長崎市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
≪2017.Sep≫あみんちゅ弾丸Bus&amp;Air旅壱の②~長崎は今日は雨だった・中編~<br /><br />運が良いのか悪いのか無理矢理休暇取得をこじつける『理由』の発生による8月16日に受験した損保試験の不合格という結果。本来だったら勉強しろよ!っとなる訳ですが、すぐに再試験の日程が決まらなかっこともあり余裕を見て連休を取っていたため、結局9月26日昼イチに受験しその後2連休が決定しました。スカイマークの『いま得』運賃と、高速バスの割引クーポンを組み合わせることのできた今回の弾丸旅行、世界遺産『軍艦島』への上陸ツアーに合わせて手配しましたが、まさかの不完全燃焼…。かと言って時間は止まってはくれないので次の目的地を目指します。長崎の街中を始めて歩く今回の旅、坂道の多さにひぃ~ひぃ~言いながらグラバー通りを歩いて大浦天主堂の入口へと到着します。さぁ道だけではなく施設内も坂だらけの場所ゆえどんな行程になったのでしょうか?それでは始まります♪<br /><br />平成29(2017)年9月27日水曜日<br />大浦天主堂 13:37<br />  《入場料:600円》<br />      14:05<br />グラバー園 14:09<br />  《入場料:610円》<br />      16:41<br />大浦天主堂下 16:51<br />       16:58<br />築町 16:58<br />   16:58<br />思案橋 17:10<br />    17:26 15<br />松山町 17:41<br />    17:45<br />爆心地公園 17:50<br />      18:20<br />平和公園 18:35<br />     19:10<br />松山町 19:20<br />    19:30<br />長崎駅前 19:45<br />中華菜館かたおか 20:03<br />  《夕食:皿うどん定食(670円)・コーラ(250円)920円》<br />         20:40<br />長崎中央郵便局 20:45<br />        20:47<br />長崎I・Kホテル 20:55//<br />  《楽天トラベル手配:5,530円(割引後:4,430円)》<br />  《朝食付きスタンダードプラン喫煙ツインルーム》<br /><br />大浦天主堂へとやってきました。国宝に指定されている日本最古のキリスト教建築物の正式名称は『日本二十六聖殉教者堂』と言います。私自身の行動範囲にカトリック関係の建物がないので知らなかったこともあるのですが、最初はカトリックの長崎大司教区の司教座聖堂(布教の中心)とされていたこともあるものの、昭和37(1962)年1月1日に浦上教会に変更されています。元治2(1865)年に大浦天主堂が完成した際に日仏修好条約に基づいてフランス人の礼拝堂として建設され、フランス寺とも呼ばれていました。建立後程なくして浦上の潜伏キリシタンが当時のプティジャン神父を訪問し、密かに信仰者であることを告げた『信徒発見』が起こります。キリシタン禁教下でのこの出来事は会派の中では大きなニュースであったとされ、それを伝え聞いた教皇ビオ9世に『東洋の奇跡』と呼ばすことになりました。長崎に原爆が投下された際は爆心地からの距離もあったことから倒壊を免れ、その後昭和50(1975)年11月3日にカトリック大浦教会が新築され、それまで問題になっていたミサの途中に観光客が見学するなどし、典礼の妨げになっていたことが解消されることによって見学専用となり、今日に至っています。<br /><br />入口で拝観券を購入し、石段を歩いて行きます。その途中に歴史的発見であった『信徒発見』のレリーフが置かれ、この史実を伝えています。そして更に石段を上ると国宝であり世界遺産登録がされた真っ白な『大浦天主堂』の建物に辿り着きます。見学専用とは言えど由緒ある建造物であることからミサも行われることもあり、軽い気持ちで訪れる場所ではありません。当日はミサなども行われておらず、椅子に腰掛けることもできました。無神論者なのか多神教者なのか自分でもわかりませんが、厳かな雰囲気の中でも心が休まります。こういう場合クリスチャンのように『十字を切る』のが作法なのか、一般的な『黙礼』をするべきなのかを悩みましたが、まあ信者でもないのにという思いから黙礼だけして出て行きました。<br /><br />本年11月1日より大浦天主堂の外壁工事と隣接している旧羅典神学校が資料館開設準備のために閉鎖されます。そして平成30(2018)年4月1日より新たに『キリシタン博物館』としてオープンするそうですが、それに併せて入場料も現行の610円から1,000円に値上げされるそうです。勿論それだけの価値があり、運営や施設の維持に費用が掛かることを考えれば致し方のないことなのかも知れません。ただ長崎の観光地はなにを取っても『お金がかかる』というイメージがあり、それをまた付け加えるかのような印象を与えないのか…ということも懸念することではあります。何をするにしてもお金がかかるものの、ただ歩いているだけでも観光できてしまう街でもあるため、入場者減に繋がらなければ良いかとも思いはしましたが…。<br /><br />そんな余計な心配をしつつ大浦天主堂を後にしてグラバー園へと向かいます。大浦天主堂は急な石段でしたが、グラバー園に至る道も坂があります。入口付近にはゆるキャラ『さるくちゃん』が待ちかねており、ここは修学旅行をはじめとする『団体』の集合場所も兼ねているようです。エスカレーターで上がると第1ゲートのチケットブースがあり、入館料610円を支払います。結構お金がかかるものだな…と思いつつ、ここまで来たからにはという思いもありました。坂の中腹から頂上部にかけて建造物が建てられているため、通常だとまた坂上りかよ~ってなるのかも知れませんが、それは2基の『動く歩道』があるため私のようなヘタレでも大丈夫でした♪<br /><br />最初の動く歩道を通過すると右手に広がる広場があります。三浦環像広場と称する広場があり、旧自由亭を利用したカフェもあります。ただ順路としては『上から』見るようになっているため、園内マップ通りに歩いた方が賢明です。そしてもうひとつ動く歩道を乗り継いだ後、車いす用のスロープがある階段を上って行きます。そしてグラバースカイロード方面から入場する第2ゲート付近の山頂部から、建物を見学して行きます。<br /><br />旧三菱第2ドックハウス、長崎港内にある旧三菱重工業長崎造船所第2ドックにあったものであり、ドックにて修理を受けている間乗組員が滞在した場所になります。今は閉鎖されていますが、その昔あの大和型戦艦2号艦の『武蔵』が建造されました。この時は新しく新造されているので乗組員がドックハウスに入ることはありませんでしたが、その歴史を感じるには十分な建物でした。またグラバー園の『頂上』に移築されているため、2階部分のテラスからの眺めは最高でした!もっとも天気が良かったらもっと素晴らしいものだったのだろうと後ろ髪ひかれる思いもなきにしもあらずでしたが…。また旧三菱第二ドックハウスの付近には、長崎の港町を髣髴させる錨の他に外国人居留区の石碑も残されています。もっとも移設されたものなのですが…。<br /><br />その隣には高島流和砲が備えられていました。江戸末期に活躍した高島秋帆(たかしましゅうはん)所縁のもののようですが、平和とされる中に胡散臭い出来事が頻発している今日故、長崎港に向けて置かれている物が強ちモニュメントだけのように見えないところもありました。<br /><br />最上部から少し下りたところにあるトイレと喫煙所、一服タ~イムにはうってつけの場所です。ここではボランティアガイドさんが常駐しており、写真を撮って貰えます。定期的に旅に出るようになってから『自撮り』以外の自分の写真はなかったのですが、ここに来て初めて撮って貰いました。ただ~そんなに難しくないと思えるiPhoneSEを敢えて渡したのですが、まさかのバーストモードが起動し、10枚程の写真が撮れてしまいました(笑)。こういう時はデジカメを渡した方が良いのか?とふと思いました。順路通りに歩いて行くと現在ガイドさんの詰所となっている旧長崎高商表門衛所、そして写真撮影用の貸衣装屋になっている旧長崎地裁長官舎を経て、旧ウォーカー住宅の中を通って行くようになっています。ただ傘を持って案内図を見ながら行くのは結構苦労するもので、そのまま素通りしてしまいます。明治期の建物ゆえ床が『板張り』となっており、気を付けないと足元が滑ることもあり注意をしながら歩かないといけないため、順路が変わってしまうことくらいは仕方がありません(泣)。<br /><br />そして旧リンガー住宅、フレデリックリンガーの次男が住んでいたこともあり、リンガー(弟)邸とも言われていました。そしてその奥の旧オルト住宅、オルト商会を設立し製茶業を行っていたウィリアム・ジョン・オルトが建立しましたが、結構早いうちに売りに出され、一時フレデリックリンガーの長男が住んでいたことからリンガー(兄)邸とも呼ばれていたこともあります。角柱と丸柱の違いですぐにわかりますが、かなり同じような建物を見続けていると感覚が麻痺してきて、すぐには気づかなかったりしたりもします。<br /><br />順路の一番奥には旧スチイル記念学校があります。息子を早くに亡くしたスチイル先生の寄付によって建てたものは、長崎の名門男子校であった東山学院が利用していました。まあ今の学校とは規模も違うため、一見するだけでは元学校だとはわからないところもありますが、それは雰囲気で理解する他ないでしょう(笑)。<br /><br />そして順路の一番奥から今来た道を戻って行くと、先ほど順路を間違えた『祈りの泉』へと出て行きます。キリシタン禁教下での『隠れキリシタン』の苦労をモニュメント化されたもののようですが、本当に長崎にはある出来事を『偶像化』することが当たり前なのかと思う位史実に基づくモニュメントが多いことに気付きます。そしてその奥には『マダムバタフライ』のモデルとなった三浦環と、オペラ『マダムバタフライ』を作ったプッチーニ像が建立されています。ただこの二人には直接の繋がりがないとのこともあり、『離れて』像が建立されています。28mmというアナログカメラの広角でも写真を撮るのはホントに難しい場所でした。<br /><br />ただ修学旅行などの『集合場所』伴っているこの広場、景色は最高に良い場所です。ただ今回は天候に恵まれていないためどんよりした雲が写真の上部1/3を占めてしまっています。この類の博物館一度訪れれば私的には十分なのですが、その『景色』を確認するための再訪が必要だとは正直思ってしまいました…。ただ世界遺産のジャイアントレバークレーンは少しズーミングするとちゃんと見ることができたので、午前中の悪天候の軍艦島ツアーへの参加より、最初からグラバー園に来ておいた方が良かったかも…なんていう思いもこみ上げてきました。<br /><br />そして西洋料理発祥の地碑と旧自由亭、謂れはともかく一息つくのには良いところだとは聞いてはいましたが、時間も押していたこともあり、なによりここで足を止めると先に進まないのでは…という気持ちが先に立ちます。グラバー園自体に再訪をせねば…という気持ちにはなっているので、次回のお楽しみにとっておいて先を急ぐことにします。<br /><br />そして最後にグラバー園の名前の由来にもなっている『旧グラバー住宅』へとやってきます。トーマス・ブレーク・グラバーの胸像が長崎港を見下ろす位置に建立されており、長崎の近代史に於けるグラバーの功績の大きさを窺い知ることができます。