2016/10/24 - 2016/10/25
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川中島古戦場跡の見学の後、次に車で案内してもらった松代城址の紹介です。『甲陽軍鑑』によれば、武田氏が北信国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城させたお城です。(ウィキペディア、海津城・松代城関連サイト)
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川中城址見学の次にやって来た松代城址です。石垣と内濠の光景です。甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つとされます。国の史跡に指定され、日本百名城に選ばれています。
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イチオシ
松代城の太鼓門の光景です。永禄3年(1560年)、武田信玄(1521~1573年)が築いた城とされます。松代城の別名は海津城、『甲陽軍鑑』によれば、その築城は永禄2年(1559年)から開始され、翌年の永禄3年(1600年)に完成したとされます。
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川中城址公園でも『ドウダンツツジ(満天星躑躅)』の紅葉が綺麗でしたが、松代城址でも巣の紅葉を目にしました。ツツジ科ドウダンツツジ属の落葉広葉樹です。 『アセビ(馬酔木)』に似た、釣鐘型や壷形をした小さな白花を下向きに咲かせます。
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松代城の見所は、南側に位置する櫓門(太鼓門)と桝形門(橋爪門)です。中央に見えるのは、内側から眺めた入口門の光景です。高麗門の様式のようでした。太鼓門橋の北詰に位置する門で、桝形門(橋爪門)と呼ばれているようです。
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本丸址の南側に位置する櫓門、『太鼓門』の光景です。平成16年(2004年)、第一次整備工事で再建された建物です。この『太鼓門』のほか、北不明門、堀、土塁などが再建されました。
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『太鼓門』の周りの光景です。『虎口』の造りになっているようでした。背丈以上に高い石垣の上に通路があり、石垣の上の土塀には、狭間が設けてありました。
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松代城の見所は、南側に位置する櫓門(太鼓門)と桝形門(橋爪門)です。その周りの高石垣を含めて、枡形の『虎口』が形成されているようでした。『虎口(ここう、こぐち)』は、城郭、あるいは曲輪の正面開口に当たり、城内の軍勢にとっての出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となりました。戦国期に発展を遂げ、城の縄張の重要要素となっていきました。
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『東不明門跡』の光景です。かつては楼門があったようですが、現在のところは再建されていません。その跡地の先に見えるのが、内堀に架かる『東不明門橋』です。西日本で枡形が発達し、東日本では馬出が発達しました。統一政権の出現などにより、技術的融合が起こり、しだいに枡形は東日本にも、馬出は西日本にも広がりました。その結果、内側に枡形、外側に馬出と、両形態の虎口を二重に構え、防備をより厳重にした城も現れました。
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今年は春先に藻松代城址を見学しましたが、残念ながら桜の時期は過ぎてしまっていました。その染井吉野が立ち並ぶ本丸址の光景です。
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各所に設置してあった説明パネルの光景です。右手のパネルには『本丸御殿址』、左手のパネルには『石垣』のタイトルがありました。江戸時代中期頃まで存在した本丸御殿は、享保2年(1717年)の火災で焼失しました。その発掘調査写真などが紹介されていました。
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イチオシ
左側に見える大きな石碑には、『海津城址之碑』の文字が刻まれています。江戸時代になり1622年に真田信之(1566~1658年)が上田から移封となり、城主となりました。真田三代藩主・幸道(1658~1727年)のとき、幕府の命により『松代城』の呼び名となりました。真田家は明治になるまで10代の藩主が続きました。右手に見えるのは、『北不明門』です。
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本丸址に聳える銀杏の大木の光景です。松代城は、北側を流れる千曲川の氾濫による水難と、度々の火難(かなん)に見舞われています。『戌の満水』と呼ばれる寛保2年(1742年)の被害は大きく、幕府に城普請の許可を得るとともに、1万両の拝借金が許されました。火難の方は、二の丸を焼失した寛永2年(1625年)、本丸・二の丸・三の丸を焼失した享保2年(1717年)、花の丸を焼失した嘉永6年(1853年)が起きました。
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戌亥隅櫓台址から眺めた城内の本丸址の光景です。『戌亥(いぬい)』は、『乾(けん)』とも呼ばれ、『北西』を表します。築城からしばらくは石垣のない土塁主体の中世城郭でしたが、江戸時代に入り、真田氏の時代に石垣を有する近世城郭となりました。野面積みで積まれたこの櫓台の石垣は、往時の景観と異ならないよう、ひとつ一つの石すべてに番号をつけて位置を記録し、慎重に修復工事が進められました。
