赤穂旅行記(ブログ) 一覧に戻る
日本百名城巡りの赤穂城の紹介です。赤穂駅から赤穂城に向かう途中、浅野家の菩提寺の『台雲山・花岳寺』に立ち寄りました。江戸時代初期の正保2年(1645年)、常陸国笠間藩より転封となった浅野長直が浅野家菩提寺として創建した曹洞宗のお寺です。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

2018春、岡山と兵庫の日本百名城(7/15):赤穂城(2):城下町、花岳寺、三の丸隅櫓

22いいね!

2018/04/20 - 2018/04/20

108位(同エリア372件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

日本百名城巡りの赤穂城の紹介です。赤穂駅から赤穂城に向かう途中、浅野家の菩提寺の『台雲山・花岳寺』に立ち寄りました。江戸時代初期の正保2年(1645年)、常陸国笠間藩より転封となった浅野長直が浅野家菩提寺として創建した曹洞宗のお寺です。(ウィキペディア、日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
新幹線 JRローカル
  • 赤穂城主だった浅野氏の菩提寺の『台雲山花岳寺』の紹介が続きます。現在は、播磨国赤穂藩・浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺であり、また、大石良雄の祖先が眠る大石家墓地、義士墓があります。また、新西国三十三箇所の第31番札所にもなっています。この建物は、『座禅堂』と紹介されていました。(同上)

    赤穂城主だった浅野氏の菩提寺の『台雲山花岳寺』の紹介が続きます。現在は、播磨国赤穂藩・浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺であり、また、大石良雄の祖先が眠る大石家墓地、義士墓があります。また、新西国三十三箇所の第31番札所にもなっています。この建物は、『座禅堂』と紹介されていました。(同上)

  • 右端に見えるスマートな石塔は、七重塔の『無怨塔』です。赤穂事件のことを内に秘めたような命名の石塔でした。正面に見える、なまこ壁がある横長の建物は、『渡り廊下』のようでした。写経の案内もされていました。(同上)<br />

    右端に見えるスマートな石塔は、七重塔の『無怨塔』です。赤穂事件のことを内に秘めたような命名の石塔でした。正面に見える、なまこ壁がある横長の建物は、『渡り廊下』のようでした。写経の案内もされていました。(同上)

  • 場所を少し移動して、ズームアップした『渡り廊下』らしい建物の光景です。その背後には、唐らしい建物や、庭園の光景がありました。その庭木が屋根の上から顔を出していました。(同上)

    場所を少し移動して、ズームアップした『渡り廊下』らしい建物の光景です。その背後には、唐らしい建物や、庭園の光景がありました。その庭木が屋根の上から顔を出していました。(同上)

  • 千手堂内に展示された、『初代名残の松の幹』の光景です。かなりの大木でした。江戸時代に描かれた絵図の『播州赤穂城下台雲山花岳寺全図』には、山門を潜った左右に大きな松の木が描かれていました。樹齢310年で枯れ死したと紹介されていました。(同上)

    イチオシ

    千手堂内に展示された、『初代名残の松の幹』の光景です。かなりの大木でした。江戸時代に描かれた絵図の『播州赤穂城下台雲山花岳寺全図』には、山門を潜った左右に大きな松の木が描かれていました。樹齢310年で枯れ死したと紹介されていました。(同上)

  • 『天然記念物・双樹梗概』のタイトルがあった、立派な表示板の光景です。<br />名前:『大石名残の松』<br />樹齢:樹齢310年で昭和2年(1927年)2月に枯れ死。<br />移植:元禄4年(1691年)、相生村から移植。<br />その他:48本の石柱が、支柱に使われていました。(同上)

    『天然記念物・双樹梗概』のタイトルがあった、立派な表示板の光景です。
    名前:『大石名残の松』
    樹齢:樹齢310年で昭和2年(1927年)2月に枯れ死。
    移植:元禄4年(1691年)、相生村から移植。
    その他:48本の石柱が、支柱に使われていました。(同上)

  • 扁額らしいものが掛かっていましたが、読み取ることはできませんでした。大石内蔵助は、赤穂城を元禄14年4月19日に幕府に明け渡し、残務整理のため現赤穂市尾崎で家族と共に仮住まいし、執務地の遠林寺(現廃寺で随鴎寺の西)まで通いました。残務整理を終えた大石内蔵助は、6月24日に浅野内匠頭の百箇日法要を花岳寺で執り行い、翌、25日に隠棲先の京都山科に旅立っています。(同上)

