含む高層(3層以上)の櫓が9棟(城全体では11棟)、さらに2層の櫓、櫓門が多数ありました。(同上)
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『廊下門』の西側部分の櫓になります。『石山』の二之丸内郭には池田家祖廟、西之丸に前藩主の隠居所がおかれ、二之丸内郭(東南の郭)、二之丸は上級武士の屋敷地でした。三之曲輪と三之曲輪の内の北側には西国往来が通り、町人地として領国経済の中心となっていました。岡山城は元は石山城と呼ばれ、その中心部は現在の岡山城の二ノ丸あたりと推測されています。(同上)
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イチオシ
国指定重要文化財の『月見櫓』の光景です。城外からは二層の望楼型、城内からは三層に見える建物です。かつての三之曲輪の内の南半分は小早川氏時代の武家地であり、三之外曲輪は武家地、外堀を隔てて寺町や下級武士の屋敷や町人町がさらに広がっていました。 (同上)
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国指定重要文化財の『月見櫓』の光景です。確かに内側から眺めますと、三層の建物に見えます。寛永9年(1632年)、池田忠雄(1602~1632年)の子・光仲(1630~1693年)が因幡鳥取へ転封し、入れ代わって因幡鳥取から池田光政(1609~1682年)が31万5千石で入封しました。光政は利隆の子であり、姫路城で生まれましたが、父の死後元和元年(1615年)に鳥取城主となっていました。(同上)
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『国指定重要文化財・月見櫓』のタイトルがあった説明パネルの光景です。城外側への臨戦の櫓ですが、平時には、内側の明かり障子を立てるなど、日常生活にも適した御殿仕様となっています。『月見櫓』の名前の由来となるようです。岡山城は、幕末まで光政系池田氏の居城となりました。貞享4年(1687年)からは、光政の子・綱政により14年の歳月をかけて後楽園が造営されました。(同上)
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『国宝・岡山城月見櫓』の文字が刻まれた石標の光景です。旧法時代の石標で、現在は国の重要文化財です。明治2年(1869年)の版籍奉還により、藩主・池田章政は岡山藩知事に任ぜられ、岡山城は藩の府城たる役割を終えて兵部省管轄、つまり存城となりました。しかし、明治6年(1873年)の廃城令により順次建物の取り壊し・堀の埋め立てが行われ、明治15年(1882年)頃までには、天守、月見櫓、西之丸西手櫓、石山門を残すのみとなりました。更に、1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲で天守、石山門が焼失しました。(同上)
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