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兵庫の日本百名城巡りの赤穂城の紹介です。元和2年(1616年)に旧赤穂上水道が敷設されました。上水道の終着点が赤穂城、堀や海で囲われているため、サイフォンの原理を使って城内に配水されました。この時代、各戸給水された水道は、世界的にも珍しいようです。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

2018春、岡山と兵庫の日本百名城(8/15):赤穂城(3):お堀、隅櫓、大手門、大石良雄宅

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2018/04/20 - 2018/04/20

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旅人のくまさん

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兵庫の日本百名城巡りの赤穂城の紹介です。元和2年(1616年)に旧赤穂上水道が敷設されました。上水道の終着点が赤穂城、堀や海で囲われているため、サイフォンの原理を使って城内に配水されました。この時代、各戸給水された水道は、世界的にも珍しいようです。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
新幹線 JRローカル
  • 『三の丸大手隅櫓(北東側)』の光景です。明治初期の廃城令で姿を消しましたが、大手門と同じく昭和30年(1955年)に復元された隅櫓です。石垣が劣化していたのでしょうか、綺麗に修復された跡が残っていました。(同上)

    イチオシ

    『三の丸大手隅櫓(北東側)』の光景です。明治初期の廃城令で姿を消しましたが、大手門と同じく昭和30年(1955年)に復元された隅櫓です。石垣が劣化していたのでしょうか、綺麗に修復された跡が残っていました。(同上)

  • 『旧赤穂上水道・城内への配水』のタイトルがあった説明パネルの光景です。赤穂の地は、井戸を掘っても海水が出るため、城と城下町の整備には、上水道の整備が不可欠でした。このため、元和2年(1616年)に旧赤穂上水道が敷設されました。上水道の終着点が赤穂城、堀や海で囲われているため、サイフォンの原理を使って城内に配水されました。(同上)

    『旧赤穂上水道・城内への配水』のタイトルがあった説明パネルの光景です。赤穂の地は、井戸を掘っても海水が出るため、城と城下町の整備には、上水道の整備が不可欠でした。このため、元和2年(1616年)に旧赤穂上水道が敷設されました。上水道の終着点が赤穂城、堀や海で囲われているため、サイフォンの原理を使って城内に配水されました。(同上)

  • 『赤穂城下町を歩く』のタイトルがあった説明パネルの光景です。案内板が建てられていた現在地は、上水道モニュメントの近く、三の丸の大手門にも近い場所でした。説明文の中見出しは、『赤穂城と城下町』、『旧上水道の歴史』と『旧上水道のルート』でした。(同上)

    『赤穂城下町を歩く』のタイトルがあった説明パネルの光景です。案内板が建てられていた現在地は、上水道モニュメントの近く、三の丸の大手門にも近い場所でした。説明文の中見出しは、『赤穂城と城下町』、『旧上水道の歴史』と『旧上水道のルート』でした。(同上)

  • 赤穂城内の上配水に使われた土管の展示光景です。2本の土管が接続された状態で展示されていました。元和2年(1616年)、当時の藩主が指示を出し、市内中心部を流れる千種川から赤穂城下それぞれの家へ上水道を設置させました。上水道が各民家にまで引かれるというのは、この時代世界的にも珍しいこととされます。池田輝政は1613年に亡くなり、その子が赤穂藩主だった『掻上城』の時代の頃のようです。(同上)

    赤穂城内の上配水に使われた土管の展示光景です。2本の土管が接続された状態で展示されていました。元和2年(1616年)、当時の藩主が指示を出し、市内中心部を流れる千種川から赤穂城下それぞれの家へ上水道を設置させました。上水道が各民家にまで引かれるというのは、この時代世界的にも珍しいこととされます。池田輝政は1613年に亡くなり、その子が赤穂藩主だった『掻上城』の時代の頃のようです。(同上)