グラバー住宅そのものが単独の博物館なっていることからその重要さがわかるのですが、確かに炭鉱や造船事業など日本の近代化に尽くしたことはわかるものの、武器商人としての側面から薩長や坂本龍馬の亀山社中に西洋の武器を流した事実は間違いありません。勿論それによって明治維新へと時代が前進したことは疑う余地はないものの、やは武器というものが人を殺戮する道具であることは間違いないことなので、その部分がどうしても私的に引っかかってしまいます。結果としてキリシタン禁教令を敷いていた古い考えの江戸幕府は、大政奉還と王政復古の大号令によって廃絶し、天皇主権の新政府樹立へと進みます。しかしその過程に於いても鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争によっても多くの血が流されています。<br /><br />個人的な解釈論ではありますが、武器を『脅威』に見立てて権力を誇ろうとする国もあります。そして人間が編み出した究極の武器である『核兵器』が実戦で使われて多くの被爆犠牲者を出したことも紛れもない事実です。これを結びつけるのは強引なのかも知れませんが、やはり武器の『開発や売買』で巨万の富を得た事実があれば、それが歴史上の功労者だとされてはいても素直に頷けない自分の『想い』に気付かされます。グラバーの功績がとてつもなく大きいものだったとあちらこちらで書かれている中で、私自身はそう思いました…。<br /><br />まぁ深く考えても始まらないので一通り見学を済ませた後、坂を降りて行きます。ヘタレには坂道を下りて出て行くスタイルがホントに似合っています(笑)。旧グラバー住宅の門を出たら終わりと考えていましたが、その順路に園内施設がひとつ残っていました。長崎伝統芸能館、長崎市の秋の大祭である『長崎くんち』を中心とした資料館になっています。洋館が立ち並ぶグラバー園とは趣が異なっている場所だと思いますが、保存されているものは紛れもない『実物』ゆえ迫力も違います。その証拠にいくつかの『傘鉾』は祭り本番に向けて出張中と書かれており、長崎市に370年あまり根付き、市民の祭りにかける意気込みが伝わってきます。ここで初めて知ったことがありました。長崎くんちの『くんち』って旧暦の9月9日に行われていたことに起因し、9日→くにち→くんちと変化したものであるということ。なにかすごい『謂れ』があるものだとばかり思っていたので意外でした。でもまたその理由が一般的で良いですね♪<br /><br />二階から入場し一階から退出する形で長崎伝統芸能館を出るといよいよグラバー園ともお別れです。ゲートを潜ったのは14:10、出口を出たのが16:43…所用時間2時間半というのは、決して長い時間滞在していたわけではありませんが、なんせ雨の中だと…ちょっとどころかかなり辛い園遊でした。そして行きに上ってきたグラバー通りを下って行きます。ひと際目を惹くANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルを横目に歩いて行きます。この界隈には他に立寄る場所はいくつでもあるのです今回は時間もないので先を急ぎます。長崎ちゃんぽんと皿うどんの発祥の地とされる中華料理店四海楼は、昼と夜営業の間の時間で開いていません。まぁ次回の楽しみとし残しておき電停へ向かいます。<br /><br />大浦天主堂下電停へと戻ってきて次の目的地を目指して移動することにします。この長崎電気軌道の石橋支線は大浦海岸通電停先~石橋電停間が単線となっています。ただ田舎の単線ならば線路は1組ホームも1本ですが、さすが都市部だけあってホームは二面ありました。そして5号系統蛍茶屋行きに乗車しますが、ここで少し勘違いをしていたようです。公会堂前電停で3号系統に乗り換えて松山町電停を目指すところが、行きと同様築町電停で乗り換えてしまいそれも方向の違う正覚寺下電停行きの1号系統に乗車してしまいました。前に停まっていたため何も考えず急いで乗車してしまい、観光通電停を過ぎて初めて『乗り間違い』に気付きました。そして次の思案橋電停で慌てて下車し、ここで初め予定していたルートが今利用できないことを思い出します。<br /><br />蛍茶屋発赤迫行き3号系統は、昨年の公会堂前電停付近の脱線事故の影響で蛍茶屋方面行は走っているものの赤迫方面行は運休中でさあどうしよう…になるのですが、その辺りは一日乗車券がアプリ購入できる長崎電気軌道のこと。スマホ操作ひとつですぐにわかります♪ただ単純に思案橋から1号系統の赤迫行きに乗れば済むことが判明します。逆方向の思案橋電停ホームに移り、1号系統赤迫行きの表示をちゃんと確認して乗った1号系統赤迫行きに揺られること約30分、なんとか日暮れまでに平和公園最寄りの松山町電停に到着できました。ふ~っ…(汗)。<br /><br />電停で降りて国道206号線を渡るとすぐ長崎平和公園はありました。交差点から左手には願いのゾーン、右手には祈り・学びのゾーンが拡がっています。右手方向に進むと同じように歩いてきたおばさんから祈りのゾーンにあるものの概略を教えて貰います。勿論平和会館は閉まっているのはわかっていますが、アウトラインがわかったためピンポイントで遺構を巡ることができます。こういう時の地元の方のご意見はありがたいです。ありがとうございました♪<br /><br />そして最初はやはり原爆落下中心碑に向かいます。昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、テニアンから原子爆弾ファットマンを搭載したチャールズ・スウィーニー少佐が操縦するB-29爆撃機ボックス・カーは第一投下目標であった北九州(当時の小倉市)に於いて、投下目標地である小倉陸軍造兵廠が煙によって目視確認ができなかったため、爆撃航程を3度やり直すも失敗します。その間に燃料を予想以上に消費し、加えて燃料系統に異常をきたしたために予備燃料に切り替えざるを得なくなります。投下目標が掴めぬまま時間が過ぎて行き、その間に天候は悪化と一途を辿り、その上地上からは日本軍の高射砲攻撃が行われました。加えて海軍築城基地から零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきたことも確認された段階で、投下目標を第二目標地点である長崎に変更し午前10時30分頃北九州上空を離脱しています。<br /><br />長崎で天候観測機ラッギン・ドラゴンから『長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり』と報告は受けていたものの、それは第一目標地点への投下予定時刻のことであり、約1時間10分遅れてボックス・カーが長崎上空の到着したときには既に高度1,800~2,400mの間が80~90%の厚い雲の層で覆われていた状況だったとされています。機長のスゥイーニーと兵器担当のアッシュワースで方針が異なっていたものの、目視爆撃が不可能であれば太平洋に原爆を破棄せねばならないとの命令から、なんとか投下させたいアッシュワースは命令違反を承知でレーダー爆撃を行おうとしていた矢先に、一瞬の雲の切れ間から長崎市街が見えたことを見逃さず、長崎市街地の確認を宣言します。しかし当初の目標地である中島川にかかる常盤橋を捉えられないまま、『広大な広場』を『軍需工場』として臨機目標とし、高度9,600mからプルトニウム型ファットマンを手動投下させました。放物線を描くように落下して行ったファットマンは、市街中心部から北へ約3km逸れた松山町171番地の別荘のテニスコート上503m±10mで炸裂しました。<br /><br />ヒロシマにはウラン235の原子爆弾リトルボーイがTNT火薬15,000t相当のものだったのに対し、ナガサキの投下されたファットマンはプルトニウム239の原子爆弾であり、破壊力はTNT火薬22,000t相当のものでした。約1.5倍の破壊力を持った原子爆弾が投下され、人口24万人と言われている長崎市民のうち74,000名が昭和20(1945)年末までに被爆によって亡くなられています。<br /><br />人によっては原子爆弾の投下はヒロシマの成功に対しナガサキは失敗だったとの説を唱える者も少なからず存在します。それは単純に犠牲者と破壊された家屋数を照らし合わせたものと、投下された場所の『特徴』とも言える『被害の広がり』等の表面的な理由からだと思われます。確かにナガサキの爆心地である松山町は長崎駅から一駅離れた浦上地区にあり、目標地にするにはあまりにも目星となる建造物がなかったことは事実です。ナガサキの目標地点は常盤橋から胆振橋に至る長崎市街中心部と言われており、実際に投下された場所とは約3km離れています。これは実際に米軍の資料から予定通り目標地に投下すれば甚大なる被害が出るエリアの北の端にあたる場所が爆心地となっている事実からも想像はつくことでしょう。また丘陵地の多い長崎ゆえ、被害も『局所的』になったとも言われています。しかし現実には浦上と長崎中心部に於いては遮蔽するものはなく、その被害はほぼ市内全域に渡っており、それこそある一部のエリアにある大浦天主堂や旧グラバー住宅等有名な歴史的建造物が倒壊を免れたことが『広範囲にわたった被害がなかった』と曲解される根拠にもなっているようです。<br /><br />また言葉は悪いですが『運が悪い説』も根強く言われています。元々広島に次いで原爆投下目標とされた都市は小倉(現北九州)です。諸説はありますが、前日の空爆によって発生した火災による煙が上空に立ち込め、結果として投下目的地を捉えることができずに免れたと言うものです。これには新たな意見として八幡製鉄所でヒロシマの教訓を知っていた従業員が、コールタールを燃やしたとする新聞記事も出ています。いずれにせよ約45分間原爆投下の再投下を試みるも履行できず、結果として第三目的地である長崎に投下されることになりました。ヒロシマに比べると3時間近いタイムラグが生じているひとつの理由として挙げられていることでもあります。<br /><br />しかし原爆投下によって受けた被害は、規模の差はあれ同じものです。熱線に爆風、そして急性放射能障害等も含めそうでしょう。熱線に焼かれて喉が渇き、付近を流れる川に顔を突っ込み、そのまま息絶えた遺体が山積みであったことはヒロシマでもナガサキでも変わりません。<br /><br />原爆による犠牲者数は昭和20(1945)年年末まででヒロシマ12万3千余名に対しナガサキ7万4千余名となっており、人数こそ長崎の方が少ないもののその後5年間ではヒロシマ20万余名、ナガサキ14万余名となっています。当時の都市人口は広島42万人に対し長崎は24万人だったことを加味すると、ナガサキでは住民の約6割が被爆を理由に亡くなっています。この比率の差には諸説ありますが、長崎に投下された『プルトニウム型原子爆弾』の破壊力の差ではないかという説を私自身も持っています。爆風や熱線といった『物理的理由』によるものが死因であれば、長崎の特徴的な地形によって幾らかでも軽減されたという説は成り立ちます。しかし被爆後時間を置いてからの死者数が増加した理由は、『物理的理由』ではなく放射線障害という『化学的理由』に起因するものとするのことによって、年末までといった短期間ではなく5年間の被爆死者数の割合が高い『事実』も説明がつくと思われます。<br /><br />ただ誤解を受けないために何度も言いますがヒロシマとナガサキを直接比較してどうこう言うつもりは毛頭ありません。規模的なものは違うのかも知れませんが、被爆によって亡くなられた方々すべて、現在生きているものが想像のつくレベルではない状況に突如襲われ、自らの意志と関係なく死へと導かれたことは紛れもない事実ですから。<br /><br />70余年前の夏の日に、この場所上空で炸裂した原子爆弾ファットマン。見かけの平和かも知れませんが、そんなことも想像できない今日に、目の前にある『原爆投下中心碑』を見ながらそう思いました。