2023/10/25 - 2023/10/25
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しにあの旅人さん
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さきたま古墳群より丸墓山古墳。
卑弥呼の時代の幻の華奴蘇奴国の古墳は前のブログで行ってきました。その後も古墳は作られ続けました。6世紀からは小さな前方後円墳が多くなるようです。最後の古墳は7世紀初めくらい。
ここで。
地図を見ていたら、ため五郎!
これが分かった方は同世代。
お若いかたには、通じないでしょうね。アッと驚いたのです。
参考書は下記に並べました。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
「ヤマトタケル空白の旅路 金鑚神社1 華奴蘇奴国、卑弥呼登場!?」
https://4travel.jp/travelogue/11887487
さきたま古墳群に行ったのは2022年4月ですが、ブログを投稿日順に並べたいので、旅行日を2023/10/25とします。
投稿日:2024/03/08
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
二宮金鑚神社からほぼ東に直線約36km、行田市にさきたま古墳群があります。
5世紀後半ここに突如、東国としては異例な、長さ100mを越える、巨大な前方後円墳が出現しました。
魏志倭人伝の3世紀の華奴蘇奴国より200年後です。
華奴蘇奴国が造ったんだ、と言いたいところですが、そこはこらえて、こらえて。
2022年春の写真を引っ張り出します。 -
一番高い丸墓山古墳にのぼります。赤いジャンバーがBy夫、
さきたま古墳公園 公園・植物園
-
高さ19mだそうです。円墳で直径105m。円墳としては日本最大。
6世紀前半ごろ。 -
右から桜並木に隠れて二子山古墳、真ん中頭に埴輪を乗っけて将軍塚古墳、左端菜の花の稲荷山古墳。
北武蔵の関東平野、広いなあ。写真は東から東南方向です。
東は霞ヶ浦を通り越して約100kmで鹿島灘。東南は110kmで九十九里浜。
南に60kmくらいで東京湾にドボンです。
6世紀でもこの風景は同じで、猫の額のヤマト盆地と同じ文化が育つはずはないニャー。
ヤマト人は驚いたでしょうね。広所恐怖症かも。
一書に曰く、
広いです!
広大な古墳公園です。
古墳を見たのは、初めてではありませんが、こんなに直に触れることが出来る古墳は、初めてです。
ヤマト盆地では、古墳というのは、大和三山を模したのではないかと思えたのですが、ここでは、あんまりぺったんこだから、山造ってみましたー。の感じ。
しかも、木ではなく、草しか生えてない状態ですから、はっきり古墳の形がわかるのです。
しかも、丸墓山、二子山、稲荷山と、まるで古墳の展示場。
さあさあ。どれにいたしましょう。
円墳は、ちょっと流行遅れではございますが、その分大きくさせて頂きます。
やっぱり、最新タイプとしましては、前方後円墳ということになりますが、サイズは大、中、小ととりそろえております。
ははあ、さようでございますねえ。お手軽タイプというのも、ございますよ。
とかって、古墳造成業者が、両手をもみもみ、かなさな兄姫に云ってそう。
上ると、ひろびろ空が広がりまして、後期高齢者のおばばでも、天下とった気分。
これは、若き野望の主には、たまらないでしょう。
少年よ 大志を抱け!
であります。
By妻 -
二子山古墳。132m、6世紀前半の前方後円墳。
一書に曰く、
前方後円墳と申しますが、どこが前で、どこが後ろやら。
前円後方墳ではいけないんだろうか。
古墳というのは、ある方向に向かって整然と並んでいるのかと思っておりました。
思いがけず、ばらけております。
ぱらぱらっと、あっち向いたりこっち向いたり。
現代では、死者は北枕にいたします。
ですから、古墳は、北に頭を向けているのかと思っておりました。
が、違うようです。
円墳、方墳は、どっちが頭か尻尾かわかりませんが、前方後円墳は、はっきり前方といっているのに。その古墳が、あっちこっち向いてます。
なぜだろう。
前方後円墳は、その近くの山に向いている。山と古墳とはペアを組んでいるという説があります。その山に向くから、結果、古墳の向きはばらばらになるのだそうです。
へえ、そうなんだ。
そんなことなら、こういう説はいかがですか。
被葬者は、それぞれ星を持っているのですよ。
守り星ですわね。
で、その人間が、生涯を終えたとき、その星に帰るのです。
ですから、その星に向かった墳墓を造るのですよ。だから方向はばらばらなのです。
By妻 -
真ん中の将軍山古墳。90mの前方後円墳。6世紀後半だそうです。
あとで行きます。 -
稲荷山古墳。
全長120m、最初の100m超の古墳です。そのあと約100年間にわたり、9基の大型古墳が造られました。 -
前方部。たしかに四角い。
-
後円部にあるモヒカンカットみたいなのは何だろう。まさか古代人の髪型はモヒカンカットだった?