  • 同じく、赤穂城内の上配水に使われた土管の展示光景です。腰掛のように並んでいました。西日本最古の旧赤穂上水道は、敷設されてから320年間、現代の水道に代わる昭和19年(1944年)まで使用されました。『日本三大水道』と呼ばれた歴史文化遺産です。因みに、赤穂、神田、福山の三箇所の水道が、日本三大上水道と呼ばれています。(同上)

    同じく、赤穂城内の上配水に使われた土管の展示光景です。腰掛のように並んでいました。西日本最古の旧赤穂上水道は、敷設されてから320年間、現代の水道に代わる昭和19年(1944年)まで使用されました。『日本三大水道』と呼ばれた歴史文化遺産です。因みに、赤穂、神田、福山の三箇所の水道が、日本三大上水道と呼ばれています。(同上)

  • 名前:『ツグミ(鶇)』<br />分類:スズメ目ヒタキ科ツグミ属の鳥<br />分布:中国南部、台湾、日本、ミャンマー北部、ロシア東部。<br />その他:夏季にシベリア中部や南部で繁殖し、冬季に南下します。全長24 センチ、翼開長39センチほどの大きさです。(同上)

    名前:『ツグミ(鶇)』
    分類:スズメ目ヒタキ科ツグミ属の鳥
    分布:中国南部、台湾、日本、ミャンマー北部、ロシア東部。
    その他:夏季にシベリア中部や南部で繁殖し、冬季に南下します。全長24 センチ、翼開長39センチほどの大きさです。(同上)

  • 名前:『ツグミ(鶇)』<br />分類:スズメ目ヒタキ科ツグミ属の鳥<br />分布:中国南部、台湾、日本、ミャンマー北部、ロシア東部。<br />その他:日本では冬鳥、色彩の個体変異が大きい鳥です。(同上)

    名前:『ツグミ(鶇)』
    分類:スズメ目ヒタキ科ツグミ属の鳥
    分布:中国南部、台湾、日本、ミャンマー北部、ロシア東部。
    その他:日本では冬鳥、色彩の個体変異が大きい鳥です。(同上)

  • 名前:『ツグミ(鶇)』<br />分類:スズメ目ヒタキ科ツグミ属の鳥<br />分布:中国南部、台湾、日本、ミャンマー北部、ロシア東部。<br />その他:食性は雑食で、昆虫、果実などを食べます。(同上)

    名前:『ツグミ(鶇)』
    分類:スズメ目ヒタキ科ツグミ属の鳥
    分布:中国南部、台湾、日本、ミャンマー北部、ロシア東部。
    その他:食性は雑食で、昆虫、果実などを食べます。(同上)

  • 『史跡・赤穂城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。池田家時代の赤穂城の歴史の紹介です。慶長5年(1600)9月、池田輝政と福島正則の名で、播州赤穂仮屋(加里屋)中に禁制が出されました。いわゆる徳川家康の禁制と言われるものです。濫妨狼藉、放火刃傷等、関ヶ原の戦後の混乱を鎮める目的で行われたものです。両氏は、播磨から摂津における同様の禁制をいくつか出しました。(同上)

    『史跡・赤穂城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。池田家時代の赤穂城の歴史の紹介です。慶長5年(1600)9月、池田輝政と福島正則の名で、播州赤穂仮屋(加里屋)中に禁制が出されました。いわゆる徳川家康の禁制と言われるものです。濫妨狼藉、放火刃傷等、関ヶ原の戦後の混乱を鎮める目的で行われたものです。両氏は、播磨から摂津における同様の禁制をいくつか出しました。(同上)

  • 『大手隅櫓(南側)』の光景です。同年(慶長5年)の10月になると、池田輝政は播磨一国52万石を与えられ、三河国吉田から姫路城に入りました。輝政は三木城、船上城、高砂城、龍野城、平福利神城、赤穂城を支城とし、領内支配を固めました。赤穂城は、西の岡山小早川藩との境界であったことから重要視され、末弟の池田長政が2万2千石で配され、現在の赤穂城地に『掻上城』を築きました。(同上)