<br /><br />碑に黙礼をして隣の浦上天主堂遺壁へと向かいます。爆心地から僅か500mという至近距離で被爆した浦上天主堂は、ほぼ原形を留めぬまでに破壊されました。しかし信徒の協力もあり翌年には仮聖堂が完成し、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存されていました。昭和33(1958)年には現在の位置に浦上天主堂の被爆遺構を残し、代替地を提供するためそこに再建するよう長崎市から浦上天主堂に働きかけがなされるものの、天主堂側は『天主堂の立地には江戸時代のキリスト教迫害時代の由緒ある土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、長崎市原爆保存委員会の意向は重々理解できるが移転は信仰上到底受け入れることはできない』と回答しています。当時の長崎市長であった田川務氏は浦上天主堂の遺構保存に前向きの姿勢を取っていましたが、長崎市が昭和30(1955)年に米国ミネソタ州セントポール市と姉妹都市提携を締結し、翌昭和31(1956)年に田川市長は米国を訪問していますが、帰国後にそれまでとは一変し保存に否定的な立場を取るようになりました。昭和33(1958)年の長崎市議会では『原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない』と田川市長はそう答弁し、結局長崎市と浦上天主堂双方の意見が合致することとなり、議会の『遺構保存決定』は却下され『撤去』が決められることとなりました。加えて全ての天主堂廃墟を移築することは技術的・資金面から困難だという理由により、最終的に旧浦上天主堂南壁の一部を平和公園内に移設することとなり、高さ13m・幅3mの側壁部分が移設復元されて現在に至っています。<br /><br />江戸期のキリスト教迫害時代からの由緒ある土地を、明治時代になり労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があるために、この土地を離れて新たな場所にただ天主堂を作れば良い訳ではないとする浦上天主堂側の言い分は正直納得のいく理由だと私は思います。しかし本当にそれだけの理由だったのでしょうか?当時のカトリック長崎司教だった山口愛次郎氏は天主堂再建の資金援助を求めて渡米していますが、この際資金援助の条件として『天主堂遺構の撤去』を求められたとしている説があります。また同時期に米国ミネソタ州セントポール市と姉妹都市提携を締結したことにより、田川市長も米国を訪れていますが帰国後『遺構保存』に対して否定的な立場をとる等態度を一変させています。こじつけに聞こえるかも知れませんが、どちらのケースも最終的に米国側を刺激することは得策ではないと考えたと解釈することに否定的な理由がつけられないことに気付きます。<br /><br />残念ながら当時者本人が既に亡くなっているため、本当のことがわかることは今後あり得ないことだとは思いますが、素直に考えても出てくる答えではないかと考えます。いずれにせよ平和公園内に移設復元された現在の旧浦上天主堂遺構を見るだけでも、考えられて移設されたものではどう考えてもないだろうと思えてなりません。<br /><br />広島では被爆遺構として原爆ドームの保存を行っています。そして景観を損なわないために周囲に建てる建造物に対しても制約を加えており、無計画な乱開発が行われないように条例も作られています。そのために『バッファーゾーン』が設けられていることなどかなり神経質になっている様子が伺えます。しかし長崎の場合天主堂の被爆遺構は単純に移設復元だけされただけのものであり、その景観に至っては全く考えられてはいないように思えてなりません。少し斜めの位置から天主堂遺構を撮影するとかなりの高確率で下の川を挟んで向かいに立っている『ラブホテル』が写りこんでしまします。勿論ホテル建設が先なのか移設が先なのかという問題ではありますが、やはり興醒めしてしまうことのひとつです。一人の人間が例え何を言っても始まらないことではあるものの、行政の取り組みに疑問を持ってしまうことに対するのひとつの理由のように感じました。<br /><br />その移設された旧浦上天主堂南壁の脇には下の川が流れています。長崎に原爆が投下された時には熱戦によって体を焼かれ、猛烈な喉の渇きに襲われた被爆者が水を求めて彷徨い歩き、辿り着いた川で頭を突っ込むようにして水を飲み、満足したかのように息絶えた遺体が川の流れや川岸に山積みとなった場所のひとつです。原爆の威力は想像を絶するものであり、当時起伏のあった爆心地周辺の地形を変えてしまい、現在の平和公園のような平べったいものにしてしまいました。<br /><br />階段を下りると被爆当時の地層を見ることができます。被爆当時松山町には約300世帯1,860人が暮らしていたそうですが、たまたま防空壕にいた9歳の少女を除く全員が死亡しました。ガラス越しに見える地層の中には家の瓦・レンガ・熱で溶けたガラス・茶碗・針金などがあり、被爆当時の悲惨な実相を示す貴重な資料となっています。これだけは他から持ってきて埋めたものではなく、70余年前そのものの状態を呈しているものです。現在でも地面を掘り返すと当時の遺物が大量に出てくるという話を聞くと、今なお終わりを告げていない原爆被害の大きさを身に染みて感じることができます。作り上げられものという印象が強い長崎平和公園ですが、この部分だけは異論を唱えることが私にはできませんでした。行方不明者の遺骨も含まれている被爆当時の地層にそっと目を瞑り、被曝死者の方々の冥福をお祈りします。<br /><br />そして被爆50周年記念事業碑へと向かいます。長崎のご出身で彫刻家の富永直樹氏が作られた『母子像』ですが、この碑に至っては建立意図が全く見えてこないところがあります。元々は現在の『原爆投下中心碑』を建て替える意図のものであったらしいのですが、モニュメントがその役割を担えるかという疑問がどうしても私の中から消えません。そしてこのネーミングである『被爆50周年記念事業碑』というのもしっくり来ないところがあります。記念すべき喜ばしい出来事であれば『記念碑』で構いませんが、被爆したことをなぜ記念にする必要があるのでしょうか?私が凡人なのでわからないだけなのかも知れませんが、負の記録であっても記念は記念という考えに基づいているのならばそれで良いのですが、『わかりやすい』とか『受け入れられやすい』等という『安易な考え』で名前を付ければ良いというものではないと思います。確かにモニュメントに付随する『謂れ』があるものとして建立をしてきた長崎市の方針に他県の観光客が口出しすることではありませんが、被爆の事実を残すことは長崎ではお祭りなのか…と不謹慎ながら思ってしまうひとりの人間がいることは、他にも同じように感じている者がいるということに繋がるのではないかとも思います。<br /><br /><br />そして最後に祈りのゾーン入口付近にある一対の石灯籠。現在の銭座町にある浄土宗天王山法輪院聖徳寺は寛永3(1626)年に創建されたものですが、爆心地から1,500mという距離で被爆し、一対の石灯籠を除いて焼失全壊しました。寺を寮として利用していた三菱兵器製作所関係者2名も被爆により亡くなっています。戦後に再建された聖徳寺から原爆に耐えた石灯籠が長崎市に寄贈され、昭和24(1949)年2月に現在の場所に移設されました。<br /><br />長崎という土地柄江戸時代のキリシタン弾圧とも深い関係があり、浦上キリシタンの檀家寺でもありましたが、信徒発見後も日本人には信教の自由が認められていなかったこともあり、浦上村では再び信仰の自由を願う熱気が高まりを見せる中で、村内に4つの秘密の礼拝堂が作られ、大浦天主堂から神父を迎えてミサや洗礼を行う等信徒達の心のよりどころとされていました。しかし次第に当時の『寺請制度』に従わなくなり、僧侶の立ち合いなしで自葬するなど次第に公然と信仰を表明するようになります。そのうちに長崎奉行所の知るところとなり、キリシタン取り締まりの手が秘密礼拝堂にのびて68人が捕らえられ、江戸幕府の政策を引き継いだ明治政府により、さらに3,000人を超える浦上キリシタンの総流配という厳しい信仰弾圧へと繋がって行くこととなります。キリシタンたちの潜伏組織をゆるがす一連の事件は『崩れ』と呼ばれ浦上でも度々起こりましたが、信徒発見以後に起こったこの大きな事件は『浦上四番崩れ』と呼ばれて現在に伝わることとなっています。この『浦上四番崩れ』の結果、多くのキリシタンは配流等厳しい沙汰が下され、多くのキリシタンが浦上の地から離れざるを得なくなりました。しかしその反面聖徳寺の檀家であった隠れキリシタンがいなくなってしまうという結果を招き、この一連の騒動によって聖徳寺は約600もの檀家を失っています。長崎ならではの宗教による対立だとは思いますが、単なる宗教戦争ではなくキリシタン弾圧下でやむを得ず檀家のフリをしていたこともその理由のひとつであるようにも思えます。日本国憲法のもと信教の自由が保障されている現在ではわからない事ですが、遺構を見ながらその歴史の深さと複雑さを改めて感じます。被爆遺構として今に繋がっている石灯籠に感謝の意を表し、次の目的地へと向かいます。<br /><br />祈りのゾーンから願いのゾーンへとやってきました。一般的には平和公園と言われる場所になります。入口にはエスカレーターが設けられており、足の悪い方でも気軽に訪れられるようになっています。そしてまず最初に迎えてくれるのは平和の泉。平和公園と言えば、この平和の泉の噴水とその噴水の隙間から見える平和祈念像かと思います。天気が良ければそのような写真も撮れますが、日暮れ間近い時間でありなおかつ雨が降っている状況下ではなかなかそういう訳にはいきません。しかし今のカメラは性能が良くなっており上手い具合に露出を合わせてなんとか見られる写真にしてくれます。ただひとつ気になることもありました。雨が降ったり止んだりしている中で、地面は濡れているように思うのですが、ひとりご年配の男性が祈りの泉へと来られて噴水を見ながら佇んでおられました。普段なら気にもかけないのですが、場所が場所ゆえ身内の方に被曝死された方がおられるのではとふと思いました。水を求めて多くの方々が彷徨い、そして亡くなったという事実。やはりそんな背景をしてこの平和の泉が成り立っているのだろう…と改めて思います。<br /><br />そして芝生の中に残る煉瓦造りの礎石が目に入ります。長崎刑務所浦上刑務支所跡、昭和2(1927)年2月に長崎市松山町・岡町・橋口町にまたがる雑木林を造成し新設された刑務支所は敷地面積2万平方メートル、庁舎面積1万3000平方メートルあった大きな施設であり13の庁舎が建ち並んでおり、周囲は高さ4m・幅0.25mの鉄筋コンクリート製の塀に囲まれていました。収監者は朝鮮半島等で抗日運動を行い、治安維持法に違反したとして逮捕された活動家等思想犯もいたとされ、特に九州管内でも死刑囚はすべてこちらに収監され、刑の執行を待っていた場所でもありました。<br /><br />大戦末期の昭和19(1944)年には、受刑者の内約500名が『長崎造船護国隊』として三菱重工業長崎造船所に於ける労役に駆り出されており、この刑務支所も受刑者以外に労役に就いていた者の宿舎としても利用されていたそうです。昭和20(1945)年8月9日の原爆投下時には、爆心地から最短100m・最長350mという至近距離にあり、爆心地に最も近い公共施設として甚大な被害を受けています。庁舎と周囲を取り囲んでいた塀は一瞬にして崩壊し、周囲は瓦礫の山となり僅かに炊事場の煙突1本が残っただけとなりました。その際刑務支所内には職員18人、官舎居住者35人、受刑者および被告人81人の計134人がいましたが原因が死亡しています。