
2018/08/14 - 2018/08/14
737位(同エリア4354件中)
くわさん
生まれも育ちも京都市右京区嵯峨野〇〇町の私。周りの住所表記は「嵯峨野」、出身小学校も「嵯峨野」小学校、最寄りのバス停は「嵯峨野」、嵐電の最寄り駅も「嵯峨野」駅と嵯峨野という地名が当たり前のように染み込んでいましたが、小学生高学年の頃、観光客が多数訪れるようになって、事態は変わってきました。
ガイドブックなどで大覚寺周辺の北嵯峨や、天竜寺から化野念仏寺付近の散策ルートを嵯峨野巡りと称するようになってから、観光客がバス停「嵯峨野」停留所や嵐電「嵯峨野駅」で間違えて降りる人が増えだしました。
本来ならガイドブックの表記を変えるのでしょぅが、何を思ったか本家本元のバス停や駅名を変えることになってしまったのです。バス停は「生田口」、嵐電の駅名は「有栖川」に変えられてしまいました。
これで観光客は間違えて降りることはなくなったのですが、今度は私たち地元の人間が混乱したり違和感を覚えてしまいました。
しかし、行政的な地名は変えられることなく未だに京都市右京区「嵯峨野」、小学校も嵯峨野小学校のままです。
出身地を言うと「嵯峨野」という地名を聞いて「いいところですね」と言ってもらえるのですが、「あの有名な観光地の嵯峨野ではなく、もともとあったオリジナルな嵯峨野です」、というのも面倒なので「ハイ、いいところです」と答えています。
もう京都を離れて数十年、今は根ほり葉ほり「あの観光地の嵯峨野というのは間違いである」ということもなくなりました。
お盆で実家に帰省した時、そんな「嵯峨野」を早朝ジョギングで走ってきました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 新幹線 私鉄
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さて実家をスタート。
江戸時代、嵐山から運河が開通し、その運河で保津川上流から材木がたくさん運ばれ(保津川下りの原型)、この辺りは製材所がたくさんあり、ここも私が子供の頃は材木置き場でした。
材木は江戸時代はその運河で運ばれていたのですが、昭和になると材木は船で新木場とか舞鶴あたりの海に運ばれ、そこで養生されたものがトラックでここまで運ばれるようになりました。この辺りはそんなしばらく海に漬けられた材木が積み重なり、内陸部なのに海の香りが漂っていました。
今ではその製材所もほとんどなくなり、スーパーやユニクロ、天然温泉に姿を変えてしまいました。
最近このような「千代の古道」と書かれた石標が建ちだしました。千代の古道、平安貴族がお月見や狩りなどで大覚寺周辺へ行くとき通った道です。
子供の頃、毎日のようにここを通っていましたが、この道が千代の古道と呼ばれているとは知りませんでした。
確かにこの道の先には千代ノ道町という町内がありますが。
https://www.kyoto-arc.or.jp/museum/map/2tiyo.pdf
ちなみにこの写真の左手が名前を変えられてしまったバス停、旧嵯峨野(現生田口)停留所。 -
細い道を走りやってきたのは嵐電、旧嵯峨野駅(現有栖川駅)
嵐電という名称も私たちは昔から使っていましたが、当時は正式名称「京福電鉄」で、今では「嵐電」が正式名称になったようです。
高校への通学はこの駅から乗車していました。有栖川駅 駅
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有栖川駅にも千代の古道の石標が建っていました。
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有栖川駅の踏切を渡り更に北上すると交差点。ここを左に曲がります。
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この辺りは小学校の同級生が住んでいたところでよく遊びに来たところです。
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更に進むと今度は別の石標。「左あたごみち」と書かれているようです。愛宕参りの参道だったのでしょう。
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この川は有栖川。先ほどの駅名になった川です。
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昔ながらの街道の面影が残っています。
ここまで来ると嵯峨野小学校の学区から外れるので、未知の世界にきた感覚です。 -
再び有栖川を渡り、新丸太町通りを通過します。
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新丸太町を通過し更に北上。なんの変哲もない普通の街並みを走ります。
左のお寺は遍照寺。遍照寺 寺・神社
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お稲荷さん。
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一条通りに出てきます。ここまで来ると・・・
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急に景色が変わります。
広沢の池。子供のころ、この山が山火事で焼け、山の中腹がハゲ頭のようになってしまいました。私が高校生の頃までその痕跡が残っていましたが、今ではそのハゲの痕跡すら残っていません。広沢池 自然・景勝地
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こちらは一条通の山越方向。
君が代の歌詞に出てくるさざれ石はこの先にあります。 -
広沢の池沿いのこの道を北上します。
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この池も時代劇で良く登場するところです。
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児(チゴ)神社。昔はもっとうっそうとしていました。
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さて、ここまで来るといわゆる「嵯峨野」の光景が広がります。(ホントはここで嵯峨野の地名を使うのは嫌なのですが。)
この辺の行政上の住所は「北嵯峨」になります。 -
遠くには五山の送り火で最後の五番目に点火される鳥居。
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この道は子供のころカブトムシ取りに勤しんでいた頃、足繁く通った道です。
当時はもっと広く感じましたが、今、改めて見ると意外と狭いですね。 -
ここに広沢の池に突き出た島があります。
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グーグルマップで見ると「観音島」となっています。
そしてここも時代劇などで良く登場します。仕事人が依頼を受ける場所とか。
最近ではNHKの連ドラ「あさが来た」であさの夫、新次郎が三味線を弾いていた場所です。
https://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=3404 -
その先に祠があります。
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壹美白辨財天社、そんな名前だったのですね。知りませんでした。
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先ほどの元ハゲ山と、必殺仕事人や水戸黄門のお銀などが活躍したガマの群落。
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更に奥へ進みます。
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広沢の池沿いにあった四阿。昔はこんなのはありませんでした。観光客が休むために作られたのでしょう。
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さて、ここは私にとって懐かしいところ。
子供の頃、カブトムシ取りはいくつかのポイントがあり、そんなポイントをつなぐルートが出来上がっていました。
ここはその第一のポイント。この先に自転車を停めて向かったのは・・・ -
この先のクヌギ林。写真で見ると広い道ですが当時はあぜ道。私有地なのでこの道には入れないように今はなっています。