この後円部では、1968年(昭和43年)未盗掘の木棺が発掘され、副葬品に有名な金錯銘鉄剣がありました。
県立さきたま史跡の博物館にオリジナルが展示されています。 -
鉄の酸化を防ぐ特別なケースだそうです。
-
超国宝級の文化財ですが、写真撮影もOKです。
理由もはっきりしないのに、とくかく撮影禁止の博物館、美術館が多い中で、非常にうれしい。(陰の声、たいしたものがないので、恥ずかしいから撮影禁止にしたんだべ)
117文字が彫られていました。 -
表側冒頭、
★辛亥年七月中記乎獲居・・・★
まで写っている。写真をとるとき焦ったので、連続しません。
辛亥年は471年に相当するそうです。この鉄剣の製造年月。
「辛亥年七月中、記す。乎獲居(臣)は・・・」 -
★足尼其児名弖已加・・・★
「足尼」はうえから続いて「ひこ」
「其児」其の児
「名弖」名は
「已加」あとに「利」で、たかり
「其の児、名はタカリ(のスクネ)」だそうです。
5世紀の日本語だ。語順は同じ。
以下写せなかった裏面も加えると、
「471年7月中に記す。乎獲居(おわけ)の臣の一族は先祖代々大王(天皇)に杖刀人(親衛隊)の隊長として仕えた。
乎獲居(おわけ)の臣は、獲加多支鹵(ワカタケル)大王が斯鬼(しき)の宮で天下を治めるのを補佐した」
というような意味になるそうです。
「ワカタケル大王」は雄略天皇に相当します。
乎獲居(おわけ)の臣は稲荷山古墳の主で、5世紀後半にこのあたりを支配した豪族の族長というわけです。
卑弥呼の時代から200年です。
魏志倭人伝の華奴蘇奴国からも200年。
華奴蘇奴国と乎獲居王国の関係を研究した学者さんを見つけられませんでした。だから何を書こうとカラスの勝手。
わずか40キロ足らずのところにこんな巨大なクニが出現したなら、華奴蘇奴国も当然その一部でしょうね。中小古墳は造られ続けたので、消滅したわけではないみたい。
一書に曰く、
ここ埼玉の勇者が、雄略天皇の右腕であったというのも、すごく不思議で、ヤマトと付き合いがあったんだぁ?という気持ちですが、あったんですね。
この若者は、ひとたび郷関を出でて、二度とふるさとの土を踏まなかったのか。
死してのち、その大刀のみが帰ってきたのか。
お、おー、ヤマトタケルの最期ではないか!
ふるさとを目前に倒れたのかも。
その形見の大刀。
はたまた、行ったり来たりしたのか。
陸路を?
その当時の埼玉人は、今ならケニア人並みの健脚揃い。フルマラソン2時間切って走っていたかも。
やっぱり、「おばば水運」でしょうね。祖母島発の。
川を下り、海に出たのではないか。
とすると、夜の航行もあったかもしれません。ということで、星は大切なのです。
太陽も大切ですが、これは、農民など、移動しない人の神。
移動する人々には、方向を示す星は、例えば北辰信仰のように、信仰に値するものであったことでしょう。金星が守護神の若者、火星に護られた武者。雄略天皇の親衛隊長の星は?
By妻 -
将軍山古墳です。
6世紀後半の前方後円墳です。1987年(明治20年)未盗掘の横穴式石室が発掘され、馬具や鎧が出土しました。将軍山古墳展示館 名所・史跡
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その複製品を展示しているのが、将軍山古墳展示館。
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復元された石室の内部。
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埋葬者までリアルに再現されています。
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夜は来たくない。
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馬具、武具の複製です。
これを元に再現されたのが、 -
乎獲居から100年、3,4代あとの族長さん。
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馬は小ぶりです。古代馬のサイズも忠実に再現されているのです。
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乎獲居さんも華奴蘇奴さんもこんな面構えでありました。
乎獲居の臣が雄略天皇に仕えたとき、華奴蘇奴の族長は家来としてくっついていった、ということにします。
雄略天皇の宮は奈良県桜井市の泊瀬(はつせ)朝倉宮だといわれています。
脇本遺跡です。
「諸国寺社参り 大和国3 脇本春日神社、向原寺、甘樫坐神社」
https://4travel.jp/travelogue/11695006 -
遺跡ですから、今はただの田んぼです。
-
雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡です。乎獲居と一緒に我らが華奴蘇奴の誰かが歩いていた、と思って下さい。
乎獲居さんと華奴蘇奴さんが七輪でやきまじゅうを焼いていたら、雄略さんが通りかかった。
「うまそうな匂い、ひとつくれんか?」
「どうぞどうぞ」
「ん? 中に何もはいってないぞ」
「そういうものなのです」
「なんかこう、空虚感のあるくいものだな。あっ、そこのかっこいい籠をもった娘さん、名前はなんていうの? やきまんじゅう食べていかない?」
「篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子云々」
(万葉集1-1)
なんちゃって。
一書に曰く、
雄略天皇といえば、古代史のヒーローで、たくさんの物語がありますが、私の好きな話は、赤猪子(あかいこ)のお話。
雄略天皇は、あっちこっちで、「こもよ、みこもち、、、」とか歌って、女の子とみたら声かけてまくってたみたいで、赤猪子も声かけられました。迎えに行くから待っててねって。
待ってたのに、チャラ男の雄略さんは、すっかり忘れて、待ち続けた赤猪子さんは、大婆さんになってしまったんですって。
ひどい話でしょう。女の人生なんと思ってるのか!
そこでね。すごいのは、赤猪子さんは、押しかけて行くのですよ。
私の人生どうしてくれたのよ!ってね。
赤猪子さんが、時の大権力者相手に、泣き寝入りしなかったところが、よし!
大いによし!
ところで、チャラ雄略くんが、女の子に声かけまくってたときに、この埼玉の若者、乎獲居の臣タカリは、側にいたのね。
「あ~ぁ、又やってるよ。」と思ったのか、いっしょにナンパしたのか。
想像しながら見渡すと、彼方に、コンニャク工場の大看板が、新しい埼玉を背負って建っているのでありました。
By妻
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