しかしその当日も護国隊員らは三菱重工業長崎造船所立神工場にて労役に就いていたため難を逃れたそうです。<br /><br />その後平成4(1992)年1月に平和公園の地下駐車場建設工事の最中に敷地内より赤レンガ造りの拘置所跡基礎部分と側溝並びに死刑場の地下部分の遺構が発見されました。その発見に伴い工事は中断されて被爆者や市民団体等が保存を求める運動を起こすなど論議を呼ぶところとなります。発見当初当時の本島等長崎市長は市議会に於いて駐車場建設予定地と重なる死刑場を含む公園北側の遺構は工事完了後発見時のまま埋設し、公園南側の遺構のみ保存し展示する方針を明らかにしていたものの、最終的には刑務支所の遺構が被爆の現状を伝えるものとは言えず、また死刑場の公開保存に関して『人間の感性から一般的に白日にさらすべきではない』として公園北側の遺構を解体し、敷地内へ分割して埋設するとのいう見解を示しています。<br /><br />これら一連の議論の結果として長崎市は『被爆遺構の調査・保存に関する基準』を定めた『長崎市被爆建造物等の取扱基準』を策定し、平成4(1992)年9月1日より施行されることにはなったものの、結局のところは被爆当時の遺構をそのまま残さず、移設復元を含む形で現在の公園南側には赤レンガ造りの拘置所基礎部分を、敷地外周部分にコンクリート製の外塀跡基礎部分をそれぞれ残すこととなり、現在に至っています。<br /><br />刑場の遺構をそのまま残すということは確かに難しいことだと思います。いくら罪人だとはいえ人の命が失われた場所であり、現在でも一般に公開はされてもいない場所であることからもそれは理解できることです。確かに被爆遺構の保存という立場からすると、爆心地から最も近い場所にあった公共施設だということで資料的な価値を唱える方もおられるでしょう。ただこの一件に関しては『埋め戻し』を主張する市側の意見と『保存』を掲げる『平和公園の被爆遺構を保存する会』ともに100%ではないものの妥協できるレベルで折り合いがついたのであれば、部外者がそれ以上口を出すことでもないと思います。ただなにかにつけて被爆遺構を人目に曝さないように持って行こうとする行政の姿勢には疑問が残るのも確かです。それが被爆からの復興を謳う長崎の姿なのか…と考えると長崎に於ける被爆遺構を当事者である『被爆者』の方々はどのように考えておられるのかお聞きしたいところもあります。何度も繰り返していますがこの平和公園には多くのモニュメントが乱立し、謂れを知らなければ70余年前にこの場所に原子爆弾が投下された史実ですらわからないのではないかと危惧します。戦争を知らない子供達に『やさしく・わかりやすく』被爆について教えるには、『より具体的に・よりかみ砕いて』説明することは必要であり、長崎原爆資料館はそれを忠実に行っている施設だとは思うものの、謂れをつけたモニュメントが立ち並ぶだけの平和公園でなにかそれ以上のものを得られるのかということには正直疑問が募るばかりです。<br /><br />確かに原爆投下について説明することは、立場が変われば言うことも変わってしまい、すべて同じ言葉で説明することはできないことはわかります。しかしここは恒久平和を願う平和公園であって、美術館ではありません。そのため個々の像に対する謂れを述べられても『だから何なの?』という思いしか私にとっては湧き出てこない事実もあります。モニュメントが本当に多い平和公園に於いて、移設工事を経て見学できるようになった長崎刑務所浦上刑務支所跡の煉瓦の礎石を見ながらふとそんな気持ちになりました。<br /><br />そして最後に行きつく場所は平和祈念像。マッチョがあぐらをかいていると揶揄されるあのブロンズ像です。高校の修学旅行の時に訪れているはずなのですが、当時の写真が見つからないので当時どのように思ったか?ということも覚えていません。しかし原爆の爆風によって35mも飛ばされた55tもの浦上天主堂の旧鐘楼は鮮明に覚えています。物心ついてから長崎というと『平和の泉の噴水』と『平和祈念像』という組み合わせの『写真』というイメージだけ残っていました。しかし実物を見ているにも拘らずインパクトがなかった…ただそれだけだったのではないでしょうか。今となっては思い出すことはできませんが、今日目の前で祈念像を見ても何かときめいたものすらありませんでした。雨が強く降っており、既に陽が落ちておりライトアップされているからわかるようなものの集中ができないからだったのかも知れません。1日目最後の目的地として期待していたところもあったのですが、暗さと冷たい雨に妨げられ、空いているときにしかできないだろう祈念像の周りを一周します。そして平和祈念像両脇にライオンズクラブの手によって建立された被爆とは直接関係のない『千羽鶴の塔』にもわずかな時間ではあったものの立ち寄って今日のアクティビティを終わらせることにします。<br /><br />行きに歩いた道を戻って行き平和公園入口を目指します。途中『長崎の鐘』と『平和の泉』に立寄って改めてカメラに収めます。18:45頃のことですが既に日没を迎えた後でストロボの光が届く範囲でしか撮影することができません。ただそれが逆に功を奏したところがあり、普通に撮影した時とは違う雰囲気の写真が撮れていました(嬉)。ただこの『長崎の鐘』は戦後に作られたもののはずですが、なぜか都市伝説化している旧浦上天主堂の瓦礫の中から見つかった『アンジェラスの鐘』と書かれているものがあります。見た感じでも新しいもので、尚且つこのサイズの鐘では…というのは一見してすぐにわかることにも拘わらずそんな説が出てしまうのが今の現実なのかも知れません…。<br /><br />平和祈念像から10分程歩いてエスカレーターを下ったところにある防空壕跡に到着します。元々は平和公園のエスカレーター設置時の工事中にみつかったもののようですが、どうやら発見時の話を纏めると、平和公園の造成中に石垣が組まれることとなり、その下になる地層に何があるのかすら確認しなかったことが最近になって発見された理由のようです。この発見された防空壕の内現存するものは塞がれているものが1つ、内部公開されているものが2つとなっています。本来はあとひとつあったそうですが、エスカレーター工事のエリアと重なっていたため破壊されています。そして右隣のものはエスカレーター工事に伴う地盤の強度保持のためにコンクリートで塗り固められ、内部を観察することはできません。その右手に並ぶふたつが内部こそ入れないものの、当時の姿を外から覗き見ることができるようになっています。原爆投下時にはこの付近の松山町には約300世帯、1,860名の家屋と住民が暮らしていましたが原爆投下によって防空壕にたまたま避難していて助かった9歳の少女以外はほぼ即死だったそうです。確かに防空壕自体空襲に備えるものであって原爆に特化したものではありません。ただ70余年前にここに避難して助かっている住民の方々も多くおられるのは事実です。確かに戦時中の遺構をすべて残すには開発そのものに影響が出てしまうため、結果として被害を被った被災者に負担をかけてしまうことに繋がることを考えれば、何も知らない部外者が無責任に『遺構は残すべき』と声を上げることは、被災以上に足枷を加えてしまうことに繋がりかねません。ただ残せるものを敢えて壊す必要はないのではと思います。現実には難しい問題ではあると思いますが、妥協は伴っても誰もが納得のいくレベルでの保存をお願いしたいとも思います。<br /><br />防空壕をカメラに収め、長崎電気軌道の松山町電停へと戻ってきました。既に時刻は19:00を回っており、あたりは真っ暗です。行きに乗ってきた電車の逆方向行きである蛍茶屋行きに乗車し、車窓を楽しむこともなく長崎駅前電停で下車します。結局いつもの通り昼飯抜きになったので、おなかが減っています。グルメでない私にとっては別にメニューはなんでも良いのですが、せっかく長崎まで来ているので地のものを頂こうかと考えます。ただ雨が降っているため、あまりホテルまでのルートからは離れたくありません。駅前の飲食店で検索すると、ファミレスや吉野家が上位に出てくるため、ちゃんぽんで検索すると、出てきたのは『リンガーハット』でした。別にリンガーハットでも構わないのですが現在地とは少し離れていることもあり、アナログに戻って地図で見ると駅前にある一軒のお店を見つけます。中華菜館かたおか、名前からするとお値段が張るのか…と思いましたが口コミからはお手軽価格帯として書かれているものが多かったためこちらに決定し、駅前のペデストリアンデッキを渡って降りたところにあるビルの一階部分にあるお店へと向かうことにしました。<br /><br />平日の20:00過ぎですが私の他は今長崎に着いたばかりであろう観光客が一組いただけでした。メニューから見つけたのは『皿うどん定食』、いわゆる揚げソバですが、普段から良く食するものでもあるため、それを頼みます。ここで本来ならば『今日一日お疲れさん』ということでビールが美味しいのかも知れませんが、下戸の私にはそれができないため、つい追加でコーラを頼んでしまいました。そして出てきた『皿うどん定食』、決してボリュームがある訳ではありませんが、程良い量とマイルドな味付けだったので美味しく頂けました。<br /><br />ただ喫煙OKのお店なので、喫われない方が長居するのは厳しいかも知れません。私はその逆パターンのため、飲み物があれば結構の~んびりとできそうだったのですが、雨が降りやまないこともあり、寝られたと言っても夜行バス明けだったことも加わり、明日のために適当に切り上げてホテルへと向かうことにします。<br /><br />徒歩5分と書かれていた本日の宿である『長崎I・Kホテル』ですが、メイン通りに面している訳ではなく、路地を進むルートを取らなければなりません。その道中に見つけた長崎中央郵便局、ATMがまだ利用時間であったため旅行貯金をするために立ち寄ります。そして郵便局角を曲がってしばらく進むと本日の宿である長崎I・Kホテルに到着します。比較的値段の安いフリープランのパッケージツアーに利用されることの多いこの長崎I・Kホテル。このランクのホテルであれば結構目立つと思っていたのですが、それ程目立っていた訳ではありません。むしろ車を利用していれば気付かなかったかも知れません。まぁ今回は歩きだったので場所を確認して無事到着できました。I・Kとはなんの語呂なのだろうと思っていたら『稲佐山観光』の頭文字でした。長崎を代表する観光地のひとつである稲佐山。それを被せてあるにしては意外と地味なホテルだな~なんて思ったりもしました。ウンチクは抜きにしてホテルへと入り、チェックインを済ませます。訳あり部屋の3,500円というプランもあったのですが、朝食がつけられないようなので通常のシングルプランで予約をしましたが、部屋が空いていたのかどうかはわかりませんがツインルームにアップグレードされていました。<br /><br />ホテルの部屋としては狭くはありませんが広くもないという感じです。ただ建てられてから結構年数は経っているようで、施設の古さは否めません。でも寝るだけならば十分かと思います。夕食は済ませてきたのであとは寝るだけです。いつもならばチェックイン後2~3時間はボ~っと過ごすはずなのですが、さすがに夜行明けだということに加えて雨の中歩き回ったこともあり、少しでも早く休みたいという気持ちが先に立ちます。なので部屋の写真を撮った後にすぐにバスタブにお湯を張りどっぷりつかって上がると、もう眠気maxです。そんな中一応明日以降とする場所だけを再確認し、ウォークナビに登録したあたりで意識が遠のいて行きます。晴れ○○○なので雨の中歩き回ったことはこの数年間では一度しか記憶にありません。ある意味貴重な体験をした一日を振り返りながら長崎の夜は更けて行きましたzzz。そして日が変わります。<br /><br />  《次編最終章に続く》<br />