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そのクヌギ林は広沢の池沿いの例のハゲ山の麓にあります。
カブト虫取りは夜から早朝、まだ暗いうちにここにやってくるのですが、懐中電灯一つでこの林に入るのはかなり勇気がいりました。
不気味なウシガエルの鳴き声、もし、女の人とすれ違うようなものなら・・・考えただけでもゾッとします。 -
こちらは愛宕山・・・は山の中に隠れておっぱいのような特徴的な形をした山頂は見えません。
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この先は第二のポイント。ここも街灯一つない森の中の昼間でも不気味な道です。
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ちょっと後ろを振り返ります。
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更に先に進と竹林が見えてきました。
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左手には広々とした田園風景。
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こちらは嵐山の方向。
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ここを左に行くと第三ポイント。クヌギの木が一本だけありました。今もあるのでしょぅか?
今回は右の道へ行きます。 -
その先も左は田園風景、
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右は山林が続きます。
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竹林が見えてきました。この先で右に曲がると・・・
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後宇多天皇陵があります。
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後宇多天皇陵。小石が綺麗に掃き清められています。
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ちなみにこの後宇多天皇陵付近が第四のポイントでした。良く考えたらすごいところを遊び場にしていたものですね。
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この写真の左手にクヌギの木がありましたが、本当に不気味な所でした。
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特に雨が降った後など、この竹がだら~んと道スレスレにまで垂れ下がってきて、まるで幽霊がだら~んと手を下げているようでした。
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そんな光景を真っ暗な夜中に見るのは、肝試し状態ですが、それでもたくさんのカブトムシがとれるので、毎晩日参したものです。
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竹林を抜けると京都市内が一望できるポイントに出てきます。
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こちらは広沢の池方面。例の元ハゲ山は手前の山の影になって見えません。
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さて、先へ進みましょう。
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よ~く見ると京都タワーが見えます。わかりますか?
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この辺まで来ると、民家が見えてきます。
広沢の池周辺は風致地区で建物規制がありますが、この辺だと住宅が建てられるようです。 -
そんな羨ましい環境の住宅地を通り抜けると・・・
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直指庵。早朝なので門は閉じています。
直指庵 名所・史跡
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道路には子供たちが描いた落書き。昭和の時代がここには残っているようです。
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お次にやってきたのは嵯峨天皇陵。実はこの前は何度も通りましたが、まだこの階段を登ったことがありません。行ってみましょう。
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しかし、登り出したもののつづら折りでず~っと続く階段、どんだけ続くねんと諦めかけたとき、ようやく天皇陵に到着です。
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嵯峨天皇陵。こんなに高いところにあったとは。
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天皇陵からの見晴らしは良くありませんが、途中のつづら折りの階段からは京都市内が一望できます。
こちらは広沢の池。 -
更に広角に京都市内。写真左に双ヶ丘(ならびがおか)。
中学生の頃、双ヶ丘中学校とサッカーの試合をしたとき、彼らが持ってきたサッカーボールに書かれていた「マヌヶ丘」の文字を見て、そのように読んでしまいました。「双」の字を書くときは注意しましょう。 -
京都市内。
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京都市内南方面。
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嵯峨天皇陵。初めはこの階段を登ってすぐにあるのかと思っていましたが、意外と時間が取られてしまいました。
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時刻は7時、大覚寺辺りから帰りましょう。
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道端に何気なく立つお地蔵さん。
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大覚寺にやってきました。何年ぶりでしょうか。
幟の文字を読むと「いけばな・・・千二百年」と書かれていますが、流石京都、歴史の古さの桁が違います。 -
大覚寺の門も閉まっています。
この先に境内や大沢の池があります。
必殺仕事人の「ヒデ」はこの大覚寺の水路を走り回っていました。大覚寺 寺・神社
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この川は有栖川。右手に大沢の池がありますが、大覚寺の境内に入らないと大沢の池は見えません。
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この辺は虫取りルートからは外れますが、ここには蛍がいて、一度だけ来たことがあります。しかし、ここよりももっと大量に飛んでいる場所を見つけてからは、ここには来ていません。
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再び一条通りに出て、広沢の池方面に。田んぼの中にかかしが並んでします。
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天気は良くなってきましたが、愛宕山の山頂だけは雲がかかったままです。
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再び広沢の池に戻って来ました。北嵯峨の黄金ルートを一周したことになります。
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その後往路と同じルートで帰ってきました。走行距離10.2km、嵯峨天皇陵で時間がかかってしまい1時間15分もかかってしまいました。今度ここに来られるのはいつの日でしょうか・・・
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