    扁額らしいものが掛かっていましたが、読み取ることはできませんでした。大石内蔵助は、赤穂城を元禄14年4月19日に幕府に明け渡し、残務整理のため現赤穂市尾崎で家族と共に仮住まいし、執務地の遠林寺(現廃寺で随鴎寺の西)まで通いました。残務整理を終えた大石内蔵助は、6月24日に浅野内匠頭の百箇日法要を花岳寺で執り行い、翌、25日に隠棲先の京都山科に旅立っています。(同上)

  • ズームアップして撮影した、同じ建物の正面光景です。今度は、微かに『報恩堂』らしい扁額の文字が読み取れました。報恩堂があった寺が廃寺となり、昭和35年(1960年)に堂宇ごと、この場所へ移されました。明治25年(1892年)の千種川大水害で亡くなった犠牲者89人の冥福を祈るために、遺族たちが寄進した千体仏が収められています。(同上)

    ズームアップして撮影した、同じ建物の正面光景です。今度は、微かに『報恩堂』らしい扁額の文字が読み取れました。報恩堂があった寺が廃寺となり、昭和35年(1960年)に堂宇ごと、この場所へ移されました。明治25年(1892年)の千種川大水害で亡くなった犠牲者89人の冥福を祈るために、遺族たちが寄進した千体仏が収められています。(同上)

  • 野口雨情の自筆を写刻した詩碑の光景です。民謡行脚の道すがら、昭和11年(1936年)4月18日から3日間、赤穂に滞在し試作した、10節からなる『赤穂民謡』の冒頭部分です。吉良家と浅野家の問題は、塩を巡るものとの説が昔からあります。徳川家が使用する塩は、吉良家の所領から献上する饗庭塩が使われていましたが、質・量で勝る赤穂ブランドの塩が台頭して軋轢を生んだとするものです。(同上)

    野口雨情の自筆を写刻した詩碑の光景です。民謡行脚の道すがら、昭和11年(1936年)4月18日から3日間、赤穂に滞在し試作した、10節からなる『赤穂民謡』の冒頭部分です。吉良家と浅野家の問題は、塩を巡るものとの説が昔からあります。徳川家が使用する塩は、吉良家の所領から献上する饗庭塩が使われていましたが、質・量で勝る赤穂ブランドの塩が台頭して軋轢を生んだとするものです。(同上)

  • 『雨情詩碑』のタイトルがあった、『野口雨情(1882~1945年)』の詩碑解説のパネルです。『春のあけぼの、花なら桜、武士の鑑ぢゃ、赤穂義士』の詩が刻まれていました。野口雨情は茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)生まれの詩人、童謡・民謡作詞家です。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われました。(同上)

    『雨情詩碑』のタイトルがあった、『野口雨情(1882~1945年)』の詩碑解説のパネルです。『春のあけぼの、花なら桜、武士の鑑ぢゃ、赤穂義士』の詩が刻まれていました。野口雨情は茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)生まれの詩人、童謡・民謡作詞家です。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われました。(同上)

  • 境内の片隅にあった石像の光景です。境内案内で調べてみましたが、特別に名前や由来などは紹介されていませんでした。奥に置かれた像は、写実的な造りのようでした、手前の像は顔がはみ出してしまいました。(同上)

    境内の片隅にあった石像の光景です。境内案内で調べてみましたが、特別に名前や由来などは紹介されていませんでした。奥に置かれた像は、写実的な造りのようでした、手前の像は顔がはみ出してしまいました。(同上)

  • 左斜め前から眺めた『花岳寺・本堂』の光景です。本堂正面の二つのの紋は、市内各所で見かける、赤穂では有名な紋です。右の『違い鷹の羽』は赤穂浅野家の紋、左の『二ツ巴』は大石家の家紋です。また、堂内には、赤穂の画家の法橋周得が幕末に描いた、見事な龍の絵の天井絵があるようです。今回は見学していません。(同上)

    左斜め前から眺めた『花岳寺・本堂』の光景です。本堂正面の二つのの紋は、市内各所で見かける、赤穂では有名な紋です。右の『違い鷹の羽』は赤穂浅野家の紋、左の『二ツ巴』は大石家の家紋です。また、堂内には、赤穂の画家の法橋周得が幕末に描いた、見事な龍の絵の天井絵があるようです。今回は見学していません。(同上)