≪2017.Sep≫あみんちゅ弾丸Bus&Air旅壱の②~長崎は今日は雨だった・中編~

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2017/09/27 - 2017/09/27

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

≪2017.Sep≫あみんちゅ弾丸Bus&Air旅壱の②~長崎は今日は雨だった・中編~

運が良いのか悪いのか無理矢理休暇取得をこじつける『理由』の発生による8月16日に受験した損保試験の不合格という結果。本来だったら勉強しろよ!っとなる訳ですが、すぐに再試験の日程が決まらなかっこともあり余裕を見て連休を取っていたため、結局9月26日昼イチに受験しその後2連休が決定しました。スカイマークの『いま得』運賃と、高速バスの割引クーポンを組み合わせることのできた今回の弾丸旅行、世界遺産『軍艦島』への上陸ツアーに合わせて手配しましたが、まさかの不完全燃焼…。かと言って時間は止まってはくれないので次の目的地を目指します。長崎の街中を始めて歩く今回の旅、坂道の多さにひぃ~ひぃ~言いながらグラバー通りを歩いて大浦天主堂の入口へと到着します。さぁ道だけではなく施設内も坂だらけの場所ゆえどんな行程になったのでしょうか?それでは始まります♪

平成29(2017)年9月27日水曜日
大浦天主堂 13:37
  《入場料:600円》
      14:05
グラバー園 14:09
  《入場料:610円》
      16:41
大浦天主堂下 16:51
       16:58
築町 16:58
   16:58
思案橋 17:10
    17:26 15
松山町 17:41
    17:45
爆心地公園 17:50
      18:20
平和公園 18:35
     19:10
松山町 19:20
    19:30
長崎駅前 19:45
中華菜館かたおか 20:03
  《夕食:皿うどん定食(670円)・コーラ(250円)920円》
         20:40
長崎中央郵便局 20:45
        20:47
長崎I・Kホテル 20:55//
  《楽天トラベル手配:5,530円(割引後:4,430円)》
  《朝食付きスタンダードプラン喫煙ツインルーム》

大浦天主堂へとやってきました。国宝に指定されている日本最古のキリスト教建築物の正式名称は『日本二十六聖殉教者堂』と言います。私自身の行動範囲にカトリック関係の建物がないので知らなかったこともあるのですが、最初はカトリックの長崎大司教区の司教座聖堂(布教の中心)とされていたこともあるものの、昭和37(1962)年1月1日に浦上教会に変更されています。元治2(1865)年に大浦天主堂が完成した際に日仏修好条約に基づいてフランス人の礼拝堂として建設され、フランス寺とも呼ばれていました。建立後程なくして浦上の潜伏キリシタンが当時のプティジャン神父を訪問し、密かに信仰者であることを告げた『信徒発見』が起こります。キリシタン禁教下でのこの出来事は会派の中では大きなニュースであったとされ、それを伝え聞いた教皇ビオ9世に『東洋の奇跡』と呼ばすことになりました。長崎に原爆が投下された際は爆心地からの距離もあったことから倒壊を免れ、その後昭和50(1975)年11月3日にカトリック大浦教会が新築され、それまで問題になっていたミサの途中に観光客が見学するなどし、典礼の妨げになっていたことが解消されることによって見学専用となり、今日に至っています。

入口で拝観券を購入し、石段を歩いて行きます。その途中に歴史的発見であった『信徒発見』のレリーフが置かれ、この史実を伝えています。そして更に石段を上ると国宝であり世界遺産登録がされた真っ白な『大浦天主堂』の建物に辿り着きます。見学専用とは言えど由緒ある建造物であることからミサも行われることもあり、軽い気持ちで訪れる場所ではありません。当日はミサなども行われておらず、椅子に腰掛けることもできました。無神論者なのか多神教者なのか自分でもわかりませんが、厳かな雰囲気の中でも心が休まります。こういう場合クリスチャンのように『十字を切る』のが作法なのか、一般的な『黙礼』をするべきなのかを悩みましたが、まあ信者でもないのにという思いから黙礼だけして出て行きました。

本年11月1日より大浦天主堂の外壁工事と隣接している旧羅典神学校が資料館開設準備のために閉鎖されます。そして平成30(2018)年4月1日より新たに『キリシタン博物館』としてオープンするそうですが、それに併せて入場料も現行の610円から1,000円に値上げされるそうです。勿論それだけの価値があり、運営や施設の維持に費用が掛かることを考えれば致し方のないことなのかも知れません。ただ長崎の観光地はなにを取っても『お金がかかる』というイメージがあり、それをまた付け加えるかのような印象を与えないのか…ということも懸念することではあります。何をするにしてもお金がかかるものの、ただ歩いているだけでも観光できてしまう街でもあるため、入場者減に繋がらなければ良いかとも思いはしましたが…。

そんな余計な心配をしつつ大浦天主堂を後にしてグラバー園へと向かいます。大浦天主堂は急な石段でしたが、グラバー園に至る道も坂があります。入口付近にはゆるキャラ『さるくちゃん』が待ちかねており、ここは修学旅行をはじめとする『団体』の集合場所も兼ねているようです。エスカレーターで上がると第1ゲートのチケットブースがあり、入館料610円を支払います。結構お金がかかるものだな…と思いつつ、ここまで来たからにはという思いもありました。坂の中腹から頂上部にかけて建造物が建てられているため、通常だとまた坂上りかよ~ってなるのかも知れませんが、それは2基の『動く歩道』があるため私のようなヘタレでも大丈夫でした♪

最初の動く歩道を通過すると右手に広がる広場があります。三浦環像広場と称する広場があり、旧自由亭を利用したカフェもあります。ただ順路としては『上から』見るようになっているため、園内マップ通りに歩いた方が賢明です。そしてもうひとつ動く歩道を乗り継いだ後、車いす用のスロープがある階段を上って行きます。そしてグラバースカイロード方面から入場する第2ゲート付近の山頂部から、建物を見学して行きます。

旧三菱第2ドックハウス、長崎港内にある旧三菱重工業長崎造船所第2ドックにあったものであり、ドックにて修理を受けている間乗組員が滞在した場所になります。今は閉鎖されていますが、その昔あの大和型戦艦2号艦の『武蔵』が建造されました。この時は新しく新造されているので乗組員がドックハウスに入ることはありませんでしたが、その歴史を感じるには十分な建物でした。またグラバー園の『頂上』に移築されているため、2階部分のテラスからの眺めは最高でした!もっとも天気が良かったらもっと素晴らしいものだったのだろうと後ろ髪ひかれる思いもなきにしもあらずでしたが…。また旧三菱第二ドックハウスの付近には、長崎の港町を髣髴させる錨の他に外国人居留区の石碑も残されています。もっとも移設されたものなのですが…。

その隣には高島流和砲が備えられていました。江戸末期に活躍した高島秋帆(たかしましゅうはん)所縁のもののようですが、平和とされる中に胡散臭い出来事が頻発している今日故、長崎港に向けて置かれている物が強ちモニュメントだけのように見えないところもありました。

最上部から少し下りたところにあるトイレと喫煙所、一服タ~イムにはうってつけの場所です。ここではボランティアガイドさんが常駐しており、写真を撮って貰えます。定期的に旅に出るようになってから『自撮り』以外の自分の写真はなかったのですが、ここに来て初めて撮って貰いました。ただ~そんなに難しくないと思えるiPhoneSEを敢えて渡したのですが、まさかのバーストモードが起動し、10枚程の写真が撮れてしまいました(笑)。こういう時はデジカメを渡した方が良いのか?とふと思いました。順路通りに歩いて行くと現在ガイドさんの詰所となっている旧長崎高商表門衛所、そして写真撮影用の貸衣装屋になっている旧長崎地裁長官舎を経て、旧ウォーカー住宅の中を通って行くようになっています。ただ傘を持って案内図を見ながら行くのは結構苦労するもので、そのまま素通りしてしまいます。明治期の建物ゆえ床が『板張り』となっており、気を付けないと足元が滑ることもあり注意をしながら歩かないといけないため、順路が変わってしまうことくらいは仕方がありません(泣)。

そして旧リンガー住宅、フレデリックリンガーの次男が住んでいたこともあり、リンガー(弟)邸とも言われていました。そしてその奥の旧オルト住宅、オルト商会を設立し製茶業を行っていたウィリアム・ジョン・オルトが建立しましたが、結構早いうちに売りに出され、一時フレデリックリンガーの長男が住んでいたことからリンガー(兄)邸とも呼ばれていたこともあります。角柱と丸柱の違いですぐにわかりますが、かなり同じような建物を見続けていると感覚が麻痺してきて、すぐには気づかなかったりしたりもします。

順路の一番奥には旧スチイル記念学校があります。息子を早くに亡くしたスチイル先生の寄付によって建てたものは、長崎の名門男子校であった東山学院が利用していました。まあ今の学校とは規模も違うため、一見するだけでは元学校だとはわからないところもありますが、それは雰囲気で理解する他ないでしょう(笑)。

そして順路の一番奥から今来た道を戻って行くと、先ほど順路を間違えた『祈りの泉』へと出て行きます。キリシタン禁教下での『隠れキリシタン』の苦労をモニュメント化されたもののようですが、本当に長崎にはある出来事を『偶像化』することが当たり前なのかと思う位史実に基づくモニュメントが多いことに気付きます。そしてその奥には『マダムバタフライ』のモデルとなった三浦環と、オペラ『マダムバタフライ』を作ったプッチーニ像が建立されています。ただこの二人には直接の繋がりがないとのこともあり、『離れて』像が建立されています。28mmというアナログカメラの広角でも写真を撮るのはホントに難しい場所でした。

ただ修学旅行などの『集合場所』伴っているこの広場、景色は最高に良い場所です。ただ今回は天候に恵まれていないためどんよりした雲が写真の上部1/3を占めてしまっています。この類の博物館一度訪れれば私的には十分なのですが、その『景色』を確認するための再訪が必要だとは正直思ってしまいました…。ただ世界遺産のジャイアントレバークレーンは少しズーミングするとちゃんと見ることができたので、午前中の悪天候の軍艦島ツアーへの参加より、最初からグラバー園に来ておいた方が良かったかも…なんていう思いもこみ上げてきました。

そして西洋料理発祥の地碑と旧自由亭、謂れはともかく一息つくのには良いところだとは聞いてはいましたが、時間も押していたこともあり、なによりここで足を止めると先に進まないのでは…という気持ちが先に立ちます。グラバー園自体に再訪をせねば…という気持ちにはなっているので、次回のお楽しみにとっておいて先を急ぐことにします。