    『大手隅櫓(南側)』の光景です。同年(慶長5年)の10月になると、池田輝政は播磨一国52万石を与えられ、三河国吉田から姫路城に入りました。輝政は三木城、船上城、高砂城、龍野城、平福利神城、赤穂城を支城とし、領内支配を固めました。赤穂城は、西の岡山小早川藩との境界であったことから重要視され、末弟の池田長政が2万2千石で配され、現在の赤穂城地に『掻上城』を築きました。(同上)

  • 『三の丸』に位置する『大手門(東側)』の光景です。赤穂城の玄関口の大手門は、東面する高麗門と南面する櫓門で構成された雄大な城門でした。大手隅櫓は大手門の北にある二重櫓で東西四間半、南北三間半の基底部を持ち、大手門を監視する役割と、大手門を防備する役割を担っていました。(同上)

    『三の丸』に位置する『大手門(東側)』の光景です。赤穂城の玄関口の大手門は、東面する高麗門と南面する櫓門で構成された雄大な城門でした。大手隅櫓は大手門の北にある二重櫓で東西四間半、南北三間半の基底部を持ち、大手門を監視する役割と、大手門を防備する役割を担っていました。(同上)

  • 『大手門(東側)』のズームアップ光景です。明治初期の廃城令で破却された大手門ですが、昭和30年(1955年)に高麗門のみが隅櫓と共に復元されました。櫓門は復元されていませんが、枡形虎口の石垣や土塀なども復元されていました。写真は、外側(南側)から眺めた高麗門の光景です。(同上)

    イチオシ

    『大手門(東側)』のズームアップ光景です。明治初期の廃城令で破却された大手門ですが、昭和30年(1955年)に高麗門のみが隅櫓と共に復元されました。櫓門は復元されていませんが、枡形虎口の石垣や土塀なども復元されていました。写真は、外側(南側)から眺めた高麗門の光景です。(同上)

  • 『大手門(東側)』の虎口の石垣光景です。『鏡石』のような大きな石も使われていました。その石垣越しに見えているのは、筆頭家老の大石屋敷跡に建つ『大石神社』の破風と屋根です。赤穂義士を祀る明治時代に建てられた神社です。池田家時代の赤穂城の歴史の紹介の続きです。掻上城は、土を掻き上げて築いた簡素な城とされていますが、この名称は後世に記されたものらしく、詳細は不明です。(同上)

    『大手門(東側)』の虎口の石垣光景です。『鏡石』のような大きな石も使われていました。その石垣越しに見えているのは、筆頭家老の大石屋敷跡に建つ『大石神社』の破風と屋根です。赤穂義士を祀る明治時代に建てられた神社です。池田家時代の赤穂城の歴史の紹介の続きです。掻上城は、土を掻き上げて築いた簡素な城とされていますが、この名称は後世に記されたものらしく、詳細は不明です。(同上)

  • 池田家時代の赤穂城の歴史紹介の続きです。慶長8年(1603年)に輝政の二男池田忠継に備前28万石が与えられますと、長政は備前国下津井に移り、赤穂城は支城としての役目をひとまず終えました。慶長18年(1613年)に池田輝政が死去し、赤穂は岡山藩の池田忠継(1599~1615年)領となりましたが、元和元年(1615年)には忠継も死去しました。(同上)

    池田家時代の赤穂城の歴史紹介の続きです。慶長8年(1603年)に輝政の二男池田忠継に備前28万石が与えられますと、長政は備前国下津井に移り、赤穂城は支城としての役目をひとまず終えました。慶長18年(1613年)に池田輝政が死去し、赤穂は岡山藩の池田忠継(1599~1615年)領となりましたが、元和元年(1615年)には忠継も死去しました。(同上)

  • 忠継領のうち、赤穂、佐用、宍粟は弟達に分与され、池田政綱が3万5千石で入封しました。池田政綱は徳川家康の外孫で、慶長16年(1611年)に家康より松平姓を受け、松平右京大夫と呼ばれた人物です。この時、生駒親正の支配以来改めて赤穂藩が成立し、廃藩置県まで継続することになります。およそこの時期までは、垂水半左衛門勝重という人物が赤穂郡代として派遣され、赤穂を実質的に治めていました。(同上)