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同じく、戌亥隅櫓台址から眺めた『北不明門』方面の光景です。本丸址を取り囲む、土塁址も見えていました。
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戌亥隅櫓台址から眺めた、妻女山方面の光景です。岬のように伸びた山が妻女山(さいじょざん)になるようです。この後に見学の予定の山です。
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戌亥隅櫓台址に置かれていた説明パネルです。『江戸時代末期の風景』と題された絵図が表示されていました。千曲川を挟んで、虫食山や北アルプスが見える光景です。二の丸西北の土塁の上にあった、『知身貴亭』と呼ばれる茶室から描かれた19世紀中頃の絵図と紹介されていました。
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同じく、戌亥隅櫓台址に置かれていた説明パネルの光景です。『善光寺方面』と記された、こちらの絵図には、飯縄山、高妻山や戸隠山が描かれていました。
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戌亥隅櫓台址から眺めた周りの光景です。正面奥の二つ並んだ、高床のように見える建物には、『神田川水門』の文字が見えました。
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戌亥隅櫓台址から眺めた、『皆神山(みなかみやま)』の光景です。標高659メートルの溶岩ドームとされます。1965年から1971年にかけての松代群発地震が皆神山の直下で起り、この地震活動に伴い約1メートル隆起しました。麓の平地からの比高は280メートルほどです。日本の戦況が悪くなった第二次世界大戦末期には、松代が大本営・政府・皇室を含む首都移転の予定地となり、皆神山と周辺の山には多数の地下壕が掘られました。
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戌亥隅櫓台址から眺めた、周囲の山並み光景です。松代の町は、『広い善光寺平の南端に位置する、穴ぐらのような場所』とも形容されています。手前の山は、尼厳山(あまかざりやま)かも知れません、
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内側から眺めた、『太鼓橋門』の光景です。3箇所あった楼門の中では最大規模の楼門とされます。本丸の南側に位置します。平成16年(2004年)の第一次整備工事で再建されました。
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内側から眺めた、『北不明門(きたあかずもん)』の光景です。『太鼓橋門』と同じく、平成16年(2004年)の第一次整備工事で再建された門です。『太鼓橋門』よりは、やや規模が小さな門です。
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『東不明門橋』の上から眺めた北側方面の光景です。内濠の北端には高石垣があり、かつては隅櫓があったように見えます。
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『東不明門橋』の上から眺めた南側方面の本丸の石垣と内堀の光景です。お堀は、平成16年(2004年)の第一次整備工事で補修されたようです。
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東側から眺めた、松代城本丸の東南角の光景です。左手に見える橋は、『太鼓橋』です。城内の染井吉野が満開の時にはビューポイントになりそうな光景でした。
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内堀の周りのドウダンツツジのズームアップ光景です。見頃でしたが、さらに赤く染まりそうでした。右手前方に見える橋は、楼門がありませんから、『東不明門橋』だったようです。
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『二の丸南門跡』から眺めた、太鼓橋と太鼓橋門の光景です。寛保2年(1742年)の絵図面では、『二の丸南門』にも虎口の構造が記されていました。『二の丸南門』と『太鼓門』の間が『二の丸址』になります。
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『史蹟松代城址ごあんない』のタイトルがあった説明パネルです。『二の丸南門跡』近くに置かれていました。廃城になったのは明治5年(1872年)、建物はなくなったものの、昭和56年(1981年)、真田邸とともに国の史跡に指定され、平成16年(2004年)、第一次整備工事で、太鼓門、北不明門、堀、土塁などが再建されたことが紹介されていました。
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同じく、長野県教育委員会命で設置された説明パネルの紹介です。『史蹟松代城址・附新御殿址』のタイトルがありました。二重・三重の堀に囲われた本丸を始めとする縄張りや、周りの新御殿(真田邸)や文武学校の平面図が紹介されていました。『三日月堀』があるところなど、武田家独特の造りのようですが、創建当初の構造に手を加えている風にも見えました。二重に造られた虎口を想像しながら、絵図に見入りました。
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これで日本百名城の一つ、松代藩・真田十万石の松代城の紹介はおしまいです。本丸の南に位置する太鼓橋から、内堀の周りのドウダンツツジが彩りを添えた、東方面の光景です。次は、今回の見学の最後になる妻女山です。
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