そして最後にグラバー園の名前の由来にもなっている『旧グラバー住宅』へとやってきます。トーマス・ブレーク・グラバーの胸像が長崎港を見下ろす位置に建立されており、長崎の近代史に於けるグラバーの功績の大きさを窺い知ることができます。グラバー住宅そのものが単独の博物館なっていることからその重要さがわかるのですが、確かに炭鉱や造船事業など日本の近代化に尽くしたことはわかるものの、武器商人としての側面から薩長や坂本龍馬の亀山社中に西洋の武器を流した事実は間違いありません。勿論それによって明治維新へと時代が前進したことは疑う余地はないものの、やは武器というものが人を殺戮する道具であることは間違いないことなので、その部分がどうしても私的に引っかかってしまいます。結果としてキリシタン禁教令を敷いていた古い考えの江戸幕府は、大政奉還と王政復古の大号令によって廃絶し、天皇主権の新政府樹立へと進みます。しかしその過程に於いても鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争によっても多くの血が流されています。

個人的な解釈論ではありますが、武器を『脅威』に見立てて権力を誇ろうとする国もあります。そして人間が編み出した究極の武器である『核兵器』が実戦で使われて多くの被爆犠牲者を出したことも紛れもない事実です。これを結びつけるのは強引なのかも知れませんが、やはり武器の『開発や売買』で巨万の富を得た事実があれば、それが歴史上の功労者だとされてはいても素直に頷けない自分の『想い』に気付かされます。グラバーの功績がとてつもなく大きいものだったとあちらこちらで書かれている中で、私自身はそう思いました…。

まぁ深く考えても始まらないので一通り見学を済ませた後、坂を降りて行きます。ヘタレには坂道を下りて出て行くスタイルがホントに似合っています(笑)。旧グラバー住宅の門を出たら終わりと考えていましたが、その順路に園内施設がひとつ残っていました。長崎伝統芸能館、長崎市の秋の大祭である『長崎くんち』を中心とした資料館になっています。洋館が立ち並ぶグラバー園とは趣が異なっている場所だと思いますが、保存されているものは紛れもない『実物』ゆえ迫力も違います。その証拠にいくつかの『傘鉾』は祭り本番に向けて出張中と書かれており、長崎市に370年あまり根付き、市民の祭りにかける意気込みが伝わってきます。ここで初めて知ったことがありました。長崎くんちの『くんち』って旧暦の9月9日に行われていたことに起因し、9日→くにち→くんちと変化したものであるということ。なにかすごい『謂れ』があるものだとばかり思っていたので意外でした。でもまたその理由が一般的で良いですね♪

二階から入場し一階から退出する形で長崎伝統芸能館を出るといよいよグラバー園ともお別れです。ゲートを潜ったのは14:10、出口を出たのが16:43…所用時間2時間半というのは、決して長い時間滞在していたわけではありませんが、なんせ雨の中だと…ちょっとどころかかなり辛い園遊でした。そして行きに上ってきたグラバー通りを下って行きます。ひと際目を惹くANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルを横目に歩いて行きます。この界隈には他に立寄る場所はいくつでもあるのです今回は時間もないので先を急ぎます。長崎ちゃんぽんと皿うどんの発祥の地とされる中華料理店四海楼は、昼と夜営業の間の時間で開いていません。まぁ次回の楽しみとし残しておき電停へ向かいます。

大浦天主堂下電停へと戻ってきて次の目的地を目指して移動することにします。この長崎電気軌道の石橋支線は大浦海岸通電停先~石橋電停間が単線となっています。ただ田舎の単線ならば線路は1組ホームも1本ですが、さすが都市部だけあってホームは二面ありました。そして5号系統蛍茶屋行きに乗車しますが、ここで少し勘違いをしていたようです。公会堂前電停で3号系統に乗り換えて松山町電停を目指すところが、行きと同様築町電停で乗り換えてしまいそれも方向の違う正覚寺下電停行きの1号系統に乗車してしまいました。前に停まっていたため何も考えず急いで乗車してしまい、観光通電停を過ぎて初めて『乗り間違い』に気付きました。そして次の思案橋電停で慌てて下車し、ここで初め予定していたルートが今利用できないことを思い出します。

蛍茶屋発赤迫行き3号系統は、昨年の公会堂前電停付近の脱線事故の影響で蛍茶屋方面行は走っているものの赤迫方面行は運休中でさあどうしよう…になるのですが、その辺りは一日乗車券がアプリ購入できる長崎電気軌道のこと。スマホ操作ひとつですぐにわかります♪ただ単純に思案橋から1号系統の赤迫行きに乗れば済むことが判明します。逆方向の思案橋電停ホームに移り、1号系統赤迫行きの表示をちゃんと確認して乗った1号系統赤迫行きに揺られること約30分、なんとか日暮れまでに平和公園最寄りの松山町電停に到着できました。ふ~っ…(汗)。

電停で降りて国道206号線を渡るとすぐ長崎平和公園はありました。交差点から左手には願いのゾーン、右手には祈り・学びのゾーンが拡がっています。右手方向に進むと同じように歩いてきたおばさんから祈りのゾーンにあるものの概略を教えて貰います。勿論平和会館は閉まっているのはわかっていますが、アウトラインがわかったためピンポイントで遺構を巡ることができます。こういう時の地元の方のご意見はありがたいです。ありがとうございました♪

そして最初はやはり原爆落下中心碑に向かいます。昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、テニアンから原子爆弾ファットマンを搭載したチャールズ・スウィーニー少佐が操縦するB-29爆撃機ボックス・カーは第一投下目標であった北九州(当時の小倉市)に於いて、投下目標地である小倉陸軍造兵廠が煙によって目視確認ができなかったため、爆撃航程を3度やり直すも失敗します。その間に燃料を予想以上に消費し、加えて燃料系統に異常をきたしたために予備燃料に切り替えざるを得なくなります。投下目標が掴めぬまま時間が過ぎて行き、その間に天候は悪化と一途を辿り、その上地上からは日本軍の高射砲攻撃が行われました。加えて海軍築城基地から零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきたことも確認された段階で、投下目標を第二目標地点である長崎に変更し午前10時30分頃北九州上空を離脱しています。

長崎で天候観測機ラッギン・ドラゴンから『長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり』と報告は受けていたものの、それは第一目標地点への投下予定時刻のことであり、約1時間10分遅れてボックス・カーが長崎上空の到着したときには既に高度1,800~2,400mの間が80~90%の厚い雲の層で覆われていた状況だったとされています。機長のスゥイーニーと兵器担当のアッシュワースで方針が異なっていたものの、目視爆撃が不可能であれば太平洋に原爆を破棄せねばならないとの命令から、なんとか投下させたいアッシュワースは命令違反を承知でレーダー爆撃を行おうとしていた矢先に、一瞬の雲の切れ間から長崎市街が見えたことを見逃さず、長崎市街地の確認を宣言します。しかし当初の目標地である中島川にかかる常盤橋を捉えられないまま、『広大な広場』を『軍需工場』として臨機目標とし、高度9,600mからプルトニウム型ファットマンを手動投下させました。放物線を描くように落下して行ったファットマンは、市街中心部から北へ約3km逸れた松山町171番地の別荘のテニスコート上503m±10mで炸裂しました。

ヒロシマにはウラン235の原子爆弾リトルボーイがTNT火薬15,000t相当のものだったのに対し、ナガサキの投下されたファットマンはプルトニウム239の原子爆弾であり、破壊力はTNT火薬22,000t相当のものでした。約1.5倍の破壊力を持った原子爆弾が投下され、人口24万人と言われている長崎市民のうち74,000名が昭和20(1945)年末までに被爆によって亡くなられています。

人によっては原子爆弾の投下はヒロシマの成功に対しナガサキは失敗だったとの説を唱える者も少なからず存在します。それは単純に犠牲者と破壊された家屋数を照らし合わせたものと、投下された場所の『特徴』とも言える『被害の広がり』等の表面的な理由からだと思われます。確かにナガサキの爆心地である松山町は長崎駅から一駅離れた浦上地区にあり、目標地にするにはあまりにも目星となる建造物がなかったことは事実です。ナガサキの目標地点は常盤橋から胆振橋に至る長崎市街中心部と言われており、実際に投下された場所とは約3km離れています。これは実際に米軍の資料から予定通り目標地に投下すれば甚大なる被害が出るエリアの北の端にあたる場所が爆心地となっている事実からも想像はつくことでしょう。また丘陵地の多い長崎ゆえ、被害も『局所的』になったとも言われています。しかし現実には浦上と長崎中心部に於いては遮蔽するものはなく、その被害はほぼ市内全域に渡っており、それこそある一部のエリアにある大浦天主堂や旧グラバー住宅等有名な歴史的建造物が倒壊を免れたことが『広範囲にわたった被害がなかった』と曲解される根拠にもなっているようです。

また言葉は悪いですが『運が悪い説』も根強く言われています。元々広島に次いで原爆投下目標とされた都市は小倉(現北九州)です。諸説はありますが、前日の空爆によって発生した火災による煙が上空に立ち込め、結果として投下目的地を捉えることができずに免れたと言うものです。これには新たな意見として八幡製鉄所でヒロシマの教訓を知っていた従業員が、コールタールを燃やしたとする新聞記事も出ています。いずれにせよ約45分間原爆投下の再投下を試みるも履行できず、結果として第三目的地である長崎に投下されることになりました。ヒロシマに比べると3時間近いタイムラグが生じているひとつの理由として挙げられていることでもあります。

しかし原爆投下によって受けた被害は、規模の差はあれ同じものです。熱線に爆風、そして急性放射能障害等も含めそうでしょう。熱線に焼かれて喉が渇き、付近を流れる川に顔を突っ込み、そのまま息絶えた遺体が山積みであったことはヒロシマでもナガサキでも変わりません。

原爆による犠牲者数は昭和20(1945)年年末まででヒロシマ12万3千余名に対しナガサキ7万4千余名となっており、人数こそ長崎の方が少ないもののその後5年間ではヒロシマ20万余名、ナガサキ14万余名となっています。当時の都市人口は広島42万人に対し長崎は24万人だったことを加味すると、ナガサキでは住民の約6割が被爆を理由に亡くなっています。この比率の差には諸説ありますが、長崎に投下された『プルトニウム型原子爆弾』の破壊力の差ではないかという説を私自身も持っています。爆風や熱線といった『物理的理由』によるものが死因であれば、長崎の特徴的な地形によって幾らかでも軽減されたという説は成り立ちます。しかし被爆後時間を置いてからの死者数が増加した理由は、『物理的理由』ではなく放射線障害という『化学的理由』に起因するものとするのことによって、年末までといった短期間ではなく5年間の被爆死者数の割合が高い『事実』も説明がつくと思われます。

ただ誤解を受けないために何度も言いますがヒロシマとナガサキを直接比較してどうこう言うつもりは毛頭ありません。規模的なものは違うのかも知れませんが、被爆によって亡くなられた方々すべて、現在生きているものが想像のつくレベルではない状況に突如襲われ、自らの意志と関係なく死へと導かれたことは紛れもない事実ですから。

70余年前の夏の日に、この場所上空で炸裂した原子爆弾ファットマン。見かけの平和かも知れませんが、そんなことも想像できない今日に、目の前にある『原爆投下中心碑』を見ながらそう思いました。