  • 『赤穂市指定有形文化財・建造物』のタイトルがあった説明看板です。かつての赤穂城の高麗門形式の『西惣門』です。『塩屋門』とも呼ばれていたようです。1873年(明治6年)に21代仙珪和尚が購入して、この場所に移築しました。赤穂城の搦手(からめて)となる塩屋門は、枡形と高麗門から構成されていました。(同上)

    『赤穂市指定有形文化財・建造物』のタイトルがあった説明看板です。かつての赤穂城の高麗門形式の『西惣門』です。『塩屋門』とも呼ばれていたようです。1873年(明治6年)に21代仙珪和尚が購入して、この場所に移築しました。赤穂城の搦手(からめて)となる塩屋門は、枡形と高麗門から構成されていました。(同上)

  • 振り返って眺めた、台雲山花岳寺の山門光景です。これで、正保2年(1645年)に浅野長直が両親の菩提寺として建立し、浅野家以後に赤穂藩主となった永井家、森家の菩提寺にもなった『台雲山華嶽(花岳寺)』の紹介はお終いです。曹洞宗永平寺の末寺で、開山は秀厳龍田和尚です。(同上)

    振り返って眺めた、台雲山花岳寺の山門光景です。これで、正保2年(1645年)に浅野長直が両親の菩提寺として建立し、浅野家以後に赤穂藩主となった永井家、森家の菩提寺にもなった『台雲山華嶽(花岳寺)』の紹介はお終いです。曹洞宗永平寺の末寺で、開山は秀厳龍田和尚です。(同上)

  • 『花岳寺』の近くにあった『周辺案内マップ」の光景です。赤穂城に向かう前に、念のために目を通しておきました。現在地の左手の上下の通りに『至赤穂城跡公園』の表示がありました。左手には広域図もありましたから、道に迷うことはなさそうです。真っすぐ進むだけです。(同上)

    『花岳寺』の近くにあった『周辺案内マップ」の光景です。赤穂城に向かう前に、念のために目を通しておきました。現在地の左手の上下の通りに『至赤穂城跡公園』の表示がありました。左手には広域図もありましたから、道に迷うことはなさそうです。真っすぐ進むだけです。(同上)

  • 名前:『ノースポール』<br />分類:キク科フランスギク属(クリサンセマム属)の半耐寒性多年草<br />原産地:アフリカのアルジェリア周辺ないしはヨーロッパ<br />その他:クリサンセマムの別名や、カンシロギクの和名を持ちます。花期は、12月~翌年6月。(同上)

    名前:『ノースポール』
    分類:キク科フランスギク属(クリサンセマム属)の半耐寒性多年草
    原産地:アフリカのアルジェリア周辺ないしはヨーロッパ
    その他:クリサンセマムの別名や、カンシロギクの和名を持ちます。花期は、12月~翌年6月。(同上)

  • 名前:『パンジー』<br />分類:スミレ科スミレ属の小型の園芸植物。<br />原産地:世界中で見かける園芸植物です。<br />その他:小型種はビオラですが、最近はパンジーとは区別されることが少なくなりました。(同上)

    名前:『パンジー』
    分類:スミレ科スミレ属の小型の園芸植物。
    原産地:世界中で見かける園芸植物です。
    その他:小型種はビオラですが、最近はパンジーとは区別されることが少なくなりました。(同上)

  • 武家らしき跡でしょうか、長い塀とその中に見える立派そうな庭木の光景です。お寺ではなく、個人宅のようでした。その庭木の後ろに幾棟かの瓦屋根の住宅が立ち並んでいました。(同上)

    武家らしき跡でしょうか、長い塀とその中に見える立派そうな庭木の光景です。お寺ではなく、個人宅のようでした。その庭木の後ろに幾棟かの瓦屋根の住宅が立ち並んでいました。(同上)

  • この辺りには旧家の姿はなく、通りの両側に商店やアパートのような建物の姿がありました。通りに面した場所には、駐車場が所々にありましたが、立ち退かれた建物跡かも知れません。本通りからは少しだけ離れた通りだったようです。(同上)

    この辺りには旧家の姿はなく、通りの両側に商店やアパートのような建物の姿がありました。通りに面した場所には、駐車場が所々にありましたが、立ち退かれた建物跡かも知れません。本通りからは少しだけ離れた通りだったようです。(同上)