    忠継領のうち、赤穂、佐用、宍粟は弟達に分与され、池田政綱が3万5千石で入封しました。池田政綱は徳川家康の外孫で、慶長16年(1611年)に家康より松平姓を受け、松平右京大夫と呼ばれた人物です。この時、生駒親正の支配以来改めて赤穂藩が成立し、廃藩置県まで継続することになります。およそこの時期までは、垂水半左衛門勝重という人物が赤穂郡代として派遣され、赤穂を実質的に治めていました。(同上)

  • 振り返って眺めた、高麗門の内側からの光景です。垂水勝重の時代には、慶長14年(1609年)検地の実施、慶長18年(1613年)掻上城の整備、元和2年(1616年)赤穂上水道完成、元和7年(1621年)加里屋大火後の町割整備といった、数々の大事業が行われ増した。池田政綱は寛永8年(1631年)7月に死去し、家が途絶えることになったため、輝政の六男の池田輝興(1611~1647年)が3万5千石で赤穂に入りました。(同上)

    振り返って眺めた、高麗門の内側からの光景です。垂水勝重の時代には、慶長14年(1609年)検地の実施、慶長18年(1613年)掻上城の整備、元和2年(1616年)赤穂上水道完成、元和7年(1621年)加里屋大火後の町割整備といった、数々の大事業が行われ増した。池田政綱は寛永8年(1631年)7月に死去し、家が途絶えることになったため、輝政の六男の池田輝興(1611~1647年)が3万5千石で赤穂に入りました。(同上)

  • 写真は、休憩所のような建物光景です。輝興は、寛永2年(1626年)に徳川家光から松平姓を賜り、松平右近大夫と呼ばれた人物です。輝興は寛永8年(1631)、掻上城内にあったと思われる藩邸に金の間を作り、曲輪に多門、隅櫓を、城内に馬場を築いたとされます。当時の状況は、『松平右京大夫政綱公御時代之絵図』)に詳しいとされます。輝興は、寛永21年(1644年)に検地を行っています。(同上)

    写真は、休憩所のような建物光景です。輝興は、寛永2年(1626年)に徳川家光から松平姓を賜り、松平右近大夫と呼ばれた人物です。輝興は寛永8年(1631)、掻上城内にあったと思われる藩邸に金の間を作り、曲輪に多門、隅櫓を、城内に馬場を築いたとされます。当時の状況は、『松平右京大夫政綱公御時代之絵図』)に詳しいとされます。輝興は、寛永21年(1644年)に検地を行っています。(同上)

  • 14年間と、比較的長期間にわたって行われた輝興の施政ですが、正保2年(1645年)3月、輝興は内室を突然切り殺し、幼児に手負わせ、侍女2人を切り捨てたことで改易となりました。これで赤穂池田藩は消滅し、赤穂浅野藩に代わることとなりました。以上で、池田家赤穂藩時代の紹介はお終いです。突然の発狂は、解けない謎を伴っています。(同上)

    14年間と、比較的長期間にわたって行われた輝興の施政ですが、正保2年(1645年)3月、輝興は内室を突然切り殺し、幼児に手負わせ、侍女2人を切り捨てたことで改易となりました。これで赤穂池田藩は消滅し、赤穂浅野藩に代わることとなりました。以上で、池田家赤穂藩時代の紹介はお終いです。突然の発狂は、解けない謎を伴っています。(同上)

  • 三の丸北側方面の土塁と、その上に建つ白壁の土塀の光景です。土塀には、一定間隔で狭間が並んでいました。発掘調査や文献調査の上で再建された土塁や土塀、その土塀から分岐する木造らしい間仕切壁の光景です。(同上)

    三の丸北側方面の土塁と、その上に建つ白壁の土塀の光景です。土塀には、一定間隔で狭間が並んでいました。発掘調査や文献調査の上で再建された土塁や土塀、その土塀から分岐する木造らしい間仕切壁の光景です。(同上)

  • 柵の外から眺めた『大石神社』の光景です。元は、大石家の家老屋敷があった場所とされます。赤穂城址の『三の丸』に位置します。かつての『三の丸』には、数多くの武家屋敷が敷地を構えていました。(同上)

    柵の外から眺めた『大石神社』の光景です。元は、大石家の家老屋敷があった場所とされます。赤穂城址の『三の丸』に位置します。かつての『三の丸』には、数多くの武家屋敷が敷地を構えていました。(同上)

  • 積み直されたらしい「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』の石垣の光景です。少し曲がってはいますが、横線が通った布積です。瀬戸内海に面した赤穂城ですから、石材の調達には困らなかったかもしれません。(同上)

    積み直されたらしい「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』の石垣の光景です。少し曲がってはいますが、横線が通った布積です。瀬戸内海に面した赤穂城ですから、石材の調達には困らなかったかもしれません。(同上)

  • 同じく、積み直されたらしい「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』の石垣のズームアップ光景です。古い石垣から流用されたものではなく、新しい石材を使って積まれた石垣のようでした。(同上)

    同じく、積み直されたらしい「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』の石垣のズームアップ光景です。古い石垣から流用されたものではなく、新しい石材を使って積まれた石垣のようでした。(同上)

  • 緩やかな勾配の石垣の端末部分が見どころになっていました。その背後には土塁があり、その土塁越しに『隅櫓』や白壁の屋根付きの土塀が頭を出していました。北側から、北東側にかけての光景になるようです。(同上)

    緩やかな勾配の石垣の端末部分が見どころになっていました。その背後には土塁があり、その土塁越しに『隅櫓』や白壁の屋根付きの土塀が頭を出していました。北側から、北東側にかけての光景になるようです。(同上)

  • 裏側から眺めた『大石神社』の建物光景です。現代でも、『忠義者』の人気投票では『大石内蔵助』が断トツのトップを占めています。『歴史街道』が2019年に発表した『日本史上の「忠臣」ランキング』のトップテンの紹介です。上位三人は、1位:大石良雄(内蔵助)(31.2%)、2位:楠木正成(7.9%)、3位:豊臣秀吉(6.7%)、でした。カッコ内の%は、ウェブ投票の得票率です。(同上)

    裏側から眺めた『大石神社』の建物光景です。現代でも、『忠義者』の人気投票では『大石内蔵助』が断トツのトップを占めています。『歴史街道』が2019年に発表した『日本史上の「忠臣」ランキング』のトップテンの紹介です。上位三人は、1位:大石良雄(内蔵助)(31.2%)、2位:楠木正成(7.9%)、3位:豊臣秀吉(6.7%)、でした。カッコ内の%は、ウェブ投票の得票率です。(同上)

  • 『大石神社』の裏門になるようです。左側に、『大石神社』の出入口を記した道案内ポスターがありました。続いて6位までの順位です。4位:石田三成(6.1%)、5位:武蔵坊弁慶(3.7%)、6位:直江兼続(3.3%)でした。因みにNHK大河ドラマの主人公は、2018年(西郷隆盛)、2017年(井伊直虎:女城主)、2016年(真田信繁)、2015年(吉田松陰の妹)、2014年(黒田官兵衛)でした。(同上)

    『大石神社』の裏門になるようです。左側に、『大石神社』の出入口を記した道案内ポスターがありました。続いて6位までの順位です。4位:石田三成(6.1%)、5位:武蔵坊弁慶(3.7%)、6位:直江兼続(3.3%)でした。因みにNHK大河ドラマの主人公は、2018年(西郷隆盛)、2017年(井伊直虎:女城主)、2016年(真田信繁)、2015年(吉田松陰の妹)、2014年(黒田官兵衛)でした。(同上)

  • 『大石邸長屋門』のタイトルがあった『赤穂義士会』による説明パネルの光景です。7位以下は、7位:真田幸村(信繁)(3.0%)、8位:黒田孝高(官兵衛)(2.4%)、9位:乃木希典(1.8%)、10位:平重盛(1.6%)の順でした。幕末の勤皇思想の一つ、『日本三忠臣』の楠木正成(大塔宮護良親王と連携)、平重盛(清盛の子)と万里小路(藤原)藤房(後醍醐天皇の側近)の内の2人が含まれていました。(同上)

    『大石邸長屋門』のタイトルがあった『赤穂義士会』による説明パネルの光景です。7位以下は、7位:真田幸村(信繁)(3.0%)、8位:黒田孝高(官兵衛)(2.4%)、9位:乃木希典(1.8%)、10位:平重盛(1.6%)の順でした。幕末の勤皇思想の一つ、『日本三忠臣』の楠木正成(大塔宮護良親王と連携)、平重盛(清盛の子)と万里小路(藤原)藤房(後醍醐天皇の側近)の内の2人が含まれていました。(同上)

  • 『大石邸長屋門』の周りの石垣と白漆喰の長塀の光景です。安政3年(1856年)に大修理が行われ、大正12年(1923年)、国の史跡に指定されました。更に昭和37年(1962年)に屋根の大修理を行いましたが、老朽甚だしく、昭和52年(1977年)11月から国、県及び市の負担により、総工費3,138万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和53年(1978年)10月末に復元完了しました。(同上)<br />

    『大石邸長屋門』の周りの石垣と白漆喰の長塀の光景です。安政3年(1856年)に大修理が行われ、大正12年(1923年)、国の史跡に指定されました。更に昭和37年(1962年)に屋根の大修理を行いましたが、老朽甚だしく、昭和52年(1977年)11月から国、県及び市の負担により、総工費3,138万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和53年(1978年)10月末に復元完了しました。(同上)

  • 『史跡・大石良雄宅阯』の表示があった建物の出入り口光景です。浅野家筆頭家老の大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた、大石屋敷の正面門長屋です。門口約26.8メートル、奥行約4.8メートルの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついています。元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっています。(同上)

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    『史跡・大石良雄宅阯』の表示があった建物の出入り口光景です。浅野家筆頭家老の大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた、大石屋敷の正面門長屋です。門口約26.8メートル、奥行約4.8メートルの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついています。元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっています。(同上)

  • 『史跡・大石良雄宅阯』の文字が刻まれた石標の光景です。かつては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、また、元禄14年(1701年)3月、主君の松の廊下での刃傷による、江戸の悲報を伝える早打ちが叩いたのもこの門です。大石家は代々浅野家に仕えた重臣で、赤穂入封から刃傷事件による断絶まで、家老として大手門内側の一角に屋敷を構えていました。現在、大石家の屋敷跡は大石神社の境内となっていますが、長屋門は外からも見える位置に残されています。(同上)

    『史跡・大石良雄宅阯』の文字が刻まれた石標の光景です。かつては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、また、元禄14年(1701年)3月、主君の松の廊下での刃傷による、江戸の悲報を伝える早打ちが叩いたのもこの門です。大石家は代々浅野家に仕えた重臣で、赤穂入封から刃傷事件による断絶まで、家老として大手門内側の一角に屋敷を構えていました。現在、大石家の屋敷跡は大石神社の境内となっていますが、長屋門は外からも見える位置に残されています。(同上)

  • 『塩と義士の館・赤穂市立歴史博物館』のタイトルがあった道案内看板の光景です。まだ見学したことはありませんが、『塩と義士の館』を愛称として、平成元年(1989年)に開館した博物館です。赤穂の塩、赤穂の城と城下町、赤穂義士と旧赤穂の上水道が4つの展示テーマと紹介されていました。(同上)

    『塩と義士の館・赤穂市立歴史博物館』のタイトルがあった道案内看板の光景です。まだ見学したことはありませんが、『塩と義士の館』を愛称として、平成元年(1989年)に開館した博物館です。赤穂の塩、赤穂の城と城下町、赤穂義士と旧赤穂の上水道が4つの展示テーマと紹介されていました。(同上)

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