碑に黙礼をして隣の浦上天主堂遺壁へと向かいます。爆心地から僅か500mという至近距離で被爆した浦上天主堂は、ほぼ原形を留めぬまでに破壊されました。しかし信徒の協力もあり翌年には仮聖堂が完成し、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存されていました。昭和33(1958)年には現在の位置に浦上天主堂の被爆遺構を残し、代替地を提供するためそこに再建するよう長崎市から浦上天主堂に働きかけがなされるものの、天主堂側は『天主堂の立地には江戸時代のキリスト教迫害時代の由緒ある土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、長崎市原爆保存委員会の意向は重々理解できるが移転は信仰上到底受け入れることはできない』と回答しています。当時の長崎市長であった田川務氏は浦上天主堂の遺構保存に前向きの姿勢を取っていましたが、長崎市が昭和30(1955)年に米国ミネソタ州セントポール市と姉妹都市提携を締結し、翌昭和31(1956)年に田川市長は米国を訪問していますが、帰国後にそれまでとは一変し保存に否定的な立場を取るようになりました。昭和33(1958)年の長崎市議会では『原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない』と田川市長はそう答弁し、結局長崎市と浦上天主堂双方の意見が合致することとなり、議会の『遺構保存決定』は却下され『撤去』が決められることとなりました。加えて全ての天主堂廃墟を移築することは技術的・資金面から困難だという理由により、最終的に旧浦上天主堂南壁の一部を平和公園内に移設することとなり、高さ13m・幅3mの側壁部分が移設復元されて現在に至っています。

江戸期のキリスト教迫害時代からの由緒ある土地を、明治時代になり労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があるために、この土地を離れて新たな場所にただ天主堂を作れば良い訳ではないとする浦上天主堂側の言い分は正直納得のいく理由だと私は思います。しかし本当にそれだけの理由だったのでしょうか?当時のカトリック長崎司教だった山口愛次郎氏は天主堂再建の資金援助を求めて渡米していますが、この際資金援助の条件として『天主堂遺構の撤去』を求められたとしている説があります。また同時期に米国ミネソタ州セントポール市と姉妹都市提携を締結したことにより、田川市長も米国を訪れていますが帰国後『遺構保存』に対して否定的な立場をとる等態度を一変させています。こじつけに聞こえるかも知れませんが、どちらのケースも最終的に米国側を刺激することは得策ではないと考えたと解釈することに否定的な理由がつけられないことに気付きます。

残念ながら当時者本人が既に亡くなっているため、本当のことがわかることは今後あり得ないことだとは思いますが、素直に考えても出てくる答えではないかと考えます。いずれにせよ平和公園内に移設復元された現在の旧浦上天主堂遺構を見るだけでも、考えられて移設されたものではどう考えてもないだろうと思えてなりません。

広島では被爆遺構として原爆ドームの保存を行っています。そして景観を損なわないために周囲に建てる建造物に対しても制約を加えており、無計画な乱開発が行われないように条例も作られています。そのために『バッファーゾーン』が設けられていることなどかなり神経質になっている様子が伺えます。しかし長崎の場合天主堂の被爆遺構は単純に移設復元だけされただけのものであり、その景観に至っては全く考えられてはいないように思えてなりません。少し斜めの位置から天主堂遺構を撮影するとかなりの高確率で下の川を挟んで向かいに立っている『ラブホテル』が写りこんでしまします。勿論ホテル建設が先なのか移設が先なのかという問題ではありますが、やはり興醒めしてしまうことのひとつです。一人の人間が例え何を言っても始まらないことではあるものの、行政の取り組みに疑問を持ってしまうことに対するのひとつの理由のように感じました。

その移設された旧浦上天主堂南壁の脇には下の川が流れています。長崎に原爆が投下された時には熱戦によって体を焼かれ、猛烈な喉の渇きに襲われた被爆者が水を求めて彷徨い歩き、辿り着いた川で頭を突っ込むようにして水を飲み、満足したかのように息絶えた遺体が川の流れや川岸に山積みとなった場所のひとつです。原爆の威力は想像を絶するものであり、当時起伏のあった爆心地周辺の地形を変えてしまい、現在の平和公園のような平べったいものにしてしまいました。

階段を下りると被爆当時の地層を見ることができます。被爆当時松山町には約300世帯1,860人が暮らしていたそうですが、たまたま防空壕にいた9歳の少女を除く全員が死亡しました。ガラス越しに見える地層の中には家の瓦・レンガ・熱で溶けたガラス・茶碗・針金などがあり、被爆当時の悲惨な実相を示す貴重な資料となっています。これだけは他から持ってきて埋めたものではなく、70余年前そのものの状態を呈しているものです。現在でも地面を掘り返すと当時の遺物が大量に出てくるという話を聞くと、今なお終わりを告げていない原爆被害の大きさを身に染みて感じることができます。作り上げられものという印象が強い長崎平和公園ですが、この部分だけは異論を唱えることが私にはできませんでした。行方不明者の遺骨も含まれている被爆当時の地層にそっと目を瞑り、被曝死者の方々の冥福をお祈りします。

そして被爆50周年記念事業碑へと向かいます。長崎のご出身で彫刻家の富永直樹氏が作られた『母子像』ですが、この碑に至っては建立意図が全く見えてこないところがあります。元々は現在の『原爆投下中心碑』を建て替える意図のものであったらしいのですが、モニュメントがその役割を担えるかという疑問がどうしても私の中から消えません。そしてこのネーミングである『被爆50周年記念事業碑』というのもしっくり来ないところがあります。記念すべき喜ばしい出来事であれば『記念碑』で構いませんが、被爆したことをなぜ記念にする必要があるのでしょうか?私が凡人なのでわからないだけなのかも知れませんが、負の記録であっても記念は記念という考えに基づいているのならばそれで良いのですが、『わかりやすい』とか『受け入れられやすい』等という『安易な考え』で名前を付ければ良いというものではないと思います。確かにモニュメントに付随する『謂れ』があるものとして建立をしてきた長崎市の方針に他県の観光客が口出しすることではありませんが、被爆の事実を残すことは長崎ではお祭りなのか…と不謹慎ながら思ってしまうひとりの人間がいることは、他にも同じように感じている者がいるということに繋がるのではないかとも思います。


そして最後に祈りのゾーン入口付近にある一対の石灯籠。現在の銭座町にある浄土宗天王山法輪院聖徳寺は寛永3(1626)年に創建されたものですが、爆心地から1,500mという距離で被爆し、一対の石灯籠を除いて焼失全壊しました。寺を寮として利用していた三菱兵器製作所関係者2名も被爆により亡くなっています。戦後に再建された聖徳寺から原爆に耐えた石灯籠が長崎市に寄贈され、昭和24(1949)年2月に現在の場所に移設されました。

長崎という土地柄江戸時代のキリシタン弾圧とも深い関係があり、浦上キリシタンの檀家寺でもありましたが、信徒発見後も日本人には信教の自由が認められていなかったこともあり、浦上村では再び信仰の自由を願う熱気が高まりを見せる中で、村内に4つの秘密の礼拝堂が作られ、大浦天主堂から神父を迎えてミサや洗礼を行う等信徒達の心のよりどころとされていました。しかし次第に当時の『寺請制度』に従わなくなり、僧侶の立ち合いなしで自葬するなど次第に公然と信仰を表明するようになります。そのうちに長崎奉行所の知るところとなり、キリシタン取り締まりの手が秘密礼拝堂にのびて68人が捕らえられ、江戸幕府の政策を引き継いだ明治政府により、さらに3,000人を超える浦上キリシタンの総流配という厳しい信仰弾圧へと繋がって行くこととなります。キリシタンたちの潜伏組織をゆるがす一連の事件は『崩れ』と呼ばれ浦上でも度々起こりましたが、信徒発見以後に起こったこの大きな事件は『浦上四番崩れ』と呼ばれて現在に伝わることとなっています。この『浦上四番崩れ』の結果、多くのキリシタンは配流等厳しい沙汰が下され、多くのキリシタンが浦上の地から離れざるを得なくなりました。しかしその反面聖徳寺の檀家であった隠れキリシタンがいなくなってしまうという結果を招き、この一連の騒動によって聖徳寺は約600もの檀家を失っています。長崎ならではの宗教による対立だとは思いますが、単なる宗教戦争ではなくキリシタン弾圧下でやむを得ず檀家のフリをしていたこともその理由のひとつであるようにも思えます。日本国憲法のもと信教の自由が保障されている現在ではわからない事ですが、遺構を見ながらその歴史の深さと複雑さを改めて感じます。被爆遺構として今に繋がっている石灯籠に感謝の意を表し、次の目的地へと向かいます。

祈りのゾーンから願いのゾーンへとやってきました。一般的には平和公園と言われる場所になります。入口にはエスカレーターが設けられており、足の悪い方でも気軽に訪れられるようになっています。そしてまず最初に迎えてくれるのは平和の泉。平和公園と言えば、この平和の泉の噴水とその噴水の隙間から見える平和祈念像かと思います。天気が良ければそのような写真も撮れますが、日暮れ間近い時間でありなおかつ雨が降っている状況下ではなかなかそういう訳にはいきません。しかし今のカメラは性能が良くなっており上手い具合に露出を合わせてなんとか見られる写真にしてくれます。ただひとつ気になることもありました。雨が降ったり止んだりしている中で、地面は濡れているように思うのですが、ひとりご年配の男性が祈りの泉へと来られて噴水を見ながら佇んでおられました。普段なら気にもかけないのですが、場所が場所ゆえ身内の方に被曝死された方がおられるのではとふと思いました。水を求めて多くの方々が彷徨い、そして亡くなったという事実。やはりそんな背景をしてこの平和の泉が成り立っているのだろう…と改めて思います。

そして芝生の中に残る煉瓦造りの礎石が目に入ります。長崎刑務所浦上刑務支所跡、昭和2(1927)年2月に長崎市松山町・岡町・橋口町にまたがる雑木林を造成し新設された刑務支所は敷地面積2万平方メートル、庁舎面積1万3000平方メートルあった大きな施設であり13の庁舎が建ち並んでおり、周囲は高さ4m・幅0.25mの鉄筋コンクリート製の塀に囲まれていました。収監者は朝鮮半島等で抗日運動を行い、治安維持法に違反したとして逮捕された活動家等思想犯もいたとされ、特に九州管内でも死刑囚はすべてこちらに収監され、刑の執行を待っていた場所でもありました。

大戦末期の昭和19(1944)年には、受刑者の内約500名が『長崎造船護国隊』として三菱重工業長崎造船所に於ける労役に駆り出されており、この刑務支所も受刑者以外に労役に就いていた者の宿舎としても利用されていたそうです。昭和20(1945)年8月9日の原爆投下時には、爆心地から最短100m・最長350mという至近距離にあり、爆心地に最も近い公共施設として甚大な被害を受けています。庁舎と周囲を取り囲んでいた塀は一瞬にして崩壊し、周囲は瓦礫の山となり僅かに炊事場の煙突1本が残っただけとなりました。その際刑務支所内には職員18人、官舎居住者35人、受刑者および被告人81人の計134人がいましたが原因が死亡しています。しかしその当日も護国隊員らは三菱重工業長崎造船所立神工場にて労役に就いていたため難を逃れたそうです。