  • このお宅も由緒がありそうな立派な造りでした、武家屋敷ではなく、大きな商家のイメージでした。二階部分は、防火のためでしょうか、軒下も白漆喰で塗固めてあるようでした。1階は目の細かい格子戸が使われ、玄関脇には車除けが続いていました。(同上)

    このお宅も由緒がありそうな立派な造りでした、武家屋敷ではなく、大きな商家のイメージでした。二階部分は、防火のためでしょうか、軒下も白漆喰で塗固めてあるようでした。1階は目の細かい格子戸が使われ、玄関脇には車除けが続いていました。(同上)

  • 振り返って眺めた町並み光景だったようです。三叉路の突き当りに、大きな事案がありました。その入口門に『蓮如忌厳修』の表示がありましたから、浄土真宗のお寺のようでした。蓮如(れんにょ)上人は、室町時代の浄土真宗の僧で、浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首・大谷本願寺住職でした。(同上)

    振り返って眺めた町並み光景だったようです。三叉路の突き当りに、大きな事案がありました。その入口門に『蓮如忌厳修』の表示がありましたから、浄土真宗のお寺のようでした。蓮如(れんにょ)上人は、室町時代の浄土真宗の僧で、浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首・大谷本願寺住職でした。(同上)

  • 電柱の横に建っていた道案内標識の紹介です。一番上に記された現在地が『本町筋』、右の矢印方向が『赤穂城跡(260メートル)』、左の矢印方向が『花岳寺(200メートル)』でした。側面に『万福寺(55メートル)』、と『お城通り(100メートル)』も記されていました。(同上)

    電柱の横に建っていた道案内標識の紹介です。一番上に記された現在地が『本町筋』、右の矢印方向が『赤穂城跡(260メートル)』、左の矢印方向が『花岳寺(200メートル)』でした。側面に『万福寺(55メートル)』、と『お城通り(100メートル)』も記されていました。(同上)

  • 敷地内もきれいに舗装され、敷地に沿って雨水用の溝が長く続く町並み光景です。格子窓が、出窓の様に設えられていました。古い街並みを維持するだけでも、大変な費用が掛かっているように見受けました。この辺りは、城下町というより、赤穂城址の縄張り内の武家屋敷跡か、有力な商家跡かも知れません。(同上)

    敷地内もきれいに舗装され、敷地に沿って雨水用の溝が長く続く町並み光景です。格子窓が、出窓の様に設えられていました。古い街並みを維持するだけでも、大変な費用が掛かっているように見受けました。この辺りは、城下町というより、赤穂城址の縄張り内の武家屋敷跡か、有力な商家跡かも知れません。(同上)

  • 『花岳寺』を出発して『赤穂城址』に向かう途中、ずっと、城下町らしい町並み光景月ずいていましたが、このお宅も武家門らしい玄関でした。左手に見える白い標柱に『史跡・藩儒・赤松滄洲先生奮宅』らしい文字がありました。『赤松滄洲(そうしゅう:1721~1801年)』は、江戸中期の儒者で医者、播磨赤穂藩の家老を務めた人です。子の赤松蘭室も藩医を務めています。(同上)

    『花岳寺』を出発して『赤穂城址』に向かう途中、ずっと、城下町らしい町並み光景月ずいていましたが、このお宅も武家門らしい玄関でした。左手に見える白い標柱に『史跡・藩儒・赤松滄洲先生奮宅』らしい文字がありました。『赤松滄洲(そうしゅう:1721~1801年)』は、江戸中期の儒者で医者、播磨赤穂藩の家老を務めた人です。子の赤松蘭室も藩医を務めています。(同上)

  • 歩道にあった雨水マンホールの光景です。中央に、大きな桜の花弁があり、その周りにも花や植物があしらわれ、右下には川の流れのような表示もありました。花の周りの尖った花弁のような意匠は、朝日のようにも見えました。ネット検索しましたら、中心部から市章、ツツジ、陣太鼓のギザギザと、名水100選の清流千草川の流れが正解でした。(同上)

    歩道にあった雨水マンホールの光景です。中央に、大きな桜の花弁があり、その周りにも花や植物があしらわれ、右下には川の流れのような表示もありました。花の周りの尖った花弁のような意匠は、朝日のようにも見えました。ネット検索しましたら、中心部から市章、ツツジ、陣太鼓のギザギザと、名水100選の清流千草川の流れが正解でした。(同上)

