2018/04/20 - 2018/04/20
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旅人のくまさんさん
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日帰りでの岡山県と兵庫県の3箇所の日本百名城巡りです。最後になる姫路城の紹介です。世界文化遺産にも登録された姫路城は、現存する日本の城郭を代表する建築物です。よく知られているように、別名は『白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)』です。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)
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JR赤穂線の播州赤穂駅から姫路駅までは8駅ですから、あっという間でした。姫路城までは、何度か歩いたことがありますので、今回も歩きにしました。目前に姫路城が見える場所までやって来ました。新幹線で姫路を通過する時にも眺めることができるお城です。(同上)
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歩道のカラーマンホール蓋の紹介です。姫路市の消火栓でした。『コサギ(小鷺)』らしい白鷺の飛翔姿と、『サギソウ(鷺草)』らしい花が描かれていました。コサギは、夏羽では頭に2本の長い冠羽が現れます。その冠羽が表現されているようでした。(同上)
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同じく、歩道のカラーマンホール蓋の紹介です。こちらにも、整然と並んだ白い『サギソウ(鷺草)』が描かれていました。サギソウは、ラン科サギソウ属の多年草です。『サギラン』の別名を持ちます。(同上)
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かなりの高さの石垣光景が見えてきました。打込み接ぎの石垣は、姫路城の遺構のようでしたが、その背後には民家が見えていました。(同上)
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信号待ちの時の光景です。『大手前』の場所表示がありました。広い歩道は、2列の街路樹で分けられていました。左側の街路樹は新緑の公孫樹でしたが、右側の街路樹は樹種が分かりませんでした。(同上)
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同じく、『大手前』の交差点での信号待ちの時の光景です。低い石垣ですが、姫路城の遺構らしい石垣光景がありました。グリーンベルトには、これから満開を迎える紅白のツツジが咲いていました。(同上)
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左側の看板には『姫路城の中濠跡』、右側の看板には『世界文化遺産・姫路城案内図』のタイトルがありました。『中濠跡』の説明には、かつての地図と、現在の地図が添えられていました。国道2号線は中濠を埋め立てて造られたもので、これより北側の内曲輪が武家屋敷、南側の外曲輪が町屋であったことが解説されていました。(同上)
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姫路城の大手門に向かう途中、あちらこちらで目にした遺跡らしい石垣光景です。この箇所の遺跡は土塁らしく、石垣は、その土留め目的のようでした。角の部分以外は、近代工法の石垣でしたから、角の部分の算木積と、祖pの周りの打込み接ぎも、遺物の石材を流用した造作のようにも見えました。(同上)
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この光景も、遺物は石垣ではなく、土塁跡にあるようです。道路整備で土塁が切断された箇所に石垣が積まれているようでした。切込み接ぎとも言ってよい石材加工でした。この石垣も、左端部分は、近代工法で積まれた、小さく形が揃ったな石材を使った石垣でした。(同上)
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『大名通り』のタイトルがあった説明看板の光景です。拾い読みしますと、江戸時代、この辺りには家老クラスの居宅が並ぶ武家町で、大名町と呼ばれていたことが紹介されていました。(同上)
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『にの屋敷』の建物光景です。姫路城の家老屋敷跡に建てられた『い』、『ろ』、『は』、『に』の四つの和風建築の内の一つです。レストランとお土産店です。一帯が『家老屋敷跡公園』として整備される前は、雑然と建物が並んでいたようです。(同上)
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中央奥に見えるのは[、『ろの屋敷』の建物です。こちらも、家老屋敷跡の四つの和風建築の内の一つです。ネット情報では、『江戸時代後期の姫路藩筆頭家老・高須隼人が屋敷を構えていた土地を整備した公園。酒井家時代の姫路侍屋敷図から遺構街路の復元や遺構表示を行い、歴史的イメージを再現している』との紹介もありました。(同上)
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イチオシ
『白鷺城』の姿がくっきりと見えてきました。この後は、『姫路城の簡単な歴史について紹介しておきます。江戸時代以前に建設された天守が残る、現存12天守の一つを持ちます。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたのが、平成5年(1993年)、『国宝五城』、『日本三名城』、『三大平山城・三大連立式平山城』の一つにも数えられています。(同上)
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姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力です。『姫路城史』などではこの説を採っています。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もあります。(同上)
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『国宝・姫路城と特別史跡・姫路城跡』の文字が刻まれた石碑の光景です。国宝には、大小の天守と渡櫓等8棟が指定されています。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になりますと、山陽道上の交通の要衝である姫路に置かれた姫路城は、本格的な城郭に拡張されました。(同上)
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今日見られる大規模な城郭へと更に拡張されたのは、関ヶ原の戦いの後の慶長5年(1600年)に城主となった池田輝政によるものです。慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大規模に改修しました。城造りの名手の一人で、美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となりました。(同上)
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『姫路城大手門と桜橋門』のタイトルがあった案内看板の光景です。池田輝政の紹介をもう少し続けます。永禄7年(1564年)、織田信長の重臣・池田恒興の次男として生まれました。はじめ『照政』と名乗り、後に『輝政』に改名しました。天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ、10月に秀吉が京都大徳寺で信長の葬儀を催すと、輝政は羽柴秀勝と共に棺を担ぎました。(同上)
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天正11年(1583年)、父が美濃大垣城主の時、輝政は池尻城主となりました。天正12年(1584年)、秀吉と家康が争った小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため、家督を相続し美濃大垣城主13万石を領しました。吉田城主時代は、豊臣秀次に付属したらしく、朝鮮出兵には参加せず、国内守備の任務や大船建造、兵糧米の名護屋城回送を行いました。(同上)
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お堀に架かる、入城口になる桜門橋の光景です。現在の桜門橋は、発掘調査を基に、平成19年(2007年)に再建されました。豊臣時代、豊臣一族に準じて遇された輝政が、徳川家との縁が出来たのは、文禄3年(1594年)、秀吉の仲介により、徳川家康の娘・督姫を継室に娶った時からのようです。正室は、中川清秀の娘の糸姫でした。慶長3年(1598年)8月、秀吉が没すると家康に接近しました。(同上)
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再建された、大手門の光景です。先に紹介した説明パネルの説明では、『姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では最も格調高く厳重な門でした。現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は昭和13(1938)年に完成したもので、位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっています』と紹介されていました。門が大きいのは、当時、軍用車両が通れるように作られたためとされます。(同上)
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松と庭石を配し、石庭風に造られた一角の光景です。その中心が、『世界遺産・姫路城』の石碑でした。豊臣時代末期の輝政は、福島正則や加藤清正ら武断派の諸将らと共に行動し、文治派の石田三成らと対立しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加し、福島正則と共に功を挙げました。(同上)
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姫路城の天守閣群は、見る位置によって、色々と姿が変わります。高石垣の上の長櫓を入れた光景です。徳川家の輝政に対する信頼は厚く、関ヶ原の戦い後、岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となりました。慶長6年(1601年)2月、第二代将軍の徳川秀忠が輝政邸を訪れましたが、これは関ヶ原以後、初めての外様大名の屋敷への御成とされます。(同上)
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緩やかな石畳の坂道光景です。今回は入場見学はしない予定でしたから、時間があれば散策してみたい方面でした。輝政は、諸大名らと共に、慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請など、数多くの天下普請に従事し、篠山城普請では総普請奉行を務めました。(同上)
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『世界文化遺産・国宝姫路城案内図』のタイトルがあった案内看板の光景です。現在地が、入場券売り場近くに赤く表示されていました。今回の姫路城見学の一番の目的は、百名城スタンプの押印ですから、先にそちらの用事を済ませておくことにしました。(同上)
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この角度から眺めた、姫路城の天守群も見応えがありました。輝政は、慶長11年(1606年)からは姫路城と同時進行で加古川流域の改修も始め、加古川の上流の田高川の河川開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行っっています。姫路城の前在城した吉田城は三河地区にありま。本丸周りには、輝政が手掛けた石垣が残されていますが、全体が完成する前に姫路に転封となりました。(同上)
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更に近寄ってズームアップした、天守群の光景です。1617年(元和3年)、池田氏は第二代の利隆の跡を継いだ第三代の光政は幼少でした。慶長18年(1613年)に祖父の池田輝政が死去したため、父とともに家康に謁見した時、家康は、5歳の光政を近くに呼び寄せ、『三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ』と言葉をかけ、その後、『眼光の凄まじさ、唯人ならず』と評したエピソードが残ります。(同上)
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木々により、少し姿が隠れた天守群の光景です。幼少の光政は、山陽道の要衝を任せるには不安であることを理由に、因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で姫路に入城しました。第三代の光政は、寛永9年(1632年)4月鳥取から岡山に31万5,000石で入封となり、名君としての実績を挙げ、その子孫はあ明治時代まで続きました。(同上)
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名前:『ツツジ(躑躅)』
分類:ツツジ科ツツジ属
分布:主にアジアに広く分布し、ネパールでは国花です。
花期:4月~5月
その他:色鮮やかなピンクの大輪です。久留米躑躅の系統かもしれません。(同上) -
ズームアップした、姫路城大天守の光景です。青空によく映える、白亜の城郭です。姫路城は、幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃したりしているものの、築城されてから一度も大規模な戦火にさらされることや甚大な被害を被ることがなかったことから、『不戦の城』とも呼ばれます。(同上)
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姫路城の石垣と白長塀の光景です。この辺りは古い時代に積まれたものか、野面積と打込み接ぎが混在したような乱積でした。今回は、入城せずに、城の周りを中心に見学しましたので、石垣のことはこの後も紹介が続きます。(同上)
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