その後平成4(1992)年1月に平和公園の地下駐車場建設工事の最中に敷地内より赤レンガ造りの拘置所跡基礎部分と側溝並びに死刑場の地下部分の遺構が発見されました。その発見に伴い工事は中断されて被爆者や市民団体等が保存を求める運動を起こすなど論議を呼ぶところとなります。発見当初当時の本島等長崎市長は市議会に於いて駐車場建設予定地と重なる死刑場を含む公園北側の遺構は工事完了後発見時のまま埋設し、公園南側の遺構のみ保存し展示する方針を明らかにしていたものの、最終的には刑務支所の遺構が被爆の現状を伝えるものとは言えず、また死刑場の公開保存に関して『人間の感性から一般的に白日にさらすべきではない』として公園北側の遺構を解体し、敷地内へ分割して埋設するとのいう見解を示しています。

これら一連の議論の結果として長崎市は『被爆遺構の調査・保存に関する基準』を定めた『長崎市被爆建造物等の取扱基準』を策定し、平成4(1992)年9月1日より施行されることにはなったものの、結局のところは被爆当時の遺構をそのまま残さず、移設復元を含む形で現在の公園南側には赤レンガ造りの拘置所基礎部分を、敷地外周部分にコンクリート製の外塀跡基礎部分をそれぞれ残すこととなり、現在に至っています。

刑場の遺構をそのまま残すということは確かに難しいことだと思います。いくら罪人だとはいえ人の命が失われた場所であり、現在でも一般に公開はされてもいない場所であることからもそれは理解できることです。確かに被爆遺構の保存という立場からすると、爆心地から最も近い場所にあった公共施設だということで資料的な価値を唱える方もおられるでしょう。ただこの一件に関しては『埋め戻し』を主張する市側の意見と『保存』を掲げる『平和公園の被爆遺構を保存する会』ともに100%ではないものの妥協できるレベルで折り合いがついたのであれば、部外者がそれ以上口を出すことでもないと思います。ただなにかにつけて被爆遺構を人目に曝さないように持って行こうとする行政の姿勢には疑問が残るのも確かです。それが被爆からの復興を謳う長崎の姿なのか…と考えると長崎に於ける被爆遺構を当事者である『被爆者』の方々はどのように考えておられるのかお聞きしたいところもあります。何度も繰り返していますがこの平和公園には多くのモニュメントが乱立し、謂れを知らなければ70余年前にこの場所に原子爆弾が投下された史実ですらわからないのではないかと危惧します。戦争を知らない子供達に『やさしく・わかりやすく』被爆について教えるには、『より具体的に・よりかみ砕いて』説明することは必要であり、長崎原爆資料館はそれを忠実に行っている施設だとは思うものの、謂れをつけたモニュメントが立ち並ぶだけの平和公園でなにかそれ以上のものを得られるのかということには正直疑問が募るばかりです。

確かに原爆投下について説明することは、立場が変われば言うことも変わってしまい、すべて同じ言葉で説明することはできないことはわかります。しかしここは恒久平和を願う平和公園であって、美術館ではありません。そのため個々の像に対する謂れを述べられても『だから何なの?』という思いしか私にとっては湧き出てこない事実もあります。モニュメントが本当に多い平和公園に於いて、移設工事を経て見学できるようになった長崎刑務所浦上刑務支所跡の煉瓦の礎石を見ながらふとそんな気持ちになりました。

そして最後に行きつく場所は平和祈念像。マッチョがあぐらをかいていると揶揄されるあのブロンズ像です。高校の修学旅行の時に訪れているはずなのですが、当時の写真が見つからないので当時どのように思ったか?ということも覚えていません。しかし原爆の爆風によって35mも飛ばされた55tもの浦上天主堂の旧鐘楼は鮮明に覚えています。物心ついてから長崎というと『平和の泉の噴水』と『平和祈念像』という組み合わせの『写真』というイメージだけ残っていました。しかし実物を見ているにも拘らずインパクトがなかった…ただそれだけだったのではないでしょうか。今となっては思い出すことはできませんが、今日目の前で祈念像を見ても何かときめいたものすらありませんでした。雨が強く降っており、既に陽が落ちておりライトアップされているからわかるようなものの集中ができないからだったのかも知れません。1日目最後の目的地として期待していたところもあったのですが、暗さと冷たい雨に妨げられ、空いているときにしかできないだろう祈念像の周りを一周します。そして平和祈念像両脇にライオンズクラブの手によって建立された被爆とは直接関係のない『千羽鶴の塔』にもわずかな時間ではあったものの立ち寄って今日のアクティビティを終わらせることにします。

行きに歩いた道を戻って行き平和公園入口を目指します。途中『長崎の鐘』と『平和の泉』に立寄って改めてカメラに収めます。18:45頃のことですが既に日没を迎えた後でストロボの光が届く範囲でしか撮影することができません。ただそれが逆に功を奏したところがあり、普通に撮影した時とは違う雰囲気の写真が撮れていました(嬉)。ただこの『長崎の鐘』は戦後に作られたもののはずですが、なぜか都市伝説化している旧浦上天主堂の瓦礫の中から見つかった『アンジェラスの鐘』と書かれているものがあります。見た感じでも新しいもので、尚且つこのサイズの鐘では…というのは一見してすぐにわかることにも拘わらずそんな説が出てしまうのが今の現実なのかも知れません…。

平和祈念像から10分程歩いてエスカレーターを下ったところにある防空壕跡に到着します。元々は平和公園のエスカレーター設置時の工事中にみつかったもののようですが、どうやら発見時の話を纏めると、平和公園の造成中に石垣が組まれることとなり、その下になる地層に何があるのかすら確認しなかったことが最近になって発見された理由のようです。この発見された防空壕の内現存するものは塞がれているものが1つ、内部公開されているものが2つとなっています。本来はあとひとつあったそうですが、エスカレーター工事のエリアと重なっていたため破壊されています。そして右隣のものはエスカレーター工事に伴う地盤の強度保持のためにコンクリートで塗り固められ、内部を観察することはできません。その右手に並ぶふたつが内部こそ入れないものの、当時の姿を外から覗き見ることができるようになっています。原爆投下時にはこの付近の松山町には約300世帯、1,860名の家屋と住民が暮らしていましたが原爆投下によって防空壕にたまたま避難していて助かった9歳の少女以外はほぼ即死だったそうです。確かに防空壕自体空襲に備えるものであって原爆に特化したものではありません。ただ70余年前にここに避難して助かっている住民の方々も多くおられるのは事実です。確かに戦時中の遺構をすべて残すには開発そのものに影響が出てしまうため、結果として被害を被った被災者に負担をかけてしまうことに繋がることを考えれば、何も知らない部外者が無責任に『遺構は残すべき』と声を上げることは、被災以上に足枷を加えてしまうことに繋がりかねません。ただ残せるものを敢えて壊す必要はないのではと思います。現実には難しい問題ではあると思いますが、妥協は伴っても誰もが納得のいくレベルでの保存をお願いしたいとも思います。

防空壕をカメラに収め、長崎電気軌道の松山町電停へと戻ってきました。既に時刻は19:00を回っており、あたりは真っ暗です。行きに乗ってきた電車の逆方向行きである蛍茶屋行きに乗車し、車窓を楽しむこともなく長崎駅前電停で下車します。結局いつもの通り昼飯抜きになったので、おなかが減っています。グルメでない私にとっては別にメニューはなんでも良いのですが、せっかく長崎まで来ているので地のものを頂こうかと考えます。ただ雨が降っているため、あまりホテルまでのルートからは離れたくありません。駅前の飲食店で検索すると、ファミレスや吉野家が上位に出てくるため、ちゃんぽんで検索すると、出てきたのは『リンガーハット』でした。別にリンガーハットでも構わないのですが現在地とは少し離れていることもあり、アナログに戻って地図で見ると駅前にある一軒のお店を見つけます。中華菜館かたおか、名前からするとお値段が張るのか…と思いましたが口コミからはお手軽価格帯として書かれているものが多かったためこちらに決定し、駅前のペデストリアンデッキを渡って降りたところにあるビルの一階部分にあるお店へと向かうことにしました。

平日の20:00過ぎですが私の他は今長崎に着いたばかりであろう観光客が一組いただけでした。メニューから見つけたのは『皿うどん定食』、いわゆる揚げソバですが、普段から良く食するものでもあるため、それを頼みます。ここで本来ならば『今日一日お疲れさん』ということでビールが美味しいのかも知れませんが、下戸の私にはそれができないため、つい追加でコーラを頼んでしまいました。そして出てきた『皿うどん定食』、決してボリュームがある訳ではありませんが、程良い量とマイルドな味付けだったので美味しく頂けました。

ただ喫煙OKのお店なので、喫われない方が長居するのは厳しいかも知れません。私はその逆パターンのため、飲み物があれば結構の~んびりとできそうだったのですが、雨が降りやまないこともあり、寝られたと言っても夜行バス明けだったことも加わり、明日のために適当に切り上げてホテルへと向かうことにします。

徒歩5分と書かれていた本日の宿である『長崎I・Kホテル』ですが、メイン通りに面している訳ではなく、路地を進むルートを取らなければなりません。その道中に見つけた長崎中央郵便局、ATMがまだ利用時間であったため旅行貯金をするために立ち寄ります。そして郵便局角を曲がってしばらく進むと本日の宿である長崎I・Kホテルに到着します。比較的値段の安いフリープランのパッケージツアーに利用されることの多いこの長崎I・Kホテル。このランクのホテルであれば結構目立つと思っていたのですが、それ程目立っていた訳ではありません。むしろ車を利用していれば気付かなかったかも知れません。まぁ今回は歩きだったので場所を確認して無事到着できました。I・Kとはなんの語呂なのだろうと思っていたら『稲佐山観光』の頭文字でした。長崎を代表する観光地のひとつである稲佐山。それを被せてあるにしては意外と地味なホテルだな~なんて思ったりもしました。ウンチクは抜きにしてホテルへと入り、チェックインを済ませます。訳あり部屋の3,500円というプランもあったのですが、朝食がつけられないようなので通常のシングルプランで予約をしましたが、部屋が空いていたのかどうかはわかりませんがツインルームにアップグレードされていました。

ホテルの部屋としては狭くはありませんが広くもないという感じです。ただ建てられてから結構年数は経っているようで、施設の古さは否めません。でも寝るだけならば十分かと思います。夕食は済ませてきたのであとは寝るだけです。いつもならばチェックイン後2~3時間はボ~っと過ごすはずなのですが、さすがに夜行明けだということに加えて雨の中歩き回ったこともあり、少しでも早く休みたいという気持ちが先に立ちます。なので部屋の写真を撮った後にすぐにバスタブにお湯を張りどっぷりつかって上がると、もう眠気maxです。そんな中一応明日以降とする場所だけを再確認し、ウォークナビに登録したあたりで意識が遠のいて行きます。晴れ○○○なので雨の中歩き回ったことはこの数年間では一度しか記憶にありません。ある意味貴重な体験をした一日を振り返りながら長崎の夜は更けて行きましたzzz。そして日が変わります。

  《次編最終章に続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス スカイマーク JRローカル 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
60いいね!

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