  • 赤穂城の姿を見る前に、最後に目にした道案内標識の光景です。今歩いている本町筋の180メートル先が赤穂城址・大手門、反対側に300メートル戻ると『花岳寺』の表示でした。側面には、右に330メートルが塩屋門、左に180メートルが大手門の表示もありました。(同上)

    赤穂城の姿を見る前に、最後に目にした道案内標識の光景です。今歩いている本町筋の180メートル先が赤穂城址・大手門、反対側に300メートル戻ると『花岳寺』の表示でした。側面には、右に330メートルが塩屋門、左に180メートルが大手門の表示もありました。(同上)

  • 赤穂城に到着しました。そのお堀の光景です。赤穂城は、江戸時代の正保2年(1645年)に、常陸国笠間から入封した浅野長直(1610~1672年)が、近藤正純(1604~1662年)に築城設計を命じ、慶安元年(1648年)から13年以上に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661年)に完成させた城郭です。甲州流軍学者の小幡景憲の弟子で、『小幡門四哲同学』の一人に数えられています。(同上)

    赤穂城に到着しました。そのお堀の光景です。赤穂城は、江戸時代の正保2年(1645年)に、常陸国笠間から入封した浅野長直(1610~1672年)が、近藤正純(1604~1662年)に築城設計を命じ、慶安元年(1648年)から13年以上に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661年)に完成させた城郭です。甲州流軍学者の小幡景憲の弟子で、『小幡門四哲同学』の一人に数えられています。(同上)

  • 城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと、甲州流軍学によるものです。一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行(1622~1685年)が設計変更したと伝えられています。本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっていて、近世城郭史上、非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とされています。当時、山鹿素行は赤穂藩に仕えていました。(同上)

    イチオシ

    城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと、甲州流軍学によるものです。一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行(1622~1685年)が設計変更したと伝えられています。本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっていて、近世城郭史上、非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とされています。当時、山鹿素行は赤穂藩に仕えていました。(同上)

  • 赤穂城のお堀の光景です。完成時には10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2,847メートルに及びました。本丸には築城時に設置された天守台が残存しますが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されませんでした。後ほど、その天守台も紹介します。三代続いた浅野家ですが、元禄14年(1701年)の松の廊下での刃傷事件によりお家断絶し、同年に城を幕府に明け渡しました。(同上)

    赤穂城のお堀の光景です。完成時には10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2,847メートルに及びました。本丸には築城時に設置された天守台が残存しますが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されませんでした。後ほど、その天守台も紹介します。三代続いた浅野家ですが、元禄14年(1701年)の松の廊下での刃傷事件によりお家断絶し、同年に城を幕府に明け渡しました。(同上)

  • 三代続いた浅野家ですが、刃傷事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。しかし城郭復興の気運が高まり、大正元年(1912年)には三之丸に大石神社が建立、大正14年(1925年)には二之丸に山鹿素行銅像が建立されました。写真は、三の丸大手隅櫓(北東側)です。明治年間に取り壊されましたが、大手門や土塀とともに1955年(昭和30年)に再建されました。壕の向こうに見える櫓風建物は、巴屋という和菓子屋です。(同上)

    イチオシ

    三代続いた浅野家ですが、刃傷事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。しかし城郭復興の気運が高まり、大正元年(1912年)には三之丸に大石神社が建立、大正14年(1925年)には二之丸に山鹿素行銅像が建立されました。写真は、三の丸大手隅櫓(北東側)です。明治年間に取り壊されましたが、大手門や土塀とともに1955年(昭和30年)に再建されました。壕の向こうに見える櫓風建物は、巴屋という和菓子屋です。(同上)

  • お堀越しに眺めた赤穂城の石垣と土塀の光景です。もし、天守台に天守櫓が建てられていたなら、この辺りからでも、その天守櫓は眺められたはずです。今は、庭木の頭部だけか眺めることはできません。これは赤穂城だけのことではなく、幕府に慮って天守を立てなかったケースや、落雷などで焼失した後も、再建されていないケースがあります。(同上)

    お堀越しに眺めた赤穂城の石垣と土塀の光景です。もし、天守台に天守櫓が建てられていたなら、この辺りからでも、その天守櫓は眺められたはずです。今は、庭木の頭部だけか眺めることはできません。これは赤穂城だけのことではなく、幕府に慮って天守を立てなかったケースや、落雷などで焼失した後も、再建されていないケースがあります。(同上)

22いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP